『ロベルト・シューマン』 高橋悠治

目次    


一歩後退二歩前進


シューマン論の計画

現状分析の意味

見とり図

転倒の方法 その一

芸術運動と機関誌 一八三〇年

芸術運動 一九七七年

雑誌メディアの批判

転倒の方法 その二

批評についてのおしえ
(ダビデ同盟偽書)


批評家の誕生

老キャプテン

訳者の注

知的貴族主義

クラインのつぼ

フロレスタンとクレールヒェン

墨テキにこたえて

むすび

    雑誌メディアの批判


芸術運動が空転している状況では、機関誌は真の運動の発展をさまたげる。

雑誌は普通、特集される主題をめぐるいくつかの論文、その他の論文、時評、通信や情報、広告から構成される。時評は一種の情報であり、情報はすでに広告の一形式だ。これこれのことが起こったという情報は、他の情報とまぜあわされて、重点は何が起こったか、と言うよりは、何かが起こったこと、さまざまなことがいつも起こりつづけていること、情報として語るべきことがいつも存在すること、万事はうまくいっていることの報告だ。それらの報告は全体として、文化制度そのもののための広告になっている。

時評も、とりあげる対象がいつも何かあるという前提が、それをどのように批判するかとは無関係に、現状肯定を表現している。対象の記述の方が、批判より重要であり、記述は情報であるだけでなく、批評の対象とするものと、その対象にならなかったものとの競争を原理的にふくむ。

特集の主題は、充分に抽象的であり、多義的な定義が可能だが、文化領域からはずれないもの、あるいは領域内におさまる部分だけ、それでなければ全体の文化論的縮小の可能性によってえらばれる。そこに集められる論文は、その主題をめぐる視点の多様化をしめすものでなければならず、それらを統合する編集意図は、ちがう視点をかさねあわせて全体像をあいまいにし、それぞれの視点を中性化し、無効にする。

各論文について見れば、それは対象の一側面をとりあげて体系的な記述をこころみていることが多い。文化が自己完結の見かけをもった部分的な文化、意識の分裂をもたらす支配階級の文化であれば、文化領域のなかである対象の全体像をとらえること自体が倒錯であり、体系的な記述はもとから不可能であるはずだ。部分的な理解を全体化し、語るべきことと、語ることができないことの区別をきびしくせず、せまい視野にはいるすべてを言ってしまい、理論によって実践を代行し、記述によって変革を代行し、理解によって運動をさまたげる。これが言論の自由の意味だ。ことばのなかで公然化すれば、その実現のための行動は抑圧される。

多くの論文は、学問的に整理された祖述にすぎない。祖述者は原著者の創造を追体験することなく、観照的に理解し、専門的技術として整理し、その知識の独占者としての権威の名で語る。

雑誌というメディアは、文化の検閲機構だ。メディアとして、一冊に綴じられたそれらのページの集成そのものが、根なしの文化の繁栄をほこり、いつも何ごとかが起こり、何かが語られる現状を情報の形で肯定し、三行で書けることを数ページつかって書く式の論文で、有効かもしれない知識をガラクタの山にうずめてしまい、すべてを論じて何もやらず、あらゆる側面を見て重要な一面を見ず、過激な論理は、文章化してコッケイな勇み足に見せ、公然化して事前に無効にし、危険な少数派の意見も補足的にとりあげて安全な位置に誘導する。編集意図はいつもかくされている。方針をはっきり打ちだし、論文制作の過程にも介入し、メディア自体を問題にし、一つの視点、一つの立場をえらぶ編集者は、一面的と非難され、職を追われる。



『ロベルト・シューマン』(青土社 1978年6月5日初版発行)より




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