音楽の言の葉リミックス


(新しい言の葉のコレクションを立ち上げることもあるし、各項目に追加(★)することもある。最新の言の葉は常に冒頭にある。)



★「(ベートーヴェンについて)深い淵に咲く一輪の花。」(リスト)


★ 「ベートーヴェンの音楽は音楽についての音楽だ。」(ニーチェ)


★ 「ベートーヴェンの最初の作品は音楽だった。かれの最後の作品でベートーヴェンは音楽を作った。」(ハンスリック:音楽評論家、音楽学者)


「なぜ私は作曲するか。私の心の中にもっているもの、それを外に出さなければならない。」(ベートーヴェン)


「ピアノを使わないで作曲することが必要です。…われわれが望み感じていることを正確に表現する能力、これは高貴な魂に極めて本質的な要求ですが、少しずつ生まれるのです。」(ベートーヴェン:作曲家)


「型通りでないメロディはハーモニーの付け方で、どんなに自由無碍なものとなるかをスコットランドの歌は教えている。」(ベートーヴェン)


「だれも作者自身が書くように正しくスコアを清書することはできない。」(ベートーヴェン)


「お前の芸術にのみ生きよ! 今、おまえは『耳の』感覚のために大きな制約を受けているが、これがお前にとって、唯一の生き方なのだ。」(ベートーヴェン)


「芸術は長く、生命は短いというが、長いのは生命だけで、芸術は短い。芸術の息吹が神々のところまで高められるにしても、それはわれわれにとって束の間の恩恵にすぎないのだから。」(ベートーヴェン)


「自由と進歩は生活全体におけるのと同様に、芸術においても目標である。たとえわれわれ現代人が先祖ほどどっしりとしていないにしろ、少なくとも文明の洗練は多くのことを押し広げて見せてくれる。」(ベートーヴェン)


「美しいものにするなら、破ることのできない規則などない。」(ベートーヴェン)


「神性に近づき、その輝きを人類の上に撒き散らすことほど美しいことはない。」(ベートーヴェン)





「ほとんどの作曲家がわたしをうんざりさせる。なぜならほとんどの作曲家がうんざりしているからだ。」(サミュエル・バーバー)





「君のピアノの弟子が、正しい指使いを覚え、正しいリズムを取り、楽譜を正確に弾けるようになったら、演奏法だけを心がけたまえ。小さな間違いがあっても、そこで止めさせず、曲が終わってそれを注意したまえ。…練習の過程では指を代わる代わる使わせるのがよい。…指使いが少ないと、いわゆる『玉を転がすような』あるいは『真珠のような』弾き方になってしまう。ときには他の宝石のほうが好ましいこともあるのです。」(ベートーヴェン)


「幸いなことに、驚くべきテクニックの見世物だけでピアニストの名声が作れる時代は過ぎ去っている。これは多くの機械による音楽装置のおかげかもしれない。公衆は機械でやれるものを拒んでより以上に精妙な美しいもの、より以上芸術家の魂に近いものを渇望している。しかしこのことはテクニックの必要が減じたのではなくて、むしろ今日ほどに正しいテクニックが要求されている時代はかつてないのである。」(ヴィルヘルム・バックハウス:ピアニスト、原田光子訳)


「技巧は完全でなくとも、演奏に心がこもっていれば、わたしにとってはいつもよいピアニストである。コンチェルト(この言葉の語源は競争という意味からきているが)はもはやすぎ去ってしまった。解釈上の範囲の中では、納得させるのが本分であって打ち勝つことではない。サーカス芸の特権は数人の曲芸的ピアニストに持たせておくとよい。演奏会場は闘技場ではないが、悲しいことにある有力な演奏から判断しても、そう見えざる得ないのである。/音楽作品は演奏家の思いのままにまかされて演奏されるべきではない。作品は『我』を持っている。それは要求し、技巧の秘術や、感動の神秘さ、表現、速度、換言すれば音楽の生命を提出するのである。」(イーヴ・ナット:ピアニスト、原田光子訳)


「1日練習しなければ私が分かる。2日練習しなければ批評家が分かる。3日練習しなければ聴衆が分かる。」(イグナツ・ヤン・パデレフスキー:ピアニスト)


「私は非常な努力をもってピアノを練習する。誰も練習を無視したりしない。それは動物のようだ。動物の能力は成長する。だが、多くの人は止まってしまう。」(ブゾーニ)


「スピネットかハーピシコードの上に鏡を置けば、しかめっ面を直すことができる。」(フランソワ・クープラン:作曲家)





「(『弦楽四重奏のためのバガテル』の序文より)ひとつの眼差しがひとつの詩篇へと発展し、ひとつの吐息がひとつの大小説へと発展することはある。しかし、大小説をわずかひとつの身振りに閉じこめ、ひとつの喜び全体をただひと息のなかに閉じこめるには、あらゆる個人的な感情の発露を追放するような集中がなければならない。」(シェーンベルク)


「1911年に『弦楽四重奏のためのバガテル』を書きました。2分ほどの非常に短い曲で、おそらく音楽でこれまであった最も短いものでしょう。私はそのさい、12音がすべてあらわれると曲が終わるという感じをもちました。」(ウェーベルン)


「断章にもその理想がある。それは高度の濃縮性だ。ただし思想や、知恵や、心理のではなく、音楽の濃縮性である。すなわち、『展開』に対して、『主調』が、つまり、分節され歌われる何か、一種の語法が、対立していることになるだろう。そこでは《音色》が支配するはずである。ウェーベルンの《小品》群。終止形はない。至上の権威をもって彼は《突然切り上げる》のだ!」(バルト:佐藤信夫訳)


「ウェーベルンの音楽は涙を流すことを強いてくるのだ。ずいぶんまえ、はじめてこの音楽(『交響曲作品二一』)を聞いたときもそうだったし、それ以降もおなじ箇所まで来ると、かならずぼくのなかでなにかがはじける。」(フィリップ・ソレルス:作家、宮林寛訳)


「自然のつくりだす物と芸術作品とのあいだには矛盾は存在せず、それらは同じものであり、私たちが芸術作品とみなし、そのように呼んでいるものは結局、一般的な自然の産物にほかならないのです。」(ウェーベルン)





「動きは生命を意味し、動きの法則とはリズムである。リズムとは動きに隠された生命である…。」(ハーン)


「どんなに辛く、困難であっても、あらゆる仕事や労働はリズムの力で楽にすることができる。この考えは思想家に生命の探求に関する深い視野を開いてくれる。」(ハーン)


「インド人にとって、音楽は娯楽でも楽しみでもありません。それ以上の何かなのです。インド人にとって音楽とは魂の糧なのです。それは魂の最も深い要求に答えるのです。」(ハーン)


「音楽とは宇宙の全体の調和を縮図にしたものです。なぜなら宇宙の調和は音楽それ自体だからで、宇宙の縮図である人間は、同じ調和を示していなければなりません。」(ハーン)


「音はつづき、時は満了する。」(ハズラト・イナーヤト・ハーン、思想家、ヴィーナ奏者)


「音は時間を生き、時間は音を吸収する。」(ハーン)


「神は時間のなかにはいない。かれは沈黙にいる。音は時間の世界の一部である。」(ハーン)


「リズムは音なしには存在しないし、音はリズムなしに存在しない。それらは独立した存在であるが、同じ時間と空間に存在する。」(ハーン)





「合唱協会のブラームス・コンサート。わたしの非音楽性の根本は、音楽を関連のまとまりとして聞けないということだ。ただここかしこにというふうに印象を受けるのだが、それが音楽的であることは稀だ。こうして聞いた音楽は、当然わたしのまわりに壁をめぐらす。わたしが音楽から受ける唯一の持続的影響は、こうして閉じこめられて、自由とはおよそ別物だということである。」(フランツ・カフカ:作家、吉田仙太郎訳)


「カフカの関心をひくものは、常におのれ自身の破棄と関連している。強度の高い純粋な音のマチエール、非領域化した音楽的な音、意味作用・構成・歌・ことばを欠いた叫び声、まだあまりにも意味作用的な連鎖の束縛から脱するための、断絶状態の音響性である。音において重要なのは強度だけである。それは一般的には単調で、常に無意味な強度である。(註)」(ジル・ドゥルーズ/フェリックス・ガタリ:哲学者、思想家、宇波彰/岩田行一訳)


(註:たとえば、『ある犬の研究』では音楽を奏でる犬たちは吠えも、鳴きもせず無から音楽を生みだす。『プリマドンナのヨゼフィーネあるいはネズミ族』でヨゼフィーネは他のネズミよりも下手に鳴いて感動を誘う。『変身』のグレゴールの妹は音楽家であるが、彼女はヴァイオリンを「ぴいぴい」鳴らすことしかできない。)




「フランス音楽にたいして望みうる最良の方向性、それは現在学校でやっている和声学の勉強が廃止されることです。」(ドビュッシー)


「芸術とは嘘のなかでも最も美しい嘘である。」(ドビュッシー)


「(バッハのト長調のヴァイオリン協奏曲について)ここには、あの『音楽のアラベスク』というよりも、あらゆる芸術様式の根底をなす『装飾』の原理を、ほとんど無垢の状態で見いだすことができる。」(ドビュッシー)


「音楽が実在しないときに限って、かならず音楽は『こむずかしい』ものになる。」(ドビュッシー)


「一般法則として、芸術において形あるいは感情を複雑にしようと思っている人は、いいたいことが自分でもわかっていないのだ。」(ドビュッシー)


「クロード・ドビュッシー、かれは音楽をつくることがなければ、その存在理由はない。」(ドビュッシー)


「(ドビュッシーについて)夢みる偉大な画家」(ロマン・ロラン)


「ドビュッシーは常にモーツァルト以降のぼくの好みの作曲家であり続けている。かれの音楽なしになすべきことはない。それは私の酸素だ。」(プーランク)


「ストラヴィンスキーはクロード・ドビュッシーの日の光を恐れた。」(ヴァージル・トムソン:作曲家)


「(『ペレアスとメリザンド』の初演をきいて)それが音楽なら、音楽が何かを決して理解できない。」(ガブリエル・フォーレ:作曲家)


「それ(ドビュッシーの音楽)は針の端の音楽だ。」(セザール・フランク:作曲家)


「(『牧神の午後への前奏曲』について)それは美しい日没のようで、それを見るかのように次第に消えていく。」(ブゾーニ)





「私の音楽は繊細なニュアンスをもつ人間の語りを芸術的に再現するものとならなければならない。」(ムソルグスキー)


「(ムソルグスキーについて)かれの本質はその見事な質にあるのではない。つまり、かれは粗野なもの、非政治的なもの、不快なものを好むのだ。」(チャイコフスキー:作曲家)


「ムソルグスキーは天才的な瞬間をもつアマチュアである。」(アーネスト・ニューマン)


「ムソルグスキーの欠点を修正することは簡単なことだろう。だがそれをしてしまえば、もはやムソルグスキーではなくなってしまう。」(アナトール・リャードフ:作曲家)


「(ムソルグスキーの『子供の部屋』について)これ以上心のこもった深い調子で、われわれの内に潜む最良のものに語りかけた人はいない。」(ドビュッシー)





「今すぐに音の享楽を欲して、退屈な修業を拒絶する…。修業は享楽をさまたげる…。」(ロラン・バルト:思想家、文学者、佐藤信夫訳)


「ある曲が音として完成された姿とは、その曲について想像されるだけで決して実歳に達成されることのないものだが、その完全な姿としての曲が、実際の演奏に際して一片の幻想として作用する。」(バルト:佐藤訳)


「音楽において、正しいテンポ(私のうちなる要求に答えるテンポ)は真の熱狂を生みだす。」(バルト:下澤和義訳)


「『私の好きなもの』:…グレン・グールド…ヘンデル…ピアノ…ロマン派音楽のいっさい…。
『私の好きでないもの』:…アルチュール・ルービンシュタイン…サティ、バルトーク、ヴィヴァルディ…児童合唱団、ショパンの協奏曲、ブルゴーニュのブランスル、ルネッサンス期のダンスリー、オルガン、M-A・シャンパルティエ、そのトランペットとティンパニー…。(註)」(バルト:佐藤訳)


(註 :「《私の身体とあなたの身体は同じではない》…無政府的な泡立ち…威嚇作用…。」)




「私は多くの偉大な音楽家や一握りの天才を知っている。エネスコは正しく天才だった。」(レオポルド・ストコフスキー:指揮者)


「エネスコはモーツァルト以来の最も偉大な現象である。」(カザルス)


「エネスコを尊敬しない人を知らない。かれはそうした天才であり重要な一人である。」(ブーランジェ)


「エネスコは私が他の人を判断する絶対的なものとして常にある。音楽を演奏する度に、最も霊感をもつ人物であり、かつて私が知る最も偉大な音楽家の存在を感じている。」(メニューイン)


「かれ(エネスコ)の指揮法は拍子を取るのではなく、音楽を愛撫するものだった。かれはやさしく優美に腕を動かした。正に子供を腕に抱くマドンナのようにオーケストラを抱きしめたのだ。」(セルジウ・コミッショーナ)


「(エネスコは)私がかつてきいた2、3の偉大の指揮者の1人で…最小限の仕草で…常にコミュニケーション(があった)。」(ジョン・アミス)


「音楽は演奏全体に雰囲気だけでなく大切な心理的な部分も与えます。ことばと同じく俳優の沈黙は潜在的なもので、音楽に反映させることができるのです。」(エネスコ)


「ポリフォニーは私の音楽言語の本質的な原理です。」(ジョルジュ・エネスコ:ヴァイオリニスト、作曲家、指揮者、ピアニスト)





「食べる人は穴(ホール)を満たす。/ダンサーは空間を食べる。/空間は時間を食べる。/音は沈黙を食べる。」(ソンタグ)


「私はそれ(スプーン)を、ナイフやフォークの音を和らげるメロディアスなものと考える。それは支配することも、それ自体を強要したりもしない。」(ケージが引用したサティのことば)


「スプーンに何が起きた? スプーンも音を立てているのでは? /とてもやわらかなノイズ。/そして音楽。音楽は2つのスプーンで作られる(2つのフォーク、2つのナイフではない)。/スプーンの音楽。」(ソンタグ)


※ソンタグのジョン・ケージ、マース・カニングハム、ジャスパー・ジョーンズに関するエッセイ"In Memory of Their Feelings"より。タイトルはジョーンズの絵(1961)に基づくもので、彩色されたキャンバスに針がねでフォークの上にスプーンが重ねられて吊り下げられている。





「〈聞く〉は生理学的現象である。〈聴く〉は心理学的行為である。」(ロラン・バルト:思想家、文学者)


「われわれはまだ耳をもっているだろうか。私は耳にすぎず、それ以上の何ものでもない。」(フリードリヒ・ニーチェ:哲学者)


「砂や頁岩を洗い、流木や防波堤に砕ける水の無限の変奏を捉えるためには、思考速度を落とさなければならない。それぞれのしずくはどれも違った音高で響き、尽きることなく供給されるホワイトノイズに、波がそれぞれ異なったフィルターをかける。断続的な音もあれば、連続的な音もある。海では、両者が原始の調和の中に融和している。」(マリー・シェーファー:作曲家、サウンドスケープの創始者、鳥越けい子他訳)


「ケージの作品を〈聴く〉ときに、私は次々に1つ1つの音を聴いている。連辞的展開においてではなく、生の、垂直的な意味形成性において…。」(バルト)


「音楽上の省察力を涵養して、外見上は無秩序のようでもそこには隠された秩序があり、和声的なコントロールが欠如しているようでもそこに暗黙の和声的色彩があり、リズムがないようでもそこに無数のリズムの積み重ねがあり、それらが溶け合って大きなリズムや持続のブロックになっていくのが解るようになるのです。」(オリヴィエ・メシアン:作曲家、戸田邦雄訳)


「聞こえない人は聞こえないを聴く。見えない人は見えないを見る。」(スーザン・ソンタグ:作家・評論家)


「感覚−見つめるのを見ることはできる。きき入り、感じるのをきくことができるか?」(オクタビオ・パス:詩人・評論家)





「ありふれた楽器からききなれない音をつくる。楽器とその発音のモードをきりはなす。こうして楽器と演奏者の関係は変化する。」(悠治)


「ヴァイオリン奏者がある音の組み合わせにたいして適切な指の位置をしらなければ、それは問題だ。作曲家が誤った指の位置を想像したなら、それは新たな音の探求のはじまりであり、実践的なやり方で音を実現する道を探ることである。」(ヒョーシン)


「一人でもつくれるメロディを二人で分けてやる。〜仕事を分けあうということです。」(悠治)


「まずしいものの芸術。手にある最小の材料でできているもの。音楽に必要なものは、わずかだ。よけいなものをはぎとり、そこにあるものではなく、ないものから音楽を定義する。」(高橋悠治)


「『変奏曲』を書くのに2年かかったが、それは12分の長さしかない。もちろん変奏曲に主題が不可欠なことは知っていた。だからこそ主題を書かくことを避け、代わりに2つの音、つまり1つの音程を書いた。通常、主題ははっきりわかる変奏によって『展開』される。だが展開しない決心をし、5つの大きなセクションで、その音程にもとづいて連続する変奏を書いた。」(ヒョーシン・ナ)


「五音は人の耳をして聾ならしむ。」(老子)





「ノイズの芸術」(ルイジ・ルッソロ:未来主義の思想家、作曲家、画家)


「緑に輝くミルク:冷たいミルクの入った大きなボウルにティー・スプーン2、3杯のはちみつ、たくさんのブラック・グレープと赤ラディシュを入れる。ボウルを緑の〈ディスルーチェ〉(註1)で照らして飲む。」(シニョリーナ・ゲルマーナ・コロンボ:未来主義者)


「古代の生活はすべてが沈黙だった。19世紀に機械の発明と共にノイズが生まれた。ノイズが征服し、人間の感覚を越えて君臨した。」(ルッソロ)


「不滅の鱒(註2):材料は叩いたナッツと鱒をオリーヴ・オイルで揚げる。それから鱒を薄くスライスした子牛のレバーに包む。」(フィリア:未来主義者、エアロペインター)


「われわれは制限された音の枠組みを打破し、無限の多様なノイズを征服しなければならない。」(ルッソロ)


「興奮した豚:皮を剥いたまるごとのサラミ、それを多量のオーデコロンを混ぜた熱いブラック・コーヒーの入った皿に立てる。」(フィリア)


「(ベートーヴェンの)『エロイカ』や『田園』より、電車のノイズ、自動車のノイズ、運び台や喧嘩、群衆のノイズを、われわれの思想に結びつけることに大きな喜びがある。」(ルッソロ)


「びっくりバナナ:皮を剥いたバナナの中身をくり貫き、そこに刻んだ鳥肉を入れる。バターをひいた鍋に置き、火にかけると、徐々に肉汁が出てくるだろう。野菜を添えて出す。」(ピッチネッリ:未来主義者、聖なる味覚の料理人)


(註1:食べ物によって光の補足的な性質を示す用語。たとえば、チョコレート・アイスクリームのディスルーチェやホット・オレンジのディスルーチェなど。)
(註2:欧米では、鱒には「愚か」「醜い」の意味がある。子牛には聖書「ルカ伝」に由来する「歓待の用意をする」という意味がある。)


※未来派はノイズの芸術であるが、かれらの思想は料理に及んだ。それらは視覚的な要素や象徴的な意味などに基づく実験料理だった。コクトーはいった。「感覚−耳はある種の音楽をきいても我慢できる。それを鼻に移してみよう。それはきっと僕たちを逃げ出させる。」 でも一度は行ってみたい過去の未来派レストラン。




「音楽、それは私のすべてです。常に私を占領しているものです。それは生きている理由であり、隠れ場であり、希望です。」(アンドレ・ジョリヴェ:作曲家)


「私は、たとえば呪文や魔術を源泉とし、人間の集団的宗教性が表現されている、そんな音楽を作品に取り入れるよう努力しています。」(ジョリヴェ)





「古池や蛙飛びこむ水の音」(芭蕉)


「いかめしき音や霰の檜木笠」(芭蕉)


「綿弓や琵琶になぐさむ竹の奥」(芭蕉)


「琵琶行(びわこう)の夜や三味線の音霧(あられ)」(芭蕉)


「蓑虫や音をききに来よ草の庵」(芭蕉)


「はてもなく瀬のなる音や秋雨入り」(史邦)


「すり鉢の音も師走の雪気かな」(智月)


「秋たけてむし音深き枯尾ばな」(李由)


「よもすがら音なき雨や種俵」(蕪村)


「うは風に音なき麦をまくらもと」(蕪村)


「鴛や池に音なき樫の雨」(蕪村)


「草霞み水に音なき日暮れかな」(蕪村)


「ゆく春や歌もきこえず宇佐の宮」(蕪村)


「桐火桶(きりひおけ)無絃の琴(きん)の撫でごころ」(蕪村)


※音空間の広がりや皮膚感覚できく音、とぎすまされた無音の音にまつわる句を集めた。「〈聞く〉は生理学的な現象である。〈聴く〉は心理学的行為である。」(バルト)




「かつて私はショパン主義者で、それからワーグナー主義者になった。だが今はスクリャービン主義者だ。」(アレクサンドル・スクリャービン:作曲家)


「女性を所有するように、世界を所有したいと思っている。」(スクリャービン)


「(「法悦の詩」について)これまでに書かれた最も品位を乱す音楽。」(作者不明)





「現代の作曲家は真実の上に作品を打ち立てる。」(クラウディオ・モンテヴェルディ:作曲家)


「私は偶然で書いたりしない。」(モンテヴェルディ)





「シェーンベルクの技術と独創性は驚くべきものであり、かれの影響はかつてもいまもはかりしれず大きい。シェーンベルクの弱点はわたしにとって他の多くの者の長所よりも好ましい。シェーンベルク抜きで音楽史を考えることはできない。ブルジョワジーの衰退と没落、たしかにそうにちがいない。だがなんとあかあかと輝く落日であることか!」(ハンス・アイスラー:作曲家、浅野利昭、野村美紀子訳)


「(シェーンベルクの『浄夜』について)それはインクが乾かないうちにトリスタンのスコアをなぞったように響く。」(引用者名なし)


「(十二音技法について)今後、100年のドイツ音楽の優位を保証する原理が明らかになった。」(シェーンベルク)


「ここ(バルセロナ)で多くの友人ができた。かれらと一緒にテニスをしたが、私の作品をきいていない。私の恐るべき不協和音をきいたら、かれらはどう思うだろうか?」(シェーンベルク)


「なぜシェーンベルクの音楽は分かりにくいか?」(アルバン・ベルク、作曲家)


「かれの時代が来るだろう。」(ベルク)


「情緒に関して、シェーンベルクはまだ一九世紀の一部だった。」(コープランド)


「(シェーンベルクについて)保守的革命家」(ヴィリー・ライヒ、音楽学者)


「ハ長調で書かれるべき良い音楽はまだたくさんある。」(シェーンベルク)





「音楽は、予言的であるが故に告知する。音楽は、いつの時代にもその原理のうちに、来るべき時代の告知を含んでいたのだ。」(ジャック・アタリ:評論家、経済学者、政治家、金塚貞文訳)


「音楽はまずしい人のパルナッソスである。」(ラルフ・ウォルド・エマーソン:思想家、詩人)


「現実を模倣することができないゆえに、音楽は崇高な芸術である。」(ロッシーニ)


「踊ることが沈黙の音楽であるように、音楽は…目に見えない踊りだ。」(J・パウル)


「数学は心の音楽であり、音楽は魂の数学である。」(作者不明)


「(音楽は)時間の幾何学。」(アルチュール・オネゲル:作曲家)


「音楽は人生の憂うつな夜の月明かりだ。」(ジャン・パウル:作家)


「音楽は音の結晶である。」(ヘンリー・デヴィッド・ソロー:作家)


「音楽とは聴覚に関わる自然法則である。」(アントン・ウェーベルン:作曲家)


「音楽は光学が光の幾何学であるように、音の算術である。」(クロード・ドビュッシー:作曲家)





「ピアノ曲〔1962〕:ピアノ(の上に)に花瓶を」(ジョージ・ブレクト:フルクサス・メンバー、アーティスト)


「フルート・ソロ〔1962〕:第1曲 (楽器を)分解せよ 第2曲 組み立てよ」(ブレクト)


「3つのピアノ曲〔1962〕:第1曲 立っている 第2曲 座っている 第3曲 歩いている」(ブレクト)


「弦楽四重奏曲〔1962〕:手を振り回す」(ブレクト)


「ヴァイオリン、ヴィオラ、チェロあるいはコントラバスのためのソロ〔1962〕:(楽器を)研く〔註〕」(ブレクト)


「木管楽器のためのソロ〔1962〕:楽器を下に置け」(ブレクト)


「サクソフォンのためのソロ〔1962〕:トランペット(で)」(ブレクト)


(註:一枚の写真。壁のはげ落ちた部屋にぼろぼろのピアノ。ブレクトが椅子に座って布切れでヴァイオリンを研いている。前にもう一つ椅子。そこに研くための液体がいった瓶が置かれている。ブレクトが妙に小奇麗なのが目につく。特に靴。ヴァイオリン、ヴィオラ、チェロあるいはコントラバスのためのソロの実演。)




「フルートは道徳的効果をもつ楽器ではない。あまりに扇動的だ。」(アリストテレス:哲学者)


「ただ吹くだけでフルートを演奏することはできない。たくさんの指を使わなければならない。」(ゲーテ:思想家)


「クラリネット、それは深々とした低音域で幽霊のように鳴らすことができるが、音が高くなれば花開くような澄んだハーモニーできらめくこともできる。」(トーマス・マン:作家)





「現代技術のコードを切りかえたDJカルチャーのアーティストたちは、ポップミュージック界最初のアヴァンギャルドだ。」(ウルフ・ポーシャルト:DJ・評論家、原克訳)


「ヒップホップ革命の根本とは何か? それは、ヒップポップを生み出したのが楽器じゃなくて、二台の再生機材をつなぎ合わせただけのものだったってことなんだ。」(ポーシャルト、原克訳)


「書くといっても、最高の出来栄えは偶然から生まれる場合がほとんどだ。カット・アップ手法がはっきりするまでは−結局、書くことは断片を集めること−偶然を自発的に生みだす方法が分からなかっただけだ。自発性を無理やり作りだすわけにはいかない。計算できるものではない。だがハサミの助けを借りれば、使いこなせる。」(ウィリアム・バロウズ:作家)


「すべての芸術家は意識的であろうと無意識であろうとリミックスを使う。DJのパラダイム、かれらは音楽を再構成し、クラブやギグ、ラジオでダンスを振り付けする。DJは二一世紀の新しい美学を作りだす鍵となる一つだ。」(サイモン・ウォリス:キュレーター)


「マルセル・デュシャンは自分のアートを作るのに他人の作品を使った。〜これ(ら)は初期のリミックスとサンプリングの例だ。」(デヴィッド・トゥープ:ミュージシャン、評論家)





「『沈黙』は音の壁にあいた穴だ。『音』は沈黙の表面に浮かぶ泡だ。」(トリン・T・ミンハ:作家、評論家、映像作家)


「私は表現手段として進んで沈黙を使っている。それはフレーズの抒情的な価値を際立たさせる唯一の手段なのです。」(ドビュッシー)


「ドビュッシーの沈黙は宇宙の生命の騒動をひきだし、めだたせる。」(ジャンケレヴィッチ:思想家、伊沢紀雄訳)


「休止は常によく響く。」(シェーンベルク)


「夜と沈黙−私を最も魅了する2つ。」(ベンジャミン・ブリテン:作曲家)


「私のあらゆるコンサートに音がなかった。完全な沈黙……人々は心のなかに自分の音楽を作り出さなければならなかったのです。」(オノ・ヨーコ、アーティスト)





「〔マセダの熱帯の時間論について〕一年という時間をとってみても、星の一年があり−たとえば太陽ですね。それから月の一ヶ月があり、木や花それぞれの時間があり、動物の時間があるわけです。違う時間をもちながら、一緒に、ある時間を生きているという関係のあり方です。」(高橋悠治)


「日常生活のなかにはいろいろなレヴェルで多くの層が同時進行している。音楽と日常のあいだには並行するものがある。」(ミュシャ・メンゲルベルク:フリー・ミュージックのピアニスト)


「人や動物、植物、虫などで混みあった場所のように、すべては不均衡に共存し、バランスを揺れ動いている。」(ヒョーシン・ナ:作曲家)


「土着の文化概念−無限、自然とのバランス、時間などの要素−を音楽創造に応用し、それらの概念を音の別の秩序に移すことは、音楽調査のなかでは無視されている面だ。」(ホセ・マセダ:作曲家、音楽学者、高橋悠治訳)





「聴衆にとって名演奏家が発揮する幻惑とは、サーカスの妙技に群衆を惹きつける魅力と似たところがある。」(ドビュッシー)


「ゆっくり演奏するより速く演奏するほうがやさしい。」(モーツァルト)


「あなたが演奏するとき、きいている人には無関心だ。いつも先生にきかせるように演奏する。」(コダーイ)


「偉大な音楽は演奏される以上のものがある。」(アルトゥール・シュナーベル:ピアニスト)


「最大の目的は作曲家が姿を消すとき演奏家も姿を消すことです。つまり作品だけがそこに残るのです。」(ナディア・ブーランジェ:教育者、ピアニスト)





「不協和音は派手に演奏され、協和音は柔らかく演奏される。なぜなら、前者は情緒を刺激し、苛立たせ、一方、後者はそれを静めるのだ。」(カール・フィリップ・エマニュエル・バッハ:作曲家)


「〔カール・フィリップ・エマニュエル・〕バッハは父であり、われわれは子供だ。」(ヨーゼフ・ハイドン:作曲家)


「私はわずかだがエマニュエル・バッハが鍵盤楽器のために書いた作品を持っている。そのいくつかは今なお真の芸術家だけがもちうる何かがある。」(ベートーヴェン)





「女とギター、どう扱うかを知らなければならない。」(スペインのことわざ)


「ギタリストたちが知らずしらずに生みだすハーモニックの効果が、驚くべき自然芸術の一つをあらわすのだ。」(マヌエル・デ・ファリャ:作曲家)





「ベートーヴェン以降、交響曲がいらないのは私にとって既成事実だ。」(ドビュッシー)


「1つの交響曲は世界のようであらなければならない。それはあらゆるものを抱きしめる。」(マーラー)


「交響曲は役者に代わって楽器のために書かれた舞台だ。」(コリン・ウィルソン:作家)





「悪魔はヴァイオリンの弓の上にいる。」(シェイクスピア:作家)


「(コントラバス)ルージュをひいた危険なエレファント」(チャールズ・V・スタンフォード:作曲家)


「チェロは美しい女性のようです。彼女は老けることなく、時と共にますます若く、スレンダーに、しなやかに、優美になるのです。」(パブロ・カザルス:チェリスト)


「(ヴィオラ)両性具有の楽器」(サー・トーマス・ビーチャム:指揮者)


「長くむせび泣く秋のヴァイオリン 単調なけだるさがぼくの心を傷つける。」(ポール・ヴァレリー:作家)





「音楽は私の自画像です。」(フランシス・プーランク:作曲家)


「私の音楽を分析するな、愛せよ!」(プーランク)





「(なぜ作曲しないかをたづねられ)メロディなしにどうして作曲できよう。」(セルゲイ・ラフマニノフ:作曲家、ピアニスト)


「(ラフマニノフについて)しかめっ面をしない唯一のピアニスト。」(ストラヴィンスキー)


「指揮するとき、車を運転しているような感覚を経験する−内なる静けさが、思い通りに音楽的あるいは機械的に、私自身と力に完全な制御を与えてくれる。」(ラフマニノフ)


「世界の茂みのような場所を彷徨う亡霊のように感じている。昔の書法を捉まえることができず、新しいものも得ることができない。情熱をもって今日の音楽の流儀を感じてみようとしてみたが、それは私にはやってこなかった。」(ラフマニノフ)





「ポップ・ミュージックは今日のクラシック音楽だ。」(ポール・マッカートニー:ミュージシャン)


「もしすべての時代の天才だけに囚われたなら、人生はおそろしいものになるだろう。ポップ・ミュージックは日々のハンバーガーだ。それは日々の生活の音楽で、つまり「期待」(シェーンベルク)を君の歯から払いのけることはできない。お手軽にランチを取りたければキジの肉を食べたり、1935年のワインを飲んだりはしない。」(ブレーズ)


「ビートルズのあるレコードはヘンツェのあるオペラより簡潔かつ巧みだ。」(ブレーズ)


「私はクラシック音楽と軽音楽の違いを知らない。あるのは良い音楽か悪い音楽かだ。」(クルト・ワイル:作曲家)





「私はとても古い時代に とても若くこの世にあらわれた。」(エリック・サティ:作曲家)


「若い頃50になれば分かるといわれた。今50、何も分からない。」(サティ)


「芸術家は人生を設計する。ここに私の一日の正確な時間表がある。午前7時18分起床、10時23分から11時47分まで創作、午後12時11分昼食、12時14分テーブルから離れる。」(サティ)


「私は意味のない音を書いたりしない。」(サティ)


「サティは崇高さに取りつかれた人々から作品を守るために滑稽な標題をつけた。」(コクトー)


「エリック・サティ、かれの友人クロード・ドビュッシーを喜ばせるために今世紀に現われた、優しい中世の音楽家。」(ドビュッシー)





「良い音楽は何かに似ている。それは作曲家だ。」(コクトー)


「抽象的な音楽などというものはない。あるのは良い音楽か悪い音楽かだ。それは何か意味があり、プログラムをもつ音楽だ。」(R・シュトラウス)


「ベートーヴェンではじまる現代の音楽は内なるプログラムをもたずに存在することはない。だが、その音楽以前の経験が最初にきき手に報告されなければならないなら、音楽にいかなる価値もない。ききてはプログラムなしに自分自身の態度を決定すべきなのだ。もう一度いおう。止めろ −あらゆるプログラムを……説明できない神秘はつねに残される−それは作り手にとってさえそうなのだ」。(マーラー)





「ピアノはあらゆる楽器のなかでもっとも重要である。その発明は印刷技術が詩人にもたらしたのと同じくらいのものを音楽にもたらした。」(ジョージ・バナード・ショー:作家・音楽評論家)


「バッハはピアノ演奏の基礎であり、リストがその頂点を極めた。この二人がベートーヴェンを可能にする。」(フェルッチョ・ブゾーニ:ピアニスト、作曲家)


「ピアノを弾く−人間の指がダンスする。」(ルードヴィヒ・ヴィトゲンシュタイン:哲学者、丘沢静也訳)


「箱のなかのハープ」(リー・ハント:評論家、詩人)





「音楽に楽派などというものはない。今日の音楽家の主な仕事はどんな外部の影響も避けることだ。」(クロード・ドビュッシー:作曲家)


「音楽の歴史的ランドマークを無視することはできない。無視したとしても歴史が無視してくれないのだ。この戦いは聴衆の喝采を獲得するよりも大きなものだ。音楽のジレンマは文明のジレンマである。われわれは生き残るために戦わなければならない。」(ピエール・ブレーズ:指揮者・作曲家)


「未来に大きな足跡を残したいなら、過去の大きな足跡を知らなければならない。」(ルーカス・フォス:作曲家・演奏家)


「良い作曲家はまねしたりしない。盗むのだ。」(ストラヴィンスキー)





「オーケストレーションを学びたければ、ワーグナーのスコアではなく、(ビゼーの)『カルメン』のスコアを勉強しなさい。」(リヒャルト・シュトラウス:作曲家)


クラフト:「よい楽器法とは何でしょう?」
ストラヴィンスキー:「楽器法がそれと気づかれないときです。」


「オーケストラのなかに空気がなければなりません。」(ジョルジュ・ビゼー:作曲家)





「芸術作品が時代に先駆けてあらわれるとき、時代は芸術作品の後ろでもたもたしている。」(ジャン・コクトー:作家・画家)


「進歩的な作曲家は進歩的なききてのためだけに作曲することができる。」(シェーンベルク:作曲家)


「かれ(シェーンベルク)は若く、おそらく正しい。私の耳はあまり敏感でないのかもしれない。」(グスタフ・マーラー:作曲家・指揮者)


「新しい音楽なんてない。新しい音楽家がいるだけだ。」(ポール・デュカス:作曲家)


「現代音楽を理解する鍵はくり返しきくことにある。響きに親しむまできかなければならない。」(ロジャー・セッションズ:作曲家)


「第1に作曲する人、第2に演奏する人、第3にきく人。かれらが互いにすべきことは何か?」(ジョン・ケージ)


「私はときどき現代の作曲家の作品を演奏する。2つ理由がある。1つは作曲家にこれ以上書かないよう思いとどまらせるためであり、もう一つは私がどれほどベートーヴェンを評価しているかを思い出させるためだ。」(ヤシャ・ハイフェッツ:ヴァイオリニスト)


「新しい形式や理論のために努力しない。新しい聴衆のために努力する。」(クルト・ワイル:作曲家)





「ある人物が美徳を欠いていた。かれはどんな音楽をすればよいか?」(孔子:思想家)


「私は人間をとても愛しています。音楽を演奏するのはその愛に近づくことなのです。」(カルロ・マリア・ジュリーニ:指揮者)


「節制や不屈の精神、自由、荘厳といった理念を理解することがなければ、決して音楽家にはなれない。」(プラトン:思想家)


「多くの名のある音楽家たちのなかに、どれほど目に見えない病が潜んでいることか!」(ゾルタン・コダーイ:作曲家)


「この3つが曲がりくねった道をいく。荷車、船、それに音楽家。」(インドのことわざ)


「現在、作曲家は仲介となる演奏者なしに、直接音楽を生みだせるようになった。」(ジョン・ケージ:作曲家・演奏家・詩人・キノコ学者)





「音楽の魅力はメロディにある。生みだすのが最も難しいのがメロディである。」(ヨーゼフ・ハイドン)


「どんな音の体系でも生き残れるのがメロディだ。」(イゴール・ストラヴィンスキー:作曲家)


「メロディは単に口ずさめるようなものではない。」(アーロン・コープランド:作曲家)


「メロディは正に音楽の本質です。優れたメロディストを思うとき、私は立派な競走馬を思います。対位法主義者はもはや過去の馬です。」(ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルト:作曲家)


「メロディ、常にメロディ……それはただ一つのものであり、芸術の神秘でもある。」(シャルル・グノー:作曲家)


「メロディ! ディレッタントのスローガン!」(ロベルト・シューマン:作曲家)





「即興? きく価値のあるものをやってる奴は誰でも自分がやっていることを分かってるんだ。前の日、ビートがはじまる前に準備するんじゃなく、その時に目的をもってやらなきゃいけないのさ。」(デューク・エリントン:ジャズ・プレーヤー、ピアニスト、指揮者)


「私の演奏は自発的なもので、様式ではない。フレーズが硬直するとき様式が生じているのだ。」(オーネット・コールマン:ジャズ・プレーヤー、サックス奏者、作曲家)


「即興は思いつきではなく、むしろ思いつづけた願いや夢、そして魂の清らかさなのです。」(ユーディ・メニューイン:ヴァイオリニスト、指揮者)





「音楽のことばはあらゆる世代、国に共通している。音楽は心で知るものであり、誰でも理解することができる。」(ジョアッキーノ・ロッシーニ:作曲家)


「あらゆる世界が私のことばを理解するのだ。」(ヨーゼフ・ハイドン:作曲家)


「音のことばはあらゆる人種に等しくあり、メロディは音楽家がすべての心に語りかける絶対的なことばなのだ。」(リヒャルト・ワーグナー:作曲家)


「民謡は国を結びつけ、さらにあらゆる国、あらゆる人々をひとつの精神、ひとつの喜び、ひとつの楽園へと結びつける。」(レオシュ・ヤナーチェク:作曲家)


「われわれは音楽が『普遍的な言語』という誤謬を注意深く避ける必要がある。世界にはことばを話す集団があるのと同じだけ、音楽をもった集団がいる。その多くは互いに理解することはない。」(チャールズ・シーガー:音楽学者)



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