2004年6月 目次


高遠さんと電話ではなしたこと         佐藤真紀
しもた屋之噺(30)             杉山洋一
風と草          スラチャイ・ジャンティマトン
のどかな五月                 御喜美江
バンバンガン・チャキル            冨岡三智
虹色                     武石 藍
マセダの思い出                高橋悠治



高遠さんと電話で はなしたこと  佐藤真紀




ともかく、人質事件のドキュメンタリーと、「自己責任論」の反論を書いて本にしようという話になった。そこで、イラク関連で知り合った方々、有名無名をとわずこの人という人を選んでお願いした。いつも、原稿を催促されて、「すんません。もう少し待ってください」といっている自分が今度は「原稿まだですか」と催促する側になった。

今井君も郡山さんも原稿を書いてくれるという。高遠さんにも頼んでみた。妹さんに電話して、調子がよければ高遠さんにつないでもらえる。だめかと思っていたら駅から歩いて帰る夜道で、高遠さんから電話をもらった。何でも良いから書いてよ、というと「書きたいことはいっぱいあるけど、うまくまとめられない」という。僕たちは日本のことよりもイラクのことを話しているうちに盛り上がった。僕は記憶力に自信がないので、闇の中でメモをとった。

「人質になっていたなんて全然知らなかった。彼らは私たちのことスパイだって言うんですね。それで、私たちは、人道支援やっていて、自衛隊とは関係ない。自衛隊派遣には反対してきたって。ストリートチルドレンの支援をやってきたって説明してもわかってもらえない。それで、ファルージャの話をしたんです。
昨年の4月でしたけど、米軍が、学校を占拠して、ポルノを持ち込んだり、暗視野ゴーグルつけて覗きをしていた。それで、住民は抗議のデモをしたら米軍が発砲して14名くらい死んでしまった。その後、私はファルージャに通うようになって、怪我した子どもたちに薬を届けたりしたんです。そのことを何回も話してようやく、スパイ容疑が溶けて解放された。
私には聞こえるんです。イラク人が言ったんです。大使館の2人が殺されたとき、「たかが2人でしょう。私たちイラク人は何人死ねばいいんですか」と。そのときの声が聞こえるんです。助かってうれしいけど、彼らが、また言っているような気がする。「たかが3人じゃないか。私たちイラク人はまだ殺され続けている」そう思うと落ち込んでしまうんです。助かってよかったのかって。」


イラクってなんだか悪魔が潜んでいるような気がする。
私が、イラクにかかわりだしたとき、これ絶対やられるなって気がしていた。
2002年はたまたま私の大切な友達が相次いでこの世を去った。2人とも突然死で、もちろんイラクとは関係がないのだが、私自身イラクに行っていて、彼らの葬式にも出られなかったのが悔しいし寂しい。

ちょうど、6月に、自民党の議員が、バグダッドにやってきたときに、自衛隊派遣に関してNGOの意見を聞きたいといわれたので、高遠さんも一緒に出かけて行ったことがあった。彼らは高遠さんの貴重な情報を聞いて、「ほう、そんなにイラクは危ないのですか」と肯いていた。議員は、ブレマー大使に会いに行くといって退席されたが、残ったわれわれで「死」について話した。ピースウインズの大西氏もそこにいた。

私は「遺書とか書いてます?」とみんなに聞いてみた。自分の場合、部屋の片付けもろくにしないまま、イラクに来てしまったので、もしここで、不慮の死を遂げたら、私が掃除が嫌いでだらしないことがばれてしまう。事務所も、未処理の伝票とか、そういうの見つかると恥ずかしいなあ。と。

そんな矢先に8・19には、国連が爆破された。高遠さんもそのころ国連ビルに頻繁に通っていたので、真っ先に心配したが無事だった。死者のリストにはUNICEFのクリスの名前が入っていた。クリスは、戦前に会ったとき「経済制裁で多くの子どもが犠牲になった。栄養失調で苦しむ子どもたち。戦争を始めたら、真っ先に死んでいくのはそういう子どもたちだ。」といって戦争に反対していた。

11月29日は、日本大使館の館員が2名射殺される。一人は、井ノ上書記官だった。「戦争が始まったら、罪のないイラク市民が殺される。彼らがかわいそう。」と戦争がさけられない状況に、私たちは一緒にイラついていたのを思い出す。

高遠さんら3名に続いて、安田さん、渡辺さんも拘束されてしまった。みんなスパイ容疑をかけられていたようだった。彼らが、スパイ容疑を晴らすことが出来たのは、たいしたものだと改めて感心する。一方で5月27日、今度はジャーナリストの橋田さんと小川さんが殺された。お二人とは3月同じホテルに滞在したことがあった。橋田さんは、豪快でちょっと下品なおやじという感じの人だった。小川さんは、おとなしそうな人だった。私には、なんだかとってもプロの死に方をされたのだなという印象がある。こういうのって、そう簡単に出来るものじゃない。


●ご案内
6月18日〜7月1日(11時―19時 最終日は17時)
東京のギャラリー日比谷で「終わらない戦争、イラクの子ども絵画展」を開催します。
ストリートチルドレンの描いた絵や、白血病の子どもの描いた絵を展示します。
また会場では、本や絵葉書、CDなど販売しますのでお楽しみに。
詳しくは JVC、03-3834-2388 まで。




しもた屋之噺(30)  杉山洋一




「樹とね、会話をしたいとずっと思っていたんだよ」。
いつも何かと世話を焼いてくれるフランコが、自己流で作ったローストビーフを振舞いながら、口を切りました。「樹の会話できるのは水だけ。何百年と生きてきた樹を目の前にして、たとえ某か言葉をかけたとて、我々の感じる1分なんて、樹にとっては1000秒分の1にも満たないかもしれない。だから、どんなに語りかけても、聞き取ってさえもらえないかと思うと悲しくなるのさ」。

今までは、樹の匂い、土や雨の匂いが、子供の思い出につながっていた。どれも我々と全く違う時間の触覚を持った連中だ。季節の節目が、せいぜい彼らにとっての1秒たらずかも知れない。でも、新緑の季節、木々が風にゆれ葉がさざめいて、光がまるで乱反射するように感じるとき、樹が何かを語りかけてくれるような気がする。

19世紀の仏文化は、樹の文化だ。印象派に収束される当時の仏文化は、肯定的に考えても、否定的に当て嵌めても、樹の文化に違いない。あの時代、フランスは木々の葉がきらきらと輝く色を眺めていたんだ。音楽も文学もそうであったし、もちろん絵画はその最たるものに違いない。人々は、冷徹なまでに、樹の観察に喜びを感じたが、これは対話じゃない。

印象派の時代、自然が生み出す神々しい光に魅せられ、何年もかけて作品を完成させることもあった。「あの光は、心の中で再現できるものではないんだ」。
だから、今年、あの光を放つ一日のうちに作品を完成できなければ、一年後、また同じ光を放つ日まで、作品は中断される。翌年、あの光に包まれる瞬間に完成できなければ、次の年の同じ日が来るのを待ちわびる。「そんな途方もない時間の感覚は、我々にはもうないだろう」。

確かに、同じ印象派、特に点描の影響を受けたイタリア人の作品を思い浮かべると、明らかに違う視点を持っていることに気がつきます。イタリア人の絵画は表現であって、描写ではないのです。フランコ曰く、表現はエゴイズムの塊に違いないのだそうで、コミュニケーションはエゴイズムのピンポンに等しいといいます。だから、樹とは永遠にコミュニケーションは出来ない。樹を受け入れることしか出来ない、そう言葉を結びました。

フランコ特製のローストビーフは、塩コショウ、マスタード、ウイスキー、ローズマリーを混ぜたソースを繰り返しかけながら、肉塊を30分オーブンで焼いたもの。美味なローストビーフの創作者から贈られた、フェリーチェ・ベアートの写真集「日本紀行(1863-77)」。ベアートは、当時の日本を、写真を通じ西洋に紹介したパイオニアの一人で、当時の庶民の生活風景、飛脚、医者、大名、奉行、もの売り、古物商から、長崎の外国人居留地、色町の妙齢や庭の風景が、実に鮮やかな視点で“immortalizzato”されています。

この単語を直訳すると、「不滅化する」こと。初めてこの言葉を聞いたのは友人の写真家からで、ずいぶん大上段な言葉を使う男だと思いましたが、ベアートの作品を見て、彼の言葉の裏に秘められた深さに気がつかされました。切腹の際、切り落とされたのか、御用提灯の傍らで、目をつぶった5つの生首が整然と並べられている光景、自らの主人の子供を殺めた門で磔刑に処された若者の凄惨な姿など、ありとあらゆる写真が残されています。

これらの様々な写真のなかで、共通して心に訴えるものがあります。被写体がなんであれ、「時間」の途方もない大きさに圧倒されるのです。「時間」とのコミュニケーションは不可能であって、人はただそれを観察するか、受け入れるしかないわけです。まるで、「時間」の不可視で無制限な質感に、押しつぶされてしまう気さえします。

先日、学生オーケストラと出かけたモデナ近郊の小さな街、スピランベルトでの逸話。受入れ係をしてくれたミリアンは、よく笑う明るい女性で、屈託がありません。何しろこの街は昔から変なところでね。関所の門には、当時の勢力者が刻んだ有名な言葉が今でも残っているの。「スピランベルトの市民は、みな奇人です(il popolo di Spilamberto e' strana)」って本当に書いてあるのよ! 確かにここは変な人ばかり。今も公爵がお屋敷の中に住んでいるけれど、人が悪くて誰とも付き合わない。公爵夫人とは、動物愛護協会の関係で、時々会うけどね。年金暮らしわたしの母さんは、犬を20匹くらい、猫を40匹くらい飼っていて、その他にもリスやら色々捨てられた動物を助けるうち偉い大所帯になってしまったの。公爵夫人もちょうど犬好きで、話があうの。茶色の高い城壁で覆われた公爵の住いに向って、スピランベルトの中心に位置する、時計つきの塔が立っています。「あそこには、幽霊が住んでいるのよ」。イタリアで初めての、幽霊を公に認めた逸話は、こんなものでした。

「フィリプス」は16世紀の商人で、スペイン人だったようですが、この地に流れ着き、禁断の恋の末、死刑を宣告されます。そうして、あの時計台下の部屋の壁に掘られた牢獄(2m×1.5m)に生きたまま閉じ込められ、壁は塗り固められました。以来、夜な夜なあの壁から叫び声が聞こえるというわけです。1947年にこの壁の穴が偶然見つかり、遺体と共に、壁一面に刻み込まれた彼の嘆きも発見されました。死の恐怖のなかで、自らの人生を赤裸々に綴っていて、現在は博物館に展示されています。

全く無関係ですので比較の対象にもなりませんが、この話を聞き、無意識に頭を過ぎったのは、わが国の即身仏の姿でした。意識の底で、日本人と西洋人の生へのアプローチの違いを、微かに知覚した気がしたのでしょうか。

スピランベルトに出かける数日前、モンツァを歩いていて、前歯が何本か欠けた、みすぼらしい風貌のアフリカ人に声をかけられました。また胡散臭く金をせびられるかと一瞬警戒したものの、紙に書かれたモンツァの「カリタス(イタリア最大のキリスト教系ボランティア団体)」の住所を教えてほしいというので、すぐに気を許しました。イタリア語はあまり解さないようで、一度説明したものの、同じことを、また数メートル先で別の通行人に聞いている。あれでは到底埒があかないと思ったので、結局、彼をカリタスまで連れてゆくことにしました。

どこから来たのかと月並みな質問をすると、トーゴ出身だと言うので、ならば仏語か英語がいいのかい、仏語は何となくはわかるが、こちらも話すのはからっきしだというと、英語でべらべらとまくしたて、吃驚するぐらい饒舌に変身するのには仰天しました。それまで、みすぼらしい浮浪者然でやつれていたのが、突然人間の尊厳を取り戻し、水を得た魚のように目に輝きが戻るのが、不思議なくらいでした。

「カリタスに行くのは、皆がご飯を食べさせてくれるって言ったから。ヴァレーゼを朝早く出て、ようやっとモンツァに着いたんだ」10分ほど歩いてカリタスに着くと、もうお昼も回って、昼休みに入ってしまっていました。「来るのが遅すぎるのよ、3時までは誰も居ないわよ」門番とおぼしきでっぷりした中年女性が車を出しながら、そういいました。

仏語と英語のちゃんぽんでその旨伝えると、欠けた歯をむき出して、力なく微笑みました。仕方がないので、「とにかくそこで待っていろよ、動くなよ」と念を押してから、近くのパン屋に走って、切売りのピザを2枚包んでもらって彼に渡しました。小雨も降り肌寒い日だったので、スープの一杯でもご馳走してあげたいところでしたが、イタリアにはそういった店がないのが残念です。

「本当にありがとう。本当にありがとう」顔をほころばせて、仏語で礼を言いました。切り売りピザで3時まで空腹をやり過ごしてくれればよい、そう思いつつ、饒舌なアフリカ人とはそこで別れたきりです。ひどい前歯の欠け方や、ひしゃげた顔の輪郭が頭にこびりついていて、戦争に巻き込まれたのかも知れないし、そうでないかも知れないが、ここにたどり着くまで、随分大変な人生を送ってきたに違いありません。複雑に絡み合った時間の匂いとでもいうのか、彼の周りだけ、別の空気が流れていました。

欠けた前歯でピザを食べるのは痛そうで、気の毒なことをした。雨に濡れ、閑散とした昼過ぎの歩道で、思わず足を速めました。

(5月28日 モンツァにて)



風と草  スラチャイ・ジャンティマトン 荘司和子訳




草はそよいでいる
こころもそよいでいる
風につれて
風の行った方角へ
地上には歳月
天上には星辰
風がかえってくる
君もそよいでいる


夜のとばりが降りる
冷気のなかで
草は並んで頭を垂れる
夜露に涙して
無心にじっとして
風は凪ぎ草原に波もなし
睡眠のとき
時間を超えたとき


  風が吹く
  サワワ サワワ
  草は逆らわない
  風が通り過ぎていく
  草は風と戯れる
  ここちよげに


風と草
しなやかに
いとおしみつつ
草と風
自由に
歳月がめぐる
風はサワワ サワワ
そよいでいく
風はサワワ サワワ
そよいでいく



「マイタイおじさん」(1990年)というアルバムの中にある歌です。めずらしく女性歌手に歌わせてスラチャイは途中の挿入部分だけうたっています。曲も草原の波のようにしなやかです。




のどかな五月  御喜美江




5月14日から東京の母がここラントグラーフに来ている。先回は父と甥の敦(当時7歳)の3人旅で、海外旅行と言えば聞こえはいいが、夫やら孫やらの面倒をみながらけっこう忙しそうだったから「一度でいいから一人で来られるといいね。そうしたらアーヘンやマーストリヒトでゆっくりお買物できるし」なんて話していた。しかしその後はなんだかんだあって日本を出ることができず、やっと日常生活が落ち着き、長年にわたって蓄積された心身の疲れも癒されてきた頃は、すでに9年の歳月が経っていた。父はすでにこの世を去り、孫たちは勉強に部活にと多忙の毎日。昔から憧れていた一人旅は、結局このような形で実現したというわけだ。それにしても70歳を越えてからの9年は大きい。人生なかなか思いどおりにはいかないとは、まさにこのこと。

幸いある結婚式へ参加するためにドイツへ飛ぶ従兄夫婦が、成田からのフライトを母と一緒にしてくれたが、フランクフルト国際空港の到着ロビーに現れた母は、鮮やかなグリーンのシャツに同色の長いスカーフを巻き、可愛い黒の帽子をチョコンとかぶって頗る元気。12時間ノンストップのフライトではさぞかし疲れるだろうと、その日は空港内のホテルを予約し、到着後はすぐに休めるようにしておいたのだが、「お部屋に荷物を置いたらお食事に行くでしょ?」と寝る気なんてまるでゼロ。空港ロビーのショップを見ながら「わ〜、素敵なものがいっぱい!」と目が輝く。私の方はというと、母が無事一人で来られるのか心配で不安で、3日間アルコールを絶っていた。だからニコニコ嬉しそうに歩く小さな母を見た途端、心底ほっとした。そして急に空腹を感じ猛烈にビールが飲みたくなった。私は空港に行くと、昔から飛行機の発着が見える窓の大きい明るいレストランが大好きなのだが、そんな場所を見つけてまずは乾杯! あ〜、このビールの何とおいしかったこと。ちなみに母はカモミール茶。

2日後の日曜日には蒸気機関車に乗った。これは昔のものを観光用に週2回走らせているのだが、その駅が何とラントグラーフにある。緑あふれる五月の田園風景の中をシュッシュッ、ポッポと走るこの機関車には、前々から是非一度乗ってみたいと思っていた。本体はたいそう古いが内装は驚くほど立派で、昔見た映画「オリエント・エクスプレス」を思い起こさせる。真紅でビロードのふわふわソファは、一度座ったらなかなか立ち上がれないほど大きく深い。10分ほどして切符売りの車掌さんが入ってきたが、帽子と上着とズボンが全くちぐはぐの制服で、私たち3人は見ただけで吹き出しそうになったが、ひまな車中にあって3色制服の車掌さんは真面目にあれこれ説明してくれる。中でも特におかしかったのは、「この列車はもうすぐ停車しますが、絶対に降りないでください。そこは駅ではなく踏み切りですから」と。「踏み切りで列車のほうが止まるの? そんな話って聞いたことない、可笑し〜い!」と母は笑いが止まらない。踏み切りで列車も車も人も犬もみんな止まって待っていたら、絶対に事故は起こらないというもの、なるほど。時間はまるで止まったようにゆっくりと流れ、列車も人々もまるでスローモーションのようにゆっくり動く。せっかちの私には良いセラピーかもしれないと思いつつ、しかしまあ週2回の時刻表で充分と思う。その日の夜は何故かみんな疲れ果てて早くに就寝。そして夢の中に、あの3色制服の車掌さんがまた3色で現れた。

母と私は趣味も味覚も性格も全然似ていない親子だけど、B型同士でけっこう気楽にやりながら、はや10日が過ぎた。今のところお互い病気も喧嘩もせず元気に仲良く暮らしている。今日は朝食後ドイツの隣町へ。そこの郵便局で猫のシール、肉屋では果物入り卵サラダと鶏肉を買物。続いてオリエンタルのブティックで母はグリーンの網編みベストと黒のしわしわブラウス&スカート、そして私に袖がユリのように広がり赤いバラがぼ〜っと写っている薄手の黒ブラウスと、やはり黒のラッパズボンを買ってくれた。ズボンは少々きつめだが、はいてしまうと楽で、何よりもカットが素晴らしい。とにかく信じられないくらい体型を細く見せてくれる。「わ〜格好いい! ものすごく細くみえる」と母に言われて、彼女からお世辞だけは言われたことがないので私はうれしい。そのあとIKEAに行って家具や室内用品をあれこれながめ、時計を見るともう1時半になっていたのでレストランで昼食。母はトナカイの絵がついたお皿に盛られたミートボールのお子様ランチを、私はサーモンのハーブ焼きを頼んだ。そのあとケーキを2人で3つ食べた。とても満腹。

夕方からコンピューターにむかい、ふと棚上の時計を見るともう夜の8時。外はまだ真昼の明るさだが、そろそろ夕食の支度をしよう。夫は金曜日まで留守なので女2人さぞかし気楽な、と回りは想像するが、この2人の味覚は全く違い、猫も二匹やってくるから、量こそ少ないが食卓はいつも多国籍。今晩は残り物のマシュポテトにザウアークラウトとソーセージのみじん切りを混ぜてのミニコロッケ、ちんげん菜炒め、昼に買った卵サラダ、生姜風味の甘辛チキン、トマトときゅうり、茹で豆、漬物、ご飯、胡桃とりんごのケーキ、トリフチョコレート、鮭味のキャッツフード、まあそんな感じかな。飲み物はいつも母がほうじ茶で私はビール。ここでふと、そろそろ日本のコンビニが恋しくなっているかもしれないな、と思う。こちらの食事は何しろ全てが“材料”からで、ずいぶんと手間隙がかかるから。

ところで母が来てからも5月は生徒のコンテストや演奏会、中国からのお客様の接待、再来週オーストリアのグラーツ大学でする2つの講義の準備、などが進んでいる。今はこうしてエッセイを書いている。ということは、はるばる地球の裏側まで来て、母はまだ何も“観光”らしいことはしていないのかもしれない。一度彼女の部屋をそ〜っと覗いたら、椅子に腰掛けて買ってきた絵葉書を一枚一枚ながめていた。かわいそうに。でも「こういうゆったりとした時間が欲しかったのよ」と彼女は言う。午前中は一人で森へ散歩に出かけ“日替わり花束”を胸に抱いて帰ってくる。美容院へはもう2回も一人で行った。絵葉書も沢山書いているようだ。ドライブも買物も近所にしか行けないが、どこをまわっても感激して「すごーい!」「きれい!」と喜んでくれる。

のどかな時間の中でゆっくりと取る食事、くつろいだ空間で読む本や新聞、ゆったりとした一日の計画、こういうものには今まであまり縁がなかったから、まだまだそのリズムに上手に乗れないでバタバタしているが、ヨーロッパの5月の過ごし方は、このほうがいいような気もしてきた。

(ラントグラーフにて 2004年5月25日)



バンバンガン・チャキル  冨岡三智




今回はジャワ舞踊の戦いの演目を紹介しよう。バンバンガン・チャキルは見目麗しい武将(バンバンガン)とチャキル(森に住む鬼)の戦いを描いたもので、どんなストーリーのワヤン(影絵芝居)にも挿入されるシーンである。ワヤンに準じているワヤンオラン(舞踊劇)の中で上演される他、独立した舞踊作品として上演されることも多い。武将が森にやってきて瞑想しているところにチャキルが登場し、武将の邪魔をしようとする。そのうち戦いになり、チャキルが負けるという筋である。チャキル以外にもさらに3体の大きな怪物が現れて武将との戦いになるというのが完全な演出で、その場合はプラン・クンバン(花の戦い)と呼ばれて区別される。

バンバンガンはある1人の人物名ではなく、人物設定には多少の幅がある。とはいえ、ほとんどはアルジュノかその息子のアビマニュである。踊り手としてはその人物のキャラクターを表現することが重要である。たとえばアルジュノはハルス(優美)の理想とされるので、その動きは基本的に相手の攻撃をかわしたり、サンプール(舞踊に使う布)を手にして払うだけである。間違っても相手を蹴飛ばしたり、殴り飛ばしたりはしない。そのシャクティゆえに、相手の体に触れずしてダメージを与えることができるというのがアルジュノのキャラクターである。これがアビマニュになるとややカッサール(荒い性格)になり、チャキルを足で蹴ったりする表現も可能になる。だが最近はそこまで知って厳密にキャラクター表現をする踊り手も少なく、またその表現力を楽しむ観客も少なくなってきたようだ。

余談だが、バンバンガンは優形のキャラクターであるので、商業舞踊劇の世界ではしばしば女性によって演じられる。しかしこれは宮廷舞踊の美意識からすると有り得ないことだった。宮廷では男性は男性舞踊だけ、女性は女性舞踊だけを踊る。スリウェダリ公園にあるワヤン・オラン劇場の舞踊指導を頼まれた宮廷舞踊家が、女性がバンバンガンを演じているのを見てひどく立腹し、二度とスリウェダリに足を向けなかったという逸話が伝えられている。1950年代頃の話である。女性が男性舞踊を踊るということには、単にハルスの理想が女性的な表現形態をとるからというだけでなく、興行上の理由(女性が主役となることで観客を魅了する)も考えなければならないだろう。

さて、この演目では音楽の流れや話の筋は大体決まっているが、振付はかなり踊り手に任されている。私が留学していた芸大でもバンバンガン・チャキルには決まった振付がなかった。4年後期の授業で履修するのだが、曲を与えられて自分で振り付け、それが試験される。その理由を尋ねたところ、昔から踊り手が自分で振り付けるのが伝統であるからということだった。

ここでは一般的、古典的な曲の進行に沿って舞踊の見どころを説明しよう。まずはスボカストウォというゆったりした曲にのってバンバンガンが1人登場する。顔見世程度に踊ったあと、舞台中央で客席を向いてタンジャッの姿勢(舞踊の基本的な立ち姿勢)になる。瞑想に入ったということである。曲がアヤッアヤッアン・アラスアラサン(アラスアラサンは森の意)、そしてスレペッグに変わり、バンバンガンの背後からチャキルが登場する。最初は舞台後方で踊っているが、やがてバンバンガンの存在に気づき、舞台中央にやってきて、後ろからのぞきこんでみたりしてちょっかいを出し始める。バンバンガンの踊り手の立場からすると、ここは結構つまらないシーンである。中腰でじっと立ち続けているので足がだるくなるわ、背後でのチャキルの踊りは全然見えないわ、ちょっかいを出されても真面目な顔をしてないといけないわで、ひたすら忍耐である。

チャキルの邪魔に瞑想から覚めたバンバンガンが動き始め、戦いのシーンになる。バンバンガンの踊り手としては、チャキルの攻撃から素早く身をかわしても、すぐにまた優美な動きに戻るという緩急が見せどころである。反対にチャキルはすばしこく動きまわる。だがチャキルの踊り方は昔と今ではずいぶん変わったようだ。かつてはチャキルの動きはワヤン人形の動きを模していたため腕を回す動きが中心で単純だった。人形のように、セレー(曲の節目)では腕がまっすぐに伸びていなければならなかったという。また飛んだり跳ねたりする動きもなく、バンバンガンとの空間配置もワヤンのように平面的で横並びだった。しかしシラット(武術)の動きを取り入れたり、1970年代頃からは様々な動きが考え出されると同時に空間を立体的に使うようになり、今ではアクロバティックな要素が強くなっている。

その後チャキルは自らのクリス(剣)を抜く。実はチャキルは剣を2本持っている。1本はラドランと呼ばれる一般的な形のクリスで、腰に通常とは上下逆に差す。このように剣を差すのはチャキルだけである。それから膝の前にナイフのような形の剣をもう1本差している。この2本の剣を抜いてお手玉のように操るという芸当を見せることもある。ともあれチャキルはバンバンガンを倒そうと剣を抜いて立ち向かい、しかし誤って自らを刺す。ここで曲はサンパッとなる。ここではチャキルは決してバンバンガンの剣に倒されるのではない。バンバンガンが剣を手に取ることはない。チャキル=悪は、バンバンガン=善に負かされるのではなく、自らの行為によって自滅するのである。それがジャワの哲学なのだという。だが最近はそのことを知る人も少なくなり、バンバンガンがチャキルの剣を奪い取って刺すという振付にする若い人もいる、と年長者は渋い顔である。

実は、以上のような流れはプティラン(舞踊劇中の1幕が独立したもの)としての演出である。これとは別に、宮廷舞踊ウィレンの形式に則った演出もある。その場合は、他のウィレン同様にスレペッグの曲で入場する。そしてブクサン(舞踊の主要部)が始まり、ラドラン形式の曲を使って2人がシンメトリーなフォーメーション、振付で踊る。それから曲はアヤッアヤッアン、スレパガンに進んで戦いのシーンとなり、さらにパラランという歌の形式に進むこともある。最後はサンパッの曲で退場する。このように曲の進行を聞いているが、私はまだこのウィレン形式での上演を見たことがない。宮廷でも、である。たぶんこれは大衆向けプティランの演出の方が断然面白いからだろうなと推測している。優美でおっとりした動きの武将とすばしこい動きのチャキルがそれぞれに踊るからこそ面白いのであって、この両者がまじめに向き合ってシンメトリーに踊っても面白いかなあ? と私は疑問である。



虹色   武石 藍




先月まで「水牛の本棚」の『女たちの同時代――北米黒人女性作家選』の藤本和子氏による解説文をシリーズ途中から入力していた。解説と本文を一緒に読めるという特典につられて。このシリーズが出版されたのは1981年から翌年にかけてだが、80年代はフェミニズムでは「女たち」という枠に疑問がなげかけられ、その枠の中の差異に注目が集まりはじめた時期だという。「北米の黒い女たち」に絞った本選集は、文字通り「同時代」的な企画だったのだろう。

ここでは「黒い女たち」は、人種差別と性差別が絡まりあう中に生きていて、端的な例では、アリス・ウォーカーが、ともに公民権運動に参加していた白人女性に黒人男性による強姦の過去を告白される黒人女性の逡巡を書いている。しかし、人種や性だけではないさまざまな軸の割りきれなさを思う時、「自分のなかの矛盾をかかえこんだまま耐えぬこうとしている」(『メリディアン』)のは現在の私たちでもある。

シリーズ第3巻は『死ぬことを考えた黒い女たちのために』(原題は「虹さえあればそれでよいというのに、死ぬことを考えた黒い女たちのために」"for colored girls who have considered suicide / when the rainbow is enuf")だった。7色の女たちによるそれぞれの物語の後、「暁の露」となった「あたしはあたしの中に神をみつけ そして あたしはあたしを愛した」とうたい、女たちは「身を寄せ合うようにして輪を作る」。「そしてこれは一度は死ぬことを考えたこともあるけれど いまは彼女ら自身の虹の果てに向かって歩いている黒い("colored")女たちのためのものなのです」

単色の“カラード”から、虹色の“カラード”へ。(そういえば、全7巻のこの選集は、それぞれ異なる色で装幀されていた。)ひとりが虹色をまとうのは悪趣味に見えたとしても。発狂したペキニーズと揶揄されてもPファンクの ジョージ・クリントン は虹色のあたまをふさふさ揺らす。そして私も、虹色の服を着て、虹色の糸をあたまにつける。



マセダの思い出   高橋悠治




今年2004年5月5日ホセ・マセダが亡くなった かけがえのない40年間の対話が閉じたのを感じる

1964年パリのクセナキスのアパートではじめて会ってから 2年後にマニラの東西音楽会議で マセダの指揮するクセナキスの「Achorripsis」とともに マセダ自身の「Agungan」をきいたとき たくさんのゴングのざわめく静寂の空気 熱帯雨林のそれぞれの生命の時間 それらすべてのゆれうごくバランスのなかにある平和の空間を はじめて知った 

マセダはフランスとアメリカでまなんだピアニストだった あるときフィリピンの棚田を見ながら ベートーヴェンのピアノ・ソナタとこの風景とどんな関係があるのかと疑った という話をきいたことがある そこでもう一度アメリカで音楽学の方法をまなび フィリピンやインドネシアの島々の音楽を録音し 反復による変化の原理を かれのことばでは ドローンとメロディーを 発見した 

一列になった人びとが ひびを入れた竹筒を鳴らしながら 山道を歩くとき 微妙なずれの合間から立ちあがるメロディー 1人ではつくりだすことができない たくさんの手のあいだから生まれるメロディーを マセダはスクリーンとも呼んでいた 単純な音の共鳴の不透明なかさなりから生まれる色調の捉えがたい変化と ゆったりした進行が 心をしずめ 意識がめざめる 

マセダが作曲をはじめたのは50歳をすぎていた アジア各地で蒐集した楽器をつかい 音楽専門でない学生たちに複雑なリズムを根気よく教えながら どこかなつかしい響の しかもどこにもなかった音楽が 生まれてき

音楽学者としてすごしていたので 自分の音楽を指揮するのがかれのたのしみだった 演奏家1人に1時間ずつ かれ自身は数十時間つかって 練習し 全員ではただ1回の練習ですますのが かれのやりかただった マセダの指揮する手は 数え統率する手ではなく 響を感じ そのあいだにさらなる自由な空間をつくりだす手だった 演奏していると 反復のなかで自分を見失う マセダ自身もそうだった そこで10秒ごとに数字板をかかげて全員にしめす助手が必要になった 日本では よくその役をやったのがなつかしい 

マセダは音楽学者として最後の時期には 東アジア宮廷音楽の構成原理を研究していた 会うたびに 4という数 5度音程が話題となった そこでも重点は それらの原理による統一ではなく 複数への分岐とそれらのあいだのバランスだった 

作曲家としては フィリピン以外では演奏するのがむつかしい多数の竹やゴングの合奏だけでなく 西洋オーケストラや5台のピアノのための曲も書いた それらは平均律や 一般に調律による 透明な貧しい響に対して あいまいさ 複雑さ 色彩 を強調していた そこにはじまりもなく おわりもない時間 争うことのない共存の空間の展望がある 

1997年京都 クセナキスと最後に会ったときも マセダといっしょだった アリストテレスの同一性と差別の論理学ではない 別な論理のありかたが その時の話題だった

マセダを思いだしながら書いているうちに いまの世界の戦争原理を超える手がかりが ここにあることを あらためて感じる 音楽は身体のすぐ近くにあるが しばることはできない 自然 空間 時間 多数 についての別な視点 別な可能性への探求と実験がつづけられるかぎり マセダのしごととの対話の窓はまだひらかれているのだろう

  



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