『カラワン楽団の冒険 生きるための歌』 ウィラサク・スントンシー 荘司和子訳

目次    


カラワン 序詞


日本のみなさんへ
 スラチャイ・ジャンティマトン

第一部 回想のカラワン
  ウィラサク・スントンシー


 1 カラワンの誕生

 2 クーデター

 
3 「森」の生活

 4 ラオスから中国へ


第二部

 5 モンコン・ウトックの話

 6 楽団はよみがえる
    八巻美恵

 7 カラワン歌集


訳者あとがき

3 「森」の生活

ゲリラ地区に入る

 一九七六年十月六日、闇夜の中、ぼくらを乗せた乗合トラックはひたすら北へ向かった。ぼくらの車の前後をコンケン大学学生バンド「黄色い鳥」のメンバーたちがオートバイで護衛してくれていた。彼らは危険地域を無事脱したところで、手をふって帰って行った。
 ぼくらはすべての危険な場所を無事通り抜けて、夜中の二時頃ルーイ県ルーイ市に着き、そこで腹をいっぱいにし、一人一箱か二箱のタバコを買ってふたたび出発した。深い霧で道路がまるで見えなかったので、運転手は車の外へ首をつき出して見なければならなかった。約二時間ほどで車は左へ折れて、でこぼこ道に入った。そのまま進んで森につきあたって道のなくなるところまで来てから、案内してきた人が、とある一軒の農夫の小屋にぼくらを連れて行ったのだった。この小屋は部落の他の家からはだいぶ離れていたので、どんなにいい目をしたやつらにでも発見される心配はなかった。
 翌日の早朝、この小屋の持主はぼくらに御飯を炊いて鶏や魚を煮て食べさせると、あたりの農夫たちがやって来て顔を合わせることにならないうちに、「森」に連れて行って、日中は身をひそめているようにとりはからった。夜になるとまた戻ってきて小屋で寝るのだった。ぼくらはこのようにして三日間を過した。最後の晩は小屋の後の竹やぶで寝ていたが、夜中になって犬が吠えるので、「森の人」が迎えに来たのであろうと察した。まずぼくらの前に現われたのは女性兵士で、縦横ともに大柄でM16銃を握っていた。彼女は近づいてくるとぼくらと握手であいさつを交わした。コームチャイ楽団のモットは思わず声をあげた。
「ヒェー、女性でこの大きさじゃ、男ならどうなっちゃうだろう」
 と、言い終らないうちに緑色の軍服を着たやせた小柄の男が近づいてきてあいさつをしたので、ぼくらは笑いをこらえきれなかった。
 彼は荷物をまとめて出発の用意をするようにと言った。迎えにきてくれたのは女性一人と男四人ほどのグループだった。最初の晩は隠密行で靴をぬいで歩かねばならなかったし、話し声をたててもいけなかった。一番きつかったのはタバコを禁じられたことだった。シャツも白や明るい色のものをぬいで暗い色のものに着替えた。道路を通る時はいちばんどきどきした。月夜の晩はあまり緊張しないで気を楽にしていられた。目的地に着く前に、スアモープの薮のトンネルを通り抜けねばならなかった。それはうまく目隠しになっていたが、腰をかがめて入らねばならない。ぼくらは髪を長くしていたのでずっと頭を下げたままで通らねばならなかった。ようやく泊まる所に着くと、ぼくらを先導してきたやせた小柄な人は、ハンモックから起き上がってきた「森」の兵士に言った。
「新しい同志が着いた。歓迎してほしい」
 この言葉が終るか終らないうちに、男も女もいっせいに出てきてぼくらの手をとって歓迎してくれた。
 朝は夜明け方に起床だった。ここにぼくらより前からいる人の話だと、今いるところは「タップ」〔宿営他〕と呼ばれる仮設拠点で、いつでも移動できるとのことである。つまりここでの仕事がすむか、付近の農民に見つかったり音を聞きつけられたりした際には、急いで移動しなければならないのである。それであかりや音には細心の注意を払わねばならなかった。
 はじめのうちぼくらは一日三回食事をとっていたが、他の同志たちが朝夕二回しか食事をしていないのを見て心苦しく思い、同じにすることに決めた。二、三日するとそこで集会が開かれた。人は少なかった。彼らはぼくらに十月六日に起こったことを語ってくれるようにというのだった。ぼくらはだれもその日バンコクにいなかったので、十分な説明をすることはできなかったにもかかわらず、彼らの涙をさそい、野火の如く燃えあがる憤怒に火をつけたのだった。ただしこの場所が人家から十分離れた場所とはいえなかったので、だれも大きな声を出すということはなかっただけである。
 空き時間には政治学習が始まった。いわゆる民族民主革命についてである。それから「森」へ連れていかれると、隠してある銃を取り出して、銃の組み立てから、立って撃つ、坐って撃つ、伏せて撃つといった基本姿勢の練習から始めた。ぼくらに渡された銃は古いしろもので、カールバインとかイートゥープ(PLYB88)といった。この最初の拠点での滞在は短いもので、間もなくまた夜の行軍に出発した。今度は兵士としての訓練でもあり、それまでと違ったことは寝る場所を自分たちで作らねばならないことだった。
 家を建てるのではない。屋根といっても木と木の間をひもでつなぎ、ゴム製の布をその上からかぶせるのである。その布の四つの角にも細いひもがつけてあり、それぞれを近くの枝に結んで張ればこれで切妻風屋根の出来上がりとなる。ベッド用にはテトロンかもう少し厚い布なら一〇〇パーセントのウェスポイズでもよい。人によっては傘用の布地が軽くて薄くて良いともいう。端を二〜三インチ縫っておく。ナイロン綱またはパラシュート用綱で布の両端を縫い、その綱の両端は体重に耐えられそうな木に結びつけるのである。まちがってもバナナの木などにゆわえつけないことだ。雨がひどい時は直径一インチくらいの木を切って、支柱を二本立て、雨水がハンモックに全部流れこまないようにする。ハンモックで寝た最初の晩は、ぼくらが横になるとびりびりばりばり大きな音がして何枚ものハンモックが破けてしまった。友人が買い入れてきた布地が古すぎて弱っていたので、体重の重さに耐えきれず真中から裂けたのだった。ぼくらは自分で繕わねばならなかった。「森」の中で生きていくには、針と糸はナイフとライターについで重要な生活用具である。
 この「タップ」では水の供給に問題があった。ただ雨がまだ降っているので、小さい池を掘って貯水用にした。これで水浴も飲料用もまかなった。水浴の際はピドン〔ベトナム式水筒で底が二重になっている〕の底を使って水を汲むのだ。飲料用にするには一度煮たててから使った。池を掘るときに段をつけてはあったが深くて急だったので、下りるたびに皆よくすべったものである。
 何日かここにいる間に学生が三、四人やってきた。男子学生も女子学生もいた。それでささやかな歓迎合をすることになった。夕方農民が犬を一匹持ってきてくれたので、ぼくらは生まれてはじめて犬の肉のローストしたのを食べた。解放軍の少年兵が食べようとしないので、ぼくらは「おや、同志は犬の肉は食べないのかい」ときくと、彼はかぶりをふりながら田舎訛りでこう言った。「食べると遠吠え《ホーン》するようになる」ぼくらは皆一瞬呪われたような気分になり、あいた口がふさがらなかった。冷汗を流している者もいた。その時笑いながら一人がこう言うのだった。「食ベると暑くなる《ローン》って言ったんですよ」みんなの笑い声がようやくひとつになって高まった。
 学生たちの歓迎会は夜になってから開かれ、まず「十・一四」の英雄たちへの追悼から始まった。バンコクから来た学生たちはタマサート大学での流血事件をつぶさに語ってくれた。誰々は逮捕され、誰々は殺されたといった消息も。ガンマチョン楽団の女性歌手ニタヤ・ポーティカムバムルンも殺されたらしいということだった。最後に全員で「黄色い鳥」を合唱して閉会とした。
 この「タップ」には二十日間いて、その後雨期明けを告げる大雨の中を出発した。夜行軍して昼間は身をひそめて休んだ。なんといってもモンコン・ウトックはいたましかった。ぼくらの疲労度、消耗度を比べてもだれも彼に並ぶべくもなかった。彼の足は一本だけしかなくて、あとの一本は義足だからである。「森」へ入る前に彼はグラドゥン山に登ったことがあり、大丈夫だと確信してはいたのだが、このあたりの山はグラドゥン山より低いとはいえ、いろいろなものが生い繁った道なき道であり、時にはずるずるすべったり、ぬかるみだったりするのだ。危険を察知した時には急いで窮地を脱するため走ることもある。しかし彼には走ることは不可能だった。だからぼくらが止まって彼を待たねばならないことが多かった。
 ぼくらが背中にしょった荷物は、先輩の同志たちの荷物に比べれば軽いものだった。彼らは自分の持物の他に米とその他の必需物資をすべて背負っていたのである。ある地点では夜が明けるまでに川を渡らなければならなかったのだが、雨が降り続いたあとで岸まで水があふれ、舟もみつからなくて、その夜は近くの田んぼの作業小屋で休んだ。
 翌朝ぼくらが立って舟を待っているところを、通りかかった舟に乗った人に見られてしまった。このあたりは政府軍支配地区(ホワイト・ゾーン)なので、危険がいつ迫ってくるかわからなかった。舟が来るとぼくらは大急ぎで二往復して、荷物ともども川を渡りきった。対岸には村があって、この村からもできる限りはやく立ち去らねばならなかった。なぜならぼくらのその時の力では身を護るのも不十分なくらいで、とても正面から対決などできるものではなかったからだ。それにぼくらの出会った住民がもう報告に及んでいたかもしれないのだ。ぼくらは山すその道を人をさけながらひたすら歩いた。食事もとらずに三時間も歩いただろうか、モンコンが気を失ってしまったので、ハンモックに乗せて運ばねばならなくなった。プータイ族の同志は急きょ近くの農家から米を分けてもらってきて、炊いて食べさせてくれたのだった。

プーサーンの人民解放軍の拠点

 それから七日かかってようやくわりと安全な地域にたどり着くことができた。目的地に近づくほど、ぼくらの体力はどんどん低下した。ぼくらより先に着いていた学生時代からの友人、ナコン・インタニン〔元学生運動指導者。一九七八年戦死〕がここまで出迎えにきていてくれた。その先まだ数時間多き続けて、ついにぼくらは人民解放軍の拠点に到達した。
 彼らは整列して、ぼくら新来者に歓迎の歌を高らかにうたってくれた。

  彼らは四方《よも》の地方《くに》より集い来た
  この山中の森で生活を共にする
  故郷あとにし 渓流のほとり
  ひとつの信念のもとに
  …………

 この歌はぼくらが目頭に熱いものを感じて聴いた最初の「森」の歌だった。ぼくらは彼らと握手を交わしながら彼らの列の前を通りぬけ、五分ほどでキャンプ地に着いた。
 ここはひとつの民衆工作隊のセンターにもなっていた。歓迎行事はいままでと同様だった。彼らは林や薮になったところにかたまって住んでいた。ブルーやピンク、黄色の屋根が見える。つまり市場から仕入れてきたゴム布の屋根とか、洗濯した布が干してあるのだ。
 翌朝早く起きるとまず便所をさがしたのだが、彼らは行くべき方向を指さしたうえで穴を掘る鋤を渡してくれた。その場所へ行ってみると、二尺《ソーク》間隔で延々と草や土が新しく掘りかえされた跡がついているのだった。
 朝九時か九時半に朝食をとる前に少年兵や農民出身の若い活動家が小屋の前に集合して政治学習が始まった。以前から解放区入りしていた学生や知識人がリーダーをつとめた。ここで教科書にしていたのは、赤い表紙の「毛沢東語録」か、彼らが「総合的真理」と呼んでいるものだった。農民出身の兵士は一般的にあまり政治学習を好まなかった。ある者たちは意見を述べるように言われると、先生にさされて答えを言わされる生徒のように、「毛主席に賛成です」と答えを逃げてしまうのだ。それで政治理論問題での意見の表明は、ほんの少数の弁のたつ人間の独壇場となっていた。そしてこのことは、宣伝によって人びとの心を容易に操作できる状況ともいえた。
 その日の夜は最初の日よりももう少し正式な「新しい同志」の歓迎式が行なわれた。広場には薪用の竹が束ねて置いてあった。夕食がすんだ後で式が始まった。竹の竿にハンモック用の布を張ったものが幕である。幕の真中にはスローガンが二枚の赤旗とともにはりつけてある。一枚の旗は星、もう一枚はハンマーと鎌である。式はこの党の旗に敬意を表わすことから始められた。それに続いて十・一四―十・六の英雄および人民戦争のさなかに命を落とした無名の英雄たちに哀悼が捧げられた。そのあとはこの地区の幹部の歓迎演説が続いた。内容は、生命を捧げた英雄を賞讃しそれに続けということ、武装闘争への参加を歓迎し、これが唯一の「正しい道」であると述べた後、CPT(タイ共産党)の栄光を讃えたものだ。
 曰く、党の方針が正しかったことは明々白々であり、故に多数の参加者を得てきた。無から有へ、弱者から強者へと今日まで成長をとげてきたのである。それから都市にいる人間も含めて名ざしで修正主義と日和見主義を攻撃し、ソ連の考え方をフルシチョフ以来修正主義であると非難し、国際情勢の分析に入って、インドシナでのアメリカの敗北と地位の低下について述べたあと、国内情勢を分析して、タニン内閣がもちこたえられないのは明白である、という。そして最後に「既成の公式《スート・サムレト》」すなわち「今日の状況は、われわれのすばらしい成果で……」という結論で結ぶのである。それからあとは各単位を代表する者からのあいさつがあった。どれもみな最後は「タイ共産党に栄光あれ!」をとなえた。それから握りこぶしを頭上にふりあげ、「栄光あれ、栄光あれ、アメリカ帝国主義は滅亡せよ! 反動政権は滅亡せよ!」を三回となえると、握りこぶしを下に向けて圧しつぶすしぐさをするのだった。
 プログラムの最後は余興だった。皆が一番楽しみにしているのはこれだ。とくに若者たちはそうだった。竹を切って積んだキャンプ・ファイアーに火がつけられた。司会者はぼくらにラム・ウォン〔タイのフォーク・ダンス〕の先導役を指示した。踊りの輪に加わらない一団は、周りに坐ったり立ったりして囃子方をつとめる。楽器がたった一つあった。彼らが「グラルム」と呼んでいた片面太鼓である。これは一ガロンかそれ以上の石油が入っていたポリバケツで(現在は水汲バケツとして役立っている)、竹をうめこんで作ったスタンドの上に置いてあった。ピドンの底をシンバルの代わりに使えば違った音を混ぜることもできた。太鼓をたたくばちにはそのあたりから木のきれっぱしをさがしてきた。歌は、マイクもアンプもない生の声だ。ラム・ウォンの歌はほとんど皆がいっしょにうたった。それが終ると司会者が、そこの部隊に出てきて歌をうたうように言った。すると兵士たちはかけ足で集まって整列し、リーダーの音頭で「十大規律」をうたい始めた。

  革命兵士は覚えておくこと、
  タイ人民解放軍の十大規律、
  行動はすべて指揮にしたがう
  …………………………

 はじめの部分を聴いただけでぼくらは「えっ、こりゃ中国の歌かい、タイの歌かい」とつぶやいてしまった。兵士の一人が言うには、「毛語録の歌と呼ばれています」とのことだ。このあとはまたラム・ウォンだった。今度はラム・ラオ〔ラオス式の歌謡〕でモーラムではなかった。ラオスの踊りと歌で、とても陽気で楽しいもので、リズムもタイのラム・ウォンとは違うのだ。後へ下がったりぐるっと回ったり、踊れる人はとてもかわいらしく踊っている。しかしいったいどうして男と男、女と女を組まして踊るのか。何曲うたってもリズムもメロディーも全然変わらないで、歌詞だけが変わるのである。それでぼくらは、この種の歌を「ひとつの節に一〇〇の歌詞」と呼ぶことにした。タイのモーラムにしても、ここではたとえば「ムアン村の郡長」のような古いものをうたっている。その他にも「古舞(ラム・ボラーン)」というのがあって、これを踊るのは中年の人たちかそれぞれ責任ある役職についているような人たちである。ぼくらは移動の旅をもじった寸劇をやってみせた。

政治・軍事学校

 この基地には十日足らずしかとどまらず、ぼくらは学校建設のため出発した。と同時に、新たに入ってくる学生の一団を待ってもいた。ぼくらは一人に一袋ずつの米の配給を受けた。粉袋と呼ばれている木綿袋入りで、これを運ぶのに第一日目はへとへとに疲れてしまった。米を入れてある納屋は大変近かったにもかかわらず、である。学校を建てるとはいっても、これといった建築資材があるわけではない。運動をするための運動場を伐り拓き、そのあたりの竹を伐り出して長いのや短いのやベンチを作って、それにすわって勉強ができるようにするのである。寝るところは土の上だ。ゴム布をしいてその上に寝ればいい。霧でぬれたくない者はゴム布で例の屋根を作ればいいのである。
 この政治・軍事学校開校には、CPTはかなりの数の活動家を投入した。医者、看護婦、炊事係、雑役係、教師見習いなどがいた。監督役は兵役を退いてきた兵の一団があたり、野菜や魚などを見つけてくる役もつとめた。いくらも待たないうちに都市からの学生や知識人の一団が到着した。その中に一人長いもじゃもじゃのあごひげをはやしたシータウという男がいて、ぼくにグルントーンというタバコを一本差し出した。ぼくらはとても話が合った。彼の最後の職業は影絵芝居の巡業で、ちょうど十月六日の事件のさなか、彼は影絵で政府批判をやっていて逮捕されそうになり、「森」へ逃げてきたのだった。それ以前に彼がやったことのある仕事は数えきれないほどある。カエルをとって売ったり、漁師をやったり、徴兵されて兵士になったこともある。投獄されたことは十回以上になる。
 一般的にいって、CPTは個人的な話、たとえば家はどこにあるとか、名前とか、以前の仕事とか、誰とつながりがあったかなどについて話すことを許さなかった。CPT指導下で「森」の生活に入った者は、自分の名前をまるっきり変えなければならなかった。十・六以降「森」に入ってきた学生や知識人についていえば、政治思想と関係のあるものか、「太陽を象徴するようなもの」、たとえばラウィー(太陽)、タワン(太陽)、ウタイ(日の出)、セーン(光)など、または「たたかいのあり様を表わすようなもの」、たとえばムン(意志)、ブック(拓く)、ハーン(勇気)、グラー(雄々しい)、武器と関係ある名前、たとえばアーカー(AK)、ラブート(爆弾)など、もしくは「山とか重々しく安定感を感じさせるもの」、たとえばプー(山)、ヨート(頂)、シラー(石)、マンコン(安定)などといった名前をつけることになった。農民たちでどんな名前にしたらいいか思いつかない者は「毛語録」を開いてカティ(格言)、ウィジャーン(批評)、ウィパーク(批判)、プラーサイ(あいさつ)などという言葉をとっては名前にした。インディアなどと国の名前をつけたものまでいたのだ(ひょっとするとインドの映画やインドの音楽が好きだったのかもしれない)。看護婦のある者は薬の名前に慣れていたので、クロフェンとかマイシンとか名づけたりした。ある者たちは社会一般で行なわれているような普通の名前のつけ方をした。そしてぼくらはといえば、それとはまた違って他の誰とも同じにならないような名前を選んだ。たとえばスラチャイは、彼が家で飼っていた犬の名前をとって自分の新しい名前にした。
 全員が揃うと、新しい隊が決まった。ぼくとスラチャイは同じ分隊、トングラーンとポンテープが同じ分隊で、モンコンは別だった。学習が始まる前にまず文献の準備があった。毛沢東語録の他に「林彪を駁す」といった類の文献、それからもっとも奇天烈なものは、うすっぺらな本で「毛沢東思想で鍛えられた新しい人間」というものだった。ぼくはこのような文献を「政治的スーパーマン」と呼ぶことにした。これらはほとんど全部中国で印刷されたもので、ぼくらの学習用にはCPTの印刷センターが謄写版刷りにしていた。毛沢東語録と比較してみれば、いずれも同じ胎から出た双生児といえるようなものだった。
 七六年十月からほどなくして、政治家、学生運動指導者、労働運動指導者の何人かは武装闘争参加の決意表明を「タイ人民の声」放送を通じて行なった。ぼくらにも同様の決意表明をするようにとの要請があった。この件では反対したのはぼく一人だった。
 この最初の学校には何日もいないでまた移動しなければならなかった。次の場所は谷あいにあって川が何本も流れていた。ちょうど冬にむかっていて寒くなったので、たき火をすることが重要な仕事となってきた。ぼくらはそのつどたきぎをたくさん集めておかねばならなかった。薄い毛布しかかけるものがなかったのだから。毛布といってもほとんどが綿布で軽くて薄物だった。
 寝る場所は隊ごとで、はじめの頃ぼくはスラチャイといっしょだった。軍事教練のための兵士もいっしょだった。彼はぼくらと同年輩の若者だった。政治学習の講師の方は六、七歳年上で、彼がこの学校の校長で管理責任者でもあった。学校のプログラムは十五日以内で終了するようになっていた。朝は五時半に呼子で起床。約十分かそれ以内で身仕度し、整列して体操する。ぼくのように早起きが苦手の者もいた。もっとゆっくり寝ていた方が力が出る感じだった。ぼくらは毎晩遅くまでパイプ(大麻用のパイプのような竹の円筒である)タバコをすって話しこんでいたのだった。朝はそれぞれ隊ごとに分かれて学習した。
 九時には全員そろって食事をする。食卓はだいたい腰の高さで竹でできていた。食事は立ったままでする。いつでも戦闘に出られる態勢にあるためだ。厳格に考えている者は食事中も銃を肩からかけたままだった。ここにはどんぶりや皿はない。ゴム布を広げてその上にもち米を置く。どんぶりの代わりには大きなサーン〔竹の名〕を切って使った。二つに割ってゲーン〔スープやカレー類〕やナムプリック〔唐辛子や魚で作るタレ類〕を入れるのである。非常によく食べた料理にポンバクフンというのがある。どんなものかというと、パパイヤを煮て唐辛子と塩(ラードもナムプラー=魚醤もなかった)をまぜ、水をたしてよく煮たものにもち米をつけて食べるのである。もう一つは魚のかんづめ入りパパイヤのゲーンである。主な材料はまず水がメイン、その次がパパイヤ、魚のかんづめは最後である。食事が一日二回という習慣になじめない者は、たいていもち米のいぶしたもの(カーウ・ジー)をかくし持っていた。蜂の巣くらい大きいのを持ってくる者もいた。
 政治学習で強調されることは階級闘争と革命の話だった。なんといっても重要なのは「党について」である。社会の分析についてはだれも真剣に話さなかった。CPTは毛沢東主義がすべてについて真理であるとみなしていたからかもしれない。この政治学校には「苦難を物語る」という慣習があった。その日は冗談を言ったり、大声で話したり笑ったり、歌をうたったりにっこりしてもいけなかった。なぜなら階級について学んでいるところだからである。
 まず分隊ごとで語り合い、それからその中でもっともつらい経験をした者が全員の前で話すのだ。いずれにせよ、彼らはこの地区でもっとも「悲惨な人間」というのを見つけてくる。そして「階級愛にめざめた人間」と呼ぶ。この日の食事は「苦難の食事」といって、米にバナナの木のしんをまぜて炊いた味のないもので、これを食べた者が、涙とともに階級的苦難を決して忘れないためだという。
 けれども貧しい農民たちはこれを喜ばなかった。なぜなら彼らはもうすでに十分つらい生活を味わってきたと考えていたから。時には苦い味をつけるために、キニーネを入れてあることまであった。週一日二日は米の運搬と野菜や魚をとるための休みがあった。
 学習が終わると終了式があり、余興も行われた。これには他の単位や部隊からも出席者があった。学生たちはリケー、ラコン、ラムタットなどいろいろなスタイルの芝居を見せた。スラチャイは新しいスタイルの芝居を演出した。話の内容はほとんど「十・六」を扱っていた。
 CPTには「女性戦士《ナックロップ・イン》」という劇団が一つあった。武器をとって踊るバレーのようなものだ。芸術性という点からいえば、まだあまり高度なものとはいえないしろものだ。ぼくらは楽器を持ってきていなかったが、ピン〔東北タイの弦楽器〕が一つあったのでラム・ウォンをうたうことくらいはできた。
 ここを卒業した後それぞれがどのような隊に配属されることになるか分らなかったのだが、最終日にその発表があった。ぼくらもついにばらばらになるわけだ。トングラーンとポンテープはゲリラ部隊に、スラチャイは民兵部隊に配属された。ぼくとモンコンはひき続き学校をやっていくための講師グループに入れられた。ぼくらの生活もそれぞれの任務と任地により変わっていく。政治学校には二回生が入って来た。モンコンは少年たちに政治を教えることになった。ぼくは職業学校生と農民の子供たちを教えることになった。こうしてそれぞれに人間関係がひろがっていった。スラチャイの部隊は、ほとんどが十五、六歳以下の少年たちで、指揮者がやさしい人だったので大変な腕白ぶりだったという。
 このころぼくははじめて病気にかかった。赤痢である。ぼくだけでなく二十人以上がかかっていたので、誰が一番ひどいかで、たとえば「コンミューン一四」(コンミューンが名前で、一四とは一日の下痢の回数)などと、ひそかに呼び合ったものだ。それで治るまでにはすっかりやせこけてしまった。一方モンコンは丈夫で全然病気をしなかった。彼は純真な子供たちといっしょで、これらの子供たちから少なからぬ感銘を受けていたようである。自分の家が一枚の田も持っていないため、日々の米を買うため山菜を採ったり、魚をとったり、獣を猟ったりしている子や、まだ十二歳で森林の伐採の仕事をしてわずかな日当を得ている子、レンガ工場や油脂工場で日雇い工をしている子、バンコクの奴隷工場で働いていたことのある子などさまざまだった。モンコンは「プーサーンの少年たち」を作ってこの子供たちのことをうたった。
 十二月、年の瀬もおしつまるころ、また新たな学生の一団が到着した。このなかにはクルチョン(教師)楽団の美声の歌手レックがまじっていた。ぼくらの楽器が、コンケンの友人のところから送り届けられて来たのも、このころのことである。ただし全部ではない。ケーンはなくなっていた。新しいバイオリンは借金を返すために友人が売ってしまい、そのかわりに古いバイオリンを見つけて届けてきた。トランジスターのアンプとマイクも来たが、これはまず使うことがなさそうである。
 第二回生の学習が終ると、ぼくらはふたたび合流した。このころの演奏は主にラム・ウォンの伴奏だったが、新しい歌も徐々にできていた。スラチャイの「燃えあがれ炎」、モンコンの「プーサーンの少年たち」、コームチャイ楽団の「革命の呼子」、「赤い植物の種子」である。第三回生歓迎会で演奏した時はクルチョンの女性歌手レックもぼくらといっしょにうたった。党がカラワンとコームチャイの合同を指示したのはこの時である。ぼくはこれには大反対だった。ぼくの意見に近かったのはモンコン一人で、あとは全員賛成だった。コームチャイはメンバーが足りないことを理由にあげていた。それに対してぼくは、必要に応じて賛助出演すればいいという意見だった(つまり彼らの伴奏をするのである)。この二つの楽団の音楽の質はゲーン・ジュート〔すまし汁〕とゲーン・ペット〔ホット・カレー〕ほどの違いがあるというのに、混ぜあわせてうまくなるはずがない。とはいえマイノリティーはマジョリティーには勝てないものである。
 第三回生の学習が開始されると、ぼくとモンコンは別々になった。モンコンはひきつづき教師として残り、鳥撃ち魚釣りの任務で、スラチャイがそれに合流した。ぼくは民衆工作隊に入れられたが、仕事は米の運搬と魚をとって来ることだった(主な任務は歩哨に立つことだったが)。トングラーンとポンテープはもとの部隊にもどった。トングラーンは魚をとる名人で、一回に大量の魚をとって来たので、「漁業局長」との異名をとった。
 演奏する時は二つの地区に分けて行なわれた。ぼくのいた地区は、スラチャイ、レックという二人のリード・ボーカルがそろっていたので優位にたっていたといえる。モンコンはこのころ生徒の一人といっしょに「どんと来い」(後に党は「困難を怖れず、死をも怖れじ」と改題した)を作った。一方スラチャイは「革命の種籾」を作り、十・六のクーデターで僧職を辞して「森」に入ったある僧侶の一人は、カンボジアの民謡のメロディーをもとに「小鳥」を作った。
 第三回生の学習が終了するとぼくらはまた合流した。この時は、この地区の党書記がやって来た。彼の話では党中央はわれわれを北部に移動させる意向であるが、ここで今しばらく鍛えてからにする、ということだった。彼はぼくらの音楽について、内容とスタイルがまだかみ合っていない、と評したが、彼らは社会を後にしてもう十年から二十年もたっているのである。ぼくの考えでは、この世代の人たちが現代の若者の表現を理解することは困難だということだ。都市の「生きるための歌」を聞いて彼らは、これが革命の歌か、と疑ったに違いない。なぜならギターを中心にしたフォークやロックのスタイルだからだ。この世代(五十〜六十歳)の人びとの時代には、ギターはまだあまり弾かれることのなかった楽器である。楽団といっても当時は、広報局のスントラポーン楽団のようなものしかなかったはずだ。
 これ以降ぼくらは「芸術隊」と呼ばれることになった(これは公式の名称である。CPTは北部で以前芸術隊を組織したことがあった。主に中国式バレーを見せた。住民のほとんどが少数民族だったからである。その後一度つぶれて、一九六八年にふたたびできた)。カラワンとコームチャイという楽団名は以後使われなくなる。それに代わったのが「プーサーン六〇」楽団という呼称だった。
 次に党は、毛沢東の「延安文芸講義」の学習を指示して来た。これは党全体の思想・芸術・文化のよって立つべき芸術論の模範とされていたものだ。この学習でもっとも激しく傷ついたのは他ならぬスラチャイである。彼はこの理論は耐え難いともらしていた。

銃弾のなかの「芸術隊」

 このあとぼくらは別の山の上に新たにタップを作った。少々高い所だったので二〇〇段以上も階段をつけた。米を運び上げて、ここで練習やテープの吹きこみをしたのだった。モンコンが新しいピンを作ったのもこの時である。国際婦人デーの催しには、展示とともにぼくらの演奏が要請された。ちょうどラオスに軍事学習に送られていた兵士たちが帰って来たところだったが、彼らは音楽、芝居、それに十・六流血事件を扱った展示に大変興味を示した。
 この時は司会者のポンテープ、歌手のレックがめざましい活躍をした。この催しでの各々のだしものの表現形態は、今までのものと大分異った趣を呈していた。多分それは、各隊に入りこんだ学生や知識人のなせるわぎだろう。旧態依然だったのは農民の演じた芝居の筋書きである。解放軍と出会った貧農や小作農の話、地方の民兵や雇われたならず者に脅されたり殺される話で、結末はほとんどが政府軍キャンプ襲撃か火をつけるところで終る。クライマックスの部分にいたると、悲しい話であろうとなかろうと、舞台外で恨みの限りを尽した声をはりあげる者がいる。それから、反動支配階級は滅亡せよ、血には血を、といったスローガンが合唱されるのである。つけたしておくと、舞台とはいっても、竹を伐った薪をつみあげたキャンプ・ファイアーを中心にすわった観客の真中で演じるだけのことである。
 催しが終るとぼくらはタップにもどって練習を続けた。今度は党が名狩人を一人派遣してくれた。彼は北部で象の飼育の任務を五年務めあげて来たが、ぼくらがご飯に練り唐辛子をまぶしただけの食事をしているのを見て、これからはこんな食事はさせないと言い放ち、以後毎日朝早くから獣を撃ちに出かけて行った。彼のとって来た動物はだいたいがテナガザル、ヤセザル、ヒヨケザル〔モモンガ、ムササビに似て枝から枝へとぶ〕などの猿だった。これらの動物の皮を剥ぐのはモンコンの役だった。彼は重労働のできる身体ではなかったから。彼はたびたびこの仕事をした結果、夢にまで出て来るようになったほどだ(皮を剥いだ姿形は人間そっくりだった)。
 米の運搬をしていたある日、ここから徒歩で三日ばかりの距離にある地区から来た同志たちに会った。彼らのいた地区は包囲されたため、ここでいっしょに米を運んでいたのである。女、子供と三、四人の男を合わせても何人もいなかった。ぼくらが元気づけにいくと、彼らも出てきて歌をうたってくれたのだが、なかなかのものだった。とくにぼくらがあまり得意でない田舎の歌がよかった。もう一人ピンを弾いてくれた人がいて、その音色にぼくらはいたく感銘を受けたのだった。このピン弾きと歌い手は二人ともぼくらの隊に加わった。
 テープの吹きこみには五日ほどかかった。吹きこんだのは以前の歌の他、新しく作った歌が十曲余りで、テープレコーダーの電池がどんどん消耗してしまうため、曲によってはやっと吹きこんだものもあった。最初の曲は「燃えあがれ炎」だったが、ちょうど「射撃手」ガック同志が猿を撃ちに出かけていて、ぼくらが「銃をとり高らかに勝利を告げる」という歌詞のところまで来た時、銃弾の音が森に轟いた。彼はぼくらのタップから十五分くらいのところにいたのだった。たくまずして音響効果を得た上、ヤセザルの焼き肉にありつくことができたのである。腸の部分はよだれの出るほどうまい(トングラーンの表現)。乾期だったのでぼくらの地区も包囲されはじめた。最後の歌「魔物がくにを治める」を一回吹きこんだところで戦闘態勢に入り、音を出すことが禁止された。何もできなくなったので学習をする。ぼくらの隊の党の責任者は、魯迅の「左翼作家同盟について」を持って来て、なんと「左翼革命家について」と訳したばかりか、ところどころ省くのだった。これが終ってからぼくらの何人もが音楽をやりたくないと思い始めていた。前職で敵と戦う兵士の任務のみを望んだ。
 一九七七年の乾期のさかり、ぼくらはふたたび分かれて別々の任務についた。ぼくは部隊に配属され、モンコンは女性部隊の文化面の担当になった。スラチャイは前いた部隊にもどったが、彼の妻のいる民衆工作隊に移された。ポンテープも同様である。トングラーンは別の部隊に配属された。今回の移動の目的は、戦闘のただなかで自らを労働する者として鍛え、変革することである。
 部隊に入って一週間ほどでぼくは突然病気になり入院して手術を受けることになった。病院でまたモンコンといっしょになった。彼は友を得てとても嬉しそうだった。ともあれ、モンコンはどこへ行っても人に愛され可愛がられる。彼はほとんど誰とでもうまくやっていけた。病院での生活は孤独だった。モンコンの他には友だちがほとんどいなかった。都市の知識階級出身の看護婦がいて、とても可愛い人だった。彼女は毎日のようにギターを習いに来た(最近ぼくは、彼女が包囲攻撃されて生命を落としたことを知った。この場をかりて哀悼の意を捧げたい)。暇な時には二人で、たけのこをほりに出かけたりして親密になっていった。
 すっかり回復するとぼくは部隊に復帰した。二分隊を残してあとの勢力は分散していた。毎日大砲の炸裂音が聞こえていたが、まだ敵の侵入して来る方角がつかめていなかったので、部隊を分散させていたのだ。一部はまだ畑を作っていた。ぼくは兵士たちと絶えず移動していた。起床の呼子は鳴らさなかったので、いつも早く起きて米と身の回りの品を整えておかねばならない。兵士たちが皆任務に出て行き、一人でタップの見張り番をすることも時にはあったし、「郵便配達」に出かけることもあった。
 このころになるとタバコが不足しはじめた。アティット・ガムランエーク大佐(当時)の率いる一七一八混成部隊〔ルーイ、ノンカイ、ウドン三県の文民、警官、兵士の混成部隊〕が「森」を封鎖して、農民が中に入って畑作することができなくなっていたからである。政府軍は農民を組織して、自警団(タイ・アーサー・ポンガン・チャート)を作りはじめていたし、弾が当ってもはね返すという「黒僧《ネーン・ダム》」を自称する人びとが、ラジオを通じてさかんに反共宣伝をしていた。このような心理作戦が包囲撃滅作戦と並行して進められていた。パトロールには自警団がかり出されていた。ぼくらがこちらの区域の一番はずれまでパトロールに出た際、流れの周りに咲き乱れるバラとガーベラの花を見て、心なごむひとときを味わったのだが、それから幾時間もたたないうちに、ぼくらがすわって休んだその場所に戦車が何台か入って来たのだった。帰途ぼくらは、タバコの葉をつんで持ち帰った。これを生のままで細かく裂いただけで、または火であぶってからキセルにつめたり、古新聞で巻いて吸ったのである。何も紙がない時は「毛語録」を使った。米も底をついてきたのでとうもろこしを混ぜるようになった。まだ実が若かったので、米に混ぜて蒸してそのままで食べられるし、甘かった。ただし腹にガスがたまるので、集会などで坐っていると、オナラの音がまるでせみの鳴声みたいに騒々しかった。大便をする時の音がまたものすごい。
 このころぼくの部隊は象を一頭倒した。ぼくもいっしょに行ったが、撃つ時は近づかないように言われた。非常に強い上暴れまわるからだ。大きな竹薮でもたちまち踏みつぶされてしまった。撃つ時には身をひそめられる大きな木を見つけてから、数人でいっしょにねらう。倒れて息絶えてしまってから、ぼくらは胴体の上を歩きまわった。隠れた巨大な力が倒されたという感がした。これまでにも象の肉を全部切りとって持ち帰ったためしはなかったが、足と鼻だけは必ず持ち帰った。非常に美味で、腸をとって来て腸づめを作る。肉は薄切りにして畑の真中で干すのである。干肉にして兵士たちの食糧にする。
 この後ぼくのいた分隊――分隊長がやり手だった――は部隊を離れて偵察の任務につき、敵にそなえて干とうもろこしを用意した。「森」のはずれの畑地近くにいた時は、タバコの葉をつんで山の上の兵士たちに送り届けたりした。ポンテープもこの地区に来ていてときどき顔を合わせた。ぼくはもう一人の分隊長と親しくなった。名前をチャートリーといい、ハンサムな男でタバコに病みつきだったが、行進の時は決してぼくを彼より先に歩かせないのだった。タバコが全然ない時は大麻を見つけて吸った(ただし危険がないと確信した時だけだが)。彼は一九七八年にその生命を犠牲にしたと伝え聞く。彼についても同様、ここに深く哀悼の辞を捧げる。
 間もなく敵が山に登りはじめたという知らせが入ったが、ぼくらのいた方面からではなかったので、とうもろこしのつまった背のうを背負って急ぎタップ四〇〇(四〇〇段の階段をつけてある)へ移動した。とても高い所だったが、ぼくは着いてすぐまた病気になった。今度はマラリアだった。ぼくの他にもう一人、軽機関銃手がいっしょにかかった。この時は医者がすでにいなかったので、分隊長が薬をもらって来てくれたが、骨にまでしみるほど寒くて何も喉を通らなかった。まだ治りきらないうちに戦闘機が飛来して機銃掃射が始まり、ぼくのいた分隊はトングラーンの所属していた部隊に合流し、われわれマラリアの二人だけが民衆工作隊(からかい半分に「メタメタ工作隊」と呼んだりしていた)に預けられた。しかし、すっかり回復しないうちにぼくらも部隊にもどらねばならなくなった。雨期が始まっていた。朝は空が白みはじめる前に、夕飯はすっかり暗くなってから炊かねばならなかった。おかずは毎日たけのこだ。トングラーンと同じ中隊だったが、分隊は別々だった。トングラーンの隊は偵察に出て待伏せていた敵に遭遇したことがあるが、全員無事だった。ぼくは戦闘に参加したことはない。不慣れな上健康がすぐれなかったからである。せいぜい同志たちのために野菜運びができた程度だ。トングラーンは健康で屈強で、農民出身の兵士たちとかわるところがなかった。次に彼は戦闘機を撃って来た。この時は味方の損害は少なくて、ぼくの隊は全員無事だった。
 政府軍のこの作戦が一応終了すると、ぼくらはそれぞれの部隊にもどって総括をしたが、ぼくは炊事係をしていたので討議には参加しなかった。スラチャイのいた地域では三、四人の同志を失っていた。それからぼくは以前の隊にもどされた。チャートリーや他の隊員仲間がタップまでぼくを送って来てくれた。何日かするとナウィン(ピン弾き)とモンコンがもどって来た。仲間たちのそろうのを待ったが皆なかなか来ない。スラチャイがやっとやって来た。ぼくがちょうどリスをねらって撃とうとしていた時だ。彼は、亡くなった同志の葬儀をしているタップヘぼくを連れて行った。「革命の英雄」をテキストに政治学習も開かれていたが、ぼくは関係なさそうなので聴講しないで、亡くなった同志たちの両親と少し話をした。それから英雄追悼の儀式に入る。はじめぼくは葬儀に出席しないと言っていたので、たちどころに「階級愛に欠ける」という三角帽をかぶせられてしまった。葬儀には亡くなった英雄の両親が招かれ、「毛沢東語録」の朗読で始まった。それから死者の生前の経歴と闘いとが報告されてから、各隊から花輪が捧げられる。花輪といってもほとんどが花より銃を捧げた(このような葬儀は、党の活動家、党員、民主青年同盟メンバーの場合に限ってとり行なわれるもので、一般兵士が一人で死んでもふさわしい扱いは受けないのだった)。それから「血には血を」などのスローガンを三唱してから、いっせいに泣き声をあげるのである。大男であろうとも。スラチャイは「同志よ眠れ」という歌を作る(題名ははっきり覚えていないが、このような歌詞だった)。この葬儀の際、ぼくはある幹部から兵役を逃げているという批判をあびた。幹部の医者はぼくの証人となってくれたが。これ以降ぼくと彼とは顔を合わさないようになった。
 ぼくらは新たに「タップ」を作ることになる。ぼくとナウィンがはじめに行った。雨が激しく降っている中で、ナウィンは竹を切り倒して小屋を作った。ぼくは穴を掘って竹を運んだだけである。この頃スラチャイの奥さんとポンテープの奥さんがやってきたので、彼らも別々の小屋に住むようになった。モンコンとトングラーンもぼくの小屋のすぐそばに小屋を作った。それでここは音楽の練習センターと化した。ちょうど八月になるところで雨がひどかったので、皆歌を作る余裕が十分できたのだった。しかしぼくは一曲も作らなかった。詩をひとつ書いたがそれもなくなってしまった。この時書かれた歌はほとんどが既成の公式《スート・サムレト》にとらわれた作品だった。その中でまともだった歌はモンコンの作った「ロンパーブン」〔政府軍によって焼き打ちされた村の名〕だが、党幹部は機密保持に問題があるとして放送を許可しなかった。モンコンのもうひとつの歌も同様の扱いを受けた。
 この頃楽団はメンバーがふえていた。ピンを弾くナウィンとケーン(笙)を吹くガックである。それから地方の音楽とモーラムをうたう時にはサラが歌手として参加した。かつて抜きん出ていたスラチャイの役割はずいぶん少なくなってきた。地方の音楽を演奏することがふえ、彼はこの方面はあまり得意としていなかったのである。
 党が次に指示してきた学習は「八項注意」だった。しかしだれもあまり興味をしめさなかったし、うんざりして動物狩りに行ってしまった者も多い。スラチャイはとくにそうだった。彼は演奏でも自分の作った曲の時以外はあまりすることがなかった。八月七日の武装闘争開始記念日が近づくと、この日のために皆が歌を作り、毎日練習に励んだ。けれどもぼくら自身の友情にはひびが入り始めたのである。ひとつには党の幹部が規律にこだわりすぎるからでもあった。毎日歌の練習をするのだが、歌手と曲の演奏を合わせるのが一苦労なのだった。ぼくのように楽団を結成することに反対だった者も、実際やるだんになれば手伝わなければならなかった。身体を使う仕事ではないから疲れたとはいえなくても、非常に神経がはりつめていた。しかし党はいつも、「政治思想」という魔法のランプのような万能薬を持ってきてぼくらに飲ませるのである。実際はすべてを治すことなどできはしない。ぼくらは友を求め、理解してくれることを望んでいるのだ。学習や批評や自己批判のやり方は促成の感をまぬがれなかった。心をこめてやっていないのだから、どれだけ根づいたか分ったものではない。
 一定期間の練習を経て八月七日がやってきた。歌のバックでダンスを見せるやり方を採用するようにすすめたのはぼくだった。彼らの踊りはうまかったし、品位が落ちるようなものではなかったので、ぼくは見苦しいとは思っていなかった。けれどもこれは旧社会のファッションであると批判されてしまった。ところが彼らのラムプルーンではダンスを見せるのである。これについてはだれも何も言わなかった。教宣になるようなことは、党の執行部の各段階で一切を監督した。弱い点をとりあげて発表することはいけないとされた。軍全体が欠点だらけであるような印象を与えるからであるという。司令のみがあって反論は許されない。
 この時の行事以降、ぼくは政治儀式には一切加わらなかった。演奏がある時以外は与えられた任務を忠実に果たした。ぼくはまた髪をのばし、ジーンズをはくことにした。どんな重要な党の行事の時にでも、である。ぼくの中の反抗心と探究心とがふたたび頭をもちあげ始めた。スラチャイはといえば、彼もうかぬ様子をしていた。彼は毎日動物を追っていた。そしてだれともつき合おうとしなかった。あげくのはて腸チフスにかかり、目だってやせていった。その頃のぼくらは歌の練習も思うにまかせなかった。スラチャイが治って間もなく、今度はぼくがまたマラリアになってしまったのだ。演奏する時には支えてもらってやっと立ち上がる有様だった。

北へ向けての行軍

 十月に入るとぼくらは北部へ移動するという知らせを受ける。この地区のCPTが送別会を開いてくれたが、以前ぼくと対立した幹部は参加しなかった。ぼくの心はますます彼らから離れていった。十月十四日には記念集会が開かれたが、この時にはぼくらが遠くへ移動することが確実となっていた。スラチャイはそれで新しい歌「赤い太陽の下の長い旅路」を作った。彼は幸せな時つらい時を問わず、たえず歌を作っていられるのだ。たとえどんな状態にあっても、心がおもむくままに歌にすることができる。モンコンは義足をやめて松葉杖を使うようになったので、前より速く歩けるようになった。この時の集会を最後に何人もの友人たちとわかれなければならなかったが、ぼくらが遠くへ出発することを知っている者はごく少数だった。秘密にされていたのだった。集会のあとぼくらはこの地区の司令センターである「タップ」に戻った。この地区の軍事面での責任者がいっしょだった。道に迷ってしまったので着いたのは夜七時過ぎになった。モンコンは後のグループにいたのだが、ぼくらが見つからず、あまりにも長いこと飲まず食わずで歩いたのでまた気を失ってしまった。彼は空腹になりすぎると倒れることがあった。
 ここに二日ほど泊まった後、約三日の道のりの次の地区へ向けて出発した。荷物はどうしても必要なものだけにしぼった。衣類を入れるバーロー〔ベトナム語で背のうのこと〕とギターである。ぼくはそれにモンコンの義足をギターに結えつけてかついだ。彼には荷物を持たせないようにしていた。山菜とりやゴムの木をさがしに分け入って来る農民に姿を見られないように歩かねばならなかった。ぼくらの前には前衛部隊が先導していた。今回ははじめて「森」に入ってきた時と違って米の袋を各自が持った。二、三日分の米を入れた細長い袋を肩からぶら下げるのである。この時通ったところは今までより大分高く上がったので景色が大変すばらしかった。着いた地区はぼくらがそれまでに行ったことのあるどの地区とも違っていた。着いてしばらく休むと最初の日の夕方にはもう公演することになった。ここはいろいろな作業単位とゲリラ部隊が集まって任務の総括をし、戦闘訓練をしていたので人口が多かった。ぼくらが着いてすぐ米が底をついてしまったので、実りすぎのとうもろこしを一晩中ゆで「ゲーン・タレー(海のスープ)」(水ばかりの中にバナナの幹のしんが少しばかり浮いているもの。バナナの木もほとんど食べ尽してしまっていた)といっしょに食べた。コショーに似た香りのする木の皮が香料として入っていた。これを一日に二回食べるのである。三回小便すれば空っぽになってしまう、とある者が言った。森でさがしてくる食べ物には猿の他に野ねずみがあった。川の魚をとるのはむずかしくなっていた。人が多いのとずっといるせいである。大変な生活だったが夜は楽しかった。レックという女性歌手は兵士慰問の歌をうたい続けて声がかれてしまった。ぼくらはここでは休養をとっていてよかったので、森へ入っては動物をとった。ある時ぼくとトングラーン、スラチャイそれに年輩の戦士とである木の下で寝ていた。その木の実はヒヨケザルが好んで食べるものだったが、その夜その同志はヒヨケザルを一匹撃ち落とした。これをあぶり焼きにしてとうもろこしと食べたが、実にうまかった。その翌日はそれぞれ別々の方向に行き、ぼくはテナガザルを一匹見つけたのだが、非常に高いところにいて待てど暮らせど下りてこないのである。それでしびれをきらして撃ったが当らなかった。スラチャイも何もとれずに帰ってきた。以前彼はヤセザルを撃ち落としたことがあるが、死んでいなかったので追いかけて首をしめて殺したのだった。一度に鳥を三羽も撃ってぼくが唐辛子いためにしたこともあった。この日はトングラーンが小さいテナガザルを一匹撃ち落とし、ぼくがかついで帰った。何もとれなくて、ヒキガエルを七、八匹つかまえて帰ったこともある。ちょうど出会った農民がもち米とプララー〔川魚を米と塩でつけこんで熟酢のようにする保存食〕を分けてくれた。この時ほど米のありがたみをかみしめたことはない。
 ぼくらがふたたび出発する際に、ぼく、スラチャイ、トングラーン、ポンテープと別の隊の兵士たちとで夜こっそり村へ入って買物をした。ずいぶん危険なことをしたものだ。ぼくらの方にも戦力はあったのだが、敵側とは遭遇しなかった。買い忘れてならないものはタバコと甘いものである。農民の一人は餞別にと、ぼくに米と大麻の包みを渡してくれた。その夜ぼくらは一晩中歩き続け、夜も明けかける頃ようやく休むことができた。「森」に入ってからちょうど一年が経過していた。ぼくとスラチャイは、たいてい近くにハンモックをつって寝た。ぼくが一人でハンモックをゆらゆらさせながら横になっている時に、彼はぼくの耳もとでギターを鳴らしていたものだ。それでできた歌が、「ゲリラ部隊の夜明け」である。このころはぼくらカラワンのメンバーだけで歌の練習をしていた。テープにとっておかなかった歌が多くて残念だ。このころ作った歌でまだ知られていない歌のひとつに「赤い太陽の下の長い旅路」がある。
 今度の部隊の兵士たちとは大変貌しくなった。ぼくが親しくなったのはまだ十六歳で、以前はバスの車掌をしていたのだという。なぜか皆からあまり理解されていなかった。ぼくらはそれぞれのグループから離れて近くで寝ることにした。彼はぼくに寝床を作ってくれて、毎晩ゆでとうもろこしをかじりながら二人で遅くまで語り合ったものだ。党はあいかわらず情勢は優勢であると発表していた。
 ここにもそれほど長くはとどまらずまた出発しなければならなかった。ぼくらの身うちの女性隊がやってきた時には、党は部隊をつけて十分な護衛をしてくれた。ふたたび別れる時には、涙と別れを惜しむ声とが満ちあふれ、いつまでも耳をはなれなかった。ぼくらは道を急いでいたが、休みもとらなければならないのでけっこう時間をとられた。谷をわたり野を越えるまでに二日を要していたし、細心の注意をはらう必要があった。他のグループが見つかったことがあったのである。
 ついに最後の危険地区も通過し終えた。メコン河が近づいてくるにつれて、ぼくらの胸も次第に高鳴るのだった。歩く時は一列縦隊だったから、先頭からの命令が途中で違って伝えられることもあった。最後の部分では道路を歩いていて、車の来る音がきこえたので、まるで砂漠の盗賊のようにいっせいに走った。そしてついにメコン河畔に立ったのだった。モンコンは肩車で舟まで行った。ぼくらを迎えにきていたのはラオス軍のサンパンだった。政府軍の連隊駐屯地二カ所の間を通って行くのだ。舟を出すまでに相当の時間をとってしまった。メコンの流れは激しく岩が多い。ぼくらの舟は大きな岩のひとつにあわやぶつかりそうになり大波をかぶったが、なんとか方向を変えることができた。月夜だった。この夜ぼくらはメコン河を渡りきった。流れのうずまく淵や、返す波がずっと見えていた。
 この先ぼくらの前途に何が待ちうけているのかを知る者はなかった。


晶文社 1983年7月15日発行  





本棚にもどるトップページにもどる