
文体としての声 荻原裕幸
声は印刷物に類するメディアである、という仮定が正しければ、詩の朗読は、声のプロによってなされるべきである。そうしなければ、声は、文字に匹敵する、あの熱くて冷めた伝達力を持ちえないからだ。だが、藤井貞和のCD『パンダ来るな』を聴くと、この仮定に何か破れ目があることに気づかされる。
「ハウスドルフィンキック」という、掛詞なのか駄洒落なのか判然としない藤井語を文字で読んだときには、わくわくしたと同時にどこか違和感を消せなかった。「たたみのへりがヘリコプタ」という一行をやはり文字で読んだときには、ハリセンを持って彼の後頭部に狙いをさだめている自分がイメージされた。だが、藤井の声でこれらの藤井語に接してみると、モチーフを離れたリアクションのほとんどは中和されていたのだ。
声は、少なくとも作者自身の声は、メディアなのではなく、詩の文体を構成する、ひとつのファクターなのかも知れない。
(歌人)
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荻原裕幸 Ogihara,Hiroyuki
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http://www.ne.jp/asahi/digital/biscuit/
フジゆうジざイなしてきせんりゃく 松井茂
ゆージさんとフジイさんがすてージでとーくしたときのこと。ゆージさんがフジイさんに「ひょうイもジとイうさくひんはどうイうものなの?」としつもんをしたことがあった。このさくひんはフジイさんのさくひんのなかでもイみフめイどがたかイ。ひとのぶんしょうをもってきて、かんジとひらがなにぶんりするとイうさくひんで、なにしろよめなイのだ。フジイさんは、しつもんにたイしてうなったりてんジょうをみたりしながらわらってイた。ゆージさんもわらってイた。ジっさイにはどうしてこうイうさくひんをつくったのかりゆうはちゃんとあるのに、フジイさんはこたえなイ。ゆージさんもわかってイるから、フジイさんのうごきをみてわらってイる。ゆージさんはイわずとしれたせんりゃくかだが、フジイさんもジつはせんりゃくかなのだ。ちょっとかわイげのあるとぼけたろうどくは、フジゆうなせんりゃくによるしゅうとうなもの。とおもわせるのもせんりゃくかな?
(詩人 CDの編集担当)
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藤井さんの「母韻」をちょっとアレンジしてみました。
よかったらみてね。
http://www11.u-page.so-net.ne.jp/td5/shigeru/boin.html
e-mail 櫻井卓
美恵さんご連絡ありがとうございました。原稿のことはすっかり忘れてドイツの晩夏を楽しんでいました。
しかし、私にホームページに何か書けとは、それは私に恥をかけと仰っているのと同じです。だって恐れ多くも「水牛」のホームページといえばヤリイカだかユリイカだかの読者を始め、現代音楽大好きのインテリゲンチャが立ち寄るページじゃーないですか。このところ文学的教養はもっぱらビックコミック・スピリッツ毎週月曜発売からしか得ていない私にはとても無理なお話です。どうか勘弁してください。録音なら何でもやりますから。
それにしても今回の藤井さんの朗読は楽しかった。面白かった。ちょっぴりエッチぽくて、そして怖かった。もちろんもともとの詩が素晴らしいのでしょうけれど、きっと「字」で読んだだけだったら、頭で理解したつもりになって終わり。体の中にまではなかなか染み込まない。それが藤井さんに読まれると、言葉が直接心に入ってくる。そしていつのまにかその詩の情景の中に引き込まれてしまいます。夜汽車に乗って車内放送を聞いていたり、病院のベットで寝ていたり。さらにふだん何げなく使っている言葉の奥に隠れている「別の何か」に気づかせてくます。
美恵さん、藤井さんの録音は大変です。つばきの音は多いいし、マイクとの距離もすぐ変わる。大きな音を立てて原稿用紙のページをめくる。でも藤井さんの語りはテイク2がありません。常に1回勝負、例え読み直したとしてもまた全然別の新しい詩が生まれるようです。こんなに面白い録音は他にありません。
早く2枚目、3枚目の録音計画を作ってください。よろしくお願いします。2001年8月末日、
バーデン・バーデンの風呂屋で水牛ではなく狂牛を食べながら。
(録音担当)
むかし映画を撮っていた。遠く過ぎ去って、今では昔を思うことさえ忘れる毎日を過ごしている。
そんなある時、師匠格の先輩監督が亡くなって、葬式の場でコンビのカメラマンにであった。私たちはもう痛飲する年齢ではなかったが、陽のあるうちからだらだらと昔をいつくしんだ。みんな過ぎ去った話だった。
振り返ればともに若くて暴力的だった。世の中に楯突きたいとばかり思っていた。そうもいかず腹いせのように穴のあくほど映像を見ていた。一こま一こまの残像を脳裏に焼き付けた。撮らえた映像を何度も見るというはてしない繰り返しは、私たちと現実との関わりを鍛えていた。失われているものが今そこにあるような気がした。
私たちが詩の朗読を撮ったのは、ほとんど偶然の出来事だった。とはいえ、昔のコンビは蘇り、カメラは藤井貞和さんをキャッチした。
少しやつれた面もちで、詩人は言葉を発した。私たちは遠い昔のできごとのように、穴のあくほど詩人を見つめた。現実との関わりを鍛えるように何度も繰り返すことは、私たちに詩のなす意味をかすかに伝えた。筋金を入れることと詩に耳目を澄ますこととは一致できる余地を確かに持っていると思う。一こま一こまにはびっしりと万感が詰まっているのだ。
そして……、詩を撮らえた小片映像の背後には、引きあいながら離れている男のお話もひそんでいたということです。(撮影担当)
パンダ 高橋美礼
私が藤井貞和さんの詩に出会ったのは、最近のことだ。
母の仕事場にある雑然とした本棚のなかで、ひときわ目立つショッキンググリーンとイエローの、目がさめるような装丁のその詩集は『ピューリファイ、ピューリファイ!』。カッコイイなあ、英語のペーパーバックみたい、がさっとした手触りがいいんだな、日本語の詩?っぽくない。その存在感が心地いい。そして、ひろい読み(ななめ読みではありません)した詩は本を閉じてもワイワイ、私の頭のなかだけじゃなくてそこら中にあふれはじめる感じだった。
「パンダ来るな」は、そんな生命体のような藤井さんの詩が、本からではなくてご自身の朗読によって出てくるという。そのCDパッケージをデザインできるのは嬉しく、楽しいことだ。朗読というのがメインなので、顔写真をガーンと張り付けるのはどうだ、というひらめきでやってはいけない。なにしろ藤井さんにはまだお目にかかったことがないのだし、CDは本よりも小さい媒体だからきりっとしてみたい。
別の仕事の都合で私はこれからヨーロッパへ行く。このパッケージをヨーロッパで仕上げることになる。だからなんなんだ、と言われればなんでもないことだが、電話線を使ってとどけるデザインがちょっとでも、詩の響きとシンクロすればいいな、と思う。(デザイン担当)
『パンダ来るな』を目前にして 新井高子
私にとって、藤井さんの朗読は、まず「恐竜」の姿でした。このCDにも収録されているだろう、「母韻」が始まりだったのです。螺旋状に体をくねらせながら、「ウオ、アウー、ウエー」と力を振りしぼる姿はまさしくその態なのですが、実は、ほとんど強そうではありませんでした。顔を真っ赤にして卵の殻を割ったばかりの赤ん坊か、背中が丸くなって筋肉が削がれたおじいさん、そのどちらかわからない、いや同時に両方を具有した奇天烈な恐竜として藤井さんは現れました。
今まで「人」だと思っていたのに、マイクの前に行くなり、突然こうなってしまったのです。わたしは数秒間、口を開けたままびっくりして、それからふつふつ笑いたくなって、そして終わる頃には何とも励まされたように元気になっている自分に気が付きました。次は私が朗読する順番だったから、緊張していたんです。それが、ふっと、ほぐされてしまった。
その朗読の魅力は、ちょっと恥ずかしそうに、始終揺れていること。ある地点に直立するというより、うねった声です。それは、東京方言と奈良方言の間を行ったり来たりしています。東海道を篭で揺られていくように、聞き手の耳の深みへ、いつの間にかおとずれています。
声質もまた魅力です。声質自体は、重心が低くて、余裕につながるいい声なのです。それが、藤井さんの身体から発生される何とも不安定な(いいえ、可動に富んだ、と言ったほうがいいかもしれません、浅い息ではないですから)呼吸に乗る時、特別な形を作るようです。つまり、落ち着いているのに落ち着いていないような、そうであるのにそうでないような、そうでないのにそうであるような、振り幅のある多義的な状態です。
そして、このような魅力が生来天然に、というだけでなく、むしろ意志の力で選びとられているのを興味深く思います。こんな奇天烈な状況を、藤井さんは、現代と向き合うための策として、安定を拒みつつ自ら選択していることが、それとなくですが伝わってきます。ですから、実は、「虎視眈々」とした朗読でもあるようなのです。赤ん坊恐竜を、実は沈着冷静にやってのけている面もあるようなのです。ここで、「あるのです」ではなくて、「あるようなのです」と書かざるを得ない、この複雑さに惹かれます。
もうすぐCD『パンダ来るな』刊行です。「来るな」と言いながら、やって「来る」。とっても楽しみです。(同人誌「ミて」編集長)
『パンダ来るな』の詳細はこちらへ