
『云々』を書いてから8年経った 江村夏樹
今回出版したCD『江村夏樹 云々』について、ここで作者がごねごね理屈を並べるのは聴取者の皆さんの邪魔になると思うので、1994年に書いた『云々』という作品について若干説明するにとどめる。一口に言って、これはぼくの作品系列の中で例外的な相貌を呈している。ぼくの中で例外となっているだけではなくて、どうやらこういう傾向・構成の音楽は世に少ないようだ。
あのときぼくは、何が書けるかわからないまま、とにかく旋律を書き始め、半年で3曲出来上がった。かなり時間をかけて書いた、というより、時間がかかった。とにかく、書けなかったことが記憶に鮮明だ。書けなかったら休んでいることにした。
ぼくの音楽を知っている人は多いとは言えないが、聴いてくれた人が、良くも悪くも、みな関心を持ってくれるナンバーワンが『云々』である。ぼくには「そうですか」としか言いようがないが、このたびのCDでは、いっそ、『云々』という曲の成り立ちを、自分で分析したらどうなるのか、そんなことが可能かどうかわからんけれども、やってみた。というか、いざ作業に入ったらそういう結果が出たらしい。いいかげんなしごとはしてませんので、この文章で言葉が足りなくてもご勘弁ください。作者としては、こういうCDも音楽のありようのひとつであると思っていただけると、これに勝る幸いはない。聴いてください。
『云々』を云々する 池田逸子
前後の曲とは何の脈絡もない断片的な会話やお喋りが所々に挿入されている、この江村夏樹のCDを聴いていたら、かつて坂田明が出した「20人格」というアルバムを思い出してしまった。坂田明の方はサックスを吹いたりピアノも弾いたり、手八丁口八丁でいろいろしているけれど、歌(謡)ったり喋ったりで声がメイン。だから“挿入”“哄笑”が渦巻いた、まことに人を食ったアルバムである。
「云々」は坂田アルバムほどアクの強さはなく、むしろ透明な感じすらするのだが、作り方がどこか似ている。お喋りの内容B級感覚ばかりでなく、曲の未完度も。作曲者はこのCDを「一種の自己批評」などと云々しているが、聴き方によってはこれも、ずいぶん人を食ったようなアルバムだ。淡々としている分だけ、ブラック・ユーモアともいえよう。
この中から私の個人的な好みの曲をあえて拾い出してみると、ひとつのメロディーを複数でズレながら演奏している「云々」シリーズ。そして、軽やかにどこまでも飛翔していく感じの「飛べ飛べ天まで飛べ」と、「窓のある丘」。玄関のドアを持ち歩いている父と娘のイラン映画があったが、江村夏樹は窓を持ち歩いているのかもしれない。伸縮自在の窓を。(2002年8月31日)
今年の冬、すみだトリフォニー小ホールのロビー。
「私が江村です」と顔を指差しながら挨拶されたその強烈な印象が、それまで聴いていたピアノの澄んだ音とごちゃごちゃに入り交じって出来上がった江村さんのカンジ。その後、CD収録予定の曲をどれだけ聴いても、突き抜けるような音楽だけじゃない渾沌とした雰囲気は変わらなかった。
打ち合わせでお会いしたときは、ちょっと違ってすごくわかりやすかったなあと思ったのは、きっと気をつかってもらったせいなんでしょう。あくまでも、音楽のイメージをそのままCDジャケットにしたかった。
結局けっこう綺麗めに仕上がったんじゃないかと思う。
むしろキレイ過ぎたかもしれない。夏生まれの江村さんに“青”です。
音→風景のなかで 五十嵐玄
江村のアルバムとしては、CD-R盤による少量プレスされたものを除けば、この『云々』が彼の最初のまとまったアルバムといえるだろう。《展覧会の絵》ではないが、「プロムナード」という短い狂言回し的に響く5つのナレーション的テープ作品(?)の断片を配したことがむしろ全体の統一感を生んでいるところが面白い。この妙なタイトルに勝手に励まされることにして、以下コメントさせていただくことにする。
アルバムには江村のここ5年ほどの作品が集められている。印象としては個々の作品の成立の経緯や制作時期の違いよりも、電子キーボードによる作品と器楽アンサンブル作品の性質の対比に興味をそそられた。電子キーボードで選択された音色は、よく考えられたものにはちがいないのだが聴いていると、このパートはまた別の音色であってもよかったのではないかと思える部分が多い。いやどういう音色の方がより良かったとかいっているのではなく、また別の音色の選択も在り得たかと思わせる程に抽象化されているということなのだ。一方器楽アンサンブルによる作品では、各楽器の響きや音の動きが十分計算されていて、なるほどこれはこの楽器しかないなと思わせる説得力と魅力がある。
仮想がやや飛躍するが例えばコンピューターで、これらの電子キーボード作品にもっとこまかな表情付けをすることは可能であったろう。しかしここに聞かれる電子キーボードの音は、それ以上のものを必要としていないように思われる。ややぶっきらぼうというか、「ただそれだけの音」としてなげ出されていることで、逆に聞き手の想像力を刺激して来るようなところがある。さらに云えば、結果として聴き手はそこに江村の作曲の特性をまるで、地層の断面のように透かしみることができるのである。器楽アンサンブル作品の方は、いってみればその地層のうえに展開される樹木や植物的世界であり、さらにはそこに広がる風景のようなものにたとえることができるかもしれない。
江村のピアノのタッチはきわめて独特のものだったことを思い出す。コンサート・ホールとは呼べないような場所で、またピアノもやや貧相なものだったが、非常に強い印象を残すものだった。ひょっとしたら、タッチの微妙なニュアンスが発生しない(或いは聴き取れない)ような条件が却って彼の演奏の特質を際立たせていたのかもしれない。その正確なタッチは曖昧な叙情を排した上で、その音楽の深層と表層とをつなぐメカニズムを訴えかけてくる。そこで展開されるのは、弾き手と聞き手と作品の3項の中で交されるレトリカルな操作なのである。(たしか古典派のピアノ作品だったな。)
江村の器楽アンサンブル作品を聴いたのは、このアルバムが初めてである。ディスク上では分散して配置されているアンサンブル作品《云々氈t〜《云々。》などで聴かれるユニゾンの線の絡みは絶妙だ。有機的な線の縺れはたとえば近藤譲や平石博一など、かねてから江村が関心を寄せる作曲家の作品に見られるものに近いが、やがてその線の縺れの中から浮かび上がる風景のようなものが描き出されてゆく。均質化・抽象化に向いがちな弦楽四重奏という編成を避けたことで、個々の音の線はさまざまな表情を持って息づき、作品のメカニズムを浮かび上がらせ、時に微かにアジア的とさえいえる風景を奏で始めるのである。
そんな風景の中で《習作Ib》(1999)はどことなく龍安寺の裏庭といった風情が漂う作品。さらに異色の作品としては2つの独立した作品を同時演奏した(ケージ一派が好むやり方だ)《タブラトーク+水をこすって作る音楽》がある。ライナー中で江村はその理由を「相性がいいので」とだけ述べているが、その判断の根拠は示されていない。結果が成功しているかどうかは、聞き手の判断に委ねられて良いが、その「相性」のよってきたるところを尋ねてみたい気もする。(別に友情を賭するつもりはないけれど。)
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