2004年12月 目次


ラオスの花・チャンパー          森下ヒバリ
カラワン効果               LUNA CAT
手風琴の旅、リトアニアへ          御喜美江
循環だより                 小泉英政
製本、かい摘まみましては(3)       四釜裕子
HIDROS3                  三橋圭介
しもた屋之噺(36)            杉山洋一
「大野一雄の宇宙と花」によせて       冨岡三智
前進する女性──翠の虱(2)        藤井貞和
ファルージャの虐殺             佐藤真紀
2004年も終わりに近く            高橋悠治



ラオスの花・チャンパー  森下ヒバリ




アセアン会議がラオスの首都ビエンチャンで開かれているので、日本のテレビでもビエンチャンの町の様子が映し出されたという。わたしは見ていないのでその映像がどんなものか知らないが、この夏一緒にラオスに旅した北海道の友人が、ラオスをテレビで見たと喜んでメールを送ってきた。ラオスが日本のメディアにのることはめったにないので嬉しかったらしい。人口も六百万人、ビエンチャンでさえ五十万人しかいない。もっともビエンチャンを知っている人は、この数字もはったりではないかと疑うだろう。日本の町なら十万人程度の町に過ぎないからだ。国土のほとんどは雲南の山並みから続く山地である。その山並みが途切れるのがメコン河。現在のタイとの国境の半分くらいはメコン河が分かれ目となっている。

ラオスにはタイから地続きということもあって、何度も旅している。ここ十五年ほどの間はほぼ年に一度は訪れているはずである。しかしよく考えてみると、なぜか、ラオスに仲の良い友人は一人もいない。かつていたこともない。タイの親しい友人たちを思い浮かべてみると、大好きな顔が次々と浮かんでくるというのに。う〜ん、なぜだ? タイに比べて滞在日数が短いから。気の合う人がいないから。ラオス人が深入りしないから。こちらが深入りしないから。

まあ、タイでも仲がいいのはけっきょくミュージシャンや詩人などのアーティストかNGOの活動家がほとんどだから、ラオスにあまりそういうタイプの人がいないというのが一番大きい理由かもしれないが、ラオス人が外国人、旅行者にあまり深くかかわりたがっていない、というのも大きいような気がする。もちろんホテルや食堂の人たちと話はするし、無視されているわけではないが、植民地だった過去、社会主義の国だった過去(あ、まだ一応社会主義か……)が外国人へおいそれと心を開かない性格を作っているのかもしれない。ラオス人と同じラオ語を話すタイの東北部の友人はたくさんいるのだから。

ラオス人に友達はいないが、ラオスは大好きだ。ビエンチャンののんびりした町が好きだ。メコン河のほとりの屋台でラオスのビール、ビヤ・ラオを飲み、発酵肉と揚げたごはんを混ぜたネーム・カウを野草のようなハーブで巻いて食べながら夕日を眺めるのが、最上の喜びだ。お昼ごはんにフランスパンにハムや肉のペースト、きゅうりやねぎやパクチーを目一杯挟み、ナムプラーで味つけしたサンドイッチにかじりつくのが好きだ。そして、道端の木から落ちた白いチャンパーの花を拾い、匂いを嗅ぎながら歩くのが好きだ。
先月、30周年でカラワン楽団が来日したのに合わせて、カラワン・ソングブックを編集した。その中にはじめは載せようと思っていたが、けっきょく載せなかった歌がある。大好きな歌なのだが、紙面に限りがあったので、カラワンの作った歌を優先して載せたからだ。その歌は、もともとはラオスの歌であった。


「チャンパーの花(ドゥアン・チャンパー)」 作詞・作曲ウットタマ・チュラマニー


チャンパーの花よ おまえを見ればわがチョン村を思い出す おまえの香りを嗅げばいつか父が植えた庭の花々が浮かんでくる いつの頃からだろう 寂しいときにはわたしの心を慰めてくれる チャンパーの花よ 幼い頃からわたしに寄り添う花よ

かけがえのないおまえの香しさ 愛すべき花 寂しいときにはおまえの香りを嗅ぐよ チャンパーの花よ すると今は会えない友が目の前にいるかのようだ おまえはずっと華麗な花であり続ける チャンパーの花よ 最も愛すべきたぐいまれな花よ

ラオスの花 チャンパーの花は星のようにうつくしい ラオスの民はおまえを愛す ラーンサーン王国の地で生まれた花よ 故郷をとおく離れ異国に暮らすとき 死ぬほどの寂しさを分かち合う友としよう チャンパーの花よ 愛するラオスの 真にうつくしい花よ

(訳・高岡正信+森下ヒバリ)


ラオスがフランスの支配下にあった1940年代後半、独立運動の機運が高まりたくさんの愛国歌が作られた。この歌もそのひとつで、オリジナルの題名は「チャンパー・ムアン・ラオ(ラオスの花チャンパー)」といい、ハノイの大学に留学中だった作者がふるさとラオスへの思いをこめて作ったという。この歌は今でもラオスの人々の愛唱歌となっているほか、タイでもカラワンのスラチャイはじめ多くの歌手が歌っている。

チャンパーとはプルメリアの花のことである。ラオスにはこのプルメリアの木がいたるところにあり、美しい白い花を咲かせている。お隣のタイにもプルメリアはあるが、ラオスほど愛されていない。タイ語ではラントムと呼ばれるこの花は、椿と同じく花びらが一体型でくっついているため、落花するときはぽとんと首から落ちる。この落花の仕方と、タイ語の名前が嘆き悲しむと言う言葉に似ているため、忌み嫌われることになってしまった。タイではプルメリアは家の庭に植えてはいけない木である。

しかし、タイでもラオスと同じラオ族の住む東北部イサーンでは、やはりプルメリアのことをチャンパーと呼び、愛でている。わたしはこのチャンパーの花の香りと花弁のうつくしい白い色に一目見たときから魅了されつづけている。タイ人の友人がやめてといっても、その落ちた花を拾わずにはいられない。

この歌の歌詞を知り、作られた背景を知ると、スラチャイの歌う「ドゥアン・チャンパー」がどうして深く胸を震わせるのかが分かってきたような気がする。軍事クーデターで解放区に逃げゲリラにならざるを得なかったカラワン。彼らもまたチャンパーのうつくしい花を眺め香りを嗅いでは、故郷から友人から遠く離れた寂しさをチャンパーの花と分かち合っていたに違いない。この歌も「満月」とならぶ痛切な望郷の歌であった。




カラワン効果  LUNA CAT




カラワンの30周年記念ライブが広島にもやってくるというので、開催は平日だというのに、無謀にもチケットを買ってしまった。買ってしまったからには、これはもう、行くしかない。

そんなわけで、日頃は終電まで仕事をしているというのに、11月5日金曜日、定時にダッシュして、会場に向かったのだった。音楽関係のイベントなんて本当に久しぶりだ。
スラチャイ曰く、出雲は寒かったそうだが、当日の広島は夜になっても11月としては暖かかった。ちょっと汗ばみながらアステールプラザに到着し、階段を上がっていくと、タイの衣装をつけた女性が立っていて、「カラワンのライブはこちらです」と左手後方を示す。真っ正面が大ホールの入り口で、人が行列しているので、皆さんそちらに向かって行ってしまうらしい。会場の多目的スタジオは、たしかに少しわかりにくい位置にあるし。

多目的スタジオに入り、並べられた折り畳み椅子に座って待つことしばし。「タイ時間」ではなく、ちゃんと定刻にはじまった。場所が公共の建物であるためか、聴衆もなんとなくおとなしめの感じ。オープニングのタイ舞踊のあと、お待ちかねのカラワンの登場だ。タイ語のトークとタイ語の歌がしばしつづく。水が流れていくように、時が流れていく。日常生活の諸々は彼方に遠ざかり、そこには歌だけがある。憂き世の憂さを、しばし忘れるひととき。

レパートリーの中でも、ご当地ということで、「ヒロシマ」は欠かせない。「20年ほど前に広島に来たとき、ぜひヒロシマの歌を作ってくれとたのまれて、、、」といういきさつを、豊田勇造さんが関西弁で説明する。話している内容と関西弁とのミスマッチが、なんともいえない味わいを醸し出していた。

タイ語の歌を無心に聴いているうちに、昔、韓国系信用金庫主催の、趙容弼のチャリティーコンサートに行ったときのことを、唐突に思い出した。もちろん韓国のテレビドラマが大人気というわけでもなく、ソウルオリンピックさえもまだ先の話という頃のことである。そのときには、主催者の関係もあって、周りは在日韓国人とおぼしき人々ばかり。ひとり場違いな場所にいるような気がしたものだが、コンサートの内容は、そんな居心地悪さなど吹き飛ばしてしまった。オール韓国語で進行するコンサートは、歌は知っていてもトークが理解できないのがつらかったけれど、日本人のためのサービスや妥協を加えていない、彼の真の姿をそのまま伝えていた。おそらく韓国まで出かけていかなければ聴くことのできない内容を、幸か不幸か、はじめて行ったコンサートで聴いてしまったわけだ。その後も趙容弼のコンサートには何度か行ったけれど、予想どおりというべきか、最初のを上回る内容には、お目にかかっていない。

そんなことを思い出しながら聴いていたら、終盤近くになって、豊田勇造さんが「スラチャイとも相談して、あまり曲の解説をせずに聴いてもらうことにした」と語ってくれた。スポーツだろうと音楽だろうと、解説などなくても、生で見たり聴いたりすれば、それで十分なものなのだと思う。テレビやレコードやCDではとうてい伝えきれないものが、同じ空間を共有することで、すっと伝わる。

とはいえ、インターネットを介して同じ時代を共有することもまた、現代に生きていることの醍醐味なのだ。毎月、水牛の連載を読んでいると、カラワンの面々にはじめてお目にかかるような気がしない。豊田勇造さんの歌をきいていると、「歌旅日記」を読み返したくなる。日頃はネットを介して知っている人々と、ライブ会場で同じ時間を共有するたのしみ。これは、青空文庫のオフ会にも通じる、ネットならではのたのしみでもある。

金曜夜の二時間半、カラワンの歌声に、たくさん元気をもらってきた。日頃はほとんど音楽も聴かず、テレビも見ず、「音のない世界」にいると思われている(実際、ほとんどそうなのだが)私が、水牛にライブの話を書いたりするのも、カラワン効果というものなのかもしれない。



手風琴の旅、リトアニアへ  御喜美江




フランクフルト空港からリトアニア共和国の首都ビリニュスへは、プロペラ機で約2時間半かかった。飛び立ったときは良いお天気で、窓からは高層ビルの立ち並ぶフランクフルト市、ライン川、マイン川、タウヌスの森などがきれいに見えた。でもリトアニアン・エアラインという今まで聞いたこともない航空会社の、それもかなり古ぼけた小さなプロペラ機が、音だけは豪快に出しながら、いかにも気ままに上がったり降りたりフラフラ飛ぶので、ちょっと落ち着かなかった。でも何事も一度「こわい」と思いだすと、ますますこわくなるので外を見るのはやめて、視線を機内にむけた。すると通路斜め前にまるで座席からはみ出すように窮屈に座っている太ったおじさんがいる。それがオス猫カーターの姿にそっくり。オス猫カーターとは、すでに何度か『水牛』に登場している隣のデブ猫のこと。彼はどういうわけか最近、その体の半分くらいしかない小さなピクニック用バスケットに凝っていて、食後のペロペロ掃除を終えると手足をよじ曲げながらそこへ胴体を押し込み、窮屈きわまりないと思うのだが、大きな背中と横腹を外にはみ出しながら何時間でも寝ている。ふくらし粉を入れすぎたケーキみたい。

さて、安全ベルト着用のサインが消えると、ドリンク・サービスにひき続き、昼食まで出てきたのでちょっとびっくり。こんなボロ機でも一応国際線なのだ。ところが予想に反して内容はまことAクラス。ドリンク・サービスのときから感心させられたのが、スチュワーデスの優しさ。客が「赤ワインと水とコーラ」なんて図々しい複数注文をしても、ニコニコと対応して「栓は開けましょうか?」なんて答えている。もちろん希望すればワインだろうがビールだろうが、一人に何本でもくれる。食事はフランクフルトで積んだものだから、まあ典型的な機内食だが、あとから配ってくれたロールパンはパリッと香ばしく、しかも中までアツアツで、こんな焼きたてパンは地上でもなかなか見つからない。さらに杏の入った小さなチョコレートケーキは、甘いものは苦手の私がブルッと震えるほどおいしく、思わずため息が出た。そして最後のコーヒー、こんな美味しいコーヒーを空中で飲んだことが今までに一度でもあっただろうか。もちろんおかわりをしたが、「このコーヒーは本当においしい!」と言うと「サンキュー!」と美しい笑顔は嬉しそうに答えて、2杯目のカップが空になる頃、3杯目のおかわりをしにきてくれた。半分入れてもらって、ゆっくりと味わいながら飲む。あ〜、空の旅もこうだと幸せ……。

と思わずルフトハンザの恐ろしいおばさんスチュワーデス達を思い浮かべてしまった。一度ビジネスクラスの昼食で、大して熱くもない肉料理を口にした瞬間、ガリッと音がした。見るとお皿の一部が壊れていて、多分電子レンジで割れたのだろうが、それを肉と一緒に口へ運んでしまったのだ。びっくりしてスチュワーデスに言うと、無言で別の料理を持ってきた。さらにその不機嫌な顔はまるで「あんたが皿に噛み付いてぶっ壊したんでしょう」と言わんばかり。その態度にはもっとびっくりした。あまりの無礼に言葉もなく、もちろん食欲なんてゼロになってしまった。それだけではない。チェックインの時だって全てが検査・点検モードだし、機内持ち込みのバッグに関しても、置く場所、置き方、といろいろ命令される。飛行機は他より新しく立派かもしれないが、こういう空の旅は乗る前からもう降りたくなる。それに比べて、リトアニアン航空の古くて小さなプロペラ機の、何と快適なこと!

さて、ビリニュスは第10回リトアニア国際アコーディオンフェスティバルの招待で、ソロ・リサイタルをするために行った。初めて訪れる国だったが、5日間の滞在はこの空の旅とほとんど似たような感じで過ぎていった。

すなわち設備はどれもちょっと古くて、使いにくくて、危なっかしい。宿泊もホテル・ヴィクトリアと名前こそ立派だが、多分日本人の観光客でここを選ぶ人はいないだろう。荷物を部屋に入れて、まずは手を洗おうと洗面所で水を出したら、ぷ〜んと錆びの匂いが浴室を満たした。シャワーも錆くさいのかな、と水を出してみると、シャワーヘッドがきちんとはまっていなかったので横から水が四方八方へ飛び散り、頭からびしょ濡れになってしまった。原因が分かっていたのでシャワーヘッドはすぐに直ったが、でもこの前の中国といい、どうしてこう毎回、修理から始まるのだろう、私のホテル生活は。

しかし人々は実に親切で誠実だった。フェスティバルは毎日3回ある演奏会がどれも大盛況、内容も盛りだくさんで、皆が本当に一所懸命に頑張って働いている感じだった。メールで頼んでおいた私個人のお願い事、たとえば42cm高さのピアノ椅子、楽器の運搬、空港やホテルの送りむかえ等、全てが完璧に準備されていて、しかも私の面倒を見てくれたダニエルという男性はリトアニアの歴史に詳しく、ドイツ語も流暢に話した。受け入れ側というか招待側が、ここまで誠意と熱意をこめて対応してくれたことに、私は深く感動した。

最終日にはビリニュスの旧市街を案内してくれたが、いくつかある銅像のどれもが、詩人か作家か哲学者であること、政治家ではないことも興味深かった。旧ソ連時代にはレーニンの銅像も国内にいくつかあったそうだが、それらは91年の独立と共に姿を消した。しかしさらに私が感心したのは、「でもその銅像をつくった人たちの中には優秀な彫刻家もいたので、銅像はどれも壊さないで、全部まとめてある町に置かれている」とダニエルが言ったときだ。彼らは50年間それらの銅像をレーニンとしてではなく、一つの作品として見てきたのかもしれない。リトアニア人の血は芸術や文学を何よりも愛するのだ。だから生活はまだ貧しいかもしれないが、心はきっと美しく豊かにちがいない。

リトアニアとは「流れる」という意味のスラブ系の言葉に由来していると読んだ。何とこの国にぴったりの名前だろう。もう一度、是非訪れてみたい、この素敵な流れる国を。

(2004年11月8日 ラントグラーフにて)





循環だより  小泉英政




  ゴアテックスの雨ガッパ

まだ雨音はしなが、間もなく落ちてくるだろう。太平洋側では激しい雨が降るという予報だから。月、水、金曜日と、週に三日の出荷作業、雨でも雪でも休むわけにはいかない。待っている人がいて、そういう出荷方法は、自分が決めたことだ。

事前に予報が分かると、雨の日の収穫が困難なものは、前日に収穫しておく。たとえば季節が秋ならば、ごぼうや里芋、さつま芋やネギなどだ。翌日が台風とか大雪とかの場合は、ほとんどのものを前日に収穫する。それは年に何回もないことではあるが。

しかしながら、朝になってにわかに雲行きが怪しくなることがある。いやすでにザーザー降りのときも。「聞いてないよ!」と言いながら、朝食はしっかり食べて、畑に向かう。雨の日の労働を時々あるものとして、ごく当たり前の日常として、むかえるようになったのは、ここ数年のことかもしれない。

雨の日の労働として定着しているのは、田んぼ仕事だ。畑に入るのは、収穫作業はやむを得ないとして、それ以外は厳禁だ。体重が畑の土を固くしてしまうからだ。その点、田んぼは水の世界だから関係ない。田起こしから田植えまで、梅雨の時期と重なって、田んぼの作業は雨と似合っている。ツバメが宙を切って、ぼくたちを歓迎してくれる。稲刈りもわが家は雨の中だ。そりゃー、秋晴れの日の方が気持ちがいいが、晴れた日は畑が待っている。手刈り、天日干しだと、雨の日の稲刈りも可能なのだ。秋の長雨で畑仕事が足止めをくらっている時に、田んぼへおいでというわけだ。

雨の日を利用する仕事もある。わが家の自宅の周囲には、成田空港株式会社の買収地が散在している。もう何十年も手つかずで、年に四回ほど草刈りされるだけの土地は、刈り取られた草が朽ち、肥やしとなり、また草を伸ばすという状態で、何ともその草が、ぼくの目にはもったいなく見えた。その草を堆肥にしてみたらどうか、何度か試みた。ところが乾燥した草では、いくら大きな山に積んでおいても、上部の乾燥した草が傘のような役目をはたし、何ヶ月経っても、何の変化もなく、全く堆肥にはならなかった。

刈りたての生の草を積めばいいのだが、仕事の都合でそういうわけにはいかない。ならば一度乾燥した草でも、雨の日に集めればいいじゃないかと試してみたところ、大成功。積んだ翌日にはもう発酵しはじめ、もうもうと湯気をたてていた。雨の日にうってつけの仕事ができたわけだ。

何も雨の日に働かなくてもと思われるかもしれない。しかし、雨の日に働いたおかげで大きな草堆肥の山ができた。自分で種を採り、自分で堆肥や肥料をつくり、ポリフィルムやビニール資材を用いないで野菜を育てるということは、水車のように一年中働いて、可能になることだ。夜は水車とちがって、お酒で回っているけども。

研修スタッフの考さんが、以前働いていたアウトドアショップから格安のゴアテックスカッパをとり寄せてくれて、雨の日の作業が快適になった。身支度って大事です。むれないのがうれしい!


  フェンネルの味噌炒め

わが家の台風対策といえば、これから収穫期に入るという野菜たちにネットをはることだ。今年も三度ほど台風が近づき、そのたびに慌ただしく、時には雨にうたれながら、その作業をした。レタス、サラダ菜、小松菜、春菊、極早生白菜、ラディッシュ、などなど。三度のうち二度ほど台風は成田を通り過ぎたが、幸いにして、勢力を弱めての通過だった。

過去に何度か直撃を受けたことがある。軟弱な葉物などはずたずたに飛び散る。ナスやピーマンなど根こそぎ倒され、トマトやニガウリのパイプはぐんにゃりと曲がる。通過した後の風景はいたましいものだ。その惨状が頭に焼きつけられているので、せめてもと、ネットをはる。山型に成型されたパイプを1・5メートル間隔にさして行き、その両脇の土を鍬でさくり上げ、ネットをぴんと張って、両脇のすそに土をもどして行く。1ベッドが約50メートル、ひと張りするのに半時間ほどかかる。台風さえ来なければ、しなくていい仕事だ。しかし、備えあれば憂いなしと、昔から言うではないか。ネットやパイプのある限り、あれもこれもと守っていく。

風速30メートルの風邪は何度か経験したが、50メートルの暴風とはどんなものだろう。わが家などひとたまりもないだろう。そんな時は、ネットの防御も役立たぬかもしれない。異常気象が強まる傾向で、いつかそれはまぬがれることができないことかも知れない。

それはさておき、「やれやれ」とネットをはがして行く。風の被害はさほどでなくても、雨の被害が大きい。ブロッコリーやカリフラワーが水につかり、根ぐされをおこしている。人参も一部、同じ状態だ。斜面の畑は土がえぐり取られて、発芽したての小かぶや大根が雨で流されている。でも、被災地のことを考えると、この程度で済んだことをありがたいと思わなければならない。

そんなこんなで生き残った今回の野菜、強烈な個性の持ち主たちだ。レタスやサラダ菜がさんざん虫の被害にあっても、こいつだけには手も出せなかったトレビスビターさん。さすがにこの苦さには虫たちもお手あげなのか。そしてもうひと方は、フローレンス・フェンネルさん。どちらも、ネットがけして台風から守ってきたものだ。フェンネルはもう少し肥らせたいのだが、霜に弱いので入れることにした。強い香りで苦手と思われる方がいるかもしれないが、丸まった部分はサラダや煮込み、スープに、葉は魚料理の臭み消し、ピクスル、魚介のマリネなどに。ぼくは肥大した部分を千切りにし、油で炒め、味噌をからめるのが好物だ。トレビスビターとフェンネルのサラダ、そしてフェンネルの味噌炒めを食べながら、あれこれあった日々をふり返る。



製本、かい摘まみましては(3)  四釜裕子




 「絵や言葉をまとった紙の立体への第一歩《折り》を中心に、さまざまな《本》のかたちをご覧ください」と誘われて、藤井敬子個展「交差する紙 ルリユールとエッチング」(11月8日-11月13日 ガレリア・グラフィカbis)にでかけた。造本作家であり版画家でもある藤井さんがここ二年間に製作したなかから、国際製本展などで入賞した作品を中心に約二〇点が展示された。

作家による工芸製本展では、ほぼ100%作品に触れられない。しょうがないと思いつつやはり物足りないし、そのことが、「工芸製本」の「本のかたちをしたオブジェ」化に拍車をかけている一面はあるだろう。よしんばそれに影響を受けた製本愛好家は、より過剰かつ奇抜な装飾をほどこした「作品」作りに焦がれがちである。藤井さんの作品も、完成度が高過ぎるがゆえに、ギャラリーの表通りからながむればオブジェともみえる。しかし「交差する紙」と銘打たれたことで、作品の骨格に思いを寄せて、一枚の紙に記された絵や言葉まで時間を逆に辿って行きつくことができた。今回の展では比較的手軽な綴じかたを多用されていたことが印象深く、いくつかその手法別に作品を追ってみようと思います(以下『○○』は藤井さんの作品タイトル)。

まず会場中央に、雁皮紙に緑色の濃淡で刷られた『緑の本』がひろがっている。エッチングされた一枚の紙をジャバラに折り畳んで表紙をつけた「折り本」によるもので、判型が三角形なので、ひらくと二方、三方に展開し、さながら愛らしい芋虫のようである。判型が四角形の「折り本」はひらけば長い屏風のようで、『あこがれ』は、一枚の紙面にレイアウトされた雲や鳥が、折り畳まれることで向かい合ったり隠れたり。こちらはそのイベントに空想の指を添えてめくり、紙々が弧を描きながら送る風に物語を聴く。

作品ごとの製作メモや使用した素材の切れ端などをまとめた『パスポート』と呼ばれる小さな冊子体は、実際に触れて素材の質感など味わえる。海外の製本展に出品したものは、展示会場の写真とともに、出国と帰国の日付けも記されている。なるほどそれで「パスポート」、ですね。これらは「プリーツ綴じ」によるもので、細くジャバラに折って綴じたものに、写真や葉書などを貼ることで冊子体が完成する。この綴じかたはほかに、ノドでくいこむことなく見開きでみたい写真や絵を綴じる場合にも用いられ、ひらくと円形の『椿』などは、「プリーツ綴じ」で本文紙をまとめ、表紙は「プラ・ラポルテ」という、耳を出さず(溝をつくらず)に背の丸みだけを出す方法で製本されている。実際にひらいてみたわけではないけれど、「プリーツ綴じ」と「プラ・ラポルテ」の組み合わせは、見開き単位で頁を構成する場合には、ぱたぱた開いてよさそうだ。

柿渋や手彩色による和紙を織物のように組み合わせた表紙の『Crossed Structure』は、糊をつかわずに綴じる「交差式ルリユール」によるもの。この綴じかたは、イタリアの書物修復家カルメンチョー・アレギが考案したもので、裏(もしくは表)表紙の一部を延長してかがりの支持体とし、支持体とならない部分を表(もしくは裏)表紙で覆う。本の保存という観点から考えられたというが、その製法から二種類の表紙材がスクエアな模様を描き、独特な機能美を持つ。ただ材に柔軟性が求められるので、その質感とデザインにギャップがあるようにも思っていた。ところが『Crossed Structure』は、表紙材を織物状の模様にしてあるので、ぱっとみ「交差式ルリユール」に見えないところが粋である。

ほかにも、赤の仔牛革に白でモザイクした『Il Cantico delle Creature』は、いわゆるルリユール(かがりの支持体にした麻紐を表紙のボール紙にあけた穴に通して綴じつける伝統的な製本様式)で、また、白水社が購入希望者に未綴じで頒布した『古書修復の愉しみ』などは、表紙材の革に直接本文を綴じつける「表紙に綴じる」法で、それぞれ製本されていた。毎度新しい手法と演出で刺激的な個展なんだけれど、見るたびに、絵や言葉をまとわせた紙片を束ねて誰かに差し出してみたいという、わたし自身の製本動機に引き戻される。惚れたのは、「本のかたち」の超人的な移動能力、あのころのときめきを、なぜだかすぐ忘れてしまう。



HIDROS3  三橋圭介




 ソニック・ユースはグリフィンから出ているロック系のアルバム以外に、商業ベースに乗らない実験的な作品を収めたアルバムが数多くある。たとえば“TV SHIT”はシュトックハウゼンの「コンタクテ」の自由な読み替えであり、“GOODBYE 20th CENTURY”はC・ウォルフ、J・ケージ、P・オリヴェロス、小杉武久、オノ・ヨーコ、J・テニー、G・マチューナス、C・カーデューなど、20世紀の実験音楽を演奏したり、ヨーロッパのフリー・インプロヴィゼーションを代表するi.c.pなどとも共演してその活動の幅は広い。

こうした活動はメンバーの資質が大きいが、それだけではない。ポストミニマルの時代に現代音楽は、楽譜中心のクラシカルな枠組みを解体し、実験的なロックやノイズ、ジャズ系のフリー・インプロヴィゼーションなどと同じ音の地平に辿りついた。この対話可能性はコンポーザー=パフォーマーたちによってもたらされたが、ソニック・ユースのメンバーもこうした活動のなかで、それぞれがコンポーザー=パフォーマーとして音楽の創造に積極的に参加しているといえるだろう。

“GOODBYE 20th CENTURY”はこの意味でも画期的なアルバムだった。ここにはかつての実験音楽の生真面目さはなく、影響を受け、尊敬する作曲家の作品を何人かの作曲家(ウォルフ、小杉)と共に真剣に楽しみながら、創造的に音に触れ、戯れている。特にケージのナンバー・ピースやウォルフの作品のリズム感などは、西洋音楽を学んだスペシャリストではきくことができない自由が感じられる。

20世紀にグッバイしたソニック・ユースの21世紀も興味が尽きない。最近発売された“HIDROS3〜TO PATTI SMITH(MATS GUSTAFSSON/SONIC YOUTH WITH FREIENDS)”は2000年にスウェーデンのYstad's art museumで行われたアート・フェスティバルの記録で、その内容はレイシー以降の天才リード奏者ガスファソンとの共演というだけでなく、今の時代を写すものとして興味深い。

CDには演奏者のそれぞれの名前とジム・オルーク(現在はソニック・ユースのメンバー)のライヴ・ミックスとだけ書かれてある。音だけきいているとさまざまな音のイヴェントがカット・アップされ組み合わされ、渦巻くような厚みある時間をつくっている。

あるWEBページにColin Buttimerという人の説明を見つけた。おもしろいのはそのイヴェントのやり方だ。まず演奏者がちいさな個室(イヴェントはこの個室のために行われたらしい)に入り、それぞれがガスタフスンの音の素材を自由に演奏する(ジャケットに時間的な見取り図のようなものの写真がある)。そして部屋を見渡せるミキシング・デスクでオルークが演奏している音をライヴ・ミックスしていくというもの。

CDは記録の一部を新たに構成したものだろう。全9パートからなり、イントロにはじまり、声、コントラバス・サックス、加工された声のいくつかを組み合わせている。演奏者の非連続的な音のイヴェントをライヴ・ミックスしていくのは刺激的で創造的な作業だろう。当然、ミックスしているオルークの趣向が反映されていると考えがちだが、音楽を知り尽くしているオルークはそんな個人主義を越えていく。

ButtimerはここにO・コールマンの「チャパカ組曲」やハーモロディクス、ブランカのノー・ウェイブ、ヴェルヴェット・アンダーグラウンドなどの60/70年代の実験をききとっている。それはひとりの即興であったり、ミックスされてあらわれたものであったりするが、ほんの一部にすぎない。多様な音楽からの影響をふくめて多くの過去がひしめき、凝縮している(これはおそらく密室の遊戯だからこそあらわれたのだろう)。

オルークはそれぞれ過去の記憶をもつ個を予測不可能に新たに接合し出会わせていく(まるでDJのように)。この無数の流れは主体の脱中心化であり、言い換えるなら、ミキシング・デスクはあらゆるものが流れ込むオープン・スペースであり、同時に発見をうながす場だ。このCDにはオルークがインスピレーションを受けたミュージシャンや作曲家、歌手、音などが2ページに渡ってびっしり挙げられている。

作品を捧げたパティ・スミスをはじめとしてN・パイク、L・ノーノ、タナカ・ミン、ヨーコ・オノ、J・ラッセル、ブランカ、J・マクフィー、E・ドルフィー、J・ヘンドリックス、ペンデレツキ、ケージ、モリコーネ、コールマン、グールド、デュシャン、ホワイト・ノイズ、A・オルテガ、サン・ラ、B・ディヴィス、ジェフスキー……、そしてソニック・ユース。それは20世紀の音楽の歴史を鳥瞰する壮大な音の景色であり、“HIDROS3”には未来へと過去をミックスする創造的カオスが広がっている。



しもた屋之噺(36)  杉山洋一




夜10時に練習を終え、つんとした空気の冷たさに思わず肩を強ばらせながら、アレキサンダー広場へ急いでいて、ふと、ガード下の「Spaghetti Pizza」と書かれた文字が目に入りました。随分遅いがまだ開いているかと中の親父にガラス越しに尋ねると、好いからこちらへ来いと手招きします。仕草から、彼がイタリア人だと分かりました。「旦那、どちらからお出でで。イタリア語が大層お達者ですが」。きつい南部訛りで親父に話し掛けられ、モンツァからと答えると、「あっしはここ、パレルモですよ」と、抜けるような蒼空をした、パレルモのポスターを指さしました。一体親父は何度、立ち寄る客に同じ台詞を言ったのだろう。くたくたになった空中写真を見ながら、そんなことを思います。ベルリンの夜のとばりは、イタリアより深く澄んだ色を湛えていて、シチリアの空まで繋がっているとは、俄かには信じ難く思えます。隣のカウンターに座った、明らかに南部育ちとわかる、黒髪で恰幅のよい妙齢が、親父とモンツァからの奇妙な客とのやり取りを、微笑みながら眺めています。

これが本当のイタリアの姿だ。リハーサルで疲れた身体のどこかで、囁く声がしました。自分が知っているイタリアは、10年前初めてブルゲーリオの安アパートに住み始めて以来、寂しさと強さ、逞しさと脆さを兼ね具えた、こんなデシーカの白黒映画の世界だった。そんな人々を見ていて、イタリアを心から愛せるようになった。お世辞にも旨いとは言えない、ドイツ人向きの相当量のスパゲティを食べながら、ぼんやり考えました。「旦那、どうです、美味しいでしょう」。本心から出た言葉なのか、流石に驚いて男の顔を見ると、あたかも同郷の人間に会ったような嬉しそうな顔を向けていて、「旨かったさ。親父、どうも有難う。また来るよ」思わず答えました。笑顔にほころぶ彼の顔と、妙に水っぽく、月桂樹の葉まで入ったドイツ風ミートソースの濃い味が、帰りの路面電車の中、ずっと舌に残っていました。

殆ど感動に近いもの。どうしたというのか。厄介な現代作品の練習をやり過ごした帰り、ベルリンの場末のスタンドのパスタに、なぜこれだけ激しく心を揺さぶられるのだろう。そう思うと、延びきった麺がどっさり盛られた皿の影に、親父が培ってきた時間が、浮上って見えた気がしました。彼の択ぶ語彙は、ミラノの仕事仲間内ではおよそ耳にしない類であって、答えながら自ら戸惑いすら覚えたのは、あの時、彼の人生の重みが、余りに素直にこちらへ向けられていたから。

さて、暫くぶりにベルリンで仕事をしてみて、ドイツ人というのはどうして皆こう優しいのか、街を歩いても練習をしても、そう感じることがしばしばです。ドイツ人特有の仕草だと思うのだけれど、些細な事にも、さも申し訳なさそうにする処など、人の良さを顕しているとも思うし、道一つ尋ねても、こちらが後悔するほど真剣に考え込んでくれるのは、イタリア生活に慣れた身体には、新鮮な驚きです。

駅から5分ほどの道程を尋ねただけで、通りがかりの紳士3人揃って頭を抱え、悩んでくれたのは、喜劇の一シーンさながら。「ああ、ここね。説明するのが難しいなあ、どう言ったら良いのか。うーん、困ったなあ。どうしようね。あの兄さんに聞いてごらん」。振られた兄さんも同じく大袈裟に困り果て、埒が明かないのでタクシーの運転手に尋ねると、存外に簡単な道順で拍子抜けしました。イタリアで見るドイツ人は、表情も仕草も硬く、本当に所謂ドイツ人だと思うのだけれど、ドイツにいる彼らを見ると、不思議なくらい自然でのびのびと感じます。同じ色なのに、周りの色を変えると違って見える、目の錯覚を利用した他愛もない遊びを思い出しました。

そんなドイツに染みつく街の匂いは、薄いコークスのような、仄かにざらつく苦さを含んでいて、あれは一体どこから来るものでしょう。ベルリンやフランクフルトのような都会も、ボッフムやデトモルトのような片田舎と同じ匂いがして、自分の過去の温もりが絡め取られているような、かすかな喜びを覚えます。

ベルリンの夜、クリスマスにかこつけた移動遊園地のイルミネーションが、あちこちでひときわ明るく耀いていて、サンタクロースの衣装を纏った若者が、炭焼きソーセージでホットドックを作ってくれるのを待ちながら、リハーサル中、或る瞬間から演奏者たちが一つの渦をうねるような錯覚に陥いり、これがドイツ人の真骨頂かと感激したことを思い返していました。イタリア人は絶対に持っていない、一つのことを共に作り上げる際に突き抜けてゆく、劇的に収斂するエネルギーで、演奏し終わった、彼らの清清しい顔を見ていると、ゲルマン人の官能性は、こんな処にも垣間見られるのかと思いました。

ドイツ人の重さと言われるものは確かにあって、振り子の錘のようなもの。振り子は、錘が重ければ重いほど、一度振れ出すと激しく運動を起こしますが、錘が軽ければはらはら糸が揺れるだけで、かかるトランス運動は生じません。あの振り子の強い振れを、ドイツ人の力みなぎる演奏に思い、この音の渦に翻弄されないよう、しっかり足を踏ん張って立っていなければ、稽古をつけながらそんな事を考えました。

人生も案外、似たところがあるのではないでしょうか。自らの周りに渦を起こしながら、吹き飛ばされぬよう、地に足をつけ踏ん張っていて、めくるめく渦には、喜びも悲しみも全部詰まっているけれど、それらに目もくれず、ひたすら先を見据えて歩を進めます。遥か彼方には、見えるものがある気もするし、それも気のせいも知れません。

(11月27日ベルリンにて)



「大野一雄の宇宙と花」によせて  冨岡三智




11月26〜28日まで「大野一雄の宇宙と花」という公演が大阪のArt Theater dBであった。26、27日は見れなかったのだが、28日には「〜大野一雄氏へのオマージュ〜」ということで公募で選ばれた関西アーティスト達22組から大野さんに贈るダンス短編集の公演になっていて、私も出させていただいた。というわけで今月の原稿は「〜大野一雄氏へのオマージュ〜言葉編」である。そう言いつつ感激が大き過ぎてまだうまく言葉にまとまっていないので、今回の原稿はとても短い。(公演が28日だったので原稿を書く時間がなかった、というのもある……。)

大野さんは今年98歳になる。来場予定とはいえ高齢だし……と思っていたら、本当に来られた。車椅子に乗っていてほとんど体も利かないというのに、静かに迫ってくる存在感は何なのだろう。舞台の後ろから、車椅子を押してもらって登場する大野さんの後ろ姿を見ているだけなのに、我ながら不思議なくらい涙が止まらなかった。

そしてオマージュのために集まってきた出演者たちの、テンデバラバラなこと。白塗り舞踏系が多いのはやはりという感じだが、ざっと見たところでもバレエなど洋舞系、パントマイム、演劇、?、それにジャワ舞踊の私と、いろいろなベースの人がいる。それが大野さんという1点で集まってきたのは不思議だ。

かく言う私が大野さんのことを知ったのはインドネシア留学中のことになる。大野さんはアート・サミット・インドネシア'95に招聘されて踊っている。「90歳を超えて現役のカリスマ舞踏家がいる」と、そのサミットを見た先生から聞かされた。その先生に私はジャワ古典舞踊を習っていたのだが、その人は古典舞踊も現代舞踊も踊る。私ももちろん大野さんの名前は知っていたけれど、その時点ではまだ実際に舞踊を見たことがなかった。

そして昨年帰国して間もなく、テレビでたまたま大野さんの特集番組を目にする。私と大野さんの関わりは本当にそれだけしかなかったのだが、今年この公演の公募のお知らせを見て、なんだか不思議にアレンジされているような気になった。たぶん今の私は大野さんから何かを吸収しないといけない、あるいは吸収できる時期がきたのだろう、という予感がしている。実際に習うわけでなくても、一緒に同じ空間にいるというだけでも得るものは大きいなあと感じたことだった。



前進する女性──翠の虱(2)   藤井貞和




   美しいという 輝きが、生きる 証しを踏む   脚韻。

      詩の予感の廊下は      踊り場で、

  くるりと こちらを狙う。

    亡き母の降りてくる、

            非

             常

              階

               段。

   亡きひとの  ハイヒールの 音が、

  やってくる。  罪を犯した 母は、 詩のなかにとどまり、

  わたしの愛人に なる。  それが母の罪なら、

   わたしは、罪の子として   地中の 虫の 血のなかへ、

    生み落とされる。   翡翠に語りかける、

  いのししの虱にまで、   語りかける、

   母の翠石虫だから。  虫になる 母が、

    翠の血で書く 地面。      その

  字を読む ことのできるのは、わたしの  愛人だけだろう、

   わたしにも読めない   表意(=憑依)文字。

    恋しい いまも むかしも これからも、

  一枚の、写真のなかでは    少女=翡翠。

   サロメの、うなだれやすき、翠の髪で   飾る 

    大皿の太陽のまえ。    母のために、愛人のなかへ

  埋めこむ 翡翠。  約束のとき、

   ひとつの時間が、鏡を透過する 恋しい  波で、

    母を犯すのは、          わたしの責任。

                 
(2004.11.28)


(翡翠はJadeite。題名の「前進する女性」は『アンドレ・ブルトン集成7』〈邦訳35ページ〉に出てくることを、ひとから教えられた。世界の前進するすべての女性と男性とのために。翠の血は青虫をちぎって取りだす汁のこと。この非常階段は42階ある。サロメはむろんオスカア・ワイルド、アカギ叢書という、小冊子で出ていた。)



ファルージャの虐殺   佐藤真紀




イラクでは来年1月30日に、民主的な選挙をやることになっている。

「彼らは、民主的な選挙なんてやったことがないから、大変なんだ。いろいろな妨害が起こるだろうから、今回のファルージャの攻撃は、選挙を行う上ではある程度必要なことなんだ」友人の外交官が説明してくれた。バグダッドに行ったのはいいものの、殆ど動けない状態だそうだ。壁の中で暮らしている。外交官も自衛隊もすべてはみな人質のようなくらしをしている。そして、何よりもイラク人全員が人質のようにおびえて暮らしている毎日だ。すべては、アメリカの外交政策の人質に取られてしまった。

ファルージャでは、まず、米軍が真っ先に病院を制圧した。死者の数は、病院に運び込まれた数をまず報道する。もちろん病院にいけずにそのまま埋葬されるケースが多々あるので、そういった報道は最低の数である。米軍はその数すら公表することを恐れた。「ファルージャには、一般市民はいない。武装勢力だけ1500人を殺した」と米軍の司令官は誇らしげに報告をするが、この1500人、一体誰なのか、本当に武装勢力なのか、アメリカが言ういわゆるカッコつき「テロリスト」なのかどうかもわからない。民間人である可能性が高い。海兵隊には、15歳から50歳の男性の外出を禁止し、動けば即座に撃ち殺してよいという命令が出されていたという。

CNNの報道によると、米軍は15日、ファルージャのための「救援物資は十分ある」とする声明を発表した。米軍は「イラク政府は多国籍軍の支援を得て、ファルージャ市民が必要とする人道上の支援をまかなうため、あらゆる必要な策を講じている」と声明。「食料、水、医薬品は現地に十分あり、すぐ使える状態だ。さらにいくつかの非政府組織が現場にいて、支援を提供している」として、米軍は指摘されているような人道危機が起きるような状態ではないと強調した。

しかし、そのころ私たちは、国連や国際NGOのネットワーク、赤十字とも調整して人道支援物資をファルージャのい中に運び込もうとしていたが、米軍の妨害にあい、ファルージャ市内には入れないでいたのだ。

言っておくが、人道支援団体は米軍に協力するつもりはもうとうない。そこで傷ついている人たちを助け出すのが責務である。ファルージャの医師たちは、人道的な危機を訴え医師たちの応援を呼びかけた。呼びかけに応じた50人の医者と看護婦が11日午後、ユーフラテス川の支流へと歩き、それを渡ってファルージャに入ろうとしたとき、米軍狙撃兵が彼らに発砲した。医者と看護婦17人が、川を渡っているところで射殺された。川幅は150〜170メートルあった。生き残った者はなおも川を渡って市内に入ったが、彼らの多くは程度の差はあるが負傷していたという。

不思議なことに、攻撃は、アル・ザルカウィという残忍なテロリストを叩き潰すために行うはずだったのに、米軍は、攻撃が始まってすぐにザルカウィが逃亡したことを発表している。

結局この作戦は、イラクの民間人に多くの死者をもたらし、しかも、緊急救援活動すらを妨害する米軍と、アラウィ首相が率いる暫定政府の非情さを強調するだけだった。しかし、混乱は更にラマディや、モスルにまで飛び火してしまっている。つまり、恐怖を見せ付けること。そのことが、イラクの混乱を収拾する唯一の手段であるということはアメリカがもっともよくわかっている。つまりこれはサダムの恐怖政治と同じやり方だ。

イラク暫定政府は、1月30日に選挙を行うのは無理だと記者会見した。一体何のための攻撃だったのか。選挙のために多くの民間人が殺されている。誰のための民主主義なのだろう。
 



2004年も終わりに近く   高橋悠治




1968年の反体制運動の批判と抗議ではなく 1990年以後の世界にはちがう抵抗のかたちがもとめられている 地球の反対側のできごとにも無関係に生きることができない 何をしていても 日常のさまざまな場面で 圧力をかんじる これでもなく あれでもない道は どこにあるのだろう 世界と音楽を行き来しながら それをさがしている おたがいに関係のないちいさな出会いと発見が 闇のなかの狐火のように燃えている

間の領域 関係の配置 ハンナ・アレントのことば だが公共哲学が問題ではない 音楽をつくる興味もそこにあることを再確認する ガートルード・スタインの劇場 活人画のような人間の配置による風景 音程や楽器の配置は風景のようにうごかない空間ではない その背後にある人間関係が 空間を崩しては組み換える

語りと歌の間の領域 正書法からはずれて音色とリズムにみちびかれるジャマイカのパトワという言語が 意味と文法を押しつけてくる制度への抵抗となる 反復と省略の力 ダブ・ポエトリー リントン・クウェシ・ジョンスンやムタバルーカ

メキシコの密林で 先住民の知恵にしたがうことによって自治をつづけ インターネットのことばの力で 政府軍の包囲の壁を越えて 詩的な物語をとどけてくるサパティスタの声 老アントニオの創世神話や世界を遍歴するカブトムシのドゥリートとその従者としての副司令マルコス

ヨーロッパ近代を可能にした奴隷制のなかから創造され 世界音楽を変えたアフロ・アメリカのリズム原理 支配的な拍を空白にして たがいに間の領域にはいりこむ 交錯する自律的運動 中心の不在 細分化されながらも見通せる音色空間とゆったりした波動

すべてを音楽に還元する必要はない 一日のなかで音楽の時間はそんなに多くない 音楽のために生きるのでもなく 生きるために音楽をするのでもなく 音楽のある生活 いったん職業にしてしまったものだから これがむつかしい ロベール・ブレッソンのノートをよみかえす ほとんど自動的になるまで反復され身についた台詞が 現実の関係のなかで突然未知の光でそれを言う人を照らし出す これはまだ外側からの視線だ 言う人の側からは何も見えない 言うことばを考えてはいけない それは一面の真理ではある ことばの意味や対象ではなく ことばを言っているそのうごきに注意を向けること しかも自意識におちいらないという この微妙なちがいには 何か積極的なものがある



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