2008年8月 目次



オトメンと指を差されて(2)          大久保ゆう
藁――翠の石室46                藤井貞和
夏バテ冷蔵庫                   仲宗根浩
13のレクイエム ダイナ・ワシントン(2)   浜野サトル
メキシコ便り(11)               金野広美
製本、かい摘みましては(41)          四釜裕子
布石の8月                    富岡三智
さだこと千羽鶴                  佐藤真紀
しもた屋之噺(80)               杉山洋一
微速 後退 記憶                 高橋悠治


  


オトメンと指を差されて(2)  大久保ゆう





「ブランド物」――ああ何という甘美な言葉。そして世の女性はこの言葉にいつも惑わされる――と思ったら大間違いでオトメンも同じように魅惑されその虜になります。何言ってるんですか当たり前じゃないですか。

女の子がブランド物にきゃあきゃあ言うのが、とっても楽しそうで嬉しそうで、うらやましくてしょうがないんだけど、男の子とブランド物は縁遠い世界。なかなかそういうお店はそこかしこにないし、あったとしても若者が気軽に行けるような場所じゃなかったり。

しかし近ごろ、その現状を打ち破ろうとする動きがあるというではありませんか! それこそ我らオトメンが待ち望んでいたもの――「メンズ館」なのです!

つまり、地下から一番上の階まで全部メンズもので占められるという何という楽園、何というユートピア、何というテーマパークでしょう!(違います) もうそんなものが存在すると聞いただけで鼻血が出てしまいますね!

このブランド志向のメンズ館、2003年の新宿伊勢丹のリモデルに始まって、2006年には名古屋の名鉄、そして2008年、ついに大阪に阪急メンズ館が登場! 各地にオトメンの聖地が生まれつつあるのです!

ですが、女の子のブランド物というと、結構すぐ思いつきますよね。服のほかには、化粧品だとかバッグだとか、ジュエリーもそうですし、靴とかもそうです。でも、もちろん男の子が化粧品とかバッグだとか、ジュエリーを持つわけではありません。(てゆうかたぶん欲しがりません)

じゃあ、いったいどんなものをブランド物というのでしょう? いちばんわかりやすいのは、きっと「スーツ」でしょう。アルマーニやダンヒルと言えば、かなりの人が知っているのではないかと思います。エルメネジルド・ゼニアあたりになると、ちょっと難しいかもしれません。

いつかブランドスーツを格好良く着こなす中年になるんだ! という気持ちが私にもあるのですが、そんなふうに男性向けブランドは「大人」の雰囲気が強いので、女性のブランド物とは違って、若い頃にたくさん持つ、というイメージはまだありません。他にブランド物を挙げてみると大人っぽいものが多いのですが、スーツは終着点としても、小物系のブランド物から始めて徐々にゴールへ近づいていくものでもあります。

たとえば、懐中時計なんかは若いうちでもアクセントとして、あるいは背伸びして持てますよね。例のメンズ館には、英国のブランドであるところのダルビーの懐中時計を取り扱っていたりして、もはや垂涎の何とか、だらしなく言うとヨダレが出ちゃいます。

あるいは名刺入れでも灰皿でも、日常で必要な小物をブランド物にしてみる、っていうのはポイント高いです!(オトメン的に) また、小物のうちでもかなりレベルが高いのは「カフス」ですッ! カッターシャツの袖を止めるためにつけるカフリンクス、一種のボタンのことですね。

今ではカッターシャツはそのまま袖にボタンがつきっぱなしですが、昔はカラーもカフスも本来取り外せるもので、今でもそこが紳士のお洒落のポイントでもあるのです。特に銀のカフスなんかあれですよ、見た瞬間に目が奪われて、欲しいぃぃぃぃぃッぅうわふへぉそ!! なんて勝手に興奮してしまいます。(頑張って声には出しません。妄想にとどめておきましょう。でもたぶん外から見たらニヤニヤしてるので間違いなく気持ち悪いと思います。)

ええと、つまり、普通の百貨店では一階に女性向けとしてジュエリーや時計があったりするわけですが、その代わり、メンズ館にはカフスや懐中時計があったりするわけですね。もうたまらんですよこれは。なかなか二階とか上がれないですよ。よくできてるなあ百貨店の構造は。

他にも嗜好品として葉巻なんかもあるのですが、そういうブランド物への欲望をよくわかってるオトメンを恋人にしたら、じゃあよくわかってるからワタシ(女の子)にブランド物をしっかり買ってくれるのでは! なんて期待しちゃう人がいるかもしれないのですがいやいやそんなわけないじゃないですか自分だって欲しいんだから他人に買うお金があったらそれで自分のためのブランド物買いますよっていうかたとえばブランド好きの友だちの女の子がその子のお金で自分にブランド物買ってくれるかどうか考えたらそんなことないってすぐわかりますよね。うん。残念でした。

なので同じ価値を共有しているからといって男女として仲良くやっていけるかどうかはまた別なのです。友だちにはなれるかもしれないんですが。ってゆうかだいたい友だちになれます。むしろ女の子の友だちの方が多いくらいです。

というわけで、次回は女の子とオトメンが友だちとしていちばん盛り上がれるもの、「スイーツ」(お菓子)のお話です。



藁――翠の石室46  藤井貞和





真っ白な、

石室に、

ひすいがさしこむ。

出られない藁が、

沈んでいる、まったく。



(すみません、コンピュータの不調で、身動きできないなんて。きのう、きょうを出られない藁です。)



夏バテ冷蔵庫  仲宗根浩





用事があった那覇から車での帰り、嘉手納基地のフェンスにある横断幕の広告に目がとまる。「アメリカフェスト」の文字。嘉手納基地は、独立記念日に合わせて基地を解放していた。二本ある四千メートル滑走路のうちの一本が駐車場となり、展示している配備された戦闘機、たくさんの出店、バンドが演奏するステージ。九月十一日を経験して以降、行われなくなっていたとおもう。しばらくするとテレビでCMもするようになった。入場口が国道沿いの臨時ゲートからとなっている。帰りの渋滞、日陰の無い会場、コンクリートの照り返しの暑さを想像したら行く気が失せる。以前は「カデナカーニバル」と言っていた。カーニバルに行ってはいけない、と学校の先生は言っていた。沖縄返還、基地撤去、先生方はデモのため授業がしばしば半ドンになった頃の話。

相変わらず携帯電話を持たないでいると、息子は学校の携帯電話所有調査で本人もしくは家族が携帯電話を所有していない唯一の人、という栄誉に輝いた。パソコンでのメールのやりとりも減り、月に数回あるかないか。自らホームページ、ブログなど立ち上げることなど全然興味無く、もっぱら眺め、知り合いのブログにコメントでたまに茶々を入れる程度だったが、友人の余命数ヶ月、他連絡お願いします、とのことで突然にメールのやり取りが頻繁になる。入院先はこちらから千五百キロも離れた首都圏。沖縄から九州、入院先近辺に住む連中へ病状を一斉送信し、その後見舞いに行ったものからの報告やそれに対する返信などやり取りしていた。最初の連絡を受けて二週間後、三十年来の友人はあっけなく逝った。

学校は夏休みに入り颱風は近くまで来るもそんなに雨は降らすことはない。陽に照らされた建物、空、入道雲の変わらない風景。暑い中、十年目の冷蔵庫は壊れ、実家からクーラーボックスを借り、氷を買い中に入れ、冷蔵庫の中のものを移し、新しい冷蔵庫を買いに行く。購入の条件はサイズ、その日うちに配達可能かどうか。新しい冷蔵庫は問題なく家には来た。そういえば以前も冷蔵庫は確か夏に壊れた。もう、今年の夏は壊れるものはうないだろうか。



13のレクイエム ダイナ・ワシントン(2)  浜野サトル





  
ダイナ・ワシントンの一生は、ヘレン・モーガンとほぼ相似形である。

大きな違いは、もちろんある。まずもって、ヘレンが白人であるのに対し、ダイナは黒人だった。生年も、1900年のヘレンに対し、ダイナは1924年と、24年の差がある。何より、北のカナダ生まれのヘレンとは違い、ダイナはアメリカの深南部で生まれた。音楽的環境という意味では、人種と生地の違いは決定的といってもいい。

しかし、それでもこの二人は似ている。酷似している。育った家庭環境もそうだが、伴侶としての男を常に求め、しかし満たされることなく、失望と失敗を繰り返した。その点が何よりも似ている。

ダイナ(本名=ルース・リー・ジョーンズ)は、アメリカのアラバマ州タスカルーサの出身だ。深南部のこの町で暮らしたのは実質的にはわずか3年で、一家は北部のシカゴに移住した。理由は単純である。ダイナの父親はどうしようもない酔いどれで、ほとんど家に寄りつくこともなかった。そのままでは、暮らしは成り立っていかなかった。時、第一次世界大戦のまっただなか。一家は、仕事を求めての黒人たちの大移動にまぎれこんで、北部に移り住んだのだった。

ヘレンとその母が同じようにシカゴへ移り住んでから、ほぼ四半世紀。しかし、シカゴはやはりアメリカ随一の急速に発展する工業都市だった。移住した黒人たちの多くは、ここで工場労働者としての新しい生活を身につけた。

しかし、ダイナの母、ミセス・ジョーンズは、北部の新興都市にあっても、故郷でのライフ・スタイルを守り抜いた。それは、「教会中心の生活」である。

ミセス・ジョーンズは、敬虔なクリスチャンであると同時に、教会のピアニスト兼聖歌隊の指揮者でもあった。母は娘にピアノを教え、母子は教会で一緒に弾き語りをした。

ダイナはまだ少女だったが、歌の才能はすでに万人の認めるところだった。その才能に最初に気づいた母は、すぐにダイナを歌の教師につけた。その教師が語っている。「ダイナの歌はまぎれもない本物でした」

ただし、教師はつけ加えた。「ダイナは、男の子の誘いにすぐに乗ってしまう女の子でした。教会で牧師の説教を聞いていても、男の子からの誘いがかかると、そのまま教会を出ていってしまうのがいつものことでした」
ダイナ・ワシントンの後半生の悲劇は、すでに少女時代に始まっている。


  
1940年、15歳になったダイナは、シカゴのロイヤル劇場で開かれた歌のコンテストに出場。第一位を射止めた。
同じ年、ダイナはゴスペル・シンガー、サリー・マーティンのグループに引き抜かれ、プロとしてデビューした。サリー・マーティン・シンガーズは全米でも初の女性だけのゴスペル・グループで、のちにゴスペル界最高のシンガーと呼ばれることになるクララ・ウォードもここにいた。

翌41年、ダイナはゴスペルには飽きたらず、母が「悪魔の音楽」として忌み嫌ったジャズに惹かれるようになっていた。彼女はジャズ・シンガーに転身する決意を固め、シカゴのナイト・クラブで歌うようになった。

ビリー・ホリデイのマネジメントをしていたジョー・グレイザーがそんな彼女に目をとめ、42年、ドラマー、ライオネル・ハンプトンのバンドのオーディションを受けさせた。ライオネルは彼女の声に一目惚れ、いや一聴惚れし、バンドのシンガーに採用した。「ダイナ・ワシントン」という芸名を得たのは、このときである。

ベッシー・スミスとビリー・ホリデイを終生のアイドルとしたダイナの歌は、ブルースそのものではなかったが、ブルース・フィーリングにすぐれ、たちまち広く注目を集めた。1946年にはマーキュリーとの契約ができ、レコーディング活動が始まった。

初期の彼女の歌唱は、いまも『The Complete Dinah Washington on Mercury』などで聴くことができる。洗練にはほど遠いが、心に響くものがあるというのが、この時期の彼女の歌に対する一般的評価といっていい。もともと積極的な性格だった本人も歌い手としての力には自信満々だったようで、電話がかかってくると、開口一番、こう言ったというエピソードが残されている。「ブルースの女王、ダイナ・ワシントンです」

マーキュリーでのセールスは順調で、ダイナは次々に録音を重ねていった。それはまた、ダイナが次第にブルースそのものから遠ざかる過程でもあった。40年代の終わりにはガーシュインの作品を録音しているし、50年代に入るとハンク・ウィリアムズのカントリー&ウェスタン・ソングやポップスも歌うようになった。レコード会社の方針あってのことだったろうが、ダイナ自身、この頃から「黒人社会を超えて評価されるシンガー」を目指していたのだと思われる。

そのことは、ダイナのステージ・パフォーマンスにも反映していた。ダイナの派手好きはよく知られるところで、「女王」の名にふさわしい豪華な衣裳が彼女のトレードマークだった。金髪のかつらをつけてステージに出るのも、いつものことだった。

1950年代半ばになると、ダイナはすでにジャズ界最高のシンガーと呼ばれるまでになっていた。彼女の代表作『アフター・アワーズ・ウィズ・ミスD』や『縁は異なもの』の録音は54年だが、これらのアルバムでは絶頂期に達した彼女の充実した歌が堪能できる。

しかし、歌い手としてスターダムにのぼっていく過程はまた、彼女自身が酒とダイエット薬品に溺れていく過程でもあった。ついでにいえば、「男」とのトラブルも絶えなかった。

絶頂期を迎えてから約10年、ダイナ・ワシントンの一生は暗転へと向かう。

(続く)

※参照=『The Complete Dinah Washington on Mercury』



メキシコ便り(11)  金野広美





7月3日、メキシコ・シティーのメトロポリタン劇場でチリのフォルクローレグループ、キラパジュンのコンサートがあり、前から2番目の席がゲットでき、聴きにいきました。彼らは1970年、チリにおいて、世界で初めて選挙による社会主義政権が誕生するための人々の意識をつくったヌエバ・カンシオン(新しい歌の運動)の担い手たちで、1973年、ピノチェットによる軍事クーデターの時に、たまたま外国公演をしていたため、アジェンデ大統領やビクトル・ハラのように殺されずにすんだ人たちでした。30数年前、彼らが京都に来たとき初めて彼らの歌を聴き、「エル・プエブロ・ウニード・ハマ・セラ・ベンシード」(団結した人民は決して負かされることはない)というスペイン語の掛け声とともに歌うその力強い「不屈の民」に感動し、私はラテンアメリカ大好き人間になってしまったのでした。そしてそれが嵩じて今ではメキシコでスペイン語を勉強しているわけです。

3200人は入るというその劇場はほぼ満員で、冒頭からスタンディング・オーベションではじまったのにはちょっとびっくりしてしまいました。やはりメキシコの観客は熱い! いつもながらの黒のマントをまとったキラパジュンは頭が真っ白になっていましたが、その歌声はあの時のままでした。まさかメキシコで彼らに再び会えて、一緒に「不屈の民」を歌うことになるなどとはおもってもいなかったので、とても不思議な縁(えにし)を感じてしまいました。そんな彼らが第一部で歌ったのが「イキーケのサンタマリア」という45分に及ぶカンタータで、これはチリの北部にあるイキーケという街で1907年、12月21日、待遇改善を訴えてデモをしていた硝石工場の労働者やその家族にロベルト・シルバ・レナルド将軍率いる軍隊が発砲し、2000人余りが死んだという史実に基づいて、イキーケ出身の作曲家ルイス・アドビスがキラパジュンのために作曲したものです。古いデモなどの写真スライドと女性の朗読、そしてキラパジュンの歌声が創り出す世界は1902年から1908年までひんぱんにチリで起こった硝石工場労働者と軍隊との衝突の歴史の悲惨をあますところなく伝えていました。私はこの作品を聴いたとき、イキーケに行ってみたくなり、長い夏休みを利用して、アルゼンチン、パラグアイ、チリとまわることにしました。

7月7日、夜11時05分、飛行機は真夏のメキシコ・シティーを飛び立ち、アルゼンチンの首都ブエノス・アイレスに8日昼の1時過ぎに着きました、こちら南半球は真冬、相当の寒さを覚悟していましたが、日差しは明るく、とても気持ちのいい秋のような風がブエノスの街を吹き抜けていました。ここブエノスはカジェと呼ばれる通りやアベニダと呼ばれる大きな通りが碁盤の目のように張り巡らされ、どのような小さな通りにも名前があり、とても歩きやすいところです。にぎやかな大通りをポルテーニョ(ポルトは港のことでブエノスアイレスの港っこの意味)と呼ばれる人たちがさっそうと歩いています。眠らない街、ブエノスアイレスは一晩中タンゲリアと呼ばれるタンゴのライブが聴けるレストラン、バーが立ち並び、カルネ・アサードという骨付き肉のステーキや、エンパナーダスという肉入りパイが安く食べられるレストランがたくさんあります。土曜日の夜などは、映画館通りの別名があるラバージュ通りでは10数軒の映画館が一晩中映画を上映し、家族連れでにぎわいます。このように楽しく遊ぶのには事欠かないブエノスですが、私の最大の目的はタンゴを見ることと、習うこと。ここではタンゴショーを見せて、かつ、踊りのレッスン、食事、送迎付き、などという店もあると聞き、いろいろ歩いて探してみることにしました。ところがこんなに込みこみは結構高いのです。特に食事つきだと値段がはねあがります。

豪華な食事はいらないし、見ると習うはやはり別々の方がいいかも、と思いつつ歩いていると、倉庫のような場所の入り口にレッスンの張り紙を見つけました。グループレッスンが1時間10ペソ(約330円)とあります。これは安い。日本だと最低でも2500円はします。さっそく中に入るとひとりの小柄なおじいちゃんが、奥の方ににちょこんと座っていました。実はこの方アルマンディートさん、81歳が先生でした。私がタンゴを習いたいと言うと、個人レッスンから始めましょうということで、1時間50ペソ(約1650円)だと言われました。これもまた安い。途中疲れたでしょうと何度もお茶をすすめてくれ、結局1時間半レッスンを受けました。その日はわけがわからないまま、基礎の足裁きを習いました。次の日はさらなる足裁きと、女性は常に男性の動きをまたなければならない、ということを何度もいわれました。そして腕を組んだ瞬間、男性の腕から女性の腕、そして体、足へとエモシオン(情熱)が流れていくのだと教えられました。うーん、なるほど、これがあの疼きをともなった、とろけるようなタンゴの真髄なのかと、ひとり感心してしまいした。アルマンディートさんはお年を召したおじいちゃん先生にもかかわらず、腕には筋肉がしっかりとつき、背筋をピシっと伸ばし、私の重たいからだを支えて踊られるのにはびっくりしました。そして、そのあとのグループレッスンも受けたのですが、そこでのモニカ先生との踊りはセクシャルで、とても81歳には見えない若々しさでした。本当はここで沈没して、ずっとタンゴを習っていたかったのですが、イグアスの滝もどうしても見たかったので、後ろ髪を引かれる思いで、次の日、3度目のレッスンを受けてから夜行バスで18時間のプエルトイグアスに向かうことにしました。先生は、こんどはいつブエノスに帰ってくるのかと、抱擁とキスで別れを惜しんでくださいました、写真を撮らせて欲しいというと、白いマフラーと黒の帽子をとりだし、ポーズを決められました。その姿は本当にかっこよく、まさに伊達男でした。



製本、かい摘みましては(41)  四釜裕子






あるところの手帳を作るのも3年目、前回ダメもとでお願いした表紙の塩ビカバーのオリジナル色が実現したので、このたびもいくつか色合いを指定して頼んでみることにしました。オリジナルの色が実現したと言っても、実はこちらが意図したものではありません。誰も想像だにしなかったふうに仕上がって、先方は失敗作としてお持ち下さったのですがそれがかえって功を奏したのでした。1年が過ぎまたその制作チームで集まったとき、表紙カバーは前回の路線で行きたいねということになるも、誰も「意図」したものではなかったために、さてどうお願いしようかと困ってしまいます。

私たちがこういったことを直接相談するのは印刷会社です。手帳表紙にみあったサンプルとして見せてもらう塩ビシートのサンプルというのは紙の見本帳をぐっとコンパクトにしたようなもので、様々銘打たれたタイプごとに色のバリエーションが10数種類ずつほどあります。その中でこの手帳のために選んだのはより柔らかい革の風合いに寄せたもので、微妙な色むらがあって表面をちょっとぬるっとした感じに加工したもの。風合いはいいのですが、色むらの具合をもうちょっとなんとかしたいというのが、前回オリジナルで願おうと思った発端でした。

「このムラムラの色幅をもうちょっと狭くできないかな」。印刷会社の人と雑談しますが、それをどう「指定」したらいいのか検討がつきません。先方としても、なにしろ見本から選んでもらうのが大前提ですから、困るわけです。どうやってこのムラムラは作っているのだろう。やっぱり型があるんだろうか。色は1種類で薬剤でムラムラ? いや、2色でしょう……推測だけで誰もその工程を知らないのです。工場を見たい、でも時間がない――仕方なく、「色むらの濃いほうはこれ、薄いほうはこれにしてください」とチップをつけてお願いしたのでした。結果は先に述べたとおり。

そこで今回は最初から工場見学です。7月の暑い日でした。工場にはたくさんの人が待っていてくれました。実際に作る会社、材料を提供する会社、私たちが選んだ柄のパテントを有する会社、カバーのかたちに成形する会社、そして手帳全体を作る印刷会社。ありがたいことです。まず塩ビ(ポリ塩化ビニル PVC)全体のお話。その組成の約6割が食塩であること、世の中にたくさんある塩ビ(電線、パイプ、農業用など)をリサイクルする率が非常に高いこと、カバーに使うようなものは「発泡塩ビ」と呼ばれていること、「塩ビ=ダイオキシン」という図式で手帳や文具での使用も一時落ちたがまた戻っていること。そういえば代替えとして名を馳せた生分解性プラスチックも、なにもかもではなくゴルフのピンなど特長を活かして使われているそうです。

そして先にお願いしていた3種類の試作品を見せていただきます。やっぱりまだムラムラが目立ちすぎており、もっとぼんやりしたムラムラにしたいんです、と言うと、工場の責任者の方はこの一言で納得した風でした。同じことをずっと言ってきたつもりですが、やっぱり顔を見てひとつのものを前に言葉を交わしたことでとたんに通じることってあるのでしょう。工場団地の食堂でみんなでお昼を食べたあと、工場棟に向かいます。独特の臭いと蒸し風呂のような暑さ、ファインペーパーや特殊紙などを作る工場と似た機械が並ぶ中で、働くどなたも顔をあげてあいさつしてくださいます。こんにちは、お邪魔します。

顔料や発泡剤も含めて全ての材料をよく混ぜ合わせたものが上のフロアから落ちてきて、大きなローラーをくぐって一瞬で薄く伸ばされます。ムラムラの柄をつくるエンボスローラーを通り裏に下紙が貼られ、途中、熱で乾かしたり発泡炉を通って発泡をうながしたり、順番は正確に覚えていませんがやはり紙の製造工程と似ているようです。最後の表面加工(ちょっとぬるっとした手触りにするための)をすると、色合いがぐっと変わります。白っぽくなる、という感じ。色に限って言えば、まず様々な色の顔料(石けんのようなバー状でした)を調合して材料によく練り込みますが、全ての工程を経てどう色合いが変わるかを予想するのはどれだけ経験を重ねても難しく、試作するしかないのだと聞きました。試作する、と言っても本番さながら機械を動かさねばなりませんから、たいへんなことです。

見学中に、納得のいくムラムラはできませんでした。でも私たちとしては、あとはお任せしますという気持ちでした。1週間後、カバーのかたちに成形されて、タイトルが金箔押しされたサンプルが3種類届きました。金箔が映える色合いに、というのも、お願いのひとつでした。いずれもみちがえるように美しく、しかし中でも特別映えるものがあります。デザイナーさんが妙なお願いをした、あの緑色のヤツでした。「こんな風にしてください→」。矢印の先には、深くて品のいい緑色に金で文字が印刷されたチョコレートの包み紙。「緑って難しいのよね。チップなんかで選べないからこれ貼っちゃおう」。この色だけは、やり直しをしていません。成形されて金箔がのって、それでこんなに映えるとは想像がつきませんでした。デザイナーから工場へ。思いがまっすぐに、伝わったわけです。





布石の8月  富岡三智






今またインドネシアに来ている。9月3〜8日に島根(+9月2日に大阪)で行う「島根・インドネシア 現代に生きる伝統芸能の交流」の準備をソロ(スラカルタ)市で行うためと、8月7日〜9日にスマトラ島のプカンバル市で行われる現代舞踊見本市PASTAKOMに出演するためというのが主目的だ。

  ***

島根で行うイベントにはソロから計5名を招聘するのだが、内訳は舞踊家2人、ワヤン・ベベル画家1人、マタヤという芸術イベントのプロデュースをしている団体の代表とスタッフ兼ライターの2名である。普通は舞踊家だけ招聘して日本で公演ということになるのだが、今回については、実は島根のパサール満月海岸(島根の受入団体)とマタヤの交流をさせたいというのが先にあった。先月、パサール満月海岸で私がワークショップや神楽囃子との手合わせをしたのも(水牛7月号に書いています)、その下見と打ち合わせを兼ねていた。

マタヤはソロ(スラカルタ)でいろんなイベントを主催している。私は設立時から知っていて、当初は「ソロ・ダンス・フェスティバル」と「女性コレオグラファーの出会い」というフェスティバルを隔年で交互に実施していただけだったが、現在はそれに加えてソロ市内の歴史的な建物や人々が集まる市場や大通りなど、劇場以外の場に出て行って、一般の人々に芸術が根づくようにと活動している。私自身がマタヤの活動を長く見てきたり、実際に自分の公演時にいろいろとアドバイスしてもらったりした経験から、マタヤに日本で、劇場以外の場で行われている芸術活動の状況を見てもらいたいなあと思っていた。彼らなら、島根行きの経験を今後の自分たちの活動に生かしてくれるだろう、と期待している。

島根には私が12年前にジャワで知り合った染色家の友人がいて、いろんな職人友達と一緒にパサール満月海岸という場と団体を作って、島根とアジアの伝統芸能・伝統工芸をリンクさせようとしている。友人は島根に根を下ろして以来、神楽とアジアの芸能のコラボレーションをやりたいという思いを持って、少しずつ地盤を固めてきていたのだ。島根でやるのは、この人が島根にいるから、なのである。こういう個人的な結びつきがないとコラボレーションは絶対うまくいかない、と私は確信している。今年、島根県の他の会場で、現代舞踊の催しの一環として神楽とのワークショップもあったらしいのだが、「やったというだけ」だと聞いた。アレンジした劇場も、やってきた現代舞踊家も神楽の方も、互いに思い入れもなければ地盤固めもなかったのだろう。

ソロに着いてすぐ皆と打ち合わせをして、やっとエンジン始動という感じだ。それまでは、いろいろと私の方から話を伝えていても、島根という場所のイメージも神楽のイメージも皆には今ひとつピンときていなかった。私の方から郵送していた神楽のDVDが届いていなかったということもある。私が島根の風景写真を見せて、6月にやった私のワークショップ(神楽の人たちが参加している)のビデオを見せて、ヤマタノオロチのDVDを見せながらいろんな話をしたことで、一気にやる気に弾みがついた。いくら良く知っている人たちだといっても、メールや電話だけではなかなかイメージが通じない。やっぱり直接プレゼンすることは大事だ。

そして思った通り、場所がものすごく田舎であること(島根の人には悪いけれど)、上演の場が神社であること、神楽自体の面白さ、そしてインドネシアとつながる人が島根にいることに魅力を感じてくれた。実際、踊り手の1人はその島根の友人と古い知り合いだったらしい。いまやインドネシアでも各州に劇場がある時代(劇場のつくりの雑さは置いておくとして)、ハコモノがあるというだけでは心が動かされないのだ。それに私の乏しい経験では、日本の田舎に惹かれるジャワ人が意外に多い。日本人が東南アジアに旅行して、日本のルーツがここにあると感じるように、ジャワの人たちも案外、自分たちの文化ルーツがここ日本にもあると感じるのかも知れない。

ついでに言うと、島根に行く前、というか日本に到着したその日に、大阪の高津宮(高津神社)でもお祓いをしてもらって奉納上演し、ワークショップをすることになっている。ここには古い大阪ののんびりした風情が残っている。島根とはまた雰囲気の異なる神社を体験してもらえたらと思っている。

  ***

この島根行きの準備と並行して、今はプカンバル行きの準備でも忙しい。私は3年前にも招待されていて(水牛の2005年10、11月号に書いています)、その時は1人で踊ったので、今回は大阪で活動している藤原理恵子さんとデュエットすることにしている。5年前に関西の現代舞踊の催しで出会って、初めて見たときからなんとなく惹かれていた。自分とは全く異なるエネルギーが流れている人だなあと思っていた。いつか一緒にできたらと一方的に思っていて、今回やっと実現することになる。

思えば島根の件にしろ藤原さんの件にしろ、どちらも出会ってから長い時間が経っている。私のペースも大概トロいのであるが、機が熟すにはそれなりに時間もかかる。そしてこの8月、9月の活動が今後の自分の活動の布石になっていきますように。5年後、10年後に芽が出ますように。




さだこと千羽鶴  佐藤真紀






8月6日がやってくる。毎年この時期は、広島に行くことになっていた。でも、今年はやめた。ともかく、この日は、全国から人が集まってくるから、ホテルを取るのも大変。暑さと人ごみ。。。たまには、家で、ゆっくりとしたくなった。

昨年、イラクからイブラヒムがやってきた。東京の講演には、ガンで闘病中の大倉記代さんが訪ねてくれた。大倉さんは、原爆投下から10年後、白血病と診断され、広島赤十字病院に入院していた佐々木禎子さんと同室で、千羽鶴をおっていた人。

私が、戦争前にイラクの子どもに禎子と千羽鶴の話をしたら、子どもたちは、禎子が千羽鶴を折っている絵を描いてくれた。東京で、イラクの子どもの絵画展をやったときに、イラクの子どもの描いた「さだこ」の絵があると聞いて、大倉さんは駆けつけてくれた。
「私は、自ら進んで禎子ちゃんとの関係を語りたくはなかったのです。自分も思春期だったし、それで、精一杯だったのだとおもう。何もしてあげられなかったという思いを抱いてずっと生きていたんです。だから、ただ一緒にいただけで、引っ張り出されるのはいやだったんです」
しかし、アフガン戦争、イラク戦争と彼女は、「世界平和」のために少しでも役に立てばと地道に活動を始めた。『思い出のサダコ』も出版した。サダコ虹基金を立ち上げ、劣化ウランで苦しむイラクの子どもたちを救うおうと、募金を集め、毎月25日(さだこの命日10月25日にちなんで)にJIM-NETに送ってれた。

でも、そんな大倉さんもガンになった。イラクでガンの子どもたちの面倒を見ているイブラヒムに一目会いたいと、やってきた。そして、イブラヒムに差し出した瓶の中には、さだこが折った小さな千羽鶴2羽が入っていた。サダコさんのお父さんからおすそ分けしてもらった千羽鶴。広島原爆資料館に飾ってあるのと同じ、本物だ。恨めしそうに見ている私に
「真紀さんにも、私が本当にだめになったらあげるわ」
と約束してくれた。

2008年2月、大倉さんから電話があった。私がイラクに行くと聞いて、もうこれが最後かもしれないというのだ。顔色は意外によかった。澄み切っている。彼女は、小瓶に入った鶴をわたしてくれた。早く欲しかったけど、彼女もこれで最後と決めている。なんだかとってもつらかった。

「死は怖い」という。「がんばるのはつらい」って言ってた。がんばらないっていうのはこういうときに使う言葉なんだ。それでも大倉さんはゲバラの話をしてくれた。
「コロンビアに居るときにだって、ゲバラは、メーデーの日に、世界の労働者が連帯していることに思いをはせてた」
そしてブレヒトの話もしてくれた。でも、僕には、もう、一杯で彼女の言葉が入ってこなかった。もっといろいろ教えてもらっておけばよかった。

「ヨルダンにも連れて行って欲しかったわ」
「イラクにいきましょう」と私が言うと、笑っていた。

大倉さんはもう墓も準備している。大島にあるお墓には、木を植えることが出来るって。植樹葬というのがあるらしい。友人に墓参りに来てくださいって言ってあるそうだ。わたしは、自分も行きますよ! とは言えずにただ話を聞いていた。不思議な時間が流れた。何だか、黄泉の国から話しかけられているような感じがする。

大倉さんは、イラクに持って行って、と家にあったタオルやらおもちゃやらをわたしてくれた。
別れ際、「そうそう、東京に待雪草が咲いたんですよ」私の友人が、北海道から球根を持ってきてくれ、ひそかに植えていったのだ。待雪草の花言葉は、「希望、慰め、楽しい予感」。イラクにぴったりの花である。彼女は、マルシャークの『森は生きている』という本を思い出してくれた。わがままな女王が冬に待雪草が見たいというロシア民話。
「東京にも咲くのね」でもイラクには咲かない。
「これから、イラクで待雪草を摘んできますよ」
まもなくイラク戦争が始まってから5年、この5年間のイラクの人たちのストーリーをちゃんと伝えたい。待雪草=イラク人のストーリー、つまりは、取材をして、土産話を持って帰ろうという意味だ。希望につながる話は、冬に待雪草を摘んでくるほど難しい。
「ちゃんと土産話を聞いてくださいよ」

私が帰国した3月、大倉さんは、化学療法もやめて、モルヒネだけで痛みを抑えていた。私は、仲間たちとまとめた『ウラン兵器なき世界をめざして』という本を手渡そうとした。
「重いわ」彼女はすっかり弱っていた。
そして、6月23日、大倉さんは亡くなった。イブラヒムに、大倉さんが亡くなったことを伝えた。もらった折鶴は家に保管してあったが、大倉さんが亡くなったと聞いたその夜に鶴を出し、家族で鶴を囲んで大倉さんとの思い出を話した。東京で一緒に撮った写真を見せ、大倉さんの生い立ちを聞いた家族は涙したそうだ。

彼女からもらった千羽鶴。私たちはあまりにも「重い」プレゼントをもらったのだ。今年の8月6日は、この折鶴を埼玉にある丸木俊美術館で展示してもらおうと話を進めている。さだこの平和の思い、そして、それを引き継ごうとがんばった大倉さんの思いが込められた千羽鶴だ。




しもた屋之噺(80)  杉山洋一





茹だるような暑さは峠を越え、夜はときには肌寒く感じるほどです。気がつけば、夜はリンリンと鈴虫のような虫声が聞こえます。夏の休暇でミラノは大分閑散としていて、少しだけ空気もきれいになったかも知れません。

あと二週間足らずで日本に戻るのですが、昨日ジェルヴァゾーニの新曲の楽譜を昨日漸くリコルディまで受取りにゆき、自分で製本しなおしました。長年住み慣れたミラノ・ガレリア脇のベルシェ通りのビルから、5月に地下鉄のマチャキーニ駅近くの巨大な近未来都市群よろしきビルに移転したのには、時代の流れを痛感させられました。素敵なビルだし、事務所にでかける度に、時間を持て余しフリーセルを興じている受付嬢にパスポートを渡さなければいけない厄介以外は、居心地もわるくありません。リコルディ社そのものも正確な意味ではもう大分前から存在していません。現在はデュラン社などと同じユニバーサル出版社の傘下に入り、リコルディの社員たちの電子メールアドレスが以前のBMGからユニバーサル出版に変わったのは、今から1年ほど前のことです。
「みんな戦々兢々としている。いつ肩を叩かれるか分からないから」。
周りではこんな風に声を潜めて話していました。

7月初旬に開催された学生たちの終了演奏会を最後に、恩師のポマリコはうちの学校から解雇されました。ミラノ市の助成金が大幅に削減されたからというのが表向きの理由で、かくいう自分も来年度は指揮科から離れ、週一回のイヤートレーニングのみ授業を続けることになります。外人でせいぜい10年足らずの付き合いの新参者の自分ならまだしも、30年、下手すれば40年ちかく学校と関わってきたポマリコを、就任して2年目という外部から宛がわれた新しい学長が、文字通りさらりと解雇してしまう現実が、今のイタリアにはあります。さらりと解雇されたとは言え、学生たちは学長どころか市長にまで抗議をし、メディアにも働き掛けました。暫く前までこの問題に関わる電子メールが相当数送られてきていて、実際はまるでさらりとはしていませんでしたし、イタリア人の血の気の濃さを実感させられる良い機会でした。

昨日リコルディに出かける前、9月末からヴェローナで練習が始まる新作オペラの楽譜を受取るため、サンバービラ駅の喫茶店で作曲者のメルキオーレと話していました。彼はうちの学校の現代音楽セクションの責任者を、ポマリコと同じくらい長きに亘って務めてきましたが、先日もう耐えられないと辞表を提出したと言うではありませんか。イタリアの現代音楽のメッカとして、ファーニホウやデ・パブロ、ドナトーニ、グリゼイやデュフールなど、錚々たる作曲家が何度も作曲のコースを開いていたのは、もう10年も20年も前のことですが、全てメルキオーレの功績です。彼が昨日まず言った言葉は、以前どこかで聴いた台詞にそっくりでした。
「同僚はみな、戦々兢々としている。ただそれだけさ。自分も何時辞めされられるか分からないからな」。

ポマリコの何十年来の親しい友人でもある同僚に学校の廊下で会い、彼の話を知っているかと話しかけると、「ああ知っているよ。何でも予算が削られたからだって? ずいぶん沢山首を切られたらしいな。お前は来年どうなるのかね。まあまた学校で会えるといいねえ」、思いがけなく明るい声で返事がかえってきました。

13年もミラノに住みつつ、変わらずこの社会から遊離して暮らしているせいか、彼らと自分の視点のピントがかみ合うことはごく稀で、例えば学校で同僚たちが新学長を揶揄しているのを度々耳にしても、学長は学校経営者によって、初めから経営に都合のよい人材として選ばれているのだから、彼の行動は充分理に適っているようにしか見えません。誰かが不当に解雇されることがあれば、本来同僚たちがリアクションを起こすべきかと思いますが、それは皆無でした。

今から10年近く前、当時住んでいた安アパートが実は競売物件で、当時の大家が借金を抱えて逃げている間、隠れて家を貸していたことが発覚したことがありました。その上、部屋は仲の良かった隣の住人に競売で競り落とされてしまい、何も知らずに住んでいたところ、突然降って湧いたように、隣の奥さんから毎日のように、何時出て行くのか、間取りを見せろ、警察を呼ぶぞと言われるようになりました。結局アパート中の住人とも顔が合わせ辛くなり、半年ほど酷い思いをしたわけですが、あの時、ずっと親友だと思っていた友人に相談し、「俺は知らないよ。俺のせいじゃない」、と言われたときの驚きは一生忘れないでしょう。あの瞬間に、自分がどんな立場でどんな社会に暮らしているかを悟り、生きてゆくための強さと強かさを学んだのだと思います。

でもイタリアはそれだけではありません。たとえばポマリコは自分が全く無一文の頃、何年も無償でレッスンをつけてくれました。何度、授業料が払えないので辞めると言っても、いいから来いと言って、一切お金は受取りませんでした。こういうイタリアも確かに存在するのを忘れてはいけません。だから、イタリア社会を一概に悪く捉えているのでは決してないのです。自分のなかで閊えていた甘えが、吹っ切れただけかも知れません。

イタリアに来た13年前と現在とでは様々なパラメーターが大きく変化していて、端的に言えば、昔より随分殺伐としているのは、否定できません。余りにお金がないと、暮しが殺伐としてきますが、学校も国もお金がなくなれば、殺伐としてくるのかも知れません。特に、音楽のような霞を食べて暮らす人間には、この変化は相当大きな変化をもたらします。お金はなくとも、自分一人気ままに暮らす分には良いかも知れませんが、学校も国も家庭と同じで、誰かを食べさせなければいけません。そうすると、どうしても底の方で涸れてくるものがあると思うのです。

音楽学校が殺伐としてきて、教師の教え方が殺伐となればなるほど、学生の音楽に夢がなくなります。国が殺伐としても同じでしょう。音楽家が殺伐としてくると、弾く音にも書く音に夢がなくなり、明日食べるためのお金ばかりが透けて見えるようになり、そうした音ばかり聴くようになると聴衆も影響を受けるに違いありません。でも、音楽から夢がなくなったら、同じように絵や文学や、それだけじゃない、野菜や魚や肉にも夢が枯渇したら、一体我々の人生に何の意味があるというのでしょう。

大学生の頃、桐朋の旧館4階の図書館から、と或る巨大なスコアを借りては、階段を昇り降りしていました。当時音源はなく、楽譜を見ただけで音が鳴るほどの頭ではありませんでしたから、訳も分からず、ただわくわくと子供のように眺めていたのでしょう。それが来月東京で演奏するカスティリオーニの楽譜です。文字通りで夢が詰まった宝箱で、きらきら輝いてみえました。そうして、大学の終り頃、出たばかりのCDで初めて録音を聴き、自分がまさに書きたい、鳴らしたいと思っていた音がそのまま聴こえてきた時には、ショックで聴き続けられず、作曲はやめようと思ったのを覚えています。

何の因果か、その作品を自分が演奏することになるとは、想像もできませんでした。夢のようです、と書ければ幸せなのだけれど、演奏、それも指揮となると、文字通り夢と正反対のシビアな仕事なので、巨大なスコアを食卓に広げ、自分も食卓に乗って書込みしながら譜読みをしていて、でもお陰で、数え切れない発見と、感激に巡り合えることはこの上ない幸せです。

まっさらな楽譜に自分が書込むとき、最初はどんな作品でも緊張するのですが、この楽譜に関しては、殆どおののきに近い感情がありました。自分には到底演奏できないのでは、という畏れと、自分がショックを受けたあの音を自分で紡ぎだす畏れなのでしょう。演奏家は、誰でもそういう畏れは持っているものでしょうけれども。

そして「夢」という言葉を、改めて考えました。こんなに殺伐とした毎日をやり過ごしつつ、「夢」なんて本当に必要だろうか。でも考えてみれば、ほんの60年近く前まで、日本ですら信じられない戦争の中心に居たのです。ベトナム戦争なり、アフリカの内戦なり、バルカンやイラクの戦争なり、無数の殺戮がその60年の間にも続いていて、心が本当に渇ききってしまった人々は、今この瞬間にも沢山いると思うし、また、そこから本来の人間らしく、心に潤いを取戻して生き抜く、強く逞しい人々も数え切れない程いる筈です。

本来「夢」は、どくどくと血が通い生き生きと輝く、力強いものに違いありません。夢こそが、夢のみが人間らしさを取戻す原動力になり得るのですから。そうして楽譜を開くと、今自分がしなければならないこと、感じなければいけないことを、カスティリオーニが優しく、厳しく諭してくれている気がして、思わず頭が垂れます。

夢の持つ力強さ、インテリジェンス、強かさ、しなやかさ。作曲や音楽がこうして文化として地面に深く浸透することを痛感させられ、自分が生きる時間の重さ、責の重さに、時にはぞっとさせられたりもするのです。

(7月30日 ミラノにて)




微速 後退 記憶  高橋悠治





7月6日 田中泯の場踊りにつきあって谷中の公園 そのあと昔銭湯だった画廊で踊りといっしょにピアノを弾く そのあとですこし話す時間があった 微速と後退という二つのテーマが心に残る

田中泯のいう微速は 音にはなりにくい 音は物質の抵抗を破る瞬間に起こる振動だから 最少限ではあっても暴力を必要とする そこに意志があるかどうかは また別な問題だ そのままでいようとする物質の意志に反して その意志から解放されて揺れうごくように誘いかける それが音であり 音は一方的でなく 他の物質と響きあう 揺れが内側に隠れていた流れと外の世界をむすぶ空間を立ち上げる 

微速はすこしちがう 意志や意図なしにかってにうごきだしてしまう身体は 思いがけない方向にわずかずつ 崩れ落ちてゆく この崩れの感覚は 外と内の境界をとりはらい ひろがり 沁みだし 沁みとおるもの
「操体」とよばれる手技で味わった感じと似ている 三浦寛先生が言われるには 身体の自動的なうごきを誘い出し それにはたらきかけるには 圧迫したり刺激したりしないで 皮膚の表面にただ触れているだけ といっても ただ触れているだけで 時間も止まったようにじっとしているのは やさしい技ではないだろう 

やがて 触れている場所とは離れたところで 身体が位置を変えてゆくのがわかる それを止めることもできないし 方向や速度を変えることもできない 身体はかってにうごいて やがて止まる 崩れるとも言えるし ほどけるとも ゆるむとも言える というのは 身体は 意識していないが 習慣になってしまった日常のうごき自体や それにまつわる意図や意志に拘束され またそれらの意識を拘束しかえす枠になっているから そのような義務や仕事や拘束から離れてみると いつもの 見えない狭い通路にやっと這い込むような 鎧のなかでやっと安心していられるような 支えられた安定ではなくて 自律して しなやかさをとりもどし 身体全体が分岐して それぞれが最少限のうごきを分担するような協調と動的均衡が 一時的にすぎないにしても 姿を見せる

後退 田中泯が弟子たちにやらせるように 後ろ向きに山道を歩く 前進ではなく後退すれば 胸が張り出し 背がひろがり 肋骨の籠のなかの脊柱が垂直に立ってくる バクミンスター・フラーがtensegrity(張力統合体)と名づけた身体の構造があらわれ 風をはらんだ帆のように呼吸が自由になる

前進するときは焦点がしぼられてくる視界も 後退しながらひらかれ 焦点があいまいな いわゆるsoft focusの状態で 細部を特定する中心視よりは 動きと変化に気づく周辺視 さらに見えないものを聴く周辺聴取のモードに入る いわば耳がピンと立ったネコが後ろに気を配っている姿

クセナキスと雪の日にナイアガラの滝を見に行ったことがあった 前がよく見えない吹雪のなかで 片目しか見えないかれが小型車を運転しながら言ったこと ひたすら前進して壁にぶつかるよりは Uターンして最初の角にもどれば もう一つの道がある もう一つもどればさらに別な道がある 

そこから敷衍すれば ものごとのはじめ 根源には可能性の海があるということになるだろう いまあることをつきつめれば 梢にのぼっていくように 自由はなくなり 危険が増していく ギリシャや日本のように 古い記憶をもつ土地から来たものたちは 過去にさかのぼりながら 未来をめざす

音が音であるとき もう音は過ぎ去ってしまった記憶にすぎない 音は音の記憶 それならば世界を記憶することもできるだろう 世界の記憶となった音楽が しばらくのあいだ記憶される 喪われたものを忘れないための歌 ブレヒトの詩にあるように 暗い時代にもひとは歌うか そう 歌うだろう 暗い時代について 




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