2005年3月 目次


おやじたちの共同生活            佐藤真紀
製本、かい摘まみましては(6)       四釜裕子
「水牛のように」がきこえてくる       御喜美江
ラオス・ベトナムとチャムパーの花     森下ヒバリ
子守唄         スラチャイ・ジャンティマトン
振付家名のクレジット(2)         冨岡三智
ジョン・レノン・フォーエヴァー       三橋圭介
しもた屋之噺(39)            杉山洋一
船を買う──翠の虱(5)          藤井貞和
gertrude――肖像              高橋悠治



おやじたちの共同生活  佐藤真紀




1月12日、ミリアムが死んだ。イラク人の彼女は、ヨルダンの病院で、とうとう戻らぬ人になった。

昨年8月、私は、ホテルで、夫のイブラヒムさんとミリアムさん、そして娘のファーティマ3歳に出会った。キング・フセインガンセンターのとおりを隔てて真向かいにあるホテルではイラクから白血病の治療にきている患者と家族が暮らしていたのだ。

ミリアムさんは、4月1日に双子の赤ちゃんを出産してから化学療法を始めた。赤ちゃんは預けられ、お茶目な長女、ファーティマとホテルで暮らしながら、入院と通院を繰り返していた。昨年7月、骨髄移植を行った。順調に治療が進んでいるかに見えたが、12月に再発して、様態は悪化した。

今年の1月、ミリアムが危篤状態だとイブラヒムが電話で話してくれた。友人が駆けつけたときは、すでにこん睡状態だった。ビデオを見せてもらう。酸素マスクがつけられている。イブラヒムが、「神様、神様といって息を吸うんだ」そしてミリアムがか細い声で2回神様、神様といった。ファートマがつれてこられたときはほとんど意識がなくなっていた。ファートマはきょとんとしている。お別れのキスをした。

1年間の闘病生活だった。ミリアムは、死の直前まで「私が死んだらイブラヒムはちゃんと子供の面倒見れるのかしら」とイブラヒムのことを心配していた。

イブラヒムは、ミリアムを埋葬するために、バスラへ向かった。ファートマと双子の兄弟は別々の家に預けられることになった。

私が、2月にヨルダンにもどると、イブラヒムはまだイラクにいるという。国民議会選挙やらで国境が閉鎖されたりしてなかなか戻れないのだという。早速、ファートマが預けられているアブ・アリの家を見に行く。再会したファートマ。でもお茶目なファートマはすっかりとどこかへいってしまった。8歳の男の子アミーンが遊んであげているが、ファートマはすぐ機嫌が悪くなって、怒り出すのだ。アミーンはかわいそうにぼこぼこ殴られている。

アミーンの母は、「以前は、ファートマは恥ずかしがって、私のとこにはきませんでしたが、彼女のママが死んでからは、抱きついてくるようになった。今では、私のことをママと呼んでいます。でもこの間、写真を見つけて、ママに会いたいっていうんですよ。病院には子供はいっちゃ行けないんだっていいました。」

ファートマは、マットレスをよくかじるという。朝にはスポンジが散らかっているというのだ。ファートマはお絵かきが好きだが、まだうまく絵をかけない。アミーンがファートマの絵を描いていると、画用紙を奪って、涙を描き加えた。「えーん、えーん」と泣きまねをしている。

イブラヒムがようやく帰ってきた。イラクの選挙やらで国境が閉ざされなかなか戻ってこれなかったという。一ヶ月ぶりだ。それで、アブアリの家に行くと、久しぶりに親子水入らずで遊園地から帰ってきたイブラヒムとファートマがいた。ファートマが以前のようにお茶目になっている。「今までどこに行っていたんだとファートマに怒られた」やっぱり血のつながった親子の絆は固いものだ。一方今までなついていたのにアブアリに対してはファートマが冷たい。どことなく哀しそうなアブアリおやじであった。

さて、これで、イブラヒム親子がバスラに戻ればめでたしめでたしということになるのだが、イブラヒムがとまるところがない。国境はイスラムの祭事で一週間は閉ざされるというから、その間のホテル暮らしは結構お金がかかる。そこで、最近、井下医師と私が借りた、アパートの一部屋ベッドルームがあいていると話したところ、「それはありがたい」とイブラヒムとファートマがすむことになった。

その話を、取材に来ていたI子さんにしたところ、「えっ! おやじばっかりでどうするのよ。ファートマの着替えとかどうするのよ」という。「ファートマは、女の子とは言えまだ3歳。井下さんはお医者さんだし。だって、そんな着替えなんてイブラヒム父さんがするに決まっているじゃないか。(マイケルジャクソンじゃあるまいし)」私たちが変態おやじみたいに思われているので哀しくなった。

井下おやじもファートマが来ると聞いて、喜んでいる。早速ビデオをセットして、小さなお客を出迎えた。ファートマのために木魚とか尺八を用意して歓迎すると早速ファートマは、木魚をたたき出した。尺八も吹こうとするがそんなに簡単に音は出ない。尺八奏者でもある井下おやじは、「一番弟子にしましょうか」と張り切っている。ただし、部屋が寒かったので、イブラヒム親子は、イラク人の友人の家に出かけて行き、帰ってきたのはイブラヒム父さんだけ。イブラヒム父さんは、ミリアムの写真とか持ってきていろいろ説明をしてくれるが最後は涙ぐんでしまう。3人のおやじたちの共同生活が始まった。





製本、かい摘まみましては(6)  四釜裕子




革でルリユールされた本を初めて手にしたのは、北園克衛の詩集『重い仮説』(海人舎 昭和61)だった。装幀家、大家利夫によるもので、総革、モザイク、金箔押し、本文紙は手漉き和紙、函付きで限定30部、値段はいくらだったのか、聞かなかった。数年後、神田神保町の玉英堂書店の目録で、23万円の値がついていたのをみかけたことがある。

工芸作品とみまごうような、過剰な装飾がほどこされた革装丁こそが「ルリユール」と思っていたので、シンプルに仕上げられたこの詩集には驚いた。知人のものだったが、手のひらでやたら撫でまわし、欲しい、と言った。却下された。作りたい、と言った。やってみればいい、と言われた。わたしとしては、紙や革や糸をつかうのだから手工芸の延長、それならできると考えていた。数年後、栃折久美子ルリユール工房(池袋)に通うようになり、それが全くの見当違いであったことを思い知る。

ルリユールは緻密な作業の積み重ねである。最も驚いたのが、革の扱い。まず、革を型紙どおりに断裁し、全体の厚みを6ミリ程度に漉く(革漉きやさんに頼む)。それから、折り曲げるところと、紙やほかの革と重なるところを、革漉き包丁でそれぞれ適度に薄く漉く(コバ漉 き)。滑らかに漉かないと、革を貼ったときに表面に凸凹が出てしまうし、漉きすぎると革がやぶけてレース状になってしまう。加減が実に、むずかしい。これでやっと貼り作業。革の種類や使用する部位によって、ノリを入れると伸びるものもあるから要注意。やり直しはできないので一発勝負だ。

わたしがこれまで作ったのは「半革(はんかわ)装」で、革と紙を組み合わせて表紙にしたもの。全部を革でくるむ「総革(そうかわ)装」より技術的に簡単とはいえ、何年かかったんだっけ? 数えるのもいやです。製本を習うぞとでかけたのに、革の下準備にここまで時間がかかるとは、予測できなかった。『重い仮説』の場合はグレーのカーフ(仔牛)の革が使われていた。革自体の質感もデザインもクールだが、本全体の質感はなめらかで柔らか。どんなにか、丁寧な土台作りがなされていたことかと、ただただ恐れ入る。

イラストルポライターの内澤旬子さんは、CRAFT碧鱗堂Books名義で、みずからの作品を製本して販売もしている。製本のワークショップもおこなっていて、特に楽しいのは革を用いたオリジナルのプログラムだ。「革は扱いがむずかしい」、あるいは、「革を使うならきっちりきれいに作らねばならない」と思うひとは多いはず。わたしもそのひとりだったから、2月19日、千駄木の古書ほうろうで開かれたワークショップにいそいそとでかけた。切りっぱなしの豚革をぴったり貼り合わせて、溝なし、背バンドつきの、小さくも本格派のかがり手帖が、半日でできるという。

カッターで切ったりノリをいれたりすることで、革の柔らかを体感しながら不安げに貼っていると、だいじょうぶダイジョウブ、と言いながら内澤さんが、 こっそりフォローしてくれた。材料や道具の選択あってのことだけれど、参加者はみな、思い思いの色合いで完成させた。乾くとしっとり手になじみ、気持ちがいい。なんども撫でて撫ですぎて、革の表面がテカテカしてきました。豚とわたし。動物どうしの、肌と肌の触れアイ。そうそう、これです。作業の緻密さに気後れしてこの気持を忘れたら、 革装丁は「修行」になってしまう。

内澤旬子の仕事日記 http://d.hatena.ne.jp/halohalo7676/20050224



「水牛のように」がきこえてくる  御喜美江




 
音楽表現と音楽鑑賞には大きく分けて二とおりあると思う。一つはライブとして、もう一つはCD、DVD、LPのような録音として。

ライブのコンサートでは、ステージに登場するというところからすでに音楽表現は始まっている。聴く人は演奏者の体や楽器の動きを観察しながら、またホールの音響や雰囲気を味わいながら、一曲一曲を体験することができる。とくに躍動感あふれるリズムや、叙情的なメロディーは、“耳”のみならず“目”がそれを追うことで、ずっと身近に迫ってくる。指や体の動きには作品や演奏のわからない部分を、わかりやすくコメントする機能もあると思う。なかには目を閉じて、又は、あえて演奏者を見ないで聴いている人もいるが、まあ大抵の場合、聴衆は演奏者を見ながら聴いていると思う。

私がライブのコンサートを聴きに行くときは、とくにそれがアコーディオン奏者だった場合、どんなふうに指、腕、体を動かしているのか、どんな椅子に座って、足をどのように使っているのか、さらに肩ベルトの長さ、蛇腹の使い方、親指の位置……と見たいことはいろいろある。「なるほど、あんなふうに弾くから、このような演奏になるのだ」なんて納得したり感心したりする。

ステージと客席の境が消え、聴衆と演奏者の息づかいが一体となる瞬間は、私にとってまさに「星の時間」だ。自分がステージ側に立つときは本当に難しいけれど、でもそれを夢に描くことで、コンサート前の緊張とストレスと不眠を今まで何とか乗り切ってきたように感じる。

CDの素晴らしさは、何といっても“耳”だけが唯一のキャッチ・ポイントであるということ。とにかく聴くことだけに全精神を集中できることだろう。ここでは悪天候の中わざわざ外出する必要もないし、いやな奴が近くをうろうろ、なんて息苦しいこともない。座り心地の悪いシートで腰痛になったり、強烈な香水で頭痛になったりもしない。視覚の世界は消え、聴覚のみに音楽は制限され、それを聴きたい人が、聴きたいときに、聴きたい場所で、聴きたい作品と演奏者を、聴きたいだけ何度も何度も聴くことができる。目を瞑って楽な姿勢で素晴らしい作品や演奏を思う存分聴ける時間、これはまた別の意味で私にとっての「星の時間」だ。だから自分が録音をする場合は、耳だけでも五感が満足するようなものを提供しなければならない。ライブのコンサートとは随分いろいろなことが違ってくる。

録音においては、あとあとまで是非残しておきたい作品を、あとあとまで後悔しないようないい演奏でと願いながら、これまでに21枚のCDを出してきた。でも一旦リリースされてしまうと、自分のCDって普段はほとんど聴かないが、でも4枚だけ嫌いじゃないCDがある。どうしてこの4枚が気に入っているのか考えてみると、楽器の音色がまずは第一、次に作品と自分の選んだテンポやダイナミクスが合っているから、表現がとても自然に感じられる、というのがその理由かもしれない。でももっと決定的な理由は、“聴きながら何かが見える”、これだと思う。それはアコーディオンでも弾く自分でもない、聴いていると音楽のむこうに一つの風景のようなものが広がって、耳と目が一緒になるような錯覚を覚える。これがあるCDと、ないCDとで、私の場合はその好き嫌いがはっきり決まってしまうようだ。

今、ある一枚のCDが誕生しようとしている。誕生予定日は4月1日で誕生地は東京。わたしは昔から「風景との対話」という表現が大好きだが、このCDからは、まさに無限に広がる美しい風景が聴こえてくる。そこでは音たちが語り、言葉がうたう。

広い広い地球のあちらこちらから、24年という長い歳月を経て集まった音たち言葉たちが、一旦は15グラムの小さなCD円盤に収められ、人々の手にわたされ、人々の掌のなかにつつまれ、人々の耳に美しいメッセージをおくる。そして再びどこかへ旅立っていく。この円盤はもしかすると地球をこえて宇宙へ向け、永遠の旅をするかもしれない。そんな不思議なエネルギーがこのCDにはあると、私は思う。

ではこれは一体どのようなCDなのか、ここでちょっと紹介させていただく。

                  *

  CDブックレットの「まえがき」より

高橋悠治作曲アコーディオン・ソロのための『水牛のように』が作曲されてから20年が経った。譜面は作曲者の希望であえて出版されず、“手から手へ”コピー譜が渡されていった。そして今では世界中でこの曲が演奏されている。地球のあちこちに『水牛』の種が蒔かれ、若木たちはすでに森となるほどに増えた。新芽の息吹きもあちこちから聞こえてくる。

ところで始めに種を蒔いたのは誰だったのだろうか。
 フリードリヒ・リップス(男・ロシア)
 エルスベート・モーサー(女・スイス)
 マッティ・ランタネン(男・フィンランド)
 御喜美江(女・日本)
私にはまずこの4人が思い浮かんだ。
それぞれ全く異なった風土と文化の中で育った4人。
それぞれ異なったシステムのアコーディオンを演奏する4人。
全く違った言葉を母国語とする4人。
モスクワとハノーファーとヘルシンキとエッセンの大学で教鞭をとる4人。
レパートリーも演奏スタイルも頗る違う4人。
さそり座(水)・牡羊座(火)・水瓶座(空気)・乙女座(土)の4人。

そして高橋悠治作曲「水牛のように」の種をその地に蒔き、水をやり、日を照らし、育ててきた4人。この4人がそれぞれの母国語で詩を朗読し『水牛のように』を演奏する、という一枚のCDがもし出来たら……という夢のような夢を抱いたのが2003年の春。「そのようなことが可能だろうか?」の私からの問い合わせに、この3人は一秒のためらいもなく、喜びをもってこのCD制作への参加を承諾してくれた。

ところで、この“種”は、いったいどこで生まれたのだろう? この問いに対して、高橋悠治と八巻美恵は、詩の原作者ウェンディー・プサードを探し、見つけ、彼女に詩の朗読まで頼んでくれた。そしてこの作品の源となっている音楽、水牛楽団の演奏による「水牛のように」も、このCDのために提供してくれた。「水牛のように」は今から24年前、まさにここから 生まれたのである。

一年半経った今、多分アコーディオン史上初めてであろう、4人のソリストが同じ曲を弾くCD「水牛のように」がここに誕生しようとしている。私にとってまさに夢のCDだ!

高橋悠治、八巻美恵、ウェンディー・プサード、フリードリヒ・リップス、エルスベート・モーサー、マッティ・ランタネン、櫻井卓、高橋美礼、御喜晶子へ心から感謝します。 (御喜美江)


「水牛」の歌


ことばは おそれから生まれ
涙は 歌をはぐくむ
説明できない 自由の響も
きけばすぐ それとわかる


兄たちは つれさられ
姉たちの なげきはたえない
さしのべる 手もむなしく
歌だけが のこされる


歌は記憶 歌は問いかけ
歌にはできる たくさんのことが
記憶の意味は なんだろう
問いにこたえて なにをする


うたいながら あゆみゆく
ひとのちからに かぎりはある
だが歌は たがやしてゆく
水牛のように 
     
(詩:Wendy Poussard、 訳:高橋悠治)

               *

今朝はとても寒く外の気温が零下3度、樹氷が白銀色にキラキラと輝き、青空とのコントラストが目にまぶしい。朝の光の中で冬景色をしばらくながめていると、静寂の中から時おり音楽が聞こえてくる。高橋悠治の「水牛のように」が、あるときは北のフィンランドのほうから、あるときは東のロシアのほうから、あるときは南のスイスのほうから、ちょうど私の目と耳のあいだあたりに、きこえてくる。

(2005年2月25日ラントグラーフにて)

P.S.『水牛』2001年6月号も読んで頂けたら大変嬉しく光栄に存じます。



ラオス・ベトナムとチャムパーの花  森下ヒバリ




二月の初めにタイからラオスのビエンチャンに行き、そこからメコン川に沿って南へ旅をしました。パクサーン、タ・ケーク、サバナケットというまだ訪ねた事のなかったラオスの町を歩いてみたかったのと、サバナケットの町から西へ進み、陸路でベトナムへ行こうと考えたからでした。

メコン川沿いの町はそれぞれの川の表情を見せてくれます。静かなうつくしい夕暮れを見せてくれるパクサーン、対岸の明るさに比べて暗い町のタ・ケーク。対岸のタイの町ムクダハンの賑やかな灯りと、建設途中の橋げたが見えるサバナケット。サバナケットではタイ人がたくさん町を歩き、大型トラックが何台も船でメコン川を渡る順番待ちをしていました。あと二年でメコン川にかかる橋が完成すると、サバナケットもますますタイの製品や企業で溢れ、いっそうタイ化していくのでしょう。この橋の建設はやっぱり日本の援助で、日本の企業が請け負って造っているのです。

タ・ケークの町で偶然日本人2人に会ったのですが、彼らはタ・ケークのあるカムムアン県の農村部の医療事情改善のための活動をするNGOを立ち上げる準備に来ているということでした。ラオスの村には、いや、町にも病院やかんたんな診療所さえも大変少ないのです。病気を防ぐ公衆衛生の試みもほとんどなされていない状態です。橋ができても病気は防げません。タイとラオスの金持ちが儲かるだけでしょう。

どの町にもビエンチャンと同じように白いチャムパー(プルメリア)の花が咲いています。ラオスの人はほんとうにこの花が好きです。わたしもこの花がとても好きです。この花が咲く町を歩いていると嬉しくなります。

サバナケットからラオスとベトナムの国境ラオバオまでおんぼろバスに乗り、6時間。バスの床下はびっしりラオスのビール、ビアラオが積まれ、外に出るにもビアラオのケースを踏み越えて行かなければなりません。屋根にもぎっしりと荷物が積んであり、並みのトラック以上の輸送能力を発揮して、乗客はおまけのよう。国境はかなりの山の中でした。ベトナムに入ってから最寄の町ドンハーまでの道もかなりの山道でした。ちょうどこのあたりはベトナム戦争のときの南北ベトナムの境界であり非武装地帯でした。非武装地帯ではその言葉に矛盾して最も激しい戦闘が行われたのですが、こんな山の中だったとは思っても見ませんでした。勝手にベトナムのイメージをメコンデルタの何処までも続く田んぼで作っていたせいでしょう。

ベトナムの中部に来たのはたまたまラオスから陸路で入る、というルートを選んだのとフエやホイアンなど古い歴史のある町があるためでした。ベトナム人よりも以前にこの地に住んでいたチャムパー王国の遺跡や美術も興味がありました。

フエに着いて、伝統音楽の生演奏が聴けるというレストランがあるというので行ってみました。5、6人で中国ぽい軽快な音楽が何曲か演奏され、最後に演奏された曲は、どこかで聴いたことのあるような……。

「これはテンポが早いけどドゥアン・チャムパーやない?」
連れがそういうので、よく聞くとたしかにカラワンのスラチャイも歌っているラオスの歌「チャムパーの花」にちがいありません。これはベトナムに留学したラオス人の留学生がラオスを偲んで作った望郷の歌ですが、もしや原曲はベトナムの曲なのでしょうか。ベトナムの曲に詩をつけたという可能性もあるので、演奏の終わったミュージシャン達に尋ねてみたところ、やはりその歌はラオスの「チャムパーの花」で、それをアレンジしたものでした。

そのとき、ふと15世紀まで中部ベトナムのこの辺りを支配していたチャムパー王国、チャム族とチャムパーの花がつながりました。フエの町にもチャムパーの花はたくさん咲いています。

「チャムパーの花って、チャム族やチャムパー王国の花ってことやないの?」
ラオスの南部にはチャムパーサックという町もあります。「栄光あるチャムパー(国・族)の町」という意味の名前です。チャム族はベトナム人の南進によって国は滅びてしまいましたが、民衆は殺されてしまったわけではありません。チャム族はベトナム族に吸収されてしまったのです。文化も受け継いでいます。チャムパー王国は現在のラオスの南部も支配下にあったので、そこにもチャム族もたくさん住んでいたはずです。ここでもラオスのラオ族がチャム族を呑み込んで、取り込んでしまいました。だから、純粋なチャム族はあまり多く残ってはいませんが、ラオ族やベト族の中に取り込まれて生き続けているとも言えるでしょう。

ラオスの愛唱歌「チャムパーの花」でラオス人はチャムパーの花への深い愛情を示しています。この花は、紀元前後からベトナム中部地方に住み、ベトナムに滅ぼされる15世紀まで海上貿易で栄えたチャム族の花だったようです。中米原産のプルメリアが内陸国のラオスに辿り着くには、やはり海上貿易国であるチャムの国にまず伝わり、そこで愛され、繁殖してからチャム族と共にメコン川流域をさかのぼっていったと考えるのが自然でしょう。ラオス人のチャムパーの花を愛する心はラオ族に受け継がれたチャム族の心なのかもしれません。





子守唄  スラチャイ・ジャンティマトン 荘司和子 訳




おまえから去った日 眼には涙がにじんだ
暗雲は空を覆い 風神は暴れまわった
小さな赤子 おまえはわが最愛の息子
わたしはおまえから遥かに離れた地へきた
ペンをおいて武器を手に取り
密林の人民の軍隊の隊列へと


息子よ おまえはまだ幼い
かわいらしい足 澄んだ瞳
残虐な独裁政権の世に生を受けた
民衆は歌声を上げる権利すらない
おまえの父は奴隷のようにあしらわれた
資本家に足蹴にされ
下僕のように蔑まれた
勇敢に立ち上がってこぶしをあげると
ずうずうしいと叩かれた
拳銃と爆弾の音は止むときもなく
友人たちは次々に斃れていった


おまえはわたしの血を分けた息子
生まれて瞳を開き泣き声をあげるころには
別れの悲しみがやってくる
けれども父は人民兄弟のため来たのだ
大きくなったら父のことばを思い出してほしい
学問には励むな
労働者と農民の側に立って
タイ社会を変革し発展させなさい
悪辣な敵どもを根元から引き倒し
明らかにするのだ
奴らがどす黒い野心で
民衆をくびきに繋いでいることを


赤い太陽は全土をあまねく照らし
人民解放軍は
悪辣な敵を倒すだろう


おまえと別れてきた10月
空は血の色に染まった
別れてくることしかできなかった
グラスは砕け こころはうつろになる


都会に続く鉄道の線路に
闘いの行方を示す道を見た
月日が経ち 森が住居となる
近い将来 花は幾重にも開いて
息子よ きっとまたおまえと会える日がくる
息子よ きっとまたおまえと会える日がくる


(1976年)


先月号の「河は忘れない」では河に託して「山の戦士」だったころに思いをはせていますが、その当時の生々しい状況の渦中で書かれた詩をみつけました。タイトルは「子守唄」ですが、長男への別れ、遺言、希望すべてが表現されています。

1976年10月6日陸軍強硬派のクーデタとともにおきた右翼による学生たちの残虐な殺戮の直後、スラチャイたちも暗殺の危険が迫っていてタイ共産党の革命根拠地に逃れるしか道がなかったことを息子に伝えようとしています。子守唄というタイトルからは普通は想像もつかないような彼らの歩んだ道。

文化宣伝隊に配属されて共産党と人民解放軍のプロパガンダの歌ばかり作らされた、とモンコンも言っていましたので、この歌にもそういう共産党用語がたくさんでてきます。「奴隷」「敵」「赤い太陽」など。

けれどもジャングルに入った当初は、彼らも共産党の「農村から都市を包囲する」という戦略でタイの解放戦争に勝利できると信じていたことがこの詩からもよく分かります。政府軍と敵対する人民解放軍の隊列に参加した以上、そういう覚悟が出来て当然なのでしょうが。。勝利して息子と再会する日を信じて子守唄を終えています。同時にその闘いの中で斃れるかもしれないことも覚悟しつつ。

この長男の通称はプーン(拳銃)でした。当時の状況をうかがわせる怖い名前です。母親もスラチャイを追ってジャングルの戦士となったため、生後一年にもならないころから祖父母に育てられました。「学問には励むな」という父親の子守唄を聞くこともなかったでしょうが、親に似て15歳くらいで出奔して自由に生きているようでしたが、25歳くらいになってから突然バンコクに戻って名門タマサート大学の法学部に入って学問をはじめた、と聞いています。

この歌は解放区内ではうたわれたのでしょうが、復帰後のどのアルバムにも入っていない、曲としてはすでに失われてしまったものです。(荘司和子)



振付家名のクレジット(2)  冨岡三智




前回触れたスラカルタ舞踊の古典とも言うべき「ルトノ・パムディヨ」(1954年作)や舞踊の基礎「ラントヨ」(1950年頃作)がクスモケソウォ(1909〜1972)の作だと聞けば、これはうなずける。クスモケソウォは宮廷舞踊家で、その立ち居振る舞いも容貌も宮廷美学の理想を体現していると言われていた。私は本人を直接知らないにしろ、その話に聞く人柄は見事に作品に反映されている、という気がする。

     ***

では「マニプリ」はどうだろう。現在ではマリディ氏がリメークした「マニプレン」(1967年作、マニプリのようなものの意)が知られているけれど、実はそれに先行して「マニプリ」という作品があり、それはクスモケソウォ作だとされている。あくまでも優美なジャワ宮廷舞踊家のイメージと、飛び跳ねる感じのインド舞踊の動きは結びつかないなあと思っていた。

それも道理で、そのクスモケソウォ作の「マニプリ」も、名が表す通りインド舞踊のマニプリを元にしており、クスモケソウォが個人でインド舞踊風の動きを考案したわけではないのだ。

「マニプリ」が作られたのは1953年頃のことである。インド政府派遣の舞踊家アミット・ポールが、スラカルタにある国立コンセルバトリ(今の国立芸術高校)に来てワークショップをした。この人はインドネシア各地の舞踊を視察していて、スラカルタのコンセルバトリでジャワ舞踊を習い、代わりにコンセルバトリの人達はインド舞踊のマニプリを習った。とはいえ、アミットはマニプリのカセットテープを持っていなかった。(当時はまだオープンリールのテープしかない時代である。)せっかく動きを習っても音楽がなくては上演できないというので、当時のコンセルバトリの校長・スルヨハミジョヨが「ジャワの曲に動きをつけよう!」と言いだして、「マニプリ」が誕生したという訳である。ジャワの曲の構造に当てはまるように動きも少し変えたという。

この「マニプリ」は現ムスティカ・ラトゥ化粧品会社の社長の結婚式で初演された。私の舞踊の師であるJ女史(当時コンセルバトリにいた)も初演メンバーの1人だ。そしてマリディ氏もこの「マニプリ」上演を見ている。J女史が初演メンバーの1人だったことや、この「マニプリ」は現在の「マニプレン」よりもっとインド風で大人の舞踊だった(「マニプレン」は子供の舞踊として定着している)ことなどを、私は最初にマリディ氏から聞かされた。

その後J女史に「マニプリ」成立の事情をあれこれ聞いていると、コンセルバトリのワークショップの中から舞踊が生まれたということがわかってきた。一般に「○○氏振付」と銘打たれているとその人が100%動きを考え出したように思われるけれど、「マニプリ」の場合はワークショップの舞台となったコンセルバトリの代表者として、クスモケソウォの名前が挙げられていたのだ。クスモケソウォは当時コンセルバトリ唯一の舞踊教師で、位の高い宮廷舞踊家だったから、コンセルバトリでの業績はすべてクスモケソウォの名前に帰せられていたのだろう。そういう意味で、「ラントヨ」や「ルトノ・パムディヨ」をクスモケソウォが振付けたというのと「マニプリ」の振付家がクスモケソウォだというのは少々意味が異なる。

ところでマリディ氏はなんでそれを1967年になってリメークしたのだろう。その事情についてはうかつにもまだマリディ氏に聞いていない。私の友人は、「マリディ氏はアメリカに行った時にインド舞踊・マニプリを見て『マニプレン』を振り付けたという話を聞いている」と言う。それを考え合わせると、アメリカでインド舞踊マニプリを見てコンセルバトリの「マニプリ」を思い出しリメークしたのかな、という気もする。

現在では「マニプレン」のカセットが市販されているから、「マニプリ」、「マニプレン」(この呼称はしばしば混同して使われている)の振付家といえば、マリディ氏の名前だけが知られている。

      ***

クスモケソウォといえば、1961年から始まっている「ラーマーヤナ・バレエ」の振付家としても有名だ。これはプランバナン寺院の野外舞台で乾季の満月の前後に上演されている。現在では観光用舞台としてしか見られていないけれど、始まった当時は運輸・郵政・観光大臣管轄の下、スラカルタのコンセルバトリ校長・スルヨハミジョヨがディレクターを務め、スラカルタ宮廷とパク・アラム家(ジョグジャカルタ宮廷の分家でスラカルタ宮廷と縁戚関係にある)の舞踊家や音楽家が総力を結集して取り組んだ一大プロジェクトだ。(現在の出演者は地理的に近いジョグジャカルタから来ていて、スラカルタからは来ていない)

当時すでにコレオグラファーという用語が使われていて、クスモケソウォの肩書きはコレオグラファーである。この場合も本人が新しい動きや型を全部考案したというわけではなくて、総合演出家である。男性舞踊荒型と女性舞踊のパートに関してはアシスタントの振付担当者が別に3人ずつ位いた。なにしろ舞台が巨大(間口50m×奥行き14m)だから、群舞も含めて出演者が200〜300人位いる。(200人と300人の差は大きいが、人によって言うことが違うのだから仕方ない。)それに猿だの鹿だの鳥だのいろんなキャラクターが出てくるから、振付家1人では対応は無理というものだろう。クスモケソウォが自ら手がけたのは主役のラーマ王子(優形)の動きなどである。

「ラーマーヤナ・バレエ」では他のアシスタントの振付家の名前も舞踊教師としてクレジットされていた。しかしそれでもクスモケソウォの名前が振付家としてクローズアップされるのは事実だ。それでそのことに不満を持って、公演が始まってすぐに降板した舞踊教師もいる。

こういう問題は舞踊が宮廷の中だけで上演されている間は起きなかったことだ。宮廷では王の名前だけがクレジットされ、舞踊家は平等に匿名だった。しかし舞踊が宮廷外に出ると、誰が創ったのかが問題にされるようになる。それは名声や金銭収入につながるから、振付の一部を担ったと自負する舞踊教師が振付家として自分の名前がクレジットされないこと、何でも宮廷舞踊家の業績になってしまうことに不満を抱くのも無理はない。

(続く)



ジョン・レノン・フォーエヴァー  三橋圭介




先日、浜野智さんが編集したCDジャーナルのムック『ジョン・レノン・フォーエヴァー』(音楽出版社)が送られてきた。ページをめくり、いろいろな人のことばにひっかかりながら、ジョンやビートルズについて思ったことを少し書いてみようと思った。

最初のビートルズは小学校5年のとき、偶然テレビでみた映画「レット・イット・ビー」だった。そのなかで強く印象を受けたのがジョンだった。エピフォンをかかえて叫ぶ「ドント・レット・ミー・ダウン」に圧倒された。その後すぐにギターをはじめた。ビートルズのレコードもきいた。ジョージのシタールでインド音楽に興味をもち、微妙に遅れるリンゴのドラムも気に入っていた。ポールの歌はジョンと相対化して楽しんだ気がする。ジョンだけはソロ・アルバムもきいた。ようやく時代に追いついたと思ったとたんにジョンはいなくなった。かれの死がグールドの死よりもショックだったことをいまでも鮮明に覚えている。

初期のビートルズにはあまり興味はない。かれらは「ヘルプ」や「イエスタデー」のような曲で大衆性を獲得した。その後、影響力は音楽にとどまらなかった。「イエスよりもビートルズのほうが有名」といって社会からこっぴどく叩かれたのはジョンだった。ジョージはヒッピー文化に乗ってインドに向かった。ジョンは反戦運動と平和運動にのめり込み、集会で女性解放を叫び、さらにヨーコとのベッド・インという奇行にはしった。それはいかにもジョンらしい真面目な祭典だった。

だがビートルズの音楽こそが真面目な祭典だった。かれらはロックのなかにバロック音楽をはじめとするクラシックや現代音楽、国歌、インド音楽などをもちこんだ。「リボルバー」「サージェント・ペパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンド」「マジカル・ミステリー・ツアー」などには、そうした要素が感覚的に自由にミックスされ、にぎやかなパロディのように登場する。そのユーモアの精神こそがビートルズだった。しかもビートルズはそれまでの文化にたいして戦略的でも知的でもなく、まったく感性的なものとして登場した。

映画「イマジン」に映しだされる大人たちの反ビートルズ運動。日本だけでなく、世界中で同じようなことがおこった。ビートルズの悪、その真意はどこにあるのか。おおかたは「公序良俗に反する」、つまりエレキギターをもつ長髪の不良少年ということだ。だがそれは表面にすぎない。社会をビートルズの祭典へと巻き込んでいく不安は、潜在的なものかもしれないが、ユーモアの精神に基づくかれらの奔放な感性にあった。その祭典のにぎやかさにまぎれた感性という名の「悪意」は、それまでの大人の社会を覆いつくしていた欺瞞的な社会構造や近代的な理性を脅かす刃となった。

ビートルズはその発言や行為、音楽によって、社会の一部を祭典へと変えた。祭りに没入した人は、浮き足立ちながら現実と非現実が転倒した世界を垣間見たかもしれない。また参加しなかった人も新しい季節を予感しただろう。ビートルズは社会の闇を照らす鏡だった。その中心にいたのがビートルズの「アイ・アム・ザ・ウォーラス」、ジョン・レノンだった。



しもた屋之噺(39)  杉山洋一




今、ミラノは夜明け前。橙色のナトリウム灯に浮上がる滴のような街の姿は、まるで深い闇に吸い込まれてゆくようで、遠近法が狂ってしまったシュールレアリズムの絵を想起させます。ジェノヴァ門から南西に、ヴィジェーヴァノまでのびる運河が残っていて、これは15世紀にダ・ヴィンチが設計したもの。ナヴィリオとよばれる運河を暫く進んで、橋梁を2本くぐったところで、アンドレア・ポンティ通りにぶつかります。ジェノヴァ門の辺りは下町情緒の繁華街になっていて、運河沿いに美味なレストランが軒を連ねていたりするのですが、ポンティ通り辺りまで下ってくると、巨大な倉庫がそこかしこに散見される、少し寂れた住宅地になります。

ポンティ通りのメルセデス宅はいわゆるロフトスタイルで、2LDKマンションの5倍はあろうかという3階建てのメゾネットに、彼女が一人で住んでいます。メルセデスは、強いスペイン語訛りの言葉を話す、ウルグアイ出身の癌の製薬コンサルタントで、大柄でヨーロッパ的栗毛なこともあって、つい南米出身なのを忘れがちです。父親はフランス人、母親もヨーロッパ系ウルグアイ人で、初めてヨーロッパに来た時は、これが自分の先祖から受け継いだ文化かと深く感激した話をしてくれました。

「自身の南米文化への帰属を強く意識しているけれど、同時に自分が侵略者の子孫である意識も、常に薄く残っているのよ」
ヨーロッパに暮らすと、幼い頃から繰返し教わってきた文化の中で暮らしている感じで、懐かしい感触すら覚えるけれども、同時に自分がヨーロッパ人ではないとも実感してしまうのよ。分かるかしら……。分かるかしら――ピッシェ? と、敬称と親称が使い分けられていない、妙に味わいのあるイタリア語で、メルセデスは少し寂しそうに付け加えました。

暗がりの中、淹れたばかりのコーヒー片手に、楕円形の食卓から二人でテラスを眺めていて、張りつめた夜明けの冷気に震えながら、椿の花が一輪、鮮やかな朱を光らせていました。「今年初めて咲いた花よ」メルセデスが思わず声を上げると、その椿の枝に、ツグミが一羽留まりました。
「スイスに住んでいた頃は、よくこうやって枝に餌をぶら下げてね、小鳥が遊びに来るのを楽しみにしていたのよ。そうすると、傍らの小枝に、色々な鳥が順番に列を作って待っているの。先ず一番図体の大きいものから、なんて鳥にもちゃんと決まりがあるのね。面白いものよ」
気がつくと、燃えるような朝日が、食卓を紅に染めていました。

或る時、運河にへばりついたルトヴィコ・モーロ通りのクラブで、ニューヨーク留学時代の話をしてくれたことがあります。
「すごく楽しかったけれど、途轍もなく辛かったわ。互いに蹴落としあう世界でね。すごいストレスだった。大変。それでも、大学での研究生活を終えて数年、ニューヨークの病院で癌患者を診ていたの。でも医者に向く性格とそうでない性格があってね、自分は明らかに後者なのだと、数年勤めて漸く分かったわ。若かったし本当に一所懸命癌と闘っていて、患者に対してつい情が移り過ぎてしまうのよ。しまいには皆と親友のようになってしまってね。でも、2、30年前の癌治療は今とは比較にならないレヴェルだったから、どんなに頑張っても患者さんは次々に死んでしまってね。結局それを受け止められなかったの。そうして悩んだ末、自分は病院での実践には向いていないって分かったのよ」

暫く互いに黙って、クラブから見える外の風景を何となしに目で追いながら、死と対峙する人の姿に、時として深い感動を覚えることすらある、そう言葉を続けました。

「数年前、ウルグアイで兄弟同様に育った友達が、癌で亡くなってしまったの。子供の頃、彼とよく遊んだモンテヴィデオの海岸があって、大人になってあの街を離れてからも、モンテヴィデオに帰る度、その海岸で彼と散歩したものよ。海辺を散策している間に奥さんがご飯を作ってくれていて、家に戻ると、いつも皆で楽しく会食したわ。彼が死んだ時、奥さんがとても素敵なことをしたの。荼毘にふして、彼が愛したその海岸に振りまいたのよ。今でもモンテヴィデオに戻る度にその海岸を訪れるけれど、まるで彼がすぐ傍で微笑んでいるような気がするわ」
死とは結局何なのかしらね。心臓が停止しても、細胞は生き続けるわけだし、その後に朽ち果てて、最後に残った骨の、細胞の最後の一つが分解しきるまで、完全に死んでいるとも言えないかも知れないし。

「癌に投与する薬は、全て毒なの」
コーヒーを片手にメルセデスの話は続きます。
「その毒で癌細胞を殺すわけだから、毒である事には違いないのよ。だから、その毒が他の正常の機能をどこまで破壊するか、バロメータを知らなければいけない。私の仕事は、限界を知ることから始まるの」
新しい薬品を試験するにあたり、モルモットに薬品を投与しないグループ、少量投与するグループ、大量に投与するグループと幾つかのカテゴリーに分けるとするなら、この試験では、大量に投薬したモルモットが全て死ななければ、試験は失敗なのだそうです。

「動物実験は本当に残酷なものよ。モルモットが終了すると、今後は大型ネズミ。そうして猫や犬、猿などで実験を繰返してゆくのだから」
でも、肉を食べるのも一緒だとメルセデスは言います。自分がどれだけ動物実験の恩恵に与っているのか、よく考えれば誰もがぞっとするに違いありません。ただ、動物に苦痛を与えるのは想像以上に酷いことだから、愛護団体の一部が提案するように、一定以上の苦痛に及んでは安楽死を勧めるべきだ、と付け加えました。美味しい美味しいと肉を食べて、熱が出れば抗生物質で治したりしながら、動物実験に安易に反対するのは、やはり偽善だと思う。そう言って、メルセデスはかすかに唇を噛みました。

生と死を繋ぐ距離は、こうした科学者たちの飽くなき探究心によって、いよいよ表裏一体化してゆきます。メルセデスは、産まれる(born)という言葉と、生きる(live)という言葉を、慎重に使い分けて説明してくれました。
「この世に生まれる瞬間は、誰でも認識出来るのよ。子供が母体から産み落とされた瞬間が、この世に産まれた瞬間として認められるわけだから。占星術も同じでしょう。でもね、命が宿る瞬間に関しては、宗教家は卵子が受精した瞬間だと規程しているのね。だからこそ、これだけ大きな論争が巻起こるの。受精卵がどれだけ計り知れない可能性を秘めているか、想像も出来ないでしょう。あの受精卵から、顔や手足が作られ、内臓が作られ、脳が作られるのよ。これがどれだけ凄い事だか分かるかしら。つまり、脳挫傷の人のために、受精卵から脳を作って補ってあげる事も出来れば、手足を失った人に手足を作って上げることも出来る筈なの」

「実は、人工授精する場合、受精させる卵子は一つではないの。例えば10個の卵子を受精させて、その内の一つを母体に着床させるわけね。とても10個の受精卵を全て母体に取り込むことは出来ないでしょう。ならば残りの9つの受精卵をどうするか。早々に捨てるわけにもいかないわよね、もう受精してしまっているのだから」
私が謂わんとしていること、分かるわよね。少し顔を強ばらせながら、彼女は口をつぐみました。

人は、命の生まれる瞬間も、死ぬ瞬間も分からない。結局一人きりで命を授かり、一人きりで朽ちてゆく。それが生命の神秘なんだと思うわ。

(2月28日ミラノにて)



船を買う──翠の虱(5)   藤井貞和




辺野古岬に船を買おう。
抗議船の白を、
羽ねで増やすために。
  きよら辺野古岬に
  いくさ基地ないらん
  うみんちゅのこころ
  船よ守(まぼ)ら


ちいさなリズムの船を買おう。
辺野古岬の、
じゅごんの生存のために。
  八、八、八、六の
  琉歌わき起こり
  海の守り神
  ざんよ遊(あす)ば


海上で、
咲く花のために、
うたの巻き踊りのために。
  うみんちゅの旗や
  抗議の三百日
  なみの巻き踊り
  ぬち(命)どぅたから



(高良勉さんが私の「ふねを買おう」《「人間のシンポジウム|9」『現代詩手帖』連載》から、いいですねー、と引用してくれた部分を、独立させてそれに8886を配しました。1月26日、島根のひとが、山陰放送ラジオの音楽番組へ、うたのリクエストを送ったら、紹介されたそうです。曲はビギンの「島ん人ぬ宝」、メッセージは「沖縄の辺野古海岸で去年の春からずっと毎日座り込みをして米軍基地建設を止めている皆さんとそれを支えている全国の皆さんへ」。こんなこともできるんですね! と勉さんへの便りにあったそうです。2月7日(月)の沖縄タイムス、琉球新報の一面トップに「辺野古移設見直しを検討」と載りました。購入した船は「うるま丸」と名づけられ、きっと活躍中でしょう。)



gertrude――肖像   高橋悠治




四谷ステュディウムで昨年ガートルード・スタインのオペラをきっかけとするワークショップをやった その時スタインの演劇をよみながら書きつけたメモや 拾い上げたことばの辞書の定義をまぜあわせた詩のようなものを日本語と英語で作り 朗読と音響を即興的に組み合わせるダブパフォーマンスのコンピューター・プログラムを書いた 以下はそのテクストの日本語の部分



あそぶ こねこ あそぶ こども 
ちいさなものたちの うごきまわる ひろがりとゆとり 
ひろすぎはしない おおきくもない 
すみずみまで みとおせる あいだのくうかん 
ほそいせんのはしり とぎれてまたつづく 
さぐりながら ぶつかりながら もつれながら 
うえしたに ならんだれつが ひだりからみぎへ 
うごいていく くさりのように あとさきになって 


ことばの こどもたち ありふれた からだ 
いつでも はじめられる 
くりかえし くちずさみながら うつりかわる 
こえとこえの おりかさなる たきのながれ 
めぐり ひろがる まいにちの わ 
ためらう かいだんの なみ また なみ 


じゅずだまの き ありの は 
ゆったりものがたる ぎょうれつ 
しゃしんのない じゅんじょ 
つくりものの かげ そこ ここに 
あさのひかりの おもさのない うごき 
かみにおしつけられた かんかくのきょり 
はなしている みをかわしている 
くろいしみにおおわれていく しろいくうかん 
めくり めくらみ つつまれる 
ほんのなかの ふうけい 



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