『ロベルト・シューマン』 高橋悠治

目次    


一歩後退二歩前進


シューマン論の計画

現状分析の意味

見とり図

転倒の方法 その一

芸術運動と機関誌 一八三〇年

芸術運動 一九七七年

雑誌メディアの批判

転倒の方法 その二

批評についてのおしえ
(ダビデ同盟偽書)


批評家の誕生

老キャプテン

訳者の注

知的貴族主義

クラインのつぼ

フロレスタンとクレールヒェン

墨テキにこたえて

むすび

    芸術運動 一九七七年


一九七二年の終り近く、東京で七人の作曲家が集団をつくり、それを〈トランソニック〉と名づけた。ジェット機の亜音速を意味するこのことばは、語源的に分析・再合成されて、音を超えるもの、音を横切るもの、と理解された。音楽の領域の拡大と、他の領域とのむすびつき、その結果としての音楽概念の変革がそこから暗示された。それは「社会のなかで作曲家の参加と発言が要請されるべき問題に積極的に対応し、作曲家の活動領域を閉鎖的な音楽界の外部へと拡大していく」ことを目標とし、技術情報の集中と同時に討論の場としての集団であり、そこからの方法論の確立をめざしていた。

一九七二年に組織者であり、その後は機関誌の編集長であり、一九七六年にこの集団を見すてた者(実際には、この集団のもっていた症状は音楽の現状の忠実な反映だから、「音楽に見すてられた者」と言うべきかもしれない)から見れば、自分の手で書いた綱領の陰険な楽観論は、信じられないほど混乱している。

「社会のなかで作曲家の参加と発言が要請されるべき問題に積極的に対応し」という言い方はまちがっていた。これは、作曲家というテクノクラートが特権をもって介入できるような問題が社会に存在する、と主張している。専門化を絶対視し、知識を独占する特権を認めた上で、専門「外」としての社会全体をうごかそうとする、技術支配の思想が読みとれる。「社会が音楽に要求する役割をすすんでひきうけ」と言うかわりに、あのような表現をしてしまうのは、音楽が社会から独立したものではないことの倒錯した理解とも言えるだろう。

技術情報の集中と同時に方法論の確立をめざす運動という矛盾も、ここでは意識されなかった。現代の音楽のあり方を無条件に肯定し、創造者の特権的な立場から無理解な大衆を啓蒙しようとするのではなく、そのあり方自体を問題にし、討論の場としての運動を組織しながら、あたらしい方法論の確立に向かう、という立場が一方にあり、他方ではあいかわらずの、技術の集中と独占による特権的立場の維持をたくらんでいる。

音楽がこのままであってはならないという主張の裏には、現在が過渡期であるという認識がかくれていた。この認識のあいまいさが、運動や組織の自己矛盾を見すごさせ、〈トランソニック〉が亜音速どころか、離陸さえしたことのない飛行機であったことに四年かかって気づく、というバカげた結果になった。

現代を過渡期と考えるのは、まちがってはいない。しかし、この認識をする者には、二つの条件が課される。何から何への過渡期であるのか、具体的に考えることがその一つ、語るべきことと、語ってはならないことを、きびしく区別することがその二つだ。もっと正確には、「何から何へ」と言うことはできない。現在を知っても、未来を知っているように語る権利はだれにもない。過去の例からの類推で未来を予測し、そこから必然的にでてくる行動の図式を説くことは、実際に行動に足を踏みいれないでもできる。語ることが、ほとんど行為の代用になってしまう場合さえある。その結果として、予測された未来は無期延期される。未来の革命をあてにして行動するわけにはいかない。そのような行動が、むしろ革命の実現を遠ざけてきた例は、たくさんある。それに、予定通りの未来が実現したところで、それは外からの変化にすぎない。内部の熟成を待たずに外から開花させられた変革が、後でどのような反作用を呼ぶか、この例もすくなくはない。予言者のように未来を手にとるように見せるのではなく、可能なのは、現実にかかわる一つの立場をえらび、その立場を語るのではなく、その立場をとるために身にふりかかる任務をだまってはたし、だれにでもできることしか言わないことだ。だれにでも実現可能でなければ、一人だけ真理をさとっても何になるか? それは真理の名に値しない。

現代は、あたらしい全人的な文化をつくれない衰弱の時代だ。芸術の発展は、反動思想に奉仕している。文化は自己完結し、高みから政治や経済を軽べつするが、その内容は政治的反動であり、美学的価値は、市場での商品価値にすぎない。この自己完結性が、文化戦線を不可能にする。

二十世紀の芸術運動は、若者たちが共同で市場になぐりこみをかけるための一時的連帯である例が多かった。反対派の美学は、公認されるとたちまち技術のあたらしい型に収斂し、運動が不幸にも存続した場合には、それは啓蒙であり、文化防衛論であり、連帯はそれ以上の改革を阻止するのに役立った。

外部に対して連帯し、無反省のまま組織を防衛し、つくりだした美学を防衛するが、運動の内部では競争原理が支配している。知識・技術・様式の私有化と、それをおたがいにうばいあう過程で、失敗した者は脱落し、成功した者も、集団の保護を必要とせず、自立する。これが芸術運動の終りだ。

芸術家個人の成熟と考えられることも、それと平行して、孤立のなかの権威主義を育てる過程にすぎない。シューマンの場合がすでにそうだった。世界のなかで起るあらゆること、政治・文学・音楽に興味をもった青年時代から、感じたものをことばにするか、音にするかまよった時代を通り、最終的には音のなかに世界のすべてを発見することになる。洞窟のなかにうつる影だけが実体であり、現実世界の方は影のように、意識の裏側を通りすぎる。

この逆の過程がおこればおもしろいだろう。音の可能性をきわめ、その限界をことばの仲介で批判し、やがて関心があらゆる領域に拡大するような音楽家の成長のかたちは不可能ではない。

そのような芸術家の集団であれば、芸術運動も文化戦線の名にふさわしい全体的な力をもつだろう。市場の予備軍の集団雇用のための一時的連帯ではなく、人民との永続的連帯のため、芸術家の自己改造の場としての運動だ。

自己改造は可能か? 立場をえらぶとは、何をえらぶのか? 自己改造して他人になり、他人の立場をえらび、他人の態度を身につけることができるだろうか?

そんなことができるはずはない。現代の芸術家は専門教育の産物であり、えらばれた身分であり、特殊化した技術の所有者だ。思想の変化や信条告白では、事実を変えることはできない。持主が持物をえらぶのではなく、持物が持主を決定する。身につけた技術はすてられないし、意識は考えるだけでは変らない。

自己改造には、さしあたって自分の態度を意識して身につけ、自分のおかれた立場をあらためてえらぶことで充分だ。糸の切れたタコのような支配的文化に属し、あらゆるものに関心をもてばもつほど意識が分裂してしまうことを自覚することしかできない。人民全体と共に成長する文化は、木のように、梢が高くなれば、根も深く、広く張っている。支配的文化に属し、技術の革命をやっていた人間が、飛びつかれた鳥のように梢に舞いおりても、いつまでもそこにとまっていられはしない。

星になったヨタカの話がある。みにくいヨタカは、星のところへいこうとするがことわられる。鳥のままでいれば、ほんもののタカにつつき殺されてしまうだろう。ヨタカはどこまでも空にのぼっていく。気がついた時には、ヨタカの体は炎につつまれ、もえているヨタカはそのままで一つの星になっている。

みにくいヨタカであるのが芸術家の運命だ。支配者であるタカは、このニセものを決してゆるさず、食ってしまおうとしている。星は人民だ。星に救いをもとめることはできない。ヨタカは自分の力で、自分の体をもやして、星になる。支配者の文化をつくっていた者は、人民にうけいれられることは望めない。支配文化の武器である技術をもったまま投降し、自己犠牲の炎をもやしているうちだけは、人民の側にとどまっていられる。炎が消えれば、鳥は石のように落ちるだろう。



『ロベルト・シューマン』(青土社 1978年6月5日初版発行)より




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