2004年4月 目次


おやじ         スラチャイ・ジャンティマトン
水牛とアリババ               佐藤真紀
黄色い鳥と春の声              御喜美江
しもた屋之噺(28)            杉山洋一
折って綴じると……            LUNA CAT
容疑者は夜汽車?              松井 茂
忘れられない日付              宮木朝子
失われた伝統(1)コチャルスキのショパン  三橋圭介
私のスリンピ・ブドヨ観           冨岡三智
3月の練習                 高橋悠治



おやじ   スラチャイ・ジャンティマトン 荘司和子訳




幼い日 田や野原を
かけ回って遊んだ
流れに手をつっこみ
かにや魚をとった
自然のなかで生きていくすべを
おやじが教えた


けがしたときは肩ぐるま
流れ渡り切り株またいだ
忍耐の人だった おやじ
思い起こせばこころに涙
おやじがいてくれなかったら
おれはどうなっていたか


子らはどうなっていたか
この社会のなかで
まともなヤツになっていたか
それともぐうたらな
人生おくるだめなヤツ
おれにもわからない


今 子らは成長し
芽を出し 実を結んで
列をなす
この幼子のふたつの瞳に
かつての自分がある
わが子は日々育っていく。。。

スラチャイはタイの東北地方の貧しい農村の出身で、父親は村の小学校の校長を勤めながら農業をやっていました。川や田んぼでかにや魚をとるのは日本のように、ただのこどもの遊びではありません。夕飯のおかずとかプララーという塩辛のような常備菜を作るためです。父親は子どもが幼いときから川や森につれていって遊ばせながら、「生きていくすべ」を身につけさせるのです。自然のなかで育ったこのころがいちばんしあわせだった、とスラチャイはよく回想しています。

スラチャイは長男が生まれてまもなく、'76年のクーデターで8年間のジャングルでの生活を強いられたため、子どもの成長を見守るという生活を経験しませんでした。この詩は現在9歳の次男が幼い頃のもの。はじめて我が子の育っていくさまを身近にみつめて、父親の苦労に思いをはせています。身内のことをほとんど歌にしない彼にしてはめずらしい歌です。(荘司和子)




水牛とアリババ  佐藤真紀




メソポタミア文明といわれてもなかなかピントこないものだ。アメリカ軍だらけの今のイラクからメソポタミア文明を想像するのはなおさら容易ではないが、サダム・フセインはそういった歴史を好んで引用していた。2002年のバビロン音楽際では、メソポタミアの衣装を復元したダンスがあった。でも最後のほうはスクリーンに映し出されたスライドは、クルド人の格好をしたサダム、ベドウィンに扮したサダム、背広を着たサダムとサダムファッションショーになってしまった。「イラクには歴史に裏打ちされた文明がある。アメリカにはそれがない」ラマダン副大統領はそういいきった。彼は今頃なにをしているのだろうな。あの時代が懐かしい。

ぼくたちはチグリス川沿いに南下しバスラを目指した。暑くて、へばっていたのだが、2日くらい前から急に涼しくなった。風が心地いい。川沿いには湿地帯が広がっている。昔はもっと湿地帯が広がっていてそこにはマーシュアラブといわれる人々がいたようだ。ところがサダム政権化で灌漑が行われたために多くの土地は干上がってしまったという。このマーシュアラブというのがどういう人たちなのかよくわからないのだが、ともかく水がないと生きていけないようだし、魚を食べないと死んでしまうんだそうだ。砂漠で暮らすアラブ人には、信じられないといった感じ。彼らに言わせればまるで半漁人のようだという。

途中、クルナ村に立ち寄る。森住卓さんが取材した白血病の子どもが住んでいるという。土壁で出来た家は、まるでメソポタミアの時代から変わらない。それでも、そこで暮らす人々はもっとリアルで、リズムを持っていると思う。南から風が吹き、砂塵が舞い上がる。この中には劣化ウランの粒子がきっと含まれているに違いない。45億年の半減期。この放射能で多くの子どもたちが白血病になってしまった。確率の問題ですよ。日本だって10万人に4名は小児白血病になる。「誰も恨んではいけません。確率なんです」と子供向けの本には書いてある。たとえ、10倍に増えても10万人に40人、確率の問題ですという。しからば、思いっきり、息を吸い込んで劣化ウランの微粒子を含んだ空気を取り入れる。これでぼくたちは、平等になったわけだ。あとは確率の問題。誰だって白血病になるんですよ。インシアッラー。

劣化ウランを含んだお茶が出された。ブンジローは、脂汗を流しながら一気に飲み干した。森住さんもちびちび飲み干した。今度はぼくの番だったが、やめにした。それってずるいんじゃないか。そんな葛藤をしているうちにコップのへりに止まっていたハエが足を滑らせてお茶の中に落ちてしまった。「ハエだもの。ごめんね。ハエはいっている。」代わりのお茶を入れようとするのをさえぎった。「もう良いです」

ムスタファ君は5年前に白血病になったそうだが今は元気になっている。「なんか絵を描いてよ」と頼む。ムスタファ君はちょっとつまらない絵を書き出した。「じゃあさ、何か動物書いてみようよ。ほら、猫とかさ」
ムスタファ君は自画像と猫をかいてくれた。これは結構傑作だ。

ムスタファ君に別れを告げて村を出ようとすると、子どもたちが走ってくる。ずっと車を追っかけて走ってくる。映画「ひばくしゃ」の中でもここの子どもたちは走っている。この世の終わりに向けて走っているような気もする。

バスラにいく楽しみは何かというと、病院で子どもたちと遊ぶこと。バスラのイブンがスワン病院の「遊び部屋」はとても楽しい。子どもたちはいつもけらけらわらっている。
5歳のザイナブちゃんは、なんか歌を歌ってくれた。「羊さん、羊さん、ナイフで切られてああかわいそう」という風に聞こえる。お母さんが、促すと次から次へと歌が出てくる。とっても得意げだ。「天使の歌声」をMDに採らせてもらった。それでも、時と場合によっては簡単に子どもは死んでしまう。明日になったら血が止まらなることもある。今のイラクでは輸血もろくに出来ないからそのまま死んでいくのだそうだ。

バスラを後にした。また湿地帯を横目に北上していく。途中には水牛がいた。普通の牛の2倍はある。ドライバーに頼んで車を止めてもらった。実は、この水牛をずいぶんと前からぼくは追っかけていた。昨年の10月、ものすごい勢いで、高速道路を飛ばしている際に、ちらちらと水牛がいるのが見えたが、どうもうまくカメラに収まらなかったのだ。車を止めようとするとかなり遠くであれが普通の牛か水牛かを見分けて運転手に指示を出さなければならない。結構難しい。イラクでは畑に出ているおばさんは全身黒装束だったりするし、黒いヤギもいる。

今度は、ようやく水牛の前でうまく車を止めることに成功したのだった。ぼくはもう喜んでこれをカメラに収めようと、車を降りようとした。運転手が「やめろ」という。何でもアリババ(盗賊)があちこちにいるからだという。「やつらは外国人とわかったら銃を持って襲ってくる。ほらそこで日産のピックアップで待ち構えているのがアリババだ」実際襲われている車もいた。アリババ対策なのだろう。イラク警察があちこちで検問をやっていてその数が20近い。ぼくは残念だったが、車の中から水牛の写真を撮るにとどめた。


人と水牛

人はたがやす 水牛はたがやす
人と水牛の かたく結ばれた
作業のみのりは だれにとられた
田んぼに出ようよ 鋤と鉄砲かついで
貧しさに耐え 涙かれはて
つきぬ悩みも なんでおそれようか
死んだも同じの ひどい暮らしだよ
血も汗もしぼりとり どん底にしずむ
百姓をみくだす やつらは打ち倒せ

タイとイラクではずいぶんと様子は異なるだろうが、ひどいくらしに違いない。



黄色い鳥と春の声  御喜美江




2月25日、5か月ぶりに帰国した。
ドイツでの仕事が終わって、下関における父の一周忌の法要と、東京で開かれている佐藤真紀さんの『こどもたちの描いた絵の展覧会』に間に合うようにカレンダーで帰国できる日を探したら、デュッセルドルフ発が24日夜、成田着25日、この日しかなかった。エールフランス航空パリ経由の夜便はめずらしく空いていたので、機内では夕食のあと肘掛を上にあげ、3つの座席に毛布を何枚か並べ、小さな“空の寝台”を作って就眠準備についた。幅も長さも全然足りないし、ベルトの金具も椅子のかたむき加減も体には馴染まないけど、でも飛行機の中で“横になれる”というのは最高の贅沢。毛布にくるまって文庫本を読みながら、「あ〜、なんと快適!」と大満足。ところが夫はというと、体が大きいので横になるのは恥ずかしいらしい。というか彼が横になるためには少なくとも5つ座席が必要だから、それはなかなか難しいことで、気の毒にも背筋をまっすぐのばし、きちんと座って読書なんかしている。彼が言うには、きちんと座らないと膝が前シートにあたって痛いとのこと。その点、日本人の体型は胴が長く、足は短く、横幅もそんなにはないから長いフライトには大変むいている。海外旅行で日本人が圧倒的に多いのも、もしかしてそれが理由かもしれない。

さて、“空の寝台”に寝入ってから約2時間後、ふと目が覚めた。すでに日本時間に変えておいた腕時計を見ると、(2月25日)12時50分である。その時、はっと思った。ちょうど一年前のその時間12時48分、父は病院で息を引き取った。母と私は10分遅れで間に合わなかった。あれからちょうど一年が経ったのだ。なんだかすぐそこに父がいるようであわてて窓から外を見ると、下のほうに小さな灯りがポツン、ポツンと見えた。ここはロシア上空。そして私は今、父の命日に日本へむかって飛んでいる。これはまったくの偶然……だったのだろうか。

翌日、表参道のクレヨンハウスで行われている佐藤真紀さんの『こどもたちの描いた絵の展覧会』を見に行った。佐藤真紀さんにお会いしたことは一度もないが、ここ数年のイラクにおける想像を絶する難しい状況の中で、常に人々に、とくに子供達に、生きる道と希望と勇気をあたえる素晴らしいお仕事をなさっていることに深い尊敬の念を持ち、さらに“読む水牛”では名前を毎月一緒に並べていただけるので、私のなかでは“クラスメート”の意識が自然と生まれてしまって、この展覧会は何としても是非見たいと思った。

展示されている絵はさまざまで、いくら見ても見飽きなかった。ハイダル・アリ君が描いた“お母さんの涙”、これは涙を流しているお母さんの横に小さなボクが立っている絵で、なんともたまらく悲しい。ヤスミーン・イブラヒームちゃんの描いた、燃えるビルと戦車の間で赤い花をイラク人の手から兵士の手へわたす絵にも心打たれた。空には戦闘機ではなく黄色の鳥が飛んでいたのも忘れられない。その黄色い鳥は東にむかってまっすぐ飛んでいた。

全体に暗い絵を想像して行ったのに、実に色彩豊かで夢のように明るい絵が多かったのにも驚いた。また“黄色”が、ほとんどの絵に使われていたのも大きな印象で、子供ながらに“光”をもとめる切なる心、また“光”だけは失ってはいけない、と叫ぶ声が聞こえてくるようだった。今まで絵を見て、これほど“黄色”に深い感銘を受けたことがあるだろうか。イラクのこどもたちの絵は、私に色の意味をも教えてくれた。

「絵は描けないけど見るのは大好き」と思っていた自分に、この展覧会は新しい刺激をあたえてくれた。絵から伝わってくる声、言葉、ほんとうにすごいと思った。

それから3月はずっと日本で、今日28日はマンションのお花見に参加した。風のない暖かいおだやかな日和だったが、明日は鈴木理恵子さんとのリハーサルがあるし、4月1日はいよいよアコーディオン・ワークスなので、気持ちにも時間にも余裕はない。母には「練習があるからお弁当だけもらって帰るけど、いいでしょ?」と言い、生まれて初めて母子2人でお花見に出掛けた。ところが荒川の桜並木についてみると春の空気が実に爽やかで、気がついたら2時間も居座ってしまった。草の上でお弁当“京友禅”、トン汁、ビールをいただき、ビンゴゲームでは3等賞を取ったりした。

ここでは明るい“春の声”が聞こえてきたけど、でも気持ちはどうしてもアコーディオン……、帰宅して夜までずっと練習していたら腰がズキンズキンしてきた。もう楽器からは体を、譜面からは目を離そう。そして昼に見た美しい桜並木と、広く青い川を頭に思い浮かべて寝ることにしよう。でも、その風景のなかには、あの曲、あの楽章、あそこのテンポ、あの指使い等などが細々と楽譜からおどり出て、ちらちら降ってきそう……

(2004年3月28日東京にて)




しもた屋之噺(28)  杉山洋一




3月の上旬、それまでの厳しい寒さも緩んで、街の木々の蕾が一斉に膨らんだかと思いきや、ここに来て底冷えする毎日が続き、スイス国境あたりの山々の尾根も、寒気で雪に覆われてしまいましたけれども、気がつくと、拙宅裏の桜並木が紫色のあでやかな花を開いていて、今晩から夏時間に切替わるのを、自然の方がよほど心得ているように思われました。

今日午後の便で、友人の遺骨が、ご主人に抱かれて日本に帰ってゆきました。10年来ミラノに住んでいて、友人や恩師のはなむけに何度か立ち会いましたが、日本の友人が逝去したのは初めてで、普段すっかり感じなくなっていた価値観の相違に、改めて感じ入るものがありました。何の因果か4年前ドナトーニが横たわっていた地下の霊安室に彼女を訪ねると、相変わらず殺風景な2畳ばかりの白タイル貼りの個室に、換気扇の音だけ虚しく響いていました。

日本なら亡骸を家に持ち帰り、しめやかにお通夜を過ごすところでしょうが、かかる習慣のないイタリアでは、遺体はそっけない霊安室に残されたままなのが寂しいところです。葬式と言っても、花輪を飾った多少広い個室に遺体を移し、友人が順番にお別れしてから神父に祝福を授けてもらうだけの、はなはだ簡素なもので、「そんなお気遣いはご無用」と常套句を独りごちつつ、神父がお礼袋にほくほく手を伸ばすさまのみ、日本の葬式坊主と瓜二つで、感慨深く思いました。

日本と比べ、棺が大層頑丈で賑々しいのは、土葬が一般的なキリスト教の習慣に則ったものに違いありません。そのまま火葬場で燃やすために作られた日本の棺桶とは、意図が根本的に違うのです。日本なら、最後に遺族が順番に石を持ち、涙を拭いつつ釘を打ったりするところですが、こちらは情緒もへったくれもなく、電動ドライバーで葬儀屋が首尾よく閉めてゆきます。

遺体を日本に搬送する許可を得るのが厄介なので、葬儀のあと荼毘にふすため、遺体はミラノ郊外の斎場へ、霊柩車で運ばれてゆきました。日本ならタイミングよく荼毘にふされ、数時間後には遺族が骨を拾ったりするところですが、イタリアではただ遺体を斎場に預けるだけで、数日経ってから「出来上がっております」と連絡が入るのだそうです。骨壷に骨を入れる順番にまで細心の注意を払う、日本人の殆ど芸術的な感性とは程遠く、ただセラミックの骨壷に詰めてあるだけで、「喉仏」も何もあったものではないようです。

穿った考え方をすると、あの棺、頑丈に作られすぎているし、鉄で下側が補強されていて、どうやってもあのまま荼毘にふすことは出来ないように思われます。斎場では何日か経って荼毘にふすらしいので、斎場に預けられた後、どうやら改めて電動ドライバーで棺を開け、亡骸を出して、遺体のみ焼かれることになるに違いありません。日本人の感覚では、キリスト教の「永遠の平安」とは程遠い扱いに憤りすら感じますが、彼らの感覚からすれば、もしかするとそれなりに筋は通っているのかも知れません。あの棺も恐らくリサイクルに回され、次回はイタリア人か、案外アルバニア人あたりの相手をすることになるのかも知れませんが、住宅から家具まで、古いものを流用するのが誇りの人種ですから。

最近はイタリアの墓地も敷地不足で、10年ほど集合墓地に置いてから、改めて棺を開いて遺骨だけを拾って、骨壷に詰め直し、もう少し立派な墓地に埋葬しなおすとか。かような感覚は我々には到底理解出来ませんが、流石にこれはイタリア人も同じらしく、最近では初めから荼毘にふし、どこか適当な場所に埋葬する傾向にあるそうです。

日本に遺骨を持って帰るためには、特別の許可証、一種のパスポートが必要なのだそうです。以前、在日韓国人の音楽家がミラノで亡くなったときは、故人が韓国籍だったため、日本に遺骨を帰してあげるのが大変だったと聞きました。外国人として生きる厄介は、こんなところにも現われます。

友人には、小学校に上がろうかという未だ幼いお子さんがいるのですが、学校の先生たちは、「ショックで子供にトラウマが残るので、頼むから遺骨を子供に見せないで欲しい」とご主人にくれぐれも頼んだということですが、この辺りも、日本人の感覚とは少し違うではないでしょうか。我々は死んで骨になるのは当然の摂理として受け入れられますが、話を聞いてみると、彼らにはグロテスクな印象を与えるようです。

逆に言えば、彼らが死者を笑顔で祝福するのに、エキセントリックな印象を禁じ得ません。泣き女までゆくと大袈裟かとも思いますが、せめて坊主が無表情に南無南無と唱えてくれた方がしっくり来ます。傍らで遺族が泣き崩れているのにも関わらず、神父が亡骸に向って「いやあ、めでたい。これであなたも、天国で主とともに永遠の平安を成就されるのです」、と晴れやかにのたまわれても、妙に空々しく感じてしまうのは、自らの精進が足りないのかも知れませんが。

そんな諸々の出来事に感じ入っていると、ヴィオラのパオロが突然、「君は生まれ変わりを信じるかい」と尋ねてきました。「特に興味はないけれど」突拍子もない質問に少々面食らいながら答えました。「君はカソリックなのかい。何れにせよ、キリスト教の教えとは矛盾するだろう」「確かにカソリックでは輪廻転生を否定するけれど、そういうことではなくて、大いなる存在としてのイエスを信じているのさ」「キリスト教というより、メシアを待ちこがれるユダヤ教みたいだな」隣で聞いていたヴァイオリンのアルドが口を挟みました。「次に生まれてきたら、君は鼠だったりするかも知れないんだぜ。それでもいいのかい」「それはそれでいいだろう。今自分に与えられている人生を、誠実に全っとうしたいだけだからね。そうして生れ変ったら、また新しい人生を懸命に生きぬくだけさ」

(3月29日モンツァにて)



折って綴じると……  LUNA CAT




幼い頃、「ノート」が嫌いだった。
というよりも、「本」にひかれていたというほうが正しいのかもしれない。

幼稚園から小学校低学年くらいの頃、ノートをそのまま使うことをしない子供だった。もちろん、勉強するときには仕方なく使うのだが、プライベートの場では、ひと手間かける。ノートの紙を切り取って折り、セロハンテープや針金で綴じて(ホチキスの平綴ではなく、針金の中綴!)、作品毎に個別に「製本」するのである。作品は物語だったりマンガだったりするわけだが、作品の長さと無関係に、一定の枚数があらかじめ綴じられている「ノート」というものに対して、大いに不満を抱いていたらしい。

三つ子の魂百まで、と言われているとおり、この傾向はその後もずっと続いている。高校までは、不満を抱きつつも、いわゆる「ノート」を使っていたが、大学時代にはルーズリーフノートを愛用するようになった。社会人になってからも、紙に記録することが多かった時代には、ルーズリーフノートを使っていた。時はめぐり、モノを書くという行為が「ワープロやパソコンのファイルにビットを記録する」ことと等しくなってからは、「一定の枚数」から解放され、ハードディスクの容量が飛躍的に増大した結果、記録媒体による制限に煩わされることもなくなって、現在に至る。

「本とコンピュータ」2004春号で「折って綴じれば本になる」という記事を読み、「装丁探索」(大貫信樹著、平凡社)で「針金綴製本」の話を読んで、そんなことを思い出した。

紙を折って綴じることはできても、そこに書く手段が手書きしかなかった時代と違って、いまではいとも簡単に文字や絵や写真がレイアウトでき、印刷できるようになった。ちょっとした分量のものをプリンタで印刷し、綴じる。そうすれば、過不足のないページ数の、ちょうどいい本ができあがる。ほんとにささやかな規模のオンデマンド本というわけだ。

3年ほど前に購入したプリンタは、今ではパーソナル市場からは撤退してしまったらしいが、某複写機メーカーの製品で、いまや花盛りのパーソナル複合機のはしりだった。付属のユーティリティソフトには、「小冊子作成」という機能がある。買ったばかりの頃に試してみたら、縦組みにしても左開きのままになり、使いものにならないので、いちどで懲りてしまったが、オンデマンド印刷機も発売しているメーカーらしい機能と言えそうだ。

パソコン初心者向けの書籍でも、本の作りかたの解説を見かける。解説の中身は、主にワープロソフトの使い方なのだが、本の作りかたというタイトルにパソコン初心者が興味を持つ程度には、人は本を作りたがるものであるらしい。

とはいえ、「本コ」の記事にあるように、「印刷すること」と「製本すること」とは、いまだに頑として別個のものとして存在している。そして、印刷することは驚異的と言えるほど簡単になったけれど、製本することに関しては、パソコンもワープロも存在していなかった頃と、ほとんど変わっていない。折って綴じることはできるとしても、表紙をつけて本にする過程に、いまひとつ不満が残る。印刷は短時間に大量にできるようになったけれど、それを本のかたちにする技術はついていっていない。ちょっとしたものならともかく、自分で長篇小説を書き、プリンタで出力して製本しようとすると、途方もない労力がかかるだろう。自力でできないから、業者に頼めば良いかといえば、そうでもない。

ノートに不満を抱いていた小学生は、社会人になったばかりの頃、社内報に、オンデマンド本の出現を予見するようなエッセイを書いた。それから十数年が過ぎた頃、オンデマンド本は現実のものとなった。ただひとつ、そして決定的に異なっていたのは、現在「オンデマンド本」と呼ばれているものは、出版社の所有するデジタルデータをオンデマンドで「印刷する」本であり、印刷したものをオンデマンドで好きなように「製本する」本ではないことだ。デジタルから紙に変換するという機能を提供しているだけで、変換後の形態には、選択の余地がない。

停電になっても、パソコンが壊れても、ハードディスクが飛んでも、CD-ROMが読み込みエラーとなっても、ソフトが新しいOSに対応しなくなっても、それでも読めるというのが紙の本の大きなメリットであることは間違いない。だからオンデマンド本も、デジタルデータのままではなく、紙に印刷されていることに価値があるというのも、一理あるのかもしれない。しかし、いまや、印刷するということに対するハードルは、驚くほど低くなっている。かつてのひねくれ小学生としては、オンデマンド本の存在意義というものは、そこから先の選択肢がどれだけあるかでも問われるべきではないかと考えてしまう。

紙の本を求める理由として、電気も特別な道具もいらないというだけでなく、モノとして手元に置いておきたいというのも、大きなウエートを占めているのではないだろうか。わざわざプロが作るのだから、自分が印刷して束ねるのと大差ないのではさびしい。多少費用が多めにかかったとしても、紙や判型や、フォントや版面や、表紙の紙やデザインに、愛蔵本となりうるような選択肢は不可欠だと思う。極端な話、たとえばアパレルのデザイナーと提携した少部数発行の本があったって良いのだ。ファッションから本にアプローチする読者がいてもかまわないのではないか。残念なことに、そんな発想は、いまのところ出てきていないようだけれど。

折って綴じることと、本をつくるということの間には、微妙な距離がある。
製本は、その微妙な距離を守り続けて、最後の聖域として残るのかもしれない。あるいは、印刷の選択肢が十数年の間に飛躍的に増えたように、たとえばこれから十数年のうちに、選択肢が増えていくのかもしれない。
ともあれ、折って綴じるという行為の彼方には、まだまだ、はるかに長い道のりが続いているらしい。



容疑者は夜汽車?   松井 茂




2003年の年末から2004年1月末、約1カ月ほどの時間をかけて、鶴見幸代の合唱曲のために『縞縞』という詩を書いた。字面的にはヨーロッパとアメリカと日本の通貨をならべた詩だ。自分だけではおそらく書かない種類の作品だったので、鶴見幸代が声を掛けてくれたことに感謝している。また、この詩を書くことを通じて、多和田葉子の文章を読むようになったことも刺激的なことだった。

それにはいくつか事情がある。2003年12月28日に豊田市美術館で、『宥密法』のクロージング・イベントとして、私とさかいれいしう、豊田市美術館の学芸員・都筑氏の3人で、2時間半にわたるパフォーマンスを行った。それが終わってから、美術館の方と話をした際に、パフォーマンスをみていて、多和田葉子の朗読パフォーマンスを思い出したと言われたのだった(未だ、多和田葉子のパフォーマンの詳細をしらないので、どうしてなのかはよく分かっていないのだが……)。作家の存在は、もちろん知っていたが、読んだことはなかった。大学生のときに、古典の授業で『犬婿入り』を読むことを勧められたけれど、どうせ民俗的な翻案の小説なのだろうと思って読まなかったことを思い出す。豊田から帰宅して、偶然、兄から多和田葉子の『容疑者の夜行列車』を「いらないから」ともらった。

ドイツ在住で、ドイツ語と日本語で小説を書きわけている作家だという事実から、勝手にハードで重厚な内容を想像し、すぐには本を開かなかった。だが、読み始めると、あまりといえばあまりに軽くて読みやすい文体で驚いた(軽薄と言うことではなくて、意図的に軽い、つまり戦略的な文体だからなのだと思う)。一人称の語りなのに「あなた」という言いまわしで、よそよそしい独白が、読者と主人公と筆者とそれぞれの間に客観的(であるかのよう)な距離間をうみだして展開する(後半で「あなた」と語ることになった起源譚も出てくる)。

内容は、ユーラシア大陸をあっちに行ったりこっちに行ったり鉄道で移動する話の断章からなる。展開のある物語ではなく、それぞれが独立した話。主人公は舞踏家だが、公演地から公演地へと移動する。はっきりいって、たんにこの移動についてだけの話(むかしに放浪した時代の話もある)。ある意味で、書くこと=語ること自体が目的で、書き=語るために移動していると思えてすらくる。この作品が何かの賞を受賞したときに、審査員のひとりが「この小説は夢の話で云々」と言ったそうだが、私は、その話を聴くまでこの小説が夢の話とは思わなかった。もちろん真偽はわからない。幻想譚めいてはいるが、寓話的とも思わなかった。私は、これまでに知らない種類のリアルに触れた気がしていた。

第一話に「パリへ」というタイトルの、夜汽車でハンブルクからパリへ向かう話がある。途中、ストライキで汽車が止まる。フランス語を話す相手にフランス・フランでチップを払うと、相手が逃げるように去っていった。そして、やがて汽車の替わりにバスが来てそれに乗る。すると、国境がみえてくる! 「あなた」は、いままでいた場所がベルギーだったと気づく。ベルギーもフランスも、フランス語を話し、通貨はフランだが、その価値はかなり違う。「あなた」は「大金を払」ってしまったのだった。ちなみに1ユーロは、6.55957フランス・フラン=40.3399ベルギー・フランだった。これは、ユーロ以前のヨーロッパで起こりうる勘違いで、要するに悪い冗談なのだろう。そこに普遍的なリアルがある。

今どき日本から出たことがない私は、これを読んだころ、理屈で『縞縞』に通貨の単位を使うことを考えていた。しかし、ユーロという統一通貨と従来の通貨(ユーロからみれば地域通貨ということになる)の関係から、文化や普遍性について語れるということに、リアルな実感がなかったのだ。多和田葉子の小説を読んで、夜汽車でユーラシア大陸を彷徨し、通貨という視点から考えることに確信が持てたのだった。その他にもとにかく、多和田葉子の小説、エッセイを読んで考えさせらることが、いろいろあるのだが、それはまた稿を改めたい。文体の問題やら、語り口の問題で気になることがいろいろあるし、普遍性の考え方や、言語観等々、興味は尽きない。初期の作品のいくつかには、母語の外で暮らす違和感を表明した作品があり、それはそれでたしかに面白い(『犬婿入り』も違和感の表明だ。また『ペルソナ』や『アルファベットの傷口』の中によみとれる悪意は読んでる方がほんとに痛い気持ちになってくる)。また、ある時期以降は、違和感の表明のしかたが物語的ではなく、もっと駄洒落的な展開になっていくように思われる。つまり、文章が、文字通りの意味とは遊離して、音響から拡げられていくところがあったりする。これが微妙に篠原資明的だったり、藤井貞和的だったりと、詩的な展開で面白い。



忘れられない日付   宮木朝子




イラク戦争開戦から1年、暴力の吹き荒れる世界にも、再び春が訪れる。
映像の伝える鮮血の赤が、きょうもまた目を灼く。
ちょうど1年後の3月20日には、友人たちのコラボレーション作品が、この日付を忘れられないものとしてくれた。自分なら逃避的な表現をしてしまうかもしれないが、彼らはそんな世界に対して、大胆に、自在に、表現を返してゆく。作曲家の鶴見幸代さん、詩人の松井茂さんによる、時事的で芸術的な問題作、『縞縞』。

*電磁波にとりかこまれての自閉症――
現在作曲中、6月発表の2曲についての創作メモ。

『Compostela(星降る野原)- for Trumpet and α 』

「初めて踏んだ砂漠の地。乾いて崩れた明るい色の岩石の質感と、灼けつくような陽射しに目をあけていられない白く照り返した空気とのせめぎあいのただなかにいることの、臨場感に圧倒されていた。〜
乾いた空気の中を突き抜けて存在する音、をもしもフィルムに焼き付け、多重露光することができたなら? Still shot(静止画像)としての音響。これはむろん比喩のなかでの出来事だが、感覚の中では矛盾なく存在する。同じ音列によるメロディーが微妙な音響的誤差をともなって、ブレるように響くこと、その連鎖によってつくられた時間軸は、螺旋状に連なり、堆積した記憶の侵入により、歪んでゆく。やがてブレから滲み出してきた音響が、メロディーをかき消してゆく。。」

『Orfeu mix〜distant love in electronica2004(仮題)
――for electronic organ,electric guitar, and electronic sound』

世界から剥奪され、断片化されたもの(音響)から、あらたな(身体)像を予兆として結ぶ、という行為に、四肢分断され世界に散種されたオルフェの最期を重ねてみる。

想起することにより現実のものとなる情報。過去-現在-未来が同時にいま・ここに・在るということのシンセティックな意味。合成される全時間の瞬間。継時的なものが無効となる瞬間、をつくる。

electronic organを、(電子の器官)と読み換え、“エモーション”“官能”に対して変調をかけ、remixをおこなう。

Stillなものと、溢れかえるノイズとしての情報。重なりあい、変化する景色。
夢の時間、神話の時間における、“Love”のくりひろげられる場所。

  



失われた伝統(1)ラウル・コチャルスキのショパン  三橋圭介




ショパンはすぐれたピアノ教師だった。かれは自分の曲を、特にポーランド人の弟子たちに非常に厳格におしえた。その伝統とはどのようなものだったか。その答えはラウル・コチャルスキの演奏のなかにあるかもしれない。

コチャルスキは1885年にポーランドに生まれ、1948年に亡くなった。年代的に見るなら、かれよりもロマン派の時代に青年期を過ごした1848年生まれのウラディミール・パハマン(1933年没)のほうがロマン派的伝統を身につけているはずだ。たしかにそうだろう。だが、ショパンの音楽がロマン主義の伝統のなかでどのような位置づけにあったかを考えなければならない(シューマン同様、ショパンは自分の音楽をロマン主義ということばで説明されることを好まなかった)。コチャルスキが1920年代から40年代にかけて残した録音(Archiphon ARC-119/20、Biddulph LHW022)からきこえてくるのは、ロマン主義のパハマンとも、もちろん華麗なヴィオルトゥオーゾを装った現代ともまったく別の音の世界だ。

ピアニストとしてコチャルスキは4歳でコンサート・デビューし、また5歳からはじめた作曲では、7歳までにすでに40を越える作品を書いた。そうした才能に目をつけたのが、ショパンの高弟カロル・ミクリ(1821-97年)だった。かれは1892年から4年間、まだ幼いコチャルスキをショパンの伝統の後継者にしようと徹底的に仕込んだ。それはショパンの厳格なメソードに基づいたもので、たとえば、姿勢から運指法、ペダル法、レガート、スタッカート、装飾音、フレーズの構成、リズムの扱い、ルバートなどだった。当時、レッスンがとても大変だったことを、コチャルスキは告白しているが、かれの歴史的録音をきくと、たしかに身につけたと感じる何かがある。

「あの木々を見てみなさい。葉が風にざわめいて波打っているが、幹は動かない。これがショパンのルバートだ。」リストがいったと伝えられているこのルバートは、ショパンのピアノの演奏のなかでも最も特徴的なものとして挙げられている。それは左手の正確なテンポを保ちながら、右手を遅らせながら自由に歌わせる技術だ(パハマンのルバートは、旋律を正確に歌いながら、左手を操作している)。これはハイドンやモーツァルトの時代に使われていたルバートと同様の効果がある。

ルバートとは17世紀終わりから18世紀にかけて、歌のベル・カント(美しい歌)様式が器楽に移されて発展したもので、バスの安定した動きの上でアリアやレチタティーヴォなどをうたう歌手が、音を長くしたり、短くしたりしながら、装飾音をつけて演奏したことにはじまる(そうしたベル・カントに基づく装飾的なルバートの例は、モーツァルトの緩徐楽章に多く見つけられる)。ショパンは常々イタリアの歌手のベル・カント唱法を見習うように注意したが、それは旋律を巧みに歌うことと密接に結びついていた。

リストがいう「ショパンのルバート」は、当時でも評判が悪かったという証言もあるが、コチャルスキはそれをミクリから学び、よく理解していたのだろう。かれの弾く前奏曲の第2番は、即興的な装飾を一切行っていないが、リストのことば通りの演奏の例だ。だが、それを実際にきくととても奇妙な印象を受ける。左手のパターンの上で、右手が全体に遅れながら同時に進行するが、こういう表現は今までコチャルスキの演奏以外ではきいたあことがない。だが、「奇妙に感じる」のは、いわゆるクラシックをきく耳できくからであって、アジアや東欧の伝統的なアンサンブルをきく耳には親しいものだ。たとえば、ドローン上に浮遊して戯れる旋律は、インド音楽やジプシー・ヴァイオリンのアンサンブルなど、そうした例はたくさんある。こうした伴奏と旋律を完全に独立させるやり方は、理論ではなく、和声と旋律の音色の微妙なバランス関係、つまり不規則の規則によって行われている。

さらに装飾音との関わりでいえば、ノクターンの作品9の2はミクリをはじめとして、いくつかの装飾稿の存在が知られているが(ショパンはおなじ曲を2度おなじように演奏しなかった)、コチャルスキの演奏はそのどれともちがう。抒情豊かに旋律が歌の内的な流れにたゆたうように揺らめき、冒頭の旋律のくり返しの前で、巧みなルバートをかけて半音階的に駆け上って旋律を受けつぐ。息を呑むような瞬間だが、ショパンは声楽のポルタメントの効果をピアノに求めたといわれているが、ここではそれを彷彿とさせるものがある。歌はくり返される度にその息遣いと共に多様な表情を見せていく。

コチャルスキの前奏曲、練習曲、ノクターン、マズルカなど、これまできいたどんなショパンともちがう。詩情にあふれ、瞬間に瞬く儚い美しさがあるが、その歌の行方を追いかけていると、いわゆるクラシック音楽のショパンをきいているというより、ポーランドの伝統音楽のなかのショパンをきいているような錯覚すら覚える。また、コチャルスキという演奏者の個性というものをまったく感じさせない。よい意味で、ローカルな素朴さ、美しさをたたえた歌う音色の音楽であり、ショパンがほんとうはこういうものだったのか、という思いを強くさせる。その意味でもショパンのピアノの伝統が当時でも極めて孤立した現象だったと想像することもできる。ラウル・コチャルスキのショパンは、そのことを伝えている。



私のスリンピ・ブドヨ観  冨岡三智




スリンピとブドヨはともにジャワの宮廷女性舞踊で、マタラム王朝の後裔のジョグジャカルタとスラカルタ(ソロ)の宮廷に伝えられている。どれも完全に上演すると1時間ほどかかるので、現在では10〜25分に短縮されている。スリンピとブドヨの完全版をできる限りすべて修得するというのが、私の留学時代の課題であった。今回はスリンピとブドヨ(完全版)という舞踊について、私が自分自身の舞踊体験から感じとったことだけを書いてみた。したがってこれらはジャワの文献に書かれていることでもなければ、舞踊の師が教えてくれたことでもない。また観客の立場から見た見方でもなく、私が5年間振付の時間を経験し続けて感じたことである。

●スリンピ
スリンピは4人の女性が同じ衣装を着、同じ振付を舞う舞踊である。振付は抽象的で、同じ振りを2回または4回、方角を変えて繰り返し、シンメトリーなパターンを描く。舞楽のようなものだと想像してもらえれば良い。宮廷舞踊では4本の柱で囲まれた方形の空間で舞うのだが、その空間の雰囲気も舞楽の舞台に似ているように思われる。

スリンピでは基本的に、4人の踊り手が正方形、あるいはひし形を描くように位置する。最初と最後は4人全員が前を向いて合掌する。曲が始まって最初のうちは4人が同じ方向を向いているが、次第に曲が展開していくにつれて、踊り手のポジションが入れ替わり、さまざまな図形を描くようになる。4人1列になったり2人ずつ組になったりすることもあるが、4人が内側に向き合ったり、背中合わせになったり、右肩あるいは左肩をあわせて風車の羽のように位置したりすることが多い。こういうパターンを繰り返し描いて舞っているうちに、空間の真ん中にブラックホールのような磁場があるように感じられてくる。踊り手はそこを焦点として引き合ったり離れたり回ったりしながら4人でバランスをとって存在していて――それはまるで何かの分子のように――、衝突したり磁場から振り切れて飛んでいってしまうことはない。4人が一体として回転しながら安定している。それも踊り手は大地にしっかり足を着地させているのでなく、中空を滑るように廻っている。そんな風に、スリンピは回る舞踊だと私は思っている。

そしてまたスリンピは曼荼羅だとも思っている。私がそう言った時に、まさしくそう思うと言ってくれたジャワ人舞踊家が2人いた。(同意してくれそうな2人にしか話していないが)曼荼羅は東洋の宗教で使われるだけでなく、ユングの心理学でも自己の内界や世界観を表すものとして重要な意味を持っているようである。曼荼羅のことを全く知らなくても、心理治療の転回点となる時期に、方形や円形が組み合わされた図形や画面が4分割された図形を描く人が多いのだという。スリンピが曼荼羅ではないかと思い至った時に河合隼雄の「無意識の構造」を読み、その感を強くしたことだった。さらに別の本(「魂にメスはいらない」)で曼荼羅の中心が中空であるということも言っていて私は嬉しくなった。スリンピという舞踊は今風に言えば、1幅の曼荼羅を動画として描くという行為ではないだろうか。ブラックホールを原点として世界は4つの象限に区分され、その象限を象徴する踊り手がいる。そんなイメージを私は持っている。

●ブドヨ
ブドヨは9人の女性が同じ衣装を着、同じ振付を舞う舞踊である。振付も抽象的で、同じ振りを方角を変えて繰り返すところなどもスリンピと同様であるが、9人という人数で踊られるだけに複雑なフロアパターンを多く描き、またシンメトリーでないものも多い。ブドヨはスリンピと違って多くの作品が失われてしまった。ただしブドヨの本歌とも言うべき「ブドヨ・クタワン」はいまなおスラカルタ宮廷で毎年王の即位記念日に行われている。これは門外不出の舞踊である。今に残る数少ないブドヨ、または元はブドヨであったと言われるスリンピ作品を舞ってみて痛感するのは、ブドヨは大地を歩く舞踊であるということである。

ブドヨに特有なステップのあるララスやプンダパンという動きでは、踊り手は前に進むかと思えば後退し、また進み……を繰り返す。大地を慎重に踏み固め、練り歩いているような気に私はなるのだが、歩くという行為自体が宗教的、呪術的行為になり得る。

アボリジニには聖地を結ぶ古い小道を儀式的に徘徊(walk about)し、それぞれの聖地で決められた儀式を行って、精霊のエネルギーの循環を助けるという信仰があるそうだ。またイギリスでキリスト昇天祭に催される「大地の境界線を打ち据える」(beating the bounds)儀式も似たような徘徊の行事だという。ライアル・ワトソンの「アース・ワークス」でこれらのことを儀式的徘徊の存在を知った時、また日本でも陰陽師が行うという反閇(へんばい、歩くことによって行う呪法)があることを知った時に、これらはブドヨと同じではないかという気がしないではいられなかった。

9人がこうやって大地を踏みしめてもぞもぞ、ぬるぬると移動するとき、私はこの9人が巨大な1個の生命体となって大地を這っているような感覚に襲われる。1人1人の踊り手は大地を踏みしめているのだが、1個の生命体となった時には、蛇のような足無しのものが這っていくという感じなのだ。特に9人が一列の隊形の時はなおさらである。だがこの生命体は9人の徘徊によって生じたエネルギーかも知れない。それは「気」のようなもので、霧が谷川の上を蛇のように(気とくれば龍に例えるほうが良いかもしれない)流れていくように、ブドヨのエネルギー体が大地を這っているのかも知れない。

何ともまとめようのない文章になってしまった。読者の方は、宮廷舞踊に対してなんと突飛なことを考えているのだと思うかもしれない。だが舞踊の動きはイメージの中に生き、そしてイメージは連想に支えられていると私は思っている。スリンピやブドヨを、こんなイメージを持った舞踊として表現できたらと私は思っている。



3月の練習  高橋悠治




    これでは以前とおなじだ
      また はたらくようになってしまった
  と思いつつ
 3月は3つのコンサートの練習をしてすごした
      18世紀から20世紀にかけて興り栄え崩壊した西洋音楽が
         楽譜に書かれ
        楽譜はスケッチではなく設計図になって
 しかも楽譜に書かれた音符を絶対とする信仰が
    1930年代に生まれたために
        逸脱を許さない安全の規律にしばられ
機能主義と速度を競う演奏の態度が生まれた
 演奏機械の誕生
    それは国家社会主義とケインズやニューディールの時代
  崩壊した経済を国家の介入でのりきる戦略のもとでの
        文化統制の表現
 純粋 均質 本質 こんなことばがいまも生きているのか
            そこで練習はもう
変化するおなじ アミリ・バラカ
  あるいは 毎回の更新ではない
         おなじ回路をくりかえし
   意識から無意識になっていくプロセス
    ゆっくりくりかえし だんだんに加速する
     あるいは一気に速度をあげて確認する
  こんな練習法が通用しているのはなぜか
三味線の稽古では 練習曲もなく
     ならうとは 文字通り師に倣うこと
        はじめから速いものは速く おそいものはおそく
 いっしょに3回弾き 今日はここまで
質問してはいけない
  なぜなら と師は言われないが
            わからない者がする質問は
           その水準での誤解にもとづいている
 それに応えれば その水準から出られなくなる
     そしてわかれば 質問してもむだだとわかる
 質問はなくなっても 問いはのこる
        あるいは答のない問いだけが生きつづける
            ところで
ネイガウスやリヒテルの現代ロシアピアノ奏法では
 やはり速いものをおそく練習するのはむだだと思われていたらしい
         そのかわり
  つまずいたところで中断して
         そこまでとそれからを練習し
            くりかえすことは4回まで
     すると うごきはなめらかになっている
 エイゼンシュテインのモンタージュやメイエルホリドのビオメハニカの
     ロシア・アヴァンギャルド思想はこうして
           ピアノ演奏技術を装って
        スターリン時代を生きのびたのか
  また
   グレン・グールドの練習法のひとつ
             一方の手の指で他方の手の指を踏みつけながら
 1曲を弾き通す
           足枷をかけられた囚人のように
        それができたら 元通りにやってみると
    ふしぎに もうできていた
           こうして
 バッハのゴールドベルク変奏曲全体を練習するとは
   北の人の なんという苦行か
グレン・グールドが小屋のなかで練習しているビデオを見た
        歌いながら 時々中断しては
 考える隙もなく すぐやりなおし
   そうだ
     考えないことはたいせつだ
その場でなんとか切り抜ける
  それが人間の歴史
             そこには原理ではなく方便だけがある
    対機説法と言われるもの
     分析ではなく分岐
        思考ではなく瞑想
    精神ではなく身体からはじめれば
        心身二元論に陥ることはない
            身体の中心をいつも意識すると
末端は自律する
            どこで読んだか忘れたが
抱いている赤ん坊を取り落としかけたとき
            一瞬力がはいるところが 身体の中心
   あるいは丹田
        あごがゆるみ 肩が落ち
            腕が身体から離れると
  指が身体の中心から操られる
            こうして人形のように空洞になった身体が
     音をきく
   と言うより
  音がきこえてくる
        合図することなく 相手を見ることなく
    それぞれの時間でうごきながら
          いっしょに合奏する方
  異質のままでありながら対話することができる
      共同体と個人の
   あるバランスの取り方




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