『砂漠の教室線――イスラエル通信』 藤本和子

目次    


砂漠の教室 I

砂漠の教室 II

イスラエル・スケッチI
 ベドウィンの胡瓜畑
 銀行で
 雨の兵士
 スバル
 
乗り合いタクシーの中で
 鋼鉄《はがね》の思想


ヨセフの娘たち

イスラエル・スケッチII
 影の住む部屋
 悪夢のシュニツェル
 オリエントの舌

   
――言語としての料理
 オリエントの舌

   
――ハイファの台所
 あかつきのハデラ病院
 知らない指
 おれさまのバス
 建設班長
 山岳の村


なぜヘブライ語だったのか

    イスラエル・スケッチI

 乗り合いタクシーの中で

 メルセデス・ベンツの八人乗りが、乗り合いの長距離タクシーとして使われていて、それはシェルートと呼ばれている。シェルートとはサーヴィスという意味だ。そのシェルートに乗って、ハイファからテルアヴィヴに向ったある午後のこと、わたしのとなりに坐った老人はハンチング帽を被ってオレンジを食べていた。わたしはタクシーに乗りこんですぐ、東京からきた手紙を読みはじめたので、はじめ、老人がオレンジを食べていることに気づかず、なぜこの東京のみちこさんからきた手紙はオレンジの匂いがするのだろうかとクンクンとかいでいた。そのうち、もちろんオレンジは隣人のものであることがわかり、わたしはちらりと横目で盗み見たのだ。
 老人はていねいにオレンジの皮を剥いていた。それはタンジェリンと呼ばれる種類のもので、鮮やかな橙色。老人は皮を剥くと全体を二つに割って、一房ずつゆっくりと食べる。
 ずいぶん長い時間をかけて、彼は一個のオレンジを食べた。食べ終ると、ビニールの袋の口を開けてまた新しいのを取り出し、ていねいに剥きはじめる。見れば、ビニールの袋には買ったばかりらしいオレンジがあと五個入っている。彼はゆっくりと二個目も食べおわり、それでおしまいかと思ったら、また三個目も食べた。四個目も食べた。そして、ときどき「フーッ」と深い溜息をもらす。そりゃそうでしょう。四個も食べちゃ、もう胃がブクブクでしょう。でもそうやって溜息をもらしつつ、彼は袋に入っていたものを全部食べてしまった。合計七個になる勘定だった。
 わたしは一体この老人はどういう人だろうか、いままでにオレンジを食べたこともない気の毒な人なのだろうか、と横目でチラチラ見ていたが、横目でそんなふうに見るのも行儀悪いと思って、前の運転席のミラーに映った老人を見ることにした。黙ってオレンジを食べ続ける彼の顔は、ちょうど、そう、フランツ・ハブマンの写真集『ユダヤ人家族アルバム』に載っているような、二十世紀初頭の東ヨーロッパの貧しい行商人の顔などを思い受かべさせる。首から皮紐かなんかで板を下げて、その板が「店」という按配の行商の写真がある。顎と頬に髭をはやした老人たち。白い髭の老人たち。顔のずっと奥の方に眼がある。
 ミラーでチラチラと見ていると、ふと、わたしの背後に坐った若い男が、やはりミラーに映ったわたしを、「この女は一体何者だ、このアジア人は何者だ?」という顔つきで観察しているのに気がついた。わたしは濃い色のサングラスをかけていたから、わたしもミラーをのぞいていることに、この青年は気づいていないよう。ともかく、そんなわけで、わたしはちょっと落ち着きを失ってしまった。
 老人は七個目のオレンジを食べおわると、いまはカスとなったオレンジをビニール袋にしまい、ていねいに袋の口をしばって、それから両手でささげるようにしていた。タクシーの運転手は、そんなもの俺の車に残してゆくなよな、という目付きでときどき後を振り返っては老人を睨みつけるように見ていた。
 老人はオレンジの皮が入った袋をささげるように持ったまま、居眠りをはじめた。あれだけ食べれば眠くもなるだろう。
 そうこうするうち、車はテルアヴィヴの都心に入る最初の交差点の赤信号で止まった。いや、じつは、止まるのかなと思ったら、車はギシャギシャと動いて左側の車線にツツと出たのだ。ナニカ? と思ったら、右手に見える大型トラックの様子がなんとなくおかしい。
 おかしいはずだ。トラックはちょうどその鼻先に、ある乗用車の後部をひっかけて立往生していたのだから。イスラエルではよくファイバーグラスで車体ができている車を見かけるが、この巨大トラックはなぜかそうした種類の車に追突したようだった。追突してあわててバックしたのだろうが、そのとき、その車の後部パネルの部分をバリッと取ってしまったらしい。ほんとうに鼻をひっかけるようにして。さいわい人身事故はなく、前に止まった自家用車の持主とトラックの運転手がすでに交渉を行なっていた。
 とそのとき、わたしの隣のオレンジ爺さんがふと目を覚まし、
「ああ、これは修理できるよ」といった。
「えっ、修理できますか?」とわたしがついつられていうと、
「おっ、おまえはヘブライ語以外に何語をしゃべる?」という。
「英語と日本語ができます」と答えると、
「日本語!」といってすっかり感心してしまった。
 このときオレンジ爺さんはわたしのほうに顔を向けていたので、わたしはまっすぐに顔全体を見ることができた。
 彼はこういった。
「日本人は日本語をローマ字化するつもりはないのかね?」
 そこでわたしは答えた。
「イスラエル人がヘブライ語をやめてローマ字にしたら、ヘブライ語を殺すようなものでしょう? それと似たところがあって、やはり日本語もローマ字にしないほうがいいのです。西洋人はいつも日本語をローマ字にしろとか、日本語の文字を覚えるのは大変だろうとか、勝手に心配してくれるけど、日本人はあなたがたが想像するほどにはべつに困ってはいないのですよ」
「そうか、そういうものか」
 彼はそういって、ほっとしたような表情でにっこりと笑うのだった。わたしはそのような笑顔をそれまでに見た記憶がない。
 自分はイスラエルで生まれたけれど七カ国語をしゃべるというそのオレンジ爺さんと三分間ほども話していただろうか、突然彼は、
「そこ、そこ、そこの停留所でぼくは降りますよ」と運転手にいった。
 そして、
「ああ、せっかくおもしろい話がはじまったところで残念だけど、ぼくは降りますよ。さようなら、さようなら」といて降りていってしまった。でも、あんなにいい笑顔には、わたしはほんとうにあれっきり出会ったことがない。


河出書房新社 1978年11月25日発行




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