『ロベルト・シューマン』 高橋悠治

目次    


一歩後退二歩前進


シューマン論の計画

現状分析の意味

見とり図

転倒の方法 その一

芸術運動と機関誌 一八三〇年

芸術運動 一九七七年

雑誌メディアの批判

転倒の方法 その二

批評についてのおしえ
(ダビデ同盟偽書)


批評家の誕生

老キャプテン

訳者の注

知的貴族主義

クラインのつぼ

フロレスタンとクレールヒェン

墨テキにこたえて

むすび

    転倒の方法 その一


ヴェトナムの勝利は、近代文明の限界とその克服の可能性をしめしたとしても、単純にナパームに対する竹槍の勝利、コンピューターに対する人間の勝利というのはまちがっているだろう。現代のテクノロジーがニセのテクノロジーであり、その眼で見られた人間がニセの人間であることを問題にしなければならない。『ヘーゲル法哲学批判』でわかいマルクスが予想した転倒の方法は、ここでもまだ有効だ。抽象的な人間一般を前提としたイデオロギーが国家支配の道具であるとすれば、具体的な人間の具体的な生産過程の分析によって、そのイデオロギーを革命の武器に変えることができる。国家の死滅がアナーキズムの国家の単純否定によるのではなく、国家権力をうばいとることを第一段階とするのとおなじように、テクノロジーの否定ではなく、それを手にする過程で概念の転倒が起こるところから、技術と自然の高次の統一がはじまるだろう。これは危険な賭だ。上からの偽装改革も同時進行しているから、自主管理や主体性や自力更生が支配階級から指導され、組織されて自縄自縛の状態になる危険、国家権力を手にした者が官僚になり、テクノロジーを手にした者がテクノクラートになるように、ミイラとりがミイラになる危険がどの曲り角にも待っている。これは抑圧する側とされる側が、相手のことばをパロディー化しながらつづけるゲームだ。おなじ文章をつかって正反対の内容をつたえるのだ。

だから、合言葉や心情告白は敵味方の区別には役立たない、つかわれることばがたとえゲバラ、ファノン、毛沢東のものであり、スローガンが人間の全面的解放、感性の革命、文化革命、人間の変革その他であろうとも。第二、第三のヴェトナムは戦術だけで、あるいはそれを望むだけで、どこにでも出現できるものではないだろう。日常闘争を何百つみかさね、市民の横断的大連合をつくりあげても、核心の理論と主力の組織を欠いた運動は、かんたんに押し切られてしまうか、自らの部分的勝利によって逆に買収されるだろう。

ほころびかけている帝国主義とおなじものにすぎない近代を転倒するための足がかりは、それが足で踏みつけている当の場所であり、それをひっくりかえす力は、しめつけてくる当の力だ。現在最も抑圧されている者は、古典的な先進国都市労働者とは言えない。新資本主義の構造から考えても、第三世界の人民がそれであることは当然だろう。新植民地主義体制の下で、帝国主義の資本、封建的土地私有形態、エリート官僚、軍事独裁のからみあう何重もの支配をうけているということは、すべての矛盾がそこに集中し、爆発するにちがいない発火点でもあることだ。鎖以外にうしなうものはなく、獲得できるのは全体だという古典的な定言が成立するのが、この具体的な人間集団だ。事実、帝国主義はここからほころびはじめている。

では、日本では何をすればよいのか? ヴェトナムに連帯の意志を示し、キム・ジハの投獄に抗議声明をだし、日韓のみにくい癒着をあばき、自らの内心にひそむ差別を恥じ、重い心をいだいて無力感をかみしめていればよいのか?



『ロベルト・シューマン』(青土社 1978年6月5日初版発行)より




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