2003年2月 目次


イラクのあかちゃん               佐藤真紀
果物屋                     三橋圭介
しもた屋之噺(14)              杉山洋一
ジャワ・スラカルタの伝統舞踊(3)新しい舞踊  冨岡三智
眠り続ける燕尾服                御喜美江
考える野菜たち                 小泉英政



イラクのあかちゃん  佐藤真紀




ヨルダンでバグダッド行きのタクシーを予約しようと、車でタクシー会社に向かう。降りるや否や人だかりがして、「バグダッドか?」と聞いてくる。こちらが返事もしないうちにもみくちゃにされ、腕をつかまれると車の中に連れ込まれた。この客引き合戦は尋常とは思えない。この先が思いやられる。

1月26日朝6時半調度に運転手が迎えに来る。これから砂漠の旅が始まる。ドライバーの話では、イラク人は72時間しかヨルダンにいられないので、バグダッドから客を乗せてきたドライバーは、アンマンで客が見つからなくても、バグダッドに戻らなくてはならない。それで、必死に客を拾うのである。私たちの車の後には、残念ながら客を拾えなかった車がもう一台ついてきた。

国境にたどり着く。入国審査は、前来たときよりさらに簡単だ。あっという間にビザをもらえた。ところがドライバーがひっかっかってる。ちょっとした荷物を持ち込むだけでも税関を通さなければいけない。「ここでは、バクシーシー(袖の下)が必要なんだ。」とぼやいている。結局2時間待たされて、おまけに彼は5ドル払わされたといって不機嫌になっている。

バグダッドに着いたのは夜の9時。疲れて寝てしまう。

1月27日は国連の査察団が、報告書を提出する日だ。この内容によってはイラクが攻撃されるかもしれない。インターネットでニュースを見ていると、査察団の団長のブリックス氏は、「イラクは武装解除に協力しようという姿勢がない」とのコメントを出したそうだ。ビジネスセンターのアリさんが心配そうに画面を覗き込む。

町に出てみる。それでも、イラク人は楽観的になろうとしている。「戦争?ないよ。ブッシュは石油がほしいだけだ。」「もし始まったら? それは神のみぞ知るだ。」と諦めている観もした。国連開発計画の事務所の前ではいろいろなグループが集まってきてデモを行っていた。緊張感は高まっている。

そんな中、赤新月社の病院を訪問することにした。日本でも病院にいくと暗い気持ちになる。僕はどうも医者とかが苦手で、もちろん彼らは命を助けてくれる人なのだが、医者にかかるようになったらこれはもうおしまいだというような悲壮感を感じてしまう。

イラクでは、病院がひとつの観光スポットになっている。マンスール子ども病院は、91年の湾岸戦争のときにアメリカが使用した劣化ウラン弾の影響で癌や白血病になった子どもたちが入院している。経済制裁の影響で薬が手に入らなかったり放射線治療の装置なども輸入できないという。イラクはジャーナリストにとって取材が難しい国だ。自由に動き回れないのでいくところが決まってしまう。そこで、多くのジャーナリストがこの病院にやってきて取材をしていく。立派なカメラのシャッター音が病室に響き渡る。死に行く子どもたちの写真を撮るのもつらいなあと思ってしまうのだ。プロのジャーナリストの仕事ぶりはたいしたものだといろんな意味で思ってしまう。

さて、僕がその日に行ったのは、赤新月社が運営する産婦人科だ。手術室のハロゲンランプが壊れているので、何とかならないかといわれている。確かに装置そのものがもう何十年も前に入れられた日本製だ。スペアパーツが手に入らない。「車のランプなどを改造して使っています」とドクター。なんだかとっても一生懸命なのだ。

子どもの写真を撮らせてほしいというと、生まれたばかりの赤ちゃんがいる個室へと連れて行ってくれた。小さい。何歳? 聞くと、12時間という答えがかえってきた。12時間前というとちょうど国境を越えて私がバグダッドについたころの時刻だ。生まれたてと言うのはなんとも不思議だ。こんな小さな命ですら生きようとしているのである。国際社会で権力を握ったものは、戦争をしようとしているが、庶民の生活はそんなものとはかかわりなしに力強く見えた。


さて、明日はいよいよブッシュ大統領が演説をする番だ。戦争がないことを祈る。





果物屋  三橋圭介




都会の人気の繁華街を頻繁に歩いていると、自分がかなり優秀な予言者だと実感する。「あの店はきっとつぶれる」と思うと、ほとんどの確率で半年後くらいにはなくなっている。いま、そういう店が何軒かあり、これも近い将来は現実のものとなると確信している。でもこの予言がまったく当たらない店がある。

地元の果物屋。7年この土地に住んでいる。駅を抜けるとすぐにその果物屋がある。駅前だから人通りもある。かなりの物件といえる。店構えも悪くわない。昔ながらの果物屋だ。でもそこで果物を買っている光景をほとんどみたことがない。たまに買っている人をみると、すこし悲しい気持ちと好奇心で思わずみてしまう。

店番をしているのはふたりのおじさん。兄弟にちがいない。丸顔と長めの顔とタイプは違うが、目のあたりに兄弟特有の顔の特徴が刻印されている。だがけっして会話を交わさない。いつも手を後ろに組んで隣に並び、通る人をどこかうらめしそうに見つめている。だからもちろん呼び込みはない。

ここのリンゴはいつもピカピカ、オレンジもピカピカだ。なんだってきれいに光っている。プラスチックのように光っている。しかも7年間いつ通ってもおなじ場所にリンゴやオレンジが、おなじ表情できれいに整頓されている。奥には贈り物用のメロンが箱のなかでふんぞりかえっている。

いつもおなじだから今これが美味い、安いということもない。需要と供給のバランスを欠いたリンゴやオレンジがいつ交換されるのか? それが知りたい。もしかしたら7年前のかもしれない。有力な説は本物がすこしで、あとはプラスチックの模造品ということ。そういえば高級な巨峰がひとつだけ箱からみえている。そのまわりの箱はいつもふたが閉められている。ひとつだけ本物で、ほかは空かもしれない。ありえない話ではない。
 
そういうわけで、季節感がなく、おじさんもめったなことでは動かないから時間が止まっているように感じる。きっと二人のご飯が果物なのかもしれない。どこか色つやがいい。でもその目は死んでいる。そうプラスチックのリンゴのようにどこか人工的だ。しかし、自給自足とは違うから、そのお金はどこから出てくるのだろう?(もしかしたら大金持ちの道楽かもしれない。あるいは土地を巡る兄弟の争いで、ふたりとも居座って頑として譲らないとか。)

ピカピカの果物を食い、ピカピカのおじさんは悪びれることなく、ピカピカに果物をワックスで何重にも磨く。きれいに整頓すれば美味そうにみえると信じて生きてきた? でも7年間、おじさんも果物もまったく変わらずにそこにいる。だから間違いではないのかもしれない。

ここを通る人はみんなしっている。この果物屋が毒グモの巣だということを。だから珍しくお客がくると、二人の目は爛々と輝き、それを見ているわたしたちは「ああっ、引っかかった」という目で客を見つめる。いま予言する。果物屋はこのご時世でも「生き延びる、安泰だ」。そしてこれからも果物屋を見守り続けていく。



しもた屋之噺(14)  杉山洋一




年末、仕事を早々に片付け東京に戻り、年末年始を慌しく東京で過ごしました。コペンハーゲンの空港で乗換え便を待っていて、大学時代の友人に再会し、四方山話に花を咲かせました。彼女はスペインの室内オーケストラで働き始めて暫く経つのだそうで、話を聞きながら外国に暮らす女性の逞しさを思いました。

機中モーツァルトの39番の勉強に専念し、降り立った久しぶりの東京の空気は思いの外冷たく、抜けるような日本の冬の青空が懐かしかったです。東京に住んでいた頃、冬の朝、澄んだ青空の彼方に富士山が映えるのを楽しみにしていたのが夢のように、モンツァでは、毎朝光化学スモッグ警報をチェックするのが日課となりました。

東京の冬の青空を思うとき、子供の頃に揚げた凧が頭に浮かび、凧糸で火傷をした感覚までが鮮やかに甦ります。凧を揚げた小学校の校庭が、とてつもなく広い空間に思えたのは、日本を出るまで、東京を充足した世界と感じていたのに似ています。知ってしまう虚しさを繰り返し味わうのは、喜ばしくはありませんが、以前気付かなかった魅力を発掘する、好い機会ともなるのが救いでしょうか。

ウィーンのアンサンブルから頼まれた譜読みと、骨休めを目的に日本に戻ったものの、年末年始の挨拶廻りやら、家人の生徒のレッスンに付き合ったりするうち、結局、忙しないまま、勉強の成果も上がらずじまいの、相変わらずの滞在となりました。尤も、家族水いらずで中村屋にカレーを食べに出かけたり、場末の鰻屋の小さなカウンターに並んで、旨い蒲焼に箸をつついたりするのは、やはり愉快なものです。

慌しくモンツァに戻った翌日から、学生オーケストラの稽古が始まり、数日後にはウィーン行きの列車に飛び乗りました。時差ボケの助けを借り、毎朝八時くらいまで譜読みをして、身体は困憊していましたが、厄介な譜面でしたから、時間は幾らあっても足りません。寝台車で楽譜を広げていて、ふと車窓を見上げると、闇の中、辺り一面が深い雪に覆われ、静寂に満ちた美しい光景が広がっていました。音を発しているのは、世界でこのちっぽけな寝台車のみかと思われ、疲れた躯に風景が、柔らかく染み透ってくるようでした。

極寒を覚悟して出かけた割に、雪化粧をしたニ年ぶりのウィーンは暖かく、ホテルのバスタブでしばし旅疲れを取り、ひたすら楽譜を眺めました。「教会通り」の坂を40番地ほど下った処にある、時代がかったホテルにはめ込まれた、背の高い二重窓の木枠の向うに、ハプスブルグ調の淡い色調の街並みと、質素ながら上品な味わいの教会が、こじんまりと風景に収まっているのが、とても気に入りました。二年前仕事でウィーンに訪れた際、「教会通り」辺りを散策したのを思い出しつつ、前回はオーケストラとのツアーでしたから、今にして思えば、皆で随分愉しく過ごしたものと恨めしく思いながら、遅い昼食の摂れる食堂を探して、しばし徘徊しました。ウィーンの街並みは、ミラノを彷彿とさせます。長くハプスブルグ家の統治下にあって、ミラノ人の生活習慣や勤勉さは、オーストリア帝国から学んだと聞きましたが、ミラノに比べ、ずっと最近までオーストリアに支配されていたトリエステでは、今もウィンナ・ワルツやオペレッタがこよなく愛されているそうです。

素人から見たウィーンの印象は、ウィーン菓子そのもので、色淡くロマンティックで少し甘ったるく、ドイツのようなどぎつさは皆無で、軽さと愉しさが好い按配に全体の調和を整えている気がします。アンサンブルとも、これ程愉しい練習をした経験はかつてなかった程、気持ち良く仕事が出来て、あんな難解で厳しい譜面とは信じられない程、音楽的で人間的な音が鳴ることにショックを受けました。

彼らの愉しげな様子を眺めていると、ウィンナ・ワルツも現代音楽も、同じ遊び感覚で演奏出来るのかも知れない、ふと空恐ろしい事を想像しました。二年前にノーノの「プロメテオ」を振ったのは、「コンツェルトハウス」の豪華絢爛たるホールで、筋金入りの共産主義音楽家との組み合わせも愉快でしたが、二時間半の演奏終了後、長大なスペクタクルが終ったばかりなのに、舞踏会が終ったかの如く、朗らかに笑みを湛えスタンディングオーベーションをしてくれたのが印象に残っています。熱狂的な拍手とも少し違い、上品で安寧な喜びに満ちた時間であって、(かかる作品の)演奏者としては、少々居心地が悪い思いが致しました。

そんな事をつらつら思い出していると、自分が今まで思っていたシェーンベルグやベルク、ウェーベルンの音楽は正しかっただろうか、という疑問が頭をもたげます。大好きなシューベルトやブルックナー、レハール等の素晴らしさは、ウィーンの空気と共に、一瞬にして肌にすっと吸収されましたが、脳裏にシェーンベルグの厳しい顔が浮かび、彼の振る不器用な(お世辞にも名演とは呼べぬ)「月に憑かれたピエロ」が聴こえて来ると、自分が間違っているような後ろめたい思いが、背中に纏わりつきました。

特に、シェーンベルクと言うと、子供の頃読んだ八村義夫さんの文章が、文楽の語りのような八村さん独特の文体と共に妙に頭にこびりついていて、触覚的な印象がどうしても拭えません。数年前に、八村さんのエリキサを日本現代音楽を紹介するセミナーのため、イタリアの国立音楽院で聴かせた事があって、日本的な作品例としてかけた積りが、返って来た質問は、ブソッティにそっくりだが、何処が日本的なのか説明して欲しいという明快なもので、咄嗟に言葉を失いました。

それとは少し違うけれど、シェーンベルクは厳しい音楽かも知れないが、マーラーと同じ、ウィーン菓子を食べて暮らした事を忘れてはいけない。独語を解さぬ無教養人には、独語だらけで黒々とした譜面を見るだけで、どうもおどろおどろしい先入観があるのだけれど、アンサンブルメンバーのあの愉しそうな顔を思い出そう。そんな事を思いながら、車中ウィスキーを嘗めつつミラノに戻りました。ここ数日のうちに、旅程に積もっていた雪も心なしか少し溶け、家々の煙突から暖房の白煙なのか、もくもくと闇に沸き立つのが見えます。
下世話で陳腐な発想ながら、彼がオーケストレーションすると、確かにウィーン菓子の甘ったるい音がすることがあります。

(1月25日モンツァにて)



ジャワ・スラカルタの伝統舞踊(3)新しい舞踊  冨岡三智
                     

1伝統舞踊の第3弾として「新しい舞踊」というのも変だが、伝統舞踊の発展の中で伝統舞踊家によって開拓された新しいジャンルとして、子供のための舞踊と男女のカップルを描いた舞踊(一般に英語でラブダンスと呼ばれる)を取り上げてみた。もちろんここで述べている以外にもジャンル分けできないほど数多くの新しい舞踊作品が作られている。

  子供の踊り

現在では子供用の舞踊作品が多く作られているが、昔はその数も限られ、それ以外には遊び歌に動きをつけたものがあっただけだった。後者は形式があるわけでなく、また各教室の先生により同じ歌でも動きはまちまちだったという。

子供の踊りというジャンルが生まれるきっかけとなったのは、1961年に観光用として始まったプランバナン寺院でのラーマーヤナ・バレエだと言って良いだろう。主役の大人に混じって物語に登場する動物を子供に群舞で踊らせた。ワノロ(猿)やクリンチ(兎)はそのために作られたものである。

またラーマーヤナ用ではなかったが、その振付家が61年に作った作品としてクキロ(鳥)がある。これは鳥が目を覚まして餌を探しに行く様子を描いたもので、スンダやジョグジャなど他地域の舞踊の要素も取り入れている。

さらにインド舞踊の影響を受けたマニプリという舞踊もある。現在知られているのはマリディ氏が新しく振り付け直したもので子供の舞踊となっているが、元来は大人の舞踊でインド舞踊の振りをそのまま使ったものだった。しかしマリディ氏の作品でもインド風であることは強調されている。

このように子供用のレパートリーには動物の動きを模していたり、他地域の影響が入っていたりして、私達が一般に思い浮かべるジャワ舞踊的な要素〜流れるようにゆったりとした動き〜は見られない。子供には当然まだそれは無理だと言えるし、またまずは動くこと、踊ることに興味を持たせることに重点が置かれていると言える。

  男女の踊り

現在では結婚式で男女の恋愛を描いた舞踊作品が頻繁に上演されているが、このジャンルの舞踊は1970年に作られたカロンセを最初とする。これはスハルト元大統領夫人(故人)が前述のマリディ氏に「自分の親族の結婚式のために、新しい舞踊で結婚式にふさわしいものを」と依頼した結果生まれたものである。

もっとも男女が一緒に踊る演目としてガトコチョとプルギウォ、パンジとスカルタジなどは古くから存在した。(カロンセもパンジとスカルタジという人物設定である。)しかしこれらの演目は舞踊劇の中の1場面として上演され、また稀にその場面だけが上演されるとしてもその都度振付けられて、作品として決まった構成を持つものではなかった。

カロンセ以降この種の作品が相次いで作られた。それは結婚式での需要が多いからだろう。最近は人物設定があってもその衣装を着けず、代わりに結婚式の衣裳に似た衣装を用いることも多く、さらに特定の物語の背景を持たない男女の舞踊も作られている。

これらの作品の構成の特徴を一言で言えば、ソロ様式の舞踊の代表的な要素が全部含まれている、ということだろうか。しっとりした場面、寂しげな場面はスリンピやブドヨからの振りが、楽しげに男女が睦みあう場面はゴレックやガンビョンからの振りが取られている。伴奏もまた様々な曲をつないで、喜びや悲しみに揺れる男女の情感をドラマティックに描き出している。




眠り続ける燕尾服  御喜美江

昔は12月末になると『大掃除』という一日行事があった。
狭い家でも一年経つとあちこちに埃がたまり、不要物も相当増えている。
当時、女子高校の教師でソフトボール部の監督だった父は、元気のいいソフト部の女学生を4、5人よんできては、慣例の『大掃除』を、まるで大会の開幕式でも行うような調子で景気よくスタートさせるのだった。そしてグランド練習のような大声で皆に“命令”を下し、風呂場から洗濯機を庭へ運び出したり、重い家具を動かしたり、押入れの中のものを全部出したりと、かなりの重労働を速いテンポでこなしていた。思えば、ずいぶん虫のいい話だったな〜と思う。

冬休み中の生徒をよんできて、自分の家を掃除させ、でっかい声で指揮をふるう。今だったら親が文句を言ってくるかもしれないし、生徒だってせっかくの休みに掃除なんて、ノーサンキューだろう。しかし当時の彼女達は本当に明るく、元気にクルクル動き回り、大きな声で「はい!」と返事するその健気な姿は、今でも瞼に焼き付いている。私はまだ小学校へ行くか行かないかの年令だったので、できることと言えばゴミ捨てくらいで、「お姉さんたちのお邪魔にならないように!」と母に言われて庭先でうろうろしていたと思う。でも“お姉さんたち”が気になって、隙を見てはなんだかんだ話しかけていた。

そして父の「よおし、昼メシにするぞ〜、休憩!」の号令を、今か今かと待ち焦がれていた。私達は4人家族だったが、食事はほとんどいつも母と兄の3人だったので、大勢での食事はまるでパーティーのよう、それに『大掃除』の日には、母もご馳走を用意していたので、子供にとっては最高に楽しい日だった。

そして日が暮れる頃には、洗濯機も冷蔵庫も家具も布団も再び家の中に収まり、ときには新しい絨毯やカーテンに変わった、その狭くも清潔な空間を素足で歩く満足感、幸福感は今でも忘れられない。
しかし、いつの頃からだろうか、『大掃除』が一年のカレンダーから消えた。

私は子供の頃、なぜかよく走った。学校と家の間を走り、大好きだった缶蹴りでもいつも走り、野良犬ポチと毎日かけっこをし、遊園地に友達を見つけては、そこをめがけて全力疾走した。当時、母は高校の英語教師で、夕方に帰宅することが多かったが、家の近くに来るとピュ−ピュ−その辺を走り回っている娘がまず視野に入り、「また遊んでる……」と苦笑いしたそうだ。どうしてそんなに走ってばかりいたのかは分からないが、土や草の上は走るに柔らかく、きっと気持ちが良かったのだろう。そう、子供にとって“土”は大の仲良しだった。兄も野球からいつも泥だらけで帰ってきた。それで家の中は埃っぽくなったのだろう。 また風呂場にはすのこが2枚置いてあり、水分をたっぷり含んだ木のすのこは石のように重く、その下の掃除なんてあまりしなかったように思う。台所もお湯が出るようになったのは随分後のことで、水だけでは油汚れもなかなか落ちない。電気掃除機なんて昔の我家にはなかったので、かんむりして棚や桟をパタパタはたき、箒で床を掃く母の姿もよく憶えている。新聞紙を濡らして固く絞り、それを小さくちぎって部屋の中に撒くのは私、母がそれらを箒で掃く、という共同作業はとても楽しかったが、今思えばどれだけきれいになっていたのか、あやしいものだ。また近くの沼から(現在の水元公園)父が網で取ってくる魚の入った水槽も家の中にあったが、手入れは甚だいいかげんだったと思う。さらに狭い玄関には雑種犬のメリーがいて、家の中にも土足(!)で時々入ってきた。火鉢には灰があり、石油ストーブからは煤が出た。要するに土や水がすぐ身近にあり、『大掃除』によって、はじめてそれらの汚れがちゃんと除去されたというわけだ。

あの時代にまた戻りたいとは決して思わないけれど、体を動かさずには成り立たなかった日常生活は、ある意味で健康だったと思う。そして体で憶えた動作は、一生忘れないような気もする。

さて、住いの掃除は楽になったが、その反面、要らない物は増えるばかり。『大掃除』のときにどんどん捨てたものが、現在は“貰い手”を待っている。そんな時、家にちょっとでも遊んでいる空間があったら大変、回りがそのスペースを狙ってくる。その昔、不要なものはベランダに出したり、外のガス台の下へ放り込んでまたたく間に汚くなったから、ゴミと化した“物”とは、すんなり縁を切れた。しかしマンション住いでは不要物がちっとも汚くならない。誰も必要としないのに、何の役にも立たないのに、“きれい”だからゴミになってくれない。靴、洋服、帽子、置時計、壁時計、鞠、カバン、雑誌、コピーの書類……、100人中きっと100人が「要らない」と答えるであろう雑多な物が、ゴミになれなくて困っている。というかこれらはゴミにすらなれないのだ。

今年83歳になる義母は、現在でも自分で車の運転をする。一時視力が落ちて、これで運転はやめると思ったが、手術で以前よりも視力が良くなってしまった。現代医学を信じ、とくに“手術”が好きな元女医である。この彼女、我家へ来るとき必ず何か“思い出の品”を持って(きて)く(れ)る……、大きな袋を提げて階段を上がってくると、いやーな予感がする。雑誌、書類、手紙などはまだいいほうで、12年前に亡くなった義父のガウン、コート、背広をもらって、どこで誰がこれを着れるというのか。仮にこれを着てダンナが外出したら、変人だと思われるだろう。

数年前、“ネズミの運動場”だった屋根裏を大々的に改装して、2部屋の客間を作った。“日の出の間”&“星の間”と名づけ、気に入っていたのも束の間、“日の出の間”はすでに“思い出の品”でいっぱい、完全なる物置になってしまった。あいにく夫も“捨てる”のが苦手、何でもかんでも手元に置いておく。私一人が捨てたがっても協力者がいなくては実行できず、増える一方の“物”を横目で睨むだけ。一度地下室が、水道管破裂で水浸しになったことがあった。それは本、楽譜、本棚、ピアノ、絨毯などが一瞬のうちにゴミと化してしまう惨事だった。ちょうど日本へ発つ日の朝で、その始末は誠に大変だったが、「これで空き部屋が一つ増えた!」と内心バンザイしていた私の胸のうちは、誰も知らない。“日の出の間”にも雷でも落っこちれば……、なんて時々思ってしまう。

ところで先日5日間だけコンサート無しの一時帰国をした。荷物はほとんどなかったけれど、普段日本から持ってこられない本や食器を入れるため、トランクは持参した。新しい“炊飯器”も買う予定だった。ところがトランクにスペースがあると感づいた母が、「ちょうど良かった、ゲオルクちゃんの大昔の燕尾服があるのよ。クリーニングしてあるから持っていけば?」ときた。ここで“要注意!”のアラームが鳴ったが無視もできず、仕方なく風呂敷を開けてみると「え〜? これがゲオルクの……」と絶句するほどのスマートな寸法。20年間でこうも体型は変わるものかと不思議に思う。しばらく感心してながめていると、いつの間にかズボン、コート、靴と次々出てくる。母としては、この機会に押入れの中を少し整理したかったのだろう。主婦が燕尾服を持っていても、どうしようもないのは分かるが、たまには身軽の旅をエンジョイしたいと思っていた矢先だっただけに、「こんな古着ばっかり持っていくのイヤ〜、誰かにあげて」と悲鳴をあげるが、「こんな手足が長くて、大きな靴を履く人は知りませんよ」と母はクール。結局、燕尾服はトランクに入れて持ち帰り、「誰かこのサイズの学生にあげてよ」とダンナに渡したら「こんな着古した燕尾、誰も着ないよ」と言われ「じゃあ捨てる!」と言ったら「捨てなくてもいい」とベットの下に風呂敷ごと入れてしまった。ここでさらに数年間、燕尾服は眠り続けるのだろう。虫に食われてボロボロになるまで。

一年の終わりに家族全員で家中を掃除し、大量の“ゴミ”を捨てた、あの『大掃除』が再び復活すればいい。このままでいくと必要なもの、大切なものが、どんどん埋もれていってしまう。特にこちらの冬は寒く、家の中にいる時間が多いので、不要物に囲まれては座っているだけで息苦しい。今日だって朝からあれこれ探し物ばかりしていた。そして端が切れたスリッパを昼間一足捨てた。車の中で粉と化した古い地図もまとめて捨てた。でもスリッパにプリントされたクマさんが目に入ったとき、ちょっぴり心が痛んで良心の呵責を感じた。
要らない物が堂々と捨てられる『大掃除』という日が、たまらなく懐かしい。

(2003年1月26日 ラントグラ−フにて)



考える野菜たち  小泉英政



肥料をたくさんあげれば、成長の勢いは速く、どんどん茂っていく。しかも大体は、地上がポリフィルムに覆われているので、地温は上昇し、じゃが芋は考える間もなく肥大していく。当然ながらじゃが芋は、人間によって育てられるのだ。

わが家のじゃが芋は、生産者が変わり者なので、自ら育たなければならない。必死に毛根をのばし、わずかな養分を探しあて、少ない栄養をどう有効に使うか、じっくり考えながら生きてきたのだ。10アールあたりの収穫は、1.2トンぐらいだった。牛糞堆肥や鶏糞などを使っていたときは、3トン近く収穫したこともあったから、その点だけ見れば、話にもならないことだ。

しかし、味のよさ、貯蔵中のくさりの無さ、さらに年を越し、2月3月になっても張りのある膚を保ち、品質の面ではほれぼれとする芋だった。多くは穫らなくてもいいから、あんな芋を作ってみたいという、見本のような作物だった。

考える野菜は、じゃが芋に限らなかった。購入する有機質肥料を米ぬかだけにしたのだから、畑は全般的に肥料不足に陥った。それでも野菜たちは賢く育った。

じゃが芋の後作にまいた人参は、葉の大きさが一般のものの半分以下だったが、ポコッと引き抜くと、色、つや、形とも、写し区言いのが飛び出してきた。

秋から冬にかけてのほうれん草は、成長するのに3か月以上もかかった。ところが、ひょんなことで、大学の研究室で成分を分析してもらう機会を得た。その結果は驚きだった。糖度は17度と、りんご並みの甘さだった。ビタミンCは、100グラム中、115ミリグラムと、イチゴよりも高く、鉄分は、100グラム中、8.9ミリグラムと、鶏のレバーに近い値が出た。またシュウ酸値は、水耕栽培のほうれん草と肩を並べた。

その他、南瓜、冬瓜、オクラ、小かぶ、大根など、畑のあちこちで考える野菜たちが誕生した。

「窒素肥料の過多を排す」とは、循環農場出発時の目標のひとつだった。有機農業であるにせよ、窒素過多の野菜は、それを食べる人の体に悪影響を及ぼす。また、畑にあり余った肥料分は、地下水、川や湖、海を汚染する。船出した循環農場は、窒素過多どころか、窒素不足の状態になった。そのとき、救世主のように出現した、考える野菜たち、ぼくはますます襟を正して、畑に向かわねばならない。

考える野菜たちを全般的にどう生みだすか、それがぼくの課題になった。肥料が少なければ、考える野菜たちが産みだせるかと言えば、そうではない。野菜たちは考えあぐねてしまう。下葉から黄ばんできて、もうこれ以上、自分たちの力ではどうしようもないと訴える。

さつま芋や大豆など、少肥でも育つものもあれば、玉ねぎ、里芋、白菜やブロッコリーなど、肥料不足だと、大きくならなかったり、結球しなかったりするものもある。作物ごとに、またその作物をむかえ入れる畑ごとに、まずは人間がよく考えなければならない。

例えば、考えるじゃが芋の前作は里芋、その前作はデントコーンだった。また、今年のじゃが芋の場合、前作がブロッコリーやカリフラワーだった所のは、あまりかんばしくなく、緑肥作物だったところはうまくいったというように、その作物の前作が何であるかということは、大きく影響する。つまり、何の作物の後には、何の作物が相性がいいか、またその後には何をもってくるかという輪作について、知恵をしぼらなければならないということだ。




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