ハヌマン、ターザン、ピテカントロプス・エレクトゥス


サルドノ W. クスモ

8歳という年齢はジャワ語ではwinduというが、わたしがその歳になると、父は友人のひとりラデン・ンガベヒ・クリドスカトゴRaden Ngabehi Kridosoekatgo を招いた。この人はスラカルタの宮廷kratonに仕えていたが、シラッsilatと呼ばれる武術の達人で、わたしに武術を教えてくれと依頼されていた。8歳というのは子供時代の終わりを意味する。なぜ武術をまなぶことが必要だったのか? その時の父の説明では 武術を習った子は自信がついて、習わなかった子より遠くに遊びに行ける、ということだった。武術を習った人はもっと高い木に登れるし、もし落ちても、からだはネコのようにコントロールされているから、怪我をしないで済む。その時は、そんなことばにはあまり注意を払わなかったような記憶がある。しかし今になると、父の言ったことはその通り思い出せるし、それが全部ほんとうとは言えないことも、わかっている。大きくなるにつれ、高いところを怖がるようになったからだ。一度桜の木から落ちて、それがトラウマになったのだろう。

武術を習って3年経つと、先生が、舞踊を習ったらどうかと言い出した。舞踊は武術を高めたものだ、というのが先生の考えだった。武術の世界では相手や敵はいるが、ともだちはいない。反対に、芸能では、敵というようなことばはない。しかし、これもほんとうではないことを、やがて知るようになった。芸能の世界での競争は、もっとはげしくひどいものであるからだ。芸能の世界では、個別化が大いに奨励される。武術の先生のことばは、たいへん詩的だった。「武術を習えば、敵の攻撃を無力化することができる。だが舞踊なら、攻撃性が顕れる前に、自分の攻撃的な意図を無力化することができる」。舞踊の動作が究極的にめざすのは、感性を和らげ、洗練することなのだ。じっさい故ラデン・ンガベヒ・アトモケソウォRaden Ngabehi Atmokesowoに師事すると即座に、わたしがアルサンalusanという、マハーバーラタやラーマーヤナ叙事詩に由来する役柄の洗練された舞踊のスタイル以外の踊りを禁じられた。

舞踊のうごきは一連の身体動作であり、その目標はゆれうごく感情を制御することで、表現としては、しずまって、爆発はもちろん、不規則なうごきの波立ちのない、連続する流れの印象をあたえることだ。この執着のない心の原理の起源をたどれば、ジャワ文化に深く根を下ろしている仏教の影響に行き着くかもしれない。形も色もないwang-wungの世界の静寂の印象が求められているのかもしれない。9世紀の美術であるボロブドゥル寺院の頂上にある無色界Arupa Dhatuの雰囲気さえある。すると、ソロの宮廷で神聖とされる舞踊が、宇宙を意味するブドヨ・クタワンBedaya Ketawangであるのも偶然ではない。ブドヨ・クタワン舞踊の動作はとても単純で、装飾もほとんどなく、伴奏するgendhingの楽器編成も、影絵人形芝居ワヤンを伴奏するガムランのように全員ではない。舞踊の型は単純だ。うごきは踊り手の呼吸をなぞるかのように、なめらかにゆれる。

専門家によれば、ブドヨ・クタワンの主題は、ジャワ王と南海の女王との結婚だ。そうだとすれば、これは仏教と、ヒンズー教の影響との習合を指しているのだと思う。この考えは、南海の女王が二つの姿をもつものとして描かれていることに対応している。ジャワ王を訪ね、愛を交わすときには非常に優しく美しいが、ひとたび南海の王国で亡者や鬼を治めている時は、反対に恐ろしい姿に変わる。わたしの考えでは、亡者たちはじつはDurga Umayiのイメージなのだ。これはヒンズー教では一番重要な女神Shakti Shiwa(シヴァ神の明妃)である。ブダヤ・クタワンでは、この主題は詩的で抽象的なかたちであらわされ、無色界の蔭のなかで、はっきりとは形にならない。演じられるうごきは、情念の気配からは遠い。この演出は、戦士や悪鬼など、ラーマーヤナでのラワナ王も含む強い役を踊る場合も変わらない。

以上で総括されたような概念を表現できる最後の舞踊家としては、故ンガリマンS. Ngalimanがいた。かれの動作の型は、劇的な表現で解釈されがちな役でさえ、劇的な動作も表現もなく、静かで威厳をもっていた。

さて、舞踊の学習課程にもどろう。ジャワ舞踊の学習のうちには、アルス優型alusの素質をもっていなければ、よい踊り手になれないという信念がある。その根拠となるのはまず、舞踊は、ジャワ的人生観における理想の人格を達成するための学習過程だということだ。理想の人格とは、動作や行動や身体言語によって感情を制御する能力をもち、対人関係ではいつも自己を抑制し、相手に先をゆずるような人格だ。ほとんど受動的で、規範にはずれた行為を恥とする。これらの規範は、教えられる舞踊の型への反応の基礎にもなっている。高度な技術訓練が義務づけられる。演じられる動作の細部の訓練は、また社会秩序を身につける訓練でもある。

わたしの師であるR・ンガベヒ・アトモケソウォは、宮廷を取り巻く環境にいた。ウィレンガンWirengan小路に家があったが、これはwirengということばに由来し、舞踊家(=wirengを躍る人)が住む所という意味になる。かれはジャワ舞踊の師としては理想的だった。顔は印象的で、身体は小柄、手はしなやかで、アルス舞踊の名手だった。肌は白くきれいで、話す声は小声でゆっくりだった。眼は鋭く、意味深いことばを語るとき、しばしば眼を閉じた。生活は規律正しく、酒は飲まず、いつもととのった服装をしていた。アトモケソウォの振る舞いはいつも制御され、細部にまで注意深く、踊る時や教える時以外にも、日常生活でも、じっと何時間も座って黙想するのを好んだ。このことから考えると、ヴィパッサナ瞑想を、たえず毎日の生活でおこなっているように見えた。ヴィパッサナ瞑想は、二三日、一週間、十日間などの期間隠れ家でおこなうことがあり、その時は一日中動作はゆっくり自己制御し、他人に話しかけたり反応したりせず、自分や他人に幸せや怒りをもたらすような感情のうごきを避けるようにする。

ソロのジャワ舞踊界では、アトモケソウォだけが理想的な性格や人格をそなえた舞踊の師であったわけではない。もう一人R・ンガベヒ・ウィグニョ・ハンブクソR. Ngabehi Wignyo Hambekesoという舞踊の師がいて、その性格は、ラデン・ンガベヒ・アトモケソウォに見られるような、舞踊の師としての理想的な性格とは、ほとんど正反対だった。ウィグニョ・ハンブクソは宮廷で踊っていたわけではないが、舞踊を意味するhambekesoの称号をあたえられていた。舞踊の師としては、昔の宮廷舞踊の膨大な表現言語を記憶していることで知られていた。昔の宮廷舞踊を教えることにかけては、まるで尽きることのない記憶があるように見えた。若い舞踊の教師たちのほとんど一致した意見では、アトモケソウォの舞踊動作の豊かさも、昔の舞踊についてのウィグニョ・ハンブクソの知識にくらべたら、物の数ではなかった。

アトモケソウォとウィグニョ・ハンブクソには、根本的なちがいがあった。アトモケソウォは、明晰な型を、ていねいに細部に注意しながら教えた。そのために、アトモケソウォについて舞踊をまなぶのには長い時間が必要だった。反対に、ウィグニョ・ハンブクソは、癇癪持ちで、予断を許さず、不作法でもあった。ウィグニョ・ハンブクソの典型的なやりかたは、ジュネウルやボルシュといったオランダ・ジンやブコナンという米の酒を飲みながら、さまざまな話題を論じることによって、レッスンを始めることだった。言うまでもなく、活気に満ちた暖かい雰囲気で、話題が卑猥な事柄に及ぶこともよくあった。

アトモケソウォの直弟子としては、二人の性格は正反対だったから、ウィグニョ・ハンブクソを訪ねることさえ怖くてできなかった。だが一度サパルディ・Hさんについて、ウィグニョ・ハンブクソを訪ねたことはある。父の薬局から持ち出したジュネウル一瓶を忘れずに。その時は17歳だった。アトモケソウォと父の両方からきびしくしつけられていたから、アルコールを飲んだことはもちろんなかった。だが、他の舞踊教師みんなから、我が師アトモケソウォを例外として、深く尊敬されていた偉大な師の前にいたのだ。予想通り、かれはわたしの前にジュネウルのグラスを置いた。当時のソロ市の薄暗い電灯がわたしの青ざめた顔を隠してくれたに違いない。覚えているのは、電灯が明るくなったり暗くなったりして、ウィグニョ・ハンブクソの身体が一方に傾いているように見えたことだ。

その晩、力強い活発な踊りのうごきをいくつも、ウィグニョ・ハンブクソは教えてくれた。それにはクロノ・トペンKlono Topengが登場する時の動作glebakanも含まれていた。次の日、昨夜ウィグニョ・ハンブクソが昔の舞踊のbothekanを開けたといううわさが舞踊界にひろまった。bothekanは、骨董の収集や秘蔵品、秘伝を納めた宝の蔵を意味する。ウィグニョ・ハンブクソだけがその秘密を知っていた。もちろん、長いこと舞踊を習うとともにわかってきたのは、ウィグニョ・ハンブクソは秘伝の蔵の番人ではなく、かれが集めた昔の舞踊の型言語やレパートリーを分け与えてくれるが、じつは酔うたびに、社会秩序の制約や、社会規範に反する罪からも解放されていたことだ。創造性のおもむくままに新たな型を創造したのであって、秘伝の蔵にある昔の舞踊を記憶していた、というだけではない。これがソロの舞踊界が、かれが保存する昔の所蔵品が尽きることがないことに、たえずおどろかされていたわけだ。

バンドロ・パングラン・ハルヨ・チョクロクスモBandro Pangeran Haryo Cokrokusumoがウィグニョ・ハンブクソを招いて息子のBRM・カナピに、恋するニウォト・カウォチョ王Niwata Kawacaの役を教えてもらった機会に、この酔った精神の創造過程を観察することができた。cokli動作(kecocok peliあるいはペニスの挿入を連想させることもある)は露骨に性的表現であり、その露骨さはスクー寺院Candi Sukuhの密教的彫刻にも匹敵する。ジャワ芸術の密教的表現は、17-18世紀の宮廷学者による重要な作品チェンティニ稿本Centiniにも遡る。

舞踊家には、動作を自由に解釈しながら、自分の内面感覚を表現に注ぎ込む機会があたえられている。舞踊劇ワヤン・ウォンWayang Wongのジャンルでは、物語の主題や役の表現を伝えるための多くの対話があるので、舞踊家にはもっとスペースが残されている。役者と舞踊家の性格のほうが、動作の型よりも優先する。この面では、登場人物は突然自分で自分の身体のうごきを創りだしたような感じになる。ワヤン・ウォンの舞踊家ルスマンRusmanは代表的な例だ。かれが飛ぶシーンは、よく宮廷の教師たちから嘲笑われたものだ。右腕と脚を上げるところは、犬の放尿するところにそっくりだ、というのだ。反対に、左腕と脚が上がるときは、右側は支えになって、うごかなかった。宮廷の外では一般の観客は、ルスマンをおもしろがり、賞賛していた。そのなかにはスカルノ大統領もいた。ルスマンのロマンチックな戦士像は突然、反植民地運動としての民族主義におけるロマン主義運動のイメージとなった。ルスマンもスカルノも大衆を扇動する力を持った偶像を創りだした。舞踊芸術はまだ、感性のイメージのなかで社会の理想像を創りだす役割を、別な次元で演じている。静けさから、ヒステリーと陶酔に満ちた興奮に移行することができるのだ。

伝統のなかで個人がうごける範囲は、しばしば挑戦であり、刺激となって、役自体というよりは状況からあらわれてくる。クスモ・ケソウォのおもだった弟子の一人として、わたしは王族の委嘱による多くの舞踊の初演に立ち会ったが、かれらは当時まだ貴族としての特権とともに、土地改革がまだ実行されていなかったので経済的特権もにぎっていた。1957年から1961年のあいだに、クスモ・ケソウォは何人もの王族から委嘱を受け、わたしもそこで主役を演じた。

BPH・チョクロクスモは、娘が結婚したとき、「ガトゥットコチョGatutkacaとプリヨンボドPriyonbodo」の話から、(ガトゥットコチョが)巨人チャキル・グンディル・プンジャリンCakil Gendil PenjalinとブラガルボBragalboを相手に戦う「花の戦い」の舞踊を上演した。ガトゥットコチョは、BPH・チョクロクスモの息子ジョコ・カナピJoko Kanpiが演じ、わたしはプリヨンボドの役をやった。会場はダレム(奥)サソノ・ムルヨndalem Sasono Mulyoでカスナナン宮殿(バルウォルティ)Kasunanan kraton(Baluwarti)の建物群にあった。この上演の特色のひとつは、スリウェダリSeriwedariワヤン・ウォン集団からスマルSemar、ガレンGareng、ぺトルッPetruk、バゴンBagongの四人の道化プノカワンpunokawanをはじめて招いたことである。記憶では、ペトルッ役は当時有名だったスロノSuronoが演じ、プリヨンボド役のわたしをわざとからかったが、プリヨンボドは口をきいてはならなかった。笑いをこらえようと身体がふるえるので、観客の笑いを誘った。

またカンジェン・ブロトディニングラッKanjeng Brotodiningratの娘が結婚した時は、クスモ・ケソウォはウィロ・プラトモWiro Pratomoの主題による、四人の登場人物が同時におなじ曲のなかで踊るウィレンwirengの上演を依頼された。その四人はコクロソノKokrosono、ノロヨノNoroyono、コンソ・デウォKongso Dewo、スラティモントロSuratimontroで、わたしはノロヨノ役だった。

カンジェン・ウリヤニングラッKanjeng Wuryaningratは独立運動で活躍した王族で、いまその屋敷はソロのスラムッ・リヤルディSelamet Riyardi大通りのダナルハディDanarhadiバティック美術館になっているが、もっと詩的なものが好みだった。かれはクスモ・ケソウォに頼んでサンチョヨSancoyo対クスモウィチトロKusumowicitroのウィレンを上演させたが、これは二人の踊り手が荒型(ガガハンgagahan)と優型(アルサンalusan)という型で演じるものだった。カンジェン・チョクロクスモの息子ジョコ・カナピがサンチョヨを演じ、わたしが洗練されたクスモウィチトロの役をやった。このウィレンはウィレン・ゲンwireng gengで、非常に複雑で、変化に富み、上演時間は約55分だった。

カンジェン・ハディ・ウィジョヨKanjeng Hadi Wijoyoは教育方面の先駆者であり、ソロで最初の私立大学であるサラスワティ大学を創設した王族であった。その創立一周年記念日に、かれはクスモ・ケソウォにヒンズー教の神々のなかで知識の女神であるデウィ・サラスワティDewi Saraswatiを主題とする舞踊を創ることを依頼した。この時は、わたしは孔雀の役を演じたマルティMarutiといっしょにアルサンを踊ったが、孔雀は、ちょうど鷲がウィスヌ神に結びつくように、いつも知識の女神に随伴する生き物だった。

これが、師たちによってアルサンの踊り手と決められたわたしだった。身体は流れるようなジャンル、スタイル、型、リズムだけを受け入れるようにしつけられ、いずれはこれが態度にも影響して、感情を制御するようになると期待されていた。

だが現実に起こったのはその反対だった。1961年ラーマーヤナ・プランバナンが初上演されたとき、師であるクスモ・ケソウォはふたたび、その制作過程の中心を担うという栄誉をあたえられた。準備と練習期間中、クスモ・ケソウォ派で唯一のアルサンの若手であるわたしがラーマ役になると、ソロではみんなが思っていた。ソロの街中探しても、アルサンの踊り手として知られているのはわたしだけで、それ以外ではS・マルディはもう年輩で、だから踊り手としては適当ではなくなっていた。ところがその期待に反して、ラーマーヤナ実行委員会が選んだのは、踊りを習いはじめたばかりで、特にアルス舞踊には経験がとぼしい別な候補だった。この人は容貌と家柄をのぞいては、踊りの能力が主役になれるほどのものではなかった。しかし、思うにこれが伝統の一つの側面であり、大きな催しにはよくあることだが、芸に関することだけでなく、社会的な内情もかかわってくる。

忘れられないあのことが起こったのはある夜、クスモ・ケソウォ師の家に呼ばれた時だった。深夜1時半という異常な時間に呼ばれたこともそうだが、寝室に呼ばれ、師に面して寝台の上に足を組んで座るように言われたのも、ただごとではなかった。瞑想しているかのような長い沈黙ののち、師は語りはじめた。「いつものように舞踊を創る上でたいせつなこと、重大wigatiなことがあれば、いつでも先輩や特に、(と言ってしばらく黙ってから)sampeyan ndalem kaping sedoso(とっくに亡くなったパク・ブウォノ10世Paku Buwono Xを指す)に相談してきた。このたびの霊のお告げによれば、ハヌマンを踊るのにふさわしい者はおまえしかいない、と……」師が語り終え、ふたたび瞑目したとき、夜は一段と寂寥にみちた。師の眼の縁はうるみ、わたしも涙を流した。腕を組み瞑目したこの様子では、師がふたたび口をひらくことがないのは明らかだった。そこでそっと寝台から降り、門を出て、さびしい夜道を自転車でもどった。砦baluwartiの壁の間の通路はいつも人影はないが、これほどさびしかったことはない。

師はこれまで荒々しい(gagah)踊りや粗野な(kasar)踊りを禁じ、自分の流派以外の舞踊界との接触をもたないようにわたしを育ててきたが、そこから突然、「習ったこともなく、だれに尋ねていいかもわからない踊りを踊らなければならない」という異様な状況に投げ出されたのだ。つまり、すでにプリマドンナだった者が、初心者にもどらされたのだ。ソロ風の猿の踊りは、舞踊の技術から言えばたいへん貧弱だった。クスモ・ケソウォの息子は、小・中学生の舞踊教師にすぎなかったが、わたしに多くのの振りを教えてくれた。しかし、ソロでは猿の踊りは変化に乏しいので、彼はそれらとジョクジャ様式のものと組み合わせていた。

もちろんすでに優型の舞踊の完璧さと強靱さを体験した身には、この新しいスタイルの動作は、いいかげんでやさしかった。しかしそんなことはだれも気にしなかった。なにしろ、問題なのは40×18メートルという大舞台でスリンピやブドヨ舞踊のスタイルを大群舞に仕立てたり、ボンドユドBondoyudo舞踊を猿の大群と一緒にして大規模な舞踊に仕立てることだったからだ。孤立と無視のなかでわたしは、師もなく規範も型もない異様な場に向かうことになった。その結果としては、ハヌマン舞踊ではなく、サルドノがあるばかりだ。この自由によって、バレーのポーズやエドガーライス・バロウズの漫画で見たターザンの動作を真似るほうがおもしろくなった。師がまったく知らないあいだに、こういうポーズを何か月も毎日家の古い戸棚に付いている大きな楕円形の鏡の前で真似ていた。こどもの頃は、この鏡の前で父がタイソーをやっているのを見ていた。そこで、わたしがその動作を素早く本能的に真似られることがわかったのだ。いまや、そこでターザンのうごきを真似ていたが、それは学校から帰ったあと、父が事務所から帰ってくる前のことだった。

ターザンの姿勢は、とくに戦うとき、いつも片脚を曲げてプリエ・ポーズのようにし、他の脚は伸ばして基本の強い構えをとる。伸ばした脚の延長にからだを傾ける。腕はいっぱいに伸ばして、身体が長くなったような印象をあたえる。木の枝からぶら下がるときはちがう姿勢で、明らかに猿の姿勢を真似て、姿やしぐさが猿人をうまく表した。これはもう一つのハヌマンではないか。ジャワのソロ風の踊りのtancepと比べると、この非対称で強い表現をもった姿勢は、もちろんジャワの伝統になじんだ観衆にとってはおどろきだった。観衆は脚のこの非対称な位置を好んだが、それによってエネルギーの集中が可能になり、この武術の基本功が破れると、高く跳び、あるいは走りながら跳んで、巨大な舞台であろうと、いたるところにハヌマンがいるように見せたからだった。

ブット氏mas Bud...(もう年だったのに)とウィロ・トゥクック氏pak WiroTekekとして知られた一組の教師たちが、アルサン舞踊の基本的な構えに由来する武術の基本功を提示していた。ウィロ・テクック氏自身、蹴る鳥や飛びかかる虎といった多くの振りを取り入れた。こういったさまざまな動物のうごきを真似ることに必要な筋肉の整合こそが、宮廷舞踊の規格化から解放されるきっかけとなった。こうして自由になって、無意識のうちに身体の柔軟性をできるだけ利用しつつ、筋肉のつかいかたやストレッチの細かい点を重視するようになった。これらのうごきのなかには、身体の回転、仰向きやうつむきに寝るなどがあり、猿のように腹筋をひきしめて身体を強調するのがしばしば主要な動作となった。このように霊長類の動作の真似が、重要なテーマとなったのだ。

このアプローチはまったく素朴に見える。だが、アルサン動作の複雑な型や武術の多様な型で鍛えられた身体には、筋肉の収縮速度に必要な技術をもって、うごきの安定や、バランスと整合、技巧的でみごとな運動のあいだのバランス、さらに身体の異なる部分の細部にわたる強度をはかることは、内的表現のメディアをゆたかにしてくれた。これらの運動が感情表現をつくりだし、それらを自発的な表現と感じさせたのだ。それというのも、身体的感情がたかまって、生死の境にあると思われるような危険な領域に踏み込んだときには、しばしば筋肉にそなわる身体的衝動や生への、あるいは生存への本能を感じることがあったからだ。こういう経験はハヌマンと巨人との戦闘場面に限らず、武術の演技に際してしばしばあった。おなじことは、必要と表現にせまられて舞台の高い壁に身体が上っていったり、衝動のままに薄い壁に沿って走るような危険なことをするときにも起こった。また、群舞の高揚に誘われて、運動が物理的に空間をいっぱいにし、エネルギーが尽きるまで何度もめぐりつづけるときもあった。こういうことすべてが、型によって制御されたジャワ宮廷舞踊の身体のつかいかたとはまったく異なる身体表現を創りだした。ターザンの本にあった解剖学的な図形も、宮廷の型とのへだたりをますます大きくした。

旅のように、師のいないこの探求では森に迷いもしたが、新しい身体のつかいかたを発見もした。霊長類のようなうごきかたは、身体の筋肉が武術に由来する生存のための型を経過したことは別としても、ハヌマンの性格にもとづく猿人というテーマにおもに刺激されて、運動型のこの探求の方向づけとなっていた。ハヌマンは人間のようだが、類人猿であり、天の神々の性格と魂を持った類人猿でもある。このテーマには幅広い解釈を許し、踊り手には、瞑想的観想であろうと、表現的感情であろうと、肉体のアクロバットであろうと、さまざまなレベルで意識に触れることを可能にする。ヒンズー教に影響されたジャワやバリのワヤンの世界では、ハヌマンという登場人物は、たいせつな役割を担う。それは神との関係、戦士たちのあいだの関係をはじめとする、関係のあらゆるレベルで重要であり、時にはただの猿に変身してアルンコ国のソカの庭に忍び込む。それは魂の動的な運動を反映して、人間のようにたえず意識のさまざまなレベルを移り変わり、落ちたり登ったりしている。おそらくこの故に、この登場人物は、組み合わされ、お互いに補いあう動物的・人間的本能と神的平和をつよく惹きつける力がある。ふしぎにも、ハヌマンに似た人物は、仏教叙事詩では孫悟空と呼ばれ、経典を求める旅で比丘あるいは僧侶の従者となる。ハヌマンも孫悟空も人間的猿であり、時には神的な力を発揮して何人もの神々をうち負かすこともある。その霊的レベルのある部分は神々よりも高く、もっと明るい光のなかで真実を観ることができるのだ。ひとが霊的レベルで上昇と墜落をたえずくりかえしている真実の探求者である、という考えは、当然ラーマ神や比丘よりも、人間の写し絵にかぎりなく近い。言うまでもなく、観衆や物語の読者は、この人物が大好きだ。

孫悟空とハヌマンとの類似によって、シヴァとブッダを一つにするジャワ的習合は、芸能の修行にも反映しているのではないかと、ふたたび問うことになる。ヒンズー叙事詩ラーマーヤナとマハーバーラタの大規模な語りwira caritaのテーマは、心の平静さを原則とする極度に瞑想的な演技により、上演される。他にも違う点として、インドではラーマの軍勢は猿を主としているのに対して、インドネシアのジャワとバリではそうではない。ジャワとバリの舞踊劇ではラーマの軍勢は、動物王国のほとんどすべての動物からなる。仏教説話では、孫悟空も他の動物の化身をしたがえているが、ジャワとバリでも、9羽の鳥Cucak Rawun、9匹の鰐Kapi Sraba、9匹の羊Kapi Mendo、9匹のミミズKapi Cacingなどがいる。これはジャワやバリの宮廷も農業の宮廷であり、商業の宮廷ではなかったからかもしれない。ワヤン・ウォンでは、いまだに宗教儀礼との関係がつよいトゥジョクロ・バリTejokulo Baliには、いろいろな種類の動物をあらわす70以上の仮面の登場人物がいる。

それにくらべて、東カリマンタンの内陸部のダヤック・クニャ人Dayak Kenyahのフドック舞踊Hudokでも多種の動物仮面があるが、かれらはラーマーヤナ物語は知らない。フドック舞踊では竜の仮面が霊的に高い位置にある。一説では、カリマンタンの河川、とくにマーアカム川Mahakamが、土壌の性質と潮の変動の大きさによってしばしば流れる方向を変えるので、竜のイメージを思わせる。この自然現象が重要な神話的動物となったのは、それがダヤックの村の生活に直接影響し、流れの変化によっては移住しなければならないからだ。これらの流れは蛇行によって小さい湖をいくつもつくりだし、川は生計手段でもあるが、竜のように荒れ狂うものでもある自然を読みとるこの感受性でジャワとバリの農民が土地の宗教ともっと大きいヒンズー教や仏教とのふれあいから芸能をつくりだし、ラーマーヤナに表現されているような生物多様性をテーマとするようになったのではないかと、考えるのもおもしろいだろう。わたしがハヌマンの踊り手として体験したような解釈の過程を経ると、霊長類をテーマとした踊りを、カリマンタンの熱帯雨林や、アスマット人の住む密林やダニ人の村があるジャヤ・ウィジャヤ高原のような霊長類の住処で見ていると、舞踊の動作によってその運動に共振してしまうことさえできるようになる。身体をうごかしたり音を出す自然なやりかたは、ハヌマンのテーマでの猿人のうごきの延長にすぎないようにも思われる。ハヌマンの衣装を着けて身体を揺すったり、足に着けた鈴が鳴るのが聞こえる楽しさは、そのときのわたしのように若い踊り手をとりこにしてしまう。

一方、酔った神であるウィグニョ・ハンブクソや、文献にくわしいクラトンのスモダルモコSumodarmoko、それにクスモ・ケソウォなどの長老たちpini sepuhが白状したように、これらの動作の由来を知らない舞踊教師たちは、公演のあとでしばしば聞かされたことだが、わたしが踊りながら異様な新しい動作をするのを見て、祖霊の一人が正体を明かさずにわたしの身体に入りこんだと思ったらしい。どうせだれもエドガー・ライス・バロウズのターザンは読んだことがないのだから、これらの異様な動作の由来は教えなかった。しかし、これはたいしたことではない。ウィグニョ・ハンブクソの秘宝の洞窟が実在し、鍵をにぎるのはかれだけだという話や、世の中にはそんな秘宝の洞窟がたくさんあり、たくさんの鍵もあるという話同様、つまらないことだ。

洞窟と言えば、インドネシアには古代人が踊りの場にしていた洞窟がたくさんあり、壁に古代の絵が残っているものもある。マカッサルとイリアンでは、骨やソロ原人Homo Soloensisあるいは直立猿人ピテカントロプス・エレクトゥスの狩猟用具が見つかり、そこからこんな想像もできる。いまやジャワ文化の中心であるソロ川に、原人は百五十万年前に住んでいたのだ。もう生きてはいないが、バリでケチャック舞踊の公演をはじめて見たときには、ケチャックの手のひらや指の外見は、洞窟に描かれた古代の表現と明らかに似ていた。同様に、叫びや音は生存と原始の表現だった。音と叫びは、やっている動作によって筋肉が圧迫されて、その直接の反応として生じた。ケチャックに見たことは、西イリアンの森を探検するようになってから、ますます現実のものとなった。

いままでの15年間、舞踊家のため、すくなくともわたし自身と、いっしょにやっている何人かの舞踊家のために、音の技術を発展させる可能性にたいへん興味をもってきた。このことに気づいたのは西イリアンにいたとき、とくにアスマット人の村だった。踊るとき、アスマット人たちは楽器よりも自分たちの声をつかって表現する。最初の数日間はその歌を熱心に真似てみた。しかし後には音量や動作とのかかわり、メロディーよりは音の種類に興味が移った。

村から村へ小舟に乗って4時間から6時間かけて移動しながら、座っているよりしかたがないので、退屈のあまり、たえず声の訓練をつづけた。森の静けさのなかで叫びをあげながら、狼や野犬が腹の底から発声するように長く細く遠吠えするのを思いだした。アスマット人たちは踊る時ばかりか、寝ていても叫ぶことがある。森の小屋でアスマットの友人たちと泊まった時のことは忘れられない。真夜中に目覚めると、森は静かで、物音一つしなかった。みんなが眠っていて闇だった。突然暗がりの中で誰かが起きあがり大きく長い叫びをあげ、息が切れてまた横になった。するともういびきが聞こえ、やがて森はまた静まった。

この叫びの本能は、深い森で生存を表明するやりかたのひとつかもしれない。ひとが寝ていると動物たちが寄ってくることがあるので、おそらくこれは生きていく上に必要な本能だった。それは感覚や感情を表現する歌いかたというよりは、生存本能であることは明らかだ。それは異なる呼吸法に近い。たぶん生存にとって重要で、発声をともなう呼吸法があるのだ。あるいは、この発声法が呼吸法を決めるのかもしれない。呼吸法が、身体動作の方法と意味を決めることになる。アスマット人たちが発声したりうごくやりかたは、徹夜で何日もつづく行事をこなす必要とかかわるように思われる。それらはまた、小舟の上で立ったまま漕ぐ時に安定をたもつように、身体を独特なやりかたでうごかす必要とも関係している。ほんとうに、舟を漕ぐというより踊っているように見える。発声法は、表現運動もつくりだし、また沼地に住む村の舟の上の暮らしにも役立つが、これはアスマット芸能の主要な特徴でもある。

反対にダニ人は高原に住み、楽器をまったくもたない。動作と発声しかないが、それはアスマット人たちよりは複雑である。[アスマット人たちには二、三個の小さいクンダン(太鼓)tifaがあるだけだが、それでも村の合唱に基本リズムを供給する楽器を持っているわけだ。]ダニ人たちが表現形態としてだけでなく、実用のために発声するということの一例をあげれば、高い岩の上に立つ時に、両手をまっすぐ上に挙げて腹と背の筋肉を制御しながら、つよく鋭い声を放つことがある。その音は矢のように広く開けた空間を横切って台地の反対側にある遠い村に届く。だから、明らかに、表現価値にも加えて、ジャヤ・ウィジャヤ山の高原地帯の自然環境に暮らすダニ人の村では、遺伝的適応と変化の結果としてのエコロジー的価値もあるのだ。

村の住民のしぐさの変化をしめす例もある。太陽がほとんど沈む頃、みんながかがんで腕を組み、両手のひらを肩に置いて胸を護る。こうして高原に張り出してくる寒気を防ぐのだ。衣服をもたないかれらにとって、身体の部分の置きかたが、衣服に代わって体を温めるはたらきをする。歩くときも、速度を変えて体温を上げ、寒気を防ぐ。

地域の自然環境とかかわる人間の生存法は、カリマンタンの奥地のダヤックの村踊りでも見られる。足の位置はいつもつま先立ちか、足の先のほうで、身体全体をいつでも跳べるような動的な位置に置く。これは、ダヤックの村では虫や棘でいっぱいの森のなかで歩き回って長時間すごすからなのだ。こうしてうごくと、音もしないし、獲物に気づかれることもない。森のなかでは、狩りの獲物は人間の生存に必要な蛋白源なのだ。

人間が自然環境を征服しはじめて、人工の社会的・物理的環境が自然環境に替わるにつれて、問題も変化した。自然林のなかの危険や生存がもう問題ではなく、自分でつくりあげた社会問題の複雑さなのだ。人間の動作はますます自分を人類自体の問題から護るためになってきた。この過程は表現と言うより内向的なものだ。自然や動物の暴力と荒々しさは突然抽象化し、自分のなかの否定的な性格や、小は家族環境から大は社会環境にいたるなかでの、周りにいるひとびとの否定的な現実とみなされるようになった。身体運動はエコロジー的というよりは、哲学的・心理学的価値の表明となってきた。だから舞踊芸術は、社会や自然の概念、旅や死後の世界をめぐる抽象論の翻訳になっている。だが今もなお、脳細胞のなかでは恐竜の唸り声が聞こえる(カー
ル・セーガン)。




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