『カラワン楽団の冒険 生きるための歌』 ウィラサク・スントンシー 荘司和子訳

目次    


カラワン 序詞


日本のみなさんへ
 スラチャイ・ジャンティマトン

第一部 回想のカラワン
  ウィラサク・スントンシー


 1 カラワンの誕生

 2 クーデター

 3 「森」の生活

 4 ラオスから中国へ


第二部

 
5 モンコン・ウトックの話

 6 楽団はよみがえる
    八巻美恵

 7 カラワン歌集


訳者あとがき

5 モンコン・ウトックのはなし

 モンコン・ウトックははにかみ屋で寡黙の人だ。昼間はいるのかいないのか分からないほどひっそりしている。とてもお酒が強い。夜になってお酒が入ると、昼間とうってかわっていろいろなことを語る。カラワンについて語るとき、彼の瞳がひかり、ひめた情熱がほとばしり出る。
 以下は、一九八二年に来日した彼が、訳者の家に滞在した二週間ほどの間に、毎晩こんなふうにして語ったはなしをまとめたものである。

 ぼくはイサーン(東北)のローイエト県パノムプライ郡の出身で、生まれたのは一九五一年。父は小学校の教師で、母は農業をしていた。七人兄弟の真中で、姉二人、兄一人、弟二人と妹が一人いる。田んぼを次々に売って七人全員学校に行かせてもらった。だから今は小さな畑が残っているだけ。今度家へ帰ったら家だけ大きくなっていた。姉のつれあいがサウジアラビアに出稼ぎに行っていて、そのお金で建てなおしたワケ。
 ぼくが子供のころの田舎は、豊かだというイメージがあったな。食べることがかんたんだった。ぼくの家の近くには小さい川がたくさんあって、川でも田んぼでも魚がいくらでもとれた。今は人の方が多くなってしまって、川も沼もうめたてて田んぼになってる。農薬を使うから田んぼの魚もいなくなったし。だから小さいころの遊びというと、魚釣りが一番だった。それから昆虫をとったり、蛙をつかまえたり。田舎の子供はカメムシをとって、つぶして汁を出してから食べちゃう。雨期になるとオヤジやオフクロが少し離れたところにある大きい河に行って、小屋をたてて泊りがけでたくさん魚をとるんだ。たくさんとってプララーを作るのネ。ぼくたち兄弟は学校の休みの日に食料を持って手伝いに行く。
 ぼくがあがった小学校は、郡役場のある町の小学校で、オヤジが教えていたのは少し離れたところにある村の小学校。好きな学科? 図画だな。魚とりに行って川べりの泥の上に、小枝で絵を描く。大きな絵が描けて楽しかった。泥といっても粘土質だから、こねていろんな形を作るのも好きだった。
 音楽に興味をもちはじめたのは中学に入ってから。中学からはコーラートにいる姉のところに寄宿してました。そのころギターを売っていて、高くてとても手が出なかったのネ。でもすごくほしかった。ピンを弾きはじめたのは専門学校へ入ってからですね。民謡ですか? ウーン、子供のころは好きじゃなかったな。ただ、伯父がケーン吹きでとてもうまかったんです。モーラムが来るときは雇われて吹いてた。ぼくの家でもよく吹いてくれた。ぼくも少しやってみたことはあるけど、吹けるところまでいかなかったですね。

ウィラサクの回想録にでてくるモーラム、ラム・ウォン、スン、ラムプルーン、ラムラオなどいろいろな形式の民謡は、どう違うの。


 スンは、王様や神々の出てくる古い物語をうたった叙事詩にあわせて美しい舞があります。うたうのは一人で、十人から三十人くらいの踊り手が来る。毎年五月には火をたいてスンを舞う行事があるけど、雨乞いの儀式から発生したのかもしれない。このごろは現代的な内容でスン形式の詩を競うなんていうのもありますよ。モーラムとはメロディーが違う。モーラムも地方を巡業してまわる楽隊が来てお寺の境内などでやります。モーラムの場合は、イサーンの民話、王様の物語などを中心にした叙事詩をうたうものや、即興で二人がかけあいでうたいついでいくのもある。踊りもそれによって、たくさんで踊るのや、男女ペアで踊るもの、一人で踊るものなどいろいろです。モーラム楽団は以前はたくさんあったんですが、今は減っているらしい。ラムプルーンはモーラムのひとつで、ラムラオはラオスのモーラム。テンポがゆっくりしている。楽団といっても出演料をもらえることは少なくて、お寺に泊まって村人に食事を出してもらうだけのことも多い。ラム・ウォンは一番かんたんなもので、村人だれでもが太鼓をたたいて、うたったり踊ったりするもの。

学生時代はどうだった?

 中学を出るとすぐ東北技術専門学校に入った。一九六八年ごろかな。五年制の学校なのですが、ぼくは途中でカラワンに入っちゃってちっとも学校に行かなかったから七年もかかった。「やっかい者」だったんでしょ、ぼくは。学校の方でとにかく「卒業しろ」というので、試験を受けにもどって一応卒業した。専攻は美術。
 バングラデシュ・グループというのは、目的があって設立した組織じゃなくて、好きで集まって来てできたグループです。そのころ、バングラデシュでは食糧不足が深刻で、飢えた子供たちの写真などがさかんに報道されていたでしょう。ぼくたちもいつも腹をすかせていて、それとあまり変わりのない生活をしていたので、こう呼んでいるうちに他人からもこう呼ばれるようになったワケ。教室で寝て、魚を釣って来て食べて、ギターを借りて来て校庭や野原で、雲を見ながら思いつくままに即興で歌を作ってワイワイ薬しくやっていたんですね。夜は絵を描いたり。皆、美術学科の学生だったから。だんだん同好会みたいになって学校の行事の時うたったり、友だちの喫茶店でうたったりした。カラワンを結成する二、三年前からこんなことをしていたんですよ。

そのころはもう学生の反政府活動とか、学内問題への抗議行動とかがあった?

 ぼくが覚えていて参加したものでは、長髪を禁止した学則に対しておこした抗議行動です。集会を開いたり、デモをやったり、丸坊主になって抗議した学生《ヤツ》もいた。結果はどうなったのか覚えていないけど。
 美術学科長が左遷された時は、美術学科の学生ほとんど全員が参加して抗議した。ポスター描くのはお手のものだからジャンジャン描いてバンバンはり出した。学内で集会を開いて授業ボイコットもしたんですが、学校当局は話し合いに応じない。それで県庁までデモ行進をやった。知事や県庁の上の方の役人は内務省から派遣されて来ているから、管轄が違うから学内問題に介入する権限はないと、とりあってくれない。でもこの後、学科長は復帰したので、学生側の最初の勝利になったわけです。
 この二日後にはバンコクのラームカムヘン大学でもっと大きな抗議行動が始まりました。学部長のドクター・サクというのは、大物政治家と結託して金銭的にも汚いことをやっていた。その学部長が九人の学生を除籍処分にしたんです。ウィサー・カンタップも処分された一人で、このとき処分撤回運動が猛烈な勢いでもりあがった。ティラユット・ブンミーの率いるNSCT(タイ全国学生センター)が支援にたちあがったので、地方の大学にも波及したんですね。それからだったかな、バンコクやチェンマイの大学の進歩派の学生の新聞が送られてくるようになって交流が始まるのは。

モンコンさんたちも新聞を作ったんですか。

 ええ、作りましたヨ、「ウィタヤライ」という名で。それからぼくら美術学科の学生が中心になって、ラーチャシマ高校とか師範学校とか、大学がなかったので、専門学校や高校の学生、生徒たちを組織して、コーラートにも学生センターを作ってNSCTに参加した。

「十・一四」前後はどんなでした?


 ラームカムヘン大学の九人の学生の処分が撤回された後、バンコクでは憲法制定要求運動が始まっていたんです。十月九日だったかな、憲法制定要求の主旨を書いたパンフを配っていた十三人が逮捕されたでしょう。これが始まりだった。コーラートでも翌日から不当逮捕反対の抗議行動を開始した。スラナリー広場に学生も市民も含めて何万人も集まった。バンコクだけじゃなくて、あっちこっちの地方都市でもみんなすごかったんだ。長い軍事独裁政権に対する不満が爆発して。食糧品屋や飯屋なんかは食べる物をどんどん出してくれるし、どっとカンパが集まって、それでぼくたちはバスを十二台もチャーターして、十月十三日の深夜、バンコクヘ向けて出発したんですよ。夜明けごろ、つまり十月十四日、サラブリ市の近くまで来たところで、バンコクは軍隊が出動していて入れない、という情報が入った。それでぼくたちはそのままそこで待つことになって、二、三人の先遣隊をバンコクヘ送ったんです。彼らがバンコクに着いた時は、政府が逮捕者を釈放して憲法を一年以内に制定するという声明を出したところで、NSCTもデモ隊を解散させるという決定をしたところだったんですよね。だからVサインでぼくたちのところへ戻って来た。ぼくたちはそれを聞いて、勝った、勝ったというんでコーラートヘ引き返してしまった。もうちょっとネ、時間がずれていたらバンコクまで行っていたのに。コーラートに帰ってテレビを見たら、軍隊がデモ隊に発砲してすごいことになってる。ぼくはその前、三日三晩不眠不休だったから、そのままダウン。ついにバンコクには行けなかった……。

右足をなくしたのは学生時代?

 そうです。二年生の時オートバイに乗っていて、猛烈なスピードで走って来た車にぶつけられた。そのうえ酔払い運転だったから、治療費や義足の費用は払ってくれたけど。デモをしているころはだからもう義足だった。だいたいオートバイに乗ってデモをしたんです。練習してゆっくりなら走れるようになった。右足に力が入らないから、ゆっくり走るだけ。

スラチャイや、ウィラサクとは学生運動を通して知り合ったんですか。


 スラチャイもウィラサクもこのころは、詩や小説を書いていてコーラートによく来たんですね。二人とも運動とかかわりはあったけれども、直接、運動を通して知りあったわけではなくて、同じようなことに興味をもっていた、ということで、よくいっしょに酒を飲んだ。そのうちギターを持ってきてぼくらといっしょに歌をうたった。ヤソートン県にもいっしょに行ったんですよ。「人と水牛」とか「コメのうた」、それから「グラー」ができて、ぼくはナーイピーの詩「イサーン」に曲をつけていっしょにうたったわけです。そのあとバンコクヘ帰ったスラチャイから電報がきて、タマサートでいっしょにうたおうということになった。ここからカラワン楽団ができるワケ。はじめのうちは四人だけ、ポンテープはそのころコーラートで陶器作りをしていましたネ。スラチャイが一番年長で二十五歳くらいだった。あとはみんな一歳ずつ若くなる。

カラワンの周りにはカラワンを応援してくれた仲間たちが多いですね。


 スラチャイが作家だったので親しい作家や詩人が多かったですね。スチャート・サワッシー以外は皆同世代の若い連中で、ウィナイ・ウッグリットが一番親しかった。それからウィサー・カンタップやソムキット・シンソンなどです。

南タイ巡業中に解放区でも一度うたったことがあったとか。


 ハトヤイに行っていたとき連絡を受けて行くことになったんですよ。その後日本人で芝生端和という人が入ったところです。迎えが来て、山中で一泊して着いたのが昼ごろでした。その日の夕方からうたいはじめて次の日の明け方までやっていた。八月七日の武装闘争開始記念日だったんですよね。
 それまでは解放区なんて、かんたんに入れない遠いところ、という気がしていたワケですが、行ってみたらなんと近いところなんですよね。山の上なのでぼくの足のことを心配されたんですが、その前にイサーンのグラドゥン山に登ったことがあるので、それより低い山だというのでぜひとも行きたくってね、登ったワケです。この直前ひどい吐血をして、医者から一カ月はうたうなと言われていた矢先のことだったんですよ。
 解放区ではみんなが並んで拍手して迎えてくれて感激しました。ぼくたちの歌もうけましたよ。二日くらいしかいなかったから他のことは何も分らなかった、そのときはネ。

吐血したというのは何が原因だったわけ?


 スラチャイが結婚式で来ていなかったので一人でうたい続けたことと、酒の飲み過ぎじゃないかな。朝起きたらひどく血を吐いて、タンカで病院まで運ばれた。このあとラオスにいた時に一回、中国でも一回血を吐いて、喉をつぶしてしまったから、こんなひどい声になった(笑)。

村で公演する時は出演料をとらないかわりに、村人がお酒を出したりごちそうしてくれるわけなの?


 そうなんです。この時も一晩中うたったり飲んだりしてたんですよ。
 農村を回る時は、村に着くとまず学校へ行って子供たちに、今晩その村で公演することを宣伝する。それで子供たちに何か食べる物を持ってきてくれるように言っておくと、夜になると村人総出で食べ物やお酒をもって集まってくる。農村には何の娯楽もないわけで、町から楽隊が来てただで音楽を聴かせてくれるというだけでもお祭り騒ぎなんですよ。それがちょっとうたって帰ってしまうのじゃなくて、彼らが聴きたいだけ一晩中でもやってくれる。それに政治への関心が全国的に高まっていたころだったから、彼らの質問に答えたりいろいろ語り合いながらやるので、ぼくたちの歌だけというより、そういうのを全部ひっくるめてだと思うけど、すごい人気だった。「人と水牛」とか「雨をまつ稲」「コメのうた」「イサーン」など、農民をうたった歌も多かったし。ただカラワンの歌は農民にとってはむずかしい歌詞が多いので、どういう立場で何についてうたっているのか、それもよく説明したんです。

大学でやる時も同じようなやり方で、いろいろ話しながら演奏するんですか。


 そう。それにあちこちから手紙が来て質問してくるので、そういう質問にも答えながらやるんです。たとえば「カラワンはどうして皆長髪にしているのか」とか、「帝国主義についてうたっているが、帝国主義が何か分っているのか」とか、「体制を讃美する歌をどうしてうたわないのか」などなど。学生の中でやる時は、お互いに気ごころが知れているという安心感みたいなものがあった。でもぼくは村でやる方が楽しかったけど。

カラワンの音楽は、フォークにタイの地方の音楽をとり入れていって独自のスタイルができたようなかんじネ。


 そういえるだろうな。スラチャイが一人で「人と水牛」をうたい始めたころはフォークそのものだったのですが、それにピンが加わり、トングラーンのタイコで民謡のリズムをつけることでただのフォークではなくなってきたわけでしょ。それほど意識的にカラワンの音楽を作ろうとしたわけじゃないけど。
 カラワンの音楽っていうのは、自由に演奏するっていうことね。楽譜があってそのとおりにやるのでもないし、誰かが演奏の仕方を決めておいてそのとおりにするわけでもない。それぞれが、その時その時で自由なひき方をするから、毎回同じ演奏になるわけじゃない。音楽を勉強した人なんて誰もいないから、そもそも楽譜が読めないんですよ。タイの小、中学校の音楽は、歌をうたっているだけで楽譜は教えてくれない。だから新しく作った歌は、テープにとっておかないと忘れちゃうこともあるんだ。
 歌を作る時のこと? スラチャイはもともと詩人だから、自分で詩を書いてギターを弾きながら曲をつけていくので、別に問題はなかったでしょ。
 ぼくの場合ですか。ぼくの場合はスラチャイみたいに自然に詩が生まれてくるわけじゃないから大変だった。作らざるをえない状況ができて、それで作り始めたんです。
 どういうことかというと、カラワンが分裂したことが二回あって、一回目はスラチャイどぼく、ウィラサクとトングラーンとに分かれた。二回目はスラチャイ一人が離れたんです。女性問題とかありまして。スラチャイがいないのでぼくたちが歌を作ることになった。「起って闘え」はこの時ぼくが作った歌です。トングラーンは「危険なアメリカ人」を作った。ポンテープがカラワンのメンバーになったのもこの時です。
 この四人でイサーンをまわってうたっているうちに、スラチャイが映画「トンパン」を撮り終えてまたカラワンにもどって来た。メンバーが五人そろったし、カラワンの曲も二十六曲ほどになっていて、十分演奏会がやれたので、あちこちの映画館を借りて演奏してまわったわけ。

ところでモンコンさんの首に賞金が五万バーツかかった、というのは何のとき?


 トングラーンとぼくの郷里へ帰ったら、はり紙がしてあった。カラワンはコミュニストで煽動しにやって来る、ということね。雇われた殺し屋とばったり会ったら、なんと幼な友だちでね。その夜はいっしょに飲んで話して、結局殺されなかった。
 このころ警察が動いて、あちこちでポスターを焼かれたり、公演予定の映画館が脅しをかけられて、とりやめにされたりしたでしょ。銃撃されたこともあったし、暗殺が横行していて、ぼくたちのようなことをしているのは生命がけだったんですよ。でも怖いという気持は全然おこらなかった。

御両親は心配なさったでしょう。


 とても心配してましたね。でもぼくのすることに口をははさんだり、やめさせようとするようなことはありませんでしたね。
 弟たちはぼくと同じようになった。一人はぼくと同じ学校で、もう一人はバンセンの教員養成大学に行ってた。義兄も教師ですが、「十・六」の後逮捕されました。

「十・六」クーデターの夜、コンケンの街を出て「森」へ行くわけでしょ。決意したのはいつだったの?


 ぼくらが南タイの解放区から帰ってきたあと、プラパートの帰国、タノムの帰国と続いて、左右の衝突は尖鋭化していたんです。学生の反対運動も暴君帰国反対で完壁に一致団結していて、まるで軍隊みたいだった。決死の覚悟でリーダーの統率のもとに、一糸乱れず結束しているというような状況だったんです。ぼくたちも何かあった場合どうするかについては話し合っていた。僻地に行って身をひそめるか、ラオスに行ければそれでもいい、というようなことだった。ぼく個人でいえば、「森」へ入ることもありうると思っていましたね。
 十月初め、ぼくたちがバンコクを後にした時は、帰ってこられなくなるかもしれないと思って荷物をまとめて出たの。十月六日はコンケン大学にいたわけですが、バンコクのタマサート大学の集会で学生が多数殺されたというニュースがはいって、抗議集会をしていたんです。ぼくたちにとってもこれが最後の演奏になった。夕方、統治改革団がクーデター成功宣言を全国に放送した後、ただちに学生たちとビラやテープを焼却して、楽器を預け、出発したんです。
 楽器は、検問にあった場合身許がばれる可能性があったので持っていかれなかった。いっしょに出発したのはカラワン五人の他に、コームチャイ楽団とバングラデシュ・グループ時代の友人一人、それにコンケン大学の先生一人。
 途中で止まっていた間に、この先生と案内してくれた人とが誰かと連絡したようだった。ルーイの町に夜明け前に着いて食事した後だった。「森」へ入るかどうか今すぐ決断するように言われたんですよ。カラワンは全員即決で賛成。コームチャイは二人ほど何か都合がつかなくて戻って行きましたが。

モンコンさんは足が悪くて走れないのに、前線のゲリラ地区に入ることは心配じゃなかったんですか。


 それまでもその時も、あまり足のことで心配したことはないのね。ぼくはやりたいと思ったらやってしまうたちで、あまり考えない。生命が保障されないような状況はそれまでもあったので、むしろ「森」の方が安全だと思ったくらい。
 最初に入った山はルーイの町が眼下に見下せるくらい近いところで、附近の農民がよく上がって来てタップ(宿営地)が見つかってしまうので、移動が多かった。移る時は、最近のタップだと分らないように枯葉をいっぱいかける。
 そこからプーサーン山系へ移動する時がいちばん大変でしたね。川を渡って、普通の村のある所を通って行くので、いつ通報されるか分らないから急ぐ。飲まず食わずで歩き通しでしょ、ぼくは義足に蔓がからまってなかなか進めない、雨が降ってきてぬれたら、ついに義足が重くなって動けない、それで気を失ったんです。

幹部というのは、各地区に派遣されて来ている党員のことですか。


 そうですね。党の政策を遂行するその地区の責任者のこと。各地区の構成員は四つに分けられる。まず党員(サマーチック・パク)、民青支部(ヌアイ・ヨー)、民衆本体(モアンチョン・プーンターン)、これは農民がほとんどであと労働者が少し、それに組織外民衆(モアンチョン・ノークジャットタン)として都市から来た学生や知識人が位置づけられていました。

プーサーン地区には統一戦線の組織はありましたか。


 なかったですね。ぼくたちがプーサーンにいたころは、まだ統一戦線ができていなかったでしょう。

都市から入った学生、知識人はみな組織外民衆だった?


 いいえ、そうじゃない。一部は都市にいるころから党員やシンパだったので、「政治・軍事学校」を終了するとすぐ党員になった。何パーセント? そんなことはぜんぜん分らないな。党員になったということを公表しないんだから、憶測しているだけで。なんでも秘密、秘密です。ぼくは民青に入ったから、その地区の民青の中で誰が党員かだけは分ったけどネ。だいたい分隊規模でしかお互いのことは分らない。

民青(タイ民主青年同盟《ソー・ヨー・トー》)に入ったのはどういう経緯からなの?


 三十歳以下の党員と、党が党員候補者として工作した者で組織されているわけで、ぼくの場合は、「学校」が終わってそれぞれの隊に散った後、民主青年同盟について講義を受けたんです。講義が終ると用紙が配られてサインすればいいようになっているわけ。実のところわけが分らなくて困ってしまって、ウィラサクに相談したんですが、彼が病気になってしまって入院しちゃったので、結局サインしたんですよ。これでコミュニストになっちゃうのかって考えたんですが、どのみちコミュニストだって言われてきたのだし……ね。ぼくの他にトングラーンも別のところで入った。個人的にさそうとか、場所によって工作の仕方はいろいろあったようです。

モンコンさんは「森」に入る前、バンコクに恋人がいたそうじゃない。


 ウーン。カラワンのファンでそのころまだ十六歳の女の子のことでしょ。カラワンが「森」に入った後、彼女は南タイの解放区に入って、ぼくたちのいた東北へ移動を願い出たんです。それが許可になって移動する途中、バンコクの家へ立ち寄ったら母親に軟禁されてしまった。これが有名になってしまって、あとあとまで尾をひきましたよ。恋人がいるとレッテルをはられて。この後、他の女性が、何故かぼくを恋人だと、幹部に報告した。それでぼくは幹部に呼び出されて、他に恋人がいるのにと注意されました。党が私信や小包をみな検問するので、個人的な問題にも介入されるのです。党利にかなった(!?)見合い結婚というのだってほんとうにあるんですよ。
 スラチャイがセクサン・プラスートグンの妻ジラナンと親しかった時も、周囲が騒がしかった。ぼくは「心配するような話じゃないだろ。スラチャイは世界中の女性を愛しちゃうような男なんだから。彼の芸術は愛から湧いてくるのさ」と言ってやった。

「せみ」「たけのこ」「ロンパーブン」という歌を作ったときのはなしをして下さい。


 せみがものすごくたくさんいて、森中ワンワン響くほど鳴いているんです。「プロットエーク、プロットエーク(解放、解放)」って鳴いているみたいに聞こえる。竹は森の中では生活必需品なんですよ。たけのこを食べるところからはじまって、食器にしたり、小屋を建てたり、あらゆることに使う。解放戦争に役立っているでしょ。それでラム・ウォン調の楽しい歌にした。党からは、たけのこやせみが革命と関係があるはずがない、と批判されましたがね。
「ロンパーブン」というのは、政府軍に焼き打ちにされた村の名前です。その村に行ってみたことはないのですが、その村から逃げて来た村人の話を聞いて、以前学生のころ、やはり全村焼きはらわれたナーサイにNSCTの書記長ティラユットと調査に行ったことがあったので、その時の情景が重なりあってできたんです。特定の地名が出てくるということで、党は放送(「タイ人民の声」)は許可しませんでした。
 この村の話は、実は党が解放村にしようとして大がかりな工作をしていたんです。国旗は掲揚しないし、ポスターははるし、派手にやったので政府軍の征討の対象になった。政府軍が大きな勢力を投入してきたのにひきかえ、解放軍の勢力はわずかでこの村を護りきれない。それで農民を全部、家財、家畜ともども「森」に避難させたのです。政府軍はその後村を焼きはらったので、残っている人は少なかったですが。この人たちは解放軍ではないから農耕して食べなければならないでしょ。「森」の中ではするところもないし、食糧だって不足しているわけで、それでまた村へ送って帰ったんですが、家が焼かれてしまって寝るところもないのです。はなばなしい宣伝と工作をしておいて、そこの住民を護ることが全然できなかったんですよ。

タバコや大麻はどうやって入手するんですか。


 タバコは調達部が下の村で購入してきたものを各自買います。タバコといっても紙巻きじゃなくてきざみタバコだから、二バーツですごくいっぱいある。
 解放区の通貨? 普通のバーツですよ。月に一人一五バーツずつ支給されて、それで石けん、歯ブラシ、チリ紙とかの日用品を買うんです。
 大麻は農民が自家用に作っているものを分けてくれる時に吸うだけ。党は公けに認めているわけじゃないですが、取締るわけでもない。農民にとっては、食欲増進、腹痛の時の痛み止め、精神安定、疲労回復などの働きをする欠かせない植物ですからね。
 そういえばラオスにいた時に、前線にもどったスラチャイが大麻を送って来たんですよ。大きな包みでね。幹部は中身をチェックして、ぼくに受けとるべきではない、と言った。ぼくは仕方ないと思ってあきらめたら、ウィラサクは「とんでもない」って断固として受けとりに行った。それでは、というのでぼくももらいに行った(笑)。
 酒はぼくたちなんか買う金がなかった。「森」に入った時に金を持っていた連中がいて、彼らが買ったときにいっしょに飲んだだけですよ。
 野菜や米などの食糧はほとんど農民から買っていましたね。北部や南部の解放区では、生産隊というのがあって、米、とうもろこし、きゅうり、かぼちゃなんかを作っていますが、プーサーンは小さなゲリラ地区だから生産隊はなかった。民衆工作隊が多少畑を作っていたくらいです。プーサーン山系は低い山ばかりで、山の上に大きな畑なんか作ったら空からすぐ見つかっちゃう。ぼくらが病院のそばで小さい畑をしていたのだって収穫しないうちに爆撃されてしまった。だいたいは谷あいの低地の農民の畑にまじって畑を作る。そうすればどれが誰の畑か区別がつかない。
 その他解放勢力と協定を結んで森で木を伐るかわりに、米や灯油、とうもろこしなどを提供してくれる支持派の農民というのもある。米はいつも不足していて、とうもろこしを混ぜて食べることが多かったですね。
 ラオスにいたときは、米は中国から送られて来るので野菜だけを自分たちで供給してました。中国から武器、弾薬、かんづめ、タバコなどといっしょに大型トラックで大量に輸送されてくる、無償供与で。だから米は余るほどで、それで豚を飼ったくらい。

ラオスの後方基地=拠点A三〇は、統一戦線つまり民主愛国勢力調整委員会(CCPDF)の本部があったところ?


 そうです。その他医療隊と病院、党の小学四年までの子供を預っている学校、理論研究隊、芸術隊などの拠点が集まっていたのです。炊事班と護衛にあたっていた兵士以外はほとんどインテリばかり集まっていた。拠点間の交流は許されていなかったので、演奏のある時しか行かなかった。スラチャイとウィラサクはよくこっそり出かけていましたけどね。それで統一戦線で何が議論されているのかって、ぼくが訊くと、スラチャイはこう言うんですよね。「おまえは純真なヤツだから、何も知らなくてもいい」って。ぼくはよく、こういう風に言われるんだ。どうしてかな。

シップソンバンナーはどんなところだったの?


 雲南省の南の方にあるタイ族の自治区で、そうね、ひとつの郡くらいの大きさかな。その中のひとつの町にいました。CPTの拠点はない。どういう政治形態になっているのかは分らないですね。音楽を習っただけだから。中国共産党がCPTに便宜をはかってくれているということなので、この地方の行政とは一切かかわりがなかった。ぼくたちがタイから来ていることもごく内密でした。
 外人用ゲストハウスに泊まっていたんですが、外人観光客が多かった。ある時フランスのテレビ局の人たちがぼくたちの練習しているところを撮影し始めたんですね。中国人の関係者は大あわてで、こんなものは映してもつまらない、とか言って制止したんですが、彼らはすっかり興味をもってしまって、これがおもしろいって言うわけ。結局予定通り午前は観光に行って、午後から撮影を許可した。その間にぼくたちは練習を終えて、午後は放免。代わってシップソンパンナーの芸術隊が練習しているところを撮影させたんですよ。これでぼくたちはテレビに映し出されないですんだのですが、あの人たちはぼくたちが誰だか分っていたら特ダネになっていたんじゃない。
 最近高橋悠治さんの家で、ジット・プミサクの『サヤーム、タイ、ラオス、クメール語の由来、およびその民族の社会形態』という本を読んだけど、あれはジットの書いた本の中で一番おもしろいな。ぼくがいたことのあるシップソンパンナーから、ビルマ国境のマンスーあたりのことが、ずっと出てくる。タイ語やタイ族の歴史的研究ね。ジットは国立図書館の資料を調べて書いたけど、ぼくはまた行ってこの続きを調べてみたい気がしている。

ジット・プミサクをCPTはどう評価してるんですか。


 あまり聞いた覚えがない。彼の作った歌は「人民の声」放送でいつも流してましたが。「革命の地プーパン」「血には血を」「人民解放軍のマーチ」なんかですね。ジットの書いた譜と違った弾き方をしていた。
 プーパンでジットと会ったことのある古い同志の話だと、彼は「森」の中で民衆の一人として生活していくことにすぐ慣れたということだった。だいたい、ほめた話しか聞いたことがないな。
 ジットが「森」へ入ったのは、シップソンパンナーあたりへ行きたい、という気持もあったのじゃないかな。
 彼の詩? あれはむずかしいですよね。農民なんかに分りっこない。

CPTとベトナムが断交した後、ラオスの拠点A三〇は全員引きあげることになったところで回想録は終りだけど、その後カラワンの人たちはどうなったんですか。


 ポンテープ、トングラーンは北部のナン県あたり。多分スラチャイと会ったはずです。ウィラサクはチェンライ県。ぼく一人だけ中国へ行かされた。国境を越えてムアンラーに着いたところで、中国とラオスの国境が閉鎖されたことを知った。でもあとで分ったんですが、ぼくは「人民の声」放送で働くことに、すでに決まってたんですよ。
「人民の声」放送は、はじめはベトナムにあったそうです。アメリカの北爆がはげしくなったころ中国南部に移ったという話を聞きましたネ。同じ周波数を使って引き続き放送したので、放送を聞いている側には全然分らなかったらしい。
 ぼくのいたところは昆明の郊外だった。ぼくたちは放送のプログラムにそってマスターテープに吹きこみ、予備にもう一本とっておくだけでその後は関知しない。放送局はどこか別のところにあって、誰も知らされていない。ぼくのいたところも警戒がすごく厳重でしたね。高い塀でかこまれていて、外出もめったに許されなかった。
 ここでの仕事は数カ月しか続かなかった。一九七九年七月ごろだったか、放送が中止になったでしょ。最後に「放送を一時中止する」という声明が流されましたが、理由の説明は全然なかった。ぼくたち内にいた者は「一時」でなくて、ずっと放送できないことが分ってましたけどね。最後のころは一日中音楽ばかり流してました。たまにCPTの「自立」宣言とか、カンボジア問題について、「手を結んで火を消そう」なんていうのもあった。「国共合作」の真似、ですか? それほど公式なものじゃなくて、たんに個人的意見の表明にすぎなかった。
 それからは党の子供たちの学校で、絵や音楽を教えていたんです。はじめは昆明のそばで、休みの日には昆明の町や近くの湖に遊びに行ったりした。最後はビルマ国境近くのマンスーというところ。小学校五年以上の子供たちで六十人くらいいました。
 党の子供たちはみんな親と離れて暮らしてる。年齢ごとにいるところが決まっていて。六歳以下の幼児はムアンラーに保育所があるとか。十六歳をすぎると活動家や兵士になって出て行く。以前は中国語は教えてなかったのに、ぼくが帰ってくる直前、中国語も教えることが決まってカリキュラム作りが始まった。近々タイヘ帰れるという展望が遠のいたからじゃないですか。
 そうそう、中国にはオレンジ色の小さなコウモリがいてね、ぼくは胸のポケットに入れてずっと飼ってたの。

「森」へ入る前と、入った後でのCPTに対する考え方は変わりましたか。


 はじめのうちは何も分らなかったから、とくに変わっていない。ベトナム、ラオス、カンボジアが解放されたばかりだったから、タイの革命もそう遠くない将来成功するだろうと思ってたんですよね。
 共産党については何も知らなかった。ただタイの旧社会は、これは一度ひっくりかえして作りかえなければという感じはあった。それでCPTと解放軍が実際にたたかっている唯一の勢力だったでしょ。ぼくはプーサーンにいたときは誠心誠意任務に忠実でしたよ。はじめは歌を直されてもなんとか良くしようと努力してました。政治学習も、ウィラサクは前からたくさん本を読んで知っていたからうんざりしたでしょ。ぼくは何も知らなかったから、真面目に聞いたし、真面目に実行しようと思った。
 ただ疑問はだんだん蓄積していったんですね。「苦難を物語る」というの、あれはいやだったな。「政治・軍事学校」の期間中に一回ずつある。ぼくは焼き打ちにあったナーサイ村の話を何回もやらされました。すごく陰うつになる。
 ラオスの基地に行ってから大規模な芸術隊に組織された時は、かなり疑問に思い始めましたネ。芸術家をひとまとめにして軍隊組織にして何ができますか。それでもまだ、なんとかよくしていこうという気はありましたけど。
 最後に中国に送られてからですね。情勢はどんどん変化しているのに、つんぼさじきで何も知らされない。CPTへの批判が高まって戦線を離脱してバンコクへ帰る者が続出しているという噂は流れてくるのですが、党の側からはレッテルはり式の一方的非難があるだけ。ぼくはこの点に関する疑問と、友人に会わせてほしいという要望を党に提出したんですが解答はなかった。
 タイヘ帰ろうと思い始めたのもこのころからです。「森」を出て行った人たち、たとえばセクサン・プラスートグンのような人に対しても「人民を裏切った」としか言えないことにがまんできなくなったのね。CPTは政党のひとつであって、CPTを離れたことが人民を裏切ることになるわけじゃないでしょ。CPTひとつが人民を独占していいわけがない。
 帰国を申し入れてから実現するまでに約一年かかりました。
 歩いてもタイヘ帰らせてほしいと申し込んだ。結局歩くのは許可されなくて、バンコクヘの空路が開かれてからやっと帰国できた。
 CPTを離れるにあたって、党についてのぼくの考えを書かされた。ぼくは、人民は解放を必要としている、人民の解放闘争にはそれを指導する党が必要であり、CPTは今までその闘争を導いて来た理論と実践と信用がある、そしてそのための軍隊を保有している、というようなことを書いた。ただCPTは人民の闘争を指導する政党のひとつにすぎないということを強調したかった。そしてぼく自身は、このように目も耳もふさがれた状況の中では生きていけないことも。「人民の声」放送が閉鎖されていなかったら、まだ帰国できなかったかもしれませんよ。

五年ぶりにタイヘ帰ってみて、変わったことは?


 あまり変わったという印象は受けませんでしたね。といってもまだあまり何も見てないんだけど。大学に行った感じでは、学生の雰囲気ががらりと変わってましたね。紹介された今の学生はカラワンを知らなかった(笑)。
 でもカラワンのテープはまだ売っているんですね。ぼくらのまるで関知しないところで、次々コピーされて。ぼくは昔のカラワンのテープすら持っていなくて今度買ったんですよ。
 家には帰国を知らせておいたんですが、夜突然帰ったのでオフクロをずいぶん驚かせてしまった。近所の人なんてもっと驚いて、幽霊でも見たような顔をしてた。以前カラワンは全員死亡というニュースが新聞に載ったことがあったので。オヤジは亡くなっていました。亡くなる前、もう口がきけなくなってからも「人民の声」放送をかけるように、一所懸命ラジオを指さしたそうです。「鎖でつないでおけるものなら、つないでおきたい」ってオフクロに言われてますよ。


 モンコン・ウトツクは、一九八二年二月から五月までの三カ月間日本に滞在して、共演した水牛楽団と、彼の歌を聴いたわたしたちみんなに、何かをのこしてタイヘ帰っていった。


晶文社 1983年7月15日発行  





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