『塩を食う女たち――聞書・北米の黒人女性』 藤本和子

目次    


生きのびることの意味
――はじめに

接続点

八百六十九の
いのちのはじまり

死のかたわらに

塩喰い共同体

ヴァージア

草の根から

あとがき

草の根から

 八〇年代の黒人運動で重要な役割を担うようになるものの一つは、低所得者世帯用にといって建てられてきた公共住宅の住民の「住民組織」が行なう活動だと思う、とトニ・ケイド・バンバーラは語っていた。長いこと、アトランタの公共住宅住民の組織化と生活条件の改善のために活動してきたミセス・アニー・ミラーに会ったのは、一九八〇年七月だった。彼女の聞かせてくれた話は、貧しさの中で誇りと威厳とたたかう意志を持続させてきたひとりの女性の生が、他に向かって開かれていったその軌跡を、わたしたちに示してくれる。

 わたしは一九二九年に、ジョージア州の小さな町ロームというところで生まれたのだけど、十三番目の子でしたよ。下にもう一人生まれてね。いうまでもなく、わたしの家はひどい貧乏をしていて。父のことは憶えていないの。わたしが幼い時に死んでしまって、母を子だくさんの後家にしてしまったものだから。
 子どものころのことでいえば、あたしたちは不幸だった、とはわたしはいわないけれど、ただ極貧の暮らしだったことはたしかですよ。母はいいひとだったけれど、弱々しかった。母は、父はとても意志の強いひとだったというのね。母はわたしに腹を立てるようなことがあると、必ず「おまえは父さんにそっくりだ」といってね。父はわたしには何も残して行ってくれなかったけれど、意志の強さだけはくれて行ったのね。それでわたしは今日まで支えられてきたのですよ。母のことは好きだったけれど、彼女のようになってはならないと決意していたもの。もっと強くて、子どもたちのためには外へ立ち向かって行くようなところがあったら、子どもたちの苦しみはもっと少なくすんでいただろうと、わたしは考えるんですよ。けれどもその母は福祉手当で暮らそうと考えてはならないと、そのことは子どもたちに教え込んだんですね。母が福祉事務所へ行ったのは一回きりでしたでしょう。事務員は皆白人だったし、黒人は福祉手当なんてものについても、ほとんど知らなかったころのことです。福祉手当はもらわないで生きるほうがいい、とわたしは思うの。かたわになってしまう。さまざまなプログラムはいいと思う。訓練を受けて技術を身につけたり、一定の教育を受けたり、そういうことで独立できるようにするのが正しい方法だと思うんですよ。
 母は病弱で働くことはできなかったから、姉たちと兄たちが働いてね。たった一度だけ福祉事務所へ行ったその時、母は「子どもたちに栗鼠や兎を捕えてこいといえというんですか?」と係の人にいってね。
 わたしは九歳になった時から働き始めて。車椅子に坐ったきりの女の人の世話をするということで。わたしの仕事というのは、その人の足を洗うことだったの。白人の女性で。週給七十五セント(百六十円くらい)を母に渡していましたっけ。おとなになったら、ひとの足を洗うようなことを仕事にしてたまるか、とわたしはその時固くこころに決めたのですよ。あれ以来、ひとの足なんか洗ってない。あっはっはっは。ほんとにそうなの。
 わたしが初めてアトランタヘ出てきたのは、一香上の姉が移ってきた時だったのね。姉には子どもがなかったので、わたしは彼女の娘みたいなもので。とてもよくしてくれて。わたしは病弱だったので、ちゃんと食事をしているかどうか、いつも注意を払ってくれたのですよ。いまは七十歳になりましたけど、おもしろいひとです。わたしにはほんとによくしてくれて。悪いことをするたびに鞭で打たれましたよ。自分の子どもみたいによくしてくれて。とても意志の強いひとで、いつもいつも働いていました。自分の楽しみごとなんか一度もしたことがないと思うのね、いつもいつも誰かを助けることばかりで過ぎて。長いこと結婚していたけれど、ある時夫と別れて、それからコネチカットへ行って、女中の仕事をして。この姉から色々なことを教わりました。物を無駄にしないことや……。ある時ね、「子どもがいたら、もうそれだけで人生はおしまいだよ。他には何も持てないよ」といってね。(短かい間があって)それはだいたいその通りだわね。わたしは十七歳で結婚して、子どもをたくさん産みました。十三人産みました。生存しているのは八人です。

  ――アトランタへ移られて、ここで学校へ通われたのですか。

 ここへくる前にロームでは、あまり学校へ行けなくてね。耳に障害があって。算数ができなかったのだけれど、それは耳が聴こえなかったからだった。聴力に障害があるとわかった時には、もう手遅れでしたよ、だから現在でも算数は苦手なの。でも読書は大好きでしたね。
 アトランタへきて、ワシントン中学へ行き始めたけれど、途中で退学しなければならなくなって。母の世話をしなければならなかったから。兄たちは軍隊に入り、姉たちは軍需工場へ働きに行ってましたから。わたしが母と精神薄弱の弟の世話をしなければならないことになって。わたしが十二歳の時でした。その時は同時にドラッグストアで働かなければならなくてね。朝起きて朝食の用意をして、母を入浴させ、弟も入浴させて。

  ――おかあさんは病気されていたのですね。

 そう。その上脚を折って。わたしは朝、家の掃除をしてから、八時半にドラッグストアへ働きに行くというふうにしばらくやっていたのだけれど、それでは家事を片付ける時間がどうしても足りなかった。店では、じゃあ午後三時から十一時まできたらといってくれて。店で働くのは楽しかった。色々なすてきな品物にかこまれていたから。よく働きましたよ。でも賃金は悪くてね。だから十四歳になった時、「アトランティック鋼鉄会社」へ出かけて行って、十九歳だといつわって雇ってもらったの。釘を造る仕事でしたよ。いまのわたしみたいに大きな躯をした女たちを雇い入れていたのですよ。わたしはそれほど大きくはなかったけれど、力はあったのね。機械の操作もできました。六十センチぐらい跳び上がって、機械に乗ってやったのですよ。
 わたしが十四歳だとは誰も気がつかなくて、週給二十九ドル貰ってましたけれど、それは結構な収入でしたから、母のためにも、自分のためにもいろいろな物が買えました。でもこの仕事の経験から、自分の娘には絶対こういう仕事はさせないぞと決心したのですよ。職工長とけんかしなければならないし。若くて躯の恰好のよかったわたしに嫉妬する女たちともやり合わなければならなくてね。戦闘的になることをおぼえたのは、そのころだったのですよ。未婚で子どもを産むようなことはしない、とこころに決めたのもその当時のことです。男たちにわたしの身体をもてあそばすことは許さない、と考えたのです。頑張って、負けなかった。貧しかったけれど、自分の道徳の基準はあった。自分の欲していることは何か、それはわかっていたから、たたかわなければならなかった。年上の男たちが若い娘たちに金銭を与えたりすることを知ったのね……引き替えに……。自分のどこにそんな力があったのかわからなかったけれど、頑張り通したの。一度、店からの帰り途に、男がわたしを引っつかむようにして襲いかかってきてね、ブラウスをぬがそうとして。わたしは死ぬほど怖ろしくて金切り声をあげて。家にいた母にはそれがわたしの声だとわかったの。ちょうど、まったく偶然に兄が軍隊から帰ってきていて、その男を捕えて殴りつけたのですよ。

  ――ちょっと時間がさかのぼりますが、お父さんが生きておられたころ、ロームではご家族は農作をしておられたのですか?

 農作をしてました。父は凍死したのです。そうなのです。車を押していたそうなんです。父は転倒して、車はそのまま走り去って、翌朝父は発見されました。凍死したのです。電話がなかったから、父はきっと知り合いの家にでも泊まったのだろうと、家族は思っていたんですね。誰かの車がエンコしていてね。ボロ車だったのでしょう。父はそれを押してエンジンがかかるように手助けしていたわけ。雪の中に取り残されて。十三人の子どもと母を残して死んでしまった。

  ――土地はご一家のものでしたか。

 いいえ。小作人だったのですよ。ただ働きをさせられていたのですよ。

  ――貧しかったといわれましたけど、食べ物も不足していましたか。

 食べる物が十分にないことはしじゅうでした。子どもが大勢でしたから、食事中にはちょっとよそ見したら、もう自分のお皿は空っぽで。おとなになったら、食べたいだけ食べられる暮らしをしてやるぞ、と考えてましたね。わたしの子どもたちは十分に食べて暮らしてきました。そればかりか、ちょっと食べさせすぎたのですね。わたしと娘二人は肥満して、いまや食事制限しなくちゃならないほどですものね。サラダなんか食べたりして! あっはっはっは。夫も食事というものはちゃんとしてなくてはいけない、という信条のひとですし。いつもお祈りしてから食べました。信仰深く暮らしてきました。
 子どものころの話をしましょう。
 小さな町の黒人には、全然なんの機会もなかった――。
 ある時、食料品屋へ行ってね。その店のことは一生忘れることはないでしょう。わたしは飴の売台を眺めていたんです。わたしの家では砂糖はあまりなくてね。ほとんど砂糖は食べなくて。飴なんかもなかった。だから皆いい歯をしていて。それが運がいいことだとはその時は知らなかった――。わたしは飴がほしくて、ほしくって、じいっと見ていた。そこへ金髪で青い目をした子どもたちが入ってきて、わたしがいたカウンターのところへやってきたんですよ。次の瞬間、気がついたら、店主の男がわたしを店から放り出し、土手になっているところから突き飛ばしていた。そしてその男は、「黒んぼにおれの子どもに近寄ってもらっちゃ困るんだ」というのでした。
 わたしは五歳でした。その時から、わたしは青い目をしているひとが好きになれなくなったんです。いまになってどうにか、いまになってようやくどうにか、青い目のひとを嫌わないでいられるようになったのだけれど。この歳になってどうにか、四十歳になってからどうにか、青い目をしているからといって必ずしも悪人というわけではないということが納得できるようになったんですよ。
 母はそのことを保安官に報せましたけれど、保安官はやってきて「あの男はその子に怪我なんかさせてないね」といっただけでした。肩や腕は皮がむけて、血が流れていたのに。でもどうにもできなくて。わたしはただ泣くばかりでした。わたしは深く深く傷ついていました、からだだけでなく。あの傷から、まだすっかり回復していないのですよね。そして、その日から、わたしは戦闘的になったのです。どんなことをしたって、自分の家族は守ってきました。公民権運動に参加する機会ができた時には、そうしました。
 ルービー・ブラックバーンという女性のもとで。
「リッチズ」の手洗所の件も、運動の一部でね。

  ――ダウンタウンの百貨店の「リッチズ」ですか。

 そう。あそこは黒人用の手洗所がなかったの。ルービー・ブラックバーンと集会を開いて。そのあと、彼女が「リッチズ」に電話をかけたのでした。「リッチさん……」と社長にかけて、「いましも、店には子ども連れの女性が手洗いを使う必要に迫られているというのに、黒人は使えないとは……」といってね。リッチは店の中の誰かに電話して「店には黒人の女たちが使える便所がないというのはほんとか」とたずねてね。彼は新しく手洗所を作らせたわけですけど、それには「ニグロ用」と札が下がってましたっけ。

  ――「カラード」でなく「ニグロ」となっていたのですか。

「カラード」、「カラード」……きっと「カラード」となっていたんでしょうね。わたしは「カラード」という言葉が大嫌い。わたしのことを「カラード」と呼ぶ連中は大嫌い。よくない呼称ですよ。かつてはだいたいわたしは「ニガー」と呼ばれ、それよりちょっと気を使う場合は「カラード」といったのね。……水呑み場も、一つは「カラード用」となっていましたっけ……。
 あの当時は、いつも集会がありましたよ。わたしはよく出かけて行ったもの。わたしは遠慮せずに意見をいうたちですから、いうべきことはいつもいいました。そして長年の間には、少し効果が現れてきましたけれど、まだまだあるべき姿にまでなっていないのです。
 わたしは公共住宅に住んでいて、たしかに寝室は五室あるのですけれどね。そこへ住むようにいわれた時には、バスすらなかったんですよ。わたしは働いていました。通勤の手段がなくて、失業してしまった連中もいたんですよ。バスは朝一台、そして夕方五時に通勤者を運んで帰ってくるのが一台というありさまでしたよ。わたしは当時住民組合の会長でした。わたしはバスを獲得してくるからね、待ってなさい、といったものです。委員会をつくって、アトランタ市交通局の役人と交渉しました。バスを走らせてやることはできない、という回答でした。

  ――それは何年のことでしたか。

 一九七四年。バスを利用する客の数が少なすぎるというのが理由でした。その界隈は基本的には白人の居住地区だったからです。公共住宅の区域はそうではなかったのですが、その周囲は白人の居住地区だったわけです。公共住宅は全体が低所得層でした。

  ――そこには黒人と白人が一緒に住んでいましたか。

 当時は白人も少し住んでましたけれど、おおかた引っ越して行ってしまいましたね。
 ともかく、わたしは仕事も休んで、役人にかけ合ったのです。バスを走らせてくれないなら、こちらにも考えがあるのだ、といってやりました。アトランタ市交通局の前にピケを張るつもりで、これは本気でいっているのですからねと。住宅へもどって、人を集めて、ピケのプラカードを作るようにいったんですよ。役所から電話があって、話をしたいからこいというんで、行ってみたら、週に五日間はバスを走らせることにする、という。日に三度、ということで。それではとてもだめだといって帰ってきた。また話し合いをするというので出かけて行ったら、週に五日、一時間半毎に一台出すというのはどうかという。わたしはそれでも満足しなかった、市長とか、その地域のことを充分に承知していなければならない立場にある役人を、わたしの家へよんでね。地域渉外担当のひとが、力を貸してくれて、ようやくバスが走るようになったのです。一時間に一本ということで。これで働きに行く人にも足ができた。
 白人の家族が引っ越して行くと、そのあとには黒人の家族が移ってくるというパターンがありましたね。白人は減りつつあったわけですけれど、トールウォーター小学校などは、わたしがPTA会長をやった時には、まだ生徒の九十九パーセントは白人でね。わたしには二組の双生児がいるんですけど、その中の一人、娘はそのクラスで最初の黒人の生徒だった。学校の中では、学童たちはいろいろちゃんと聞かされていて、あまりまずいこともなかったのですが、一歩学校の外へ出ると、おとなたちが娘を「黒い牝犬」なんてののしって。ひどいことでしょう? 幼稚園の歳の子どもを。石を投げつけたり。それも、もう七〇年代に入ってからのことですよ。わたしは学校の食堂で働いていましたけど、わたしの監督にあたっていた女性はわたしを嫌っていてね。このひとも青い目をしてましたっけ、「あんたをへこませてやるからね」といってね。わたしは「わたしの背骨を折ったりすることならできても、わたしの精神までくじくことはできないんですよ」と答えたものです。そのころからPTAの会合に出るようになって、いつものようにはっきり意見をいう態度も変えずに、子どもたちが学校から安全に帰宅できるように万全を期すのはあなたの責任です、と校長にいったのです。そして住民には子どもを迎えに行くようにいいました。ある朝、女たちが、そうほとんどは低所得者でしたが……わたしたちは例外なく低所得者でしたから……働いていない女たちが棒や木の枝なんか手にして集まってね、わたしにもこいといったのでした。情況は少し改善されました。
 男のひとたちにも集まってもらって、黒人の子どもたちの母親のための地区学校がいるのだと話しました。何か訓練を受けなければならないのだからと。わたし自身だって技術を身につける必要はあったわけですけど。大学へ行かなかったから。でもわたしはいつも就職できたんですよね。女中はやりませんでした。どうしても性に合わなかったから。でもパンを焼くのはとても上手でしたから、公立学校で働いてね。長いこと、パンを焼く仕事をしたんですよ。そうこうするうちに、トールウォーター小学校のPTAの副会長になって。わたしに投票したのは大多数が白人でした。それから初めての黒人の会長になりましたが、生徒の大多数はまだ当時も白人でした。一九七四年のことです。しっかりしなくちゃだめだ、と考えましたよ。校長は白人で、PTAの中にもまだ差別が残っていて。会計係は黒人にならせるわけにはいかないとか。
 わたしが会長になって、PTAは以前より多く募金もして、それで教材を買い、植木を買い、図書館を修繕したりしましたよ。予算がずっと増えてね。収入も支出も増えたのです。黒人なのだから、しっかりやらなくちゃだめなのだ、とわたしは思ってました。黒人の生徒だって、白人と同じような条件を与えられたら、同様の学習能力を示しますよ、といったら、校長と喧嘩みたいになってね。そんなのあたりまえのこと、誰にでもわかりそうなことなのに。黒人の子どもらはバスに乗ることさえ稀れでしたものね。音楽を習ったり、家庭教師をつけてもらったりなんかできなかったし、「美術センター」や美術館や博物館へ行くこともなくてね。校長は反動的で、わたしは追放運動をおこして、もうちょっとというところまで行ったのに、病気になってしまったの。
 二度目の中耳炎の手術を受けたのです。こっちの耳は全然聴こえないのですよ。こちらは聴力は二十五パーセントしか残っていなくてね。でも障害《ハンディキャップ》じゃないんですよ。わたしはこれをわたしの「障害」だと認めるつもりはなかったんですから。聴力がなくなったのは、子どもの時に中耳炎の手術をしたまま放ったらかされたことが原因でね。お金がなかったから、ちゃんと最後まで治療してもらえなくて。医療の貧しさ。穴の開いたまま、放ったらかしなんです。
 わたしは公共住宅地区に保健診療所を設けました。一九七五年から七七年まで、保健局に電話しつづけて。医療を必要としている幼児とか、子だくさんで市の保健センターまで行くことのできない母親たちのためでした。ある保健婦にきてくれと依頼しましたら、どういう問題があるのか書面にして提出するといいというので、いわれた通りやってみてね。ようやく月に一度、診療所が開かれる運びとなりました。
 そのころ、アトランタ市住宅局の局長からその地区担当の社会福祉員にならないかといわれてね。当時は学校で働いてましたけど、子どもたちの通ってる学校じゃなくて、バスを三度も乗り替えて行くノースサイド中学校で、夫と別居していたこともあり、子どもたちのそばになるべくいられるようになるということもあって、引き受けたのです。わたしはこれまで、やらなくちゃならないことはやってみる、というふうにして生きてきたんですね。わたしは率直すぎて、繊細さには欠けるかもしれませんね。何もかも、たたかいとらなければならなかった暮らしを送ってきましたから、レディらしくしていたことがない。かっかしてしまう。
 ともかくその仕事の話があって、わたしは正式に応募して、この職につくようになったのです。この八月で住宅局のこの仕事も八年目になりますね。この仕事、引き受けてよかったと思ってます。いろんなひとを助けることができましたから。
 おもしろい仕事ですよ。低所得者の住民を援助するのです。困ったことがある場合、それぞれ適切な役所に紹介する。
 たとえばね、夫と別れて暮らしていたある女性がいてね、彼女は働いていなかった。わたしは彼女を訪ねました。家賃が滞納になっているので、様子を見に行ったわけです。彼女はぽつんと椅子に腰かけてました。家には食べ物が全然なくて。わたしが行くと、彼女は泣き出し、同時にいろいろ悪態をついたりしてましたが、ちょっとおさまったところで、いったいどうしたのだと、たずねたのです。彼女は食べる物が何もない、という。家賃のことはどうでもいい「空腹じゃ家賃のことも考えられまい」とわたしはいったのです。待ってなさいねといって、わたしはキャピタル通りの「イアネスの家」へ行って、食料品を貰ってきました。J・オルスン・フォード神父が運営しているところですよ。
 その後で、オキーフ通りの福祉事務所へ行って福祉手当を受ける手続きをしてね。当時は政府の余剰食糧の支給もあったので、福祉手当と、食糧の支給を受ける手続きをしてね。「このひとは何も食べる物がないのですよ。いま何か貰えませんか」とわたしは係員にいったのです。答は、いま暇がないから、予約をして戻ってきたらいいというものでした。わたしは「このひとは食糧品が必要なんであって、予約なんか必要じゃないんですよ」といって、「イアネスの家」へ行って市長に電話したんです。それでやっと食糧品を手に入れることができました。
 三人の子どものいたアル中の母親が独立して生活できるように助けたり、どうしても学校へ行きたいという女性に奨学金の申請の方法を教えたりもしました。
 それに自分でやってきた料理の経験を生かして、住民に料理も教えました。みな何をどうやって作ったらいいかさえ知らなくてね。わたしはパンの焼きかた、肉のキャセロール料理の作りかた、蛋白質豊かな豆をどう料理したらいいか。鶏肉やじゃがいもの料理のしかたもね。ピーナツバターでクッキーを作るにはどうしたらいいか。トマトの使いかた。

  ――皆さんトマトの使いかた、わからないといわれたのですか。

 あのね、政府の余剰食糧というのは質が粗悪というか味気ないものだから、皆棄てていたんですよね。だからわたしはそういう物を使っても、おいしく食べられる料理のしかたがあることを教えたんですよ。

  ――余剰食糧はどこで受けとるのですか。

 政府が配給所を設けてね、自分の名前のアルファベットに従って列に並んで貰うの。家族の数によってくれる量がきまるのですよ。肉をくれることもありましたよ。「スパム」とか――。

  ――まずいのですか。

 上等とはいえない代物だけれど、料理のしかたでいくらでも食べられるんです。
 わたしは羽毛のようにふわふわのロールパンの作りかたを教えましたよ。
 それと、どうしてか理由はよくわからないのだけれど……そう、あまりひどい目に会ってきたからかもしれないけれど……わたしたちの連中のなかには、もう全然気力をなくしている者たちがいるんです。でも、頑張らなくちゃいけない。貧しいから、ということを理由にするのは、やめなくちゃいけない。他の国に比べたら、わたしたちそれほど貧乏じゃない。結構なアパートへ引っ越す。でもそこに住んでいる間にきちんとしないから、家屋がすっかりいたんでしまう。温水も出るし、冷水も出る。洗面所が二つあることだってある。台所の流し台もきれい。広さも十分。わたしはいろいろ読みますから、そういうことを承知している。
 五歳以上の子どもがいたら、寝室二部屋付きのを借りられる。四人いたら、寝室は三つ。五人いたら四つ。
 だから、わたしはワークショップなんかやると、若い女性を叱りつけてしまうんですよ。「しっかりしなさいよ! ちゃんと家を清潔にしておきなさいよ! 子どもには予防接種を受けさせなさい! 病気の子はちゃんと医者にみせるんですよ!」と。「あんたたちもわたしも、そう確かに差別を受けてきた。でも、あんたたちとしては[「あんたたちとしては」に傍点]、それに対してどうしようというの? 技術を身につけて職を得るの? それともただ子どもを産み統けて福祉手当を貰い続けるだけなの?」というのです。
 このごろ思うんですけどね、わたしたち昔のほうが互いに仲良くやっていたんじゃないかしら。お金なんかなかったけれど、道徳の基準は高かった。いま物質は多く手に入るようになったけれど、互いにいがみ合っているような感じで。物、物、といっているうちに、失われてしまう何かがあって。わたしはマーティン・ルーサー・キング牧師とともにアラバマで行進しましたよ。わたしたちは黒人を指導的な地位につけるために汗水を流したのに、しばらくは立派にやってくれても、そのうち連中は、わたしたちを助けてもらうためにわたしたちが彼らをそういう地位につけてやったのだということを忘れてしまうようね。
 でも、わたしが一番苦しかった時に助けてくれたのはやはり黒人の女性でした。
 夫がアル中になったので、わたしは彼と別れたあとで、働き口もなくて……。二十四年の結婚生活のあとでね。一九七〇年、七一年ごろのこと。わたしが子どもを養わなければならなかった。八人全部。夫は自分の面倒も見られないような具合でしたから、できる時は、逆にわたしのほうから助けるといったふうで。わたしは子どもたちをなんとかしなければ、と思ってね。わたしは夫の元を去って。わたしと子どもたちはそれで少し楽になったのですよ。わたしと夫は喧嘩をしたとかそういうんじゃなかった。ただ子どもたちがアル中の者と同居しているという情況はとてもよくなかったわけです。
 こういう社会で子どもをたくさん養わなければならなかった苦しみが、夫を飲酒に追いやったのでしょうか。
 それに、夫はわたしが外で働くことをいつもひどく厭がっていたのです。でも何もないのに家にじっとしているなんてできなかった。八人の子どもたちに食事を与え、その足に靴がはけるようにしてやろうと夫は苦悶しましたが、彼の給料ではできなかった。で、収入の足しにしようと、わたしも再び夜勤で働くようになって。それでやって行けるようになったのですが、わたしも働かなければやって行けないことに対して、夫は時に腹を立てていましたね。夫はとてもやさしいひとでした。いいひとでした。わたしが出てから、七年間別居していました。
 ところが彼は病気になってしまって、わたしは面倒を見ようと、引き取りに行きましたよ。だって夫は家族に対してひどいことをしたわけではなかったのですから。だから、こっちへきなさいといって連れてきました。大分よくなりました。六十歳ですが、もう酒も飲みません。別れていた時期は彼のためになりました、わたしのためにもなったのですよ。その間わたしはよその男のことを考えたわけではなかったし、夫としても同じでした。だから、夫はわたしは愚かな女だといったのですよ。わたしはともかくちゃんとしてください、家族とまた一緒になりたいのなら、然るべくそのことを示しなさいといったのです。病気になって、わたしが迎えに行くと彼はもう家族と離れて暮らすのはご免だと考えたんですね、いまでも「おまえは愚かで、気が強い」といってますよ。あっはっは。ともかく彼には行くところが必要だったし、わたしは法律上も彼の妻だったわけですものね。

  ――離婚はされなかったのですね。

 いえ、いえ。父さんはわたしたちの家族の一員なのだから、わたしたちが面倒を見る責任があるのだよ、とわたしは子どもたちにいってね。別居することになるのが厭なものだから、何かあるとすぐ病気になってしまう。夫が戻ってきてから、三年、いや四年になるかしら。

  ――愚かしい、というのはどういうことを指していたのでしょう?

 夫は、じっとしていないで、なんとかしなければ、というわたしの強い欲求をどうしても理解できないんですよ。(差別撤廃のために)ランチ食堂に坐り込みをしなければ、と考えるようなことは、一度も理解できなかった。乗ってくるな、といわれながら、なぜバスに乗り込むのか、そのわけが理解できなかった。受け付けてくれるかどうか確かめるために、あれやこれや申請書を提出するわけが理解できなかった。
 彼の出身地ヘンリー郡では、黒人は一切から除外されてました。彼らはそれを受容して暮らしてたのですね。だから彼は、わたしが「なんとかしなければ」と考えることが理解できなかった。そのことをどう表現してよいかわからずに、怖れを知らぬように見えたわたしを「愚かな」というふうにいったのですよ。公民権運動を一緒にやらないかと誘いましたが、ついに説得できませんでした。

  ――公民権運動では女たちのほうが頑張ったというふうに感じられますか。

 そう思いますよ。男たちはおおかた仕事を休んで運動をやるというふうじゃない。立派な指導者もいましたが、女たちのほうが立派な指導者が多いですよ。社会と家族からの圧力にめげずに、献身的に頑張り通すのは女のほうが多い。
 わたしだって、アラバマ州やジョージア州各地へ出かけて行った時には、いつもの二倍頑張らなくちゃならなかった。家族の食事の準備を前もってしておくこと……ちゃんと面倒見て、不足のないようにすること。それから夫に、行ってもいいかしら、とたずねる。「行け、行け」といわれたことはなかったのね。女たちはパンを焼いて赤ん坊のおむつを取り替える以上のことでも、もっと役に立てるということを、男たちがわかるようにならないといけない。それは生きることの一部なのだから。外へ向かって手を差しのべなければいけないのだから。

 ――そして、そういう性向を、ミラーさんは父上から受け継がれたと感じられるのですね。

 わたしは母には全然似てない。顔かたちも似てない。母はとても美しい人でしたよ。皮膚が白くて、真っ直ぐな金髪でしたよ。目の色も薄くてね。父は背が高くまっ黒でした。子どもたちは皆父に似ています。母はおそらく二世代前に白人の血が混ざったのだろうね、といってました。母のその母の父親は白人だったのではないかしら。農場の主人がわたしの曾祖母に子どもを産ませたのではないかしら。そうやって白人の血が混ざったのでしょう。いうまでもなく、そういうことはそのままどうにもできなかった。母は、「できるかぎり色の黒い男性と結婚しなければ、と思っていた」といってましたが、その通りにしたのですね。

  ――なぜそういわれたのでしょうか。

 できるかぎり色の黒い男性と一緒になれば、黒い膚《はだ》の子どもができるから。母は白人からも黒人からも憎まれていると感じていました。白人の血が混ざっていることで、白人からも黒人からもひどい仕打ちを受けたと。「真っ直ぐな髪をして、瞳の色も薄い、おまえのとうさんは白人だな」といじめられることがないように、黒い膚の夫を持って、黒い膚の子どもを産むのだと考えたわけだったのですね。わたしの母や、母の母たちの時代には、白人の男に強姦されたり、性関係を持つようにしむけられたりしても、どうすることもできなかった。読書はずいぶんしてきましたけれど、白人の男が黒人の少女を強姦した罪で電気椅子に送られたという例はまったくない。一つもないのですよ。かつては、畑に出て働いていた、靴墨のように黒い男たちに、金髪で青い目の子ができるというようなことがあったんですよ、でも誰もどうにもできなかった。土手から五歳のわたしを突き飛ばした男が罰せられることはなかったように。白人の意のままにされて暮らしていた。黒人が白人に対して暴力を働くようになってはじめて、暴力は許せぬ、という発言が聞かれるようになったんですよね。
 わたしは暴力はこころから厭です。うんざりしています。若い人たちを相手にやるワークショップでは、警官に逮捕されるようなことがあっても、抵抗して暴力を振るってはいけないといって聞かせます。……わたしの子どものころには「覆面騎馬暴力団《ナイトライダーズ》」が夜間に襲ってきたものだった……。

  ――ク・クラックス団ですか。

 連中は「ナイト・ライダーズ」と自称してましたが、ク・クラックス団以外の何者でもなかった。わたしたちは電灯を消して床に伏して。ベッドの下に隠れて。わたしはいま五十一歳ですよ、こんなことがあったのもべつに大昔のことじゃないわけね。わたしたちは蹴られ、殴られ、唾を吐きかけられて。
 だからこそ、わたしたちはアラバマへ行った。あそこへ行って、わたしは一過間滞在しましたけれど、子どもの世話があるんで引き上げなければならなかった。わたしはキング牧師と一緒でしたよ。一緒に行進しました。彼はほんものの偉人でした。すばらしい人でした。相手が貧しいとか、教育がないとか、そんなことで態度を変えたりする人じゃなかった。誰に対しても王侯に対するような態度で接していました。ほんとに謙虚で。彼は神からの贈りものだったのですね。彼の前に彼のような人物はいなかったし、しばらくは再び現れることもないでしょうね。
 わたしはね、PTAの会長をやってたころ、学校の通学路に歩道を作れという運動を起こしましたよ、でも、途中で病気になってしまった。でも、そのことがあってから、いろいろな組織に加わるようになってね。自分でも「自立《セルフ・ヘルプ》」という組織を作った。職場や住宅で差別を受けた、あるいは何かについて情報がほしいと思ったら援助する、という組織です。

  ――事務所を借りたりなさったのですか。

 いえ、いえ、わたしの寝室が事務所です。ベッドの上にも、テーブルの上にも、書類やなんかが天井に届くほど山積みになっててね。集会もわたしの家でやります。自分で処理できない問題がでてきたら、適切な人に紹介する。そういう時はできるだけ黒人の女性に助けてもらう。彼女たちならわたしが真剣であることをわかってくれるし、ばかなことをいってる、などと考えませんから。わたしは大学へは行きませんでしたけれど、電話して、これこれこういう助力を得たいといえば、ちゃんと回答があるのです。どこにでも、黒人の女性が進出していて、助けてくれるのです。

  ――どこどこへ連絡すれば、どういう助力が得られるという知識は、単なる知識というより一つの特別な才能だと思います。

 そんなふうに考えてみたことはなかったけれど……。わたしは自分がいろいろ酷い目に会ってきたから、それで強情になってしまった……。
 これまでで一番嬉しかった時はね、長女が高校を卒業した日でした。それまで、わたしの家では高校まで終えることができた者はいなかった。あの日は嬉しくて、泣いてしまいました。泣いたのは、あれが初めてといってもいいほどでね。彼女は実務学校へ行って、いまは州政府の公務員ですよ。次の息子は高校を出てからベトナムヘ行って、それから大学へ行って。現在は日給八十七ドルで、市のジーゼル・トラックの修理をしています。次女は美容師になって収入もいい。上の双生児は二人とも大学へ行ったけれど、途中でやめて、息子のほうは「アトランタ工業学校」へ行って印刷とリトグラフを勉強して、いまは州政府の仕事をしてますし、娘のほうはタイプと速記を習って、「退役軍人病院」で働いています。その下の双生児は、一人は「タスキーズ学院」へ行って、将来は刑事法廷関係の仕事をしたいという。彼女ならできるでしょう。もう一人はコンピューター科学をやってます。末っ子は十五歳でね。そう、誰も彼も問題なくやってきたってわけじゃない。娘の一人は妊娠してしまった。わたしはもう死ぬほど失望しましたよ。でも娘は中絶はいやだという、わたしも中絶をそれほどいいとは思わない。黒人の子どもが養子になることは少ないので、わたしたちは赤ん坊をわたしたちのところで育てることにしてね。娘は学校へ戻りました。この子どもは、もう皆に大変かわいがられています。べつにわたしたちはこの赤ん坊のことを隠したりしなかった。
 困難のあった人生を送ってはきましたし、いままでにあったことを全部あなたにお話する時間もないけれど、「できないことはない」って、わたしは考えるんですよね、若い女性が、十八歳や十九歳でもう一生福祉手当で暮すより手がないと考えているのを見たりすると、かんかんに怒ってしまう。福祉制度自体も、そういう女たちに機会を与える構造になっていないことにも腹が立つんです。子どもと家に閉じこもっているようにしむけるのではなく、外へ出て働けるようにしてやらなければ。保育園を設けなくてはいけない。福祉手当は子どもができてから、三カ月から六カ月ぐらいにしたほうがいい。さもなければ、もうだめになってしまう。だめになってしまうんですよ。お金のことじゃないんです。子ども一人当て一月に百二十五ドル貰ったって、それで暮せるはずはない。そこでボーイフレンドと一緒に暮して、もう一人子どもを産んで、その子にも手当を貰う。そんなことでは……こういう女たちが何とか自立できるようなプログラムこそが必要なんですよ。
 アメリカというのは保育プログラムのもっとも貧弱な国だと思いますよ。公共住宅の地区内に保育園を開設してもらうよう動きましたけれど、ついにだめでした。共和党政権になって、どんどん厚生関係の支出が削減されてしまうでしょうね、それがいつもの連中の手だから。
 今年五十一歳になってね、やや疲れたとも感じるんですよ。運動的なところから身を引いてしまうつもりはないけれど、今度は大学へ行こうとも思うの。いま「アトランタ工業学校」へ週二回通って、タイプとコンピューターを習ってます。来年の六月には短大へ行こうと思っているのですよ。それが出発点です。わたしはずっと、いつだって学校へ行きたかったのですものね。

 わたしの泊まっているアトランタの「スペルマン・カレッジ」のゲストハウスまで出向いて聞かせてくださったミラーさんを子どもたちが迎えにきた。車の中にはびっしり彼女の子どもたちが乗っていた。奴隷制廃止が宣言されて間もなく、東部の白人の篤志家たちが黒人の女性のために創立した女子大の「スペルマン・カレッジ」の樹木の蔭をぬけて、車が見えなくなった。暑い日曜日の午後。
 たしかに、ミラーさんは話の途中で、彼女には片方の耳に聴力が二十五パーセント残っているだけだと述べられた。それをわたしは聞き洩らしたわけではない。ただその点をその時に追求して、では補聴器を使っておられるのですか、とたずねることをしなかった。それまでの会話で、わたしのいうことが聞き取れないという印象を一度も受けなかったので、「もっと大声で喋りましょうか」とたずねる必要さえ感じなかった。話を聞き終えて、外へ出て写真を撮らせてもらった時に、はじめて、彼女は読唇ですべて理解していることがわかった。「聴力を失ったこと、わたしはこれをわたしの障害だと認めるつもりはなかったんですから」というのは、そういうことだったのである。堂々たる体躯の彼女の前で、わたしは自分がさらにひとまわり小さくなったように感じた。


晶文社 1982年10月30日発行




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