2005年12月 目次


装身具、あるいは歳月(さいげつ)──緑の虱(14)  藤井貞和
冬のかき氷作戦                    佐藤真紀
デュオから大雪へ                   御喜美江
製本、かい摘まみましては(13)           四釜裕子
アジアのごはん(6)塩いろいろ           森下ヒバリ
循環だより                      小泉英政
男性群像の魅力                    冨岡三智
しもた屋之噺(48)                 杉山洋一
2005年の経験                   高橋悠治





装身具、あるいは歳月(さいげつ)──緑の虱(14)  藤井貞和




おぼえていますか? (おぼえてますか?)
とどけてください。 (とどけてね。)
この世から、
この世でない世界へつらぬく、こうがい(=笄)。


おぼえていますか、まだ生まれてこない子供の泣き声が、
あなたをこの世につれもどしたのです。
思い出の半分はこの世でない世界のことでした。
あなたをお見舞いに行ったのは、まどろむような夏の日のことです。


この世から、
この世でない世界へ、
銀のゆびわを送ります。
あの世の人をさぐるゆびのために。


あの世の人の胸にさげられる、まがたま(=勾玉)、
(奈良県田原本町、鍵/唐子(からこ)遺跡から出てきた、
鈴石〈すずいし〉のなかにしまわれていた、勾玉。
もちろんそれをまねて、私の作り物ですよ──)
ひすいのかんざし。


きんいろの髪をくしけずったあとの、ドライヤー。
オーデコロン、ふりかけてふりかけて、
いとしい人をこちらへふりかえらせる。


さいげつは装身具です。
あなたを見かけた夜空のしたで、
自転車が私を正面からおそった、そのライトはあなた。


としつきは装身具です。
鉄のかたまり、(鈴石は生駒山産の褐鉄鉱なのです、
なかが空洞になっていて、その)なかであなたは、
さいげつをくらしました。 さいげつはゆめをあたためて、
二千年という、時間を越えてきました。


さいげつよ、出てきたい? (鈴石に訊〈き〉く。)
訊いてみて。 出てきたい? 
さいげつさん、出ておいで!
はずかしがらないで、出ておいで! (出て来い! おい!)


ライトのなかに浮かび上がる、
あんたのからだよ、出てきなさい!


ぶらさげられたペンダントとして、
しばらくは、
 しばらくは、
この世にとどまっていてください!  さいげつよ。



(鈴石は丸くてなかが空洞で、振ると音をたてる。江戸時代には薬にもなって珍重されたそうです。半分に割れてしまったのを使って、弥生時代〈邪馬台国時代かもしれない〉のだれかが、なかに勾玉や土器の破片をいれて、たいせつにしまったのでしょう。子供ではなかったかと思います。その鈴石にそっくりの一塊を〈鉱物蒐集そして販売の〉後藤慎介さんから手にいれ、勾玉は印度産。それらをくみあわせたレプリカに耳を当てて、〈歳月〉を引っ張りだそうとしました。小千谷市真人〈まっと〉小学校で11月24日、朗読。その前夜、長岡市のホテルで急きょ改ざんしました。もとは詩集『日本の詩はどこにあるか』〈砂子屋書房、1982〉にあった作品。)




冬のかき氷作戦  佐藤真紀





要冷蔵の抗がん剤をアンマンからバグダッドの病院に送り込む。そのために、私は、寒くなり始めた11月、アイスボックス2個の中に薬を詰めて成田を飛び立った。しかし、アンマンで自爆テロがあったという知らせが入る。日本では大げさな報道。「日本NGOも衝撃」という朝日新聞の見出し。これで、私たちの作戦は確実にやりにくくなった。普通に歩いていてもアンマンにいるだけで「無謀だ」というレッテルが貼られてしまう。しかし、イラクでは子どもたちが薬を待っている。

12月にはイラクで選挙があるから、混乱は避けられない。その前に、できるだけ多くの薬を送り込もうというのがこの作戦だ。

西村陽子もヨルダンには93年からかかわっている。こういうときには実に頼りになる。運送会社のアブ・マーゼンに電話をすると、「国境は開いている。時間がかかるが薬は確実に届く。ただし要冷蔵はだめ」というのだ。「この時期、寒くなってきているから、道端に氷など売っていない。車がスタックしても氷を途中で補給できない」という理由だ。この季節だと保冷剤は、48時間は持つだろう。与えられた時間は48時間だ。

ともかく、名前を作戦につけなければいけない。隣で一生懸命薬の値段を計算している西村陽子の隣で私はひたすら、砂漠の狐とか、限りなき正義とかそういうアホらしい名前を考えていた。
「寒いから氷が手に入らない。このジレンマというかアイロニーというか、アンビバレンツというかデカダンをどう表現するかだ」
そこで、西村陽子が、「冬の、つまりはかき氷というわけですね」という。「冬のかき氷」作戦という名前はなんだかアホらしくて、米軍にも対抗できそうである。

名前が決まれば行動も早い。直ちに薬を集めにかかる。薬局の親父は、今回のテロの主犯と見られるザルカウィのふるさとザルカまで危険を冒して取りにいくという。テロの実行犯はイラク人だが、イラクの子どもたちのためにヨルダンの薬屋の親父ががんばっている。テロに屈せずイラクの子どもを助けようと走り回る、薬屋の親父にも泣けてくるのである。

11月18日、作戦決行の日がやってきた。モスクの礼拝が終わるとアンマン市街には、2万5000人がテロを非難するデモに参加した。一方イラクでは、バグダッドの内務省ビルの近くと、私もよく泊まっていたホテルで自爆攻撃が発生、北部のイラン国境に近い町ハナキンでは2つのシーア派モスクを狙った自爆攻撃により70名以上が死亡したというニュースが流れる。テレビを見ながら薬の梱包を行っている西村陽子は不安を隠せない。

20:30 予定通りアブ・マーゼンが薬を取りにやってきた。

21:00 オペレーションの打ち合わせを終えると薬を持ってアブマーゼンが去っていく。後は祈るしかないと思い、西村陽子と一緒に祈っていると、アブ・マーゼンから連絡が入る。ドライバーが警察に拘束されたというのだ。イラク人というだけで、拘束されてしまう。

21:45オペレーション中止を決定。アブマーゼンから薬を受け取ろうとした瞬間電話が入り、ドライバーが開放されたという。あわてて、アブマーゼンは車に戻るとエンジンをかけて、イラクへ向かうドライバーを追いかけた。何とか作戦は決行されたのである。

西村陽子は、薬がつくまで、コーヒーを飲まないという。イブラヒムもイラクティーをやめるという。しかしイブラヒムはかわりに「ジャパニーズ・コーヒーを入れてくれ」としつこい。西村陽子がコーヒー断ちをしているのにお構いなしなのである。
「忙しいから後にしてくれ」と軽くあしらった。
「イブラヒム、今のみたい」
「イブラヒム君、邪魔しないでくれたまえ」
イブラヒムはディスターブの意味がわからず、辞書を調べだした。
「ディスターブ=邪魔!、おお、イブラヒム、世間の邪魔者?」といって落ち込んでしまった。

次の日、バグダッドから無事に薬がついたという連絡が入る。国境も問題なく24時間以内にバグダッドに届いたことになる。病院の医師の話では、中の温度も冷たかったという。作戦が成功したという知らせにJIM-NETのアンマン事務所は、喜びにみちあふれ、再びコーヒーの香りがぷんぷん漂い、ふてくされていたイブラヒムもイラク・ティーを入れてすっかり機嫌がなおったようだ。



冬のかき氷作戦は、現在も続いています。
詳しくは http://www.jim-net.net/の「アンマン便り」をご覧ください。



デュオから大雪へ  御喜美江





雪は昨夜から降り出し、夜中には豪雪となってしまった。デュッセルドルフ空港は現在閉鎖中とテレビのニュースが報道している。ドイツ連邦鉄道は乱れに乱れたダイアでかろうじて動いてはいるが、ケルンやデュッセルドルフの駅近くではホテルから公共施設まで、足止めをくった人々で溢れているそうだ。これもニュースで見た。尚、ここノルトライン・ウェストファーレン州はドイツで最も西に位置し、気候はドイツ国内において温暖なほう、雪はほとんど降らない。そういう地域に突然大雪が降ると、このように交通機関が完全マヒしてしまう。もしインスブルックとかアンカレッジの人々がこれを見たら、さぞかし滑稽に思うことだろう。

昨夜は私が教えているフォルクワング大学のクラス全員が参加する『クリスマス・コンサート』だった。といっても今回はまだ11月なので『アドヴェント・コンサート』というタイトル。午後2時にアパートを出ると、外には冷たい風が吹きまくっていた。そしてその冷たさが普段と何となく違った。それはまるで真横から氷のナイフで皮膚がスパッと切られる感じで思わずブルッと震え上がってしまい「夜になってどうか降りませんように〜」と祈りながらデュイスブルクまで電車でむかった。

20時から始まったコンサートは、天気予報がすでに雪を予報していたのでいつもよりずっと少なめのお客さん。それで客席は空いた赤いシートがかなり目立ったが、友人知人より全然知らない人が多かったことが、ちょっと意外だった。学生たちは無事に全員来ていたから定時にスタートして、この日はそれぞれのソロが不思議なくらいいい演奏だったので素敵なコンサートとなった。

ところで12人全員が一晩のコンサートで演奏することは時間的に難しい。そこで第2部の最後に『デュオ・コーナー』というのを設けて、ここで2人ずつが組となって小品を演奏するというアイデアを数年前に思いついた。奏者たちは全員舞台上で半円形に座ってスタンバイしていて、演奏するデュオだけが正面前に進みお辞儀をして弾く。弾き終わったら立ち上がってお辞儀をしてひきさがる。このとき次のデュオが出てきて同じ拍手の中でお辞儀をして演奏する、というスタイル。だから出入り時間のロスは少ない。

客席からはずらっと並んで座っている奏者を眺めながら「あ〜、まだいるんだ、あの子」とか「あれはどうも新顔だな」とか「あらまあ、あの子ずいぶん太ったわね」とか「あの子の髪、何だか薄くなったみたい」とか、いろいろ観察できて結構面白いらしい。ただ問題は誰と誰が組むかで、これだけは毎年くじ引きで決めている。出来る限り男性&女性のデュオとなるように、くじ引きは作られる。『くじ引き・デュオ』は思いもよらぬコンビになることが多くて、毎年ちょっとドキドキしてしまう。

アコーディオン科は個人レッスンだから、同じクラスに在籍していてもお互いを知らないことが多い。またどうしてもレベルの違いで上下関係のようなものができてしまう。6学期生は1学期生に会う機会すらないこともある。さらに私のクラスは多国籍のため(現在は7カ国)ロシア人とユーゴスラビア人など、放って置いたら絶対に交流しない。そんなとき思いついたのがこの『くじ引きデュオ』。ここで知り合ってめでたく結婚したという例こそないが、でも横の関係はこれでずいぶん馴染んできたと思う。少なくともクラスメイトの名前はお互いにおぼえたし、ちょっとした会話も自然になった。アコーディオンのセオリーを教えている講師B先生も私も、もちろん参加する。2年前のコンサートで私のデュオ・パートナーとなったのは、当時クラスで一番下手で生意気で傲慢で、私からレッスンたびに厳しく叱られてばかりいるウクライナ人の男性生徒だった。だからくじ引きが“D君&M先生”と決めたとき、ただそれだけでクラスは盛り上がった。

私にとって新発見だったのは、目標に向かってただひたすら一直線のマイペース派、具体的に言うと数々のコンテストで優勝したり、すでにあちこちで演奏会をしているソリスト君たちも、このデュオを非常に面白がって、10月の新学期が始まると同時に「くじ引きはいつ?」と催促してくることだ。今年も思いがけない6つのデュオ・コンビが組まれた。

室内楽をするとき、私達は何かを理由に相手を決めるが、このようにくじ引きで相手を決めるのも悪くないと思う。もちろんスケジュールとかギャラとかレパートリーとか、素通りできないポイントはいくつかある。でも4歳でアコーディオンを習い始めたのも、私から見たら一つの偶然だったから、ある日あるところで見知らぬ人と偶然一緒に弾いてみるのも、意外と素晴らしいのではないか……なんて思ってしまう。

さて、コンサートが終わった頃、外はすでに大雪となっていた。となりの居酒屋シャハトの打ち上げ会で暖かい夕食をとり、ヴァイツェンビールを1リットル飲んで、夫と私は0時頃に駅へ向かったが、その頃はもう雪が30センチくらい積もっていて、強風のなか大荷物を持って歩くのの何と難しいこと! 靴もズボンもビショビショ。もちろん列車のダイアは滅茶苦茶だったから20分ほど待ってホームに入ってきた特急に乗ってしまいデュッセルドルフまで帰ってきた。切符の検査はこなかった。駅にタクシーは一台もおらず、見えるのは人の行列だけ。幸い市電が動いていたのでそれで何とか帰宅できたが、ドルトムント方面へ帰った学生たちは悲惨だったらしい。M君は4時半ごろやっと自宅近くまで辿り着いたものの、乗っていたタクシーが雪にはまってしまい、降りてタクシーを押す羽目に。尚、このM君は昨夜、私のデュオ・パートナーだった。ドボルザークのスラブ舞曲を一緒に弾いた。「昨日のコンサートは本当に楽しかった!」と元気な声で電話をくれたとき、私は本当にうれしかった。

(2005年11月26日 雪のデュッセルドルフにて)




製本、かい摘まみましては(13)  四釜裕子




ただでさえ書く字が大きいのに、ボールペンでも万年筆でも太字仕様が好きなので、京都のひとに手紙を書くのが億劫である。住所が長すぎ、漢字が多すぎ、しかも省略すると怒られそうだし。細いペンを使うと文字も小さく書けるので、世界で最も細い文字が書けるという三菱鉛筆のボールペン「ユニボールシグノビット」を買ってみた。先っぼの超硬合金製の球が直径0.18mmとのこと、たしかに細い。しかしやはり書きにくい。デザインもかわい過ぎる。

じつは先月旅先でその開発についての記事を雑誌で読んで、使ってみたかったのであった。チップの極小化と強度維持の技術もさることながら、紙面との摩擦にどう対応するかが困難であったという。紙には、その白さやコシを出したり裏映りを防ぐために、「填料(てんりょう)」が入れられている。製紙の過程でパルプ繊維を埋めるように投入されるもので、カオリンやタルク、炭酸カルシウムなどが使われている。その粒子が、硬合金の球を削ってしまうというのだ。

紙をつくる抄紙機には金網の部分があって、これが磨耗する原因のひとつに填料があることを、「ぷりんとぴあ」(日本印刷産業連合会)で読んだことがある。30年ほど前まで、日本で用いる填料のほとんどは花崗岩由来の白土で、石英の粒子が多く含まれていたらしい。それが磨耗の原因であることがわかり、その後は石英含有量の低い白土を使用するようになったということを、小宮英俊さんが書いていた。したがって現在は、より純度が高くて細かい粒子のものが用いられているに違いないのだが、シグノビットの球はあまりにも小さいということか。

填料の量が増えていることは、関係していないのだろうか。昨今増えたふっくらした質感の紙には、より多くの填料が含まれている。重量比で紙全体の最大三割を填料が占めるというから、語弊を恐れずに言えば、パルプのすきまを白い泥のようなもので埋めて平らにしているのが紙なのだ。ユニボールシグノビットの主たるターゲットである女子高生が使う手帳の多くも、このふっくら紙製である。

ふっくらした紙は嵩高紙と呼ばれていて、界面活性剤メーカーが開発した製紙用嵩高剤などによって、パルプをゆるやかにからませ仕上げている。これまた語弊を恐れずに言えば、パルプ繊維を洗濯用柔軟剤でふっくら仕上げしているようなもの。それによって紙に嵩が出て、たとえばページ数が少なくてもある程度の束が出るし、紙は重さで値段が決まるから、軽い紙ほど資材費としては安くあがる。出版業界からの要請で開発されたというのはうなずける。この種の紙の印刷面の平滑度はさらに上がっていて、モノクロ写真が光ってうるさく感じる紙もある。なにかに似ている。泥だんごか。

それにしても世の中なんでもナノナノだ。「10億分の1にまで極小化した必要成分が、お肌の奥まで浸透する」化粧品や、「細胞の100分の1の粒子サイズなので、口の中に含むだけで血液中に浸透する」水って、どうなんだろう。直接関係はないけれど、アスベストの被害がこれだけ出ていて、直径0.25μm以下長さ8μm以上の繊維性の鉱物と発がん性の関係を示す「Stanton-Pottの仮説」を素人耳に聞けば、とりあえずむやみやたらに小さきものに飛びつくのはやめようと思う。取り越し苦労ならそれでよい。買うひとがいると、商品はつくられてしまう。

アスベストでブレーキ用摩擦材をつくっていた会社が、のちに製紙業をはじめた話を聞いたことがある。製造する機械の一部が似ているらしい。不燃をうたった壁紙など、アスベストを含む製品を作っていた製紙会社ももちろんある。たとえば日本製紙グループのウェブサイトをみると、1971年から1987年まで生産していたアスベストを含む加工用原紙の概要と工場を公開し、退職者を含む従業員とその家族のために、専用窓口が設置されていた。

朝日新聞の「ののちゃんの自由研究 アスベスト危ないぞ!」(2005.11.9)によると、アスベストが日本でたくさん使われ始めたのは1960年代。エジプトのミイラを包む布に使われ、平賀源内がつくった「汚れだけを燃やしてとる布」にも使われたという「奇跡の鉱物」アスベストが、この時代の日本でどれだけイケイケで使われたか想像にかたくない。1975年には建物への吹き付けを、1995年には青と茶の石綿の使用が禁止されたが、1959年には欧州で、アスベストと中皮腫のかかわりが報告されていたという。国内の専門家はとうに知っていたことだろう。

ののちゃんの自由研究を読んだ翌日、紙屋に行った。あるコンサートのための特設ブログをまとめた小冊子の、表紙の紙を買うためだ。厖大な種類から一つを選ぶ。夢中になる。しかし実はここ数回、いつも同じ紙を選んでしまう。おいメーカーよ、もっといろんな紙をつくれないのか。一瞬よぎる。同じものにしか価値を見出せなくなっている自分をさておき。まあとにかく、四六判全紙(788×1091)をせいぜい数枚買うことが、こんなにも楽しい。紙づくりに関わるすべてのひとに悦びをいただいて、ありがたいと思う。




アジアのごはん(6) 塩いろいろ  森下ヒバリ




塩に目覚めたのは、16、7年前に行ったタイでのことである。市場で炒ったピーナツの小袋を買って友達とビールのつまみにぽりぽりと食べたていたときのことだ。「うーん、おいしい……」わたしはピーナツを見つめた。ピーナツは確かにおいしい。しかし、豆がおいしいだけではない。何か他の理由が……まさか塩? 小袋のピーナッツには、白い塩が混ぜてある。塩だけを指につけて舐めてみると、ほのかに甘ささえ感じる深い滋味があった。塩がこんなにおいしいものだとは。

子供の頃は塩といえば専売公社の塩化ナトリウムしかなく、塩はただ、塩辛いだけのものであった。それにうまみ調味料を加えた味塩なんていうのもあったが。そのうち、赤穂の塩、とか伯方の塩とかいうのも出てきたが、たいして違いはなかった。しかし、子供の頃からそれがふつうだったので、塩がこんなにおいしいものだとは、まったく思いもしなかったのである。

タイで売られている塩は、ほとんどがタイ湾の塩田で作られる天日塩である。タイ北部には岩塩もあるが、どんな町の市場でもたいがいタイ湾の天日塩を売っている。100グラム入りの小さな袋に入った塩は1〜2バーツ。バンコクから西海岸沿いに南に下がってペブリ方向に1時間半ほどいくと、道路の両側に塩田が広がる。塩田には塩が積み上げられ、道端には塩の直売ブースが幾つもある。

バンコクの市場で売っている塩も、同じこの塩田地帯の天日塩なのだが、なぜか道端で直売している塩の方が格段においしい。だから、友人の車などでこのあたりを通りかかることがあると、必ず「止めてええ〜」と叫んで重い塩を買い込むことになる。タイ湾の東海岸沿いにも塩田はあるが、そちらの塩田の塩はいまひとつ。東海岸は工業地帯があり、工業用水が排出されてあまり海の水がよくないのだろう。

タイの塩のおいしさは、タイ料理のおいしさを支える屋台骨である。魚醤ナムプラーもこのおいしい塩がたっぷり使われているからこその味である。かつて日本で政府が塩を専売制にして天日塩の産業を滅ぼし、技術を消滅させ、家庭の食卓の塩を塩化ナトリウムに置き換えたのはとんでもない犯罪ではないか。最近やっと、自然塩が日本でも不自由なく買えるようになってきた。でもまだ今のところ日本の自然塩で、これはすごくおいしい、と思うのには出会っていない。伊豆大島の「海の精」は有名だが、ちょっと味がそっけないように感じる。日本の海の味なのかな。

塩の味はそれぞれ産地や製法で微妙に異なるので、タイだけでなく、いろいろな国を旅するごとに、その土地の、その海の塩を探すのが楽しい。ラオスと雲南省の国境近くの市場で買った塩は白い岩塩で、そうかこのあたりは海から遠いので岩塩を使っているのか、と地図をよく見ると近くに「塩井」という地名があった。調べてみると、この岩塩は井戸からくみ出した塩水を煮詰めて作るもので、かつてはお茶の葉とともに馬の背に乗せて運び、ラオスやタイの北部あたりまで売りにでかけていたということが分かったりする。

初めて行った外国は南米のペルーで、首都のリマで知り合った人類学者とカメラマンの人と一緒に車でチチカカ湖近くの村を目指していたときのこと。アンデスの山を越える道は四千メートルを越えていたが、そこに塩の湖があった。湖といっても、塩水で、しかも塩は固まり、水はほとんど見えない。まるで氷のように塩が湖の表面を覆っていた。塩の上に踏み出し、指でさわって舐めてみると、たしかに塩辛い。リャマの背中に塩を積んで、インディオが運び出している。高山病になりかけでぼおっとしながら見た幻想のような景色。リャマの飾りの毛糸のポンポンが赤やピンクや緑でとても可愛らしかったのを憶えている。しかし、その頃はまだ塩に目覚めていなかったので、その塩をほんのひとかけらも持ち帰らなかった。一面の岩塩を目の前にして……。今現在のわたしなら間違いなく袋に詰め込めるだけ詰め込み、友人のカバンにさえも押し込むな。

岩塩といえば、バングラデシュに行ったときマイメイシンという町の市場で探してみた。マイメイシンという町は、特に何があるわけでもない。喧騒のダッカからバスで2時間ほど北にあるふつうの町である。バングラは外国人が訪れることが少ない国なので、外国人はものすごく目立つ。いつも見られているし、立ち止まって何かしていると、気が付いたら必ず人垣が出来ているほどだ。敬虔なイスラム国で、女性は99.9パーセント、サリー姿かサロワカミューズという民族衣装姿で歩いている。

サロワカミューズは丈の長いブラウスにズボン、ショールの三点で構成される。ジーンズにTシャツ姿などで町を歩こうものなら、目立つだけでなく、太ももや股の形が分かる服など、下着姿で歩いているようなインパクトをバングラ男に与えてしまうのだ。というわけで、バングラではサロワカミューズをきちっと着て歩いていた。サロワカミューズは首に巻くショールがとても暑い。はずそうとしたら、バングラ人の友人に強くたしなめられた。仕方がないので、暑いのを我慢して着ていたが、慣れてくるとちょっとコスプレみたいで楽しくもある。アーロンというNGOのハンドクラフトショップを見つけて、すてきなサロワカミューズを手に入れてからはいっそう楽しい。いや、服の話じゃなくて、塩の話でした。

マイメイシンの市場は町の大きさの割に大きく、奥が深かった。スパイスを買ったりしながら岩塩を探したが、見つからない。ずっと後を付いてきていた子どもたちが、何が欲しいの? と聞くので、ベンガル語でなんとか「ビットロボン(岩塩)」と言うと通じて、子どもたちが店に行って尋ねてくれる。何軒目かでやっと、店主が首を横に傾けて、あるよという素振りをした。店主の男は、英語で「日本に働きに行っていたことがある、サイタマだ」と言いにっこり笑った。そして、下の方の箱からごそごそと取り出してきたのが、美しい赤紫の塊の岩塩であった。大地から削り取ってきたままの、荒々しい塊である。ちょっと土も付いている。パウダー状の物しか見たことがなかったので、ちょっと驚いた。

店主は直径3〜4センチくらいの塊を3個ほど紙に包んでわたしに差し出した。「あ、もっとたくさん欲しいんだけど」「いや、これだけしかだめだよ」へ、なぜ? そんなに貴重品なの? 値段を聞くと、「プレゼント」とにっこり。「え、あ、ありがとう!」とても嬉しかったが、ほんとうは友達のお土産にたくさん買いたかったのだ。この美しい赤紫の岩塩の塊を見たら喜ぶであろう友人たちの顔を思い浮かべつつ、複雑な気持ちで店を後にした。子どもたちは「よかったねえ!」と満足げな顔で付いてきているし、いつの間にか、後にはたくさんの人が集まってこっちを見ている。この状況で他の店に入ってまた「ビットロボン」と言おうものなら、この人は岩塩をまたタダでもらおうとしている! と思われるに決まっている。わたしはこの町で岩塩を買うことをあきらめた。

日本でもパウダー状のネパール産の岩塩、ブラックソルトを売っていたので買ってみた。精製していない、天然の味ということで、舐めてみるとものすごい硫黄の味がする。まるで茹で過ぎたゆで卵の味そのものではないか。ちょっと料理には向かないので、しばらく置いてあったのだが、この間ふと思いついてお風呂に小さじ一杯ほど入れてみた。塩素を中和しようと考えたのだ。すると、お湯はとろりとまろやかになり、まるで温泉に入っているように気持ちがいい。う〜ん、極楽。なるほど、岩塩は温泉成分そのものかもしれない。ネパール岩塩温泉が、最近の我が家の定番お風呂である。




循環だより 皮がおいしい  小泉英政





秋から冬にかけて、子供のころ食べたおやつと言えば、じゃが芋がかぼちゃだった。熱っ熱っで粉のふいた田舎のじゃが芋やかぼちゃはおいしかった。

新じゃがをバケツの中にごろごろ入れる。そして水をひたひたに入れ、素足で足踏みすると、バケツのなかで芋がすり合わさって泥やうす皮がむける。バケツのなかに両足が入る子供の仕事だった。水があまり多くては、バケツの中で芋が遊んで皮がうまくむけないもので、水加減がかんじんだった。きれいに水洗いするとつるんつるんの新じゃがが光っている。塩をひとつまみ入れ、ゆであげると、かすかに音をたてて、芋の表皮に亀裂が入る。湯気がもうもう、指でさわれるかさわれないかのを、口のなかでハフハフ言わせながらいただく。皮なんてむかない。皮があるから、かろうじて芋が球体を保っているようで、それほど北海道のジャガイモはホクホクだった。

南瓜は手のひらが黄色くなるほどよく食べた。時に好きだったのは皮の部分で、そのなかでも表面の薄皮のあたりがなんとも言えなかった。甘い南瓜には白菜の漬け物などがよく合って、相互作用でどちらも止まらなくなってしまう。そして熱いお茶、貧しいなどという実感はどこにもなかった。冷めた南瓜はストーブの上にのせてこんがりと焼く。これがまた最高においしい。大好きな皮が少しこげて、さらに焼くことで南瓜の香りも際だって、絶品だった。

三里塚に住むようになって、おいしいものにはたくさん出会ったが、おっぺし芋にはおどろいた。出荷作業ではねられた里芋の小芋を、皮ごとゆでて、ざるにあげ、湯気の立つのがどさっとお茶の時間に出てくる。頭の皮を少しむき、小皿のおしょうゆをちょっとつけ、口に運び、手に持った皮を少し押すと、つるんと芋が皮からすべり抜けて口のなかに入り、手元に皮が残る。しょうゆ味のぬるりとした里芋の味が後を引いて、たまらなかった。おっぺし芋とは方言で、つまりはきぬかつぎのこと、そして今までの話は、土垂のきぬかつぎのことだ。

ぼくがこのごろはまっているのは、唐の芋、あるいは八ツ頭の子芋、ホクホク系のきぬかつぎだ。ぬるりと皮からすべることはないので、手で皮を全てむいてから、おしょうゆでも少しつけて、熱っ熱っをいただく。これがいい。さらにもうひとつ手をかけると冬の夜のおいしい酒のさかなになる。それはある日、たまたま冷めた八つ子(八つ頭の子芋)のきぬかつぎをストーブにのせて焼いたことからやみつきになったものだ。

料理の世界では焼ききぬかつぎと呼ぶそうだが、そんなことは知らないで、子供時代、冷めた南瓜をストーブで焼いたように、八つ子のきぬかつぎを焼いてみた。八つ子の皮が火にあぶられて香ばしい。皮は焼けると身にくっついてむけにくい。皮ごと食べちゃおうと、ちょっとしょうゆをつけてかじったら、これがうまい。あのゆでた時の皮のモサモサ感が全くなく、張りがあってパリッとしていて、きぬかつぎのおいしさを一段と高めているのだ。

皮にいろいろ栄養があると言われる。たとえ栄養があっても美味でないとつまらない。さと芋の皮にどんな栄養があるのか知らないが、里芋の皮のおいしさを見つけて、それだけでうれしいのだ。




男性群像の魅力  冨岡三智




先日能の「安宅」を見ていて、男性ばかりがぞろぞろと出てくる能なんだなあとあらためて気がついた。たぶん平均的な観客として私は、能といえば、死者の亡霊や化身が出てきて昔を今に語る、いわゆる夢幻能が好きである。さらに面をつけた優美な女性が登場して舞うような能の方が、やはり見ていて美しい。というわけで、今まで安宅のような現在能(現実の世界を描く能)でかつ面をつけない壮年の男性が出てくる演目には食指が動かなかった。それに、勧進帳の話ならば歌舞伎の演出の方がきっと面白い、という先入観もあった。文楽やテレビの時代劇の勧進帳のシーンも、能ではなく歌舞伎を基にしているようである。これらでは弁慶を中心にして、弁慶と富樫、弁慶と義経というヒーロー同士の対決・葛藤にスポットが当てられ、3者の個性の違いがクローズアップされる。ヒーローに感情移入して舞台を見る観客としては、こんな風に物語が集約されるのはまことに都合が良い。その代わり、他にいるはずの山伏の存在は省略されるかほとんど描かれない。

それが「安宅」では一行として弁慶と義経(子役が務める)以外に9人の男性(同山)が登場する。一行が最初舞台に登場し、2列に立って全員正面を向いたり互いに向き合ったりして謡う場面では、その嵩高さと密度、全員の声の厚みに圧倒される。そういえばこれだけの人数が能舞台に載るような演目は見たことがなかった。またその後弁慶が舞台中央に位置し、同山達が舞台に一重に弧を描くように座る時に、一端観客に背を向けたあと端から順に1人ずつ正面に向き直るシーン、また山伏一行が通行を許され弁慶を先頭に急ぎ足で舞台から橋掛かりまで移動するシーン、それが義経が止められたために弁慶以下が舞台に引き返し富樫に迫るシーンなどは、まさに息を呑む勢いとスピードと迫力で展開される。ここでは主役・弁慶とその背景を成すその他大勢という構図ではなくて、巨大なエネルギーの総体が弁慶という人格に具現化されたような感がある。弁慶はそのうごめくエネルギーに突き動かされている。私には弁慶も同山も現実の人間とは見えないのだ。台本が書かれた時点での意図はともかく、能における弁慶は、歌舞伎なんかで描かれるような人間ばなれした人間のヒーローではなくて、人間を超えた存在になっていると思う。もっともそれはシテに表現力があるからこそ可能なのだが。

ここでふと、ジャワで男性によるブドヨを見た時のことを思い出す。ブドヨとは女性9人が同じ衣装を着て同じ振付を舞う宮廷舞踊のことだが、ジョグジャカルタ宮廷ではかつて男性がブドヨを舞っていたことがあるといい、それを再現してみる公演があったのである。この時は踊り手の男性は皆女装していたのだが、その時につくづく、同じ衣装で9人並ぶのでも、女性9人と男性9人とでは印象がかなり異なると痛感した。私はブドヨを見ながらも実は、昔見た「八甲田山」という映画の雪中行軍のシーンを思い出していた。女性なら舞台を滑るように移動すると見えるところが、男性だと行軍に見えてしまう。女性群舞が展開されている時は空間は水平にも垂直にも広がりが感じられるのに、男性群舞だと空間が詰まって息苦しく感じられる。

またボリショイ・バレエ(ソ連時代)の作品で「スパルタクス」というのがあった。細かい点は忘れたが、男性群舞が中心になった作品だったと覚えている。見た当時は子供心に男ばっかりで息が詰まりそうだと思ったが、今になるともう一度見てみたい気がする。

こういう嵩高さ、圧迫感は成人男性ならではの魅力だ。それが群舞になると増幅される。量は質に転化する。見目麗しい女性や美少年らによる群舞では、こういう重たい充満した運動エネルギーを表現することは無理だ。ただ舞踊では華やかさの方が受けるのも事実で、観客の方にもある程度の鑑賞歴がないと、男性群舞はむさ苦しくて暑苦しいだけと思ってしまうように思う。私も男性の群舞が面白いと思えるようになったのは最近のことである。




しもた屋之噺(48)  杉山洋一




朝起きて玄関を開けると、空から一面びっしりと沈みこむような雪が降っていて、まるでスローモーション映像のようです。雪の重みか、重力の神秘か、眺める自分までが地面に沈みこむ錯覚に陥りました。

10月末日、ベルナスコーニの指揮するオネゲルの「ダヴィデ王」を聴きにルガーノに出かけ、聴きながら涙が溢れてきました。中学、高校の頃、レコードが擦り切れそうになるほど聴いた、懐かしい日々の記憶が目の前に鮮やかに甦り、大波となって押し寄せてきたのです。殆ど20年ぶりに聴くオネゲルの何かが、築いてきた時間の壁を、音を立てて崩し、打ちのめしてゆきました。

その数日後、一年ぶりのマントヴァのビビエーナ劇場は、相変わらず優雅な貴婦人の佇まいで出迎えてくれました。劇場前の辻を下ったところの酒舗で、名物のマントヴァ牛とカボチャに舌鼓を打ってから、ペッソンの「カッサシオン」を初めて舞台に載せてみると、ペッソンと古都マントヴァの凛とした品の良さが、具合よく調和するのです。多少舌が肥えた人間の方が、厳ついメガネの奥で微笑むペッソンの雰囲気が伝えられるかも知れません。特に「カッサシオン」は、ラッヘンマンの「アレグロ・ソステヌート」と多くの共通項がありますが、「カッサシオン」という題名の通り(「音の愉しみ」程度の意味でつけたらしい)、真面目な音がすると詰らなくなってしまいます。逆に、享楽的な質感で「アレグロ・ソステヌート」を演奏したら、息が短くなって間が持たなくなるに違いありません。

ともかく、それから間もなくして、ロンドンから藤倉大くんがミラノにやって来ました。昨年12月のベルリンでの仕事来一年ぶりの再会でしたが、空港のシャトルバスを中央駅脇で待っていると、刻一刻「なかなか着きません」「ノーノ通りを抜けました」とショートメールを打ってくれるのが、せっかちで生真面目な彼らしいところです。ヴィデオのプロジェクターやスクリーンなどの大荷物を抱えて、クレモナ行の列車に揺られながら、彼の愉快な話は尽きません。特に師匠ジョージ・ベンジャミンの物真似は傑作で、腹を抱えて笑いました。翌日ボローニャでパリから駆けつけた望月みさと嬢が加わると、一同すぐに意気投合して、昔からの友達に話が弾みました。二人揃って料理とワインが好きでしたから、イタリアのロケーションもおあつらえ向きだったに違いありません。みさと嬢と大くんが、イタリア人演奏家は何故こんなに静かで酒もやらないのか訝しがれば、彼らも日本人はこんなに豪傑だったかと不思議そうに眺めていました。

ボローニャでは、みさと嬢の作品に登場する“0.4ミリ針金のブラシ”の指定を、ピアノのアルフォンソが普通のブラシで代用していたので、急遽金物屋で針金を購入し、アルフォンソの恋愛話に相槌を打ちつつ、ホテルの部屋で一本また一本と束ねてブラシを作りました。ボローニャは街が大き過ぎず、全てに細かな配慮が行き届いている気がします。街で会う人から、学校や博物館の一人一人に至るまで、揃ってにこやかなに接してくれるのが嬉しかったです。

翌朝、特急でローマに着き、テルミニ駅でスナップ写真を撮ると、みさと嬢と大くんは、すっかり姉弟よろしく収まっています。作曲家同士こんなに呆気らかんと付合えるのも珍しいケースかも知れません。大くんの作品のヴィデオの作者、ロンドン在住の画家の山口智也さんが夜半に合流して、夜更けまでホテルのロビーで話しこみました。ボローニャで大くんは妙齢に盛んに人気を博していてね、などと話すと、素直に照れるあたりがご愛嬌です。

その夜、泊まっていたフラミーニョ地区で珍しく竜巻が起こり、街路樹が軒並みなぎ倒されたとかで、翌朝の打ち合わせには、テーヴェレ川沿いを歩いて出かけました。午後は作曲のニコラ・サーニに、テーヴェレのほとりの豪奢な外務省クラブに連れてゆかれ、少々驚きました。ヴィスコンティ映画もどきの華麗な装飾のプールやテニスコートが並ぶなか、胸にタイを挿した紳士が連れ立って、平日の昼間から優雅に時間を費やしているのですから。イタリアはどこまでも不思議な国です。その日の夜の演奏会も無事に終わり、ビール片手に朝の5時まで、今度はどこで集まろうかと他愛もない話で盛り上がり、めでたく幕引きとなりました。

それから三日ほどミラノで過ごす間に、オスローから来たPoingのベース奏者、ホーコンとミラノのガレリア界隈を徘徊し、スカラ座前でなぜかホーコンに記念撮影をして貰って、週末朝一番の特急でボローニャに戻りました。先週とは打って変わり、シェルシ、ロミテッリ、グリゼイらスペクトル楽派を取り上げたプログラムで、半年ぶりのボローニャの仲間とも、すぐに楽しく仕事が始められました。練習が終わると、毎晩誰かが家に招いてくれて楽しく過ごしたのですが、ある晩ヴィオラのYさんと連れ立ってポルティコと呼ばれるアーケードを歩いていると、あらゆるクリスマス用品を集めた屋台が何十メートルと連なり、年末らしい美しいイルミネーションと相俟って、賑々しい雰囲気を醸し出していました。焼栗を頬張りつつワイン片手にヴァイオリンのヴァレンティーノと話し込んだとき、同席していた画家のMさんがこう言いました。
「人生ってガラスで出来た巨大なロボットみたいな感じがするの。透明なガラスだけど、赤や青の色が付いていたりしてとっても奇麗なのよ。そのガラスの身体をあちこちにぶつけながら走ってゆくの。身体のパーツが少しずつ削れて崩れているのだけど、それにも構わず、走り続けるのよ」。

本番の朝、厭々ながらラジオのインタヴューまで受け、演奏会は無事成功裡に終わりましたが、今回一つ気がついたことがあります。91年に書かれたファウスト・ロミテッリの「時間の砂」を、ボローニャの連中は、生前ファウストと一緒に演奏したことがあり、ただファウストは当時今回とは全く反対の、暴力的な演奏を欲していたと言うのです。弦のトレモロも方法も、出版譜に指示されているレガートではなく、全て弓を反すアグレッシブな質感で、殆どがフラジオレットで書かれている弦楽器のパートは、キーキー軋むだけで音らしい音にならなかったそうです。「時間の砂」はファウストのパリ修行時代の作品で、癌で亡くなる直前に書いていたロックやテクノの質感はどこにも見当たりません。繊細な和音や旋律の立ち昇る初初しさを敢えて無視するように、ファウスト自身が全く違う解釈を演奏者に要求していたのは(当時の健康状態を鑑みて)痛々しく、作品とファウストの儚さを思いました。暫く悩んだものの、結局今回は当初の姿のままの「時間の砂」を演奏しました。演奏者たちも作品が元来これ程美しかったと知りショックを受けていましたが、全員がこの方がずっと自然だと納得してくれました。

無事に本番を終えやれやれと外に出ると、「先生」と声をかけられました。偶然にもミラノの学校の指揮科の生徒が聴きに来ていて、「わたし、今日は午後ここでグリゼイとシェルシのコンフェレンスがあったんです。先生のお名前を見て、嬉しくて演奏会まで残っていたんですよ」。
悪いことは出来ないなあと内心頭を掻きつつ、先日、巨大な鯒を一尾丸々使ったリングイーネを用意してくれた「パランツァ」に慌ててしけこみました。演奏会が終わり、レイキャビクに帰るフルートのスルデゥールが、「またどこかできっと会いましょう。わたしは2月にニューヨークだから、クリスマスのニューヨークによろしくね。色々どうも有難う」、そう言って抱きしめてくれました。

翌日、ボローニャの街を駅に向かって歩いていました。出会った様々な人々に深く感謝しながらこの数週間を反芻していて、30分遅れのミラノ行特急に乗り込むと間もなく、ぐっすり眠り込みました。

(11月28日モンツァにて)



2005年の経験  高橋悠治




それぞれの時間と空間をもった二つ以上の音楽をおりこみながら一本の旋律線をあみあげ 鳥が餌をついばむようにそのあちこちのかけらから別な音楽をつむいでいくこと そこに引用され流用された断片をはりつけること 色とりどりの古布のパッチワーク 途中からはじまり中断される流れ ただよいながらにじみひろがるかたち うごきまわりつかまえることのできないちいさなむれ(黒テントと「ぴらんでっろ」)

二つ以上の言語が穴だらけの時間のなかで語りつぶやきとなえうたう 遠い声が耳もとでささやく 石を打ちあわせるかたいひびきがこまかくくずれて波になる(李静和と「あなたへ 島」)

物語 立ちどまりながらすこしずつうごく絵 音のうごきがえがく絵 きれぎれのことばのかたち(富山妙子とスライド)





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