『カラワン楽団の冒険 生きるための歌』 ウィラサク・スントンシー 荘司和子訳

目次    


カラワン 序詞


日本のみなさんへ
 スラチャイ・ジャンティマトン

第一部 回想のカラワン
  ウィラサク・スントンシー


 1 カラワンの誕生

 2 クーデター

 3 「森」の生活

 4 ラオスから中国へ


第二部

 5 モンコン・ウトックの話

 
6 楽団はよみがえる
    八巻美恵


 7 カラワン歌集


訳者あとがき

6 楽団はよみがえる  八巻美恵

モンコン・ウトック

「人と水牛」の歌をわたしがはじめて聞いたのは……と、「カラワン回想録」とおなじ書き出しではじめようとおもいついたのはよかったが、ウィラサク・スントンシーのように、この歌との劇的な出会いは、わたしにはなかった。でも、この歌とはもう長いつき合いだ。一九七六年十月六日のクーデターのあと、ひそかにタイから日本にはこばれた「生きるための歌」のカセットも聞いたことがあるし、そのころは、タイの留学生との交流もまだあって、「人と水牛」をふくむいくつかの歌の歌詞を彼らがタイ語から英語に訳し、高橋悠治がそれを日本語に訳すという時間のかかる協同作業もみていた。水牛楽団ができる前に、この歌はすでに何度かうたわれていたが、うたっていたのはそのころも福山敦夫だった。楽器はシンセサイザーやギター、ドラムセットがつかわれていた。
 おもえば「カラワン回想録」にくわしいように、彼らが「森」へ入り、そのなかでカラワン楽団としてはだんだんバラバラになってゆくのと、水牛楽団が、楽団としてまとまってきた時期とはかさなっていたのだ。
 水牛楽団がいまのメンバーにおちついて、プロの楽団としてやってゆく決意をかため、呼ばれたわけでもないのにタイヘでかけ、タマサート大学の庭で日本語の「人と水牛」をうたっていたころ、カラワンのメンバーのうちウィラサク・スントンシーとモンコン・ウトックはすでに「森」を出てバンコクにいたのだった。
 そのときバンコクであった人たちは、みんな「カラワンならよく知ってるよ」というのである。なかには「カラワン? ああ、きのうあったけど、きょうはもうどこにいるのかわからない」という人もいて、わたしたちはもしかしたらあえるかもしれないと、期待に胸をはずませた。
 結局そのときはカラワンのだれともあうことはできなかったが、「読書世界」の編集室をたずねて、編集長のスチャート・サワッシーにはじめてあい、「カラワン回想録」の二回目が掲載されている「読書世界」の最新号をもらった。短剣のようなものでさされた白いハトが血を流しながら落ちてゆく絵のついた表紙で、その白いハトの頭の下に「解放区でのカラワン」と印刷されている。
 日本に帰ってから「カラワン回想録」を「水牛通信」にのせることにきめた。また、それを書いたウィラサク・スントンシーには予定されていた水牛楽団のコンサートのゲストにぜひ来てもらおうと、どこにいるのかわからない、まだ見ぬ彼にあてて手紙を託した。
 するとふしぎにもすぐ返事がきた。
「わたしはギターはひくが歌手ではないので、ひとりで行ってもしかたがない。ここにもうひとりモンコン・ウトックがいて、彼はピンをひき、歌もうたう。ふたりで行くのはどうだろう」
 残念ながら水牛楽団にはふたりに来てもらうだけの財力がなかった。それでモンコンがひとりでくることになったのだ。カラワンを呼びたいね、といいはじめてからここまでくるには、ずいぶん時がたっていたので、「行く」という返事をもらったときはほんとうにうれしかったものだ。
 しかし、モンコンとはどういう人なのか? ピンをひき、歌をうたう。これがそのときわかっていた彼に関することのすべてだ。「カラワン回想録」を訳している最中だった荘司和子から刻々情報ははいるものの、「たいへんよ、モンコンは義足なんだって」とか「なんだかすぐ気絶する人みたいよ」とかいうものばかりで、きくたびにびっくりする。ひとりで東京へやってくる方も不安だったにちがいないが、その人をまっている方もまけないぐらい不安だったのだ。
 ついにバンコクからテレックスがはいった。モンコンは飛行機にのったという。二月二十日、彼がついた日の夜、水牛楽団と水牛通信の何人かで彼の歓迎会をひらいた。それぞれ緊張してかたくなっている。しかしこの日を境にして、それまでの不安や心配はみるみるとけてゆくこととなった。
 もしもわたしたちにもっとお金があれば、たぶんモンコンのためにホテルの部屋をとることぐらいはしただろう。それができなくてよかったのだ。モンコンはせまい家の中でわたしたちといっしょに生活することをたのしんだ。それでもときどき心配になって、ひとりになって休みたくないかときくと、中国にいたときは軟禁状態でほんとうにひとりぼっちだったから、ひとりになるのはもうたくさん、みんなといっしょにいるほうがいいんだという。また、日本にいるあいだは水牛楽団のひとりだから水牛楽団といっしょに行動するよ、ともいってモンコンひとりをよびたがった集会へは行こうとしなかった。
 モンコンのいた三カ月間は水牛楽団は六人になったわけだ。この三カ月間は演奏する機会にもめぐまれていた。水牛コンサート「バンコクの大正琴」、日音協の音楽祭、「境界線上のメッセージ」、土木典昭監督の映画「こんにちはアセアン」の音楽、「国をかんがえ歌をかんがえるコンサート」、中野の喫茶店みなとでのコンサート、渋谷ヤマハ、宇都宮の仮面館、名古屋民衆ひろば、三里塚労農合宿所、新宿反核コンサート、フランス・ラルザックの農民を迎えての集会、そして水牛コンサート「光州5月」など。そうだ、その間に「モンコンと水牛楽団」のカセット録音もした。
 こうして日本でわたしたちといっしょにカラワンの歌をうたっているほどに、モンコンのカラワン再結成へのおもいは強くなっていったのだった。日本にくる前に、彼とウィラサク、それにポンテープ・グラドンチャムナンの三人で再結成をこころみたが、うまくいかなかった。ポンテープはその後、ひとりだけちがう道をあゆみはじめたという。
 モンコンはウィラサクと手紙のやりとりをして、いまはふたりしかいないんだから、とにかくふたりでもういちど歌をうたってあるくことにきめたよ、といっていた。ふたりなら物事をきめるのも移動するのもかんたんでいいんだ。いなかをまわってみたい。
 モンコンがタイに帰るときにはいっしょにくっついて行ってみたいねと水牛楽団は全員いっていたが、亀田伊都子とわたしとはほんとうに行くことに決めてしまった。なぜそうなったかは今となってはなぞだ。理由があったとすれば、モンコンやカラワンがそだったタイの東北地方に行ってみたかったことと、わたしたちには行く時間があったということだ。男たちはいそがしくて十日間あけることができなかった。
 さて、いっしょにタイに行くよというと、モンコンはとびあがって(じっさいそのとき彼は十センチほどとびあがった)よろこんだ。ウソじゃないね、ほんとだね、それじゃ家に手紙を書こう。
 ミエさんとイツコさんという女の人がふたり、ぼくといっしょに帰ります。
 すると返事がきた。
 彼女たちがくるのを歓迎します。六月のはじめにはおまつりがあるから、それまでいてはどうですか。ところで彼女たちはいくつなのか? 結婚しているのかいないのか?
 一週間の予定で日本に行ったのに三カ月もいて、女をふたりつれてくるなんて……という心配がありありと伝わる手紙でおかしかった。
 それから少ししてもう一通の手紙がモンコンにとどいた。カラワンのリーダー、スラチャイ・ジャンティマトンが「森」から帰ってきたことを知らせた、スラチャイの妹からのものだ。この手紙をよんだときも、モンコンはやっぱりとびあがった。ゆうべはスラチャイが帰ってきた夢をみた、といったことが一度ならずあったくらいだから、彼がいちばん待っていた知らせだ。
 バンコクでは、リーダーをふたたび得て、カラワンの再発足はすぐ現実となったらしかった。コンサートがひらかれることになったからすぐ帰ってくるようにと、ウィラサクからも手紙がきた。わたしたちもモンコンといっしょに興奮し、コンサートはいつ? と口々にきくが、それが書いてない。どこかぬけている人たちだ。コンサートのくわしいことはわからないまま、それでもタイに行けばカラワンのメンバー全員にあうことはできるらしい。
 日本についたときはピンと着がえのカバンひとつだったモンコンの荷物は、三カ月の間にずいぶんふえていた。自分で買ったのと窪田聡にもらったのとでチャランゴが二本、サンポーニャなどの楽器類。着るものがいっぱい(彼はおしゃれなのだ)、チリの「新しい歌」やポーランドの「禁じられた歌」、喜納昌吉や坂本龍一などをコピーしたカセットテープがごっそり。タイで売るために録音した「モンコンと水牛楽団」のマスターテープ。タイ語で書かれた日本語の教科書。いろんな人からもらったおみやげの山。ひとりだったらどうするつもりだったのだろう。タイの税関を通るときのことをかんがえて、マスターテープはわたしが持った。なにしろタイでは未だに禁止されている「人と水牛」が堂々と最初に録音されているテープだ。

スラチャイとウィラサク


 タイに行ったり、タイから人をよんだりするとき気にかかることのひとつにことばの問題があった。タイでは英語はあまり有効でない。英語をはなす人はかぎられているし、なにより、英語ではなすことは歓迎されないという感じがある。
 モンコンは教師がきらいで英語をきちんと勉強しなかったとかいって、あくまでタイ語しかはなさない。こういうこともあろうかと、すこしタイ語を勉強してはいたが、まるで役にたたない。身ぶり手ぶりと片言のタイ語でやっとはなしが通じる。タイ語の教科書を片時も手ばなすことができない。しかし、彼のはなすことをわかりたいとおもい、こちらにも伝えたいことがあれば、わたしのように怠惰な人間でも知らぬ間にきたえられる。ある日、タイ語の教科書をわすれてでかけてもこまらなかったことに気づき、三カ月たつころにはモンコンのはなすことだけはわかるようになってしまった。
 五月なかばのタイは夏のさかりであつかった。ことにバンコクはただならぬあつさに加えて車の排気ガスで、灰色の陽炎にすっぽりつつまれている。空気は東京よりずっとわるい。エアコンのないタクシーにのって交通渋滞にまきこまれたりしたら、あつさと排気ガスとで息がつまりそうになる。
 ついたその夜はホテルにとまり、二日目はモンコンといっしょにタマサク・ブンチャートの家にとめてもらった。彼は画家だ。たしか八〇年のアジア・アフリカ・ラテンアメリカ美術家会議の展覧会で、彼の絵が同点も展示されているのをみた。ほとんどがタイの社会の問題を剔出したこまかなペン画だった。タイの絵かきは貧乏で絵具を買えないからしかたがなくてペンでかくんだよ、といってタマサクはわらった。彼の家の壁にかかっている中に、皮でつくったなかばオブジェのようなものがある。カラワンという字がうきでている。レコードのジャケットにつかうつもりだったのが政変でダメになったという。
 あくる日、つまりタイについて三日目に、やっとウィラサクとスラチャイにあうことができた。彼らは電話をもっていない。口づてでモンコンが帰ってきたことを知り、探し、行き違ったりして、あうまでに三日間をついやしたのだった。
 ウィラサクは、カラーのついたワイシャツに混紡のスラックスをはいている。タイ人としては太めで、そのせいか汗かきだ。口数はすくなく、ひかえめである。
 スラチャイはTシャツにジーンズ。やせている。口数はたいへんに多い。しゃべっているときは貧乏ゆすりの絶え間がない。繊細さと野望とが同居している。「この人の目は連帯性のない目なの」とだれかがささやく。ときどき斜視になることをこういうらしい。
 この日はカラワン自身の再会と、カラワンと水牛(の半分)との出会いがかさなって、記念すべき長い一日となった。
 夕方、東北地方(イサーンとよばれる)のおいしいごはんをたべた。蒸したもち米が竹で編んだきれいなカゴに入ってでてくる。それを片手でギュッとにぎって、おかずをつけてたべる。スチャート・サワッシーやセーニー・モンコンもいっしょだ。セーニーは「カラワン回想録」にもあるように、カラワンのマネージャーだった人で、今は通信社ではたらいている。
「カラワンとあってどう?」と彼がきく。
「ウーン、日本に伝えられている情報から想像していたのは、カラワンは芸術家であり、尖鋭なコミュニストであり、それにきっと気むずかしい人たちなんだろうということ。でも会ってみて、ちょっとちがうなあとおもっているの」
 スラチャイがこういった。「ぼくは芸術家として詩をかいたり、歌をうたったりするけど、コミュニストじゃないよ。むしろアナーキストといったほうがいい。コミュニストというのはタイの政府がきめたことで、それでいのちまでもねらわれるんだ。今だってひとりで道をあるいているときにねらわれて殺されたら、それっきりさ。だからいつもコワイという気持があるよ」
 実際「十・六」直前のバンコクで、夜の町をあるいているときに尾行され、ねらわれたことがあった。夢中で逃げたけどあのときはコワかったと、そのとき彼といっしょだった友だちがいっていた。
 まわりの食堂はもう戸じまりをしているのにわたしたちのテーブルだけにぎやかにしゃべっている。メコンウィスキーをいったい何本あけたことだろう。あつくてアルコールがすぐ発散してしまうのか、いくら飲んでも酔わない。「あんたたちはつよいねえ、男とおんなじだよ」と食堂のおばさんにほめられたのか、あきれられたのか。男といっしょになってお酒をガンガンのむ女というのは、あまりよいイメージではないらしい。
 町は人通りも絶えた。真夜中近いのだろう。つぎにつれていかれたのは、男、とくに日本人や白人の男がタイの女を物色するための店だった。外の静けさとはうってかわって人間がひしめきあい、音楽がなっている。人をかきわけ、いちばんすみのテーブルにやっと席をとり、あたりをみまわす。スラチャイが、ちいさな声で「これがタイだ、よく見ておきなよ」という。広くもない店内に五十人以上の女がいる。みんなきれいにお化粧し、ドレスアップしている。お客で女というのはわたしたちふたりだけだ。男は白人が二十人もいただろうか。アメリカ人とおぼしき大柄なふとった若い男がわたしたちのそばをウロウロしている。ウィラサクがその男をにらんで「このデブ野郎」とタイ語でとなっている。自分だってふとっているのに。
「ここはイサーン出身の、それも三十すぎてる女の人が多いんだ。スラチャイはあたらしい小説を書くんで、ここではたらいている女の人にはなしをきくために来たんだよ。彼はこういうとこへ来ても平気だけど、ぼくははずかしくてダメなんだよね」とモンコン。
 スラチャイは壁ぎわでひとりの女の人とはなしこんでいたが、しばらくして彼女をつれてもどってきた。
「このひとは偶然ぼくと同じスリンの生まれで、生まれた年も同じだった。自分と同じような育ちかたをした女の人が、今バンコクに出てきてこんなことをしなければカネをかせぐことができないんだよ。はじめて彼女とはなしてそれを知ったときはかなしかった」
「はずかしいんだけど、お金をかせぐためにこういう仕事をしているの。生きていくためにはお金がいるでしょう。ふたりともしあわせそうにみえるわ。それにきれいよ」と彼女がいう。わたしたちはなんとこたえていいかわからない。
 男たちは今夜彼女を買おうかと相談している。とにかく買うといってお金をはらってしまえば今夜だけは彼女を自由にしてやれるじゃないか。でも彼女はよろこばないかもしれない。議論の結果そのまま帰ることになった。
 帰ったところはスラチャイがバンコクで宿舎としている部屋だった。女性誌の編集室が一階、二階、三階とあり、四階に彼のねる場所がある。家財道具はマットレスと小さな机、それにビールのあきびんとギターだけ。部屋の主はすこし酔って、ヨーシ、今夜はふたりのために歌をうたうぞ、といってギターをとり出した。そのギターは彼が「森」にいるときからずっと持っていたものだ。フレットは弦ですりへって、もういい音はでなくなってしまったけど大切なんだ、といってやさしくだいている。弦をとめてあるピンは、「森」で歯ブラシの柄で修理したもので、赤や黄色のプラスチックだ。「人と水牛」をひきはじめる。右手、つまり弦をはじくほうの手は親指と人差し指の二本だけでひいている。次にこの曲のもとはボブ・ディランだよ、と「戦争の親玉」のはじめのほうをひく。つくった本人がそういうから、なるほど、そういわれれば似ている部分もあるとおもうけれど、これはまったくちがう二つの歌だ。それから映画「トンパン」の曲をひく。この映画の音楽は彼のつくったものだ。カラワンが一時分裂してスラチャイがひとりはなれていたときにつくられたときいている。
 翌日はローイエト県パノムプライにあるモンコンの家にむかって長距離バスにのる。
 カラワンのコンサートは六月十九日、タマサート大学講堂でひらかれることがきまっていた。主催はユニセフ。「かえってきたカラワン」と、新聞や雑誌にとりあげられている。練習をかねてスラチャイとウィラサクも同行することになった。森からもどって一カ月にしかならないスラチャイは、おくさんに電話してやっとおゆるしをもらった。
 ギター、ピン、チャランゴをもってゆく。
 バスターミナルにトングラーン・タナーが見送りに来た。大きな人だ。みんなより頭ひとつ大きい。とても無口な人で、彼の声をおもいだすことができないくらいだ。
 バンコクからローイエトまで約四百五十キロを冷房つき長距離バスでゆき、そこからパノムプライまでは冷房のないバスにのりかえて六十キロくらいか? 朝十時ごろバンコクをでて、モンコンの家についたときにはもうすっかりくらくなっていた。
 一応冷房がついてはいるが、なんといってもバスは鉄の箱、直射日光にてらされてあつい。外の景色がみたくても、あつくて窓のカーテンをあけていることができない。着ているものはアッという間に汗まみれだ。「あついだろう、これがタイだよ」とスラチャイがいう。
 モンコンの家は、あたりではいちばんりっぱにみえた。カラワンは全員イサーンの中産・知識階級の出身なのである。学生バンドとして出発した彼らも、今ではいちばん年下のモンコンが三十一歳、年上のスラチャイは三十四歳になった。スラチャイとウィラサクは、もうトシだから作家にでもなろうか、といっていた。
 このパノムプライは、町の中央に市場があり、それをとりかこむように、ちょっとした商店街、映画館、ローイエト行バスの停車場、学校などがある。町としては小さいほうだろう。若い男の人はほとんどみかけない。ここにいてもすることがなく、都会へ出稼ぎに行ってしまった結果だ。女たちは大きなまるい竹ザルにそれぞれ自慢の蚕をかい、簡単な織機であざやかな色合の絹の布を織る。夕方、外にゴザを敷いてごはんを食べはじめると、近所のおじさんやおばさんがやってきてはしゃべっていく。夜は深く、星が流れる。電気はあるが水道もガスもない。町を一歩でると白くかわいた大地がはてしなくひろがる。たがやす人はなく、みのっているものもない。
「これがタイだ、よく見ておきなよ」とまたスラチャイがいう。
 それはたしかに貧しいくらしだ。けれど、この貧しさにつつまれてみると、豊かだとおもっているわたしたちのほうが実はずっと貧相だということがよくわかる。カラワンのみんながいうとおりだ。イサーンは貧しい。だけどほんとにいいところだ。ここにはなんにもないけど、なんでもある。バンコクにはなんでもあるけど、なんにもない。
 あついことにかわりはないが、空気がうごいているのが感じられて気もちがいい。とつぜん冷気をふくんだ風が吹くと、雷がなってはげしいスコールがくる。雨があがると、すずしくて生きかえったような気がする。
 ある日、トラックにのってケーンを買いにいった。ケーンは竹製の笙に似たイサーンの楽器だ。買いにいくといっても楽器屋があるわけではない。ケーンを作っている人を知らないかと村から村へとたずねあるくのである。半日をついやしてやっとみつけたケーン作りの人からケーンを二本買ったカラワンは、一本を水牛楽団にくれた。ケーンはとてもむずかしい楽器で、水牛楽団はもちろんカラワンもまだつかいこなすことはできないようだ。
 パノムプライでの最後の日は夕映えがきれいだった。そのなかを散歩する。あるきながらスラチャイがいう。「あしたのことはだれにもわからない。きょうみんなでいっしょにいられることを大事にしよう」「あしたのことはわからないっていうけど、あしたはバンコクに帰るんだろう」と現実的なモンコンはぶつぶついっている。
 会って間もないころは、外国人の友だちはいるけれど、基本的には外国や外国人は好きではないといっていたスラチャイが、日本にだけは行ってみようかなといいはじめていた。ウィラサクは日本の食べものとねる場所のことを心配している。モンコンの持って帰った写真をみて、チャランゴをくれた窪田聡の風貌が気に入ってしまい、日本にいったときは彼の家にとまりたいという。
 出会いはうまくいったようだった。
 わたしたちが日本に帰る日、彼ら三人は空港まで送ってくれた。朝食を空港のレストランでとると、これがトーストにハム・エッグといった献立である。ふだんは朝から二人前ぐらいかんたんに食べる彼らも、この「ブレックファースト」はあまり喉を通らないらしい。見送ったあとで、ちゃんとしたごはんを食べなおそうといいあっている。
 別れるときになって、あらためて、わたしたちはずいぶん遠くからおたがいのもとにやってきたのだとおもう。殺された彼らの友だちや仲間のはなしをきけば、彼らが四人そろってまた歌をうたえることのほうが不思議におもえたりもする。しかも生命の危険は完全にさったとはいえない。なにかがあるたびに彼らはどうしているだろうかと、わたしたちはこの先ずっと気にすることになるだろう。
 六月十九日のコンサートのテープはきっと送るという約束だ。

カラワンふたたび


 六月十九日、六年ぶりのコンサートはたいへんな人気だったようだ。ユニセフ主催で、いくつかのバンドや歌手が出演したが、ききに来た人のほとんどはカラワンがめあてだった。料金もふつうのコンサートより高かったようだが、人があふれてプレミアムまでついた。会場のタマサート大学の講堂の外には、それでも入れなかった人たちが立ってきいていたときく。
 約束どおり送られてきたテープをみんなできく。あたたかく大きな声援にむかえられたカラワンの最初の歌はやっぱり「人と水牛」。「ひとはたがやす……」と(もちろんタイ語でだが)うたうスラチャイの声は上気している。「森」でバラバラになっているとき、スラチャイとモンコンが別々につくった、偶然おなじ題の「巣にかえる」という歌がふたつ。彼らの巣とはどこなのか。「森」でないことだけはたしかなようだ。
 わたしたちがもっている、「十・六」以前に録音されたカセット・テープに収められている歌とは感じがすっかりかわってしまった。たたかいとともにあった歌のいきおい、カラワンそのものの若さはなくなってしまったようだ。六年の歳月と「森」での生活が彼らをそんなふうにかえてしまったのか。
 しかし一方では、ソフトでロマンチックな歌がいまのタイの世の中にはあっているともいわれている。以前のように、革命とか武器とかいうことばが出てくる政治的内容のみの歌はもうはやらない。でもことばがかわり、音がかわっても「生きるための歌」のかんがえかたはいまもかわらない、とタイの人はいう。カラワンをむかえるあたたかく大きな声援はそのことをものがたっている。
 ところでこのコンサートの実況録音カセット・テープはEMI(東芝)がカラワンから権利を買って発売している。EMIは東南アジアのカセット・テープ市場における独占企業なのだそうだ。他の国はしらないが、タイでは「生きるための歌」に限らず、ほとんどの音楽はカセット・テープで、レコードはあまりみかけない。カセットは一本が六〇バーツ(約六〇〇円)内外。日本では無地のテープ一本の値段だ。
 EMIからもらったお金で楽器などを買いそろえ、新生カラワンはまたタイの国中をキャラバンしはじめた。

 五月にカラワンのコンサートが見られなかったのが残念で、わたしたちはもう一度タイまで行ってみることにした。九月にまた行くというと男たちはいい顔をしない。だけど彼らだって、行くのがもしわたしたちでなければ、よその男たちがわたしたちにいったように、「まわりはいろいろいうだろうけど、行きたいんだったらおもいきって行ったほうがいいよ」なんてニコニコしていうにちがいない。その程度の理解はあることを信じて、さまざまな軋櫟にもめげずおもいきったのだが……。
 タイの九月は雨の季節。日本の梅雨のように一日中雨がふりつづく。
 モンコンから、コーラートで待っているという手紙をもらっていたので、またもやバンコクから長距離バスにのる。
 雨期はまた農繁期でもあるようで、人も水牛も牛も田んぼではたらいているのがみえる。苗代にうわっている稲の苗はずいぶん丈がたかい。気温は高いし雨はふるし、きっとグングン育ってしまうのだろう。
 コーラートはバンコクから約二百六十キロ、バスで三時間半ぐらい。日帰りでわたしたちを送ってくれたのはスマナー・ナナコンだ。彼女はバンコクに「メット・サイ(砂つぶ)」という名の店をもっている。一階は本、衣類、小物などが置いてあるギフト・ショップ(と彼女たちは称している)、七六年のクーデターのあと開業して、はじめは左翼系の本もつくっていたが、弾圧をうけた。今はもっとしなやかなやりかたをしている。タイにはこどもの本の市場はまだないのだそうだ。こどもはお金をもっていないから、日本の絵本のようにいくらきれいでも高くては買う人がいないのよ、というわけで彼女がつくっているのは一冊五バーツ(約五〇円)の、おとなの手のひらぐらいのちいさなうすい絵本だ。おはなしあり、学習ものあり、クイズあり。日本の絵本の翻訳もある。
 この店を彼女はいっしよにくらしている男の人とふたりで経営している。スラチャイの妹もここではたらいている。
 知りあったのはおたがいにカラワンの友だちとしてだったが、仕入れのためときどき日本にやってくるスマナーとは会う機会が多く、カラワンはそっちのけで、女同士結婚制度に対する疑問などをはなしあえる仲になってしまった。大きな目をクルクルうごかしながら早口でしゃべるので、彼女のいうことがわからないこともあるけれど、そんなことはたいした問題ではない。彼女と知りあえたのは幸運だった。カラワンだけでは片手落ちだ。彼女のようなひとに会わせてくれたカラワンにはやはり感謝しよう。
 そのカラワンがなぜコーラートにいるのかといえば、前の晩ここで彼らのコンサートがあったからだ。しかしコーラートにいるのはわかっているが、広い町のどこにいるのかはわたしたちはもちろんスマナーもしらない。コンサートをやる町にはかならず連絡場所があって、コーラートでは大きな衣料品スーパーがそれだった。まずそこをたずね、カラワンはトーキョーホテルにとまってるよ、とおしえられた。はるばるトーキョーからやってきたのに、ここでもまたトーキョーか。
 ホテルにはスラチャイとモンコンがいた。コーラートでのコンサートの前は、十四日間南タイをまわっていたのだそうだ。モンコンは疲労でついにコンサートのあと倒れ、ゆうべはホテルのとなりの病院にかつぎこまれてそこで寝ていたといって注射のあとでかたくなった腕をみせてくれる。
 コンサート活動を再開して三カ月たらずの間に、彼らは行くさきざきでたくさんの人の声援にむかえられ、すっかり自信をとりもどしているようにみえた。はれやかな顔つきになった彼らを見てなんだかホッとする。
 モンコンが通っていた東北技術専門学校はここコーラートにあるので、彼にとっては地元、友だちがたくさんいる。毎日彼らの家をたずねては、「森」のことや日本のことを話してほとんどねるヒマがないほどだ。
 雨は毎日ふっている。
 コーラートからすこし南にさがったところにコーンブリーというちいさな町があり、そこに住む友だちの家に行った。材木の産地でどこの家にも、縁台を大きくがっしりしたような木製のベンチがある。床もりっぱな木だ。何という名の木かはきかなかったが、このあたりにまでヤマハの触手はのびているそうだ。タイ人が自分で使う家具をつくる木で日本人はギターをつくって売る。
 この町はもうカンボジアの国境に近い。車にのってもう少し国境にむかって走れば「森」だ。ちょっとあぶないかもしれないけれど、その近くまで行って一晩とまってみようという予定だったのに、ふりつづく雨に断念せざるをえなかった。
 さて、わたしたちのみたカラワンのコンサートは九月十一日、ブリラムでのものだ。ブリラムはコーラートから百キロほど東、ここもイサーンだからカラワンにとっては地元でのコンサートといえるわけである。
 コーラートからは鉄道でも行ける。鉄道は時間がかかるし、今はバスのほうが便利になってきているけれど、のってみるとおもしろいし、タイがわかるよとスラチャイはいうが、雨で線路が水びたしでとまってしまっている。仕方がないのでタクシーで行く。ブリラムの町の入口にコンサートの大きな看板がでている。わざわざタクシーにとまってもらい、しばしながめる。
 この町での連絡場所はちいさな本屋だった。この前きたとき(というのはもちろんクーデター以前のことだ)も、そうだ、ここだったよ、とモンコンはおもいだしたようすだ。とまるのはグランドホテル、コンサート会場はそのとなりのグランドシアターだとわかる。
 朝七時半、ねむりはいつも宣伝カーのバカでかい音でやぶられる。コンサートや映画、それにバーゲンセールなどの催しもの一切を町中に宣伝しているのだ。それも三回ぐらいまわっている。十一日のお知らせはカラワンのコンサートだけだった。
 この日は土曜日のためか、二時と七時の二回公演である。主催はジュニア・ジャンボリー。ふだんは映画がかかっているらしいグランドシアターに一時すぎに行くと、入口の周辺は自転車やバイク、屋台の出店などで雑然としている。人びとはそれらのあいだを悠然とぬってあるいている。
 わたしたちは「カラワン御一行様」としてもてなされ、どうぞどこでもすきなところにすわってください、といわれた。劇場は千人近く入るような大きさだ。中央の通路の真中あたりがミキサーの位置なので、そのすこしうしろに腰をおろす。こういう劇場にPA装置が完備していることはまずない。カラワンは自分たちでPA装置一式をもちあるいている。機材を運んだり操作する「カラワンボーイ」と呼ばれている少年が二人、そのためにいっしょにあるいている。彼らのもっているPAは「エンタテイナー」とかいうはじめてきくブランドのアメリカ製。EMIにカセットの権利を売って、そのお金で買ったというのはコレか。
 舞台ではすでに胡弓、タイコ、歌にあわせておどりをおどっている。男と女のかけあいみたいなおどりもある。この土地のもののようだ。入口で手渡されたいやに上等な感じのチラシをよくみると、ソニーのオーディオ製品のカタログだった。舞台のおどりやそれをみている人たちと、まったく場ちがいな日本。
 プログラムは、おどりのあとカラワンがまずワン・ステージ、約四十分。次にボーン・ミュージック。これはチェンマイの人で、自分の上半身、頭や顔や胸などの骨を指でたたいて、よく知られた歌のメロディーをつくる。この人とは水牛楽団がチェンマイに行ったとき共演したことがあって、再会をよろこびあった。それから三人の漫才がある。漫才のおわりに主催者からのプレゼントコーナーがあって、チケットの番号でジャーや扇風機、大型冷蔵庫などがあたる。これが目的で来ていた人が多く、おわったら半分近い人がゾロゾロ帰ってしまった。お客が減ったところヘカラワンがでてきてもうワン・ステージ。間に食事時間をはさんで、これをまるまる二回やる。二回目がおわったのは十二時近かった。
 さてカラワンのステージである。彼らは舞台におもいおもいにあらわれ、マイクテストからはじめる。あんなこと前にやっておけばいいのに、とおもうのは日本人の感覚だが、舞台裏にあたるようなことは見てみるとなかなかおもしろいものだ。
 むかって左がトングラーン。彼はバイオリン、ギター、タイコをもちかえる。そのとなりがモンコン。ピン、歌、タイコとシークをすこし。次がスラチャイ。歌とギター。いちばん右にウィラサク、ギター。
 はじまりの歌は、例によって「人と水牛」だ。前奏がおわって歌になるとドッと拍手がくる。なるほど、みんなが知ってる歌なんだ。歌のあいだにしゃべるのはスラチャイとモンコンで、両端の二人はひと声も発しない。ききたい曲やききたいことがあったら手紙をください、と何度もいっている。つまりリクエストカードだ。要望の多いのは「危険なアメリカ人」だが、この曲は演奏されなかった。
「人と水牛」、「コメのうた」、「ジット・プミサク」、「起って闘え」、「巣にかえる」、「黄色い鳥」、「カラワン」……と今おもいだせる曲はこのくらいだ。スラチャイがメンバーの名前と生まれた土地を紹介する。
 スラチャイののびやかな声。ウィラサクはときどき客席に背をむけてギターをひいている。左ききのトングラーンはなぜか右手でひいている。かんがえてみるとモンコンがうたうのをみるのもはじめてのことだ。日本ではいつもならんで演奏していたから、みるチャンスがなかった。
 カラワンの歌の魅力をことばであらわすのはむずかしい。水牛楽団のことを棚にあげていえば、カラワンはとりたててうまいバンドとはいえないとおもう。けれど彼らがうたうのをみると、めぐりあいたかったのはこういう歌だったんだと納得できる、そういう何かがあるのだ。その何かこそ歌にあるのであって、いくらことばをかさねてもあらわせないものだ。ききながら、昔スラチャイが新聞記者をしていたときの名刺に印刷していたということばをおもいだしていた。スラチャイ・ジャンティマトン、自由思想の葦――。カラワンそのものや彼らの歌は、わたしたちの何気なく知っている歌や音楽にだけでなく、生きかたにまで別の照明をあててくれるものだ。
 東京に帰ってきてから、銀座の食堂で偶然タイ人の観光旅行団ととなりあわせた。初老のお金持ばかりだ。わたしがタイ製の袋をさげていたのではなしかけられた。日本人なのにタイ語ができるなんて、タイに恋人がいるんだろう、などとしゃべっているうちは問題なかったが、カラワンの話をすると急に座がシラけ、なかでもいちばん身なりのよいおじさんが、「ああいうものはコドモのやることだ」と苦々しそうにいった。

 無事コンサートがおわると、スラチャイが申しわけのようにいうのである。「きょうは疲れていてあまりよくなかった。それにこういういなかでやるのとバンコクでやるのとはぜんぜんちがうんだよ」でもわたしたちは満足だった。
 翌日ローイエトで予定されていたコンサートは主催者の都合でキャンセルになったという知らせがきていた。仕事はおわりだ。さあ飲もう! 
 地方のコンサートの場合、はじめに企画するのはたいてい学生のようだ。一カ所やることがきまると、口づてで自分の所でもやりたいという人があらわれて、どんどんふえてゆく。来てほしいといわれれば、どこでも行く。南タイでも予定は十日間だったが、行ってみたら十四日間になってしまったということだ。長距離の移動は楽器とPA装置一式を全部もってバスでする。「カラワンボーイ」はどうしても必要なわけだ。
 出演料など、お金はどういうふうになっているのかきいてみればよかった。モンコンは高額紙幣をチラつかせて、「ほかのメンバーはみんな家族もちだから、家に渡さなくちゃならないけど、ぼくはひとりだからその必要はないからね」といって食事代などの支払いを一手にひきうけている。
 バンコクに帰ると、彼らが自ら「カラワンオフィス」と称する部屋をかりているのがわかった。彼らはふだんバンコクに住んでいない。活動を再開すればバンコクが中心になり、寝るための部屋がいる。彼らはうれしそうにオフィスというけれど、外からは、どうしても車庫にしかみえない。なかに入っても、八畳ほどの部屋の奥にトイレがついているだけで、そこに楽器、衣類、ふとん、本などが雑然とおいてあるだけ。電話はもちろんない。壁にはカラワンの再結成を報じた毎日新聞のコピーがとめてある。広いところをかりると客ばかりきてうるさい。このくらいの部屋だとだれもとまれないから、かえって静かでいいのだそうだ。
 カラワンのコンサートの録画がテレビで放映されることになったが、「人と水牛」とあたらしい歌「カラワン」の二曲はカットするとテレビ局がいうのでスラチャイは話し合いにでかけた。「情況はまだいいとはいえない、やっぱりまだあぶないんだ」とモンコンがおしえてくれる。
 コーラートで、モンコンの同級生だったトックがいっていたことをおもいだす。また政府がかわって、もしカラワンが活動できなくなることがあったら、そのときはあぶないわ。彼らはもう「森」に入ることもできないし、そうなったら日本へ逃げるしかないかもね。

 タイか日本で、あるいはその両方で、カラワンと水牛楽団の合同コンサートをやりたいということもずいぶん話題になった。
 カラワンと水牛楽団が実際にいっしょにできることはとてもかぎられているけれど、もし自分たちの力でそのコンサートがひらけたら、あたらしい歌やあたらしい物語がつけ加えられることだろう。


晶文社 1983年7月15日発行  





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