2001年2月


水牛楽団について  三橋圭介
また水牛をはじめる  八巻美恵



水牛楽団について   三橋圭介

水牛楽団(1978〜1985)はそれまでの生活をすて、音楽をすてた。人々と対 話し、手づくりの雑誌で反体制の声をくみとり、発言しつづけた。全国をめぐり、さまざまな集会でケーナ(西沢幸彦)をふき、タイコ(八巻美恵)をたたき、ハルモニウム(福山伊都子)に風をおくり、大正琴(高橋悠治)をつま弾き、歌(福山敦夫)をうたった。

西洋音楽を操るような洗練された技術はそこにない。ないというより、あえてそういう技術を否定したところに水牛楽団はあった。不慣れな楽器にふりまわされた手と手のあいだから、楽譜には書きあらわせない音の厚みや綾がうまれる。

それはガムランのように音を通してみんながいっしょに歩くことに似ている。 人がどのように歩くかを考えながら歩けば、歩みはぎこちなくなる。へたをすれば足はもつれて一歩も前に進めない。ガムランは人が打ちだす音をききあい、そのすきまに自分の音を置くことで、一人ひとりの歩みが連なってひとつのメロディをつくる。

常にゆれ動きながら逸脱しつづけるその音の河は、西洋音楽のようにいかに全員が歩調をあわせるかという理論ではない。進むべき確かな道もなく、音をすこしずつわけあい、寄り添うことで道を切り開いていく。それは楽器にふれあう身体の出会いで結ばれた歩くことの実践でしかない。

水牛楽団は歩くための理論をすてた。二歩前進のための一歩後退。足早に答えをだすことはない。何度つまずき、たおれようとも歌を通してともに歩きつづける。歩くことの実践のなか、あいまいなものをあいまいなまま正しく学ぶことで、人の歩みが交差する一本の道がみえてくる。それが水牛楽団という生活の実践だった。

完成もなく、そのときその場に吹きすぎる風のような音楽。フォークでも、民謡でも、またどこかにあるような日本の歌でもない。日本からアジア、ヨーロッパの民衆の音楽へ通じる根源に根差した歌。かつて水牛楽団がタイのカラワン楽団と交流したように、歌の道は文化を超え、目に見えない通路によって民衆の根につながっている。

社会・政治参加という意味で、水牛楽団は失敗したのかもしれない。「歌で社会は変えられない」。高橋悠治はどこかに書いていた。水牛の旅は終わった。でも外に開かれた水牛楽団の歌は残されていい。そして水牛楽団がなにを成しとげ、なにを成しとげなかったか、記録として残しておいたほうがいいと思った。



また水牛をはじめる   八巻美恵

水牛楽団で演奏したり、「水牛通信」を月刊で出していたころ、というのは1970年代のおわりから80年代の半ばごろまでだけど、そのころは自分たちで雑誌を出したり、コンサートを企画したり、カセットテープ(CDはまだなかった)を制作して売ったり、などは、じょうぶな手と頭と、少しのお金を集める工夫があれば、わりあい思うとおりに実現できたものだ。

いま、コンピュータやインターネットがぐ〜んと身近になったので、つくりたいもののイメージが具体的に描ければ、実現のための技術は手にすることができる。「水牛楽団」のCD-Extraもコンピュータとインターネットに助けられ、じょうぶな手と頭を持った何人かの人たちに助けられて出来上がった。そういう過程は「水牛方式」とでも呼びたいような、今にはじまったことではない、なつかしい方法だとおもう。

水牛楽団も水牛通信も、やっていた者にとってはすでにおわってしまった過去のことだ。それをよみがえらせたのは、よみがえらせることが必要だと力説する、後からきた人たちの力があったから。当事者としてはちょっと困惑、でもまあいいか、という心境だった。しかし、いざ制作をはじめてみると、ふしぎなことに、水牛楽団をきいたことがあるという人に何人か出会ったのである。「人はたがやす 水牛はたがやす 稲は音もなく成長する」。水牛通信の表紙にいつも印刷していたことばが、何年かぶりにおもいだされた。

水牛楽団のCD-Extra発売を機に、このようなホームページもつくってしまったことだし、これからも「水牛方式」でいろいろためしてみようかなとおもいはじめた、春は名のみのきょうこのごろ。水牛通信全巻を電子化してほしいという要望もすでにいただいている。CDにしたいものもあるし、テキストで伝えたいものもたくさんある。具体的になったらお知らせします。ときどきのぞいてみてください。(2001.2.7)




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