『カラワン楽団の冒険 生きるための歌』 ウィラサク・スントンシー 荘司和子訳

目次    


カラワン 序詞


日本のみなさんへ
 スラチャイ・ジャンティマトン

第一部 回想のカラワン
  ウィラサク・スントンシー


 1 カラワンの誕生

 
2 クーデター

 3 「森」の生活

 4 ラオスから中国へ


第二部

 5 モンコン・ウトックの話

 6 楽団はよみがえる
    八巻美恵

 7 カラワン歌集


訳者あとがき

 2 クーデター

     イサーン巡業の旅

 コーラートに戻って、ぼくらはここでもう一度コンサートをやることにした。なんといってもコーラートはぼくらにとっての古巣だから、バンコクよりも十分な準備ができる。モンコンたちの母校、東北技術専門学校美術学科の学生が描いてくれた大きなポスターを街の中心部にはり、切符も前もって準備した。入場料はわずか一〇バーツ。映画館をつかった会場費はけっして安くはなかったが、このコンサートは予想を上まわる大成功をおさめた。さすがにコーラートのカラワン・ファンの層は、東北地方《イサーン》のどの県と比べても厚かったのだ。
 この成功を踏台にして、ぼくらはイサーン巡業の計画をたてた。コンサートの収益の残りと、応援してくれる仲間たちから借りた金とで、アンプ一式とマイクを買った。ぼくらの旅は、簡素だが、心暖まる友情に支えられて開始された。地方音楽の楽団のように大型バス四、五台を連ねて巡演してまわるのではない。ぼくらが借りた車は十人ほどの人間が乗れる程度の小さなものだったので、楽器類を後部に積みこみ、スピーカーのケースは屋根の上に乗せて運んだ。
 カラワンのメンバー五人の他に、司会者としてスラシー・パータム、広報担当としてやはりイサーンの映画弁士ポンサヤーム、運転手兼アンプ等のメカ担当としてトゥー、営業としてロダンとセキの五人が同行する。演奏に先だっての宣伝活動は一カ月足らずしかない。コーラートで描いてもらったポスターや、以前つかったポスターの残りを貼ってまわる。
 カラワンは、いっさいの資本から自立した楽団である。どんな放送局もぼくらの歌を放送したことがない、といっていい。したがってぼくらの巡業は、昔の辻音楽師のそれとまったく変わらない。ただ、腹を満たすための食費だけではなく、車のガソリン代を稼ぎださなければならない点が、やや現代的になっているだけだ。
 一回目のコンサートをブリラム県ナンロン郡で開いた。入場料は一〇バーツ以下だったと思う。映画館のオーナーは、たった五人、踊り子もなしでいったいどんな音楽をやるのかと不審がった。ぼくらは「生きるための歌」をうたうバンドで、肌もあらわな踊り子たちのショーを見せるのではないことを説明しなければならなかった。しかし、案の定、こうした小さな郡ではカラワンの名前も歌もあまり知られていなかったので、演奏当日に街まわりをするというだけの宣伝ではとても足りず、この日は八〇〇バーツの入場料しか得られなかった。映画館のオーナーは、これでは食事代も出ないだろうと心配して、会場費をただにしてくれたうえ、ご飯を炊いて食べさせてくれたのだった。
 プラコンチャイ郡では、一年も廃業していた映画館が借りられることになった。見たところ倉庫か納屋のようで、持主の話では、いままでここを使った田舎まわりの楽団の例でいうと、あまりに人の集まりが悪くて、結局はいつも入場料を返すことになってしまうのだという。それでもぼくらはやってみることにした。何時間もかけて土埃りを掃きだし、椅子をふいたうえで開演したのだが、さいわいにも切符代を返さぎるをえないような破目におちいらずにすんだ。というのも、ぼくらはこの地方の慣習に従って、一人五〇サタン〔一バーツの半分で約五、六円〕の入場料しかとらなかったからだ。
 ブリラム県サトゥック郡で借りた映画館はまるで洞窟みたいだったが、日に日に寒くなってきていたころだったので、その点ではちょうどよかった。こういう片田舎でやるときは、夜八時過ぎからはじめないと人が集まらない。入場料も安かったが、会場費も大変安かったので気楽だった。
 ブリラム市――ここではすでに有料無料どちらの公演もしたことがあるのだが、自分たちでやってみると、他人《ひと》が主催してくれた時ほど収益はあがらなかった。
 スリンでは、たまたま農業専門学校の音楽祭に行きあわせた。ここではすんでのところでポンテープがオートバイにぶつけられそうになり、またシーサケートではスラチャイが早朝から制服を着た人間に言いがかりをつけられた。コンサートが開けないという噂がひろまったが、ぼくらは驚かなかった。できるだけ大勢の友人たちを動員した。農業専門学校の学生とその対立グループの若者たちが、この日のコンサートを成立させるために力を合わせてくれた。コンサートは午後だった。直接的にせよ間接的にせよ、ぼくらのコンサートに脅しがかけられているとなると、観客の数はかえって多くなる。ぼくらの歌に関心が集まるからだろう。
 農業専門学校の学生たちと、べつのグループの若者たちが映画館の周囲を警備してくれて、コンサートは平穏裡にはじまった。途中で一回だけ衝突が起こりかけたが、ぼくらが「イサーンのスン」をうたいはじめると、文句をつけた男はおおいに気をよくし、「黄色い鳥」を聴くとすっかり静かになってしまった。客席のあちこちに坐っていた友人たちが聞いたところによると、彼は学生革命当時は彫金学校の学生で、闘争にも参加していたのだという。「黄色い鳥」は彼に十月十四日を思い起こさせ、これをうたっている連中はあの時共に闘った仲間なのだという思いが彼に騒ぎを起こす気を失わせてしまったのだそうだ。彼はこうも告白した。ある男から八〇〇バーツもらって、それで朝から飲んでいたのだと。
 シーサケートを出てウボン県内のいくつかの郡を大入りつづきでまわったあと、国境の町ケムラートに入る。メコン河を渡れば対岸は変革後間もない新生ラオスだ。古い木造の映画館があった。遠目にはカトリックの教会のように見える。屋根の破風のところに鐘がぶらさがっているのだ。珍しい建物だったが、残念ながらここは借りられず、ぼくらはメコン河のほとりを散歩しただけだった。夕方になって別の映画館を借りられることになった。はじめての場所とはいえほぼ満員の入りだった。近くの村の人たちが、乗合トラックを借り切ってやって来たくらいだ。コンサートがはじまってまもなく停電してしまったので、自家発電に切り換えて演奏を続けた。ところが、思いがけないことが起こった。二四〇ボルト以上の高圧電流が送られたため、ぼくらの一〇〇ワットのアンプが二台とも耐えきれなくなってしまったのだ。ギター用のアンプのトランジスターは焼けこげてしまったが、マイク用の旧式のアンプは不幸中の幸いで、ヒューズが飛んだだけですんだ。メカニック担当のトゥーが修理しているあいだ中断して、それからまた最後まで歌を続けた。
 予定ではこの町に泊まるつもりでいたが、早々に引きあげることにして、荷物を車に積みこむと夜十時ごろ出発した。今まで通ったどの道よりも寂しいところで、両側はどこまで行っても暗く深い密林が続いている。この夜のトゥーの運転は例になくスピードを出していた。ぼくらの方はマーチをうたい続けた。そしてアンプが焼けたのは、あれはわざとやられたのだという話になった。
 車がスピードをあげて、ちょうど行程の半分ほどまで来た時、大きな丸太が道をふさいでいるのがヘッドライトに照らしだされた。トゥーは道路の右肩すれすれにそれをよけて走り抜けようとした。車のボディーの下方に激しい衝撃音を感じた。それでもトゥーはやみくもにスピードをあげて、この場を走り抜けた。気絶した者はいなかったが、しばらく走るとガソリンがポタポタ流れ落ちる音がする。ガソリンはどんどん減っていき、いよいよおしまいというころ、検問所に行きあった。止まるつもりはなかったのだが、ガソリンがもちそうもなかったのと、警備していたのが年輩のMP(憲兵)だったため、ぼくらは車を降りて事情を話すことにした。彼は親切にもガムナン〔区長〕の家まで行ってガソリンをもらって来てくれた。彼にお礼をいうとぼくらは先を急ぎ、その日の夜中にアムナートジャルーンに到着した。まずは酒と血のラープ〔生の牛肉のたたきに、血と唐辛子をまぜた東北料理〕で無事を祝うことになった。その町で車の修理を済ませてからふたたび出発し、デートウドムで一回だけ公演したのち、ヤソートン県入りをしたのである。
 ぼくらの「広報担当官」ポンサヤームは、「危険な楽団カラワンがやって参りました!」と宣伝してまわった。ここではカラワンの名はかなり知られていた。すでに一九七四年のはじめ、スラチャイとぼくとがうたいに来ていたからだ。カラワンの名は知らないまでも、少なくとも「人と水牛」の歌をおぼえていてくれたので、この歌をうたいながら宣伝にまわった。もちろん移動用の例の車をつかうのだが、以前にくらべて身なりはやや良くなったとはいうものの、なにしろうたっているのはぼくらなのだから、いっこうに見ばえがしない。でも期待は裏切られなかった。会場には公安が「今度こそ逮捕してやるぞ」といった様子で来ていたが、いったい何の容疑で逮捕するつもりだったのだろう。結局は何事も起こらずに終った。
 ヤソートンからロイエトに入る。客の入りは少なかったが、聴き手との交流という点では素晴しい会がもてた。ただし入場料収入は映画館の借り賃で相殺されてしまい、あとには一銭も残らなかった。友だちが酒を飲みに連れていってくれ、バンガローを借りてくれたが、その方が高かったくらいだ。
 そこからマハーサラカム県ボンブー郡に入ると、映画のバックグラウンドミュージックをやるはめになった。なんとお化け映画だったのだが……。ゴースムピサイ郡でも一回公演して、ふたたびコンケンにやってきた。ところが夕方だったせいで、予想外に観客が動員できない。でも映画館のオーナーは以前と同様ぼくらに好意的で、二〇〇〇バーツの契約を、切符切りの日当と電気代だけの三〇〇バーツにしてくれたうえ、ぼくらの公演をテープにとることを申し出てくれた。県内の小さい郡の映画館などでは、まるで船に乗っているみたいに舞台がぐらぐら揺れるところがあり、うたいながら身体をゆするどころではなかった。映画館の前で、セキがうたいながら歌集を売っていた愛すべき姿も思い出す。
 サプン郡では予想せぬ事態に出喰わした。映画館の入口に、一見してヤクザ風の男が待ちかまえていて、ぼくらのポスターを破り火をつけているのだ。ぼくらの姿を見ると罵詈雑言を浴びせかけ、ここで公演することはできないという。中に入って映画館のオーナーに事情を訊くと、公演は禁止されたとのこと。誰に禁止されたのかとたたみかけると、口ごもってしまった。警察だろうときいても黙っていて答えないので、じゃあ警察署に行ってみようということになった。集まってきた野次馬もぞろぞろついて来る。警察署長に会いたいと申し入れたが、あいにく副署長しかいなかった。公演を禁止する理由は何かと訊くと、答えはこうだった。
「あんたがたの歌は煽動的なんでね。わたしは禁止してはいないよ。だが、あんたがたは王宮前広場でうたうだけで十分だろうが。ここはなんといったって『センシティブ・エリア』〔共産主義浸透地域〕なんだから」
 ぼくらがさらに、われわれの歌や公演が法律に違反するのかどうか、違反するなら逮捕すればいいではないかと言うと、彼は急に怒りだした。
「そんなことをしてみろ、あんたがたの思うつぼだ。あんたがたが民衆を煽動するいいチャンスになる。わたしもそれほど馬鹿じゃないつもりだ。いずれにせよ、ここではやらないことだ」
 ぼくらはすっかり頭にきて、警察署の前であやうくうたいはじめるところだったが、この先のこともあるのでぐっとこらえたのだった。
 ルーイ県に向かう。ルーイ市の市場で車を止めると、残忍な目つきの男が車のそばにオートバイを止めた。破りとってきたらしいぼくらのポスターを何枚も手に握っており、「お前たち、演奏しに来たんだろうが、この町では絶対にやらせない、とっとと失せろ」という。でも映画館のオーナーは演奏してかまわないというので、もし何か問題が起きた場合にはいつでも断ってくれていいといいおいて、いったん外へ出た。そのとたんだった。迷彩色のジープがオーナーの家の前に横づけにされた。何の話に来たのかはすぐ想像がついた。ジープが行ってしまうと、オーナーがやって来て、ぼくらの演奏を妨げる意志は毛頭ないのだが、もし許可すれば、映画館の営業許可をとりあげられてしまうので申し訳ないが、と言うのだった。そばで彼の娘が、ぼくらの演奏が見られなくなったといって泣きじゃくっていた。
 ちょうど新年にあたっていたので、そこからあまり遠くないグラドゥン山の友人のところで休日を楽しむことになった。じつに爽快だった。ただし、そこは牧場だったので牛の糞の臭いがものすごかったが……。夜はキャンプ・ファイアーで遅くまでみんなで好きな歌をうたって楽しんだ。空気がたいへん冷えこんできたので、ポンサヤームは縁台の下にもぐりこんで寝た。彼といっしょに、毛が脱け落ちた皮膚病の犬が一匹寝ていた。夜露のおりた縁台の上よりも、キャンプ・ファイアーで暖をとり、珍しい音楽を聴きながら寝る方がはるかに気持よさそうだった。友人の話では、ルーイ県は年によっては氷がはるほど冷えこみが厳しく、凍え死ぬ人もいるのだという。
 ぼくらがグラドゥン山に来ていることが、ソムキット・シンソンの耳に届かないはずはなく、サップデン村〔詩人ソムキットの出身の村で、彼が共同化を試みていた〕に来るようにと迎えの者がやって来た。村の人びとがカラワンの歌を聴きたがっているというのだ。サップデン村ははじめてだったが、村人たちが心をひとつにして助け合っている平和な姿を目のあたりにした。その夜、村の真中でぼくらはうたった。困ったのは発電機のモーターがたびたび止まってしまったことだ。
 翌日の夕方、ソムキットと村の人たちが、トラックでチャイヤプーム県ゲンクロー郡へ案内してくれた。舞台を作る必要はなかった。トラックの幌をとれば、荷台がそのまま小さな舞台になるのである。村びとたちは旧式の銃をたずさえて、厳重な警戒にあたってくれた。そこへコンケン県コークサムラン村から連絡が入った。村祭りでうたってほしいというのだ。
 太陽が地平線に沈むころ、ぼくらはコークサムラン村に着いた。寺の境内に入っていくと、はずんだ声でアナウンスしているのが耳に入ってきた。
「ただいまカラワンが到着いたしました。『人と水牛』をうたっている生きるための歌の楽団です。今晩八時、みんな揃ってお寺に集まってください……」
 ぼくらが車を降りると、アナウンスをしていた長髪の青年が顔をほころばせて近づいて来た。ぼくらに礼を述べる彼の目には友情の光があった。この村は幹線道路から何十キロも離れているのだが、それでも当時ヒット中だったボブ・ディランの歌が流れていた。
 楽器を車から下ろし、モーラムの舞台に並べ、食事をすませる。八時になると境内は村人たちでうめつくされた。カラワンの公演以外には、他の催しはないようだった。純朴な村の人たちとの交流はとても楽しくうちとけたもので、公演の間中、笑い声がとぎれることがなかった。なにしろぼくらのいでたちを見ただけで、村人たちはいっせいに笑いころげるのだ。
 翌朝、コンケン県ムアンポン郡に向けて出発。ここでは友人がスポンサーを見つけてくれたので、郡の公民館で入場無料、映画館も借りずにすんだ。続いてナコンラーチャシマ県ブアヤイ郡でも、おなじように友人たちがアレンジしてくれた。屋外のコンサートだったので、誰でも自由に聴きにくることができた。空気は冷え、ときおりかすかに花火の音がしていた。ククリット・プラモート首相が、国会を解散したのはこの晩の出来事である。
 ぼくらのイサーン巡業は、ナコンラーチャシマ県パクチョン郡で終了した。へとへとに疲れはて、生命からがら。まる一カ月というもの、ほとんど車の中で生活したわけだ。一人一日三〇バーツの食費をのぞけば儲けはゼロ。これは当時の労働者の日当よりも低い額である。友人の車の修理代をとり、残りをワゴン車のリース代に当てると、それでおしまいだった。ぼくらの得たのは演奏の経験と、聴衆がぼくらの歌をただの煽動としてではなく、「生きるための歌」として聴いてくれたという自信だけだった。国営放送局がカラワンの歌を放送しようとしない以上、ぼくらには、自分の歌を自分で広める正当な権利がある。コンサートの終りにはいつもこういったものだ、「またかならずうたいに来ます」と。

     殺し屋たちとのたたかい

 バンコクに帰ってくると、以前にも増していそがしくなった。イサーン巡業の旅をいっしょにやったチームの一部は、それぞれもとの職業に戻っていった。バンコクには、各地からたくさんの出演依頼が入っていた。カラワンがどこにいるのか連絡がとれないでいたのだ。
 年が明けて一九七六年になっていた。当初の二年間に比べて、カラワンへの出演依頼は二倍にふえていた。「生きるための歌」のバンドの数もふえていた。バンコクに戻って最初のコンサートは、これまでのようにタマサート大学ではなく、芸術大学の新しい講堂でひらかれた。このころからぼくらは、屋外でのコンサートにも出演することにして、ラームカムヘン大学やチュラロンコン大学のキャンパスでうたった。学生たちの熱い拍手がぼくらを勇気づけてくれた。歌のスタイルが変わってきたともいわれた。
 以前、ぼくらは工場めぐりのコンサートをやってみたいと話しあったことがある。ストでもないかぎり、普通は工場で音楽の演奏をすることなどありえない。そして「十・一四」以降は、賃金や労働条件の改善をめぐってストが頻発していたのである。
 労働者のストに呼ばれてうたいに行くことが多くなった。最初に行ったのはある機械工場で、「起って闘え」をうたうと、みんながいっしょになってうたったり踊ったりしはじめたことをおぼえている。
 このころ社会情勢は前年にも増して騒然としてきていた。二月のはじめ、ガンマチョン楽団のプリダー・ジンダーノンが、マヒドン大学の前で車にぶつけられて殺された。同じころケーン・イサーン楽団のメンバーが、ピッサヌロークの大学で演奏中に銃で撃たれた。コームチャイ楽団の一員もサコンナコン県でリンチにあい、影絵芝居を上演中のプラキアンも撃たれて負傷を負った。「生きるための歌」の楽団は合同して、これらの死傷者たちの救援金を集める歌の祭典を開いた。そうこうするうちに、今度はタイ社会党の指導的リーダー、ブンサノン博士が暗殺されたのだ。この日、ぼくらの家では楽器の音が絶え、そのかわりに鳴咽とすすり泣きの声だけが聞こえていた。
 ウィサーは「水、天をおおい、魚、星を喰う」を作った。
 ぼくらの公演場所は以前よりさらに広範囲になった。政治運動や文化運動の場が、タマサート大学だけではなくなったからだ。どんな政治行動や集会でも、「生きるための歌」は欠かすことのできないものとなっていた。チュラロンコン大学の学生会が学生連合の執行部をとるようになったせいもあって、チュラロンコン大学でうたう機会が増えた。同様に、バンコク市内や全国各地の大学でも、学生会の執行部が進歩派の学生たちの手に握られるようになったために、ぼくらもさまざまな大学に出かけていくようになった。
 そうはいっても農村まわりをやめたわけではない。ただ、カラワンだけで行くのはやめにしただけだ。あまりにも費用がかかりすぎる。なにしろ楽器以外にも、今度はアンプ一式を運んでいかなければならないのだ。ウドンタニ県ノンブアバン村へ行ったときは、ラームカムヘン大学の学生たちといっしょで、カラワンは彼らが準備したいろいろなだしもののうちのひとつだった。公演場所はお寺の境内。農民が呼んだモーラムの楽団も出演した。司会のチャーイレックは大変なユーモアの才能の持主で、集まった子供や老人をひっきりなしに笑わせていた。ぼくらが「イサーンのスン」をうたいはじめると、老人たちは大喜びしていっしょに踊りだし、腹の底から楽しんでくれた。心の暖まる思いでぼくらはここを去ったが、ひとつ残念だったのはウドンタニで演奏する機会がなかったことだ。なんでも、そこでは以前カラワンの名をかたって公演したやつらがいたというのだ。
 チュラロンコン大学で開かれた「生きるための歌」の祭典に出演したあと、ふたたびこの村を訪れることになった。ところが着いてみると、村の人たちがやって来て、ついさっき、右翼のならず者の一団がバスで乗りつけて学生たちを拉致していったという。みんなはぼくらの身の安全を気づかって農家の一室にかくまい、食べ物を差し入れてくれた。おかげで無事ではあったが、
演奏会はお流れになってしまった。
 三月二十日は、政府がこの日までに外国軍隊を撤去すると公約していた日である。この日に向けてNSCT(タイ全国学生センター)は、全国の大学をまきこんだ広範な闘争を組織していた。カラワンの歌「危険なアメリカ人」がさかんにうたわれ、ぼくら自身も、大学や市場など、あらゆる場所でこの歌をうたった。
 とうとう三月二十日になった。この日は国立劇場そばの戦没者記念塔の周囲で、早朝から夜中まで基地撤廃要求集会が開かれた。昼間はなにも起こらなかった。ところが夜の部に入って、マヒドン大学の学生たちがうたっているとき、舞台の脇に爆弾が投げこまれた。鼓膜が裂けるかと思われるほどすさまじい爆発音がして、群衆は右往左往して逃げまどった。喜劇的な才能で有名な職業技術学校のチャーイレックと、ルークトゥン・サッチャタム楽団のコミカルな司会者ドゥアンがこの爆弾で負傷した。
 人びとの怒りは翌日の大デモ行進となって爆発する。沢山の楽団が合同して、いっしょに「反帝国主義のマーチ」や、ジット・プミサクの「革命の英雄」「血には血を」などのマーチをうたいながら行進した。ラームカムヘン大学の学生合が「危険なアメリカ人」の歌詞を刷って、参加者全員に配ったので、たちまち大合唱がまきおこった。乗合トラックの屋根に登って、肩を組んで声をはりあげている連中もいる。そして、ちょうどデモ隊がサイアム・スクエアにさしかかったときだった。またしてもデモの隊列に爆弾が投げこまれ、十人以上の死傷者が出た。ルークトゥン・サッチャタム楽団のムーもこのとき負傷した一人だ。
 ポンテープはこのデモのあと、彼の最初の曲「コーラートはアメリカを追い出す」を書いた。メロディはコーラート地方の歌からとっていた。
 労働者の闘争に呼ばれて工場にうたいに行くことは、このあともまだ続いていた。まず労働者が工場の自主管理を続けていたハラ・ジーンズに行った。ほとんどが十三歳から十五歳くらいの少女たちで、ぼくらは彼女たちといっしょに車座になってうたった。とてもなごやかな雰囲気だった。スト中の鋼線工場にも招かれた。「起って闘え」をうたいはじめると、一群の労働者がぼくらの故郷イサーンの言葉でいう「ガテッ」踊りを踊りだす。彼らの踊りぶりは、まさしく闘いに立ちあがった人たちに特有のものだった。
 こうしていろいろな工場を訪ねる機会にめぐまれたわけだが、工場によってずいぶん違いがあるのに驚いた。ある織物工場の労働組合結成祝賀会に呼ばれたことがある。ここにはきちんとした講堂があり、寮も大学の学生寮にひけをとらないものだった。女子労働者たちの服装も、そんじょそこらの学生活動家などよりはよほど身ぎれいだったし、労働者たちがバンドをつくって演奏できるだけの楽器もそろっている。なんとかテキスタイルという日系企業だったと記憶している。これと反対にぼくらがひどくショックを受けたのは、バンコク郊外にあったある織物工場のケースだ。ここでは女子労働者が大半をしめ、そのほとんどはイサーンの破算した農家の娘たちだったので、ぼくらはイサーン方言で親しく話をすることができた。彼女たちは工場の敷地内にある寮へ案内してくれた。着替えをするにもセメントの床に膝をつかなければならないほど天井が低く、そこに三段になったベッドがぎゅうぎゅうに押しこめられている。五〇〇人の住人に対してトイレは八つしかない。しかも実際にちゃんと使えるのはたったひとつだけなのだ。寮とは名ばかりの鶏小屋だ。しかも彼女たちの食べ物は豚の餌と大して変わりないものだった。
 このあとすぐモンコンはイサーンに帰省し、旱ばつと貧困を目のあたりにした。折しも雨が降りはじめ、彼はバンコクで会った女工たちに思いをはせる。彼はその想いを「新しい雨」という歌にした。
 ノンタブリ市の工場のストのときは、工場が包囲されて帰ることができず、徹夜の覚悟でうたった。一カ月もストが続いて、何度もうたいに行った工場もあった。行く度に飯を炊いて出してくれる。モンコンが猛烈な腹痛を起こしたことがあったが、中年の女子工員たちがタンカで運んで応急手当をしてくれた。彼らの友情は今でも忘れることができない。
 ソンクラーン祭〔タイの旧正月〕には、前年に続いて、友人の新聞記者ステープの故郷であるロッブリー県の田舎に出かけた。前回はまだポンテープがメンバーになっていなかったので、四人で行ったのだが、今度もスラチャイが加わらなかったのでメンバーはやはり四人だった。昨年は、ぼくらのつぎの当たったポロシャツを見て、観客の少年の一人が自分のシャツを脱いで舞台上のモンコンに投げてくれ、満場の喝采をあびたものだ。ステープはこの村のソンクラーン祭の祝い方を見せてくれた。村人はラオス系で、その夜ぼくらがうたったイサーンのメロディーは彼らの郷愁をさそったようだった。
 この村から帰ると、今度はガンマチョン楽団と南タイをまわることになった。最終地は前回と同じく、ヤラーとパッタニーだったが、今回は呼んでくれたのが大学ではなく、市民グループだったので、ボクシング場で公演した。回教徒の村にも行った。ほとんどタイ語が通じない。それでも会場の市場をうめつくすほどの人が集まってくれた。学校の先生がぼくらの歌をヤウィー語に訳してくれたので、聴衆からは笑い声があがっていた。コンサートが終った瞬間、ドーンという大砲のような音がしたので、ぼくらは胆をつぶした。まわりの人たちが「祝砲ですよ」と笑っておしえてくれた。言葉こそ通じなかったが、みんなが大変友好的なのは肌で感じとることができた。彼らがもてなしてくれた食事にぼくらは舌鼓をうった。
 ぼくらは3チャンネルの月例番組に出演した。これがカラワンにとって最後のテレビ出演となり、同時に社会を騒がせる事件にもなったのだ。この番組でぼくらは、当時のタイでもっとも有名なストリング・コンボのバンド「ジ・インポッシブル」と共演した。最初に司会者がスラチャイのインタビューをしてから、ぼくらは「人と水牛」「ジット・プミサク」「起って闘え」をうたった。ところがこの番組が放映されるや、時の内務大臣ブンテン・トンサワットが「人と水牛」を禁止すると宣言したのである。この月例番組そのものも禁止され、担当のディレクターは訊問を受けた。彼はカラワンを自分の番組に出演させた理由として、新しいタイプの歌だと思ったからと述べた。スラチャイ自身もインタビューの際、こういう歌もあるのだと思ってほしいと語っていた。ともあれ「人と水牛」は、禁じられた歌ということになってしまったのだ。このニュースはほとんどの新聞がとりあげ、その結果、「人と水牛」のテープとレコードは爆発的な売上げを記録した。「生きるための歌」の楽団はこぞってこの独裁的な措置に抗議の声をあげ、ついには王宮前広場で抗議集会が開かれるにいたった。さまざまな職業の市民たちも参加して意見を表明し、すべての楽団が「人と水牛」をうたった。作詞者のソムキット・シンソンや各分野の芸術家や文化人たちも意見を述べた。結局、この命令は実際上はなんの効力もなくうやむやになってしまった。効力を発揮したとすれば役所の中だけのことで、レコードやテープはそれまでと同様、公然と売られていたのだから。
 この騒ぎのあと、ぼくらはしばらく休みをとることにして、モンコンとトングラーンは郷里に帰った。失くしてしまったピンの代りを入手するためだ。だが今回の帰省はそれまでとはかなり違ったものになった。というのも、「人と水牛」のテープがこのあたりでも売られるようになっていて、彼らがその楽団のメンバーであることが、知れわたっていたからだ。村人たちはしきりに彼らと話をしたがった。政治の話やバンコクの学生たちの動きについての話もでたにちがいない。田舎の人たちは、はじめて聞くこのような話に熱心に耳を傾けたが、そのこと自体、為政者の側から見ればまさしく煽動活動にほかならなかった。ある日、彼らが村人たちと話しこんでいるところへ、昔の友だちが一人、涙ながらに訪ねてきて、じつは五万バーツで雇われてモンコンを殺しに来たのだと語った。だったら、なぜ殺さないのかとモンコンが訊ねると、その男は「俺はお前を殺せない」と言うのだ。片足の不自由なモンコンのような男が人に危害を加えることなどできっこないし、ましてコミュニストだなどという罪状は信じがたいということだったようだ。
 五月一日、カラワンはトングラー、ルークトゥン・サッチャタムと共に、コーラートのメーデー集会に招かれて行った。乗合トラックを二台チャーターして、一台目にはカラワンとルークトゥン・サッチャタムの楽団員、二台目にはぼくとトングラー全員が乗った。ぼくらのトラックは一台目より三時間ほどおくれて出発した。パクチョン郡まで来たとき、まだ追いつくはずがないのに、先行したトラックが道端にひっくり返っているではないか。まわりに人は少なかった。みんな病院へ行っていたのだ。あとに残っていたモンコンが語るところによれば、片足がもげてしまったのに、彼が顔色ひとつ変えないので、知らない連中はびっくりしてしまったらしい。もちろん彼の片足は義足なのである。用心深いトングラーンは車ではかならず前の方に乗る。それが裏目にでて、この時は頭に傷を負ってしまった。ルークトゥン・サッチャタムのメンバーもみんな軽傷を負った。それでも会場には全員が時間どおりに到着し、なんとか舞台に立つことができた。トングラーンの頭にペタリと貼られた白い絆創膏が目立ったくらいのものだった。この日は集会の間中、雨がやまず、ぼくらも雨にうたれながらうたいつづけた。
 乾期も終りに近づいていた。スラチャイは映画「トンパン」を撮りに行き、モンコン、トングラーン、ポンテープは休養と練習をかねてルーイ県の牧場に出かけてしまったので、バンコクにはぼくとマネージャーのロダンの二人だけが残された。そのころコンケンの友人たちが、カラワンの三人が近くに来ていることを知って、ぼくにも来るように連絡してくれた。コンケン行きのバスはまさに救急車だった。誰にも追越されまいとつっ走り、乗客も降してくれない始末なのだ。コンケンでは、ぼくらの「黄色い鳥」に感銘した学生たちが「黄色い鳥」というバンドを作ったという話を聞いた。
 七月の末、チェンマイ大学の学生から連絡を受けて北へ行った。学生と農民が共同で全画した催しに出演するためだった。
 夕方六時までに演奏を終えて、あと二時間足らずで帰りのバスが出る時になって、近くの農業学校の学生が迎えに来た。猛スピードででかけて、さっそく演奏を始める。集まった学生たちも何が始まるのか見当がつかないらしく、ロックのパーティーかと思って踊り出そうとする連中もいる。ここの学生はカラワンの歌を一度も聴いたことがないようで、はじめのうちはあまり興味
を示そうとしなかった。そこでぼくらは、なるべく軽快な歌を選んでうたうようにした。彼らがすっかり気に入ってくれたのは、「やめてくれ」のなかの、「やめてくれ兵隊さん、やめてくれ警官さん」のところだった。「ジット・プミサク」もたいへん受けた。演奏を終えて大急ぎで楽器をかたづけていると、酔っぱらった学生たちが「おーい、チンバさん、こっちへおいでよ」と大声で呼んでいる、モンコンが近づいて行くと、彼らはいっしょに飲もうとさそっているのだった。ドブロクとメコン〔ウィスキー〕を並べて、どっちか好きな方を選べという。モンコンはドブロクを飲んだので、彼らは手をたたいて大喜びだった。
「俺、お前がメコンをとるかと思ってたぜ。メコンとってたらぶっとばされてたぞ。俺たち貧乏人はドブロクと相場が決まってるぜ」
 彼らはもっと飲んでいくようさそってくれたが、ぼくらはどうしても八時のバスに乗らねばならなかった。おおぜいの学生たちが見送ってくれ、今度来たら自分たちの家に泊まれよ、俺の家は○○県だぞと口々に叫んだ。ぼくらにとって「友だち」と呼ばれることほど嬉しいことはないのだ。
 バンコクへ戻って何日もたたないうちに、今度は南タイの学生から連絡が入った。ぼくらがOKした直後に、スラチャイがハッピーな知らせをもってきた。八月上旬に結婚することにしたというのだ。だが南タイ行きと重なってしまうため、ぼくらは結婚式への出席をあきらめるほかなかった。スラチャイもあとから来ることを約束し、ぼくらは汽車でナコンシータマラートヘ向かった。
 駅に迎えに来ていたのは、ジャムローン(三年後には、彼は作家として名をなす)と名のる、よく日に焼けた快活な青年で、車はリヤカーだった。アンプや荷物をリヤカーに乗せ、駅の裏にある一軒の家までひっぱっていって、そこに泊まる。彼は、果物を六キロとカノム・チーン〔タレのかかったそうめん〕を山のように置いていってくれたが、ぼくらはそれをすっかり平らげてしまった。彼いわく、イサーンの人間は腹をすかせているにちがいない、と。
 まず映画館で公演した。宣伝にはカラワンの名をいっさい出さず、「フォーク・バンド」とだけしておいたのだが、前売りだけで一杯になった。ぼくらは演奏中はほとんどなにもしゃべらず、最後の歌が終ってから、はじめてカラワンの名を明かした。熱い拍手がいつまでも鳴りやまないなかで。
 教員養成学校でも同じようにした。カラワンであることが知れれば、学校側がコンサートを許可しないからだ。ぼくらの正体を知っていたのはほんの少数の連中だけだった。そこからトラン県に向かい、スラチャイと合流した。可哀想に、彼と新婚の妻はたった一日だけいっしょにいただけで別れなければならなかったのである。戦場に向かう兵士とその妻のように。トラン公演を終えると、すぐその足で農村まわりをはじめた。行く先々の学校に泊めてもらって、そこでうたうのだ。ある村で、その夜泊めてもらうことになっていた学校の先生の家に歩いて帰る途中、すぐそばで銃声が二、三発轟いた。ぼくらはあわててその場を飛びのいた。と、見やれば、ぼくらを狙っていた殺し屋の方もあわてて逃げて行くではないか。翌朝村の人がやって来て報告してくれたが、よそものだということだった。
 この村の人たちの案内で別の村へ行く。ここでも学校で演奏した。谷あいに建てられた学校で、スピーカーを通してぼくらの演奏がはるかかなたまで響きわたった。この地方では若者たちがみな村に残っている。イサーンとは雲泥の差だ。郷土防衛隊に志願する者も一人もいないということである。そんなことをしたら村人たちから総すかんをくうこと受けあいなのだそうだ。演奏が終りに近づいたころ、旧式銃とおぼしき銃声が何発も聞こえてきた。村の人たちがぼくらを急いで彼らの家にかくまってくれる。果樹園にも案内してくれたので、ぼくらはランブータンを腹の痛くなるほど食べたものだ。でも、ココナッツ・ミルク入りのカレーが何日も続いたのには閉口した。最後の日、彼らの案内で近くの滝に遊びに行った。帰りは、山から流れて来る渓流にそって下る。この流れは水田に引かれていた。ぼくらはきれいな水を手ですくって飲み、顔をひたしながら、郷里イサーンを思わずにはいられなかった。この南部の豊饒さのほんの一部でもイサーンにあったなら……。
 また別の村に行く。例によって学校に泊まるが、教師はたった一人しかいない。いまの首相の名を訊ねたら、「知らない」とのこと。この先生が、ただで音楽会があるからと声をかけてくれたので、夕方になると村人たちが手に手に食べ物をたずさえて集まってきた。どの家も畑作農家で、生活は決して楽ではないようだったが、ぼくらがうたい終ると、ドブロクで精一杯もてなしてくれた。モンコンの喉の血管が切れて倒れたのもこのときだった。ぼくらは彼をトラン市の病院にかつぎこんだ。
 さらに旅を続け、海辺の町カンタンに着いた。ここでは聴衆のほとんどが労働者で、海岸に舞台が用意されていた。日が暮れるとすぐ演奏開始だ。雰囲気は多少変わったとはいえ、友好的であることに変わりはなかった。ここでもぼくらは一見ヤクザ風の男に襲われそうになったが、港湾労働者の一人が間髪を入れず男の喉元にナイフを突きつけ、会場から引きずり出してしまった。幾重にも重なる山岳地帯の闇をぬけて、トラン県に別れを告げた。

     十・六軍事クーデター

 帰路、南タイの大都市ハトヤイに寄り、ソンクラー大学と教員養成学校で演奏会を開いた。「十・一四」で国外追放になったプラパート元内務大臣が帰国したというニュースが入ったのはこの直後のことだった。情勢は緊迫の度を一段と深めた。学生たちは不眠不休で活動をつづけた。ぼくらも学生たちに協力を求められて県庁での集会に参加し、それから大急ぎでバンコクへ戻った。
 汽車を下りると、すぐその足でタマサート大学に直行し、ほとんど休む間もなく舞台に立った。夜は場所を講堂に移し、音楽と芝居が交互に朝まで続く。みな舞台の裏で仮眠をとっただけで翌日を迎えた。この日、ふたたび流血の惨事が起きる。ラームカムヘン大学の学生のデモ隊が、タマサートの門に入るところで右翼の雇われ集団から爆弾を投げこまれたのだ。何人もの死傷者がでた。さらに銃撃も始まった。ぼくらも、大学の塀の向こう側から狙い撃ちにあう。戦場の真只中にいるような緊迫感につつまれた。違っていたことは、フットボール場に集まっていた学生と市民の側が、戦いを挑むべき武器を何ひとつ持っていなかったことだけだ。リーダーの学生が集会の解散を命じ、全員が並んで退去すると、大学はすでに機動隊にかこまれていた。
 この日以来、タマサート大学の講堂は閉鎖されてしまった。けれども演奏の場はまだ残されていた。チュラロンコン大学の講堂や各学部、それにバンセン教員養成大学などだ。たとえどんな夜中でも、呼ばれればかならずうたいに行った。
 九月に入り、ぼくらは他の「生きるための歌」の楽団といっしょに、東北技術専門学校でセミナーを開き語りあった。最後の夜は全員で演奏会を開いた。はじまって間もなく、またしても騒ぎがもちあがった。物騒な連中がなだれこんできて照明を切ったのだ。ぼくらはたじろがず、ロウソクをつけて、学生たちといっしょに次々とマーチの大合唱をやったので、連中は結局なにもできずに立ち去るしかなかった。
 十月が近づいていた。眼に見えないところでなにごとかが進行していた。カラワンはまたイサーンに行った。トングラー楽団、マヒドン大学とラームカムヘン大学の演劇部と同行する。ブンパラーンチャイの町で、安い入場料をとっての公演だ。その何日も前から、「コミュニストの煽動にのるな。爆弾が投げこまれるぞ」というデマが流されていたのがかえって宣伝になって、満員の観客が集まった。
 まずイサーンの民謡、続いてブリラムの学生のストリング・コンボ演奏があり、ぼくらの出番になる。マヒドン大学演劇部がトングラー楽団の伴奏で祝賀の舞を舞ってから、トングラーによる「生きるための歌」の演奏に入る。途中でまた照明が切られたが、学生たちがロウソクを用意し、厳重な警戒に当ってくれた。この時は若いコメディアンたちが観客を大笑いさせ、恐ろしい流言《デマ》のあったことなど吹き飛ばしてしまった。観客と出演者の間で心が通い合い、ひとつに融けあった忘れがたい演奏会だった。一人の警官などは、目に涙を浮かべて言ったという。
「コミュニストというのはこういう人たちのことなのかね」
 バンコクに戻るとすぐにまたコンケン大学の学生から招請を受け、イサーンにとって返す。コンケン大学と職業技術専門学校、続いてマハーサラカム県の大学と教員養成学校で公演。ここではジープで乗りつけた連中が妨害に入るが、観客の学生も市民も、一人として席を立つ者がなく、とうとう彼らは観客の怒号によって追い出されてしまった。
 九月の終りちかく、ぼくらはバンコクに戻った。プラパートに続いて今度は元首相タノムが、僧衣を隠れみのにしてひそかに帰国した。NSCTはただちに王宮前広場で抗議集会を組織したが、ぼくらは他の場所でうたっていたので参加できなかった。チュラロンコン大学に集会場所が移ってから、ようやくぼくらも駆けつけることができた。そしてこれが、バンコクにおけるぼくらの最後の演奏になった。
 十月に入るとイサーンの学生たちからまた連絡が入った。タノムの帰国に反対する集会が各地で開かれることになったからだ。コーラートでは公園に学生たちが集まっていた。そのうち険悪な情勢になってくる。市民が二手にわかれて激しい口論となったのだ。集会はあまり長く続かず解散してしまった。その夜、学生たちに促されるままウボンに向かった。翌朝、教員養成学校で開かれた集会に参加する。学生たちはちょうど期末試験を受けている最中で、集会は夕方までで終った。ラジオや新聞のニュースで、バンコクの情勢は刻々と緊迫していることが分った。十月五日の夜、コンケン大学の学生から連絡を受けて出発する。大学に着いたときはもう夜中の二時をまわっていた。挨拶もそこそこにすぐ寮に泊めてもらう。
 明け方の五時頃だった。同室の学生がぼくらを叩き起こした。「起きて下さい……流血の大惨事が起こっています」彼の声は涙にふるえていた。
 十月六日は早朝から抗議集会になった。ぼくらはバンコクと連絡をとろうとしたが、連絡がつかなかった。集会では、カラワンとコームチャイが交互にうたい、政治討論会でも議論が白熱化した。夕方、統治改革団によるクーデター成功の声明がラジオを通じて流された。軍政復活を呪う罵声や怒号が大学中にこだました。学生合のリーダーは声を震わしてマイクに向かった。
「軍事独裁政権は、ふたたびわれわれをく軛《くびき》の下につなごうとしている。けれどもわれわれは、二度と奴らの前に首《こうべ》を垂れることはないだろう。平和的手段での闘争は不可能となった。過激な手段を選ばざるをえない……」
 もう後には退けない。学生たちのこころはひとつになっていた。このころには、学生の身を案じた教官たちも集まって来ていた。軍隊による大学の強制捜査があるという知らせが入っていたのだ。
 間もなく沢山の書物や資料やビラが集められて、火がつけられた。愛読した本の山から燃えあがる炎は、涙でかすんだ。
 学生会は、「黄色い鳥」楽団をぼくらの護衛につけてくれた。もう選んでいることはできなかった。一九七六年十月六日夜、ぼくらは乗合トラックで出発した。月がこうこうと道を照らしていた。どこへでもよかった、軍事独裁政権の手から逃がれられるところならば。


晶文社 1983年7月15日発行  





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