『塩を食う女たち――聞書・北米の黒人女性』 藤本和子

目次    


生きのびることの意味
――はじめに

接続点

八百六十九の
いのちのはじまり

死のかたわらに

塩喰い共同体

ヴァージア

草の根から

あとがき

死のかたわらに

  1 熱い日のおとむらい

 二十歳の女性が恋人に拳銃で胸を撃たれて死んだ。撃たれたのはバーの前で、救急車で聖ルカ病院に着いたときには、もう息たえていた。二度撃たれ、弾丸は乳房に穴を開けた。彼女はイヴォンヌ・スコットという名で、イヴォンヌを撃ったのは五十歳の年上の恋人だった。恋人には妻子がいて、イヴォンヌがその恋人との仲をあまりに真剣に考えはじめたので、男はうるさくなって二発の銃弾を放ったということだった。イヴォンヌが「あんたの奥さんに電話して、離婚してほしいというつもりだから」といったので、男はそんな面倒なことはかなわん、といって、バーの前に車を停めて待ち伏せしたということだった。
 イヴォンヌは黒人女性だった。恋人も黒人だった。イヴォンヌが射殺された話をしてくれたのは、マティ・ラリイという友人だった。マティ・ラリイはウィスコンシン州ラシーヌのひとで、私が彼女にはじめて会ったのは七年ほど前のことになる。マティは白人家庭の掃除をすることを仕事にしている。
 マティがきているときは、すぐわかる。扉を開けて家に入ると、マティの歌うゴスペル・ソングが聞こえる。マティは今年五十歳になった。
 わたしはラシーヌへは数回おもむいて、何人かの女性に話をきかせてもらった。そのとき、マティにも、よかったら話を聞かせてほしいと頼んだ。マティはいつもラシーヌの黒人の住んでいる区域の犯罪の話をしている。恐ろしいことだと、いつも色々な話をして福祉手当てを受け取ってる連中はほんとにいやだ、といつもいう。彼女は糖尿病に苦しみながら、働いている。ビニールの袋にクスリをたくさん入れて、持ち歩いて。
 わたしが話を聞かせてと依頼したとき、マティはなぜかわたしが黒人の居住区の犯罪の話をしてくれといっているのだと思い違いして、「いいわよ。わたしのする話が、若い人たちが犯罪者になるのを防ぐ効果があるかもしれないものね、そのためなら、喜んで話してあげる」といった。わたしが聞きたいのは、彼女自身の生い立ちと体験なのだが、といって説明すると、「わかった。それでもいい」といった。
 約束の日の二日前に、イヴォンヌ・スコットが恋人に拳銃で撃たれて死んだ。マティはそのことに大変な衝撃を受けていて、わたしの顔を見ると、すぐその話をした。
 そしてその日の午後、教会でお葬式があるから一緒に行こう、といった。「男をあやつることをどこかで習いおぼえた小娘の死は、遺族を当惑させてる。遺族はわたしの主人の親戚だから、わたしは顔を合わせたくないの。いうべき言葉もないものね」。マティは小娘が男を手玉にとった、そして男が娘を処理した、それは恐ろしいことだが、当然の報いでもある、と考えている面があるようだった。
 約束の時間に、私は車を運転して教えてもらった所番地を探していた。あれ、通り越してしまったかな、と思ったとたん、背後で警笛が鳴った。なんだろう、とバックミラーを覗くと、そこにはマティの車が映っていて、マティのサングラスの顔も見えた。ハンドルの向こうで、おまえは通り過ぎたぞと知らせる身振りをしている。信号のところで、マティはわたしの左側に車をつけて、「ついてきなさい!」といった。
 それは七月中旬の蒸し熱い日だった。陽は照りつけるというより、重い空気をジリジリと熱して、大気は赤茶けていた。脂肪のような汗は乾くこともなく、薄膜となって人々の全身を覆い包んでいた。
 教会の裏手にマティとわたしは車を停めて、正面の入口に向かって歩き出した。マティがその右腕をわたしの左腕に鉄のような力をこめて絡ませる。これから目のあたりにする、あまりにも痛ましいおとむらいの光景からわたしを少しでもかばおうとしてくれているのか、それともわたしにそうやってつかまることで、教会に入って行く勇気をふるい起こそうとしているのか、わからなかった。おそらくその両方だったのだろう。マティの腕から伝わってくる張りつめた神経の音波がわたしのからだに入って行った。わたしはかすかに震えていた。
 階段を昇って会堂に入ると、会堂の中は参列者で埋まっていた。人びとは団扇《うちわ》をハタハタと動かしていた。最後部の椅子に腰を下したマティとわたしに、誰かが二本の団扇をくれた。団扇の表には、ジョン・ケネディとロバート・ケネディとマーティン・ルーサー・キング牧師の顔写真が印刷してあって、「自由のためにたたかい斃れた三人のアメリカ人」と書いてあった。裏面には「カスボスキー葬儀社提供」とある。会堂の中、ケネディ兄弟とキング牧師の無数の顔が波となって、動かぬ重く熱い空気にひたひたと寄せる。
「柩の蓋は閉めてあるのね」とマティが囁いた。若い女性が賛美歌を独唱していた。啜り泣きの声が聞こえる。女たちが啜り泣いている。賛美歌を唱う声がひとしきり高まり、会堂の鉛のような熱気を突き刺すと、鋭い叫び声を上げて、白いドレスの女性が立ち上がった。「イヴォンヌの伯母さんよ」とマティがいった。白いドレスの女性はその両眼を固く閉ざし、左右に揺れていた。若い男たちが数人駆け寄り、団扇を激しく動かし、坐らせた。やがて賛美歌の独唱の声はその豊饒と悲痛を道連れにしてクライマックスに達し、止まった。プログラムにある通り、牧師の説教がはじまると、先程のイヴォンヌの伯母さんがふたたび叫び声を上げ、続けて大声で語りはじめた。彼女の声は牧師の説教を翔び越えて、直接神に向けられていた。
「このようなことがあってよい筈はありません。なぜ、あなたはこのようなことを許したのです」
 牧師はそれを無視して説教を続ける。彼の声とイヴォンヌの伯母さんの声が奇妙な二重唱となって響き続けた。と、ふと、一瞬の沈黙があって、そして伯母さんの白いドレスの姿が音もなく崩れた。「気絶した」とマティがいった。喉が痛むような声でいった。
 またしても若い男たちが数人駆け寄り、パタパタとさかんに団扇を動かした。やがて白いドレスの失神した肉体は抱き上げられて、教会の外へ運ばれた。間もなく、救急車のサイレンが近づく音が聞こえてきた。
 そのあとにも、何人もの女性が気絶した。牧師が人間の道徳の腐敗と罪と悪について語りはじめると、一人の若い女性が耳を覆い、叫び声を上げた。サイレンのように、叫ぶ声は途切れずに響き渡った。「イヴォンヌの妹よ」とマティがいった。玉のような汗を浮かべて、小きざみに震えていた。
 救急車の音が、あとからあとから。
 ふつう、キリスト教徒の葬儀では、教会を出て墓地へ向かう前に、参列者は柩のなきがらに最後のお別れをいう。柩の蓋は半分開けられてあって、顔を見てお別れをいう。けれども、その日は、遺族の希望により蓋は閉じたままにしておく、と牧師が告げた。すると、前の方で叫び声がして、「それはだめ!」といった。「イヴオンヌの妹よ」とマティがいった。「あの娘は葬式のために特別に、昨晩刑務所から出してもらったの。まだ姉の姿を見てないのよ。麻薬で入ってる」。
 妹がせがむので牧師はついに負け、それでは近親者にだけ、といって柩の蓋を開けた。姉と対面した妹ははげしく泣いた。「なぜ? なぜ? なぜ?」と泣き続けた。「もう閉めます」という牧師の声を合図に、葬儀社の者が蓋を閉め、参列者の中には出口に向かう者もいた。妹はまだ泣いていた。無惨な死で姉を喪った、過去のすべての妹たちの声がそこに集まったかのようなはげしさと底無しの無念を表して、妹は泣いていた。
 会堂の空気は茶に染まり、燃えるよう。わたしは自分の眼がつぶれるように錯覚した。紗幕で遮られたような視界で、声をすでに失った褐色の妹が落葉のようにはらりと、音もなく倒れた。幻覚のように。

 参列者の車に葬儀社の係員が「葬儀」と染めぬいた小さな旗を立てる。そのひどく小振りの旗を風に鳴らして、葬列の車が墓地に向かう。旗の威力で、信号が赤でも停まらないでよい。それだけがこの車の行進をはかない凱旋行進のように見せかけている。
 墓地にはすでに穴が穿たれていた。花輪が並べてあった。女たちの失神も続いた。マティが「もう、いやだ」と一言いった。そばにいたマティの女友達が「お葬式が長すぎるのよ。教会で悲しい歌を歌いすぎたのよ」といった。
 そのあとミルウォーキーに向かうことになっていたわたしに向かって、マティとその女友達は国道九四号線に乗るところまで案内してあげようといった。マティはマティの車を運転し、その女友達は彼女自身の車を運転し、そのあとを姑から借りた車を運転するわたしが走った。九四号線に乗る入口はずいぶん遠くて、三台つながっているわたしたちは四十分も一緒だっただろうか。三人の女たちの葬列のようだった。それぞれさまざまな思いを抱えて、それぞれの車を運転しつつ、連なって走った。夕暮れが近づいていた。九四号線の入口までくると、彼女ら二人は右手に寄り、緊急駐車線に車を停めて、わたしが走り過ぎるのを待った。「アリガトオオオオウー」という意味で、わたしはクラクションを軽く鳴らした。「ドウイタシマシテエエエエー」という意味で二人も軽く鳴らした。それから私は「つらいおとむらいでした」という意味で、けたたましく、しつこく鳴らした。二人も「そう、つらいおとむらいでした」と、はげしく、けたたましく鳴らした。クローバーの葉の形のランプを走りながら、私はまだ鳴らしていた。会ったこともない二十歳の女性の、撃ちぬかれた褐色の胸を思い、鳴らし続けた。そのような生の終わりかたをどう思ったらよいのかわからず鳴らしていた。それが、会ったことすらない二十歳の娘に向けた、わたし自身のおとむらいの歌ででもあるかのように。


  2 オービー夫人の葬儀社


 アーネスティン・オービーほど典雅な女性はめずらしい。彼女は七十五歳ぐらいと思われるが、背の高いそのからだをまっすぐに運び、言葉使いのやさしさ、柔らかさ、表情のたおやかさが、ふとゆるんだ心のせいで消える、というようなこともない。そのたゆみない高潔は黒人女性として生きてきた長い人生に弱められることはなく、むしろ強められてきたとさえいえそうである。オービー夫人にかぎったことではないが、多くの黒人女性の高潔と勇気は、黒人であったからこそ、黒人であるからこそ手放すことのできないものだということが、彼女たちと話しているとわかるようになる。敗北の最終地点は自らの人間性を売り渡してしまうことだと、彼女らは信じている。いつでも生きのびることが最小にして最大の課題だった彼女らにとって、生きのびるとはつねにそういう意味を含んでいる。
 はじめてオービー夫人の葬儀社に出向いたのは昨年(一九八〇年)の夏だった。ミルウォーキーで十余人の女性と会い、話を聞かせてもらったその七月の十日間は、湿度も気温も高い、重苦しい天候の日々だった。ゲットーの熱い夏の日には、沈澱した絶望や失意がやはりゆらゆらと陽炎《かげろう》となって揺れている。ゲットーでは青々と生い茂る樹木が影を投げることもない。剥げかけたペンキの黄色がささくれだって、血が流れるのではないかと思ってしまう。眩暈《めまい》する正午まぢかの陽光の中で、ポーチの階段に腰かけた男たちが罐ビールを呑んでいる。
 オービー夫人の葬儀社はセンター通りにある。センター通りはゲットーのちょうど中央になっている。
 オービー夫人は「オービー葬儀社」を経営していた夫君の生存中に、二年間専門の学校で勉強し、「葬儀執行人」と「死体防腐処置士」の資格を取った。エミール・オービー氏が「私はおまえに財産を残して死ぬことはできない。あげられる物といえば、今のうちにきみに資格を取る教育と知識を得る機会をあげることだけだ」といった。オービー夫人は大学を終えて、ソシャル・ワーカーとして働いたこともあったが、夫の死後も葬儀社を続けてゆきたいと考えて、学校に行きはじめた。三十人のクラスで、女性は彼女だけだった。二年後、彼女はすべての課程を終え、エミール・オービーの共同経営者になった。そして、夫の死後も、彼女が葬儀社を続けている。顧客はおもに黒人だが、「私が死んだらオービー夫人のところ以外では葬式をやってくれるな」と遺書に記して死んでゆく白人もいるし、「私の夫の葬式はあなたにやってほしい」と遠方からやってくる白人女性もいる。
 話を聞きに行った最初の日は、彼女の車でミルウォーキーの町を走りまわった。公園でハンバーガーを食べ、湖の近くのアイスクリーム屋でソフトクリームを食べたが、それ以外はおよそ七時間、彼女は走る車の中で話をしてくれた。
 町中の誰もが彼女を知っているようだった。信号が赤に変わって車を停めるたびに、あちこちの車から挨拶の身振りが送られてきた。ハンバーガー屋やアイスクリーム屋でも、あとからあとから人びとが挨拶した。そのような女性のその日の連れがわたし自身であることに、わたしは大変な誇りを感じていた。
 夕方になって、私たちは葬儀社にもどった。七時半から葬儀があるから、ということだった。もどると、オービー夫人は「一緒にいらっしゃい」といった。
 わたしはいくつかある礼拝堂のうちの二つに案内された。最初に連れて行かれたのは、一番大きな礼拝堂で、そこには「ウィリアムズ夫人」の遺骸が安置されていた。「こちらはウィリアムズ夫人ですよ」とオービー夫人は生きた人を紹介するように柩の中の人物についていったので、わたしはお辞儀してウィリアムズ夫人に挨拶した。八十歳ということだった。オービー夫人ははげますような感じで彼女の手に触れ、ドレスについたボウを直した。花々に囲まれ、ピンクのドレスを着て、生きているように見える化粧をほどこされて、ウィリアムズ夫人はお別れにくる弔問客を待っていた。明りも燈されていて、用意は万端整ったが、弔問客が押しかけてくるその前に、ちょっと仮睡しておきましょう、とでもいうような姿で。さようならを告げにくる客たちがきても、ウィリアムズ夫人の閉じられた瞳が開くことはついにないだろう、ということこそ嘘のようだった。
「ウィリアムズ夫人はここに何日泊られたことになるのかしら」とわたしはたずねた。
「きょうで五日目になるのね。このピンクのドレスを着せてあげたら、あまりにも衿が深く開いているので、ドレスに合うスカーフを注文したのだけれど、それが届くのに手間取って、やっと昨日きたから」とオービー夫人はわたしの質問は奇妙だともいわずに答え、スカーフに触れて、「そろそろ時間ね」と亡骸にいった。
「もう一人おられるのよ」と、続いてオービー夫人は小さな礼拝堂に案内してくれて、こんどは「ジョージ・ウェスト」という男性に紹介してくれた。若い男性で三十にもなっていないと思えた。ボクサーのような鼻をしていたから、ボクサーだったのかしらと思ったけれど、オービー夫人の話によると、そうではないらしく、「でも、からだにとても多くの傷跡がある人なの。たくさん手術を受けたようね。イリノイ州に住んでいるけど、ミルウォーキーで亡くなって、ここでお葬式することになったの」。
 ジョージ・ウェスト氏は白いワイシャツに黒と白の縞のネクタイを締め、チャコールグレーのスーツだった。ウィリアムズ夫人は堂々たる体格だったが、ウェスト氏は痩身で背も高くない。年齢の若さがあまりにも痛々しく、病死ではなく、死にいたらしめるような暴力が介在していたのではないかという思いを払いのけることが難しい。命取りの病気のせいだったことも十分あり得るのに、たとえ心の中ででも、あれこれ詮索するのは礼を失すると感じつつも、安穏な生活を見出しえなかった青年の非業の死を、目のあたりに見ているという思いが執拗に離れない。
 ウェスト氏の礼拝堂が小さく、柩もウィリアムズ夫人のそれより質素なのは、葬儀の費用が未亡人によってではなく、ウィスコンシン州の福祉局によって支払われているからということだった。
「私たちの中には失業者が多いから、州が費用をまかなうお葬式はずいぶんしますよ」と、小さな礼拝堂を出ながら、オービー夫人がいった。そこへ十二、三歳の少女が入ってきて、「ねえ、あんたのところには死人を置いているの? あたし会いたいんだけど」といった。遺族でも知り合いでもないようだった。素肌に皮のベストを着ている。オービー夫人は「亡くなられた方々に会うのなら、そんな恰好ではだめ。ちゃんと着替えて出なおしなさい」と声を荒げることもなく応対する。
 弔問客が到着しはじめた。皆、ウィリアムズ夫人の礼拝堂に入って行く。やがて一人の若い女性がそうっと、まるで自分の足音に怯えるような表情を浮かべて扉を開けた。
 事務所の人が「誰をお訪ねですか」ときくと、「ウェストさん」と細い声で答えた。ジーンズをはいている。オービー夫人が「奥さんじゃないわ」といった。「奥さんはこないのかしら」
 ウェスト氏に面会して礼拝堂から出てきたその女性は青い青い顔で、靴を見つめるように俯いて、黙って帰って行った。事務所の窓の外にしばらく見えた彼女の後姿が、まだ熱い舗道の上で、ゆらりゆらりと揺れていた。
「葬儀社をやっておられて、こうしていつも死者とつき合っておられると、いちばん強く感じられることはどういうことでしょうか」とたずねると、オービー夫人は「生きてるってすばらしいと、強く感じますよ」といった。葬儀のために、いつのまにか彼女は白いブラウスと紺のスーツに着替えていた。礼拝堂を出たり入ったりして、すべてに準備が行き届いているだろうかと最後の点検をしている彼女の身の動きは、死者と生きている者たちが共にする最後の時間に威厳を与える者の誇りと力強さにみちている。彼女は死者たちの世界と生きている者たちの世界の間の敷居にうっかり躓いたりすることもなく、まるで自然そのもののように往き来する。「わたしは大柄でしょう? だから、遺族はわたしに世話をしてもらうと安心感を持つのね」というが、じつは彼女と死者の世界のしなやかな交わりが遺族の心を慰め安堵させるように、わたしには思えた。
 その夜わたしはニューヨークの自宅に電話した。けれども、わたしの口をついて出てくるのは「きょうは二人の人物に紹介されたけれど、その二人はすでに死んでいた」という言葉ばかりで、報告はいっこうに意味のわからない、らちのあかないものになった。


  3 弔歌


 オービー夫人は葬儀社を営んでいるから、毎日死のかたわらにいる。死は日常的な事実であり、現実の大きな部分を占めている。死と生の両世界を、自由にしなやかに往ったり来たりしている彼女のこころはひろびろとのびやかだ。彼女の表情のうつくしさや物腰のたおやかさをうみだしているのは、もしかしたら、死者への理解や愛情ではないかと思うのだ。それが生きている者たちへのやさしさにつながっている。生きている者のからだを抱擁するとき、彼女は死んでいった者たちのたましいを一緒に抱いている。マティもまたいつも死と隣り合わせだ。会うたびに、彼女はゲットーで死んだ者の話をする。老齢で天寿をまっとうした者の死ではなく、いつも年の若い者が無惨な事故や暴力沙汰や麻薬の盛り過ぎなどで死んでしまったという話だ。マティのこころはいつも痛んでいる。けれども彼女はまた、その痛みと暮らすこともおぼえた。
 マティの語るような種類の死を、人々は「ゲットー的な死」と呼ぶ。ゲットーにはそういう種類の死がつきもので、それはゲットーの生活の一部でもあるということだ。ニューヨーク生まれの若い評論家ミシェル・ウォーレスは「わたしは中産階級的なものと、ゲットー的なものの両方の中で成人した。親戚には、ゲットー的な死にかたをした者たちも多かったから」と語ったが、その言葉の中にはゲットーに暮らすこと、またはその世界との交わりを持つことは、前提として「ゲットー的な死」と関わりを持つ、ということが含まれている。しかし、この死と日常的に隣接しているという気持はゲットーの暮らしの中にだけ限定されてあるわけではない。アリゾナ州で生まれ、ロスアンジェルスのゲットーのワッツで育ち、一九六七年からニューヨークに住むようになった詩人のジェイン・コルテズは、ニューヨークのグリニッチヴィレッジのアパートで、そのことについて次のようにいった。

 わたしたちの暮らしはいつだってお先まっ暗。一家にかならず最低一人は麻薬で死んでしまった者がいる、といえると思う。悲痛な気持の消えることがない生活。十九か二十歳になるまで生きのびたら、わあ、大成功だ、と感じるのよ、わたしたちは。まわりにあまりにも多くの死があるから。毎年、誕生日がくると、「この歳まで、わたしは生きのびたのだ」と自分にいうのよ。
 そのうえ、わたしたちの生活は完全に警察に包囲されてしまっている。わたしたちについての虚偽のイメジがでっち上げられて、そのイメジに基づいて、わたしたちは見張られている。わたしは路上で夫と議論しているだけで、逮捕されてしまうかもしれない。パトカーがきて、わたしに殴りかかり、逮捕する。その通りのことがアミリ・バラカ(作家リロイ・ジョーンズ)に起こった。白人の夫婦が街頭で口喧嘩したってそんなことにはならない。そんなことになるのは、わたしが黒人だから。黒人だから、警察官のこころの中では、黒人であるわたしは間違いなく暴力的なのだから、彼はわたしをとりおさえなければならない、ということになる。こういう状況がわからなければ、黒人の暴動もわからない。完全に包囲されてるから、もうこれしかない、という気持になることが。この間のフロリダの暴動だって……あそこのスラムはひどい。貧困も目をおおうようなもの。まるでかつての奴隷小屋のような……。
荒涼として。職もなければ、人間らしい住居もなく、その上に警察の暴力は目をおおうばかり……。

 ジェイン・コルテズは二人の少年の死について、二つの詩を書いた。

    殺人一九七三年

 彼が死んだのは
 背中に
 弾丸を射ちこまれたから
 私服の
 警官が射った
 ニューヨークのクインズで
 十歳のクリフォード・グローヴァーを
 忘れるな

(詩集『スカリフィケイション』から)


    弾丸の黒の上の赤を、わたしに与えよ
     (クロード・リース・ジュニアのために)

 クロード・リース・ジュニアの
 いのちを返せ

 頭に撃ち込まれた弾丸をくれ
 それで ベニンの町に銅像をつくる
 それで 雷を炸裂させる
 それで大たつまきを起こす
 クロード・リース・ジュニアの十四年をくれ
 九月の十五日に撃たれた
 頭のうしろを撃たれた
 警察官に撃たれた
 黒人だから撃たれた

 弾丸の赤の上の黒をくれ
 それで大族風を起こしたい
 地震を起こすのだ
 竹馬隊を組織するのだ
 クロード・リース・ジュニアの黒さのために
 黒さとは危険な武器と呼ばれる
 執行妨害といわれ
 くろんぼ《ニガー》の脅威とよばれる

 クロード・リース・ジュニアの黒さのいのちをくれ
 頭に撃ち込まれた弾丸をくれ
 おびえた子を守るつえをつくる
 戦士の仮面に使う
 留め金や飾りびょうをつくる

 クロード・リース・ジュニアのにおいと
 煙と皮膚と
 髪の毛のついた弾丸をくれ
 わたしはちからをつくりたい
 ちからをつくりたい
 クロード・リース・ジュニアの黒さのために
 はけ口のない欲求不満と呼ばれ
 身元不明のニグロと呼ばれ
 くろんぼの革命家と呼ばれる黒さのために

 クロード・リース・ジュニアの黒さのいのちをくれ
 頭に撃ち込まれた弾丸をくれ
 それでおびえた子らを守るつえをつくる
 それでベニンの町に銅像をつくる
 それで雷を炸裂させる
 それで大たつまきを起こす
 クロード・リース・ジュニアの
 血をとり戻すために弾丸がほしい
 酬いたい

 クロード・リース・ジュニアの黒さのために
 酬いたい
 クロード・リース・ジュニアの
 黒さの血のついた弾丸を返せ
 わたしは酬いたい
 クロード・リース・ジュニアの黒さのために わたしは酬いたい

(詩集『紙の上の口』から)

 コルテズのこの二つの詩は、二人の少年の死をとむらうものだ。オービー夫人、マティ、そしてコルテズ。女たちのとむらいの日々。そしてとむらう者たちはもっとも鋭く生を見つめる者たちである。


晶文社 1982年10月30日発行




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