2002年1月 目次


社員証の番号               片岡義男
ジット・プミサクとワシット警察中将(3) 荘司和子
ホワイトクリスマス            御喜美江
本とは何だろうか?            LUNA CAT
Present from Myanmar and Friend    長縄 亮
しもた屋之噺               杉山洋一
水牛通信を入力して            桝井孝則
書きかけのノート(9)          高橋悠治

***

『届くことのない12通の手紙』に寄せて       
                   



社員証の番号  片岡義男



 主題は会社の仕事、地下鉄の現実と憂愁。
 花が咲く、月が照る、関係ない。
 孤独すら知らずに今日も過ぎゆく。
 ありふれた結末、ただそれだけ、生きかたです。

 

 赤い夕陽にうしろ向き、あなたの美はどこにあるのか。
 口実を見つけた、もっともな言い分、立場というもの。
 心まで染まって、なにをいまさら。
 苦労のつきないこの時期を人生と呼ぶ。

 

 黙して語らず、そしらぬ顔、ごまかすしかない。
 理由にならない理由、灰色の曇った空。
 安易な道を走る、言いかたによる、平凡に生きる。
 されるがまま、なぜとも訊かず、なにとぞよろしく。

『東京を撮る』より(2000年 アーツ・アンド・クラフツ)




ジット・プミサクとワシット警察中将(3) 荘司和子


今回はジット(1930年生)と同世代ですが全く対照的な生き方をした作家ワシットさん(1929年生)を紹介したいのですが、その前に余談をひとつ。美恵さんは11月にカラワンのコンサートで12月にはタイで本物のモンコンと会ったそうですが、わたしは11月に仕事で見たタイの映画でモンコンの若いときにそっくりな俳優に会いました。名前まで似ていてパワリット・モンコンピシットというのです。

「レイン」(邦題)という映画で監督は香港のオキサイドとダニー・パン(双子の兄弟)。物語はひとりぼっちの聾唖の殺し屋が人の生命の大事さに目覚めていく悲劇を描いていますが、マスコミ公団総裁暗殺事件をヒントに作られています。聾唖の殺し屋ゴンを演じたのが『モンコン』でこれがデビュー作とは思えないほどの演技です。足の悪いモンコンと比べると精悍ですが、それでも初めて日本に来たころのモンコンを彷彿とさせる面立ちです。かつてタイのアクションもの映画にあった毒々しさ野暮ったさとは無縁の美しい映像、色彩の映画でこころに迫るものがあります。1月末から渋谷東急会館地下で上映されるのでモンコンファンは是非見てください。

主演男優のインタビュー通訳で彼と2日間つきあって聞いたはなしでは、タイの殺し屋には2種類あるとのこと。このはなしに出てくるような貧しくて金のために殺し屋になる連中は特別な腕をもっているわけではなくて、至近距離まで行って殺すことしかできない。もうひとつのタイプは軍や警察でプロとしての特訓を受けた連中で、照準機付きライフルで遠距離から狙撃する腕をもっている。つまり元または現役の警察官というわけです。
 
警察官による犯罪というとワシットさんのはなしになります。ワシットさんとさんづけになってしまうのは何度も会って知っているせいで、ちょっと呼び捨てにできないほど威厳があります。はじめて会ったときすでに定年退官後だったので柔和で僧侶のような穏やかさでしたが、時折警察官のような鋭い眼光になることがありさすがでした。ここから先はジットとあわせてさんをとることにします。

ジットと同じチュラロンコン大学出身ですが専攻は政治学なので当時はまったく知らなかったということ。卒業後カーネギー奨学金を得てニューヨーク大学で修士をおさめ帰国、母校の政治学部の教壇に立つのですが、マルクス主義を批判的にただし社会科学として教えたために退官を余儀なくされたようです。社会主義イコールテロリストギャングとされていたレッドパージの時代に批判的にであってもマルクス主義を紹介することは「容共主義者」として危険視されたのです。それでその後は中央情報局を経て警察のキャリア官僚となるというジットとは正反対の道を歩むことになったのでした。

本人のはなしでは「わたしは心情的には左翼の人たちに近かったんですよ」ということですが、小説の中では左翼活動家について「政府や体制を打倒して彼らの夢に描く体制を打ち立ててしまいさえすれば、タイは明日にでも天国になると信じるものたち」と表現していて、当時から政治を冷静に現実的に見ることのできた稀有の人だったことがわかります。そのころ政治や経済の問題を愁いた人びとの大多数が社会主義の理想で変革できると幻想したのに。それでジットの作品も評論などではイデオロギー臭の強いものがあります。

ところがワシット・デートグンチョンが選んだ生き方というのはジットのそれに負けないほど危険なものでした。タイの警察は「制服を着たギャング」という異名をとるほど庶民に憎まれた権力犯罪集団でもあったからで、とくに彼が警察官になった50年代から60年代にかけては悪名高い内務大臣が警察局長でもあり政治家、地方ボスと組んだ巨大な闇の勢力でした。「警察の中には正義もあるのだ」という少年時代にいだいた信念を警察の中に入って実践しようとした彼のパッションの大きさには驚嘆します。それが警察が大嫌いだったのだそうですから。

その後のワシット・デートグンチョンと彼の作品との出会いについては次回にします。ではどうぞよいお年を。




ホワイトクリスマス  御喜美江


最近、雪があまり降らなくなったと思う。

昔アーヘンに住んでいた頃、この季節になるとまずは“雪かき”で一日が始まった。家の前の階段、道路、そして庭の木、これは枝が折れないように箒で新雪を振るって落とす。つららも軒から沢山ぶらさがっていて大きいのは鋭い刃物と同じ、“つららによる殺人”は全く証拠が残らないな〜、なんて当時松本清張を何十冊か読んでいた自分は、推理小説のストーリーを頭の中で考案したりしていた。毎朝の“雪かき”はけっこうしんどかったけど、その後の朝食はおいしかったし、低血圧の自分にとっては一瞬にして目を覚ます良い薬だったと思う。

それがいつの冬からだろうか、“雪かき”が一日の日課から消えた。雪かき用のシャベル、箒、道路に撒く塩、雪用のブーツ等など、もう数年お目にかかっていない。それで朝はほとんど空腹感がないし、とにかく眠い……。だからといって雪も降っていないのに、暗く寒い外に出て体操でもしようか、なんて絶対に思いつかない。一分でも長く寝ていたい、出来ればず〜っと起きずにぬくぬくと暖かいベットの中にいたい。目がさめたら起きないで本を読みたいな〜。

私は“自分がどんな人間なのか”、語ることは出来ないけれど、少なくとも“寝ることが大好きで起きることが嫌いな人間”とは表現できる。ということは、もし時間で制約された仕事がなくて、雪も降らなかったら、冬眠まちがいナシ。

19日からやっと大学が冬休みに入った。あいにくその数日前から風邪気味で体がだるく、のどや関節もやたら痛かった。ただひたすら自宅で寝たい……と思った。その日オランダに戻ったら留守電、郵便物、ファックスが山のようにあったけど、体のだるさには勝てなくて、とにかくベットにもぐりこんで寝た。

でも頭の中では常に「クリスマスプレゼントの買物……肉屋、市場、酒屋、……」などの単語がちらついて、のんびりベットの中で病人しているのがストレスに感じられてきた。というのは普段自分は留守ばっかりして、ちっともいいお嫁さんをしていないので「今年のクリスマスはラントグラーフでパーティーです! ミエがご馳走を作ります!」と数週間前に宣言してしまったから。それでお姑さんのみならず、ギーセン市から(ここから約250km)義姉、そのダンナまでわざわざ来ることになってしまった。どうせやるからには「日本人の食生活水準がドイツ人のそれよりはるかに高い!」ってとこも見せたくて、材料購入の段階から“こだわり”を持ったらそれも話の種と欲を出し、またいろいろな本なんかもけっこう真面目に読んで、一年の不沙汰を12月25日の夕食会でまたゼロに戻そうと張り切っていたのであります。そうすればダンナだってさぞかし嬉しかろう〜、と思ったのはちょっと自意識過剰で、彼は「大体普段から質素なもの食べてるんだから別に何出したっておんなじだよ。ミエは寝てればいいよ、そのほうが静かでいいよ。」と。う〜ん、ここで内心ちょっと動揺するけど、でもやっぱりまずいものよりは、おいしいものの方が絶対に楽しい! と決断し抗生物質の薬を飲んで、厚着をして買い物に出かけた。幸い市場でとてもいい海老があったからそれを42匹買う。野菜も果物もここの市場は素晴らしい。チーズはオランダで、肉はドイツの肉専門店で買う。赤、白ワイン、シャンペンそれぞれ10本ずつ、ケーキの材料はドイツのスーパーで。体は相変わらずだるいけど、でも目標があるので病症はおあずけ。

買い物だけで2日間くらいかかって、さて料理開始! 鶏肉と沢山の野菜からスープをとる。これを一夜外で冷やしてからまた温めなおし、こす。パンケーキを薄〜く焼いて千切りにしたのを入れると南ドイツ風フレーデルズッペ。フェルトサラダという菜っ葉がこちらでは冬に出荷されて、これはものすごくおいしい。まったくシンプルに塩、オリーブ油、酢少々だけがおいしい。パスタは手打ちといきたいが、打ちたての生パスタが買えるイタリア店があるのでそこで購入。パスタはハーブとにんにくとレモン。海老はフライにしてそれにつけるソースはちょっと四川風にピリッと。市場の野菜はどれも新鮮で味も濃くさっと炒めただけでおいしさ十分、八宝菜もあっさりと。ケーキはチーズケーキとアドヴェンツクーヘン(りんごと胡桃の入ったシナモン風味でふわふわしたケーキ)の2種類を焼く。デザートはテラミスを作った。甘味をおさえると、満腹でもすんなりのどをとおるので不思議。あとはチーズいろいろ。

夕食の準備はととのい、暖炉に薪をくべ火をつける。今日はみんな泊まるのでベットの用意も一応しておく。あんまり暗くならないうちに来たい、と義母が言うので午後3時半くらいと思って、その頃ろうそくに灯をともした。彼女の所からここまでは車で30分くらい、すでに義姉夫婦は前日からそこに到着していてここへ一緒にやってくる。その時電話が鳴った。「ミエ〜、これからそっちに行くわね〜!」と嬉しそうな義母の声。それを聞いて「あ〜、よかった、今日は楽しくなるゾー!」とルンルン気分。何回も味見したスープをまた味見したり海老を点検したり、そわそわ落ち着かない。30分たった。少し前から雪が降り出して外は白っぽくなっている。これで外が雪景色となったらこのクリスマスは演出もパーフェクト! と幸せな気持ち。40分たった。雪でのろのろ運転なのかな〜。暖炉の薪だけがパチパチと景気よく燃えている。ちょっと心配になってきた。ダンナはのんきにピアノなんか練習している……。50分たった、60分たった、まだ来ない、とその時電話が鳴る。「ミエ〜、猛吹雪なのよ、もうにっちもさっちもいかないの、それに道路は全く凍ってしまって100%氷上なのよ。途中から仕方なく引き返してきたの、今日はそっちに行けないわ〜。」と義姉の悲痛な声……「でっかい海老フライが42匹待ってるのに。」と言ったら「あ〜アヒム〜(ダンナ)、海老だってー。」とさらに悲痛な声。(彼女は海老が大好物)それから義母ともかなり長電話をして受話器を置いた時、ダンナが部屋に入ってきた。「ヴァールスの方は猛吹雪なんだって。来れないんだって。がっかり〜、落胆で〜す……」と言うと「そう、じゃあ2人で静かな楽しいクリスマス!」とにこにこ。外を見ると、こちらもあっという間に真っ白な雪景色となっていた。ところで天気予報によると、この大雪2、3日は続くそう、ということは明日もあさっても彼らは来れない。ここ数日はりきっていただけに急にがっくりきてしまい、しばらくはぼんやりと、窓から外を眺めていた。

その夜ダンナは海老を25匹食べた。私は10匹食べた。
食後、庭に出たらそこには明るく静かな夜があって、雪がしんしんと降っていた。「ホワイトクリスマス!」と2人が思わず同時に言葉して、それがおかしく、しばらく雪の中で笑い続けていた。

2001年12月28日ラントグラーフにて




本とは何だろうか?  LUNA CAT

1990年代も後半にさしかかろうとしていた頃、電子本の世界に足を踏み入れ、首までどっぷりつかる羽目になってしまった。(それもこれも、紙の本を2冊ほど読んだのがきっかけである。ちなみにどちらの本も著者のイニシャルはTだから、私の場合、くれぐれもTというイニシャルの著者には気をつけたほうがいいのかもしれない。というのは余談。)

ちょうど私が「電子本」という怪しい世界に片足を突っ込み、もはや逃れる術はなさそうだと観念し始めた頃、「本とコンピュータ」という雑誌が創刊された。コンピュータ関連の仕事をして本代を稼いでいる私にとっては、自分の人生の二大命題が誌名になったような雑誌である。二十世紀の間をひと区切りとして創刊されたこの雑誌は、第一期を終え、二十一世紀を迎えて第二期に突入した。

「本とコンピュータ」は結局、当初の計画であった第一期で完結しなかった。第二期の第二号を読み終えて思うのは、いまだに「本とは何だろうか?」というタイトルのサブマガジンがそこにおさまっている現実である。第一期の創刊から4年半がすぎた今でも、そこにあるのは相変わらず「本」と「コンピュータ」であって、「本とコンピュータとが融合した新たな何か」が出現している様子は見あたらない。

「電子本」の状況はといえば、ここ最近は目新しい話題も少なく、大手出版社が電子本ビジネスに参入してきたといったような話ばかりが多い。電子本リーダーもほぼ出揃ってきたということなのか、新しいソフトやハードが出たというニュースよりも、PDAへの移植というような話題が中心になってきている。そんな中で、相変わらず「本とは何だろうか?」なのである。それこそ、いったい何なんだか。

そうした状況を見、さまざまな人々が「本」だの「ネット」だの「情報」だのと論じているのを読んでつくづく思うのは、「アナログには量があり(量ることができ)、デジタルには量がない(量ることができない)」ということだ。そして、本を本たらしめているものは、実は「量」なのだろうな、ということに、改めて思い至る。

「ボリューム」という言葉がある。これは、「本の単位」を指すこともあれば、「分量」とか「容積」とかを指すこともある。「本」というものは、ことほどさように、文字列を切り取って一定量の区切りをつけたかたまりなのであって、人間の意識の中には、「一定量のかたまり」として認知されているものなのだろう。そして、その「一定量」の境界線が目に見えないと、読者は「何となく気持ち悪い」のではなかろうか。

コンピュータの世界にも、ひと昔前までは「ボリューム」の概念があり、たとえばフロッピーディスクやCD−ROM1枚がひとつのボリュームだった。ハードディスクが記憶媒体の中心となり、その容量が年ごとに倍になっていく現状からは、1台のパソコンの中でさえも、もはや「1つの物理的なまとまり」としてのボリュームを思い浮かべることは困難になってきている。さらに、それがネットということにもなれば、ボリュームの境界線は地球規模で果てしなく拡がってきているわけだ。

というようなことを承知の上で、やはり読者たちは、本がボリュームであることを、意識的にか無意識的にか、求め続けているように思える。「ネット上に自分用のスペースを作り、家からも移動中も出先でも、そこにアクセスして同じ本の続きを読む」というような未来図が語られるけれど、現実にそうなったとして、おそらく、その「自分用のスペース」は、「本」ではなく「書見台」あるいは「書棚」なのではないか。ネットに書見台や書棚を置いたとしても、個々の読者は、やはり自分の手元のマシンにファイルを置き、物理的な境界線に近いものを引くのではないか。青空文庫にいつでもアクセスでき、無料で本が読めるとはいえ、やはりCD−ROM化の問い合わせが後を絶たないのも、同じ理由からなのかもしれない。リアル世界の図書館を丸ごと所有することはできないが、青空文庫のCD−ROMを1枚持っていれば、千数百冊の蔵書を擁する図書館を所有できるのだ。おそらく、この「量」の意識、そこから得られる「所有」の意識は、本にしぶとくまとわりついているのではないか。

おまけに、私のように「コンピュータの気心は知れているから、信用しない」人間は、物理的な境界線だけではなく、「いつもちゃんとそこにあること」も求める。リンク先がいつ消えてなくなるかもわからないから、ハイパーリンクの集合は信用しない。たかが停電という日常茶飯事のことが発生しただけで、復旧するまでは本が読めないという事態に陥るような代物は信用できない。さらに言えば、紙とインクの供給がストップするという非常事態が発生したとしても、既にある本が無くなることはないけれど、ハードディスクが壊れたら、その中にある本が一切消えて無くなるのである。そういう突発的なできごと以外にも、パソコンのハードやOS、読むためのソフトが変化するにつれ、古いメディアは読めなくなる危険にさらされる。ネット上のスペースに本を置いていたとしたら、何らかの事情で通信ができなかったり、はるか彼方にあるサーバマシンのハードディスクに物理的障害が発生したような場合には、自分の本を読むことすらもできないのだ。そういうことを本気で心配する人間にとって、自分のパソコンのハードディスクはともかくとして、ネットにあるのは「集合名詞としての本」とは言えるかもしれないけれど、「固有名詞としての本」ではあり得ない。

いまだに「電子本は本なのか」という問いに答えが出せず、「本とは何だろうか?」という問いかけが続いている背景には、こういったことに対する無意識の、あるいは意識的な警戒心が働いているのだろう。おそらく、人々の意識の奥には、「本というものは、範囲(量)を定めた文字の集合として、少なくとも数十年単位、ひょっとすると数百年単位で残すことができるもの」というイメージが焼き付いているのである。

これから先の何年かを費やして、コンピュータは、「本」から「量」の概念を取り去ることに、ある程度は成功するかもしれない。もしかすると、そのことによって、「本」と「コンピュータ」は幸せな融合を遂げるかもしれず、「本とコンピュータ」なる誌名は、存在し得なくなるかもしれない。ただ、コンピュータが数十年単位、数百年単位のアーカイヴとして機能するかどうかは、実際に数十年、数百年が経ってみなければわからない。あるいは、コンピュータにとって代わる、何らかの新しい「本」のかたちが、この先数十年、数百年の間に出現するのかもしれない。そういう意味では、4年半とは言わず、この先数十年、数百年の間、やはり「本とは何だろうか?」の問いは、発せられ続けるのだろう。

2001年12月21日  



Present from Myanmar and Friend  長縄亮


どこか外国へいくときに
出会う人間がどんなだかわからない
どころか出会うこともわからないのに
プレゼントを持っていく
適当な
適当な
適当な

失礼だよな
そんなの
俺はなにも持たないぜ
出会うことがプレゼントだからな

だけどこの前ミャンマーからの演奏家に
カレンダーをプレゼントといってもらった
俺がいることも知らなかったのにな
誰に会うかわからないのに持ってきた
「失礼なプレゼント」だ

そのカレンダーには値段がない
君が思うようなセンチメンタルな理由からじゃないぜ
100パーセントにはな

というのは
それはどうやら近くの酒屋でのもらいものの
カレンダーだから
その店の連絡先つき
カレンダーの四枚の写真はみんなパゴダ

そのプレゼントに
だけど俺は泣いたんだ
パゴダが大好きだからじゃないぜ
100パーセントにはな
そのこがパゴダが好きで
というか
大切に また誇りに思っていて
それをプレゼントに持ってきてくれたということが
わかったからな

ミャンマーでは音楽家はみんな国家公務員だぜ
国際的に悪名高い非人道的な軍事政権に仕える
おかかえ音楽師
しっぽふり野郎だ
南インドで出会った白人のバックパッカーは誇らしげにいった
「中国とミャンマーへはいかない」

けどな
おかかえ音楽師は会ってみるといい奴なんだ
夜を徹して話したんだ
というのは嘘で
というのは俺はミャンマー語ができなくて
彼は日本語はもちろん英語もそんなにできるわけはなかったからさ

なんで「いい奴」だなんてわかるかって?
そうだな何でかな
じゃいいや
「いい奴」じゃないや

でも俺は「いい奴」だったな
久しぶりに
それはよくわかった自分のことだから
俺をいい奴にしてくれるんだから
いい奴だよやっぱ

ぼくたちはさ
札幌の町をぞろぞろ仲良く
手つないで歩いてさ
100円ショップへいったんだ

思想とか政治とかよくわからないけど
楽師達は音楽をやるしかないんだな

いったん始まっちゃうと
音楽しかなくなる
演奏も人もなくなるさ

誰が聞くのかわからずに
音楽なんて失礼だよな
適当な
適当な
適当な

けどな
誰が聞いてもかわらずに
音楽はあるんだ
そこに投げ出されて
誰からでもない
誰へでもない
プレゼント
俺達はただそこに居合わせて耳を傾けるほか
なんにも
なんにも
できないのにな

公演のあと俺はひとり
小樽から海岸線をまわる舟に乗って
白い空と海と白い雲を見るばかりだった
きれいとはいえないだろう
白い空と海と白い雲はけれど
きれいとはなんなのかわからない俺には
きれいとしかいえなかった

白い空と海と白い雲
あそこには
もう一枚重なっている
そこへ俺はいけないのだけれど
それだけははっきりわかったな



しもた屋之噺  杉山洋一

何でも今年は20年来の大寒波だとかで、住んでいるミラノ近郊でさえ、日中の最高気温が零下2℃とか3℃という毎日がしばらく続いていて、現在は南イタリーに大雪がふりしきっているそうです。家の近くをながれるかんがい用水が、農閑期にかかわらず今年はなぜか水を流していて、表面にはうすく氷が張っていました。

中学生のころ「水牛」を読んでいたご縁が、こんな形でひょっこり表れるとは、人生はほんとうに面白いものです。当時本屋に並んでいた悠治さんの本は、読破したはずですが、なぜか「水牛楽団ができるまで」が気に入って、ミラノに住みはじめ最初に東京からもってきたのも、くたくたになるまで読み古されたこの本でした。

大学時代、コマーシャル音楽を書いていた時があって、その初めての仕事で録音にゆくと、なんと西沢さんがいらして、昔、水牛楽団の演奏会にうかがったころを思い出し、少し胸が熱くなったのをおぼえています。まだスタジオ仕事は全くの未経験で、ピッコロ、フルート、アルト・フルート、バス・フルートで書く注文をうけ、当日スタジオについてみると、西沢さんお一人で4本のフルートをかかえて現れたときには、ちょっと驚いてしまいました。まさか一人で多重録音するとは思いもよらず、ずいぶん厄介なものを書いてしまったのですが、西沢さんはとてもていねいに仕事をしてくださって、書いた本人がびっくりしていたのが昨日のことのようです。

私信風になったついでに書きたしますと、この11月チューリッヒに仕事ででかけた折、メキシコ人作曲家のフリオ・エストラーダと話していて、なぜか彼の口をついて出てきたことばが「おまえ、ユージ・タカハシを知っているかい」という思いがけない質問でした。唐突だったのでびっくりしましたが、考えてみれば、クセナキスを軸に悠治さんとフリオはとても近しい間柄だったのでしょう。

僕が指揮をしたエストラーダ作品は、演奏者を会場の四方に配置して、旋律を3次元的に移動させる試みだったのですが、そんな配置の打ち合わせをしていると、フリオが「でもおまえは左利きだから、何にも問題ないよ。左利きは右脳と左脳が逆にはたらくから、空間的な作業にはもってこいなんだ。だからクセナキスもきっとそうに違いないと思って、ある日たずねてみたら、やっぱり彼も左利きで生まれていたんだ。彼は右でものを書けたけれど、本来は左利き人間なんだ」なんて妙な話を、だしぬけに話しだすのです。案外悠治さんも左利きかしらと、そのときふと思いましたが、個人的には、このフリオの話は、あまり説得力がないと思いました。

その後、しばらく日本にもどっていたのですが、湯河原の祖父のお墓まいりに出かけると、祖父のお墓に巨大なかまきりが2匹いて、そのうち1匹は死んだばかりで小さな蟻がたかりはじめていて、その片われが線香の上で立ちつくしていたのが、強烈な印象をのこしました。

日本に帰ると自分のからだの力がぬけて、脳味噌がすこし溶ける気がします。ヨーロッパに戻ると、反対に顔の筋肉がほんのすこし強ばって、脳味噌がすとんと整理されるのが自分でわかるのですが、そんなとき、つくづく自分が日本人だなと痛感します(むしろヨーロッパ人になれぬことを、無意識に確認しているのでしょう)。ただ、日本で一番印象に残ったものが、墓守のかまきりだとすると、これは自分になにを意味するのか考え込んでもしまうのです。

イタリーでなにが印象に残るかといえばこれも案外むずかしく、ふと頭に浮んだ言葉は「空」でした。こちらに来て、よく空を眺めるようになりました。鳥のさえずりで起され眺める朝焼、自在に変化したなびく雲、燃立つように鮮やかな夕焼や、降り注ぐようにきらめく夜空を見上げるのも好きですが、東京に住んでいたころは、建物が多すぎて見渡す空が望めなかったからかもしれません。「街の匂い」なんて言葉も頭をよぎります。デオドラントな東京の街並と違い、街が体臭をもっているように思うのです。時間のながれも、思いのほか緩慢かもしれない。
 
そんな言葉をつらつら反芻していると、東京にさえ住んでいなければ、日本を出る必要もなかったように感じられます。実際その通りかもしれませんし、思えば音楽すらやっていなかった気もするのです。音楽高校の受験に失敗して一年ほど浪人生活をしている間は、音楽の必要など全く感じず、きままに過ごしましたが、こちらに来て無一文になり、半年ほど音楽と無関係に暮らさなければいけなくなって初めて、食べなくてもいいから、ただ音楽をしたいと思いました。

自分が音楽をする意味が見えてきたのはその後のこと、つい最近のことですが、イタリーの有名な諺には「遅くても来ないよりはマシ」というものがあって、折につけ思い出しつつやり過ごす毎日です。




水牛通信を入力して  桝井孝則


一一入力して感じたことなど、「水牛のように」に書いてみる気はありませんか。

水牛通信の入力をてつだって
何冊くらいおえたときだろうか?
送られてくるコピーに同封されて
いつも八巻さんからひとことメッセージがはいっている

まるで性格がにじみでたような(?)まあるい文字
何冊目かのそこにそのことが書いてあった

やってみたいとはいったものの どうもまとまらない
さあ たいへんだ

いちばんはじめに入力した号のさいしょのページに
ケイサツ タイホ ハンザイシャなどの文字がならぶ
三里塚ということばもでてくる ききおぼえがあるような ないような
どこにあるのかもしらない なにがあったのかもしらない場所のなまえ
それからアメリカ人 アジア人 中国人 そして日本人
この号に入っているちがうタイトルから入力を希望したので
はなしの流れがわからず
文章にちらばったキーワードからながれをくみたててみる

入力する作業ははじめてなので
意味の理解とどうじに文字をうちだすのはむつかしい
かみにかかれた文字をディスプレイにうつすだけの作業
はなしの内容は さきに読んでおくか あとで読むか
入力のさきを急ごうとすると読むことはおろそかになる

一つの項を一つのテキストにまとめて 一冊のファイルをつくる
はじめの一冊をおえるのにどれくらいかかっただろう?
一か月くらいだったか?

一冊をおえて 書いている人ほとんどがはじめてみる名前だった
もちろん しっている名前から ちがう一面があらわれることも少くない
文字のよこに少しそえられたさし絵は ひごろみているものとはまったくちがう
はしり描きのようなまがった線 ふとい線 なにかわからない絵
みんな目は一本の線なのに くらい顔 あかるい顔 いろいろ
裁判のようすみたいだが いぬがねている

それから つぎの号は きりがいいとおもわれるところを選んだ
作業になれると 意味を理解しながら手がうごくようになる
今回送られてきたものは 前回のものとちがって
先にひろったようなことばはでてこない
なにげない生活の記録 雑記

これも入力しおえて
あといくつかをやった
入力しながらいろいろおもったことはあるが
もうほとんどおぼえていない
すこしづつ進んでいって
とつぜん出あい
わかれてまたあるきだす
というぐあいだろうか?

どこまでつづくかわからないが
この先も入力をしていきたいと思う

水牛がまた立ちあがった
そして歩きだした
みんないっしょだ



書きかけのノート(9)  高橋悠治

東北アジアの硬さにつかれて 南に行くと そこには呼吸できる空間がひろがっている この場合 南はタイかインドネシアだ

「水牛楽団」の兄弟バンドだった「カラワン」のスラチャイ・ジャンティマトンに コンサートでちょっとピアノを弾かないかとさそわれて その気になった バンコクの空港に着いてみるとモンコン・ウトックがいる そのうしろからテレビ局のスタッフが現れてインタビューされたが こちらは何も知らないので うまく答えられない

『山から海へ』というスラチャイについてのコンサート=トークショーは1800席のホールが満員で 3時間以上休憩もなくつづく 書き割り舞台の松の木や 紙の岩のあいだにピアノが置かれ バンドがせり上がって来る ビデオカメラの捉えた歌手の表情が頭上のスクリーン2面に映る ピアノはソロの他に バンドのなかで「カラワン」の歌を10曲も弾く よめないタイ語の歌詞にコードネームがついたものを見ながら よくわからないまま弾いた それでもいつもと感じのちがうところが それはそれでよかったらしい

コンサートのあと深夜 郊外でさがしあてた家の外階段を上がったオープンスペースに 十数人が座って酒を飲み 楽器をまわして歌ったりしている そのなかに かつて「カラワン」とならんで活動していた「カンマチョン」のメンバー2人がいた いまは古都アユッタヤーでダム建設反対運動をやって 裁判にも勝った また財閥の息子だが家を出て農業をやっている人がいて 楽器をあれこれ持ち替えて演奏していた ビン・ラディンのTシャツを着ている人もいる 「あの世代」はまだ健全に生きている

次の日の夕方スラチャイの四輪駆動車で出発する スラチャイとモンコン 美恵と悠治 20年前とおなじ道を北にむかって 途中の村や町で泊まりながら 4日かけてチェンマイまでの700キロを往復する

途中の村で いまは森を護る人になったやはり同世代の人の農場にたどりついて 家の高床でテントを借りて眠る タイのどこに行っても こういう人たちがいる 「カラワン」はその網目のなかでもう30年もキャラバンをつづけている

チェンマイではパフォーマンスをするアーティストとフェミニストのカップルに会う いまチェンマイでひらかれているHIV治療の無料化のための会議に関連する文化祭を組織したというので 次の夜行ってみる お寺の境内でこどもたちを含む地元のグループや外国の代表の出し物がつづく スラチャイも呼び出されてちょっと歌う 若い坊さんたち全員でスラチャイをかこんで記念撮影する

小さな町でも若い子たちが寄ってきて スラチャイのサインをもらい 記念撮影をする Tシャツの背中に書いてもらう子も多い 「カラワン」の歌は最初のひとことをきけば みんながわかって拍手がもりあがる

チェンマイでは画家のテープシリ・スークソパとも再会した 20年前とおなじチェンマイ大学の裏にある家 この家はアーティストに開放されている テープシリが1976年日本に滞在中タイにクーデターが起こって帰れなくなったことから「水牛」ははじまったとも言える テープシリの指導でいっしょに芝居作りをし タイの留学生たちと「カラワン」の歌の日本語版などを作るなかで 「水牛通信」も出発したのだ

テープシリは郊外に伝統的な衣装の博物館をつくり そこで手染めの衣類も売っている 舞踊もやっていて 踊りながら絵を描いたりするらしい

バンコクにもどった夜 スラチャイとモンコンが出演するクラブで バンドのメンバーもみんな集まっていた 次の日はラオスとの国境に近い町に行くというので ホテルまで送ってもらって そこで別れる

「カラワン」といっしょにタイをさまよっていると 「水牛」もまだ生きているような気がしてくる 日本の冷たい空気のなかで 自由の夢がしぼんでいくまでは しばらくのあいだ この感じがつづく



ご意見などは suigyu@collecta.co.jp へどうぞ
いただいたメールは著者に転送します

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