水牛のように

「水牛のように」は月刊雑誌です。

と書いて、念のために「雑誌」の意味を辞書で調べてみました。「普通は定期的に編集し刊行する継続的な出版物。」とある。思っていたとおり。ところがそのすこし後に「雑書」という項目があって、これは「1. どの専門部門にもはいらないような種種の本。2. 統一なく雑多のことを書いた(価値の乏しい)本。」とある。「水牛のように」は月刊雑書というほうがふさわしいかもしれません。「雑」の魅力は、その中に自分の興味のひかれるものがあること。そして、ついでにいままで知らなかったことに巡り会えること。辞書には(価値の乏しい)と書いてありますが、それを決めるのは読む人です。

「水牛のように」では毎号、その月に書かれた複数の原稿を一つのファイルにまとめて、読んでもらえるようにします。本屋さんに行って、目的の本のとなりにあった本がなにやらおもしろそうで、つい立ち読んで買ってしまった、というような、だれにでもある経験が、ウェブにもあるといいと願っています。

来月からは月のはじめに更新するのが目標です。カレンダーをめくったら、思い出して読みにきてください。




2001年5月 目次


白いハートのものがたり  荘司和子
人生は水牛(2)     八巻美恵
音と音楽(3、4)    三橋圭介
書きかけのノート(1)  高橋悠治



白いハートのものがたり  荘司和子

「水牛」という名前の由来はたしか、タイのカラワン楽団の唄う「人と水牛」という歌だったように記憶しています。当時タイでは「水牛」と「人(農民)」は「愚か者」の代名詞だったのですが、カラワンがそれに抗う歌を唄って一躍有名になりました。

カラワン楽団はもうだいぶ以前に解散していますが、スラチャイとモンコンは今もそれぞれ音楽活動を続けています。ときどき日本にも来て唄っています。1年半ほど前来たときに HIV BAND という奇妙なカセットテープを持ってきて売っていました。何かと聞いてみると HIV 感染者で作っているバンドのアルバムで、彼らがその活動に協力しているのだということ。もっとよく聞いてみるとそのバンドはわたしも以前訪ねたことのあるエイズのホスピスをしているあるお寺の入所者たちのバンドだったのでした。

そのお寺はバンコクの北約120キロにあるロッブリ市の郊外、小さな山の麓にあります。アロンコット住職はそのときすでにタイではたいへん有名でした。92年にこのプラバートナンプ寺で8床のベッドから始め、わたしが訪ねた98年にはすでに200床になっていてさらに大きなプロジェクトが進行中でした。以下は住職の語ってくれたはなしの一部です。

以前バンコクの病院で孤独と苦痛のなかで死んでいく多くの患者と出会いました。無知による恐怖心から親や家族からも見捨てられて、ひとりで死んでいくのです。外国にはホスピスという終末ケアをする施設があることを本で知って、彼らにも安らかに死を迎えられるようなところが是非とも必要であると思いました。

わたしがここに8床のベッドを置いて末期患者を受け入れて以来、この寺の僧侶たちはつぎつぎにここを去って行きました。現在いる僧侶はわたし以外はみな感染者でここへ来てから得度して僧になったのです。この村の住民も大反対でしたが、わたしの説得で今では協力者になってくれています。

毎日平均5人くらいの方が亡くなりますが、家族は遺骨すら取りに来ないばかりか、送っても送り返してくるほどなのです。トラックで乗り付けて患者を門前に置き去りにする人たちもいます。常時1万人を越える人たちが入所を待っています。エイズに関する無知をなくすことは感染者をこれ以上ふやさないためであるとともに、患者への理解と励ましに繋がりますから全国各地に講演にまわったり毎週テレビでもおはなししています。

アロンコット住職は末期のエイズ患者のためタイで初めてのホスピスを作ったばかりでなく、患者、感染者とその家族たちが支え合って暮らしていけるようにと、さまざまな活動をしています。感染した子どもや、親をエイズで失った子どものための学校もあるし、HIV バンドもそのひとつです。歌は患者のこころを癒し彼らの思いをすべての人びとに伝える最も優れたメッセージだからでしょう。

94年にアロンコット住職が歌詞をいくつか書き、患者・感染者の中で楽器の弾ける者たちが集まったのがはじまり。ギターを弾くチャーリーがリーダー格で昨年秋、久米宏のニュースステーションが取材していました。彼以外はもうすでに30人以上“入れ替わった”といいます。住職が地方へ講演に行く際に同行し演奏します。死を賭して行くメンバーも。それがぎりぎりの生き甲斐なのです。

彼らのファーストアルバムの中の歌詞の一部から。

「励ましてほしいだけ」
あぁ、もう死んでしまいたい
でも、まだ死ねない、その日が来ていないから
命ある限り、生きなければ
死が訪れるまでに善い行いをして
生きてきた証しにしたい
生きていた意味があるように
今日を一番よく生きたい、最期の日に向けて
どうかわたしを励ましてください
それだけでいいのです

「きみはもういない」
きみはあまりにもいい人だったので
ぼくはこの世の誰よりも悪い人になってしまった
でもそのきみはもういない
きみはもういない
きみはもういない
きみは逝ってしまった
ぼくのもとから

「描いてごらん」
夢を見ているように、描いてごらん
空を、雲を、川の流れを
こころの赴くままに、描いてごらん
風を、雲を、太陽を
空想の羽を伸ばして、高く低く
まだ手許にはないきみの来世を
そしてあらゆることを
描いてごらん
今、今、きみのその手、人生のすべてで

「癒し」
癒しと信仰、それは
生きとし生けるものの価値
癒しと信仰から溢れでる慈しみを
与えあって生きよう
苦しみを分かち合い
苦しみをのりこえて生きよう
どうか、慈しみという豊かな流れが
涸れてしまうことのないように

以上4曲ともアロンコット住職の詞で HIV バンドが曲を作っています。訳はそれぞれの詞の一部分ですが、わたしにとってタイのお坊さんのイメージが一新されました。現代では意味がなくなってしまったものまで含めて272戒の戒律をただひたすら守っているだけ、というイメージがです。そもそも戒律では音楽など聴いたり楽しんだりしてはいけないのです。

『白いハートのものがたり』というタイトルのこのアルバムには8曲収録されていてプロのミュージシャンの作詞作曲のものもあるし患者の作詞もあります。「分かってほしいだけ」という曲はカラワンのスラチャイが唄っています。ネットでよみがえった「水牛」ではやがて音も配信できるようになりそうですから、彼らの歌を聴けるようになるかもしれません。「癒し」というのはたいへん美しい曲です。唄っているのはスラチャイの後輩で有名なシンガーソングライターのポンシット・カンピー。テープの売り上げはすべてタマラックニウェート・プロジェクトの資金として使われます。

アロンコット師僧年譜
1955  コンケンで生まれる
1976  カセツサート大学工学部卒業
1979  オーストラリア国立大学大学院工学修士
1984  農業省入省
1986  得度して僧侶となる
1992  タマラックニウェート・プロジェクト開始
1996  プラ・クルー(師僧)の位階受く
1997  タマサート大学社会福祉学名誉博士号





人生は水牛(2)  八巻美恵

「六歳のこどもである私は、水牛の世話をしながら、家の古くからの所有地が秘めている叡智を探っていた。禁欲的な動物の魂に潜む叡智にひかれていた。沈黙の忍耐の高貴、生き抜く思慮、素朴な暮らしの歓喜、自然の美しさを、水牛に学んだのだ。それが私の基礎教育だった。」(ピラ・スダム「作家」より 杵淵信雄訳)

やっぱり人生は水牛だ。

ピラ・スダムはイサーンと呼ばれる東北タイ、ブリラムの農家に生まれた。ニュージーランドに留学し、オーストラリアやヨーロッパを放浪し、主に生まれ故郷のことを英語で書くようになった作家だ。自分のくにを、外国人と同じように外側から見て、英語で書く。「イサーンの人びとと暮らしていると、内へ内へとむかい、私自身の内部をより深く見ることになる。狭い部屋で本や紙に囲まれて書き、そして休息すると、苦痛がやわらぐ。村のひとに混じり、お祭り気分にすっかり溶け込み、幸せは単純なことから得られると自然に会得する、至福の時がある。」と書く。これまで「Poeple of Easarn」「Monsoon Country」「Tales of Thailand」の3冊がタイで出版されている。英語の本のおわりのページには、作家自身の直筆サインとともに、「この本を読んで、おもしろいと思ったら、友達に貸すか、推薦してください、東北タイ、イサーンの貧しい人びとのために。」と書かれたスタンプが青いインクで押してある。ちょっとせつない、でもいい方法だと思う。ただ作品を書くだけでなくいろいろなことをやっているらしい。自分のサイトを持っていて、そこから本も買える。推薦、です。

なにしろ人生は水牛だから、こんなふうに水牛について知ることは、普遍というものの一端にふれるきっかけになってしまうのはやむをえない。以前読んだ、南米のインディオ、クレナック族のアユトンの言葉がしぜんに思い出されてくる。

「私たちはわざわざ枯れやすい材料を使って家を建てたり、精霊への供物を作るなどして、超越した力への敬意を表してきました。長持ちのするピラミッドのような建造物を作り上げる民族もありましたが、私たちは自分の跡を残さないように気遣いしてきたのです。それは山を切り刻んで崇拝する者と、山をあるがままの姿で崇拝する者との違いです。
子供にはこう教えるのです。「地上にやってくる時には物音をたてずに鳥のように静かに降りたち、やがて何の跡も残さず空に旅立っていくのだ」と。」

西欧の文化とは真反対の、こうしたうつくしい世界観を持つ人たちのひとりであるアユトンは、「人権」という言葉の裏に世界銀行や資本主義の思惑をかぎとり、「民主主義」にはみんなのためにという響があるが、実は権力者や金持ちが貧しい人々の首を絞めているように見える、とも言うのだ。

水牛の叡智や、自分の跡を残さないで空に旅立っていく人たちに心を寄せながら、東京で暮らしていると、自分が異邦人のような気がしてくる。妄想とばかりはいえない。

しばらく前、友だちと連れだって、カンボジア料理を食べに行ったときのこと。人気のある店だったから、少し待たなければ入れなかった。わたしたちの次に並んで待っているのは、スーツできめて、アタッシュケースを持った、若いビジネスマン。シンガポールから働きにきていて、ときどきこういうものが食べたくなると、ここへ来る、という。しばらくして、わたしたちのテーブルが確保された。わたしたちは3人だったから、椅子は一つあいている。混んでいるし、よかったらいっしょにすわって食べませんか、と彼を誘った。

東京ではたらいて1年になるけど、職場は英語だし、日本語はほとんどできない、というので、彼とは英語で、友だちとは日本語でしゃべっていた。そろそろ食事もおわる頃になって、彼がわたしに言った。

「ほんとうに日本語がじょうずですね。何年くらい日本にいるんですか。お国はどこですか」
「わたしは日本で生まれて日本育った日本人ですよ。日本人には見えませんか。どうしてでしょう」
「なぜって、日本人はぜったいにこんなふうにいっしょに食べようなどと誘ってくれませんから。隣りにすわっただけでかまえる人だっているのです。あなたは中国人ではないようだし、いったいどこの国の人だろうと、食べている間、ずっと考えていたのですが、わからなくて……」
わたしたちは笑い、食事代は4等分して払い、住所の交換などはしないで別れた。

今度おなじようなことがあったら、日本語だけでなく、英語もじょうずとほめられるようになりたい。



音と音楽(3、4)  三橋圭介

   その3

「とてもすてきな歌だから」といって友だちが一枚のCDをくれた。それがタイの音楽家A-DOON(アドゥーン)との出会いだった。かれは日本人の母とタイ人の父のもとタイに生まれた。ちいさいときから古典音楽を学んだが、日本に建築を勉強しにきた。でもそのまま日本にいて、いまは音楽家としてひとりでやっている。「いまはタイには帰れない」とA-DOONはいった。

かれはタイの伝統楽器ラナートを打ちながら、日々すこしずつ音楽を紡いでいる。音楽は日々の糧。それは「A-DOON・LOVE」「A-DOON・ALONE」、「A-DOON・ALIVE」、そして最新盤の「A-DOON 4 NARIYUKI」の4枚のCDに収められている。
 
ラナートの素朴で軽やかな響きに日本の琴の音がからみつき、A-DOONのくすぐったいようなタイ語が独特のねじれをもってふわふわと漂うように流れていく。五音音階の限られた旋律を巡って即興的に伸びたりちじんだりをくりかえす。いつまででもつづけられるようなはじまりも終わりもない歌。ささやかだが、心に触れるかれのことばと音楽。

これはタイの古典音楽ではない。タイの伝統音楽を下地にポップスやフォーク、さまざまなアジアの伝統的な音楽の要素がちりばめられ、むすばれる。ときにギターを伴奏に歌い、お琴やシタール、トランペットともやる。この音楽をなんと呼べばいいか。ワールド・ミュージック? 越境的音楽? 境界線の音楽? だが名付けを拒むように、A-DOONの音楽はしずかなたたずまいで鳴り響いている。

でも多くのものが偶然にむすばれた、そんなA-DOONの音楽をタイの伝統音楽のあたらしい継承者ということができないだろうか。

アジアの伝統音楽は本来、多様な文化間の交流をくりかえし、変化の層のなかで伝承されてきた。だが西洋音楽の影響で楽譜がもちこまれ、音楽の伝承は変質した。いまでは西洋の影響から伝統を保護していこうとする運動がさかんに行われている。だが守りにはいった伝統は停止した時のなかに佇んで、そこから一歩もでることができない。タイの音楽も例外ではない。

たとえば、タイの古典とその現代的な読み替え、そしてポップスの編曲まで幅広く手がけるブルース・ガストン率いるフォン・ナームのような経験を積んだ団体もある。だがさらに現代的な感覚で広がりをみせる若いA-DOONの音楽は、タイでは伝統にたいする軽べつと受けとられてしまうのだろう。「いまはタイには帰れない」。このことばは自分の音楽といまのタイの伝統との距離を遠回しに物語っている。

伝統とは時間を超越したものでも、歴史的過去のものでもない。守るべきものもなく、過去に捕らわれることのないA-DOONのような音楽家が、身につけた音楽を外に開いていくことで、タイの生きた音楽を創造していくことができる。日本に身をおき、日々のNARIYUKIにまかせ、出会いを求めて彷徨う孤独な音の旅人はすてきに歌っている。

いろいろなとこへ行くけど 決めるのは無理だね できごと神はもう決めてる 俺は待つだけ この旅は長いよ どこ行くかは知らない……行き先は違う 俺と同じ行先 持っている人は 誰もいない」(「旅人」より)


   その4

「私はまだかけだしの作曲家だった。最近、パリでの勉強を終えてニューヨークに戻ってきたばかりで、この二年間、作曲と演奏の仕事に追われていた。そんなとき、人生を変える数枚のレコードをきいたのは偶然としかいいようがない。そのなんともいい難い音楽がいったい何なのか、わたしは無性にしりたくなった」(C・マクフィー著「バリの家」より)。

カナダの作曲家コリン・マクフィー(1900〜1964)はバリのガムランに魅せられ、最初に本格的な研究をした作曲家だった。おそらくかれが驚きをもってきいたSP盤がこのディスク「the roots of gamelan」(world arbiter 2001)に収められている。ここには当時の流行の最先端であるゴン・クビャール、人気の作曲家ロットリングの作品、伝統的なグンデル・ワヤン(影絵芝居の音楽)、加えて1934年にマクフィーが編曲した二台ピアノによるガムランのアレンジ(ピアノはマクフィーとB・ブリテン)などもふくまれる。

ガムランが録音されたのは1928年、この時期のオランダは、植民地政策の傘のしたでバリを西洋近代の価値観に同化吸収する一方、第一次大戦以降、バリ島観光がはじまったことも関係して、オランダ人が考えるバリ文化の保護、すなわちバリ人の「バリ化」を推しすすめ、生きた博物館としての「楽園バリ」というイメージを捏造することに力をつくしていた。

この録音はそうした状況で、バリを世界にむけて発するイメージ増幅装置のような機能を担うことになった(実際には、無計画な発売戦略のためにその一部がヨーロッパ、アメリカで発売されたにすぎないが)。マクフィーは偶然にその録音きいた一人であり、合理化した西洋とは異質の炸裂するガムランの響きにおおきな衝撃をうけ、1931年にバリにむかう。

かれの目的は「バリの家」に克明に描かれているように、神秘的なガムランの音楽構造を解き明かすことであり、ロットリングをふくむさまざまな人との出会いや協力によっておおくの音楽を体験し、楽譜に留めた。また同時に廃れつつあるガムラン・スマル・パグリンガンやガムラン・アンクルンなどの音楽様式を復活させ、バリの文化におおきな影響をあたえた。

この時期のバリの音楽はふるいものが廃れ、あたらしいものが台頭する転換期にあった。ゴン・クビャールは1910年代後半にうまれ、その華麗な響きとはげししいリズムは、今日でも装いをあらたにしながらバリの音楽様式の主流として息づいている。またガムラン・スマル・パグリンガンも王宮の消滅によって消滅という運命を余儀なくされたが、幾度かに渡って、復活し、伝統を更新しながら演奏されつづけている。

マクフィーが金の力で人を動かし、支配と被支配の関係から見た異文化への眼差しや記述の仕方など、現在のポスト・コロニアルの視点からかれを批判するのは簡単だ。だが不幸なことかもしれないが、そういう方法でしか西洋人とバリ(バリ人)が出会えなかったのも事実だ。しかしバリの人々はそうした出会いのなかでたくましく独自の文化を育んでいった。

今日一般にバリの音楽としてしられるケチャやバロン・ダンスなどは西洋人が考えだしたものであり、マクフィーのテキストも1966年以降、バリの芸能の専門学校の教材として使われていたという。滅びゆく様式を復活させたかれの視点が、たとえ伝統が絶えていくことを危惧する支配側のものであったとしても、バリの人々はこうした外部からの伝統保護を博物館的な停止した時間に留めるのではなく、それを内部に巧みに取りこみながら、生きた時間に転化する柔軟さと許容力をもっていた。

伝統は消滅することはあっても、存続する限りにおいて完成のないプロセスを生きる。この「the roots of gamelan」は音楽における西洋とバリの出会いの物語を留めた貴重な記録であり、そこから変容しつづけてきたバリ文化の姿を透かし見ることができる。そしてもしかすると、バリ人がこのディスクとの出会いによって、あたらしい伝統を継続するきっかけとなるかもしれない。



書きかけのノート(1)  高橋悠治

20年前の水牛楽団の歌のCDを買う人がいる。なぜだろう。政治的な意味はとっくに消滅してしまった。音楽として、何かほかにないようなものがあるのか、それはわからない。

この20年のあいだ、水牛楽団からはなれて、何をしてきたことか。その時書いていた、日記のかたちをしたノートをよみかえしても、その後で書いたカフカについてのノートをよみかえしても、いまとはそんなにちがわない別な時間、こことはそんなに遠くない別な空間で、似ているがおなじではないことを書きつづけている他人が見えるだけだ。書いてあることは、病気としか思えない。いまとはちがうが、どこか似たところのある病気だ。

記憶しているということは、思いだすまで忘れていたということだ。思いだしたそのことも、またすぐに忘れる。

過去は、もうどこにもない。夢のなかで会った人は、思いだそうとしても、顔がはっきりしない。昔のできごとも、思いだすたびに、ちがうかたちになって、いま考えていることの根拠になり、条件になり、方向をきめているけれど、その記憶は、いま考えていることにあわせて、つくりなおされてもいる。

昔の歌をききなおして、わるくないじゃないかと感じる、そのことが、いましていることに満足していない気分のあらわれだ。きこえているのは、昔の歌ではなく、そこを鏡としてうつしだされた、いまの歌のたりないところ。

      *

雅楽のなかで、千年のあいだにあまり変化していないと考えられるもの、調子とよばれる前奏曲の楽譜は、笙のばあい、一息で吹かれるフレーズのなかの指のうごきをしめしている。指で押さえ、他の指を加え(具えるという)、放し、あるいは残し、あるいは移り、というような手順が書かれている。

指のうごきをささえとしながら、楽器の瓢箪のなかを行き交う息をききとるだけで、世界をよむことができる。それが調子ということではないだろうか。

指がうごくのを感じる、息がおのずから入ってきて、おのずから出ていくのを、瓢箪を通して感じている、音が聴こえる、その音と息とのかかわり、指とのかかわりを感じる、音はどこからくるのでもなく、どこに行くのでもなく、どこにあるとも言えず、変化しつづけるこれらの関係のあらわれとして聴こえつづける。それが、その時の調子であり、それにつれてひらかれる世界の聴こえ方というものだ。

雅楽の調子が千年のあいだ、吹きつづけられ、また毎日それだけを吹いていても、一度としておなじものではなく、変化する世界を映す底のない井戸のようなものであるのは、そうした音楽のありかたをしめしている。そうだとすれば、それは調子でなくてもよかった。

調子は、たとえば盤渉調調子であっても、盤渉調という調子のなかにあることがだいじなのではなく、そこからひそかにはずれていくことが感じられるから、調子でありえた。

音がまずあり、それを実現するための指使いがあるとすれば、これはまったく別なことになる。音というかたちに封じ込められた意味を解凍するにはどうすればよいか。ここで意味といっているのが、世界を前にしたある姿勢だとすれば、これは過去のあるときに起こった音という現象が、いまとるべき態度を規定していることになる。

とるべき、というのは外から迫られる、と言ってもいいが、思いのままにならないことを指している。世界をよむ指と息のかかわりも、思いのままに、というわけにはいかないが、このばあいは、思いははじめから問題にならない、思いをはなれている、と言ってもいい。

指を調えることからはじめるか、あるべき音のありようからはじめるか、じっさいはどちらでもあり、どちらでもない。あるべき音というものが、音についての概念であり、具体的な音でないばかりか、音という実体さえどこにも存在しないことを感じつつ、音という存在があるかのようにふるまわなければ、音はあらわれない。音という仮定された実体は、意識がつきあたるための壁、意識が意識するための鏡としてはたらく。

だが、そこにとどまっているわけにはいかない。つきあたり、反射する意識が、音のなかにとじこめられないように、指と息にたちもどりながら、意識は音からのがれでて、音がうすれていくのを観つづける。

      *

考えたことを書く、これでは書くことはたのしくないばかりか、考えてしまったことは、後からかたちにはできない。過ぎてしまった考えには追いつけない。

書きながら考える、あるいは書くことは考えることだ、とすれば、書きながら、書くことによってあらわれてくる発見にしばられる結果になるだろう。書きながら、ある感じを持続する、これがむつかしい。たとえば、書いている指を意識する、それが現実との接点になるかもしれない。そうでなければ、書かれることばは、ここではないどこかにいってしまう、考えるはたらきだけがさきばしって、かってに判断し、答えをひきだしてくる。

書くことによって、考えから解放される、そんなことがあるだろうか。書かれたことばが打ち消しあって、これでもなければ、あれでもない、これでもありあれでもあるのでもなく、これでもあれでもないのでもなく。

書きながら、考えることを自制する。考えても、考えすぎないように、書くことをはじめる。

すると、書き終わることはない。書き終わるためには、書くというはたらきがそこで尽きるなにか、思いがけない答が出てしまったというような事情がなければ、書いているこの場所からはなれるわけにはいかないからだ。

それでも、いつまでも書いているわけにはいかないから、書くことは中断される。書かれたものは、すべて書きかけの、未完成のものであるほかはない。書く人はくりかえし、書く場所にもどってくる。書けば書くほど、書かれたものは、断片になり、書きたりないものになっていく。

      *

問いのなかに、すでに答があると言われる。では、答のない問いがあるだろうか。問うことは、答があると信じているからできる。その答さえあれば、問いは消滅する。問いでありつづけるのは、問われない問いだけだ。

何かを習うときに、質問してはいけないと言われることがある。質問したら、わからなくなる。なぜなら、わからないで質問する、その質問はただしい質問ではないから。では、ただしい質問があるだろうか。わかっているなら、質問はいらない。

だが、こう書いたのはただしくなかった。なぜなら、わかっているか、わかっていないかは、わかっていなければわからないことだから。

すると、わかっていないことだけはたしかだ。

習うということ自体が、習っているそのことへの問いかけなのだ。じぶんで答を見つけていくのではなく、見つけた答がまちがっていることを知るのが、習うということだ。何度考えなおしてもわからないというわかりかたが、ただしいわかりかたというものだ。

(これまでに書いたテキスト、スケジュールなどは、「楽」にあります)




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