『カラワン楽団の冒険 生きるための歌』 ウィラサク・スントンシー 荘司和子訳

目次    


カラワン 序詞


日本のみなさんへ
 スラチャイ・ジャンティマトン

第一部 回想のカラワン
  ウィラサク・スントンシー


 
1 カラワンの誕生

 2 クーデター

 3 「森」の生活

 4 ラオスから中国へ


第二部

 5 モンコン・ウトックの話

 6 楽団はよみがえる
    八巻美恵

 7 カラワン歌集


訳者あとがき

 1 カラワンの誕生

     生きるための歌

 ぼくがはじめて「人と水牛」という歌をきいて新鮮な衝撃をうけたのは、バンコク市内のホテルで開かれたある友人の結婚披露宴においてだった。当時「カラワン」の名はまだ、小説家スワット・シーチュアと彼の友人グループが出版した本のタイトルであるにすぎなかった。披露宴会場の小さな舞台の中央で、スラチャイが椅子に坐ってギターを弾き、その両脇でウィサー・カンタップ〔短篇作家〕とソムキット・シンソン〔農民詩人、「人と水牛」作者〕が立ったままうたっている。

  人と人が田を耕す
  人と水牛が田を耕す
  人と水牛のいとなみは
  深く長い
  長い長いあいだいそしんできた
  平和な労働
  さあ行こう
  鋤かついで田にでよう
  無知と貧困に耐えぬいて
  涙さえかわいた
  恨みと憤りの胸のうち
  どれほどの苦しみにも動じない
  死の歌がひびく
  ひとの尊厳は失われた
  ブルジョアは労働を喰いものにし
  農民を、低い階級
  田舎者だと、蔑んだ
  死のみがさだかなこと

 この歌は、披露宴に集まっていた招待客のはなやいだ雰囲気に挑戦するかのように響いた。一九七三年十月十四日の学生革命のあと、ひっそりと暮らしていたグラドゥン山から戻ったばかりのぼくや、病院を退院したばかりの詩人ウィナイ・ウッグリットにとっても同様だった。
 スラチャイが話してくれたところによれば、ぼくとウィナイがいない間、彼はソムキットと組んで歌をうたっていたらしい。スラチャイがギターで、ソムキットはバイオリンを弾いた。静かな夜には、バンコクの民主主義記念塔の下でうたったり、二人で夜遅く通りを流して歩いたりしていたのだという。このころのスラチャイは、雀の巣のようなモジャモジャの長髪に、花柄や赤いズボンなどをはき、一方のソムキットは大衆演劇《リケー》の役者が着ているような派手なチョッキを着ていた。
 スラチャイは、「ライク・ア・ローリング・ストーン」とか「戦争の親玉」のようなボブ・ディランの曲を好んでうたい、フォーク・ソングになじみのなかったソムキットは、それに適当にバイオリンを合わせていった。「人と水牛」という歌もこんな風にして、この二人から生まれたのだ。
 それ以前にもいっしょに反戦歌をうたったりしたことはあったが、ぼくが本格的に彼らの仲間に加わったのは、ジット・プミサクの詩「コメのうた」に彼らが曲をつけてからのことである。はじめてぼくらが舞台に立ったのは、ブリティシュ・カウンシルでひらかれた現代演劇フェスティヴァルで、芝居の伴奏をつとめたときだった。
 一九七三年秋の学生革命につづくサンヤー・タマサク政権の時代は、民主主義という名のカーテンがふたたびあがり、どの大学でも展示会や政治討論集会がつぎつぎに開かれていた。タイ全国学生センター(NSCT)をはじめとする民主化グループは全国的に民主主義の宣伝を開始し、進歩的な出版物が「待ってました」とばかりにいっせいに売り出され、それがまた、飛ぶように売れていった。
 文学界では「芸術のための芸術」と「生きるための芸術」論争が白熱化していた。「十・一四」学生革命以前には、「生きるための芸術」といった表現は、大学前に並んだ屋台の本屋で一冊一バーツ〔このころの一バーツは約十五円〕で売っているような本や、進歩派の学生たちが作っている雑誌やパンフレット類のなかでひそかにつかわれていたにすぎない。だがスラチャイとぼくが「人と水牛」「コメのうた」をもって登場すると、「生きるための歌」ということばは、この種の歌と楽団をひとまとめにして呼ぶ名称になった(「生きるための歌」という表現は、これ以前にも雑誌に登場したことがある。またその種の歌としては、タマサート大学の学生だったセクサン・プラスートグンが、すでにデモ行進のためのマーチとして「一歩もひくな」を作っている)。
 ぼくらがはじめて正式の演奏をおこなったのはタマサート大学の講堂で、たしか「生きるための歌の祭典」という催しにおいてだったと思う。おもに大学のフォーク・バンドが集まってきた。ぼくらは「トー・セーンとサンジョーン」というバンド名で出演した。トー・セーンというのはスラチャイの、サンジョーンはぼくのペンネームだった。曲目は「人と水牛」「コメのうた」とクメールの民謡を一曲。のちにスラチャイは、この曲を編曲して「雨をまつ稲」のメロディーに使っている。この日、タイの歌をうたったのはぼくらだけだった。照明がたびたび消えそうになるので、ロウソクをつけることにした。なにしろはじめてのステージだったので、ぼくらはすっかりあがってしまい、スラチャイなどはギターの弦を切ってしまったほどである。
 それからまもなくしてぼくらは、チュラロンコン大学の一九七四年度新入生歓迎会にまねかれた。まだ自分たちのオリジナル曲がいくらもなかったころなので、ボブ・ディランの「天国への扉」もうたった。
 ウィナイが南タイから戻って来て新曲がひとつふえた。彼が学生革命に心を動かされて書いた詩「黄色い鳥」である。

  …………
  君はおぼえているかい
  十月十四日、十五日のできごとを
  君はおぼえているかい
  血と涙と、人びとの悪夢のあとを
  若者たちは、銃弾と催涙ガスのなかで死んだ
  武器をもたないその手で、自由をもとめ
  さあ沈黙しているのはやめよう
  彼らの死に思いをはせよう
  闘うぼくらのこころのはげましとなるように
  …………

 スラチャイもまた次の曲「黄色の光」をつくっていた。これはラームカムヘン大学の悪名高き元学部長サク・パースクニラン追放要求デモのさい、彼がつくっておいた曲をもとにしている。この二曲はラームカムヘン大学で最初にうたった。
 バンコクをはなれて、ぼくらが演奏をしに行った最初の地方は、東北《イサーン》のヤソートン県グットチュム郡である。ウィナイもいっしょに、ウィサー・カンタップをはじめとする民主主義宣伝隊の学生たちに同行したのだ。砂利トラックに揺られて一晩中雨にうたれ、翌日、グットチュム郡の郡役場前広場でひらかれた政治討論会の合間に演奏した。夜は寺院のモーラム〔東北地方の歌謡〕の舞台でうたった。県庁前広場では、乗合トラック〔小型トラックの荷台をバスに改造したミニバス〕の屋根の上が、ぼくらのハイドパーク集会〔ティーチ・イン〕の舞台になった。
 この集会から帰る途中、スラチャイ、ぼく、ウィナイ、それに何人かの女子学生とで、スリン県ラッタナブリ郡にあるスラチャイの実家に寄っていこうということになった。四県にまたがる見わたすかぎりの大草原グラーを通ったとき、スラチャイは、この草原にまつわる伝承を聞かせてくれた。そしてバンコクに戻ってまもなく、彼の作詞作曲になる「グラー」が、タマサート大学の講堂に鳴り響いたのだ。

  グラー……グラー……
  空の色かわき
  地の色はつかれ
  旱ばつたけり
  ひあがった大地
  グラーはちからつきて
  ちからつきて 困憊
  …………

 この時は、タマサート大学学生会がぼくらの歌をテープに録音した。その後、展示会や討論会のあるたびにそれを流して、大学の前を通る市民たちに参加を呼びかけたものだ。
 はじめのうち、ぼくらのバンドは政治討論会の余興的存在にすぎなかった。当時の政治討論会は大変議論がふっとうしたもので、ぼくらはたいていそれが終ってから演奏した。
 チェンマイ大学にまねかれたとき、極右派の学生がポスターを破って火をつけるという騒ぎが起きた。だがこの日の司会者で、チェンマイ大学演劇部の優秀なメンバーでもあったソンポンが、その場を見事におさめてくれた。翌日、このグループはさらに大きくなって過激な行動にでる様子を見せたが、こんどはソンポンの先輩にあたるニシットが、彼らを一人でとりおさえてしまった。
「トー・センとサンジョーン」の歌は、演奏のたびにテープにとられ、それがバンコクのみならず各地方に送られていった。このころ、コーラートの東北技術専門学校のバングラデシュ・グループと名のる学生たちが、ぼくらの歌を編曲して、農村をまわったり、政治集会でうたったりしていた。このグループの指導的メンバーにモンコン・ウトックとトングラーン・タナーがいて、以前からぼくらとはよく気の合う友人同士だった。
 ある日、タマサート大学の演奏会に彼らをさそおうということになった。この日バングラデシュ・グループがうたったのは「グラー」だった。モンコンは東北地方の伝統的な弦楽器ピンを弾き、スラチャイはそれを「凧に張った糸を弾く音のようだ」と評した。彼らの持ってきた楽器は、ギターとハーモニカとクルイ・ピウ〔短い笛〕がひとつずつあるだけで、あとは客席の前のほうにいた学生から借りて演奏したのだ。ぼくらはこの日、新曲「やめてくれ」をうたった。スラチャイが東北地方のナーサイ村焼き打ち事件に衝撃を受けてつくった歌である。
 このコンサートのあと、モンコンとトングラーンにいっしょにやらないかという相談をもちかけ、その結果、ぼくらのメンバーは四人になった。この四人はただちにコーラートの東北技術専門学校に向かい、たった一日練習しただけで、そこの講堂で「カラワン楽団」として旗上げしたのである。カラワンとはキャラバン、終りのない旅を意味していた。
 楽団はできたけれど、ぼくらには自分の楽器というものがほとんどなかった。バンコク・ポスト紙の記者をしている友人から借りてきたスラチャイのギター、ある農民がモンコンにくれたピン、やはり借りもののハーモニカ、トングラーンが学生から借りたクルイ・ピウ、そしてぼくの二つのギターも借りものだった。
 カラワンを結成してまもなく、コンケンのテレビ・ディレクターと知りあった。彼はぼくらの歌を聴き、これはいけるということになって、彼の番組への出演を決めてくれた。
 カラワンとしての最初の演奏をもう一カ所、やはり東北地方のブリラム県でひらかれた音楽祭でおこなった。ぼくらの他に、ストリング・コンボのバンドが三つ出演した。三つのうちの二つは、当時、この地方でかなり名のとおつていた「ザ・フォーカス」と「ザ・ファンタスティック」というバンドだった。
 カンカン照りのまっただなかで、演奏を聴きに来た若者たちは、広場をとりまく木蔭に三々五々かたまってすわっていた。プログラムがすすみ三番目になった。ぼくらの出番だ。司会者が「ザ・キャラバン!」と英語でアナウンスする。ぼくらが古ぼけたギターをかかえ、ほころびかけたシャツとズボンで登場すると、広場のあちこちから、「こいつら、これでよくも腕を競う気になったもんだ」といわんばかりに、クスクスと笑い声がおこつた。ぼくらのいでたちは普通のバンドマンたちとはまるで違っていたのだ。一曲めの「黄色い鳥」をうたいはじめた。と、広場の端にかたまっていた聴衆が、だんだん舞台の方に集まってくるではないか。次に「人と水牛」をうたいはじめると、聴衆は舞台の上にまであがってきて坐りこみ、ただでさえ狭かった舞台は若者たちでいっぱいになってしまった。
 このようにしてブリラムでの演奏を終えると、すぐにぼくらはコンケンに向かい、番組のはじまる一時間ほど前にやっとテレビ局にすべりこんだ。スタジオに入って行くと、ディレクターが衣装に着がえるようにいうので、洗面所で顔を洗っただけですぐまた戻ってきた。その場にいあわせた人たちはみんな、信じられないという顔つきをしたものだ。
 この番組には、ぼくらの他にも有名な歌手が何人も出演した。まったく無名だったのはカラワンだけだった。そしてこの番組がはじめてカラワンと「人と水牛」の名を東北地方に広めてくれたのだ。あまりにも知れわたりすぎて、その後、ほかの「生きるための歌」のバンドがこの地方に来ると、みなカラワンにまちがわれてしまったくらいだ。
 ぼくらがカラワンとしてはじめてバンコク入りしたとき、最初にぶつからなければならなかったのは金の問題だった。ぼくらはプロの楽団ではなく、主として学生集会や展示会、大学祭のような催しのなかで演奏してきた。主催者は収入のない学生たちである。したがってぼくらにも収入はなく、あるのは支出だけだった。着るものにはいっさい金をかけず、家賃を払う必要もなかったにもかかわらず、である。楽団のメンバーはパヤタイ通りのぼくの家に全員で寝泊りしていたのだ。
 ぼくとスラチャイは仕事を求めてほっつき歩き、何もない日は、仕方なく友だちをたずねて米などをもらって家に帰ってきた。モンコンとトングラーンは三日も食事にありつけなかったことがある。彼らは水道の水を飲み、家の前にはえていた木の実をとって食べた。それでもぼくらが帰ってみると、この二人はやせこけた頬をして楽器の練習をしていた。三度の飯はなくとも、「生きるための歌」があったのだ。
 そんなわけで、ぼくらはふたたびバンコクからコーラートに舞い戻り、東北技術専門学校を根城に練習に励んだり、学生たちのチャリティー・コンサートを手伝ったりしていた。若い小説家のカムシン・シーノーク〔ペンネーム、ラオ・カムホームとしても有名〕がつくったパクチョンの理想農場にもしばらく滞在した。米と塩とキザミタバコを買っておきさえすれば、あとは沼の魚を釣って食べればいいという気楽な生活だった。夜は山のふもとの小屋で薪火にあたりながら、遅くまで練習をした。
 しかし、この平和な生活も長くは続かなかった。東北技術専門学校の学生たちが、資金集めのために開いた催しに呼び出されたからだ。ガラシン市の映画館で演奏したのだが、朝だったためか観客はまばらだった。当時のぼくらは、バンコクにいない時は、いつもこのようにイサーン〔東北地方〕のどこか――主として各地の教員養成学校をめぐり歩いていた。なかでもブリラム教員養成学校にはよく行ってうたった。ここの「ファンタスティック」というバンドがいつもアンプやマイクを提供してくれた。彼らの招きで、彼らの所属するナイト・クラブで演奏したこともある。ぼくらに力を貸してくれた親切なバンドはほかにもいくつかあったが、「ザ・フォーカス」もそのひとつだった。ぼくらがコーラートで演奏するたびに、彼らはアンプ一式を提供してくれ、一銭もとろうとはしなかった。
 あるとき、ぼくらはコンケンとコーラートの間にあるトングラーンの故郷の村にたち寄った。楽器をかついで村に入って行くと、「学生さんが来たよ! 学生さんが米配りに来たよ!」とどなっている村人の声がきこえた。ここで異様に感じたのは、若い男や娘の姿をまるでみかけないことだった。老人と子供しかいない。たった一人残っていた若者は小学校の教師で、「若い連中はみんな町に行ってしまった」と話してくれた。この村はもう長いこと旱ばつが続いているのだった。学校の昼休みに、子供たちの前でうたった。子供たちはどちらかというと、ぼくらの歌よりソンポンの滑稽な芝居をたのしんでいたようだった。
 スラチャイはこの村で見たことを詩に書き、「村からの便り」という歌にした。パクチョン農場に戻ったぼくらがこの歌を練習している間に、スラチャイは友人から聞いた話をもとに、もうひとつ「ジット・プミサク」〔東北の解放区に入り、一九六六年包囲されて殺された詩人〕という歌をつくった。曲には彼の好きな「ジョン・バーレー・コーン」というタイトルのバラードを使っている。

  ………
  彼は死んだ、森のはずれで
  イサーンの地を赤く染めて
  いつまでもいつまでも赤く染めて
  彼は人知れず死んだ
  がその名は今にとどろく
  人びとはその名をたずね
  すべてを知ろうとする
  その人の名はジット・プミサク
  思想家にして著述家
  人びとの行手てらすあかり

 バンコクに戻るとカラワンはふたたびテレビに出演するチャンスを得た。NSCTが企画した「十・一四」一周年記念番組だった。この番組は全国ネットだったので、カラワンの名をかなり有名にしてくれた。ところがぼくらの楽団には渉外を担当するマネージメント体制がなかった。それどころか、自分たちの楽器やアンプやマイクさえないので、時には賃借りをしなければならない始末だった。
 こうした状態をみかねてか、「プラチャーティパタイ」紙の記者セーニー・モンコンがマネージャー役を引き受けて、モンティアン・ホテルでひらかれた新勢力党のパーティーに出演する話をとってきてくれた。出演料は一五〇〇バーツ。ただし、ぼくらはそこで二、三曲うたっただけだった。「やめてくれ」をうたいはじめると、主催者が、過激すぎる、もうけっこうだとやめさせてしまったからだ。ぼくらの他にもゲスト・シンガーが出演していたが、彼らの歌の方が会場の雰囲気によく合っているように感じられた。
 ぼくらはまったくの窮乏状態にあった。タマサート大学の門前で、楽器をかついでサムローから下りてくると、友人たちが寄ってきて車代を払ってくれることもあった。食事代をそっと渡してくれた友人もいた。観客からカンパをあおぐようなこともやってみたが、あまり気持のいいものではなかった。おまけにぼくらの実情を知らない人びとからきびしく批判される始末で、やはりボランティアの楽団でありつづけるしかなかった。
 セーニー・モンコンがマネージャーとしてやってくれたもうひとつの仕事は、小さな黒い表紙のカラワン歌集を出したことである。ぼくらはどこで演奏するときにもそれを持っていって、六バーツで売った。当時としては、六バーツという値段はたいへん高かったのだが。それといっしょに、スラチャイのデザインでカラワンの四人のメンバーを漫画タッチで描いたポスターも売った。
 ぼくらはよくセーニーの家に集まり、そこで練習をしたりレコードを聴いたりした。そんなとき、彼がひとつの物語を語って聞かせてくれた。それをスラチャイが歌にしたのが「うさぎとかめ」と「光の鳥」である。

     南タイの旅

 はじめて南タイヘ行くことになった。セーニーがハトヤイに取材に行くことになり、ぼくらをさそったからである。交通費もないのにどうやって行くかが問題だったが、ちょうどタマサート大学でバス代値上げ反対の集会が開かれることになった。この集会で歌集が一〇〇冊以上も売れたので、なんとか行きの交通費だけはまかなえることになった。失業中のウィナイも同行することになり、汽車で終点のハトヤイに着いたのは早暁だったが、先発したセーニーがソンクラー大学でぼくらの到着を待っていてくれた。ここの学生寮に一泊五バーツで泊まった。
 例によって足りない楽器を学生から借りて、ぼくらはその夜、大学食堂で演奏会を開いた。会場の雰囲気は上々だった。ぼくらはライトを消してもらって、ロウソクの明りだけで演奏した。多少狭かったとはいえ、パワー・アンプもきちんとそろっていて、和気あいあいとした雰囲気の中でとても気持よく演奏できたことが印象に残っている。
 ハトヤイからバスに乗ってナラティワートに行った。ここでは「アティパット」の記者をしている友人のノック・センセウが、県の公会堂での演奏会を準備してくれていた。旅館をしている彼の家に泊まり、食事も彼の兄さんのやっている食堂でとらさせてもらう。ぼくらが「開演は何時からでしょう」と訊ねたら、兄さんは「午前二時から」と答えた。びっくりして、「そんな夜中にだれが聴きに来るんですか」と訊き返すと、まわりの人たちがさもおかしそうに笑いだした。なんと、南タイ方言では午前二時《ティー・ソーン》とは午後二時のことだったのである。ぼくらはやれやれと胸をなでおろした。
 開演時間が近づいてきたので、楽器をかついで公会堂に行った。このあたりでは普通、昼間の映画上映はないそうで、そのせいかぼくらの演奏を聴きに来る人も少なかった。集まってくれたのはほとんどが学校の生徒たちだった。ステージには古いハイペクスのアンプがひとつ、旧式のマイク、それにこれもまた相当に古物のラッパ型のスピーカーが並べられていた。うたいはじめると、まるで虫の鳴声のようにジージーいうのだ。
 何曲めかの歌をうたっていたときだった。軍服そっくりの緑色の制服に身をつつんだ屈強な男たちが十人ほど、威圧的な様子で会場にのりこんできた。おまけに武装している。ぼくらはそれを見て、とっさに「やめてくれ」をうたいはじめた。

  ユット・ゴーン、ユット・ゴーン、ユット・ゴーン
  ………………………
  やめてくれ兵隊さん、やめてくれ警官さん
  敵の歌をうたうのは
  深い泉から冷たい水を飲み
  こころをあわせて考えよう
  誰の銃弾《たま》が殺したのかを
  おとされたいのちは誰のもの
  タイのため殺しあい血が流れる
  敵はそれでももちこたえるものを
  ……………………

 ぼくらがこの歌をうたい終えるのも待たずに、緑の制服の男たちは会場から逃げるように出ていってしまった。ナラティワートからパッタニーへと旅を続けた。そこでもまた、行きあたりばったりで学生からギターを借りるのだ。パッタニー大学の講堂でも、ぼくらはロウソクで演奏した。アンプ一式はそろっていた。ところがちょうど演奏がはじまる直前に、ぼくとトングラーンがそろって腹痛をもよおしてしまい、司会のスラチャイに耳うちして講堂を出たその瞬間に、どっとどよめきの声があがった。あわてて戻ってみるともう演奏ははじまってしまっていた。おまけにぼくはギターを落として、マイクのコードを切ってしまった。その夜は、ぼくがはからずもピエロ役を演じることになったわけだ。学生たちは講堂をびっしりうめつくすほど集まり、気のおけない会だった。
 それからまたハトヤイのソンクラー大学に戻って休んでいると、学生たちからもう一回うたってほしいという要請があって、同じ場所で再度演奏することになった。その夜は、ハトヤイのテレビ10チャンネルの人も聴きに来ていて、翌日の特別番組への出演を依頼された。急きょ決まったため、ビデオではなく生放送だったが、ぼくらの経験したテレビ出演の中ではもっとも恵まれたものだった。ぼくらの選択に大幅な自由が許されたからだ。
 ウィナイが詩を書き、スラチャイがそれを読んで開会の挨拶にした。

  ぼくらはカラワン
  はるかな地より来た使者
  斧の刃のある地〔東北〕より
  斧の柄のある地〔南タイ〕へ
  歌によって
  むこうの兄弟たちのことを伝えるために

 スラチャイが詩を読みおえるや、「黄色い鳥」の演奏が凛《りん》として響きわたり、「人と水牛」がそれに続いた。ぼくらはオリジナル曲のすべてをうたい、その間、番組の終りまでコマーシャルによる中断なしだった。このような形でのテレビ出演は、これが最初で最後だった。なんでもスポンサーさがしが間に合わなかったのだそうである。それでも八〇〇バーツほどの出演料をもらい、おかげでぼくらはさらに旅を続けることができた。
 またバスに乗って、こんどはウィナイの故郷グラビー県に向かう。乗客が五人ぐらいしかいなかったので、ぼくらはバラバラに好きなところに坐った。車掌の少年ははじめのうち、ぼくらの風態や雰囲気に恐れをなしたのか、いっこうに切符を切りにやって来ようとしない。トングラーンは長髪にリーバイスのバックスキンのジャンパーをはおって、車の前方に坐り、たえず窓の外をながめている。まんなかのあたりには雀の巣みたいなモジャモジャ頭をしたスラチャイと、黒シャツに長髪、長い髭をたくわえ、カウボーイみたいなつば広ハットをかぶったモンコンがいる。そして、最後部のウィナイはやはりつば広ハットをかぶり、ぼくはといえば、頭のてっぺんからつま先までかなりひどい恰好をしていた。どう見てもこの土地の者という様子ではないのだ。
 バックミラーに映ったスラチャイの髪型を見て思いだしたらしい。やがて切符切りの少年がにっこりして乗車賃をとりにやってきた。
「みなさん、ゆうベテレビに出た人たちでしょう」
 ぼくらがうなずく。
「はじめはもう、バスジャックにあったのかと思ったんですよ」
 そういうと、彼はほんとにホッとしましたよという表情をした。こうしてしばらく会話を続けるうちに、バスの中はすっかりうちとけた雰囲気になっていった。
 グラビー市では、会場はなんとか確保できたが、アンプとマイクの用意ができなかったため、公演をあきらめて、舟でランターノイ島に遊びに行くことになった。そこにはウィナイのもう一軒の家があり、静かな休日を楽しむことができた。
 ぼくらは島の祭りにさそわれた。祭りは島の裏側にある村でおこなわれることになっていたので、ウィナイが舟で連れて行ってくれたのだった。舟が村に近づくにつれて歌声が聴こえてきたが、意味が分らない(この島の方言だった)。中年の女がとても高い声で土地の歌をうたっていた。トングラーンは、伴奏をしていたバイオリン弾きにたいへん感銘を受け、のちにアルバム「危険なアメリカ人」におさめられた歌に、この手法をとり入れている。祭りの会場には電燈がまったくなく、もちろん歌も生の声で聞くのである。ぼくらも「人と水牛」などを聞いてもらい、言葉こそ通じなかったものの、瞳と瞳でお互いの友情をたしかめ合うことができた。
 島での短い休日をおえて、ぼくらはトラン県へ向かった。南タイへ出発する前に、ぼくらの親しい女友だちのジラナン・ピットプリチャー〔元学生運動指導者、詩人〕から自分の家に寄ってくれるようにいわれていたからだ。彼女の家では、旅費として五〇〇バーツをカンパしてくれた。トラン農業専門学校に泊めてもらい、そこでもまた新しい友人ができた。そして彼を通じて、この学校の校長先生が、その夜開かれることになっている県の行事に出演できるようとりはからってくれた。ところが会場に行ってみると、武装した警備員が切符を買わなければダメだといって、ぼくらをなかに入れてくれない。われわれは出演者だと言っても、言葉が通じない。出演料も出ないのに、切符を買えるはずがないじゃないか。やがて校長先生がやって来て、ようやく会場に入ることができた。
 ここでの演奏はあまり満足のゆくものではなかった。が、ともかくもこれが第一回南タイ巡業の最後のステージだった。この夜、ぼくらは荷物をまとめると農業専門学校の前に立ち、手をあげて止まってくれる車がくるのを待った。あるトラックの運転手がぼくらに同情して止まってくれたので、ためらわずに乗りこんだ。南タイの道路はデコボコしており、とりわけ夜道は楽じゃない。ラノーン県では山の奥の深くて暗い森の中を走らなければならなかった。親切な運転手はぼくらをプラチュアプキリカンの駅まで送ってくれた。別れぎわに彼にカラワンの歌集を贈った。

     プロ楽団になる

 ぼくらがバンコクに帰りついたのは、農民のデモ行進〔一九七四年五月、タイ歴史上初の農民による請願デモ〕が終った後だった。約半年にわたる公演の経験から、ぼくらのバンドに実にさまざまなものが、欠けていることを痛感させられた。まず第一にほとんど収入がない。生活費はどうしたらいいのか。次に、自分たちの楽器やアンプ類がない。どこでやるにも、行ったさきざきでまず楽器やアンプ類が借りられるかを訊いてまわらねばならない。この問題についてぼくらが思いついたのは、レコードを出すことだった。ぼくらは「カラワニスト」と呼ばれている、ぼくらの歌のファンであり理解者である友人たちからいくばくかの金を借りてきて、手ごろなギターを三つ買い入れた。
 残った金で録音スタジオを借りることにして、しばらくのあいだ、ぼくらはセーニーの家で練習に励んだ。トングラーンは新しいギターに夢中になって、ケースから出すたびにぴかぴかに磨きあげていた。また彼は、クルイの代りにフルートを使った方がいいと言いだして、ウドン県の兄のところまで金を借りに出かけて行き、とうとうフルートを一本手に入れてしまった。そしてコーラートからポンテープ・グラドンチャムナンを連れてきて、このフルートを吹いてもらうことにした。
 この時吹きこんだシングル盤のレコードには、「人と水牛」「コメのうた」「黄色い鳥」「ジット・プミサク」を入れた。ジャケット・デザインは、仲間の画家タマサク・ブンチュートが描いてくれた。五〇〇枚ほど出して、一枚二五バーツで売ったのだが、惜しかったのは市場を通さなかったことだ。演奏のたびに持っていって会場で売り、やっと糊口をしのいだのである。
 最初の年は、あまり演奏をしなかった。自分の楽器を持つようになってからチャンスはふえたのだが。レコードを吹きこんで以降、ぼくらはコンサート出演について以前より細かい態度でのぞむようになった。時には主催者の学生に、アンプなどの賃貸料をもつよう条件を出し、受け入れられなければ出演しないこともあった。どうしても必要なときは、財布をはたいて自分たちで借りてきた。当時の一般的理解では、「生きるための歌」のバンドはボランティアの演奏家で、呼ばれたところへはどこへでも行って報酬なしで出演してくれるものとみなされていた。
 ぼくらの初期の歌は、「人と水牛」をのぞけば煽動的な集会の雰囲気には合わなかったことと、使っている楽器が比較的小さい音のものばかりだったこともあって、タマサート大学のフットボール場とか、王宮前広場のような広いところでの大集会への出演はことわっていた。オームノイ工場のストライキにも同様の理由で参加しなかった。労働者のストライキではじめてうたったのは、ドゥシタニホテルのときと、スタンダードガーメント工場で警官隊が突入する直前の集会のときだった。
 それから間もなく、ぼくらはブロンゴ(ドラム)のセットを買いこんだ。経済状態がよくなったというわけではないが、「人と水牛」で使うためだった。たたいたのはモンコン。けれどもこれは、タマサートの講堂で一回使ったきり、学生が二階から投げおろしたのを受けそこなったため、片面の皮が破れてしまった。皮を張りなおしてみたけれど、もと通りにはならなかった。その他にも、この曲のために水牛の首につける鈴をみつけてきたり、水牛の鳴き声を出すため竹筒を吹いたりしたものだ。
 NSCTの機関紙「アティパット」の記者ニシット・ジラソーポンが暗殺された時、ぼくとモンコンはイサーンに行っていた。演奏のためではなく、農民の生活を見てまわるためだ。帰路、モンコンの故郷であるパノムプライにも寄って、地方音楽の演奏家たちと知り合いになった。彼らが使っている主要な楽器はピンとケーンである。ここでモンコンはピンをもうひとつ入手した。パユーン(花梨《かりん》)の木で作ったもので、特別にあつらえない限り手に入りにくいものである。とても澄んだ音を出した。
 ふたたびバンコクに戻ったところで、たいへんすばらしい贈物をもらった。詩人ソムキットとともに、東北で共同農場を試みていた作家プラスート・ジャンダムが、ぼくらに「不毛の荒野《ペーン・ウートゥート》」を書いてくれたのだ。この曲のリズムには最初苦労した。

  ぺーン・ウートゥート
  なんにもない
  川の流れは干あがって
  立ち枯れた木だけの荒野原
  ひからびた風が吹きすさぶ
  イサーンは苛酷な土地
  親子代々百姓の血筋
  自然は恵んでくれず
  悪しき者が働きから吸いとる
  …………

 ラートブリ県のある製紙工場の労働者がぼくらとガンマチョン(プロレタリアート)楽団を呼んで、バーンポン郡の教会で演奏会を開いたことがあった。この催しは、ストや抗議集会とはまったく関係のないただの演奏会で、事前に教会の牧師の許可を得ていた。はじめにガンマチョンがうたうことに決まった。彼らは自分たちがマヒドン大学の学生で「生きるための歌」のバンドであると自己紹介してから、「人と水牛」を演奏しはじめた。ただそれだけのことだったのだが、牧師がつかつかと入ってきて怒鳴った。
「すぐにやめなさい。ここは神聖な場所で、煽動するところではない!」
 ガンマチョンはそれを無視してうたいつづけ、集まっていた市民や労働者も連中に声援をおくった。ところが牧師はその声を無視して電源を切ってしまった。真暗ななかで、いっせいに聴衆たちの不満の声があがった。ぼくらも牧師と口論を続けたがらちがあかない。
 世話人たちはそこから三〜四キロも離れた工場の裏の線路ぞいの空地にぼくらを案内し、そこで屋外演奏をすることになった。聴衆もこりずにそこまでついてきてくれたというわけだ。
 初期の歌のシリーズの最後の曲が「山の人」で、作者はウィサー・カンタップ。カラワンのために書いてくれたものだ。この曲を大学で何回かうたったのち、ぼくらはそれまでにできた歌のすべてを入れたテープを作ることにした。ルンピニ公園で開かれた「生きるための歌」の祭典のときには、このテープ「人と水牛」シリーズが大変な売れゆきだった。
 この催しのとき、イサーン映画の弁士として知られるスラシー・パータム〔後に映画「田舎の先生」の監督として有名になる〕と知りあった。彼はぼくらをウボンでの公演にさそった。廃業して久しい映画館を使って二回公演したが、二回とも満員だった。競演したのは「スパイダー」というバンドで、彼らは戦争状態のラオスから逃れてきていた。ウボンは米軍基地が閉鎖された直後で、おおぜいのバンドマンたちが転業を余儀なくされていた。ソムタム〔熟していないパパイヤで作る東北のサラダ〕売りに身を転じたり、家へ帰って農業をする者、民謡ラムウォンの伴奏、サムローの運転手、カフェのフォーク歌手などさまざまだった。
 一九七五年七月四日、ぼくらのうち三人は、アユタヤ農業専門学校の学生たちが開いた反米集会に呼ばれてアユタヤに行くことになった。モンコンだけは、その二、三日前に暗殺されたラーチャシマ高校の生徒マーナ・インタスリヤの葬儀に参列するためコーラートに行っていていなかった。アユタヤでの集会は夕方すぎからはじまった。人通りのない寺院の前で、背後はパーサク川だった。人の集まりが悪くて何曲もうたわなかったのだが、ちょうど「ジット・プミサク」をうたっている時、「この遺骸《なきがら》がジット・プミサクなのか」というところまでくると、舞台前方から銃弾が二発撃ちこまれた。聴衆は多少動揺したようだったが、ぼくらは何事もなかったようにうたいつづけていた。その時だった。今度は背後の川の向こう岸で小銃を撃つ音が鳴りひびいた。まるで戦争がはじまったようだった。ぼくらも舞台の下に飛び下りて身をかくし、聴衆は暗闇の中を散りぢりに逃げ帰ってしまった。あとに残ったのはぼくらと、集会の準備にあたった学生たちのみというありさまだった。
 マヤグエス号事件が起こった時は、学生と市民がアメリカ大使館の前で抗議集会をくりひろげ、ウィタユ通りは車が完全にシャットアウトされた。ぼくら三人も、うたうためではなく、様子を見に出かけていった。乗合トラックの屋根の上では、ちょうどガンマチョンがうたっている最中で、彼らもメンバーが揃っていない。それでぼくらが応援することになり、交替でお互いのメンバーをおぎないあって両方のバンドの歌をうたった。こんな具合にして夜の白むまでうたいつづけたわけだ。のちにアメリカ大統領から「アポロジャイズ」との返答がきた。ぼくらがアメリカ帝国主義に反対する歌を作るようになるのは、この集会が契機になっている。
 ククリット・プラモート内閣の時代には、農民運動の指導者たちが次々に暗殺された。チェンマイ大学の学生一人を含む九人の農民の逮捕事件が起きたのもこのころである。タマサート大学とチェンマイ大学の両方で大抗議行動がくりひろげられた。この時、仲間のうち何人かはコーラートに行っていて、ぼく自身もチェンマイにいたので、バンコクにはスラチャイとトングラーンが残っているだけだった。この抗議行動の中で、スラチャイは「十人の死が十万人を生む」をつくる。メロディーにはボブ・ディランの「激しい雨」を編曲してつかった。

  現実をみてごらん
  友よ、同胞《はらから》よ
  現実をみてごらん
  何が善で何が悪かを
  多くの人びとの
  苦しみと死を
  「弾圧」という名の歌
  うたう悪人どもを
  いたるところにいる
  憤った人びとを
  気づかないのか
  赤い血に染まった死者を
  彼らに迫害され
  追いつめられ、追いつめられ
  暗殺された
  …………

 この抗議運動も終り、ぼくらはコーラートに戻って新曲の練習に励むことになった。スラチャイは一人で、イサーンの片田舎を遍歴していた。あるところで彼が野原のまんなかでうたいはじめると、その村の人びとが総出で見にやってきた。ちょうど佳境に入ったころ、ヤシの実がひとつズシンという音とともに落ちてきた。誰かが「コミュニストが来たぞ!」とどなった。ただそれだけのことだったそうだが、村人たちはくもの子を散らすように一目散に家に帰ってしまったそうだ。
 一方、コーラートに残ったメンバーは新曲づくりと練習に大童《おおわらわ》だった。「危険なアメリカ人」、「起って闘え」、「前進せよ」などはこのころの歌である。この時はうたうのも交替で、モンコンにもっとも負担がかかった。ほとんど一日中スタジオ(友人の家だったが)にこもりきりで、出演を頼まれてもすべて断っていた。バンコクでも、カラワンがいないためガンマチョンの負担がふえて、「生きるための歌」のバンドがいくつか新たに結成されるようになる。「トングラー(稲)」とか「コームチャイ(灯り)」とかがそうである。
 一九七五年の「十・一四追悼集会」に参加するため、ぼくらはふたたびバンコクに戻ることになった。ラームカムヘン大学が学生のために用意したバスに便乗して、さて、バンコクの「パヤタイの家」に舞い戻ってくると、トングラーンが病気で倒れてしまった。医者に診てもらう金がないので、薬を買ってきて自分で治すしかない。
 追悼集会は十月十三日から始まった。この年は盛大に催しが企画され、ラートダムヌーン通りにそって、アーティスト統一戦線の画家たちの描いた絵が並べられ、市民や学生で道路がうめつくされた。民主主義記念塔の前に舞台がしつらえられ、この集会ではじめて名のりをあげたバンドが「生きるための歌」をうたったり、南タイの影絵芝居が上演されたりした。
 NSCTのたてた計画では、ぼくらは十三日から三日間うたうことになっていたのだが、十四日まではトングラーンが起きられず、出演は無理だった。十四日に集会場に行ってみると、なんと舞台の上にすわりこんでスラチャイが一人でうたっていた。さっそくぼくも加わって、「黄色い鳥」「ジット・プミサク」「やめてくれ」など初期の歌をうたった。最終日の十五日になってようやく全員がそろったが、トングラーンはまだ体を支えてもらってやっと舞台にのぼるという状態だった。「危険なアメリカ人」をうたったのは、このときがはじめてだった。
 コーラートにもどると、練習だけではなく、カラワンをプロの楽団とすべきか否かを話し合った。大学で展示会や抗議集会が開かれるのを待って演奏するというのではなく、田舎を巡業してまわる地方音楽の楽団がけっこうなりたっているのだから、まねしてみたらどうかということになった。ところがぼくらはアンプもマイクも持っていない。さて、どうしたものか。
 ぼくらがプロとしてのはじめての演奏会を開いたのは、ウボンラーチャタニだった。交通費がなんとかまかなえる程度の文無し状態で出かけていった。まず、個人的にマネージャーとコネのあった映画館を借りることにする。宣伝期間はほんの二、三日、以前つくったポスターの残りを街中にはってまわったり、当日には友だちの車でねり歩いたりした。アンプ類は土地のホテルの専属バンドが貸してくれた。さて演奏会当日になると、爆弾が投げこまれるというデマが飛んで、結局、会場費をなんとか支払えるくらいの入場料しか集まらなかった。相変わらずの行きあたりばったり、でたとこ勝負の連続だ。でも、この公演でぼくらは新曲をいくつかふやした。「連帯せよ」「農民からの手紙」などだ。


晶文社 1983年7月15日発行  





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