2003年11月 目次


まぼろしの故郷               地田 尚
旅の終わりに                佐藤真紀
季節の音                  御喜美江
うやむや                  桝井孝則
しもた屋之噺(23)            杉山洋一
《祈り》のかたち              松井 茂
「放擲する愛」をめぐる旅          宮木朝子
沙羅双樹から奄美の音楽           三橋圭介
経過報告                  高橋悠治



まぼろしの故郷   地田 尚




スコールがやんで洗われたようになった街の歩道を、裸足になって歩いて帰る。雨のあとは昼間の強い陽射しもやわらぎ、うるおいを帯びた空気の中にいっときの涼風が立つ。街路樹をはさんで、車道をトラックや人力車が行き交い、ときおり荷車をひく水牛が通り過ぎていく。
台湾総督府のあたりまで歩いてくると、少年倶楽部を借りていたことを思い出した。
きれいな挿絵のついた少女倶楽部も女の子らしくていいけれど、本郷少佐の活躍する山中峯太郎の小説「亜細亜の曙」は、いつもはらはらする終わりかたをするので、つい続きを読まずにはいられない。弟が友だちから借りてきた少年倶楽部を読んだのがきっかけだったろうか、いつのまにか近所の男の子から少年倶楽部を借りて愛読するようになった。
家に帰り、母とねえや(若い女中さん)に声をかけると、部屋に閉じこもって少年倶楽部を読むことにした。
小説など読んでいると、母は良い顔をしないので、こういった本はいつも隠れるようにして読むことにしていた。

太平洋戦争末期、日本軍は米軍が台湾に上陸するものと判断を下し、内地から軍隊が続々と台湾に上陸するようになった。市街地では爆撃や戦闘が予想されるため、街には父だけを残し、一家は知人の紹介で郊外の台湾人の農家へ疎開することにした。
疎開とはいっても、内地の大規模な学童疎開とは違い、のんびりとしたものだった。
学校へは通わずにすんだため、毎日、本を読んだり、妹や近所の子供たちと近くの小川にでかけてエビや小魚を捕ったり、台湾人の農家の小母さんがやる珍しい家事のようすなどを眺めたりしながら、持てあました時間を過ごしていた。
台湾は気候が温暖で、年にお米の収穫が二度(高雄では三度)できるほど農作物が豊かな土地ということもあり、疎開した農村では、小作農とはいっても皆こざっぱりした身なりをしていた。農家の小母さんは、中国風に髪をうしろで丸く結い、黒っぽい色の中国服を着ていて、みな親切だった。
ふつう外に出て畑仕事をするのは男の労働で、女はふだんあまり野良仕事はせず、家事に専念するのが一般的のようだった。だから、戦後はじめて内地の農家の生活を知ったときには、日本の農村のつましい暮らしぶりには驚いてしまった。
台湾の田園地帯の小川には、仕事の出番を待ちながら、いつものんびりと水浴びをする水牛の姿が見られた。
台北では、たまに市街地へ艦載機による爆撃が散発的にあったものの、米軍が上陸するような気配はなく、やがて、それまで学校などに駐留しあふれかえっていた日本軍の姿は、いつの間にか消えてなくなった。

日本の敗戦が明らかになり一週間もすると、街の商店には以前のように豊富な食料がならぶようになった。戦争中、店頭から食料が消えていたのは、いったいどういうことだったのかわからない。
台南の日本人が経営する農場では、台湾人労働者の暴動があったという話も伝え聞くが、台北の都市部では、敗戦国の日本人といっても、とくに身の危険を感じるようなこともなく、ふだんの生活は以前とそれほど変わりなく続いていた。
やがて、蒋介石軍が台湾に上陸すると、敗戦国の人々は固唾を呑んで彼らを見守った。
やってきた兵隊たちは、大きな鍋やさまざまな日用品を背負い、背嚢には皆決まって唐傘をくくりつけている。この様は、まるで漫画の「のらくろ」に出てくるシナ兵の姿といっしょで、ずいぶん滑稽な感じがした。行軍をしながら、兵隊たちは見物人の中に若い女性を見つけると、皆にこにこと無邪気な笑いを見せて振り返りながら通り過ぎていった。
そんな行軍のようすを目にすると、日本人の多くは安堵感を覚えたようだった。

以上は、少女時代を台湾で過ごした、母から聞いた話の断片を思いつくまま書いたものだ。
台湾という南方の明るい土地柄のせいだろうか、戦争という暗い時代をはさんでいても、満州や朝鮮での敗戦の話と比較すると、雰囲気がずいぶんとおおらかでのんびりしている。
しかし、それでも結局、日本人は財産をすべて没収され、一家は裸同然で日本へ帰ってくることになった。
祖母は何かの記念のつもりだったのだろうか、それとも万が一補償があるかもしれないと考えたのだろうか、台湾で使っていた紙切れ同然の貯金通帳を、大事に持って帰ってきたらしい。
戦後ずいぶん経ってから、母がその貯金通帳を見せてもらうと、通帳には入金入金入金……の数字がびっしりとならび、相当な額になっていたそうだ。
母はその数字を見ると、無性に腹が立ったという。




旅の終わりに  佐藤真紀




またイラクに来てしまった。わずか2週間の滞在なのだが、バスラとモスルにも行く。それぞれバグダッドから500キロは離れている。

 バスラ

6月にあった男の子に会いたいと思った。
「この子はかわいそうに死んでしまいましたよ」名前を聞いたが聞き取れない。紙に書いてもらう。Nowars、ノワース君だった。同僚の原は目ざとく「No! Wars!(戦争反対)に見えますね」とため息混じりにつぶやいた。私たちは訪問するかどうか迷った。40日前の出来事だったので、悲しみが癒えないだろうから行かないほうがいいという人もいた。しかし、悲しみを分かち合いたい気持ちでどうしても会いたかった。正確な住所は分からないが、住んでいる地域を教えてもらった。かすかな記憶をたどって探しだすしかない。

ドライバーにゆっくり走るように指示する。あの時、ノワース君は病院から自宅に戻る途中だったので一緒に車に乗せてあげた。私はノワース君が車から降りて歩いて家に戻るところをビデオをまわしていた。ノワース君の歩いた同じ道を今、またビデオに修めている。「まるで家畜小屋だ」とそのとき表現した家からお姉さんが出てきた。

「ノワースは、ちょうど戦争が始まったころから体調がおかしくなったんです。最後に注射をしたら、足がパンパンに腫れてしまって、かわいそうで見ていられなかった」お姉さんの頬には涙が伝った。私はビデオを回し続けた。前回、ノワース君の取材をしていたときは、彼女はほとんど恥ずかしがってビデオから逃げていた。それが、今はしっかりとビデオを見据えて話していたからだ。伝えたいのだろう。

私たちは、お悔やみを行ってその場を立ち去った。
しばらくするとドライバーが泣き出した。もう運転できないほど泣き出した。
私たちは車を止めてため息をついた。「不条理」を感じずにはおれなかった。

 モスル

チグリス川を北上するとモスルという町につく。ここはともかくいろいろな少数民族が住んでいるところらしくなんともいえない雰囲気が漂っているのだが、高速道路だけは立派なのがいかにもイラクらしい。
ラナちゃんは「大きくなったら先生になりたいの」といっていたが、私が1月に病院で出会ってから一週間後には急性白血病で死亡していた。ラナちゃんが描いてくれた絵を載せた本「子どもたちのイラク」を見せて励ましてあげようと思っていたのだが、結局間に合わなかった。

ホテルから電話をしてもだれもでない。はたして、家を探し当てることができるのだろうかと不安になる。
その夜は、魚を食べることにした。フナのような鯉のような大きな川魚で、バグダッドやバスラでは肉ばかり食っていたのでこれがうまい。醤油をもってくればよかったなと後悔する。バグダッドの川は、核施設が戦後略奪され、住民がイエローケーキ(精錬した酸化ウランで粉末)の入ったドラム缶を盗み、中に入っていたイエローケーキをチグリス川の水で洗って、水がめとして使っていたという。それでチグリス川は放射能汚染してしまって、魚を食う気はしなかった。バグダッドから500キロも上流に行けば大丈夫だろう。放射能汚染していない魚は実においしい。

あくる日、ラナちゃんの家を探す。なかなか見つからなかったのだが病院でもらった住所を頼りに近所の住民に道を聞く。ラナちゃんの弟が家の前で遊んでいた。顔がそっくりだ。お母さんが出てきた。日本からの訪問者に驚きながらも、私のことを覚えていてくれた。早速「子どもたちのイラク」を渡した。ラナちゃんが写真の中で手にしているのは私がパソコンでコラージュしたポストカードだ。お母さんは、そのときのポストカードを持ってきてくれた。今でも大切に保管してくれていたのだ。一月、もう戦争が始まろうとしていたのでラナちゃんはろくな治療を受けることができなかったようだった。

「あんな、素敵な娘はイラク中のどこを探してもいませんよ」とお母さんは語ってくれた。
ちょうど15日前に男の子が生まれた。そのせいか、家族も明るかった。
抱っこさしてもらう。とっても重く感じた。ラナちゃんの生まれ変わり?
命ってこんなに重いのだ。

本を渡すことができてなんだか肩の荷が下りたような気分だ。すべてが終わったような。でもまた、始まったような。

報告会を行います。
2003年11月6日(木) 19:00 - 21:00
会場:ECOとしま(豊島区立生活産業プラザ)8F多目的ホール 豊島区東池袋1-20-15
詳しくはHPをご覧ください
http://www1.jca.apc.org/jvc/jp/commit/event/20031106_iraq.ht



季節の音  御喜美江




ヨーロッパは今日の午前3時から再び冬時間となり、時刻は一時間戻って午前2時となった。たった一時間だが、今朝8時に起きた時の気分はずいぶんと違っていた。睡眠が体中に満ち足りて頭もすっきりしている。昨日より外が明るいのも気持ちを楽しくする。しかしオス猫カーターは今日も夏時間で我家を訪れたらしく、普段より一時間も長く待たされたことが心外といった面持ち。玄関のドアを開けると「ニャ−〜」ではなく「フン!」と変な声を出して入ってきた。これは少々ご立腹気味のときに出す声で、そんな時は絶対に人の顔は見ず、大きなお尻を振りながら早足で居間へ直行する。そして絨毯の上にバタンと倒れて、まずは手足を伸ばせるだけ伸ばし、次にあごが外れるほどの大あくびをする。「今日からは冬時間でしょう、そういうことは猫もちゃんと覚えておきなさい」と私が言うと、今度は私を見上げて「ニャー〜ア〜」と長い返事をし、まるで「わかりましたようー」とでも言うように喉を鳴らしながら、絨毯上を右へ左へとごろごろ転がったり、頭をぐるぐる回したり、前足を使って重い体を上へ上へとずらしたり。数分前に「フン!」で見せた“不機嫌”は形ばかり、もうハッピーモードを全開させている。「カーター君、うれしい?」と聞くと「クンクン」と返事をする。ちょっと犬みたい。しばらくそんなことをして、やがて絨毯の儀式を済ませると、今度はパッと立ち上がってキッチンへ入っていく。いかにも「はい、次!」といった感じ。そして餌の缶詰が入っている棚の前で、開けられもしないくせにドアに頭を擦り付けて待っている。もしそんな時、私がファックスを見たり別の用事を開始しようものなら、餓死寸前のライオンのような顔つきで近づいてくる。でもしょせん猫は猫、どんな顔をしようとこちらは全然怖くないから「ちょっと待って、すぐお食事にしますから」と言うと「ちぇ!」と言って一旦は私の足元にお座りするが、書類に目を通しだすと「あ〜、最悪!」とばかり即、机上に飛び上がり、私が何も読めないように体を張って書類を隠す。それにしても一番大切な書類がどれか、一発でわかるから不思議だ。広告や印刷物の上などには決して乗らない。無視して触れもしない。

このオス猫は私達が何日間留守をしても、それが昼であれ真夜中であれ、また雨でも雪でも嵐でも、帰宅するとすぐどこからか「ニャ〜!」と出てきて出迎えてくれる。もしかして忠犬ハチ公の子孫ではないだろうか。そんな時は疲れもいっぺんに吹っ飛んでしまうくらい嬉しい。外では、決して離れまいと私の横にぴったりついて歩き、私が歩調を速めると一生懸命走り、立ち止まると振り返って「どうしたの?」と見上げる。この表情が何とも可愛い。大好きなツナ缶をお腹一杯与えると大層感謝し、ただちに外出して野ネズミを取って私の前に持ってくる。「ネズミは取らないこと!」と何度注意しても「まあ、そんな遠慮しないでどうぞ召し上がれ」とクールに置いていってしまうが、ネズミはまだ生きているので、家の中で逃げられると絶対に見つからない。このプレゼント……は迷惑だけれど、器用でも機敏でも若くもないオス猫が、“御礼用のネズミ”を捕らえようと、一心になって叢の陰で待機している姿を思うと、その努力は涙ぐましい。

おととい初雪が降った。
その前日から急に冷え込み出し、早朝には零下五度まで下がった。朝起きて窓を開けると家の屋根、車、庭、道路など、一面が霜で白っぽく覆われていて、いかにも“霜降り”といった感じ。何となく〈しゃぶしゃぶ〉が食べたくなった。〈すきやき〉でもいい。それにしても、気温40度の猛暑からまだ2ヶ月しか経っていない。この突然の“零下”は、森や林の落葉を一夜にして一斉スタートさせた。それは“散りゆく木の葉”なんてデリケートなものではなく、まるで堤防が決壊する時のような巨大なエネルギーを伴って、大量の葉や小枝が次から次へと風に舞いながら地面へ落ちてゆく。裏の林には大木が多いが、そこから落ちてくる何千、何万枚もの葉たちを見ていると、それはまるで滝の流れようだ。それにしても何と短い“秋”だこと! まるで“冬”にせきたてられるように慌ただしく、秋は私達の前を高速度で通過してゆく。目を瞑ると、落葉は衣擦れのような響きとなって聞こえてくる。

午後、町まで歩いて買物に行ったが、我が家の近くはその頃すでに落葉の山で、私の身長だと膝くらいまで埋まってしまう。水中を歩くみたいな抵抗が落ち葉で埋め尽くされた道路にもあって、さらに地面は湿っているから滑って歩きにくい。両手にかごを提げながら、のろのろと用心深く歩く。そんな中、近所の子供達はわざと落ち葉を蹴散らかして大きな音をたてたり、寝転がったりして面白そうに遊んでいる。でも猫だったら溺れてしまいそう。

市場ではニシン、舌平目、小海老、人参、ジャガイモ、トマト、きゅうり、レモン、ズッキーニ、シャンピ二オン等を買った。オランダの市場では、北海の漁港から直接運ばれてくる新鮮な魚介類がたくさん買えて、これらはドイツの魚屋よりずっと美味しいし種類も豊富。私たちは外食が多いので、材料さえ良ければ、どんなレストランよりも自宅の食事のほうがおいしい気がする。ダンナもそう言ってくれる。だから週末は張りきって作ってテーブルを派手に飾り、馬鹿食いして、結局飲み過ぎる。この日はでもメインが舌平目だったので非常に軽く、白ワインは飲み過ぎないので全てがセーフだった。今朝“霜降り”を見た時、〈すきやき〉〈しゃぶしゃぶ〉が食べたくなったけど、魚にしてよかった。これが肉料理だと、カンパリソーダ→すきやき→ビール→ご飯→赤ワイン→デザート(チーズ)→グラッパ……となって、お客様でもあれば“接待係”はあまり食べられないからいいけれど、2人だけだとこれといった会話もなく、まるで冬眠支度をするクマみたいに、ただひたすら食べて飲んで、食べて飲んで、挙句の果ては、アウト……、そして月曜はいつも反省会。

ところでちょうど3年前、デュイスブルグの音大からドルトムントの音大に勤務が変わったが、この10月からエッセンの音大にまた勤務先が変わった。ドイツの音楽大学はStaatl.Hochschule fuer Musikといってどれも“国立”となっているが、実際には州政府の管轄なので州立大学といったほうが正しいような気がする。そして州政府の政権が変わると必ず何らかの改革が行われ、その結果被害を蒙って犠牲となる人は多い。音楽、美術、彫刻、演劇などの分野は“改革”というよりもむしろ“縮小”がその業績とみられているようで、ポストが“講師”の場合は残る命短し。まあ間違いなく別のポストを探しておいた方が懸命、といわれている。尚このプロセスにおいては授業の内容、水準なんかは論外で、肩書きのみが判断の対象となるから優秀な講師がリストラされ、無能な教授がいつまでも残ったりして、学生の不満をより強調してしまう。ここ数年何となく気まずい空気が大学の中を流れているのも、ここに原因があると思う。私は15年間音大の講師をしてきて、もういやってほど無能な教授たちに呆れてきていたので、7年前やっと教授になれたときはちょっと複雑な心境だった。でも学生は同じ学生なのでそれは何よりの救いだった。今回は小さなドルトムントの大学からエッセンのフォルクワング音大に変わった。それは京成線柴又駅勤務からJR線新宿駅勤務に変わったほどの違いで、この3週間は大きなカバンを提げて大学構内をあっち行ったりこっち行ったり。一昔前、上野駅でよく見かけた“おのぼりさん”を思い出してしまった。学生達もドルトムントは来学期で廃校となってしまうから、皆一緒にエッセンへ転校してきたが、こちらもかわいそうに同じ苦労を味わっているみたい。「どう?」と聞くと「カオス、カオス!」と答える。今はとにかく一日も早く新しい大学とそのシステムに慣れることを願い、美しい中庭で学生達とのんびり過ごせる時間がじきにやってくることを、夢見ている。

午後4時半、薄暗い光のなかで、今も衣擦れの音が外から聞こえてくる。

(2003年10月26日ラントグラ−フにて)




うやむや  桝井孝則




慣れないことがたくさんあり過ぎて
ひとつひとつカベにぶつかり
つらいと感じながらも
不器用に足をまえに進める
止まっちゃいけないとどこか感じている


楽しんで大笑いして
すべて忘れて
そういえばあれは良かったと
思えることは幸せ
だからまた笑いたいと思う


今は少し無理をして裏返っても
そのうち素直な気持ちを表現したいと思う



しもた屋之噺(23)  杉山洋一




さて、秋もすっかり深くなり、今日は茸を買ってきました。今でも裕福とは程遠い生活を営んでおりますが、数年前とは比較にならない程、落ち着いた暮らし振りになりました。当時は、食材一つにしても肉を買う余裕などなくて、食感が似ているマイタケやカリフラワーのソースで、ミートソース気分を味わいました。

ところが、今思い返しても不思議に悲壮感が湧かないのは、こうしたレシピがとても美味なパスタだったからで、今も時折作っては、当時を懐かしんだりしているわけです。昔と違って肉も買えるようになると、却って不健康に太るのを気持ち悪く思うくらいで、ここ暫く以前の食生活に戻りつつあります。

野菜料理に詳しくなったのは、家族同様に付き合っていた近所の友人が八百屋だったお陰で、当時は傷みかけの野菜を貰っては料理していたのですが、これがなかなか結構な野菜ばかりで、高価で今は買えないような食材も、随分おこぼれに預かっていました。

友人は野菜のうまみを活かす料理に詳しくて、カリフラワーのパスタも彼の直伝です。食材は玉ねぎとカリフラワーとトマトソースのみ。シンプルなものです。普通ならカリフラワーを下茹でしてソースにからめそうなものを、野菜のうまみを出すため、わざわざ弱火で、カリフラワーを40分近く弱火で炒めると、見事に豊かな香りが立ち昇ります。白ワインなど加えて焦げ付きを抑えてしまうと、あの素朴で絶妙な味わいが望めずに悔しい思いをします。

その昔、食べるものも満足に買えなかった頃は、ポケットスコア一冊買うのにも、何時間も本屋で立ち読みして、結局その日は満足してそのまま家に戻ったりしながら、何ヶ月も悩んだものでした。ですから、CDとなると買うのは本当に稀なことでした。とことん憧れている指揮者か名演でもなければ(普段、家で音楽を聞く習慣すらないので)もっての他だったのです。

そんな中、なけなしのお金をはたいて購入したCDの一つに、マタチッチの振る「西部の娘」があります。このクロアチア人の指揮者が好きで、普段オペラなど聴かない癖に、このCDばかりは、彼の「道化師」や「メリーウィドウ」と同じく愛聴しました。ろくなものも食べられない毎日ながら、「西部の娘」をかけながら、結構幸せに暮らしていたのを思い出します。1幕で「俺が帰らなければ、故郷の母はどんなに悲しむだろう。どんなに涙を流すだろう」、なんて歌われると、妙に里心がついたのも、懐かしいばかりです。

今日、搾りたてのレモンが香る茸のパスタを作って昔を思い出し、久しぶりにこのプッチーニのCDをかけてみました。メロドラマは自分には合わないなどと思いつつ、すっかり聴き入ってしまいました(「西部の娘」がプッチーニの代表作とは到底思えませんが)。そうして思い浮かぶのは、1畳半ほどの小さいキッチンの窓辺で、毎日無我夢中で譜読みしていた頃のこと。将来が不安で仕方がなかったけれど、楽譜を広げて勉強している時だけは、幸福な気分に満たされました。

目の前には芝生が植わっていて、近所の猫が寝そべっていました。向いの屋敷で、毎週末、楽しそうにバーベキューしているのが、少し羨ましく、バーベキューの肉の匂いにほだされて、カリフラワーのパスタ等作っていたのです。あの時の言葉に代えがたい純粋な充足感は、少しは生活が不自由でなくなった今、余り感じられなくなった気もします(もっとも、別の意味での幸せはあるのでしょうけれど)。

当時は極限まで自分を追い込んでいて、恐らく感覚も鋭かったのかも知れませんが、音楽は常に新しい発見に溢れていて、生き物のようでした。毎日数頁ずつ楽譜を読んでいきながら、頁をめくる毎に人生が新しい色に塗り替えられる気がしたものです。

一から全てをリセットすること、それまでの人生を放棄しても、生きているうちにどうしても得たいもの、それが何だか分らないが、どうしても分りたくて、全てを犠牲にしても、今までの人生を白紙に戻してみたい、そんな欲求にかられたのは、後にも先にもあの頃だけでした。

あれから自分の中で、何かが確かに変りました。自分が何か、少し理解出来たのかも知れないし、あれだけ貧しくても生き抜けた自信が、これからの自分の活力の根本を担っている気もします。少なくとも、物欲が自分を幸せにするのではないのを、痛感させられた数年間でした。

もうこれで死ぬだろうか、そう観念しても生き延びているのを鑑みると、これから先も簡単にはお陀仏にはならなかろう、そんな現在の楽観思想に繋がっているようで、良いのか悪いのか、判断に苦しむ処ではあります。

  (10月18日モンツァにて)



《祈り》のかたち   松井 茂




ウストヴォリスカヤの交響曲第4番《祈り》を聴いた。交響曲といっても、ピアノ、トランペット、銅鑼、アルトによるわずか7分ほどの特異で簡潔な曲。ロシア語で歌われる歌詞は、中世ドイツの修道士ヘルマン・フォン・ライヘナウの断片。トランペットとピアノと銅鑼によるエコーのような音響の合間に歌詞が唱えあげられる。私は、直截な音楽を、そこにある《祈り》を聴いた。作曲は、1985年から87年。簡潔な技法を云々するよりは、当時のソヴィエトの状況を考えるべきなのだろうか? いや、時代や場所を考えるまでもなく、作曲家のジェンダーを考えるまでもなく、雄弁に孤立するという選択肢を意識させる時間と空間を創る音楽を感じるべきなのだ。それは時代が強いたことでもあるかもしれないが、ひとつの生き様として提出された芸術の形式だったのではないだろうか。

この日のプログラムは、1曲目がリゲティの無伴奏合唱曲《永遠の光》、2曲目がウストヴォリスカヤの交響曲第4番《祈り》、3曲目がベートーヴェンの交響曲第9番という異色なものだった。プログラムを組んだ指揮者、ケント・ナガノの意図は、必ずしも明確ではない。しかし、饒舌で情報量の多い1、3曲目の間におかれた、《祈り》は、非コミュニケーション的だが、音楽とか詩といったジャンルを軽々と超えて、還元的な形式で play ではなく pray として雄弁な存在を、私に体験させたことだけは間違いない。



「放擲する愛」をめぐる旅   宮木朝子




昨年から印象的な旅が続いている。2002年5月に奄美群島(大島本島/加計呂麻島)への初めての旅。それが発端となり、夏のパリ-南仏クレの町、冬に奄美群島の沖永良部島、2003年6月にカイロへ、そして9月に再び沖永良部島。

そのすべてに忘れ難い「耳の記憶」と「音楽をめぐる出会い」があり、時間的地理的距離を隔てて尚、鮮烈な「今」として何かを発信し続けているようだ。その何かを紡ぎ、先へとつなげてゆくことはこれからの作業なので、今は記憶の断片としてよぎるばかりだ。

旅の中心となり、これからしばらくも続いてゆくだろう旅先である奄美群島。
この南の島体験は文化人類学者今福龍太氏主宰の「奄美自由大学」への参加が始まりだった。大学の存在しない奄美群島を舞台に、島の各所への巡礼という形式で進行してゆき「土地の深い記憶を自分たちの生きる時間と結び合わせること」がさまざまに試みられるという「学びの互酬性と自由な開放性に期待と確信を抱いている人たちによる学びの場」(今福龍太氏の言葉より)。昨年5月に第一回、そして今年9月に第二回の自由大学が開催された。昨年島で初めて出会った“学生”たちは、国籍も居住地も職業も年齢もバラエティに富んだメンバーで、正式な自己紹介も挨拶もないまま始まる“巡礼”の途上に次第にお互いを知り、感性を交換しあった。大学生、ダンサー、建築家、大学教授、エディター……、年齢も様々で、それぞれの専門がありつつも、土地の持つ記憶に触れようとする過程においては全員が「共に学ぶ仲間」に戻っていた。94歳の唄者の里栄吉氏の演奏、ユタ=シャーマンの栄サダエさんの語る声、加計呂麻島のスリ浜の、珊瑚や貝の細かいカケラの擦れ合う軽やかな音が波音の余韻にこだまする夜の静寂音……それらは、原因不明の頭痛に悩まされた旅の「お祓い」の「儀式」のように続けたフィールドレコーディング(実際、旅の途上に聖なるガジュマルの大木によじのぼった後、罰のように始まった重苦しい頭痛が、夜の波打ち際、マイク片手の収音作業後、きれいに治ってしまっていた!)によって記録され、コンピューターの中で「記憶の音響」として再構成された。映像の記憶は、奄美大島在住の写真家であり自由大学の事務局の濱田康作氏の素晴らしい多重露光による写真、それをヴィデオ画像としてつなぎ、音をつけた今福龍太氏のヴィデオ作品の中で再構成された。

第二回の今年は、奄美群島の1つである沖永良部島が舞台となり、ゲスト講師として音楽の側から高橋悠治氏、詩の側から吉増剛造氏の参加という、贅沢かつ刺激的な環境となった。テーマは「放擲する愛 オルフェウス再考」。全島隆起珊瑚礁によってつくられたこの島には多数の洞窟が地中に存在し、「水と風が音をたてて地下を巡る天然のオルガンのような音響的・身体的(器官的)舞台」(今福氏)となっている。オルフェウス神話を潜在的なモチーフとして、この天然の楽器としての島を舞台に、旅の道標のようにして野外巡礼劇『南海のオルフェウス』が上演された。昨年も今年も“学生の一人”であることには変わりがないが、今年はこの劇の音楽担当としても関わることとなった。

オルフェ役のダンサー中村達哉氏、ユリディス役の福島朋子さん、出演者、スタッフなどのほとんどが昨年の受講生だ。今年は実際の開催の1週間前から島の民宿『昇龍荘』に今福氏一家、スタッフ、出演者総勢20名ほどで共同生活をしながらの準備となった。

札幌大学の大学院生、卒業生を中心とした若いスタッフ、出演者たちに加え、東京でプロのダンサーとして活躍する友人の中村達哉氏、女優の高橋由希氏、美術インスタレーションなどで活動を続けている千田泰広氏など(みな20代の若い表現者たち!)多彩な顔ぶれがひとつの宿に顔を揃えての自炊生活。日中の時間は、実際の巡礼、劇の舞台となる場所を訪れ、まずはそこの空気をそれぞれの身体に吸収し、自発的なにかが生まれてくることに費やした。それは手探りの作業でもあり、シナリオのない移動型の劇のなかで「造り過ぎない」ことを意識した日々でもあった。舞台は主に5カ所。集落にかならず存在する生活のための泉、ホー。瀬利覚集落のジッキョヌホーにて劇は始まる。断片的なシーンを、巡礼の道行きとしてさりげなく示しいつのまにか消滅する、、その繰り返しにより、劇は進行する。生活の場であるこの泉には、元気な島の子供たちが悪戯な妖精のように飛び跳ね、泳ぎ、飛び込み、私たちに屈託なく話し掛けてくる。

そして場所の移動。島のジューテ(唄者)福山利明氏の弾く三絃を先頭に、集落のマタ(魔界の住む境界)を越えて海岸へと移動。サンゴの海が長い時間をかけて育て上げた天然の能舞台のような岩の上で、ユリディスの歌が波音にまぎれて響く。そして民宿の目の前の四並蔵神社に移動。ガジュマルの錯綜した根の描く美しい模様の上で、オルフェが踊る。伴奏となるのは風の音、サンゴのカケラを打ち鳴らし、擦り合わせるかすかな音、そして地元の子供たちの笑い声。。次の舞台となるのは黒糖焼酎の製造工場。名酒「天下一」などを造りだすこの新納酒造工場では、貯蔵タンクや蒸留機の並ぶ空間にスピーカーを仕込み、「匂いと音の場」をつくりだそうと試みた。ユリディス、オルフェとも登場せず、封じ込められた記憶として二人の朗読の語りの声が加工された音響となり工具や酒の匂いと溶け合う「探索/検証」のシーン。途中地元の女性の方の島ユムタ(方言)によるムンガタリ(昔話)が語られ、琉球の詩人高良勉氏による琉球語によるユリシーズの朗読(予定されていたが、台風の関係で来島かなわず、代役としてスタッフの一人でもある安冨祖周氏による朗読がおこなわれた)、ゲスト講師の詩人吉増剛造氏の朗読とパフォーマンスがはいるなど、複数の展開が交差した。そして太古の昔より島の自然によって生み出された巨大な鍾乳洞である昇龍洞に移動。ここでは劇のクライマックスとしてオルフェウスが永遠にユリディスを見失うシーンが緊張感溢れるオルフェウスの踊りとニンファ、ユリディスの儀式的なフォーメイションと、スピーカーより出される喪失の音響によって表現された。ユリディスの面影を追って走り去るオルフェウスの後ろ姿を追って冥界/胎内巡りをする巡礼者たち。ラストシーンは夕暮れの沖泊の海岸。鍾乳洞のシーンから降り始めた豪雨も上がり、奇蹟的に訪れた日没の美しさと重なるラストでは、オルフェウスが遠景として次第に視界より消えてゆく。そこは島を通りぬけてきた地下水が滝となって流れ落ちる崖を背後に背負う、得難いロケーションであった。。台風の来訪、不意の豪雨、満ち潮のために消えた天然舞台を水中にみつめながら、衣装を濡らしながらひたむきに歌うユリディスの熱演、猛烈な暑さ、陽射しのなかの、予想以上にハードな巡礼の旅、、など数々のハプニングの中、島の自然の、時に厳しいまなざしに見守られつつ、巡礼劇の一日は暮れた。

追記:やや急ぎ足の旅行記のようになってしまいました。自由大学の最終日の晩、高橋悠治氏を囲んで、氏の音楽と語りを中心に繰り広げられた創造的な集いの場、さまざまな瞬間に生まれた、描ききれなかった細部の印象、島ユンタのやわらかな響きから受けたもの、数々の出会いについては回を改めて記せれば、、と思います。



沙羅双樹から奄美の音楽  三橋圭介




「沙羅双樹」という映画をいまやっている。まえに渋谷にこの映画を見に行ったが、結局、見られずに帰った。だが思いがけない出会いがあった。原宿にあるBLISSというトラヴェル・カフェに友人と行ったが、そこに映画の主人公の福永幸平がアルバイトしていた。かれは奄美大島出身のストリート・ミュージシャン。何年か前にフォーク・ギターを片手に上京し、新宿や池袋で路上ライヴをやっていた。それが目にとまり、NHKのテレビに出たらしい。そこにゲストとして出ていた映画監督の河瀬直美にスカウトされ「沙羅双樹」の出演となった。

映画はまだ見ていないが、かれはぼくたちのために沖縄の歌をうたってくれた。「19の春」、「行きゃんにゃ加那節」(奄美民謡)、「心の故郷」(オリジナル曲)、「わいど節」(奄美民謡)の4曲、まるで路上ライヴをやるようにすこし照れくさそうに説明しながら、少年のあどけなさの残る顔が力いっぱい声をはきだしている。

話によれば、ビートルズが好きで(Tシャツはポールの写真プリントだった)、元はオリジナルの曲をやっていた。奄美の民謡は東京にきてからうたいはじめた。「東京にきて故郷を思うようになりました」。そんなかれの歌声は荒削りで、うたうことで精一杯だ。だが「おばあちゃんがいつもうたっていた」という「行きゃんにゃ加那節」は、ちいさい頃から身体に染みこんでいる。三線を弾きながら、とても自然でいる福永幸平がいた。そして奄美への思いはオリジナルの「心の故郷」へと連なっていく。けっしてうまいとはいえない。だが精一杯なところがかれの自身の等身大の声として心に届く。

かれの歌に出会いたければ、BLISS(渋谷区神宮前6-29-2 電話:03-5766-0300)に行けばいい。沖縄の料理を頼むと福永幸平の歌がついてくる。お勘定の時、店長のおじさんが「今度は女の子を連れてきてね」と。「今度は女の子を連れてきます」と答えたが、その前に女の子と映画に行こう。



経過報告  高橋悠治




  11月

イシハラホールで瞿小松と羅暁信を迎えての「東アジアからの提案」の企画と 同時に 世界音楽についての本を企画して数人で会議をつづけている この二つの経験から振りかえって 自分のために思うこと

どのように ジャンルに規定されたステージ たとえば「現代音楽」の自己規制や 民族国家とアメリカ的グローバリズムのヘゲモニーから離れて 音楽を感じ 音を聴き そのための装置としての作曲や演奏をつづけることができるか に問題はしぼられていく

「戦争世界」に対して「平和の家」を思いながら その家の窓から世界を観るように 音楽とあそぶのは どういうことだろう

音と沈黙で織られた時間の泡であるような音楽 音にはどんな根拠もない たよることのできる権威もない すべてをその場で 楽器とともにうごきながら決めていく 選択の失敗さえも そのような音楽になるとして さまたげられることなく響く そのうつくしさ

あらかじめ決められた結末はなく 夜の庭の小径をさまようようにして あれこれの花の蔭にやすらい 見えない香煙の渦にみちびかれて 未知の響をもとめて わけいっていく

書かれていても まるで書かれていないように書くこと 見えているテクストとで図と地の関係をつくる 見えないインクで書かれたもう一つのテクストが行間から浮かび上がるように 一瞬のうちに転換が作動する このような作曲の方法があるだろうか

ともすれば技術にまかせて流れ去る音をせきとめ 一瞬断ち切ることによって 折り重なる空間の多層性を垣間見させる そういう演奏が可能だろうか

均質な空間 音の高さと時計の時間の組合わさった格子空間のなかの音楽 決定論 こういうヨーロッパ中心の世界ではなく リズムと音色による非可逆の時の矢と複雑系の空間のなかから 音の自己組織 偶然を排除しない 襞のあるアジア的世界がよみがえる

それは国際的に公認された「現代音楽」ではない非アカデミズムの実験音楽 即興 国境を拒否する遊牧民の 先住民の 移民の 難民の 女とこどもと隠者の 生きるための音楽



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