特集「がやがやのうた」に寄せて


まちがいはまちがいではなく            北中正和
いつも いつものようにいかない いつものうた    花崎攝
ローカルはセンターへ響く              澤和幸
どんなマルも美しい              たかはしあい
「がやがや」のうたについて            池田逸子
「がやがや」の歌を聴いて             花崎皋平


タイトルイラスト 

まちがいはまちがいではなく    北中正和

ぼくの主な仕事は音楽の紹介である。毎日いろんな音楽を聞いて、これはリズムがおもしろいとか、声がきれいとか、この歌手はエチオピアで人気があるとか、そんなことをせっせと書いている。紹介する音楽はどちらかといえばCDが多いが、ライヴで聞いたもののこともある。いずれにせよ、紹介している音楽の多くは、見ず知らずの人に聞かせるために作られ、演奏されている。

音楽を作る人がいて、それをCDやライヴやデジタル・データを介して広めようとする人がいて、聞いて楽しむ人がいる。あるいは自分でうたったり、演奏したり、カラオケで楽しむ、というのがいまわれわれの音楽への接し方の主なものだろう。

それらの音楽には、たいていの場合、うまく合わせようとか、よく聞こえるようにしようといった意志が働いている。それ自体は自然な行為だが、その結果が人の心をとらえるとはかぎらない。それは、友人や上司の下手なカラオケにつきあった経験のある人なら、誰しも納得できるだろう。もしかしたら自分の歌がそう思われているかもしれない、ということも含めて。

まえおきが長くなった。いま、ぼくは『がやがやのうた』というCDを聞いている。CDにして売られているくらいだから、制作者が多くの人に聞かれることを願って作ったものであることはまちがいないと思うが、このアルバムのうたからは「見ず知らずの人に聞かせるためにうたわれている」という感じがあまりしない。

うたっている「がやがや」は障害をもつ人とそうでない人の集まりで、東京のとある公的な市民講座を母体に、7年前から自主運営されるようになった。そしてその活動のひとつとして3年ほど前から港大尋の歌をうたいはじめたそうだ。そのうたをCDにしようという人がいて、レコーディングが行なわれ、それがいまぼくのプレイヤーで回っているわけだ。

1曲例をあげると、「みどり」という歌はこんなふうだ。

ソシエテ・コントル・レタのミュージシャンによるハード・ロック的な演奏に港大尋と「がやがや」のメンバーによるコール&レスポンスの歌がサンドイッチされている。叫び声のような声はきっちりそろっているわけではない。歌詞は「みどり もえる」からはじまる。「もえる」は「もえない」「もだえる」「ものもうす」と変化していき、「みどり」のほうも、おしまいには「みどろ」「みだら」「むどり」「めどり」……とどんどん変化していく。語呂合わせを楽しんでいるうちに、慣用的に使っていた「みどり もえる」という言葉のおもしろさに気づき、「みどり」にまつわる想像が広がっていく。詩としても一級品の作品だと思う。

ソシエテ・コントル・レタ(など)のミュージシャンは、別の機会には「見ず知らずの人に聞かせる」演奏をすることに慣れている人たちだ。歌をうたっている「がやがや」のメンバーも公演活動を行なっているようだから、うまく合わせようとか、よく聞こえるようにしようといった意志がきっと働いているにちがいない。

ただしメンバーによって、曲によって、取り組む気持ちの幅にはちがいがあって、そのばらつきが音楽にあらわれている。だからといってそれが音楽をそこなっているかというと、そうではない。「きちんとした」音楽教育や演奏ではまちがいとされる部分を排除するのではなく、それが構成要素として生きるような形でこのうたは楽しくうたわれている。それによって聞き手との間の垣根も自然に低くなり、「見ず知らずの人」という感じがあまりしなくなる。そうできるということは感覚や意思の高度な疎通が行なわれているということだ。ときには「きちんと」演奏している人たちが不自由に思えるくらいに。

『がやがやのうた』はその素晴らしい記録である。1曲しかふれなかったが、アルバムには早口言葉やわらべうた風やポップなメロディの曲から沖縄調やラテン・リズムの曲まで、うたい方も演奏も異なる多様な曲が入っている。あとはみなさんそれぞれお楽しみを。




タイトルイラスト 
いつも いつものようにいかない いつものうた  花崎攝

がやがやは いつも 「マルマルマル」から はじまります
1番と2番は定番で
3番からは そのつど 歌詞と 動きが 発明されます
だいたい6番くらいまで うたいます
次は 「お茶をのみにきてください」

それから ミナトさんのうたを うたいます
すわって はねながら 
リズムをとって うたいます
うたわない人も います
歌詞をおぼえよう とは だれもいいません
だから 模造紙の歌詞シートはかかせません

おやつを食べます
また うたいます 
ねっころがっている人もいます 
ミナトさんのうたも ときどき
発明しながらうたっています

うたの「う」は「うまれたて」の「う」
うたの「た」は「たのしさ」の「た」
だから うたは「うまれたての たのしさ」です
(ときに 「うずくまる たまらなさ」のときも ありますが
さいわいなことに まだ 「うつくしい ただしさ」は 侵入したことはありません)

がやがやのうた となると 
「が」んこ
「や」れやれ 
「が」けっぷち 
「や」すみやすみ
など いろいろながやがやが まぎれこみます

ミナトさんとうたう がやがやのうたは 
いつも いつものようにいかない いつものうたです
ききながら ちょっと発明に加わったり 
尾てい骨をゆらしてみたりしてください
ほんの少しだけ 
景色がちがってみえるかもしれません


  

  
タイトルイラストローカルはセンターへ響く  澤和幸(ソシエテ・コントル・レタ)


ミュージシャンや音楽家と呼ばれるような人が演奏の場を与えられて演奏する場合、通常そこにキャリアの一部分を取り出してみたり、自然に出せる等身大の音楽をプレイしたり、または求められるサイズのものを提供すればいいわけだ。というか、音楽的な責任を果たせば最低限は何の問題もないということで、今の世の中そういうものだ。しかしこの『がやがや』に関しては違うのだ。

この場合、仕事の依頼として参加するとか否かということはさておき、例えばある有名な演奏家が『がやがや』に来て、そこで「何か演奏してみてよ!」などということになったとしよう。そしてこの演奏家はここでの演奏に彼の全キャリアを注ぎ込んだとしても、彼に『遊び心』がなければ盛り上がらないものは盛り上がらない。おお、なんとミジメなこの有名演奏家。では彼はどうすればいいのだろう? 答えは簡単。まずミュージシャンというなぜか優待視される外壁を捨て去り、人間として一緒に楽しめば良いわけだ。例えばギター奏者が呼ばれる。だがみんなは、ギターのすばらしい演奏を期待しているわけではない。

もっと大きな意味で、ただ「期待」しているわけだ。しかもその現場で演り手が「どんな曲を演ればウケるか」とか「こんな場所では気持ちよく音が出ないな」などと感じているヒマなどない。むしろそのあたりに転がってる空き缶を拾い、「音楽なんて湿っぽいことはやめて、缶蹴りでもしよーぜ!」という方が、実は音楽やるよりもおもしろかったりするのだ。

というわけでこの話では、ある有名演奏家が逆に『がやがや』のメンバーから啓蒙を受けるということになったわけだが、『がやがや』とは何かというと、だいたいこんな感じなんでしょう。遊びつつ、大きなものに気付くわけです。

収録曲のほとんどが「あそび唄」。だからこの音楽はCDとして発表する前提はなかったし、誰かに観賞してもらおうとか世界に提示しようとか、そういった商業性も芸術的意図も皆無だった。ただ、『がやがや』の仲間が集まったときに、みんなで手軽に遊ぶことができる「あそび」がたくさん作られてきて、そこで勝手に生まれてきた「唄」の部分だけでも、ある程度曲としてのバリエーションが揃ってきただけのことで、それを半分はそのまま、半分はバンドと一緒に録音したわけだ。

ピアノがない場所でも、タイコで大きな音が出せない部屋でも、また逆に誰かがギターを持ってきた場合、新しい友達を連れてきた場合、どんなときでも簡単に楽しく遊べる音楽の形状はシンプルで、曲によっては和声や特定のリズム・パターンもなく、またメロディもなく抑揚や起伏で表現すればOK、みたいなものもさえある。だから聴く人の中にはこの音楽が「民族音楽」のように聞こえてくるかもしれない。で、そう聞こえてきた人は考えてみてほしいのだ。実はそれって、すごいことなのではないか? …大袈裟かもしれないが、密かに自分はそう思っているのです。バンドと共演しても実験的な音楽ではなく、また普通の伴奏付き唱歌でもなく、「あそび唄」がさらに遊び始めた音ですよ。

ブルーズ、ソウル、ビ・バップ、サンバやボサ・ノヴァ、数々のラテン音楽、レゲエ、ラップなど、個性的な音楽はすべてシーンのセンターから生まれたものではなく、センターから遠く離れたローカルの、ごく一部の人間たちが勝手に盛り上がりながら、仲間内で作り上げたようなものばかりではないか。そしてローカルはセンターへ響き、みんなの流行りと。このアルバムはドメスティックなものがポップに響く瞬間。演り手としても聴き手としても今までにない貴重なものを目撃できたわけだ。



タイトルイラストどんなマルも美しい  たかはしあい(デザイン担当)


初めてがやがやのライブを見たのは去年の5月、だれもが「いい湯」に浸かっている顔をして心底うらやましいと思った。「私も中に入って一緒に歌いたい」見ながら始終思っていた。その願いはトントンと叶った。

がやがやと「初めまして」と挨拶をしたのは、丁度一年前だった。もんじゃ焼きの土手のような大きな輪をつくり、座ると全員の顔が見えた。みんなが「マルマルマル」を楽しみにして来ているから、ここでは悲しそうな顔をしている人はいない。初めてこの場所に入った時はとても緊張していたけれど、歌い始めるとその緊張は一瞬にしてなくなった。その時の想いを忘れられずにいる。

「マルマルマル」をしている姿のイラストをしようという案があったが、実際、描写力が追いつかなかったということもあり、あまりしっくりいかなかった。「マルマルマル」の歌を口ずさみながら筆を動かしていると、紙の上に沢山のマルが現れていた。一つ一つのマルは少しずつ違う。どれもマルで、どれもいい。そうして出来たのが今回のジャケット。港さんの詩も、遊び心が溢れているから、デザインでも遊んでみようと思った。そうして出来たのが今回の歌詞カードです。

どんな桃のピンクも美しいし、どんな木の緑も美しい。どんなマルも美しい。そんな風に眺めてもらえたら幸いです。


タイトルイラスト「がやがや」のうたについて  池田逸子


港大尋および彼のグループ「ソシエテ・コントル・レタ」と「がやがや」との共同作業で出来上がったこのCDは、「障害者」と「健常者」がいっしょに音楽しているから意味があって面白いというのではない。だいいち、「障害者」って何? 「健常者」って何? この中のだれが「健常者」で、だれが「障害者」なの?

そうではなくて、これは港大尋という音楽家の姿をあぶりだしているから面白いのだ。

港大尋は遊び心と批評精神いっぱいに、コトバにこだわり、コトバの両義性・曖昧性をあばく。また、港大尋にそなわっているアマチュア精神(アマチュア的感性)は、共同作業者たちの緊張や警戒心を解き、心を開いて羽ばたかせる。もっとも、いちばん羽ばたいているのは港大尋本人かもね。


タイトルイラスト「がやがや」の歌を聴いて   花崎皋平


まず「がやがや」というタイトルが気に入りました。歌を聴いてみて、「がやがや」ということが、たのしい気分、仲間感情、いきいき、統制されない自由などの合い言葉なのでした。

歌っている人たちがたのしんでいる気分が伝わってきて、聴く私もその気分に誘われていきます。合唱ではあるけれど、斉唱ではない。すこし遅れる人やはずれる人がいても、むしろそれが厚みや華やぎになっていく。それが自由の味であることを感じさせてくれます。からだが歌に共鳴しているから、かけ声のかけ方がうまい。歌いながら、からだは踊っているにちがいありません。

歌っている人たちがいきいきしているのには、むろん、歌詞と曲の力が大いにあずかっています。「あいだ2」「「なまえ」「みどり」などの歌詞は頭韻や脚韻、おなじ句や_のくり返しを使って歌に弾みをつけ、歌い手を盛り上げます。「あいだ2」では「のぼってのぼって」のくり返しから、「のぼるはおりるがあるからおりる」「おりるはのぼるがあるからおりる」と「る」の韻を踏み、最後に、「アイーダ エ サイーダ」という口にも耳にもなじむ「イーダ」の脚韻で明るくしめくくられます。それは韻を踏む語呂のよさや言葉遊びのおもしろさではありますが、二項対立を相対化して循環する関係へとみちびく思想をちゃんと語ってもいます。

「なまえ」も、「な」音をかさね、しりとり遊びのように言葉をつないで調子をとり、「なまくらしよう」というたのしい呼びかけを光らせます。「みどり」は肯定と否定の掛け合いであり、どちらを撰んで指示するのでもない。「もえる」「もだえる」「ものもうす」と頭韻を踏んだ掛詞を、「もえてない」と受け、二度目には「もえるわけがない」と突き返して弾みをつける。それがおもしろい。みどりが投げられ投げ返されて、ゆらゆら揺れています。

港大尋さんは、白でなければ黒、右でなければ左という二項対立の溝をぽんと飛び越して、「さあどっち」といたずらっぽく返してしまう思想をお持ちです。ながいこと論理学は西洋の論理学(アリストテレス以来のいわゆる形式論理学)以外にないといわれてきました。しかし、世界には、先住民族の思考方法やインドの大乗仏教の論理もあります。それらも、西洋の論理学と肩を並べるものだという主張が、このごろはされています。たとえば「AはAであると同時にBであることはできない」という同一律だけが正しいとしなければならないのではない。「今日は鳥」は、「AはAであるがAではなく、Bである。しかしまたBでもない」という大乗仏教の論理を下敷きにしたんじゃないか、などと思ってしまいました。こうした同一律を越える考え方をばかげたものとして退けるのではなく、因果の論理ではとらえきれない相互依存=縁起の論理であることとを承認しようという思潮が生じています。カチャーシーのリズムにのせた「ちゃーちゃーのうた」なんかもその哲学にのっとっていますね。

もともとピープルがつくってたのしんできた詩や音楽ってそういうところに根を持っているのかもしれませんね。このCDを聴いていて、そんなことに思いが及びました。





『がやがやのうた』の詳細はこちら


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