水牛のように

2002年9月 目次


貧者の出版(1)              浜野 智
妊産婦さんを守ろう             佐藤真紀
Jitter                   三輪真弘
しもた屋之噺(9)             杉山洋一
結婚パーティにチベット舞台芸術団を迎えて 加世田光子
東京あせも物語               御喜美江



貧者の出版(1)  浜野 智




某月某日
神保町と九段下からほど近いところにある出版社と少し縁ができて、午後に打ち合わせ。早めに出て、昼時間近の本屋街をぶらぶらする。

この街に出てくると、必ず入るのが老舗の新刊書店、東京堂である。目当ては2階の全集コーナー。買うことはまずないから典型的な「ひやかし客」だが、それでも一応客ではあるだろう。
ビルが再築工事で、東京堂はかつて富山房だった建物に仮店舗を構えていた。売場構成は同じ。やはり2階に全集が並べてあった。
棚の前に立つと、何やらほっとする。結城信一の全集があった。版元は未知谷。他の書店では、まず見かけることはない。いまや稀少といっていいシンプルな、しかし函入りの重厚な仕立ての書籍で、価格は10,000円。「高い」とは思わない。多部数が望める本ではないし、この作家の小説がこよなく好きな人なら、この程度の価格で入手できることをむしろ喜ぶだろう。つい先日も青土社から出た原民喜の全集がほしくて古書関連のサイトを探し回ったのだが、やっと見つけた1軒での売価が55,000円。それが、目下の「本の世界」である。

20代に入ってまもない頃から、ということはかれこれ35年あまり、一日に一度は本屋の入り口をくぐるのが習慣である。格別な目的はなくて、ただ何となくだから、行くのは手近な店であることが多い。それが若干の苦痛を伴うようになったのは、ここ10年ほどのことだろうか。
どんなことでも、一度習慣化してしまうと、そのことに疑問やら違和感やらを覚えなくなるのが人間である。これは、パチンコ屋の轟音を例に挙げれば話が早いだろう。あれだけの騒音に囲まれていれば、音に敏感な人間なら発狂してもよさそうなものだが、目の前の玉の動きに熱中しているとすでに音は聞こえない。いいかげんなものだ、人間は。

ノイジーなBGMが間断なく流れるパチンコ屋と同じく、本屋にもノイズはある。BGMのことではない。本のつくり、装幀の問題だ。売場の大小を問わず、書店の棚は色彩の洪水である。これが、音にならないノイズを発する。「おれだ、おれだ、おれを買ってくれ」という声が、そこここから聞こえてきて、神経を圧迫する。
文庫本にカラーのカバーをつけるようになった最初は角川文庫で、正確なデータはないが、70年代の初頭のことではなかったかと記憶する。「店頭で目立つようにすれば売れる」という商人の発想はたちまち全書籍をとりこみ、派手な装幀の書籍が主流になった。いってみれば、デザイン優先である。
デザイン優先それ自体が悪いとはいわない。しかし、人の目を引きつけることだけに腐心したとおぼしきデザインが、はたして書籍にとって幸福なことなのかどうか。デザインの世界には素人だが、少なくとも「刷りは1色、素材は文字だけでデザインを競う」といった環境がこの国にあるとは到底思えない。

某月某日
残暑の陽射しの下、市ヶ谷にあるメジャー・クラスのレコード会社で取材。「POSが小売店をだめにした」という、どこぞの国の総理大臣のごとく「変人」を自認するこの会社のトップの話に相づちを打つ。
何がどれだけ売れているかをリアルタイムで把握できるのがPOSだが、その結果、販売活動にたずさわる人間は数字しか見なくなった。どんな世代の、どんな職業の、どんな志向の人物が何を、どれだけ買うかといったことはPOSではつかみようがない。それは「人間の仕事」であり、これをはしょった結果、すべての仕事はますます丁寧さを失い、杜撰化の一途をたどることになる。

高校を出てすぐ出版社に入社し、約6年そこに在籍した。身分格差のきっちりした封建的な社だったからとうとう編集担当にはなれなかったが、本づくりには大いに興味があり、編集部で使い走りをしながら、周囲の先輩たちのやっていることをしっかり観察した。いまも編集者づらをしていられるのは、その頃の見聞が30年以上たっても生きているからだろう。
記憶というのは歳月を通して「編集される」ものであって、事実そのままではないかもしれないが、あの頃はいまよりずっと丁寧に本づくりがされていた気がする。編集部には、装幀家としても著名なTさん(鶴見俊輔氏の『限界芸術論』の装幀をした人)がいて、装幀を手がけた他社の本をにこにこしながら見せてくれたことがある。「社の利益第一」ではなく(むろん、その意識がないはずはないが)、「いい本づくりをしたい」ということが何事につけても優先していた時代だったと思う。
その頃、本来は理科系の人なのに社内事情で文学誌の編集担当になったNさんからその存在を教わったのが、小熊秀雄だった。「おい、ちょっと校正をやってみろや」と言われてゲラを読んだ。どんな作品があったのかはさすがに記憶から消えているが、小熊の詩を集めたページだった。当時の僕はいってみれば「ランボオ青年」といった塩梅で観念的な詩句を意味もわからずに口走ったりしていたが、小熊詩の印象は強烈だった。言葉が具体的で、感情と意志がこもっていて、手触りが確かだった。「文学好きのやつらが褒める作品と作家だけがいい文学じゃないぞ」と、Nさんは言いたかったらしい。
これが、ずっと後年、青空文庫で小熊秀雄全集をつくろうと思い立つ動機になる。





妊産婦さんを守ろう  佐藤真紀




じわじわと体力を奪っていく話。
外にはイスラエルの戦車が停まっていて、時には意味も無く弾丸を撃ち込んでくる。外出禁止令が出て、兵士が町を見張っている。アメリカ政府がパレスチナの6歳未満の子どもたちを調査したら、パレスチナ人小児のうち30%が慢性的な栄養失調、21%が急性の栄養失調だという。2000年調査時の7.5%、2.5%から大幅に増加している。外出禁止令が出て、食料も底をつき、大人は働きにいけないから生活はますます苦しくなっている。

僕は、4月から食料を軍事封鎖地区に運び込む仕事をしている。外出禁止令下の町へ入って行ったり、解除された瞬間に入り込んでは、病院に粉ミルクや、離乳食を届けてきた。このような緊張した中でも、生まれたばかりの赤ちゃんに出会う。子どもたちは「早く出てこないか楽しみ」と言って新しい生命の誕生を心待ちにしている。「お医者さんになりたい」という子どもたちも少なくない。僕もつられておなかが大きなお母さんに会うとつい応援したくなるし嬉しくもなる。最近は、無意識のうちに妊婦さんを探していたりする。
ラナさんは、人道救援団体のスタッフをしていて、実家はジェニンにある。軍事閉鎖が解除されたときに彼女は久しぶりに母に会いに行くというので同行して来た。彼女のおなかが大きくなっていたので僕もうれしくなり、と言ってもなかなか男性の口からは切り出しにくかったので隣にいた看護師の吉野さんをつついて何ヶ月か聞いてもらった。ところが彼女は「子どもは1歳半よ」と言って笑っていた。おなかが大きいと言っても必ずしも妊娠しているとは限らないから難しいものである。

なぜ人は戦争をするのか。人口増加を抑えるという意味もある。イスラエル・パレスチナの紛争では特にそのことは注視されるべきだ。イスラエルの子どもの数は平均は2人程度であるがパレスチナ人は5から6人だ。人口増加率はイスラエルは1.67%であり、パレスチナは3.63%(いずれも2000年推定)。次々と生まれるパレスチナの子どもたちはイスラエルにとって脅威である。だからパレスチナの妊婦さんは今非常に苦しい情況に追いやられている。

「私たちが住む場所はイスラエル軍の駐留地のすぐそばですから、インティファーダが再燃した2年前からずっと困難な状況が続きます。最近では2週間前にも銃弾が家の中に飛んできました。子どもたちは奥の部屋にいましたから、けがはありませんでした。外出禁止令がでれば、家の中に閉じこもったままです。外出禁止令がでていなくても、近くで銃撃戦が始まれば外にはもちろんでられません。

末の娘は3ヶ月しか母乳を与えることができませんでした。この状況ですから、止まってまってしまいました(ちょうど昨年10月イスラエル軍がベツレヘムに侵攻し、キャンプ周辺で激しい銃撃戦があった頃)。もちろん、上の娘達にはもっと長く母乳を与えました。幸いにも私には仕事があり夫にも仕事(教師で管理職)がありますから、子どもの粉ミルクを買うことはできました。末娘はよく太って元気そうに見えるのですが、先日、軽い貧血(ヘモグロビン 10g/dl)と医者から言われ心配しています。
4歳の娘はまだおむつがとれません。おねしょも続きます。銃声が聞こえるとお漏らしがひどくなります。この状況だから仕方ないのは分かっていますが、気になります。
でも私たちはまだ良い方です。夫婦そろって仕事が有りますし、子どもたちも元気に一緒に暮らせています。お金がなく粉ミルクさえ変えない人達のことが心配です。」

8月27日 ベイト・ジブリン難民キャンプ
ファドア・アッザさん(教師、4歳、2歳、1歳の娘の母親)


コンサートのお知らせ

サブラシャティーラから20年、そしてパレスチナの今
1982年9月18日――2002年9月18日

第1部 「夢と恐怖のはざまで」映画上映会 
2001年/パレスチナ・アメリカ/56分/プロデューサー・監督 メイ・マスリ
ベツレヘムとベイルート。2つの隔てられたパレスチナ難民キャンプに生きる2人の少女、モナとマナールの数カ月。メールで友情を深めた彼女たちはついに国境で出会う。

第2部 トーク「サブラシャティーラから20年」
レバノンのパレスチナ難民キャンプで起こった虐殺事件から20年、今市民ができることとは何なのか。  パネリスト(予定)
 田中好子(パレスチナ子どものキャンペーン事務局長)
 熊岡路矢(日本国際ボランティアセンター代表)
     
第3部 平和への祈りコンサート 
20年前に作られた「パレスチナの子どもの神さまへのてがみ」
子守唄メドレー「パレスチナ・日本 ・ニューヨーク」で世界の妊婦さんが安心して出産できるよう祈ります。
 河野康弘(ジャズピアニスト)
 カステラ楽団(JVCパレスチナチームのメンバーからなる楽団です)

2002年9月18日(水) 5:30pm開場 6:00pm開演
光明寺本堂にて(港区虎ノ門3-25-1)
 都営地下鉄「日比谷線」神谷町駅下車徒歩1分、神谷町交差点角のあさひ銀行裏
前売り1,200円 当日1,500円
申込みは日本国際ボランティアセンター(JVC) tel 03-3834-2388 (蜂須賀・田村)か、 makisato@jca.apc.orgまで。



Jitter  三輪真弘


今年で4回目を迎える“DSPサマースクール”に参加した。何と言っても今年のトピックスは、主に音楽分野でのプログラミング環境として支持を集めているMAX/MSPの新しい拡張ライブラリーである「Jitter」の世界初公開である。「Jitter」開発者のクレイトン氏が講師として招かれ、彼のアーティストとしての側面も含め、コンピュータ・プログラミングと芸術表現をめぐる示唆に富んだ5日間だった。映像フレームを統一的に行列演算の対象として扱うこのオブジェクト・ライブラリーは他のMAX/MSPのオブジェクト群と同様、単なるエフェクターの寄せ集めではない、リアルタイム映像処理における基本的なプログラミングを可能にするもので、さらにそれが膝の上にのせたラップトップ・コンピュータで誰にでも実現できてしまうものである。ぼくにとって大切に思えるのは、条件付きであるとはいえ、この時点で高価な画像処理専用コンピュータやそれを扱える知識と技術を所有する特権はついに消滅し「やる気さえあれば誰でも」そのテクノロジーを手にすることが可能になったことである。このような事態はMAXの場合、まず実時間音響処理を可能にしたMSPの登場があり、そして今回、同じ技術がコンピュータにとっては映像にもまったく同様に適用できるのだという事実が示されたわけである。ISPWと呼ばれたMSPの前身であった音響処理エンジンの名前はFTSと呼ばれていた。それはfaster than sound、つまりサンプリングされた音波(-情報)の速度よりも速くその波形情報を演算する処理能力を謳ったものだったが、1秒あたり30ある映像フレーム画像上のすべてのドットに対して、フレームが切り替わる速度よりも速く複雑な演算処理を行う能力を、ぼくらが日常的に使っているコンピュータがいつのまにか持っていたことになる。それは「信じられない」速さではあるが理屈を説明されれば「想像できない」ことではない。

Jitterによる、水面に滴を落とすと波紋が広がっていくというCGの世界ではお馴染みのシミュレーションがあった。いくつも滴を落とすと互いに干渉しあい、壁に反射していく波紋をみながら、現象と原理、ディスプレイ上の目に見える世界と見えない場所で起きている出来事との不思議な関係を考えてみないわけにはいかなかった。映像のフレームと呼ばれる、とても速いけれども連続せずに切り離されている時間。では、切り取られなかった時間は時間なのだろうか?もし時間というならそこにも歴史はあるのだろうか?・・などと、映像表現に疎い素人ならではの夢想があとからあとから浮かんでくる。門外漢が最新技術を手にするとこのようなことになってしまうのだ。しかし、その混乱はコンピュータ言語が専門分野を越えて様々な人々に共有されることによって生まれたもので、それは新しい知識の居場所なのだと思う。
URL: http://dspss.iamas.ac.jp




しもた屋之噺(9)  杉山洋一

今日は8月15日。ヨーロッパ各地で酷い水害が話題になっていますが、イタリアは穏やかで気持ちの良い青空が広がっています。
夕べ届いた、東京の母からのメール。
58年前のあの日も大層暑かったけれど、今のように蒸れるようではなかった。盆の十五日は地獄の釜の蓋が開く日だから、決して川へ行ってはいけないと、真剣に疎開先のおばあちゃんに言われた事が、この歳になっても思い出されます。

半月ほど前、スイス・ルガーノ湖畔の友人宅の別荘で、国際結婚して長くこちらに住んでいる日本人の奥さんが、ピザをこねながら、こちらの山の尾根を眺めていても、嵯峨野やら昔から慣れ親しんだ日本の風景を無意識に思い浮かべる、と話していたのが頭を過りました。目の前一杯に広がる湖と、水面に映る山々の景色が、不思議に落ち着いているとも、寂しげとも感じられたからでしょうか。

湖畔に聳える山々には、深い溝が一本縦にひいてあって、イタリア・スイスの国境線だと聞きました。車で国境を抜ける時は、湖畔沿いに山の斜面を掘った長いトンネルを潜るのですが、入り口と出口にはそれぞれ大きな鉄の扉が作り付けてあって、戦争が起きるとこれで往来を遮断したそうです。戦争中、中立国スイスに亡命を企てても成功出来ぬよう、わざわざ長大なトンネルを用意したと聞いて複雑な思いがしました。

板門店やかつてのベルリンの壁のようですが、そもそもスイス・イタリア語圏が生まれたのは、ルネッサンス末期、当時現在のスイス・イタリア語圏まで統治していたミラノのヴィスコンティ家が、フランスとの戦いに破れた時だそうです。フランスは、当時欧州で抜群に優秀だったスイスの軍隊を買取ってイタリア戦に導入し、勝利の報酬として、現在のイタリア語圏をスイスに与えたとか。当時のスイスの軍隊は、70人×70人(もっと大きい場合もあったそうですが)のぎっしり詰まった巨大な正方形の人垣を突進させる仕掛けで、無敵を誇りました。言うなれば、巨大な戦車のような働きをしたのでしょう。

中世には、ルクセンブルグに今でも残るように、自衛策として街(国)全体を切り立った要塞化させ、細い橋を一本外に渡して往来をコントロールしました。先日、仕事で出掛けたフリウリ地方はチヴィダーレにも、へろへろの高い橋が一本架けられていて、悪魔の橋と呼ばれていました。地獄の釜の蓋宜しく、その昔橋のたもとに寓居していた悪魔が、人を突き落としては喜んでいたらしい。

中世と言えば、拙宅のあるモンツァから少し北にあるレッコ湖畔のヴァレンナという小さな街に、女帝テオドリンダの別荘だった城跡が山頂に残されていて、物見の塔の頂上まで登りつめると、突然目の前に雄大な湖が眺望されるのに驚きます。

水面に映ったアルプスから連なる山々の尾根が、太陽の光線が描く雲の影と織り混ざって、自分が墨絵の中に一人立ちつくしているような、神秘的な感動を覚えます。レッコ湖は、ヴァレンナの対岸にあるベルラッジョで、コモに端を発するコモ湖と丁度「人」の文字のように繋がって、北へと延びてゆきます。眼下のベルラッジョの岬の向こうに広がるコモ湖の陰影も、深遠な自然の遠近法を際立たせていて、7世紀の昔にわざわざ切り立った山を登ってまで景色を堪能したかと思うと、思わず感慨を覚えます。

当時テオドリンダはモンツァに屋敷を構えていて、モンツァのドームには現在でも彼女の冠が大切に保存されています。モンツァのドームに入って左奥に、カーテンが下ろされている礼拝堂があって、何故かブラジル人の若い男性が解説員をしていたのが印象的でした。
冠と言っても、宝石がちりばめられているのではなく、美しい石が釘を一本も使わずにはめ込まれているのが特徴なのだそう。

個人的にはモンツァのドームの隠れた目玉は、小さな回廊にひっそり展示されているミイラだと思っていて、誰の興味をひかない回廊の看板をめくると、裏に立ったままのヴィスコンティ家某のミイラが突然姿を現わします。14世紀、当時モンツァの領主だった某が、狩猟中の猟銃の暴発だかで足が吹き飛んで、それが原因で死亡。ミイラになったのも偶然の産物、等々手書きの説明が添えてあって、確かに左足の脛辺りが千切れているものの、全体にどことなくユーモラスなのです。お化け屋敷のような可笑しさと、動物園の晒しもの宜しい哀しさが漂っている、とでも言えば理解して戴けるでしょうか。

さて、お話がヴィスコンティ家に丁度戻って来た処で、他愛のない話もお仕舞いに致しましょう。8月15日、イタリアは聖母マリア被昇天の大祝日で、日本では信じられないでしょうが、この日ばかりは地下鉄もバスも全て運休。閑静な夏の休日となるのです。

(8月15日 モンツァにて)





結婚パーティにチベット舞台芸術団を迎えて  加世田光子


昨年、チベット人男性と結婚し、今年の6月に結婚お披露目のパーティを行った。そこで、夫が親しくさせていただいている高橋悠治さんにピアノ演奏を、インドから公演のため来日していたチベット舞台芸術団(TIPA:Tibetan Institute of Performing Arts)の団員に歌と踊りを披露していただく幸運に恵まれた。

「もし、ダラムサラで結婚式をあげるなら、TIPAがチベットの伝統的なやり方でパーティをしてあげる」と、1年半前に訪れた冬のダラムサラで、TIPAの友人が言った。ダラムサラは亡命したチベット人たちが住むチベット北部の町で、夫の家族が住み、TIPAもここに拠点を置く。ダラムサラでの式は実現しなかったが、今年、日本公演が催されると聞き、パーティを行ってTIPAに来てもらえたらと考えた。ふだん、チベットとあまり縁のないかたにも、チベットを知っていただくきっかけにもなるのではと考えた。夫は日本公演ツアーの同行通訳をしていたこともあり、日本公演を企画している会社(conversation & company Co.)もTIPAも快く応じてくださった。

当日、夫と私がチベット衣装に着替えて入場しようとすると、入り口でTIPAの団員がバターを添えツァンパ(チベット人の主食である麦こがし)とお酒で出迎えてくれた。私たちはお酒を薬指につけ3回はじいて三宝にささげたあと、ツァンパをつまんで、口に入れた。そして、ダムニェン(6弦のギターのような弦楽器)による伴奏とともに入場した。

TIPA団長による乾杯の音頭のあと高橋さんが舞台に立たれた。高橋悠治さんは、夫との関係や夫の人柄をよく表す短いスピーチのあと、「しばられた手の祈り」という韓国の政治犯が獄中で書いた詩につけられたという曲を演奏された。きびしくも心は穏やかな中に、希望が現れているような感じを受け、チベット人の状況にぴったりだと思った。つぎに、モンゴル民謡の「バラとリンゴの園の太陽」を演奏された。なつかしい響きのあるアジアの曲だった。「7つの大陸の一番南にある大陸の真ん中に地上で一番高いメル山がある。そこで照っている太陽は、世の中のすべてのものを同じように照らしている。そして人の慈悲の心もすべての人に同じように、そそがれている。しかし人生は楽しいけれどもいつまでもは続かない。若くてかしこい時から、だんだん年老いていく。という歌。まあ、そのように長く一緒にやってください。」というスピーチも嬉しかった。

祝辞のあとは、チベットの結婚式恒例のカタ進呈である。カタとは、白いスカーフのようなもので、チベットでは、歓迎、祝福、お別れの際などに、主に相手の首にかける。TIPAの団員や在日のチベット人たちからカタをかけられ、2人はカタぐるみになった。

歓談のあと、TIPAの団員が舞台にあがった。まず、女性3人がよく通る高い声で歌った。「アムド・ギャロン」といい、アムド地方(東チベット)の結婚式など祝い事のある日に歌われる。後で友達が、まるで5〜6人で歌っているような迫力だったと言っていた。

続いて、女性3人が近寄ってきて、歌いながら夫と私に何度も酒を注いだ。「チャン・シェ(酒の歌)」というウ・ツァン地方(中央チベット)の酒飲み歌で、人がたくさん集まるときに歌われ、「私がささげる酒をことわってはいけない」という歌詞である。

女性たちと入れ替わり、男性たちがダムニェンの伴奏の歌を手拍子で楽しげに歌い、会場も一緒になって手拍子をした。これは「アグ・ペマ(ペマおじさん)」という人気がある歌だが、ダライ・ラマ法王のことを歌っているため、チベット本土では歌うことが禁止されている。

続いて、「チョースム・アムド」がダムニェンの伴奏で歌われた。歌詞は「今日のように私たちはこのように集まれて、このようにいつも集まれるとどんなにいいか。チベット人はちらばっているが、またポタラの前に集まれるように」というものである。

つぎに、「皆さんも一緒に踊ってください」とのことで、男女参加のステップダンスが披露された。「プーイ・サムリンゴンパ」というチベット社会に広まっているトゥー地方の曲である。子供をはじめ、踊る人たち、しゃがみこんでじっと見入る子供、踊りには参加しないが目を輝かせて見つめる人々。それを見て、TIPAの団員たちも楽しそうだった。TIPAは海外でも歓迎されるが、日本では特に、演じる者と観客という立場ではなく、一緒にチベットの歌と踊りを楽しむ仲間という感じがするそうだ。日本でもTIPAの歌を聴いて、どこかなつかしい感じがするという感想を述べる人も多い。

最後の曲も、女性たちが、最初は直立してゆっくり歌い、途中からテンポが速くなり手を流れるように大きく動かして踊りながら歌った。「ウラ・デソン」というトゥー地方の歌で、ラサではやっているそうだ。

夫と私の挨拶の後、チベット人や、自分の前世や来世はチベット人だと思う人が舞台の上にひしめきあいながら立った。指につけたお酒を3回はじき、ツァンパをつまんで準備したのち、TIPA団員により「タシ・ナムタル」が歌われた。ナムタルとは、アチェ・ラモ(チベットオペラ)でのどを振るわせる様式で詠唱される荘厳な歌である。この曲はアチェ・アモや大きい祝い事のあるときに、円満を願って歌われる習慣がある。歌の最後に、「キー・キー・ソー・ソー・ハッキャロー(神に勝利あれ)」といってツァンパを撒いた。そして、ダムニェンの演奏に伴われ退場した。




東京あせも物語  御喜美江



8月2日早朝、成田に着いた。空港ビルを出てリムジンバスを待っていたら、日が昇ってまだ間もないというのに、陽射しは強烈で腕がジリジリ焼けそう。覚悟はしていたが、これほどの暑さが待っていようとは……びっくりしたら目がすぐさめた。その日の午後、2時間にわたる激しい雷雨があった。日が暮れてから「これで少しは涼しくなっただろう。」と思って戸を開けたらとんでもない、湿気と熱気をたっぷり含んだ外気が、ねっとりとした壁のように自分を立ち塞いだ。これにはもっとびっくりした。何て暑いんだろう、東京は!

1972年に渡欧してからも毎年帰国はしているが、8月初旬に日本いることは30年ぶり。ドイツやオランダでも30度を越す日々はよくあるけれど、東京の夏は同じ30度でもその強さが全く違う。しかしこれから8週間東京に滞在するのだから、ここは考え方を少し変えなければいけないと思った。まず「暑い」という言葉は使用しない方がいいと決めた。それから気温、湿度をテーマにした会話はなるべく避けよう、そんなものは存在しないほうがいい、とした。地球上にはもっともっと暑くて暮らしにくい国が沢山あるのだ。この程度で「暑い」と言っては失礼……だと思いつつも、私にとってこれは地獄の暑さ、もう無視するしかない。

白い野球帽をかぶって日中外出する。真昼の暑さに慣れたらもう大丈夫と、あえて極端な状況を選ぶ。このスパルタ教育、メンタルにはいい効果があったかもしれないが、体の方が激怒した。まず腕の内側にさらに外側に、胸に首にお腹に膝裏に背中にと次々“あせも”ができた。これが一体何なのか全然わからないから大騒ぎをしたら、「あ〜それ? あせもよ」と母が普通の顔で言うのでちょっと安心したが、かゆくてかゆくて死にそう。シッカロールをパタパタはたいても効き目なし。冷やしてレスタミンコーワ軟膏を塗り、カルシウムの錠剤を多めに飲むと少し落ちついた。でもアコーディオンのように体に密着させて弾く楽器は誠に不向き。楽器と体の間に“あせも”は増える一方。それで練習はしばらく御預け。そういえばこの楽器、寒い国でさかんだ。ロシア、フィンランド、ノルウェー、デンマーク……暖房がなくてもアコーディオンで体が暖まります、というわけ。

“あせも事件”がちょっと一段落した頃、東京湾花火があった。
両親のマンションからは不思議とどの花火もよく見える。浅草の隅田川花火、葛西橋の花火、亀戸公園の花火、ディズニーランドの花火(これ毎晩)。なかでも東京湾花火はここが特等席だと思う。海の上に見えるわけではないが、レインボーブリッジの右横、ビルの上に多彩な彩りと多種多様な形で夏の夜空に打ち上げられる花火を、どの部屋からでも見ることができる。約1時間半、お弁当とビールで満喫した。日本の花火を見るのも30年ぶり。なんてすごいんだろう! 上がるたびに「うゎ〜きれい!」を連発。ドカン! とかパラパラパラ! いう音が全然違うタイミングで聞えてくるのも面白い。ものすごく派手な花火がけっこう平凡なドカン! で終わったりする。

「麦茶ってママ飲まないの?」と母に聞いたら「そうね、美江はいつも麦茶、麦茶って言うわね」と。インスタントで簡単なのがあるから買ってこようと思ってた日に母がインスタントではないのを買ってきた。「それって面倒くさいでしょう、手間隙かかって」なんて言ってるうちに麦茶が登場。冷えるのが待てなくて熱いのを飲む。あっ、おいしい! これはまさに日本の夏の味! あ〜何て懐かしいんだろう! それからは毎日、麦茶、麦茶。熱いのも冷たいのも最高!

翌日、ご近所からとうもろこしをいただく。これを茹でてもらって(自分でもできるんだけどね〜)食べる。あ〜、これも懐かしい! おいしい!

水茄子というものが友人の逸子さんから届いた。この味はなんと表現したらいいのだろう。茄子が水のなかにあってそれを手でちぎって食べる。一個食べたけど、すぐ二個目に手がのびる。う〜ん、これこそ日本の夏の味? 初めて食べたので懐かしいということはないが、たまらなくおいしい! 色も美しい。

ところで、父がいまだ入院を続けているので、今回は夫をオランダに置いて、一人帰国した。昼間は父を病室から出し、別の広い部屋でおしゃべりをしたり、テレビで甲子園の高校野球を見たり、廊下をのろのろ歩いたりしている。父は忙しい人だったし私はせっかちなので2人でゆっくりと話をすることなんて、今までなかった。家を離れての長期入院生活は本当にかわいそうだと思うけど、でもこのようなゆるやかな時間を共にできることにちょっとした感動を覚えている。父の言葉の一つ一つに新しい発見があり、笑ったり驚いたり涙ぐんだり。でも帰り際はいつもいや。「アウフヴィーダーゼーン!」って言うと「ヴィーターゼーン」とさびしそうに言う。エレベーターに乗ってからまた気になって、再び病室へ引き返したりもするけど、決め手となるのはその日最後の準特急の時間、それで足は駅へとむかう。

往復で4時間近くかかる病院はちょっと遠いけど、電車の中では冷房がよく効いているので大抵熟睡してしまう。それで帰宅する夜にはかえって元気になっている。「遊びに来ない?」なんて電話がかかると「待ってました!」の如く飛んでいく。15日夕方、そんな電話がマネージャーのMiさんから入り編集長の八巻美恵さんもいらっしゃるというので新小岩の三橋家に行く。冷たいビールを飲みながら鉄板焼きをご馳走になった。フーフーしながらワイワイ食べる熱いお肉やお野菜の美味しいこと! 流れる汗もさわやか。ここで腕の“あせも”を一般公開したら「あらそれ、あせもね。」と言われてなぜか満足した。
うん、やっぱり夏は暑くなくちゃ〜!

今日はこれから高橋悠治さんとのリハーサル。9月8日花園町アドニスで行われるプログラムは“ピアノとアコーディオンによるさまざまな組み合わせ”の音楽。それぞれのソロ、アコーディオン&ピアノのデュオ、ピアノ連弾、そして?!? ちなみにタイトルは『たんぽぽ畑』。元気で明るいコンサートをめざしている。

現在使っている14kgのアコーディオンはケースに入れると20kgの重さだから演奏前に運ぶのは指にも腰にもあまりよくない。そこで楽器運搬のために前日7日、夫がドイツからやってくる。「体重を1kg減量したら、日本で一万円あげる」と彼に約束した4週間前、「じゃあ10kg減ったら10万円だね」と喜んでいたが、毎日冷凍ピザとスパゲッティばかり食べて、夜はワインを飲んでいたから、多分一銭もあげないですむと思う。でも運搬賃はあげよーかな。深谷までアコーディオン持ってくれるし、それに涼しい秋風を、もしかしてドイツから運んできてくれるかもしれないから。でもそれまでこのあせも、あるかな〜。

(2002.8.27. 東京にて)



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