『女たちの同時代――北米黒人女性作家選』 藤本和子編

藤本和子による解説
 目次
  


1 過去を名づける


2 たましずめの歌
『獅子よ藁を食め エリーズ・サザランド』より

3 喉をつまらせている女たち


4 新たなる沈黙に声を

5 衰弱そして再生

6 体験の存在空間

7 反悲劇

たましずめの歌 『獅子よ藁を食め』エリーズ・サザランド


  1 ささえあういのち

 自らをアフリカ系のアメリカ人と呼ぶ北アメリカの黒人は、苦難の三世紀を、ただひたすら白人社会からの圧迫や蔑視に対応することで時間をやりすごしてきたわけではない、とわたしはすでに幾度か書いた。奴隷として連行され酷使され、法的な奴隷解放が行われたのちにもひどい苦しみをなめてきた人々の顔にも身体にも、まだたしかに痛ましい傷跡がある。そのことを軽視することはできない。けれども同時に、そのことのみから、アフリカ系アメリカ人の現実や精神の世界を推し測ることもできないのだ。すなわち彼らの世界の深みを、流動し変化・変質するものでありながらも連続性をそなえ、完結性をそなえた彼らの文化の遺産を、再生され、回復される遺産を、理解することは。
 彼らは生きのびることの意味の中に、たえず、「人間としての尊厳を失うまい」という決意を含めてきた集団であった。アフリカの記憶にいのちをささえる力を求め、受け継がれた思想に生きのびるための知恵を求めてきた。黒い膚を漂白したら消えてしまう人々ではない。苦しみや差別や圧迫が取り去られたら、霧散してしまう集団ではない。
 エリーズ・サザランドはそのことを強く感じている作家だと思う。一九八〇年にニューヨークのマンハッタン・カレッジで教えている彼女に会いに行ったとき、彼女が「アフリカ系アメリカ人の子どもらは」という代わりに、「アフリカ人の子どもらは」という表現を使ったことが印象に残った。わたしは一瞬、彼女は現在のアフリカの子どもたちのことに言及しているのかと思ったのだが、そうではなく、アメリカの黒人の子どもたちのことをそういっているのだと気がついた。「アフリカ人の子どもらは、『獅子よ藁を食め』を読んで、すべてを一気に理解するのね。物語の中に現れる現象もとても身近なもので。わたしがコロンビア大学でエジプト学の講座をとった時も、すでにわたしが知っていることの多いことに、教師はびっくりしていた」と。
 アフリカの子どもらは、と呼ぶことについて、サザランドは弁解しない。ただ「イタリア系なら、わたしはイタリア人だといっても誰も異議をさしはさまない。でもアフリカ人は自らをそう呼んではならないと。そういう二重の規準があるのね」という。
 そういうことを踏まえたうえで、サザランドは『獅子よ藁を食め』を書いた。作品の世界は黒人たちの生を中心に据え、白人の存在はむしろ、黒人たちの暮らしにとっての辺境のように、周辺的なものとして表される。主人公の学友や学校の教師として登場する白人。フロリダの病院の残忍そうな看護夫の大男ですら、そのような感じを与える。『獅子よ』は白人たちへの直接的な抗議の文学でないことは明らかだ。たしかに黒人の生が白人社会からの迫害や蔑視や差別から自由でありえないこともまた、明らかである。それらは彼らをつつむ状況として、重くのしかかり、苦しめる。けれどもその中でも、彼ら自身の生がひとつの完結性をもって存在することも事実なのだ。くどいようだが、白人社会との対応ばかり目を配っているのでは、とらえられない世界がある。サザランドは「すべての苦しみが外から加えられる圧迫にもとづいたものではないことを、わたしはいいたいと思ったの。アンジェラとアベバの場合のように、苦しみの原因は自分の母親であることもあると。命を与えてくれたその母親が苦しみを与えることがある。自らの肉体に裏切られることさえある。わたしは人種差別のことなど重要ではない、といっているわけではない。でも、何か書くたびに、そのことばかりを正面に押し出す必要もないと思う」という。
『獅子よ藁を食め』はひとつの祈りのようである。十五人の子を生み、精神の病に蝕まれた夫の苦しみを分けもち、まだ若いまま癌に冒されてこの世を去ったひとりの女、ひとりの母への鎮魂歌のようである。鎮魂の歌は、預言者イザヤの、完璧な平和を表現しているといわれる預言の言葉にささえられて、「よき時代」への祈りともなっている。狼と子羊、豹と子山羊、子牛と若獅子、牛と熊が共存できる世界。獅子が雄牛のように藁を食べるような世界。メシアの到来による平和の時代とはこのようなものだと、ユダヤ人の預言者が言い表したのだったが、これは弱い子羊や子山羊や子どもらが滅びずに生きられる世界であるとともに、強い熊や獅子が存在を許されたままで共生の可能になる世界でもある。異なるものたちが異なるものであり続けることのできる世界。

「おれなら獅子を殺す」とティモシーがいった。
「それはちがう」
「彼にはそれなりによいところがあるからだね」とダニエル・ジュニアがいった。彼は高等部のだれよりも年はちいさい。けれどもかしこい。

 よりよい時代はきっとくるだろう、とアベバは考える。死の二週間前、彼女は神に金切り声で抗議した。けれども、やがて彼女は納得する。神には人間の理解のおよばないもくろみがあるのだと。神がわれわれの暗い唄をつくり、吃る舌をつくり、母のない子らが泣くのをほったらかしておいたりするが、神の不思議を理解することはできないと。アベバにとっての理想はかつて、永遠に続く世界だった。ニューヨークから母親が迎えにやってくるしばらく前のこと、陽が高くなったのにも気づかず睡っていたアベバとハブルシャムかあさんの扉を叩いたのはジャクソンだったが、そのとき、太陽の光を浴び、雄鶏の姿を見ていたアベバには、「まだ、北へ行くという騒ぎも全部冗談のように思われた。そして彼女とハブルシャムかあさんとジャクソンと雄鶏は永遠に生きるのだ、と思われた」のだ。ハブルシャムかあさんとジャクソンと雄鶏はいのちをいつくしむ世界、貧しいが誇り高い世界、陽の光と樹木の世界をあらわしていた。夢の中にいくども立ち現れた。けれどもアベバには、

 母が二人いたのだ。

 サザランドは「彼女には二人の母親がいた」ということを繰り返し記している。そのことにわたしは注意を惹かれた。サザランドは、実際に彼女の母を五歳半まで育ててくれた女性には会ったことはないし、産婆であったかどうかもわからないと前置きして語った。

 わたしが知っていたのは、母の生涯に重要な役割を担った老婆が存在した、ということだけだった。わたしはそのひとはきっと産婆だったろうと思ったの。産婆であったに違いない。この人物の輪郭は、わたしの母が存命中に口にした言葉にもとづいている。二度の機会に。最初の言葉は、困難なことに出会うたびに、いつもいつもわたしを導いてくれたおばあさんがいたのよ、というものだった。二度目のは、死が迫って、体重も四十キロになってしまった頃、おおきな女のひとがいてくれたら、じっとつかまっていられるようなひとがいてくれたら、というものだった。それらの言葉はわたしの記憶から離れなかった。わたしはわたしの過去の中にいる老婆たちを探し、見つけ出した。そう、彼女なのだ、と思ってね。つまりわたしが知り、愛した年老いた女たちの姿から、寄せ集め、つくったの。
 それにね、わたしは身近な人々はわたしたちに影響を及ぼすと思う、肉体的な親しさには影響力があると信じているの。一緒に睡る人たちは同じ夢を見るのよ。そのようにして知恵は受け継がれる。だからこそ、いのちと関わり、いのちを知る産婆でなければならないと感じた。アベバは幼い頃にきっと、生命力そのものであるような存在に触れたにちがいない。それが産婆だった。そのことによって、アベバの生涯の道がきまった。
 だから産婆は、わたしにとっては中心的な人物であり、きわめて適切な出発点になった。あたたかい声。愛。いまだに口承の伝統を引きついでいる年齢。

 このようにしてハブルシャムかあさんが創造され、アベバの人生の転回点にはいつも現れ、彼女を導く。血縁でないひとりの老婆が、もっとも深い意味での母として登場することはおもしろい。血縁の、つまり生母はアベバの誕生を、存在を呪っているようだ。憎悪すらあって。生母はニューヨークにおける生活の苦しさもアベバのせいだと感じた。アベバは「死やつらさをもたらした。アベバの祖母の死は彼女が生まれる前に起こったことだったが、アンジェラにしてみればそれもアベバのせいだと思えた。痛みはたえまなく、すべての痛みをアベバのせいにした。彼女自身の罪は混沌とした」。また、父の原像として登場するのはアベバの義父のアーサー・ラヴォワジエであり、彼も血縁の父ではない。アベバは最初、彼を「神だと思った」のだ。やがて彼は「ニューヨークのとうさんなのだ。神はとうさんだったのだ」とわかるのだが。いっぽう血縁の父はアベバの母が妊娠したとわかるとカロライナから行方をくらましてしまうような男だった。このようにやさしくいつくしむ存在としての母や父が、アベバの場合は血縁の父母でないことに、わたしは注意を惹かれるのだ。(三年にわたる黒人女性からの聞き書きの準備の中で、わたしが出会った女たちは、例外なく、過去に、成長していく過程に、彼女らを「つくった」女性がいたことを語った。生母である場合も多いが、血縁の母や祖母でない場合も驚くほど多い。)このようなことは、わたしたちの周囲にいくらでもあるに違いない。でもわたしたちは血縁神話に金縛りになっているから、そういうことを日常的に考えてみることはあまりない。
 さらにおもしろいと思ったのは、ハブルシャムかあさんと幼いアベバがしばしば二人の「女」としてこころを伝えあっている場面が現れることである。もっとも適切な例は、町へ出かけ、生地を買って帰ってきた二人が話しているところだが、

 家に戻ると、女の子は産婆さんの顔を見ていった、「疲れたの?」
「疲れたとも、アベバ。おまえのハブルシャムかあさんはすっかり疲れたよ」
「きょうは町にはずいぶんひとが出ていたもの」
「そうだね、おまえ」
 二人は微笑をかわす。家へ帰ってきて、ほっとしている。

 翻訳では「そうだね、おまえ」となってしまっているので明瞭ではないが、原文では、Hush your mouth. となっている。直訳すれば、おだまり、だが、そういう意味はない。サザランドが説明してくれたのだが、これはここでは「ほんとにおまえのいう通りだ」という意味を強調していういいかたであると同時に、成人した女から子どもにかけられる言葉であるよりむしろ、ひとりの女からもうひとりの女への言葉である。二人の女たちだけに、その真の意味合いが了解されているような。ハブルシャムかあさんとアベバはピーナッツの殻をむきながらレモネードを呑むのだが、作者は「そして二人の女たちは腰を下ろしてレモネードを呑みながらピーナッツの殻を取る」と書いた。二人の女たち、となっているのだ。
 この作品を何度か読み直すたびに、わたしはアベバがハブルシャムかあさんを必要としていたのと同じ程度に、ハブルシャムかあさんがアベバを必要としていたことをより強く感じるようになった。アベバはハブルシャムかあさんの皺くちゃではあるがやわらかなからだにつかまって、すがりついて、睡る。そうすることによって、睡りの世界は晩い夏の深緑のそれとなり、ブラックバードのかあかあという鳴き声が聞こえ、爪先には熱い陽があたっているような場所になる。あるいは、ニューヨークの母がやってきて、吃るのはやめろ、ちゃんと挨拶しろといったとき、アベバは熱と愛にその瞳を輝かせて、年老いた痩せたからだを見る、すると老婆は彼女を抱き上げてくれ、話題を変えてくれる。このように、アベバはハブルシャムかあさんを切実に必要としていた。それと同時にハブルシャムかあさんにとってもアベバは切実に必要な存在だった。町へ買物に出て、そこで出会ったミルドレッドねえさんは「ハブルシャムかあさんを置いていってしまうのは、どうしたわけか」とアベバにたずねる。アベバはつらそうにするばかりで答えない。代わってハブルシャムかあさんが、「アベバと一緒に食事をすれば、いつだっておいしい。この子に行ってほしくないことは神さまも承知のこと。アベバがいなかったら、どうしよう。でももうそういうことはすべて諦めなくちゃ」と答えている。馬の毛を詰めたマットレス一枚きりの、ランプ一台きりの古ぼけた掘立て小屋の中で、湯気を立てて鍋に熱い湯が沸いて、ピーナッツのにおいが立ちこめると、小さな家は喜びではちきれそうになった、と作者は書いた。アベバがようやく落ち着きをとりもどし静かに睡ると、ハブルシャムかあさんは、カロライナの砂を黄金に変えたこの幼女が遠くへ行ってしまうことを考える、手放さずにすんだら、と考える。
 だから、ニューヨークのひとりきりのベッドに寝ていたアベバが、浅く断続的に睡り、とうとう午前三時には「ハブルシャムかあさん」と叫んで、自分の叫び声で目を覚ますが、そのすぐあとに、「ハブルシャムかあさんは死んでしまった」と述べられているのも不思議ではない。ハブルシャムかあさんはアベバを失って、おそらくそのことのために死んでしまったのだろう。老齢で、自然にいのちが尽きて、ふっと消えるように死んだのかもしれないが、それまでこの老婆のいのちを繋いでいたのはアベバではなかったか。その土地の人々は「二人をいつも一緒に考えていた」のだから。頭をくっつけて睡った二人は同じ夢を見ていたし、産婆さんの知恵はアベバにそのようにして伝えられもしたが、同時に、アベバはその年齢の幼さにもかかわらず、たましいのたぐいまれな成熟をすでに顕していた少女ではなかったか。わたしはアトランタの星占い師たちが、ほんの一歳にもならないある赤児の誕生にまつわる星座表を見るなり、「ああこの子は、なんと成熟したたましいを持っていることか!」と驚嘆した場に居合わせたことがあるのだが、アベバもそのような少女ではなかったか。星占いを信じるか信じないかは別のこととして、わたしたちは実際に小さな子どもたちの中に、おどろくようなたましいの成熟を感じることがある。子どもは誰も、その小さな肉体に入りきれないような大きなたましいを持っているが、その彼ら彼女らの中にも、とりわけ成熟したたましいを持った子どもたちがいる。たましいだけはすでに何百年も存在してきたのではないかと思わせるような。ただそういう子の傍にいられるだけで、わたしたちは誰かにあつく感謝したくなるものだが、アベバはそのような少女だったに違いない。
 アベバがハブルシャムかあさんの名を呼んだ午前三時に、ハブルシャムかあさんは息絶えたのだろう。
 はじめ、わたしはハブルシャムかあさんを、母親の原像として描かれた人物として考えた。そのとき頭にあったのは、いのちそのものと深く触れ合っている者、そしていのちをいつくしむ者としての原像だった。それは間違いではないのだが、そして、そのような存在との出会いがアベバをつくるのだし、おそらく十五人の子どもたちを生んだ彼女の生命力もそこからやってきたのだが、いっぽうハブルシャムかあさんにとってのアベバもまた、いのちをささえる力であった。
 ささえあういのちたち。
 サザランドは二度繰り返して、アベバには母親がふたりいた、と書いている。ひとりは、アベバと食事をすればいつだっておいしい、という母であり、もうひとりは、すべての痛みの原因はアベバだといい、その目に暗い火を光らせて打擲する母である。ひとりは幼女を時に女として扱う母であり、もうひとりはこの家の女はわたしひとりだといい、ことあるごとに、あたしがおまえを生んだのよ、と憤りと恨みの声で叫ぶ母である。
 わたしはふと思うのである。もしかしたら誰にも二人の母親がいるのかもしれないと。ひとりの母親の中に、ハブルシャムかあさんとアンジェラがいるのかもしれないと。作者はアンジェラを獅子にたとえているが、その彼女の描写も「悪い母」というような単純なものではない。アベバは彼女を怖れながらも、感心して見とれているようなところがある。アベバを迎えにやってきたアンジェラの「力強く、とても低い声」、そして「彼女の言葉からは精力がほとばしり出た。力がきらめく。デケイター通りの洗濯屋で、アイロンをかける仕事を日に十時間もするこの女にアベバは畏敬の気持をおぼえた」のである。アンジェラがやさしくない、というわけでもない。カロライナからニューヨークへの長いバスの旅に、アベバは恐怖のうちにまどろみ、はっと目を覚ますのだが、その彼女をアンジェラは膝にのせやさしく脚をさすってやるし、義父の死後引越していったストーン通りのうらぶれたアパートの共同便所の灰色の窓に、殺されて逆さに吊るされていた鶏の影におびえて泣き叫ぶアベバを、アンジェラはしっかり抱いてやる。無理してピアノを買ってやるのも、高等学校の卒業式にピンクの薔薇のコルサージュを贈るのもアンジェラである。初潮をみたアベバに「きょうは湖はだめ」というアンジェラの声はやさしかった、「おまえはいま女になったのだよ」と。たしかにそのアンジェラの目は時として奇妙に見開かれ、憤りの炎がちらちらと燃える。作者はそれを「混乱した憤り」と一言さりげなく書いているが、ひとりの母親の中にせめぎ合っている愛と憤りはつくりもののようには感じられない。かつてのアンジェラは十代になっても、二十歳をこえても、いつも母親のそばにくっついているような娘で、母親が卒中で倒れ、死んだことに衝撃を受け、その母親が死んで二カ月にもならない頃、ハブルシャムかあさんに、「あんたは子ができたね」といわれ、肩をふるわせ、泣いたのだった。おそらく彼女は母親を必要とする娘であるまま母になったのだ。なんの予告も警告もなく、突如襲うようにして訪れた懐胎だったのだろう。赤ん坊をハブルシャムかあさんに頼んでニューヨークへ出たアンジェラは、靴が破れても新しい靴を買わず、カロライナへ食費を仕送りした。アベバは死やつらさをもたらす存在、すべての痛みの原因だと思うことで、怒りの火を燃やすことができた。
 アンジェラには生殖への呪わしい気持を超えることは、最後までできなかったようだ。こころの中の葛藤をやわらげ、自らと自らの生を完全に和解させることもできなかった。
 わたしはこれもまたひとつの母の原像であるのだと思う。根底にはいつくしみ育む力も愛もあるが、獅子の黄金のたて髪のごとく、炎の色をした声をあげ、炎の燃える瞳で見つめられて、子らは戦く。獅子が藁を食むようになってくれまいか、と願う。獅子が滅びてしまうことがよいのではない、獅子も生きるがよい。みな、ささえあういのちなのだから。

  2 生きのびるふるさと

 アベバとは、アフリカの花という意味のエチオペア語だとサザランドは語った。十五人の子どもを生んだ女、そして苦しみの中にも温かさとやさしさを失うことのなかった女には相応しい名である。『ニューヨーク・タイムズ』の書評で『獅子よ藁を食め』を紹介したジョン・レナードは、作者にはアベバのような母がいたのではないかと書いていたが、サザランドはその推察は当たっているといった。

 わたしはブルックリンで育って、そこに八年住んで、そのあとクイーンズ区に移った。それ以来ずっとクイーンズに住んできた。
 わたしの家族のことは、この小説にとって根本的な要素になっている。あと四つぐらいは、家族のことを拠りどころにして書くと思う。一貫性は大切だと思うのね。べつべつに離して書かれることがらも、一つの一貫性、連続性で繋がっている。
 わたしの父がバプティスト教会の牧師であったことは、わたしが聖書に対して深い興味を抱くようになったことに重要な役割を果たしたことは確かだと思う。エジプト学の書物などを読むことによって、その興味はさらに広がっていったのだけれど。聖書の『箴言』や『雅歌』はエジプトのアメンホテプ王の著作と関係があること、聖書の内容の多くがエジプト語の著作から、逐語的に直接に取られたものであることがわかった。それと知らず、わたしたちはエジプトにその起源を持つ書物を愛し、親しんでいたわけなのね。わたしは宗教というものに対しては敬意を抱くけれど、西欧の宗教に敬意を抱く気は毛頭ないの。キリスト教を歪曲しているから。ある人種の全体を野蛮人だと非難し呪った創造主がいたのだと、西欧のキリスト教はわたしに感じさせる。そのようなことを信じる気はない。とりわけ、わたしたちこそがキリスト教のそもそもの起源をつくったのだから。
 わたしは十五人きょうだいの長女で……兄弟九人、妹たち五人……母は一九六五年に死んだのだけれど。わたしは母の友だちで、それもいわば腹心の友だった。わたしは一九四三年生まれで、一番末の弟はわたしより二十歳も年下だから、母が死んで、わたしは母代わりをしなければならなかったのね。普通なら母親に求めるものを弟や妹たちはわたしに求めてきたから、わたしとしては彼らにどういうことをいうか、細心の注意を払わなければならないわけね。末の弟は母の声も憶えていないから。でも録音テープはあるの。日曜日の「家族集会」のテープがね。四週間ごとに「詩人の日」となっていて、わたしが一家の詩人だったわけだけれど。
 きょうだいはそれぞれ楽器の演奏ができてね。十五人が十五種類の楽器の演奏をしていた。そして母はピアノを弾き、父はうたって。わたしはトランペットを吹いていた。いまは二十一弦のコラという名のアフリカの楽器を弾けるようになりたいのだけれど。
 わたしが書くようになったのは、弟たちや妹たちのようにうまく絵を描くこともできないし、彼らのように圧倒的な力をもってうたうこともできなかったからだと思う。

 わたしはね、長いこと女たちがある意味では二次的な存在にされ、男たちを真心から支えるために生きるよう仕向けられてきた文化の背景を持つ読者なら、『獅子よ』のひとつの意図をわかってくれると思う。男たちは戦争に行き、死に、讃めたたえられたけれど、女たちは家で待ち、大変な荷を担って生きて、しかも苦労のせいで冷酷になることもなく、降参することもなく、すっかり諦め、人生を投げ出してしまうこともなく生き続けることを学んだ……。
 小説の人物たちはもちろんいろいろなものを集めてつくられている。自分の中にある人物の肖像はもっとも重要だけれど、それにすっかり満足できないこともある。電話でかわす会話、道を歩いていて見聞きすること、そういうのも大切だと思う。一九七二年までわたしはソーシャルワーカーとして働いていたけれど、その経験も助けになっている。ニューヨークのケースワーカーがどのような経験をするか……ゲットーの家々を訪ね歩いて……母子家庭の母親たちと話をして……わたしはマンハッタンとブルックリンを受け持っていたけれど……ひどいことをたくさん見た。けれども、同時にわたしの目に映ったのは、似た境遇にある者たちがそれぞれずいぶん異なったしかたで生きのびるのだな、ということだった。このことは知っていていいことだと思うの。
 究極的には、自分の強さを力の源泉にして書くのね。そして、それでよいのだということを理解することだと思う。『獅子よ』を書いていて、あるとき、わたしがこの物語を書いているのだ、という気持はどこかへ姿を消してしまって、そのあとは、物語に登場する集団《コミュニティ》そのものを眺めることがたのしくなった。

 あなたはこの物語の題についてたずねた。わたしはね、希望を表す題がほしかった、ひどく困難な生ではあったが、またすばらしくもあった生のために。わたしたちの人生のさまざまなダイナミックな力が、わたしたちを押し倒し滅ぼすことのないようにと願う気持で。
 わたしのきょうだいの何人かは精神病で苦しんでいる。原因は母が早く亡くなったこと、父の短気な性格、危険なまでに高い知能指数、そして社会が若者に押しつけてくる二重の規準。金のこと……。とても複雑なのだと思う。『獅子よ』を書いてみてわかったことは、十九歳で結婚し、夫が精神病であることを発見するひとりの女は、夫の精神病そのものに巻き込まれてしまうのだということ、そしてその人物は精神を病む人物が中心になるような、テレビのドラマの題材とはならないけれど、その苦しみには限りがない、ということだったの。

 アフリカの花は十五人の子どもを生んだ。夕暮れの一二五丁目、つまり夕暮れのハーレムのど真ん中へ、母親に連れられて行って会った占い師シスター・メアリーの言葉通りになったのだ。メアリーは、アベバは子どもを生むだろう、十二人以上、二十人以下、といったのだった。
 ハーレムの一二五丁目の占い師の家は、アフリカが、あるいはアフリカに似たものが、そこにあるようなものでもあった。蝋燭を燃やし、閉ざされた部屋で、アベバの腹と骨盤をまさぐり、こすり、乳房に触れては、唄を口ずさみ、唸るようにぶつぶついう占い師の女は、ブードゥーのまじない師であったろう。マンハッタン島の上に息づいている西インド諸島やアフリカの記憶。ジュリアード音楽院に娘を入学させてコンサート・ピアニストにするのだといい、あたしらの連中ときたら、赤ん坊を生むことしか能がないのだから、というアンジェラが、「わたしの娘は色気違いになりました。子どもが何人生まれるのか教えてください」と、ブルックリンからハーレムへマンハッタン島を縦断して相談しにでかけるのだ。コンクリート・ジャングルと呼ばれる町の中の、アフリカ。死んでいくアベバの義父がアベバとアンジェラの名を呼び、水の入ったコップの上に手を置きなさいという。そして三本の手がコップを父の口に運び、父はコップがすっかりからになるまで水を呑んだが、これもアフリカの、死の床の儀式と関連があるだろう。それに、白人の女を強姦して殺したという嫌疑をかけられたカルヴィンが裁判で無罪になるための祈願に、三週間断食したきょうだいの話。痩せた、断食のからだから出る声は透きとおるようだった、とあるが、自由の身となって帰ってきたカルヴィンを迎える台所のコーラスも、真空から生まれたものではない。さらに、不思議なのは、アベバの息子が九人ということ。サザランドの母も実際に九人の息子を生んだわけだったが、アフリカでは、「九人の息子が生まれますように」というのは、花嫁への賛辞であり祝辞であるとサザランドは説明した。「テレビのインタビューなどでは、聞き手は、罠にかけてやろう、と待っているのね。アベバは、十五人もの子どもを生むような重荷を負わせることを、なぜ夫に許したのか、とたずねたりする。アフリカ人の生に対する思想は、西欧人のそれとはおそろしく異質なものだということを理解できない。物語の人物たちはアフリカ的な発想に育まれた者たちであることがわからない」
 アベバの子どもたちの名についても、サザランドは説明してくれた。アスキアはティムブクツという都市を建てた人物(一五三八年没)の名。回教徒の名である。コラは西アフリカの二十一弦の楽器。ザリアはナイジェリアの町。クワメはアカン族に起源を持つガーナ語の名。金曜日に生まれた男児に与えられるという。アジサとジャレドは聖書にある名。アサも聖書にある名だが、ここでは、「寝台車赤帽組合」を組織した学者のアサ・フィリップ・ランドルフにちなんでいる。組合はポーターの労働条件を人間的なものに変えるために組織された。オセイはナイジェリアのヨルバ族の伝説の人物である。
 さらに、アベバが初潮をみた夏の日、キャンプの少女たちの高く響く声を聞いている彼女は、「柔らかな地球の全体が震え、血を流しているよう」だと感じたと記されている。これはトニ・モリスンが、女と大地について語った言葉と呼応している。かつて奴隷であった者たちからの聞き書には、男たちが空を飛んでアフリカへ帰ってしまったという話が多く見られ、そのような話を聞いたことがない、と答える者たちはいなかったのだが、では女が空を飛んだ話はないのだろうかとわたしはモリスンにたずねた。

 いつも男なのね。でも、女にとっての大地は縛り、閉ざすものではないのよ。それは冒険なの。挑戦なの。巣を作りこもるという意味においてではなく、それは領分という意味で。地は世界の中心。アフリカの宗教では、地は闇で、子宮。キリスト教の伝統では、地は、そして胎内は地獄だけれど。最低の場所よね。アフリカでは、大地は女たちの領分であって牢獄ではない。……(中略)……わたしは女を飛ばすことはできなかった。女はすでに屈服と支配について知っていたのだから、大地はそれを教えてくれるのだから。

 自らの肉体が開き、音もなく血を流すことと、柔らかな地球の全体が震え、血を流しているようだという一体感でとらえることのできる「アフリカの花」。そのような感性は、直感力はどこからやってきたのか。空を見上げては、新しいいのちの到来を告げることのできたハブルシャムかあさんからか。かあさんも、アベバも、ちゃんとした分別のなかったジャクソンも、雄鶏も、永遠に生きるだろうと思われたカロライナのいなかの暮らし、茹でたピーナッツを夕食にした、喜びにみちた暮らしから? ブラックバードのかあかあという鳴き声や、爪先にあたる熱い陽や、さつまいもとオクラの畑や、ピカーンの木のあった暮らしから? そして、おそらく、頭をつけて睡っている間に、ハブルシャムかあさんの夢をアベバも見ていたことから?
 カロライナはただ都会に対しての「いなか」ではない。奇妙ないいかたに聞こえるだろうが、カロライナはニューヨークよりアフリカに近い。詩人のジェイン・コルテズの話を聞いたとき、彼女は「アフリカへ旅する前に、南部を訪れてみるといい。なぜなら南部はアフリカみたいだから。わたしが南部で見た荷物を包む方法、頭に巻く布、料理、歩きかたなどに、アフリカへ行ってみて、また出会った。人々の顔の表情も似ているし、色彩の組み合わせに対する感覚も共通している」と語った。わたしはいまでもそうなのか、やはりそうなのか、とこころを動かされた。わたし自身の南部への旅の理由には、そのようなこともあった。茹でたピーナッツはミシシッピーで食べた。ジョギングのいでたちをして、運動靴を穿いた若い娼婦たちが、膚に火ぶくれをつくるかと思うように熱い、昼下がりのゲットーの四つ辻に立っているのを見かけた午後に。彼女らは薬草を売る店、「イエスこそわが救い」という看板を掛けた店の前に立っていた。ジャクソン市のその四つ辻から四軒目の小さなレストランは「ビッグ・ジョーンズ」とも「レッド・アップル・イン」とも呼ばれているが、一九六〇年代の公民権運動の最盛期には、各地から応援に集まってきた活動家たちがここを溜り場にしていたということだった。その彼らはとっくにいなくなって、いまは少年たちがジュークボックスの周りに集まってソーダ水を呑んでいたり、勤め人が昼食をしにやってきて、静かに食べていたりする。この店の特別料理は燻製ソーセージのサンドイッチと、豚の耳のサンドイッチである。真っ赤な唐辛子ソースにつかった肉。温かいサンドイッチ。芥子や真っ赤なソースやみじん切りのピクルスをのせて。豚の耳は、耳の形のまま、真っ赤なソースに浸されている。小さなパンにはさんで口へ運ぶ途中には、ぷるぷる震えたりする。赤く染まった耳が。ゲットーではね、人々は重なり合うようにして寝るような状態よ、といった若い女性の活動家の言葉を思い出す。茹でたピーナッツを食べたのは、その日の午後だった。二人の子どもを持ち、重症のアルコール中毒の夫と別れたばかりのヴァージアという友人の家で。「だからね、あたしは、甦ろうとする黒人の女よ」と彼女はいった。
 ミシシッピーでは、八百二十六人の赤児を取り上げた産婆さんにも会った。小さな村で。彼女は郡道に面したつましい家に住んでいたが、ポーチに腰かけて、街道を往き来する車や人々を眺めている。彼女が、この世に生まれ出ることを手伝ってやった、かつての赤児たちが手を振り、声を掛けて往きかう。わたしは母親を死なせたことは一度もなかった、流産した母親たちのところにはしばらく泊まってやったものだった、いまはもう仕事はやめたけれど、仕事は好きだった、九人きょうだいの末っ子でね、母方の祖母が産婆さんだった、わたしはその祖母のあとを継いだわけね、大切な仕事だったと思う、いのちのはじまりを手伝う仕事は……あたしはね、いまでもまだ産婆の鞄、そのままとってありますよ、と産婆さんは話した。たずねたいことがあるのなら、どんどん訊きなさい、と。ポーチの揺り椅子から街道を眺めている、色褪せたワンピース姿の老婆は不思議な彫像のようでもあったし、また作家トニ・ケイド・バンバーラの言葉を思い出させる人物でもあった。

 わたしたちは一群の異質な回路のより近くにいるのだと思う。それを精神異常とか狂気とか呼ぶ人もいるのだけれど……。都会的に洗練されきった連中が心理的にも知的にも混乱してしまうと、南部のふるさとへ帰ってみたりするのね。いなかへ。それはどういうことかといえば、先祖たちに触れてもらうとか、店舗を借りてやっている教会へ行って説教をきくとか、おばあちゃんに会いに行くとか、そういうことでしょ。おばあちゃんはその手をそっと頭においてくれる。癒やしてくれる。
「何かあったね。この間まではひどい様子をしていたけど、ずいぶん元気になったもの」そうたずねると、そういう連中は「うん、まあな。南部へ行って、ちりめんキャベツととうもろこしパンを食って、年寄りたちと話しただけさ」なんて答えるだけだけれど。

 おばあちゃんはその手をそっと頭においてくれる。癒やしてくれる。ハブルシャムかあさん! いなかは単に都会の反対の場所ではない。萎えたたましいを癒やすのは、コンクリートの反対である自然ではない。それ以上の何かである。アベバの場合にも、バンバーラのいう、洗練された都会の黒人の場合にも、「いなか」はたましいを蘇生させる力を持つ、彼らのふるさと、アフリカに近いふるさとなのである。「先祖たちに触れてもらう」とは、そういうことだ。貧困のどん底にあるような黒人たちが求めるものが、しばしば物質による救済ではなく、名づけることの難しい別の何かであることをバンバーラは指摘したが、トニ・モリスンの最新作『ターベイビー』の恋人たちの葛藤の本質もそこにあるのだという印象を与える。
 パリで大学教育を受け、モデルをやり、女優にもなり、大学の教師にもなれるように都会的な洗練を身につけた若い黒人の女性が、十三歳の少年と姦通していた妻のいた家に火をつけて殺してしまった男にカリブ海の小さな島で会い、激しい恋に陥るのだが、彼女には、この男がニューヨークの共同生活においても、どうしても、きちんとしてくれないことが、ちゃんとした教育だの技能だのを身につけて、まともになろうとしないことが理解できない。男がたえず、フロリダ州のエローという小さな小さな村のような町のことを話し、そこへ帰って住むのだということがわからない。不承不承訪ねて行ってみれば、エローはみじめったらしいところで、飛行場もないし、人々はぼんやりとしているばかりか、差し出がましく、口うるさいし、ひどい暑さにエアコンもない、旧習にとらわれたまま暮らしている、耐えられない、と女は思う。女はやがて姿を消してしまうのだが、彼女を捜しにふたたび島へ向かう男は、波高い海を盲目の女の操る小舟で渡り、目指す島の裏側から上陸せよ、と女に命令される。盲目の水先案内女は――

「急ぎなさい」と彼女はせかした、「連中が待っているからね」
「待ってる? 誰が待ってるんだ?」突然彼は不安に襲われた。
「男たちさ。男たちが待っているんだよ」彼女はいまや櫂を引き、船を出そうとしていた。「さあ、選ぶことができるんだよ。彼女から自由になれるよ。連中は山の中であんたを待っている。裸の連中、目も見えない連中。あたしは見たことがあるんだよ。目には全然色がなかった。けれども天使たちのように馬を駆り、疾走する……」

 男は岩の上を這って岸へたどりつく。霧が晴れ、雨林の樹木が姿を現す。男は駆けた。脇目もふらず駆けた。このようにして、男は都会の女との恋をではなく、その反対の方向にある何かを選んだのだった。そのような選択をした男は、ニューヨークを魅力的な都会だとは思わなかった。「ニューヨークの黒人の若い女たちは泣いていた。男たちは……そういう女たちを見まいとして、脇目もふらず歩いていた。きついジーンズにその身を引き裂かれて、おそろしく高いハイヒールを穿いて金切り声を上げつつ、三つ編みの髪が引きつるのをじっと耐えている女たち。……そう、彼女らはプラム色の口紅を厚く塗り、眉を細い灰色の線にしていたが、それも彼女らが泣くのを止めることはできなかった……(男は)子どもらの姿を探したが、見つからなかった。背の低い人々、十二歳以下の人々というのはいたが、彼らには子どもの傷つきやすさも、あけっぴろげの笑い声もなかった……やがて、地下鉄の下りA電車に乗って初めて、彼らが彼ら自身の子ども時代をどこへ持って行ったのかがわかったのだ。彼らはそれを黒い布に包んで、地下へ持ち込み、地下鉄電車の上にぶちまけた。燃え上がる宝石のように、電車は明らかにそれとわかる子どもの創造に輝いてトンネルからホームへ踊り出る。すべて地下へ潜ったのだ」これが男にとってのニューヨークだった。ハブルシャムかあさんとジャクソンと雄鶏と別れてカロライナをあとにしてきたアベバの出会ったニューヨークが、腐りかけた特売のくだものの汁で濡れて褐色になった袋を下げた女たちや、汚れてやせた脚をして、仕立ての悪いスカートをはいた女の子たちや、ひからびて、熱気で悪臭をたてる冷蔵庫しかないアパートであったように。南部からバスの後座席に坐ってやってきた人々の生き残りが、歩道に椅子を持ち出して腰かけていたニューヨークであったように。
 けれども、断ち切られ、打ち砕かれるかに見えるふるさと、単なる「いなか」の自然以上のものであるふるさと、遙か三百年の年月と、苛酷な大西洋航路の連行の旅を超えて連なるふるさとは、生き続けるようなのだ。傷跡を残しながらも、生きのびるようなのだ。
 アフリカの花の生涯には、そのような時空が凝縮されていた。作者はそのような母への鎮魂歌を書き記した。わたしたちの死んだ母たちに、わたしたちがうたう歌は何か?


『獅子よ藁を食め』 朝日新聞社 1981年11月30日発行




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