『塩を食う女たち――聞書・北米の黒人女性』 藤本和子

目次    


生きのびることの意味
――はじめに

接続点

八百六十九の
いのちのはじまり

死のかたわらに

塩喰い共同体

ヴァージア

草の根から

あとがき

塩喰い共同体

もっとも戦慄すべき側面は、わたしたちがこの社会の主流文化の側に横すベりして移動した時に、ぽっかりと口を開けて侍っている空隙を見ることだと思う。……わたしたちを養ってきたもの、わたしたちを生かし続けてきたものとの断絶こそが恐怖なのよ。

1 アトランタへ

 作家のトニ・ケイド・バンバーラは、アシソロジー『黒人女性とは』 The Black Woman を編集して出版した時(一九七〇年)には、まだトニ・ケイドだったが、一九七二年に最初の短篇集がランダム・ハウスから出た時には、すでにトニ・ケイド・バンバーラだった。バンバーラという名は、彼女が曽祖母のトランクを開けた際に発見した一冊のスケッチブックの中にあった署名からもらった名だ。
 トニはいま四十歳だが、卜ニ・モリスンは彼女の作風を「威勢のいいところがあってね。こんな世の中に暮らして、なおも、屈服せず生きのびることのできることには、悦びがあるのだ、という感受性に基づいている」と語り、また「スピード感があって、巧妙だという感じを与えながら、同時に、これはひどく古典的なもの、熟成したものだという印象も与える」と評する。モリスンに「女たちの同時代 北米黒人女性作家選」(朝日新聞社)の編集のことで話を聞きに行った折りには、「バンバーラはわたしの妹格にあたる作家だと思う」といっていた。
 彼女は作家としてすでにいくつもの瞠目すべき短篇集を出し、昨年は『塩喰う者たち』 The Salt Eaters という長篇も発表した。表題の塩喰う者たちとは、塩にたとえられるべき辛苦を経験する者たちのことであると同時に、塩を食べて傷を癒す者たちでもある。蛇の毒は塩を食って中和する。「蛇の毒」は黒人を差別し抑圧する社会の毒である。小説の舞台になっているジョージア州クレイボーンという町には塩水性の沼沢があって、そこでは隠者が修行をしているし、傷を負った犬が傷を癒すためにやってくる。ヴードゥーの言い伝えでは、塩を撤くと魔除けになる。このように、「塩」には重層的な意味が重ねられているが、塩を喰らう者たちは生きのびること、再生することを願う者たちであるし、体内にあって多すぎても少なすぎても逆効果になる「塩」という基本的な生の要素を分かち合う者たちでもある。生存の根としての塩、その塩を喰らう共同体。
 バンバーラと話をしていて、もっとも強くこころを打たれるのは、黒人の共同体のたからものである彼らの文化の根に対する彼女の深い愛着としなやかな洞察力である。作品を読んで読者として感じる高揚感は、共同体の生命力を描く彼女の世界を、読むことを通して共有させてもらったことへの感動でもあるし、彼女の視線が矢のごとく光のごとく動くたくみさの中に、はっきりと集団的な想像力を、語る者としての彼女の出自のたしかさを見ることによるのだろう。バンバーラという作家の向こうには、ひとつの精神世界が立ち現れてくるのが見えるが、それは通常の批評言語では語れないだろうと感じさせる。「黒人社会の中で生起することをうたいあげるには、言語がないのよ。英語では、共同体の文化も体験も暮らしも、半分も語れないのよ」と彼女はいう。アメリカの中の第三世界集団がそれぞれにふさわしい言語を生み出さなければならないことを強く感じてきた彼女は、自分の作品についてもそのことを鋭く意識している。けれどもそれは言語を発明するという意味のことよりも、非言語的なものとしてある共同体の暮らしの核を見据えることでおのずと生まれてきたものだった。だから彼女の短篇の多くに見られるおかしみも、ゆめゆめユーモアなどという言葉で呼ぶまいと思うのだ。ユーモアとはなんと薄々とした言葉か。アイロニー感覚を基盤にしていない、もっとべつの、逆転の腕力を表すような言葉はないのか。

 トニはニューヨークに生まれた。ニューヨークではハーレムとブルックリンのベッドフォード=スタイヴサンで育った。一九五九年にクイーンズ・カレッジを出て、六三年にはニューヨーク・シテイ・カレッジで修士号を取って、それから地域運動の組織者となり、ソシャル・ワーカーとしても働いた。後にラトガース大学で教えたが、ジョージア州アトランタヘ移ってからはもう大学では教えていない。著作と「地域運動家」としての活動をしている。

 南部へ初めての旅をして、そして初めて会った人物がトニだった。会いたい、と手紙を出したら、すぐ電話がかかって、会ってくれるといった。アトランタ空港から車で目茶苦茶に迷って、あちこち走りまわり、どこにいるのかもう皆目見当もつかなくなり、「ソウルフッド」という看板の出ていた食堂に入って、コーラを呑んで道をたずね、それからまたあちこち走りまわって、ようやく泊めてもらうことになっていたスペルマン・カレッジの校長先生の家に着いたら、その玄関先に校長先生の奥さんと、トニが立って、もう和子という日本人はどこかで野たれ死にでもしたかいな、と話し合っているところだった。トニはその手に、バケツと箒とゴム手袋をさげていた。熱いアトランタの七月の夕ぐれ。
「パスカル」という店で夕食をして、それからトニの家へ行き、じっとりと熱い夜に、蚊にくわれ、妖猫にまといつかれ、話を聞いた。かつての夫が翌日訪ねてくるから窓ガラスを拭くのだといって、トニはアンモニア水とゴム手袋で奮闘しつつ、話をしてくれた。でも、それは午前〇時頃までで、汚れていた窓の向こうにぼんやりと立木の姿などが見えるようになると、窓拭きは終了したことになり、そのあとは二人して坐りこんでしまった。全然眠くならないトニといて、わたしは夜が更けるとともに憔埣し、帰り道では危うく車を電信柱にぶつけそうになったのだ。
 トニに会えたことを、わたしはありがたいと思う。彼女は黒人共同体の経験や暮らしや創造性や伝統が英語で言語化しきれないものであることを強く意識している作家であると同時に、それでも書くとなれば、新しい言語を生み出すしかないという決意で仕事をしてきた。彼女の関心は自分が作家として成功するかどうかではなく、書くことはひとつには黒人共同体の豊饒と特異性をうたい、祝うことである。それと同時に未来に向かってヴィジョンを投げる魔術師でもありたいと思っている。トニを作家として眺めるだけでは不十分なのは、彼女のこれまでの組織者としての活動がトニというひとを生かしめているということによる。
 だからその彼女がいまアトランタにいるのも偶然ではない。ブラックパワー運動は挫折した、キング師なきあと、黒人の運動は指導者もないまま衰えているとか、世間は勝手に総括してしまってもう誰も何もやっていないような印象を与え、あとは黒人の個人個人が中産階級にはいのぼろうとする、ずたずたになった闘いしかないようにいうのだが、それは嘘なのだ。混乱や遠回りがあるにしても、誰も彼もが諦めてしまったわけではない。その気になってたずねまわればすぐわかることだ。運動は地域運動として受け継がれ、根を下ろしているところなのだ。たとえばアトランタで会う地域運動の活動家たちの中にはかつては東部で運動に加わっていた人びとが多い。六〇年代以降、北と南の人びとが一つの箱の中で揺さぶられてきた経緯を、友人のユーニスは次のように語った。

……六〇年代にはあからさまな抑圧がある場所でではなく、むしろ微妙な抑圧のある場所、つまり北のゲットーで暴動が起こった。南部の黒人たちよりよい暮らしをしていたと思われていた人びとの暴動。彼らは北も南も同じだと気がついたわけ。しかも南部の黒人は職を得るにしても、資格がある場合が多かったし、彼らは心理的にもより頑強で、つらいことにも耐える力が強かった。それは彼らには、いってみればより多くの「ルーツ」があったからなのね。学校へ、というより、彼らは南部へ行って「私と黒人共同体」という関係を回復してみたかったの。現在では北と南の人びとが交わり、それが豊かな土壌を生み出しつつあると思う。

 そのようなことは白人ジャーナリズムの記事を読んでいるだけでは決して明らかにならない。そして、たとえばアトランタなどに根を下ろしつつある地域運動のネットワークのことなども全然わからない。わたしはそのネットワークの核にいる女たちの何人かのことを、べつの章で語りたい、続くたたかいの証言として。日常化していくたたかいを支えている女たちの肖像を。それぞれの特異性や能力や方法は当然のことながら異なっているが、彼女らを一つに結ぶ焦点は、彼女らの語ってくれる言葉の中におのずから明らかにされることだろう。
 トニがいまいるのはそのようなアトランタである。トニはそのネットワークを支えているひとりだし、トニを支えているのもまたそのようなネットワークだ。
 トニは彼女の母ヘレン・プレホンのことを愛と敬意をこめて語る。トニにヘレンに会いたいというと、それはいい考えだといい、すぐに電話で連絡してくれた。ヘレンが話し聞かせてくれたことも、章を改めて書いておきたいと思う。

2 文化の根

  ――ラトガース大学で教えていて、もう終身在職の契約もあったわけだけど、その安定した暮らしを棄ててしまったのね。

バンバーラ ラトガース大学へ行った目的を果たしたので辞めた。黒人学《ブラック・スタディーズ》のプログラムを作ることだった。アトランタヘきたのは、しばらく静かにしていようと思ったからなのだけど、きてみたら、組織運動があまり盛んでないことに気がついたもんで、組織することを始めてしまった。政治活動、教育問題、芸術活動の方面で。手はじめにやったのは、土地のミュジシャンたち同士を引き合わせることだったのだけど、わたしはここへやってきたばかりの新参者だったのだから、変な話でしょ? 作家たちを組織するのは難しくてね。ミュジシャンのように仕事場が目につかないから。エレベーターの中をのぞいて探すのよ、作家たちは……

  ――溝の中とか。

 そう。でも最終的には「黒人アメリカ作家南部集団」を組織してね、これは地域奉仕団体なのだけれど、その組織をやっている途中で、「地区芸術センター」を創立してしまった。これは舞台芸術や文芸作家などの訓練センターみたいなもので、たがいに訓練し合う、誰かが能力をのばすのを手伝いながら自分ものびていくという仕掛け。
 そのうちに気がついたのは、選挙運動に熱心なような政治活動家と芸術家たちの間にはぽっかりと空間があって、完全に切れているということ、そこで彼らを繋げて。次に政治的意識の高い連中と心霊術の連中とが全然繋がっていないことに気がついてね。わたしは心霊術関係の人びとに多大な関心を寄せるようになったのだけど、この町自体が秘教的な感じだから、そういう連中を探し出すのは難しくないだろうと予想したの。それから、わたしは透視眼の人びとや、テレパシー能力のある人びとを組織し始めたのだけれど、これはまだまだ進んでいなくて。何千人も、ほんとに南部には何千人もそうした人たちがいるのだけれど、彼らは騒ぎたてたりしないで、たいがいは地下に潜っているし、そのうえひどく警戒心が強くてね。自分の能力を守ることにおいては油断を怠らず、弟子をとったら、その弟子には他へは修業に行かせないのが普通。わたしもある人の弟子だけれど。彼らはたがいに交流することには関心を抱かないし、たがいの力を怖れてもいるの。わたしは五カ年計画で、こういう連中を組織しようと思うの。どういう結果になるかな。『塩喰う者たち』を書いたわけはそういうことだったし、それがわたしの仕事だとも思うのね。
 いまでは、だいたいどういうところに行けば連中がいるかはわかるようになった。「新時代医学校」の心理学部とか、「新時代研究所」とか、「全体医療センター」などに身を隠しているのよ。それから治癒師の多くはマッサージの分野に出て行っている。フロリダのケインズヴィルには「フロリダ・マッサージ療法学院」というのがあるのだけれど、わたしはそこで勉強したりしている。そこの人たちがわたしをいろいろな連中に繋げてくれるし。だから、どうやって組織化していったらいいか、その方法はわかっていると思う。祖母がよくいっていたように「生徒のこころの準備が整えば、おのずと教師が現れる」ということよね。それに実際、心霊術と科学の向上を目指す組織を作ろうとしている女性グループがあって、それが実現したら、わたしがそこへ三十名のメンバーを連れてくることになっている。いまはそういうことの機が熟しつつある時。

  ――あなたをそういう方向に衝き動かすものは何かしら。

 たがいに異なる要素を、つまり種々の専門分野を一つにまとめ、共同分野に綜合して行く力がわたしにはあるのよ。どうしてそうなのかはわからないけれど、見たところ関係のなさそうなものを結びつけることができるのね。それがわたしの仕事。そういうことをしないでは、この町で暮らしていくことはできないから、やってる。アトランタはだだっ広く拡がった町で、交通システムはものすごく反人間的、反共同体的。わたしの興味の対象は広く、さまざまなものから栄養を得ていなければ、わたしはもう地獄だから、息をし続けるためにも、こういうことをやっているわけ。

  ――ミルウォーキーで会った人びとは、寛容なたおやかな人びとだった。ニューヨークではもっと苛烈な女たちに会うことが多かったのね。それでもなお、ニューヨークで会った女性の一人ひとりがそれぞれアフリカ的なものとの繋りを強く感じていることを語ってくれたのが印象的だった。トニ・モリスンは底深く大地に結びついている女たちの感性のことを語ってくれたりして。心霊術を会得している者たちを組織したりする時、あなたもそういうことを考えているのかしら?

 わたしたちがこの狂気を生きのびることができたわけは、わたしたちにはアメリカ社会の主流的な欲求とは異なるべつの何かがあったからだと思う。アメリカ的な病ともいうべき物質主義と鬱病に、わたしたちはまだ一度も屈服したことはない。物はいくら所有したって足りない。貧困のどん底にあるような黒人たちのこころを占めたのは物への欲求ではなく、何かべつのことだった。多くの黒人にとって、それは名付けようもないもの。指さして示して、ほらこれだ、ということができないもの。人びとはそれを宗教的偏見だとか、フードゥーだとか、ヴードゥーだとか呼ぶわけだけれど、いずれにしろ、わたしたちにはある種べつの知性を理解する能力がある。わたしたちは異質な一群の回路のより近くにいるのだと思う。それを精神異常とか狂気とか呼ぶ人もいるのだけれど……。都会的に洗練されきった連中が心理的にも混乱してしまうと、南部のふるさとへ帰ってみたりするね。いなかへ。それはどういうことかといえば、先祖たちに触れてもらうとか、店舗を借りてやっている教会へ行って説教をきくとか、おばあちゃんに会いに行くとか、そういうことでしょ。おばあちゃんはその手をそっと頭においてくれる。癒してくれる。「何かあったね。この間まではひどい様子をしてたけど、ずいぶん元気になったもの」そうたずねると、そういう連中は「うん、まあな。南部へ行って、ちりめんキャベツやとうもろこしパンを食って、年寄りたちと話しただけさ」なんて答える。かなり執拗にきかないと、意味深い逸話をひき出すことはできないわけ。体験を語ることのできる言語が存在しないからなのね。

  ――英語はそのような体験に対して敵対的な言語なのかしら。

 黒人社会で生起することがらの半分も英語では描写しうたいあげることができない。現在でも黒人共同体の暮らしには言葉で描写できないことが、定義する言語がないことが多い。社会科学の対象となるべき事象、現象なのにそれを定義できる、適切な用語が存在しないのね。そういう事象、現象は認識されない。偏見のある目には見えない。詩人でも表現しきれないようなこと。新しい言語が生み出される必要があるのよ。
 トニ・モリスンはとても独特のやりかたでその問題に取り組んできた。怠堕な読者は誤解しやすい。なんとも驚くような批評をいくつも読んだ。人びとはもうフィクションを読むことができなくなっているみたいね。トニは彼女の興味を惹いている人物を危険に追いやる、すると、あの昔ながらの、神話的な声が聞こえてくるのだけれど、読者にはそれがわからない。トニは方法を見つけたと思う。『ターベイビー』ではほんとにそれが明らかになると思う。いままでは、彼女の作品を読むといらいらすることがあった。彼女の作品はわたしは大好きなのだけれど、彼女の表現のほうが彼女が見据えていることがらよりすぐれているといったらいいかしら……わたしはページを繰りながら、「ほら、そっち、そっちだってば!」って怒鳴るわけよ。彼女に何を眺めてもらいたいのかとたずねられれば、わたしは答えられないのだけれど、視野が中心をはずれているような気がしてならないの。核から五センチぐらいはずれているみたいな、電球の明るさが足りないみたいな。でも、彼女は方法を見出した作家ね、様式だけでなしに、ある「声」を、音調《ピッチ》を見出した。『ターベイビー』が出たら、わたしは一週間隠居して、電話も切って、蝋燭をつけて、果物と水をそばにおいて読むつもり。彼女はすごい。すごい女性よ。
 文化的遺産のことに戻っていうなら、わたしたちはそれを棄て去ったことはいまだかつて一度もない。それはある異質の知性に変えられていっただけ。いくつかの共同体に見られるように「アメリカ人になる」努力というのは、大変な破壊を意味する。ずいぶん多くのことを諦めなければならないのだから。ヨーロッパからやってきた移民の二代目、三代目が黒人を理解できないのはそういうことよ。彼らはずいぶんと棄ててしまった。アメリカ帝国の伝統と引き替えに自らの民俗的伝統との結びつきを失ってしまった。
 わたしはつい先だって「タスキーギ大学」へ行ったばかりなのだけど、土地の老人たちはジョージ・ワシントン・カーヴァーをヴードゥー師として記憶してるわけね、禿を治して毛髪を生やしてくれたとか、疣《いぼ》を治療してくれたとか。
 いまでも死んだ人の目の上に一セント銅貨を置いたりするでしょう? 銅を置くというのは、エジプトの古い習慣だったのよね。人びとは「そういう理由でやるわけじゃないさ。うちのおばあさんがそうしろと教えてくれたのだが、その理由は云々……」というけれど、いずれにしたって、暮らしの中にはアフリカ的なものがきわめて明らさまな形で残っている。古い習俗が滅びずに生きのびている。なぜそのような習俗があるかという理由は、もう記憶されていない場合が多いにしてもね。
 黒人のペンテコステ派教会の例を考えてみるといい。それはじつに黒人の民族主義の貯蔵所といえるの。連中はかつて一度も人種の隔離撤廃を叫んだことがない。いつだって黒人たちだけのものだった。白い手袋して、帽子にはシフォンの薔薇の造花をつけて、コルセットをつけているような最も厳粛なタイプ、堅苦しいタイプでも、一皮めくれば、内では大変に個人的な神とのやりとりが行なわれていることが明らかになるのね。礼拝の形式や方法もとても長い歴史を持ったもので。あなたたちはヴードゥーをやっているのですよ、といったりしたら、教会から放り出されたり、殴られたりするだろうけれど……病気の治療、うた、音楽……音楽の担う役割などから考えてみれば、間違いなくヴードゥーなのよ。ラジオの声に返答したり、ある言葉を口に出していってはいけないといったり。「そんなこというんじゃない」つまり、そのようなことをこの宇宙に現出させてはいけない、と。ひどくヴードゥー的なわけね。
 アトランタには教会がやたらにある。酒屋の数より教会の数の方が多いのは、わたしの知っている限りではここだけよ。わたしはゴスペルを聴くためにペンテコステ派教会に行ってみる。「新時代形而上学教会派」の教会で「真理光明指導センター」というのがあるのだけれど、そこなんかおかしいのよ。礼拝が始まる前に、牧師が「さあ皆さん立ってください。あなたの左側に立っている人の方を向いて、その背中をマッサージしてみてください。それから、前にいる人に接吻しなさい」なんていって、全体的にこう触り合ってばかりいる。すごくいいのよ。牧師たちは例外なく黒板を持ち出してくる。これから行なう説教について、大変興奮してるわけだから。聖歌隊もすごくおかしい。指導者の中には女性が多くて、たとえばバーバラ・キングという女性などはたえずからだから光を放っていてね。病気を治すこともできる。手から光が出るのよ。そのような能力を持った連中はかなりの数になるの。そういうことを行なって当り前よね、もし人に奉仕する《ミニスター》ことができないのなら、牧師《ミニスター》ではないのだから。
 現在女性の牧師は増えている。とりわけ「新時代」教会ではね。どうしてそうなのか、わたしはよくわからないのだけれども。「米国メソディスト教会連盟」が女性を牧師に任命しなかった時代にも、独立して自分の教会を開いた女たちはいた。男たちは女たちが募金運動をやり、男や子どもや鶏どもが生きのびるよう働くのは許したけれど、牧師になることは許さんといったわけね。指導権は渡さぬ、と。いまはそれも崩れつつあるわけだけど。わたしの祖母の世代では、牧師的能力を持った女たちは教師になったものだった。日曜学校で教えて。大胆な連中は自分の教会を創立したのね。現在ではもっと大っぴらにやるようになった。

  ――黒人の女たちはずっと教育者の役目を担ってきたみたいね。奴隷制の時代にも、女たちは白人に見つからぬよう秘密の「深夜学校」を開いて教えていたと。

 アフリカ大陸で今でも残っている教育における男と女の役割分担を見ると不思議な気がする。奴隷の時代の分担と同じなのね。男は地理、天、政治について教育し、女たちは成育に関連することすべてを教えた……野菜のこと、花のこと、大地のこと、そして読み書き。でも、そのことをどういう風に捉えるべきか、まだよくわからない。一度はアフリカ大陸における分担ということで考えてみたのね、つまり男は金属に関することを教え、女は有機体いっさいに関して教えたのだとか……。
 ニューオリンズではまだそういうことが残っている。共同体はいまだに男たちの手で運営されている。女たちはばらばらで、目につくような集団はない。男たちは青少年学校みたいなことをやっている。若い男の子たちを徒弟制度で訓練する。確実に将来にそなえて訓練してる。謝肉祭《マルディグラ》会は男性の秘密結社にあたるものではないかと思うの。女たちは隅の方に引っ込んでいて、関係を持たないようなのだけれど、それは奇妙なのよ。だってニューオリンズはかつては女たちが動かしていた町だったのに。ヴードゥーが盛んで。とりわけ女のヴードゥー師たちはすごい力を持っていて。

  ――あなたがアトランタヘ移ってきたのも、文化の根の近くにいたいということだったのかしら。二年になるのでしょう?

 そう。この間ニューヨークへ行ってみて、その汚さ、悪臭には唖然とするばかりだった。三番街とコロンバス街もすっかり変わってしまって。まだ歩きまわることはできる町だけど……アトランタは午後十時にはもう町は完全に死んだよう。もっとも、わたしの住んでいるここはちょっと違うけど。街路文化がまだある。角へ行ってみれば、即席のニュース解説が聞ける……。そうね、ニューヨークは懐しい。あの町の情熱が懐しい。ここの人たちは愛想はいいけれど、あなたがさっきいってたように、礼儀正しいというのは時としておっかないものだから。いまでもアトランタは、プランテーションの経営者がひどく人種差別的な言葉を発しても、人びとは喝采するのが礼儀だと考えるような所なのよ。白い手袋を脱ぎすてて、そういう発言をするやつを殴るよりも、じっと礼儀正しさを守り通す人たち。
 以前なら、アトランタへきたのは、「空港が便利だから」とか「母がいるから」だとかいったけれど、わたしはわたし自身の学習を完了するためにここへきたのだということがいまになってわかってきたの。ここでは人びとに出会える。多くの年寄りたちがいて、彼らに容易に会うことができる。その点が気に入ってる。ニューヨークでは知り合いの老人たちとしか接触できない。年寄りたちがいない所では、わたしは暮らせない。彼らが身近にいない生活はいやなのね。
 自然、というものを考えてみても、わたしたちの関係はアメリカ社会の主流のそれとは違う。トニ・モリスンは「都市生活における村落生活の価値」という学会で、黒人にとっての森林や原野の意味が特異なものであることを語った。西欧的な自然観と混乱してはならないと。原野文学とでもいうべき範疇で名をあげたレズリー・フィールダーのような作家たちの同席した会議でね。
 ニューヨークの町では、現在でも同郷人として訪ねることのできるいわば包領が存在している。火事で焼け出されたら、そういう所へ行くのよ。アパートの窓に花箱を取りつけて、大地を忘れないでいる人たち。なんだってまあ庭のことばかり気にしてるのか、と思うのよね。大地との繋がりを失わないためなの。

  ――そういうことは今後も衰えずに続いていくと思う?

 何かが崩壊しつつあると、わたしは感じている。子どもを持たない、なんてわたしには考えられないことだけれど、わたしたちの歴史始まって以来初めて、「子どもは持たないつもりだ」という人たちが出ている。これはわたしにはひどい衝撃なの。何かの兆候だと思う。以前では到底考えられなかったことなのに、この頃は老人を養老院に入れてしまう人びとも増えている。たしかに何かが崩れかけている証拠よ。人びとが記憶を失いたがっているみたいな。……土地をどんどん手放す傾向も見えるし。

  ――トニ・モリスンは記憶する能力を失いつつあるから、再び記憶を取り戻すために書くのだと話してくれたけれど、あなたもそういう風に感じるの?

 過去からの声と英知がトニを衝き動かしていることは確かだし、わたしもそういう気持だけれど、わたしの場合はそれに加えてもう一つべつのことがある。それは未来へのヴィジョンなのだけど、それを書くことに強くこころを惹かれるの。
 それでもなお、記憶することは重要だと思う。とりわけこのサイバネティックスの時代には。十歳になるわたしの娘は「かあさんやおばあちゃんの記憶は本やテレビから知ることができるのだから、あたしの世代がいろいろ記憶しておく必要はないじゃないの」というのよ。
 過去がおもにトニ・モリスンの世界で、わたしはその世界をそれと認識することができる。けれども若い作家たちにはそれがなくなってきた。おばあさんたちの台所が追放されてこのかた、彼女らはその世界に触れることができなくなったのだから。シャンゲの作品を読むと、ある一点で踊っている人物を見る気がする。眺めている対象が違っている。「わたしたち」について語っていないものを見るというのは、わたしにとってはかつてない体験なわけ。伝達の媒介者でない、ということは、かつてなかったことだから。そういう意味からは、伝統からははずれたものなのだけれど、でもそれにもかかわらずわたしは高く評価する。ただ、わたしのような作家は、「わたし」以外のあれこれを引きずっている。女たちはいつもぴたりとわたしの傍を離れない……。
 いまもなお過去形を使って書いていることに、わたしは当惑するのね。べつの何かがほしいのだけれど、英語の時制では、どうやったらよいか見つからない。「直接過去」や「習慣的未来」という時制があれば……いろいろ実験はしてみるのだけれど。
 そう、やっぱりそう。わたしは何ものかによって書かされている、ということに気づいている。何か書いたら、年寄りに読んでもらうの。読んでみた彼らが「いいよ」と頷かなければ、棄ててしまう。

  ――それは女に特有の能力だと考える?

 どうなのかしら。そのことについてわたしはずいぶん考えてみるし、ひとにもたずねてみるの。女たちにたずねると、もうそのことは長いこと考え続けてきたといわんばかりに、素速く答が返ってくる。男たちにたずねると、答が返ってくるのにはひどく長い時間がかかる。彼らはためらう。何と答えてよいかわからない、という場合も多い。わたしのたずねていることの意味が理解できる男性作家はボールドウィンただ一人よ。彼はためらわずに答える。他の連中は問の意味を直感しても、答えることを躊躇する。
 でもね、女か男かということにかかわらず、じつは「媒介」というのは伝統でもある。ビリー・ホリデーは彼女のストーリーの主人公について語ったものだった。彼女は女主人公をつくりだして、ある客観的な態度で語ったものだった。「わたしが……」とうたうかわりに、「彼女が……」とうたって。そして男のブルーズシンガーもやはりその伝統でうたってきた。わたしは創造者ではない、わたしは代弁者なのだ……共同体が問題なのであって……「芸術家」個人が重要だという、ナルシスティックな観点とは異なるもの……。
「あんたはなぜ、人びとが耳にしたくもないと思うような連中、オルガナイザーだとか地域運動活動家だとか、調子の狂ったような連中、いざこざを起こすような連中ばかり舞台の中央に連れ出してきて、あんたのフィクションの才能を台なしにするのかね」といわれる。でも逆なのよね。わたしは自分で読んでみたいと思うような話を書きたい。読んでみたいと思うような人びとの話を……地区自主学校の教師のことだとか、オルガナイザーたちの長い伝統から生まれてきた人びとのことだとか。それ以外のことを書くなんて考えられないじゃないの。どうしてべつのことを書かなくちゃいけないのよ?

  ――誰のために書くか、という……

 そうよ。
 六〇年代にね、フィクションに新しい範疇を、とわたしたちが要求し始めた頃にも、つまりステロタイプを棄て、小説の中で人びとを解放してやるのだと主張し始めた頃にも、わたしの成長を助けてくれた多くの男や女がいたわけよね。男たち、彼らは誰だったのか。ステロタイプは善玉の黒人の男、悪玉の博奕打ちだとか……。ところがこれらのタイプ以外にも、じつに多くのタイプの男たちがいたわけでしょ。たとえば飴屋をやっていたおじさん。彼はわたしたちに「ソックスを上げて、ちゃんとはけよ」とか「宿題を見せてみな」とかいったものよ。女たちはといえば、文学に現われるのは娼婦か母親のどちらかにきまっていたけど、現実にはもっとさまざまなタイプの女たちがいた。初潮を見たら、かあさんのところへなんか行かない、おばあちゃんのところへ行く。ちょっとした秘密を抱えてしまったら美容師のところへ行った。美容院へ行って坐ってる。そして女たちの会話を盗み聴く。もちろん女たちがあれこれ喋っているのは、あなたがそこにいるから。あなたを教育しようっていうことよ。男たちのことを話してる、どのような基準で男たちを判断したらよいのかとかね……。わたしはそういうことを書きたい。誰も書かないから。
 美容師たち。彼女らこそは文化の英雄だった。そういえば「黒人美容師連盟」から手紙をもらったことがあってね。昨春のことだけど、連盟はワシントンに百八十億ドルのビルを買って、何か大変な催し物をやろうってことで、わたしにも手紙をくれた。「いらしてください」と書いてあるのだけれど、何をしにこいというのか一向にわからない。わたしは仕事するのには馴れてるから、「わたしに仕事をさせたらどうなの? あなたたちのことを題材にして、映画の台本を書くなんてのはどうかしら?」と答えたわけ。連盟から手紙が着いた時には泣いてしまった。「あなたが美容師を描くそのやりかたが気に入ってます」と書いてあった。わたしは一度も美容師の話を書いたことはありませんよ、といったら、いやいや美容師たちの姿はあなたの書くものの中のあちらこちらに見え隠れしてるんですよ、という。こういう人たちがわたしたちがおとなになるのを助けてくれたのよね。
 そう、お使いに行っといでといって、「母の日」のためにお金をくれて。「母の日」が近づいていて、お金が必要だというのに、あなたはからっけつだと、彼女らは見てとる。電球を買いに行ってきてよとかいって使いにやって、それを口実にお金をくれた。
 ベストセラーになるような本を書け、っていわれる。そんなこと、どうやってやるのかしらね。
 そういう意味では、過去の記憶ばかりではないの。こういう現代の女たちのことも語られなければならない。
 で、「黒人美容師連盟」のことだけど、「美容師の話で映画の台本を誰かに書かせてみることを考えてみない? 美容師たちは黒人社会の文化の英雄であることに気がついているかしら。いつもお金のあった人たちといったらあなたたちだけなのだし。経済情勢がどうであろうと、頼りにできる二通りの人たちがいたものだった。人びとの口に食べ物が入るようにね。それはあなたたちと、魚の夕食を作っていたミス・メアリたちだった。基本的には、ミス・メアリたちは美容院に支えられて、食えない連中に夕食を食べさせていたといえるのだしね。幾日も幾日も」といってみたのよ。
 美容院の女たちは家へも出張してきてくれた。舞踏会へ行くための身ごしらえを手伝ってくれて、いろいろ意見をいってくれてね。「そんな髪形じゃだめよ。こういう風にしなさい」、母親たちは娘たちに何かいいたい時は、美容師に代っていってもらったものだった。美容師たちならいつも正しい意見をいったから。娘が髪を脱色したいなどといい出したら、美容院へ連れて行く。美容師が「なにいってるのよ、脱色なんてしないほうがいいわよ」といってくれることはわかっていたから。彼女たちの役割はほんとに重要だった。

  ――黒人共同体の暮らしについて考える時に、抑圧と偏見という二点だけからしか見ないとしたら、そういうことは浮かび上がってこないわけね。抑圧と偏見を取り除けば、もう何もなくなって、黒人という集団は消え、残るのは黒い皮膚だけだと……。

(笑って)そうなのよね! 社会科学者は文化のあらゆる側面は苦闘によって方向づけられているというわけね。それはそれでいい。けれども、そこから一歩進めて「黒人のアメリカにおける文化のあらゆる側面は抑圧に対する闘いを表している」というわけね。それもそれでいいのだけれど、どうもこの辺りから怪しくなってくる。つまり、そこまで進めてきて、こんどは抑圧が唯一の現実である、と結論してしまうわけだから。抑圧は現実の一部でしかないのに。あるところでは「抑圧は現実の一部でしかない」なんて発言しようものなら、異端として、偏向として非難される。「なんだと! 抑圧が究極的現実ではないと?」と怒鳴られる。

  ――抑圧ということで考えるわけだけれど、あなたにとってアメリカ流の人種偏見、人種差別というのは、どういう特質を持っていると思う?

 欺瞞的なものなのね。特殊なタイプの人種差別主義だけれど、他国へそれを輸出することにも成功してきてる。よその国からやってくる人びとはこの社会が黒人から奪い取ってきたものを見て戦慄するし、黒人の無力に衝撃を受ける。でも、もっとも戦慄すべき側面は、わたしたちがこの社会の主流文化の側に横すべりして移動した時に、ぽっかりと口を開けて待っている空隙を見ることだと思う。わたしたちの命を支えてきたもの、つまりそれが文化だけれど、それとの断絶を見るほど恐しいことはない。貧しい住宅、不充分な医療……そんなものより恐しい。わたしたちを養ってきたもの、わたしたちを生かし統けてきたものとの断絶こそが恐怖なのよ。
 わたしたちはどのようにしたら、たがいにさまざまな瞞着からたがいを救出することができるのか。
 これはわたしにとっての挑戦なのね。誕生日がめぐってくるたびに、それは勝利のしるしになる。もう一年生きのびたということだけが重要なのではなくて、黒人の皆がわたしをもう一年生かしてくれたというような感じなの。個人的な意味だけではない、ということ。
 でも、わたしは楽観してる。さまざまな制度も公共機関もじつにひどいことをやっていると思うけれど、希望はある。人びとをまどわせるために、多大の金とエネルギーが注ぎ込まれてはいるけれど、たとえば、キューバに比べたら、ここのほうがそれでも人種問題については明らかにされてきたことがずっと多い。わたしはキューバに敬意を抱く者だけれど、キューバはまだ人種差別などについては問題として取り組んだことすらないのだから。
 それともう一つ。この国の人びとをかたわにしているのは、彼らがこの問題について黒人と白人という枠組みでしか考えないということなのね。メキシコ系アメリカ人、プエルトリカン、アジア系の人びと、その他についてはどう考えていいか見当もつかない。
 西海岸ではね、とりわけ北西部では、アジア糸の人びとが二つのスタイルしか使わないことに気がつくのよ。一つは白人型、もう一つは黒人型。アジア系の人びとは自らの声をそういう型の中で表現するようなの。政治運動家の日本人が黒人みたいに喋る。スタイルを借りるわけ。まだ自らのスタイルを見出していない。フランク・チンだって、「黄色のラップ・ブラウン」なんて呼ばれてる。フランク自身の声だと、わたしは信じられないのよ。ローソン・イナダは例外なのかもしれないけれどね。
 アジア系アメリカ人の文学に関する公開の討論会に二つほど参加したのだけれど、その時わたしは言語の問題をうるさく提起したの。年寄りたちや親たちと、民族研究などの新しい基盤を持って成長してきた若い世代との間のギャップを埋めるためには、ある種の合成言語、あるいは折衷言語が必要になるのではないかと。ついに誰からも満足できる答が得られなかった。言語を発見したと思われる作家はフィリッピン系のアルフレッド・ロブレスだけじゃないのかしら。彼の文体はチャーリー・チャンのそれのようでもないし、彼のおばあさんが喋るそれでもない。彼はたいへんなものだと思う。メキシコ系の人たちは新しい言語を生み出した。スパングリッシュ、といったらいいようなもの。

  ――マキシーン・ホン・キングストンの言語はどういう風に見るのかしら。

 彼女は誰にもできなかったことを成しとげたと思う。世代間の間隙を埋めることができたと思う。フランク・チンは親たちの世代を怒らせる。傷つける。地図から消し去るのよ! マキシーンは物語る声を見つけたと思う。彼女の見つけた方法はまだ評価されていない。ある種、間接的な方法というか。こころやさしい様式。とても繊細で。

  ――あなたのおかあさんのことを。

 わたしの母は公務員だった。公務員になる前には、女中をやっていたの。十一歳で孤児になったから。アトランタとニューヨークで女中をしながら働いて、独力で学校へ行ったのね。母の世代にとっては、公務員になるということは生活の保証を得るということを意味したし、その頃黒人が公務員としてようやく職を得られるようになってきた。わたしは二番目にして末っ子なのだけれど、わたしが生まれた時、母は三十代だった。それまでに彼女はすでにいろいろなことをやってきたのよ。幼稚園を始めたり、移動図書館を組織したり。人びとを組織する才能がきわめて豊かなのね。誰からも「かあさん《ママ》」と呼ばれる。彼女はアトランタで生まれでね、母方の家族は農作をやっていた人びとだったけれど、のちに彼らは教師、科学者、音楽家になった。まだ生き残っている親戚はおおかたアトランタに住んでいる。母は終始黒人であることの意味を強く意識してきたひとなの。
 母はわたしと兄を独特の方法で育ててくれてね。わたしたちをあちこちへ連れて行って。内気で口数も少なく引っ込み思案のところがあったけれど、わたしの学校ではチャンピオンだった。わずかでも人種偏見を意味するような発言があったら、あるきまった服をきて、学校へきたものよ。そういう機会に着る服がちゃんときまっていて、すごくはっきりとものをいってね。学校でこんな発言を耳にしたのよ、とわたしが何気なく伝えると、ある日突然学校に現れて。トニのかあさんがきたぞ、というのは大事件でね、生徒が学生ホールに集まって。黒人に対する侮蔑的な言辞が発せられるたびに、母は龍を退治する英雄のようだった。とてもおっかなくて。
 母は子どもたちを勇気のある者に育てようとしたのね。わたしたちは貧しくはなかった。わたしは子どもの頃、「あたしたちは貧乏だね」と母にいったものだけれど、母はいつも「わたしたちは貧乏人ではないのよ。ただ文無しだっていうだけよ」といったもの。つまり、わたしたちの抱負は大きく、けだかいのだと。画廊や美術館や洒落たレストランヘ連れて行ってくれたのは、わたしたちがおじけたりすることがないようにというためだった。わたしたち兄妹はずいぶん小さい頃に、フランス料理のメニューも読めるようになって。家具調度もなく、お金もなかったけれど、そんなものはうんとあるという態度で振舞っていた。ずいぶん引っ越しもして。母はなぜそれほど頻繁に引っ越したのか、いまとなっては、その動機が思い出せないというのだけれど、わたしとしては、たびたび引っ越しをすることによって、いろいろな価値基準がじつに恣意的なものであることを学ぶ結果になった。ある所では、わたしたちは貧乏だと考えられ、ある所では金持ちだといわれ、ある所では利発な子どもだといわれ、ある所では愚鈍だといわれ、膚がひどく黒いといわれるかと思えば、ずいぶん薄い膚の色をしているとかいわれてね。やがてわたしは判断の基準は自分の内面のそれでなければならないと考えるようになった。独立独行であるために。兄はそのことでしばらく途方に暮れていたけれど。
 のちに、わたしたちが大きくなってからは、こんどはわたしたちが母をあちこち連れて行くようになった。
 先にいった場所の他に、母が連れて行ってくれた場所は三つあった。一つはハーレムの「アポロ劇場」で、父もよく連れて行ってくれたけれど、わたしは「アポロ劇場」で黒人の言語芸術の水準の高さを学んだのよ。一九四〇年代のことだけど、あそこではほんとにかけがえのないことを学んだ。二つ目は百二十五丁目とレノックス街の角で、そこでは労働組合運動家や、アフリカニストや、ムスリム教徒だとか、さまざまな連中が演説をしていて、わたしはあの街角で人種とは、階級とは、性とは何かについての分析を学んだ。そこで世界がどんなところなのかはっきり見えてきた。三つ目は三番街の本屋で、J・A・ロジャースがそこで書店を開き、仕事もしていた。彼は独学の歴史家だった。
 母は黒人の向上に対して貢献することがどれほど重要かを教えようとした。ロジャースという名がたえず口にされて。わたしたちの家には家具はなかったけれど、母は子どもたちに本棚を作ってくれて……あたしたちにも手伝わせてね……ずいぶん突飛なことをするひとだわい、とわたしは思ったけれど、そういう風なことを通して、書物の世界になじませようとしていたのね。
 わたしがものを書くことに関心を持つようになったのは、明らかにそういう母の影響でしょう。母はコロンビア大学でジャーナリズムを勉強して、とてもジャーナリストになりたかったのだけれど、当時は黒人が、しかも女がそう思うなんて、変わったことだと思われて。それでも母はしばらくは『ヘラルド・トリビューン』で働いてね。現在にいたるまで、母は書くことをやめてしまったことはないのよ。
 兄が画家になったり歌手になったりすることを支持したのも母だった。母はわたしたちに敢えて何かをしてもいいのだよ、危険を冒してでも行動しなさい、そして移り動くことが大切だと、許可したのね。それにははっきりとした理由があると思う――彼女自身は機動性のある生活ができないと感じていたからだと思うのよ。
 母はピアノもオルガンも独習で弾くようになったのだけれど、いつも聖歌隊の伴奏をしていた。引っ越しするたびに、わたしは近所の子どもの一団《ギャング》がどうなっているのか、仲間に入るかどうかを調べに出かけ、兄は蟻や蜘蛛を探しに出かけ、母は公民館へ出かけて行ったものだった。子どものためのプログラムが何かあるのか、ないのかを調べに。ないとわかった場合は、彼女がプログラムを始めて。自分で水泳もおぼえてしまった。
 よその家へ行ってはいけません、といわれていたけれど、もちろんわたしは行った。よその家とわたしの家の違いで気がついたのは、子どもの私的な空間、子どものプライバシーをおとなが尊重していない、ということだった。これはわたしの家では見られないことだったからなのね。よそでは子どもがぼうっと何かを見つめているような時は、何もしていないのだという前提なの。だから使いに行ってこい、とか、そこらを箒で掃けとかいうことになる。けれどもわたしの母はわたしが白昼夢を見ることについては、たいへん尊重してくれてね。いまでもはっきりと記憶しているの。子どもの時、台所の床に坐って、何かごちゃごちゃ書いていたのだけれど、母は家の掃除をしていてね。モップとバケツを下げて母が台所へ入ってきたのだけれど、わたしはそれに気がつかなかった。そこをどきなさいとか、台所から出て行ってくれ、とわたしにいうかわりに、母はわたしの坐っている場所のぐるりを雑巾がけしただけで行ってしまった。わたしはそれを忘れることができないのよ。だってぼんやり白昼夢を見ることは、ひどくよくないこととされていたのですものね。この国では白昼夢を見てぼんやりするためには、たしかに特別に許可を受けなけれぱいけないのだから。
 母はね、年配になってから、彼女に当然ふさわしいものを手に入れたのだと思う。母だけでなく、年配の女たちにはよくあることなの。彼女たちは子どもから年頃になって、すぐ母親になった。子どもが何といっても一番の関心事で、夫はといえば家事雑用や労働や仕事とともに十五番目か十六番目くらいなのね。夫が死ぬか、あるいは離婚して、子どもらが離れて行って初めて、彼女たちは自らの真価を発揮するのね。母の世代だと、六十五歳になるまではそうならない。その頃になって、突然猛烈な憤りを感じるか、途方もない可能性に目覚めるか、そのどちらかなの。
 わたしの母の場合は、一九七二年に退職するまでは、ユーモアの感覚や自由の感覚を持てることがあまりなかったと思う。それが六十五歳になったかと思うと、ぴったりした服を着たり、洒落た髪型にしてみたり、ヨーロッパヘ飛んで行ったりして。退職した時に、兄とわたしは「さあわたしたちはもうちゃんと金も入るようになったのだから、好きなことをしていいからね」といったわけ。母はまた学校へ行きたい、という。そうか、コロンビア大学へ戻って、修士号でも取ろうということかな、と想像していたら、とんでもない、学校へ行って日本の生け花を習いたい、中国の墨絵を習いたい、自動車修理を習いたい、ベリーダンスをやってみたいというわけね。いまではほんとに思い通りにやっていて。母の世代の女たちは最良の衝動を持っていると思うのね。他の世代だと、憤りばかり感じて、じっとしているうちに衰弱してしまう傾向がある。一九七〇年、アンソロジーの『黒人女性とは』を出版した当時、わたしはずいぶんワークショップをやったのだけれど、年配の女性はアンソロジーを出してくれたのは嬉しいけれど、怒りが十分に表現されていないともいったのね。若いものばかりでなく、年配の女たちにも書かせるべきだったと。彼女たちは「気高さ」について一番怒っているのね。彼女たちはいつだって気高くあるものとされていたから……いつもいつも何かの世話をし、何かの発育を助けて……子どもらの世話、教会の世話、何もかもの責任を負って……自らを生活の計画表の上にのせる時間も空間も持たずにやってきた。そして六十五歳になると、「あんたは一体何をしたいのかね」という基本的な問をつきつけられる。そんな問に答えることができるものですか。ワークショップでの発言はただ不平不満ばかりというわけじゃなかった。ようやく自分の時間ができたけれど、自分が何をしたいかもうわからない、ということが出されてきた。
 わたしたちが母がしてくれたことに対してありがたく思っていると繰り返しいっても、母は自分は家族というものを持たずに育った者だったから、母親としてはどこか欠陥があったに違いないと感じているのね。ほんとにすばらしいものを与えてくれたのにね。たとえば、ピンクとブルーという区別は母の家ではなかった。これは男のすること、これは女のすることという区分は。できることなら、なんでもするようになっていた。兄もわたしも料理して、掃除して、アイロンをかけて大きくなった。兄はそのことではすごく感謝してる。兄の女友だちは母に文句をいうのね、「あんたの息子は何でもできるんですね。わたしが入る隙間がないじゃないですか」と。母はわたしたちの意志を支持して、応援してくれた。干渉はしなかった。娘に対して批判的な母親が多いのだから、わたしは恵まれていた。

  ――母と娘が支えあうというのは、とりわけ黒人の社会に見られる傾向という風に考える?

 白人の女性の場合には、母親を嫌ったり、憎んだり、あるいは信用しないというケースに出会うことが多い。けれども同時に彼女たちは彼女らの母親のようになりなさいと教えられている、いや母親をしのげとまで。ひどいジレンマに陥ることになるわけね。両極にあることをどう統合したらよいかわからない。彼女たちが母親についてこういうことが嫌だという項目の一覧表はとても長いけど、では好きだと思うことについてはとなると、項目はひどく少ない。そしてその少ない項目の内容が興味深いと思うのね。料理の才能がすばらしいとか、教師としてすばらしいとか。黒人の女たちの場合はいつも、「誰々たちのために母は料理をしたから」とか、「子どもらを教育したから」とか、「母は老人に対して思いやりがあったから」とかいう風に答える。説明のしかたがちがう。
 批判する場合は両者は似たようなことをいう。白人は「母はちょっと粗暴なところがあって、あまりやさしくなかった」とか「母はよそよそしかった」とか。黒人の女性は「母はべたべたしたことを許さない事務的な感じのところがあったのだが、わたしはなぜそうだったかわかる。勘定書の支払い、食事の支度……人生の一刻一刻が、いかにしたら次の瞬間まで生きのびることができるかという試練だった。家族を生きのびさせるために。だから母の気持は理解できる」という風にいう。「母はあまりやさしくしてくれなかった」というのは黒人の女性の発言に多い。トニ・モリスンの『鳥を連れてきた女』で、娘のハナと母親のエヴァが話している……「かあさん、あたしたちを愛していた? あたしたちと遊んでくれたの?」「遊ぶ? 一八九五年に遊んだかって? 一八九五年には遊んでる者なんかいなかったよ。困難な年だった。あたしはお前のために生きのびたんだ」これはほんとに典型的なやりとりなのよ。これには現実がこだましている。
 理想像は誰か、と女たちにたずねてみる。黒人の女たちは「かあさん」という。彼女らは母親に対して不満はあるかもしれないけれど、同時に理解もしている。そしていつも理想の人物は母親なのね。なぜか、と問う。「母は強かったから」、「母はやりくり[#「やりくり」に傍点]が上手だった」、「わたしたちを棄ててしまうことだってできたのに、そうしないで育ててくれた。そして地獄のような苦しい目に遭った」と。白人の女性は理想の人物はと問われて、一般的に映画俳優とか、とっくに死んでしまった昔の人物などを引っ張り出してくる。あるいは現実の人物でなく、虚構の人物。女性運動に関係しているような現代的な女たちなら、「ある友人」とか、「ある教師」とかいうけれど、けして「わたしの母」とはいわない。母親に対してはすさまじく相反する感情を抱いていることが多いし、時には憎しみを抱いていることもある。そのような感情が愛情で和らげられない場合は、極度の哀れみを感じることで、なんとか心の平静を保つのね。同情ですらないわけ。母親はわたしを欺した、という憤怒があるのね。
 もう一つの著しい相違は、母親が年頃になった娘の性にどのように対応するかということに見られると思う。労働階級の黒人の場合、葛藤がひどくなると、娘は子どもを産む。すると、その子をいつくしみ育てるのはいつも母親なのね。葛藤がそれほどひどくない場合は、娘はまず母親のもとを離れ、それから新たな関係を結ぶために戻ってくる。黒人女性の多くは家庭の中に戦争が起こることを許さない。離れて行くか、服従するか、二つに一つ。白人の女たちの場合、娘が年頃になると、自分の支配を守りとおすためにやることってのが、あまりにも異様で、わたしにはどう解釈していいかわからないのよ。整形手術を受けさせて、より価値の高い「商品」に仕立てあげたり、完全に関係を断ってしまったり、あるいはひどく手軽な休戦協定が結ばれたり。黒人の場合は、たがいに理解し合い支え合おうとするのだけれど、他のグループにはそういうパターンは見当らないの。

  ――どうしてだと思う?

 アフリカ大陸文化の特質は女がそれを充電している文化だということ。「母」という観念はアフリカが西欧の知識人に与えたものであっただろうと、わたしは確信しているの。同様にアメリカの黒人の女性の黒人共同体における役割も、他に比べてずっと明確なのよ。
 アメリカへやってきた清教徒の例を考えてみるといい。彼らはニューヨークへきて、イロクォイ族に会って、彼らのそれにならって、政治組織を作っていった。市長を持つ、とか、いろいろね。何もかも模倣したけれど、一つだけ真似しないことがあった。それは女と女たちの知識だった。ヨーロッパ人は女性に対して全く敬意を持っていなかったから、その点だけは受け入れることができなかった。そのことが、彼らの観念の世界では、女性については空白になっていたのではないかという想像の手がかりを与えてくれる。現在女性に関する概念が空白になっているというだけではなく、過去にもやはり存在しなかった。アトランティスまで遡ってみても、女性に関する概念がない。フェミニストの学者たちによる文化人類学の研究を読んでみると、女性を尊重することに近似したことが見られる社会は男女両性具有者のそれなのよ。そこでは全員一様に扱われるわけだから。父権制社会になった以後は、女性崇拝あるいは女性尊重に近い現象が見られるのはそこだけなの。何かが決定的に欠けている。アフリカでは、エジプト以前にも、女たちは司祭であり、歌手であったという証拠が上がっている。

  ――そのことと関連して、アメリカのフェミニズム運動については?

 運動として、つまり精神を動かすものとして、わたしにとっては価値がある。ただちに黒人の女たちの問題に応えられるものでないにしても、価値はある。『性の政治学』が出版された時、黒人の女たちは、「えっ? あんたたちベットの中でうまくいかないことでもあるの?」といったものだったけど、それは彼女らが白人の女性の無力をよく理解していなかったから、そんなことをいったのよ。女であることの完膚なき破壊ということを……。わたしはいろいろな集会に出てきたけれど、そういう場で白人の女たちが白人の男たちの攻撃で目茶苦茶に侮辱されるのを目撃してきた。「演壇から下りてこいよ! おまんこしてやるからさ!」とか。わたしは自問した。アンジェラ・デイヴィスにもこんなことが起こりうるだろうか? いや、アンジェラの発言が身分不相応だと考える者は黒人の社会にはいないのよ。ビリー・ホリデー。男たちがそれぞれどういう動機で彼女の歌を聴きにやってきたにしろ、ビリー・ホリデーが『奇妙な果実』をうたった時に、そんな歌は彼女に不相応だと考えた男はいなかったと思う。
 二つの文化の間にはとてつもない差違がある。だから何が重要な、先決の問題かという点で相違が生まれてくる。「なんだって? 男と女に平等の権利をですって? あのひとたち、気でも違ったの?」というような反応を耳にしたのを記憶してる。それでも運動に注ぎこまれた最善の努力はあらゆる人間に影響を与えている。わたしは運動の目標としていることの大部分はひどくブルジョワ的なフェミニストのそれだと思う。いわゆる「社会主義派」だってそうだと思う。連中は資本主義でもけっこう快適なのよね。平等の権利という時にも、彼女たちは彼女たちのことだけをいっている。人種差別主義や、皮膚の色による特権という問題と取り組もうともしないものね。

  ――例のメキシコの大会が惨憺たる結果になったのは、そういうことからだったのだし。

 現状にかなり満足しているのだから。ただ平等の権利をよこせ、というだけのことで。彼女たちは国粋主義的な目的に利用されうる領域のことは投げ棄ててしまった。彼女たちは階級と人種の問題を無視している。だから白人の労働階級の女たち、主婦たちは国粋主義的な運動に群がることになるわね。「もっとくれ、もっとくれ」といって。そういうこととは、わたしあまり根気よくつき合えなくて……。

  ――ケイト・ミレットの『性の政治学』がわたしにとってあまりおもしろくなかったのは、あの本にもう少し違った意義を持たせることができたかもしれない言語を、彼女は生み出さなかったからだと思うのだけれど。言語はありきたりのそれだった。

 わたしはケイト・ミレット自身が、それはその通りだと認めているというのを聞いたと記憶しているのね。言語ということでいえば、白人の女性運動の中のレズビアンのグループに新しい言語を生み出す可能性があると思う。彼女たちは辛抱強いから。

  ――歴史を書き直すという意味において、作家であるということを考える?

 わたしがしようとしているのは、ある種のヴィジョンを死なせずにおこうということ。わたしたちを生きのびさせてくれたヴィジョンを。それを手放すわけにはいかないのだから。でもそれと同時にね、わたしは未来のヴィジョンを投げかけたい。たとえば『塩喰う者たち』では、わたしは「七人の姉妹たち」に託して一つのメッセージを送り出した。この国ではまだかつて一度も有色人種の連合体を組織する企てがなかった。六〇年代には黒人とアジア系の人たちを結ぶ試みはあったけれど……。そのことを小説のなかで実現してしまった、わたしは。

3 子ども・子どもたち

 わたしはわたしの娘を、夫というものを持たず育ててきた。周囲の人たちが手を貸してくれた。以前は、それはそうしたいという希望でそうなったのではなくて、しかたなくそうなっていた。非公式の保育園よね。近所にはいつも必ず「なんとかかあさん」と呼ばれる女性がいて、面倒を見てもらう必要のある子どもを引き取り世話をしたものだった。「一体誰の子かね、この子は?」なんて彼女はけっしてたずねない。子どもは子どもなのだから。子どもは世話をしてもらわなければ生きていけないのだから。あなたの子であろうと、わたしの子であろうと。子どもは面倒を見てもらわなければ生きていけないのだから。もしあなたのことを彼女が嫌っているとしたら、あなたとは口をきかないかもしれないけれど、子どもがやってきたら、その子には食事をさせる。子どもの頃、いつだって、おとなたちにあれこれいわれたものだった。「道の向こう側を歩いちゃだめだよ! だめだからね!」とか。嬉しくてね、そういうの。ちゃんと安全な網の中にいるなという感じがして。家から五十丁も離れた所にいたって、ひとりぽっちじゃなかったわけだから。「ソックスをちゃんと上げなさいよ!」「宿題を見せてごらんよ」知り合いでもなんでもない人たちよ。
 この頃ね、二十代に入ったばかりの若い女性が子どもはつくりたくないなんていうのを耳にする。それがすごくこわい。それと、二十代後半の女たちが、家族というものが一体どのようなものであるか全く考えてもみずに、子どもを育てることができると思うのもこわい。そこから一歩先へ進んで、たった一人でも子どもを育てることができると考えているのを見ると、もっとこわくなる。子どもと二人きりで、どこかのアパートに閉じ込められて暮らすの? 子どもはひどい目にあい、共同体もひどい目にあう。
 わたしは自分が母親になる以前に、すでに親だった。わたしの家族がそういうことを教えてくれたわけではなかったけれど、わたしは共同体によって、十二、三歳になったら、もうおまえは親であると教えられた。みなし児になってしまった子どもがいたら、おまえが面倒を見る責任があるんだよと。世話をするの。これがわたしの街路における「社会化」の過程だった。わたしは教会によって教えを受けなかったけれど、美容院で、街角で、「社会化」の教育を受けたのだから。わたしは街の女たち、わたしが人生経験ゆたかな女たちと呼んでいたバーの女、売春婦、コールガールたちなどから好かれるタイプだったのね。彼女たちの方からわたしを見つけ出し、仕事をくれた。仕事とは犬に散歩をさせたり、使い走りをしたり、洗濯屋へ行ったりすることだった。彼女らはいつもアドバイスをしてくれて。わたしには役立てることのできないアドバイスだったけれど。「男に会ったら、きょうは誕生日だといいなさいね。そして香水を買ってくれなんていわず、黄金《きん》がほしいといいなさい」とか。
 見ず知らずの子どもたちも、わたしを探しあてたものだった。わたしは子どもたちを育てたの。べつにかわいいなんて思うような子どもたちじゃなかったけれど、育てた。わたしはいろいろ機略縦横みたいなところがあるから、お金をつくる方法も知っていたし、問題はなくうまくいった。十六歳から十九歳になるまでだったかな。わたしの娘はそういう風じゃない。子どもには関心がない。彼女は年寄りを世話し保護するのね。
 わたしは子どもがほしいと思ったことはなかった。わたしのボーイフレンドは、子どもはいらない、といっていた。娘は彼女がわたしを呼び続けていた、というのよ。実際彼は当時も生殖不能のひとだったし、いまでもそうなの。妊娠するには二年もかかって。軍隊の大尉みたいに生活を管理したのよ。わたしはわたしの性格を変え、貯金して、健康に気をつけたりするようになって……彼の頭にもいろいろ影響を与えるようなことをいって。わたしが育てた子どもたちにも、子どもを生もうと思うのだけど、どう考えるかとたずねたら、彼らは口をそろえて、「やめな、やめな。あんたは子どもを破滅させることになるよ。あんたは威圧的で衝動的で無謀すぎるからな」といってね。彼らは彼ら独特の方法で、わたしは情緒的に不安定な子ども、理知的な子どもを持ってはだめだという忠告もしてくれた。で、わたしは六月に妊娠するように計画して――。娘はわたしにはちょうどいい子どもなのね。たがいにちょうどいい。わたしをひどく突飛な人間だとも思わないし、わたしの様子がおかしくなると、げらげら笑ってる。それがわたしにはちょうどいい。
 父親には、どのような型の父親になってもいいからね、と話した。気が向いたら訪ねてきてもいいし、子どもが一定の年齢に達したらくるというのでもいいし、完全に姿をくらますというのでもいいと。その頃の彼からはいかなる答も引き出すことができなかった。彼には現実感が全くなかったのだから。
 わたしは夫なしで子どもを育てる心づもりができていた。わたしが養った子どもたち、そして年寄りたち、仲間たちがいたから。はじめの三、四年は名親《ゴッドマザー》がやってきてわたしの振舞いについて批判するばかりでなく、さまざまな人たちがわたしを助けてくれてね。おかげで沢山お金を稼ぐこともできた。按摩してくれたり、マニキュアしてくれる人もいた。一団の人びとに、わたしたち母子は支えられていたのね。ニューヨークで。わたしは週に二日間は大学で教え、あとは組織運動をやってた。
 でも、家にいることにしたいと決心して、そのためにフリーランスの仕事をすることになった。苦しかった。それからここへ移ってきた。ここでは誰もわたしのことを知らなかったから、何か頼まれてもノーと答えることができたわけ。ニューヨークではたえずあれやこれやの奉仕活動に引っ張り出されていたから。ここでは家庭というものをつくろうとしてきた。子どものそばにいられるように。自分が子どもだった時にほしかったすべてのこと……わたしはかあさんに家にいてほしかった……わたしと娘は一緒になんでもやる。それにこの子はわたしのことがすごくよくわかってる。他に何もせずにただ書かなければならない時には、そのことがわかってしまう。電話に出てくれて、かあさんは電話に出られませんよ、といってる。わたし自身が電話には出られないと気づいていない時でさえ、彼女にはわかっていて、そういってる。まだずっと小さかった時に、電話に出て、「かあさんはいますごく忙しい。窓の外をじっと眺めているけれど、仕事中だから」といってね。相手が、で、かあさんは電話に出られないのかと問うと、娘は何かだいじなことなのかとたずねた。相手はだいじだともと答えると、娘は「あんたにとってだいじなの、それともかあさんにとって?」と聞き返していた。すごいじゃない。五歳か六歳の時だった。
 母親になってからは、生活がずっとすっきりした。何が優先するか、重要かということが明確になるから。ごたごた入り組んだ生活ではなくなったのね。子どもが第一、ということになるから。ということはね、子どもにとって明確に理解できる仕事しか引き受けないということを意味するわけ。わたしがする仕事が黒人のために役に立つ、と娘が考えることができれば引き受ける。娘の判断を信用することができる。
 娘が父親に投げかける問のなかには、とても興味深いものがあるのね。彼女が自主学校へ通っていた頃、長いこと彼女にとって「仕事《ワーク》」というのは黒人共同体の役に立つことをするという意味だった。「職業《ジョブ》」というのは、「仕事」とはどこか違うのだと。「職業」には賃金や報酬が払われる。その頃娘の父親はモデルの仕事をずいぶんしていて、ある日車で走っていて、彼女は広告板に彼の姿を見たのね。酒とか煙草の広告で。「とうさんだ! 何をしてるの!」という。わたしはそれはとうさんの仕事《ワーク》なのよ、と答えた。すると娘は「職業《ジョブ》」でしょ、という。わたしはそういう区別にあまり敏感でなかったわけ。父親が訪ねてくると、彼女は彼にいった。「とうさんの仕事って、よくわからないよ」彼は「そうさな、とうさんはミュジシャンの出演契約を取り付けたり、モデルをやったり、バーテンダーをやったり……」「酒や煙草を売ることが、どういう風に黒人の役に立つの? 人びとの解放にどう役立つの?」彼は不意をつかれてね、娘が非難していると思ってしまった。わたしが何かいったのだなと。電話して「いったい、どういうことさ?! あいつは目茶苦茶に俺を批判してるぜ」という。わたしは「彼女はね、とても特殊な意味で仕事という概念を使っているのよ。そういう意味で彼女にわかるように説明してやればいいのよ。職業だといってやれば、わかるから」彼はいわれた通り説明して、これこれの収入があると話してやった。娘はどういうことにその金を使っているのか、とたずねた。彼は服を買ったり、旅行したりと答えた。すると娘はさらに混乱してしまって……。
 彼女は模倣をすることによってひとを理解するのね。わたしの兄は大声で、ふとこちらもつりこまれてしまうような笑いかたをするのだけれど、彼女はある時それとそっくりの笑いかたをして、「わあ、あのね、これでウォルターおじさんのことがもう少しわかった」といった。
 独身の母親として、わたしはとても満足している。女たちがいろいろ支えてくれることが、わたしは大切でありがたい。ひとりきりでできるなんて思うのは、愚かしいことなのだから。
 両親が別れてしまった子どもたちが一般的にそうであるように、娘も父親について幻想を抱いてる。それはそれでいい。「持ち続けなさい。だいじにしなさい。でもそれは現実とは違うことも知るようになりなさい」とわたしはいう。わたしについても幻想を持っている。「そのことで生きることがより刺激的になるのなら、それでもいい、でも幻想は実際のわたしとは違うんだからね」という。
 わたしの男友だちについて、「彼と結婚するの?」とたずねる。わたしは結婚することには関心がないのだというと、「よかった」という。そしてかならず、「第二ね」という。「第二ね、彼は自由な精神の持ち主のように見えるけれど、いつかはかあさんを支配したいと思うようになるからね」そして、「第一ね」という。「第一ね、あたしはかあさんととうさんが一緒になるといいと思ってたんだもの」いまでは父親と母親は友だちなのだとわかってきて、それで満足している。少なくとも永続的な傷にはならないだろうから。「とうさんはここにはいない。けれどもいろいろな人びとがいてくれる。おばあちゃん、おじさんたち……いろいろな人たち。皆があたしを愛してくれる。わたしはだいじょうぶなんだ」と娘は考えてるのね。「でも、おまえにはとうさんがいないじゃないか」なんていう連中がいる。「もちろんとうさんはいるわよ。とうさんのいない子どもなんていないんだからね」と答えてる。
 でも難しい。わたしにとってよりも、子どもには平衡を保つことが難しい。七歳の時、電話がかかってきて。それまでは、父親から電話がかかるときまって駆けてきたものだった、「とうさんだ! とうさんだ!」と。その時は外で遊んでいたのだけれど、ゆっくりと家へ入ってきて、電話器を通り過ぎてね。「とうさんからよ。長距離よ」というと、「あたしに会いたいなら、ここへきなさいっていってちょうだい」ようやくのことで電話に出たけれど、元気かねときかれると、元気かどうか知りたければ、くればいいといって。もう、「会いに行くからね」という約束には飽き飽きしたと。「元気かどうか知りたければ、会いにきなさい。もう話はしない。さようなら」そんなことがあって、父親はもっといろいろ責任を持つようになった。
 父親は彼女にとっての「おとな」なのね。そこで娘は「子ども」になれる。彼と戯れることができる。彼は恋人、兄、ボーイフレンド、おじいちゃんなど、どれにもなれる。すごく融通がきき、鋭敏だから。でも父親は繰り返し娘から教えられた。娘が彼を成長させたともいえる。このあいだ彼は娘に謝っていた。そしたら娘は腰に手を当てていったの、「いいこと。あたしにはかあさんも、おばあちゃんもいる。しかも銀行に口座も持ってるのよ。誰もとうさんにお金をくれなんて頼んだことはないでしょ。お金をくれたいなら、あたしにくれたって、かあさんにくれたってかまわない。でもお金がないんなら、それでもいいのよ。あたしたちの間柄とお金とどんな関係があるのか、あたしにはわからないよ」だって。すごい。
 彼女はかしこい。老齢なのね。魂が。時に、彼女はうっかり口を滑らずの――「わたしが女だった頃には」とか、「ずいぶん昔のことだけれど」とか。
 でも男の子だったら、どうやって育てていいかわからなかっただろうと思う。ニューオリンズにやって預けることになると思う。黒人の男の子をいかに育てるべきかについて承知している人びとがいるのは、わたしの知るかぎりでは、あそこだけ。いや、もう一つ、ウェスト・パーム・ビーチもそうかな。
 ニューオリンズには男の子たちの教育をする責任を引き受けてくれる男たちのネットワークがあるのよ。トニ・モリスンもこの夏彼女の息子たちをそこのウィリ・ロンバートという男のところへ送ったんじゃなかったかしら。弟子にしてくれるの。そういう風にして世話になっていたある少年がいたの。子どものない老人のところに預けられていて、老人が少年の教育をし面倒をみることになっていた。そして少年が老人の世話をすることになっていた。家族として。訓練を受けると同時に、助ける。自分の血縁の家族のもとを去って。
 この少年が病気で倒れた時に、わたしはこのようなことが行なわれている事実を知るようになったの。男たちはこの少年の看病をするために計画を立てた。その中の二人はこの少年の病気について調べあげた。国じゅう探して、適切な病院を見つけて……男たちは少年をニューヨークへ連れて行った。一緒に泊り込んで。少年のかたわらには、いつも二人の男がついていた。他の男たちは募金をやっていた。彼らは何もかもやった。少年がコーヒーが呑みたいというと、彼らはそれはニューオリンズのコーヒーのことだとわかっていたから、ニューオリンズから魔法瓶に詰めた熱いコーヒーを送り届けたの。ほんとにネットワークがあるのよ。
 もう一つ、これはハーレムのことだけれど。ハーレムのある老人とわたしは一緒に働いていたことがあってね。彼は地下鉄の駅でぶらぶらしているのね。引ったくりなどを働く少年を見つけると、老人は少年から盗品を取り返し、家へ連れて行く。そして殴りつけて、家に閉じこめてしまう。それから、「いいか。二つに一つだ。警察に引き渡してほしいか、それともわたしと暮らすか」。この老人は少年教育の学校をひとりでやってたわけね。彼は社会ではどのような責任を負わなければならないのか、少年たちに教えこもうとしていた。悪いことをする、というのはどういう意味を持つのかも。そして職業教育もして、それからネットワークへ送り込む……どこへ送ればよいかを承知していた。老人はたったひとりでそれをやっていた。これはほんの一例にすぎないの。
 アトランタはそういう町じゃない。街路には生活がない。街路は危険だ、と人びとはいう。危い理由の一つは街路は無人だからよ。街路文化を築こうとする連中がいない。子どもたちが街頭をぶらぶらしてることもないのね。
 でもここの共同体はいい。どんな子どもでも飢えて死ぬなんていう目には会わない。どこへ行ったって、娘を無視する人なんかいない。わたしの娘だけじゃない。娘はここに住んで気持が落ち着いている。わたしは倦いている。八分の六拍子じゃないから。ビーバップなところが少ないから――。でも娘は好きなのね。彼女が倦きてきたら、移動する時機がきたということ。母もここはあまり気に入ってないし。人びとは好き。ゆったりしていて。それに男たちは子どもたちに対してとても責任感が強いから。
 女たちの多くは、結婚という問題に面と向かわないですむようにと、子どもをつくる。わたしもそのような問題を避けていると、自分でわかっているの。だから敏感になるの。シモーヌ・ド・ボーヴォワールのように。あのひとは老年という問題に解答を出すのを引きのばしていた。よけて通っていた。その内的世界がわかるのよ。
 蛇はとぐろを巻いて眠るでしょ。肥満するのと同じなのよ。早く子どもをつくってしまえ、そしたら結婚がどうとかこうとか考えないですむぞ、と。結婚して苦労するのはいやだ、ということ。どうして子どもを産むときめたのかと話し合っていると、そういうことが明らかになるのね。えっ? まさか、まさか? 気づいていなかった動機を発見して衝撃を受ける。
 友人が、やはり彼女も独身の母親なのだけれど、わたしの娘のカーマは恵まれている、という。娘はさまざまに異なる家族の形態を探ろうとしていて、彼女の環境だけが唯一の可能性ではないこと、他にいくらでも形の異なる家族があることを認識しているからと。何でも試してみることに熱心な子だから、早く家から離れて行くだろうと思うのよ。


晶文社 1982年10月30日発行




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