2006年4月 目次


大切なわたしのともだち                小島希里
春くれば                        大野晋
しもた屋之噺(52)                 杉山洋一
日記より                       三橋圭介
帰巣――クーンラング――     スラチャイ・ジャンティマトン
アジアのごはん(9)尾頭付きナレズシ        森下ヒバリ
リカちゃんイラクへいく                佐藤真紀
ここ10年のインドネシアと日本(3)インターネット  冨岡三智
製本、かい摘まみましては(17)           四釜裕子
純金──緑の虱(18)                藤井貞和
身体と「社会的なるもの」の変化            石田秀実
PAIK賛江                        高橋悠治
  


大切なわたしのともだち  小島希里




Tさんが、どかどかどかと大きな足音を立てながらいきおいよく部屋に入ってきた。手にもったチラシを床に投げつけ、なんだかぶつぶつつぶやいているけれど、興奮していて、何と言っているのかわからない。どうしたんだろう? 床に落ちたチラシを拾うと「バリアフリー・スイミング大会」と書かれている。今日の日付だ。そういえば、今日はこの大会に出場する人たちから、欠席するという知らせが届いていたっけ。そう思い出しながら、はっと気がついた。「Tさん、今日は水泳大会に出ずに、こっちに来たってこと?」わたしがそう言ったとたん、さっきまで興奮して怒っていたTさんの声が大きな笑い声に変わった。大好きな水泳クラブの大会を蹴ってまで遊びにきてくれたんだとわかって、わたしもTさんといっしょに笑い出した。二人の笑い声に合わせるように、Tさんはぴょんぴょんと数回飛び跳ねると、またさっきのチラシを床になんどもなんども投げつけた。

それからしばらくして、わたしと彼は眼鏡屋役としてコンビを組んだ。二人とも眼鏡をかけていたからだ。いろいろ遊ぶうち、眼鏡屋の宣伝文句が生まれ、Tさんが店長で、わたしが気の利かない店員という設定が出来上がっていった。いつもそうだけれど、その時も、ストーリーラインの進行方向がやっと決まったのは発表寸前のことだった。わたしたち眼鏡屋の役柄に、急遽、売れ行き不振で悩んでいるという表情が付け加えられることになった。

本番が始まり、わたしが「店長、困りました、ちっとも売れません」とTさんに訴えると、Tさんは「そうですねえ、困りました」と言って文字通り肩を落とし、暗い顔つきをしながら重々しい足取りで店内を点検し、ふーとためいきをついた。そしてぱっと正面を向き、自分のかけている眼鏡に手を添えながら「遠くをみても、近くをみても、よーく見えます。」と宣伝文句をさわやかに唱えたかと思うと、また、店のなかをみまわしふーとためいきをつき、舞台の袖にひっこんでいった。

それはまだわたしたちが「がやがや」と名乗る前のことで、区立の公民館が主催する「障害者と健常者の若者が交流する」という題目の事業のなかで行われた即興劇ワークショップの講座でのできごとだった。その講座でわたしたちはだらだらしゃべったり散歩したり歌ったり、地図を描いたりなぞなぞを作ったりしながら物語の材料を集めた。その材料を料理のように刻み、こね、焼き色をつけるうちに、いつもおおざっぱなストーリーラインが浮かび上がってきた。ワークショップ最終日に、ともだちや家族の前でできあがった作品を演じてみると、それはかならず、さっきまでとちがう新しい物語りに生まれ変わった。

そんなことを三年つづけた。Tさんは無遅刻無欠席で通ってきて、風になったり椅子になったりした。くじらに食べられたり、コンビニの店長になったり、カレーのなかのにんじんになってぐるぐるかきまぜられたりした。わたしもいっしょにカレーになった。演劇以外の講座を開くことがあってもかならず彼はやってきたが、そんなとき、彼はそっとわたしに告げるのだった。「小島さん、ゲキ、劇しましょう、めがねや、めがねや」だからこの事業座が予算削減で打ち切られると聞いたとき、まっさきに頭に浮かんだのはTさんのことだった。どうしよう。

で、わたしたちは自分たちでグループを作ることにした。コーディネーターとして関わっていたわたし、演劇の講師として通いつづけてくれていた花崎攝さん、そして講座の受講者十人ほどがメンバーとなった。Tさんができたてのグループに「がやがや」という名をつけた。

「仕事よりがやがや優先でいきます。」部屋にはいってくるなり、Tさんは高らかに宣言すると、声を落として続けた。「今、そこで、けんかしてきちゃってさあ。」どうやら、ともだちと遊ぶ約束をふりきってやってきた、仕事よりもともだちよりも「がやがや」優先、と言いたいらしい。Tさんは、福祉作業所で出前専用のすし屋のチラシを折る仕事をしている。軽やかにステップを踏みながら歌い踊り演じる姿ばかり見てきたわたしには、彼が一日じゅうじっと座って仕事をしているところがなかなか想像できない。いっそのこと旅芸人にでもなったら、とわたしは思わず口走りそうになってしまった。
Tさんは「がやがや、優先で」ともういちど言うと、ノートをやぶった紙をくれた。紙には、ずらっと数字がならんでいる。よくみると、日付のようだ。来月、がやがやがコンサートにゲスト出演することにきまったので、それにむけて稽古の日程を考えてきてくれたのだ。スケジュール表? わたしがたずねると、Tさんはピョンピョンと軽く飛び跳ねながら、大きな声で笑った。




春くれば  大野晋





日本のあちらこちらで桜の開花宣言が出されている。

この場合、桜と呼んでいるのは「ソメイヨシノ」と呼ばれる品種のことで、大ぶりな花と一斉に開花する姿が華々しいことから好まれて日本各地に植栽されているものだ。花見の宴会で有名な上野の公園の桜はもちろんこのソメイヨシノである。古い文献などには「吉野桜」などと呼ばれている。ちなみに、吉野山の山桜は実は「ヤマザクラ」と呼ばれる種類で野生種である。

ヤマザクラは、古くは野生の高木の桜を総称して呼んでいた時期があったらしく古い文献などでは、全てヤマザクラと記載されている事が多いが、現在では野生の桜は「ヤマザクラ」「カスミザクラ」「オオヤマザクラ(エゾヤマザクラ)」の3種類に分けられている。(実際にはもっと多くの種類があるが)以前、サクラの分類をしようと追っていた時期があったが、なかなか高木になったサクラの分類は厄介で、花や葉のついた枝を手に入れるのも、長い枝切りばさみを担いで歩く苦労があった。それでもなかなか届かない崖の上などにある木などは、恨めしそうに眺めるしかないのだ。

世界どこでも、高いものの上のものを研究する研究者の苦労は変わらないらしく、海外ではサルを仕込んで木登りして、資料を採取させている研究者もいるらしい。研究の道もなかなか、一日にして為らないということだろう。結局、私が研究者ともならずに今あるのは、あの時、手が届かずにサクラの枝を諦めたからなのかもしれないなどと思うこともある。

東京、横浜といったどちらかと言えば温暖な地域で育った私は小さな頃から春は正月過ぎに梅が咲き、その後、桃、そして3月から4月にかけてサクラの花が咲くものだとずっと思って暮らしていた。しかし、私が学生時代を過ごした信州は、5月、遅い春の訪れとともに、梅、桃、桜などさまざまな花が競い合うように咲くことに、初めての春を迎えたときにとても驚き感動した。初春から春の盛りまでが一斉に来るさまはなかなかに圧巻なものである。

さて、その学生時代にお世話になった信州大学・金沢大学両校の名誉教授である清水建美先生がこの春、ある賞を受賞した際に詠んだ歌を最後に紹介しよう。


春くれば  春の花咲く
それぞれに
それぞれの地に  それぞれの花


さて、果たして、私はうまく咲いているのであろうか?



しもた屋之噺(52)  杉山洋一





久しぶりに雨に濡れたシャルル・ドゴール空港の、一面ガラス張りの天井を眺めながら書いています。
朝早くミラノの空港を出たときは、美しい透明な朝焼けが広がっていて、離陸して数分もすれば、深い朱に染め上げられたアルプスの山々が、一面の雲海のなかに島のように浮かんで見えます。小学生のころ、山陰線の始発の車窓から、日本海に浮かび上がる、朝靄に包まれた島々の幻想に感激したのを思い出しながら、いつしか眠り込みました。

本当に愉快な一ヶ月でした。東混の練習はとても楽しく、気持ちの良いものでしたし、厄介なスペイン語の歌詞を、皆さんが嫌な顔もせず歌って下さり、本当に感激しました。初めての練習で、予めお願いしておいたアルゼンチン訛りのスペイン語が聞こえてきたとき、思わずミラノに住む、アルゼンチンやウルグアイの友人たちの顔が浮かびました。これを聞いたら、皆どんなにか喜ぶだろうと思いつつ、どなたも誇りを持って歌っていらして、練習から本番まで、一貫して信昭先生が身体いっぱい応えていらしたのが、とても強く印象に残りました。
こちらが何をしたわけでもないのに、演奏会当日わざわざケーキを焼いてプレゼントして下さる方までいて、皆さんの暖かさに心が温まりました。

演奏会当日、湯浅先生と文化会館の精養軒で、名物のハヤシライスを食べながら、四方山話に花を咲かせたのも忘れられないし、8年はお会いしてなかった、恩師の三善先生と奥さまにもお目にかかれ、思わず胸が一杯になりました。殆どゆっくり話せなかったけれども、古い友人たちも応援に来てくれて、頑張っている皆からエネルギーをもらった気がします。

劉が一昨昨日、満一歳の誕生日を迎えたときには、ミラノと東京で何もしてやれなかったのですが、劉や家人を連れ、水牛仲間と繰り込んだ味とめは相変わらず痛快で、その存在感に改めて驚きました。久しぶりの芋焼酎に感激して呑みだしたと思ったら、時差ぼけの上、寝不足がたたり、すぐに眠り込んでしまいましたが、劉の誕生日プレゼントに悠治さんがプレゼントして下さった「あたまのなか」の、柳生さんのピアノの絵にさわっては、三橋さんのお膝で劉がはしゃいでいたのは覚えているし、アルミの灰皿を重ねて浜野さんがチャールストンを用意してくれて、劉が嬉々として叩いていたのも可愛らしいものでした。窓の外にはホッピーの赤提灯まで掛かっていて、ああいう情緒が、一層食欲を掻き立てます。

パリの望月嬢と電話していて、東京では暫く納豆、豆腐と鰺の干物に感激していた、というと、今の時期は美味しい筍を食べなきゃだめよ、と諌められ、お里が知れて恥ずかしい思いをしたものの、結局今回は一度も筍をいただく機会がありませんでした。ミラノに戻ってボローニャに住む日本の友人にそう言うと、そんな勿体ないことを!わたしなんて、わざわざ筍と桜を楽しみに横浜に戻るところよ、と畳み掛けられたのには参りました。
日帰りで出かけた坂出では旨い讃岐うどんも食べられたし、今回はこんな楽しく過ごしていいのかと思うほどでしたが、東京に戻った初日に、赤ん坊の面倒を家で見ながら、大根とシラスと豆腐を煮てやると、久しぶりに食べる和食に大喜びするのです。そういうものかと、こちらが好物のかぶを水煮にすると、やはりほうほう言いながらぱくつくから、なるほど血は争えないものだと、妙なところで感心します。

ミラノに戻る直前、成田でチェックインを済ませると、何故か毎度無意識にカツカレーが食べたくなり、結局ふらふらと洋食屋に足が向いてしまうのも、そのうち子供に伝染するのかと思いながら、大盛りにしてもらったカツカレーにぱくついていました。どういうわけか、暁のアルプスから食べ物の話にすり替わってしまったところで、打ち止めとすることにいたします。せっかくシャルル・ドゴールにいるのだから、朝食にどこかでクロワッサンのひとつでも食べておきたいですからね。

(3月26日パリ空港にて)





日記より  三橋圭介




  「イーノのインスタレーションのソフトをパソコンに入れた。絵が微細に変化していく。静止画像のようだが、変化しているとは気がつかないうちに変わっていく。もちろん、変わることは知っているからここが変わると思っていると違うところが劇的に変わって唖然とする。予測を裏切り続けるというのか、それとも見ているようで見ていなかったというのか。まあ、おもしろい体験ではある(ぼんやり全体を見ていると変化についていけます)。 」(3月28日)

 "77 MILLION" an Audio Visual Installation by BRIAN ENOに行った。会場には"77 MILLION PAINTING"のPCアプリケーションが 大きなディスプレイが絵のように壁に映され、イーノのアンビエント・ミュージックのなかでそれらを見ていく。日記にも書いたように、静止しているように見える絵は実は刻々と変化している。変化それ自体を認識することができるのはある程度変わったあと、つまり「変わった」とある瞬間に感じる事後の観察と認識であり、この「見る」から、「変わった」という認識の時間的な落差がこの作品の特徴であり戦略かもしれない。もちろん、変わることは知っている(これまでもイーノは映像作品でマンハッタンの風景の移ろいを扱ったりしている)。だから変わることを期待しながら「見る」。しかし、そういう意識を伴う「見る」は、時間はそれほどたっていないにもかかわらず、絵を見ている時間を観察と認識の往復運動によって細かく区切っているために、いつまでたっても変わらないという感じがする。そしてある程度変化したところで、全体の劇的な変化に気づき、愕然とする。見ることあるいは変化を生きるには、観察や認識という時間の区切りを捨て、ただ漠然と見つづけることでしかない。つまり見ている状態のなかにそれはある。もちろんこの作品の音楽も同じで、同時に見、そして聴く状態のなかに"77 MILLION PAINTING"は生成変化を繰り広げていく。いかに見るかはともかく、見ることの可能性と不可能性を扱ったヴィジュアル・ミュージックだろう。
 




帰巣――クーンラング――  スラチャイ・ジャンティマトン 荘司和子訳




最愛の人
わたしは戻ってきた
はるかな地平線のかなたから
虹の立ちあがる岩山から
色とりどりの木の葉の中から
わたしはつかれた
わたしはしょうもうした
わたしはねがう


きみに命をあずけよう
巣にこころをゆだねよう
瞳と願いをあずけよう
わたしを厭わないでくれ 最愛の人


別れてからもう久しい
あの夜は痛みにみちていた
宿るところもない乾いた荒野のような
手も届かないほど高い高山のような


最愛の人
わたしは戻ってきた
長い放浪のはて
わたしたちは今このときを待っていた
小鳥が翼を広げ巣に帰るように
わたしはつかれた
わたしはしょうもうした
わたしはねがう



水牛のみなさんが初めて見るスラチャイとカラワンの一行を成田に迎えに行かれたのは1983年だったでしょうか。その1年前スラチャイは6年におよぶジャングルのゲリラ生活に終止符をうったのですが、そのときの詩です。最愛の人とは、わたしたちのよく知っている「ジ」というニックネームの最初の奥さん。革命根拠地での初期に共に苦労した特別の人だ、とスラチャイ自身も言っていました。

モンコンによるとスラチャイは「世界中の女だって愛してしまう」性格であるのですが、奥さんへの愛は今でも変わらないのです。2番目の奥さんのところにいる方が多いでしょうが、「ジ」のところへは昔どおり通い婚しているようです。その愛はとても大きいので彼女はいつまでもスラチャイを愛しているのですね。





アジアのごはん(9)尾頭付きナレズシ  森下ヒバリ





しばらくタイに行ってきた。3月は暑かった。3月の後半になるとタイ・ラオスともあまりにも暑く、苦しくなったので日本に戻ることがあまり辛くなかったほどだ。いつもは、帰るころになると、ああもう当分の間トム・ヤムが飲めない、マンゴーが好きなだけ食べられないとか、寒くていやだ、人間関係に気を使わなきゃいけないとか考えて気が重くなるのが常なのだが。

1月後半にタイのバンコクに着き、さっそく珍しいものを食べた。ランナム通りにあるイサーン料理屋で、タイ人の友達のプンが「プラーソム」を頼んだのである。プラーは魚、ソムは酸っぱい、でつまり「酸っぱい魚=ナレズシ」のことだ。出てきたのは20センチくらいの一匹丸ごとの魚のから揚げで、付け合せに香菜、ピーナツ、生姜薄切、生唐辛子、にんにく、わけぎなどが添えられている。

「この店にこんなメニューあったの?」
「ほら、壁に貼ってあるよ」と、プンが言う。なるほど、タイ語の手書き文字で「プラーソム」と書いた紙が貼ってあるではないか。それにしても一匹まるごとのナレズシを目の前にしたのは初めてだ。今まで小さな切り身が料理に混じっていて、「あれ、これナレズシかな?」という食べ方しかしたことがなかったのだ。

ナレズシは、バンコクではあまり見かけない食べ物である。市場や総菜屋に行けば売っていることもある。しかし、タイ東北イサーンや北部チェンマイの市場には必ずあるし、ラオスでもビルマのシャン州でも何種類ものナレズシを売っている。田舎では自家製のナレズシを作る。じつはナレズシはタイ族にとってはルーツともいえるほど伝統的かつ重要な食材なのだが、バンコク中心に物を見ることに慣れてしまっていると、タイにいてもナレズシの姿はなかなか見えてこない。バンコクを中心とした現代のタイ王国は、中国南部・雲南省南部・ラオス・ビルマシャン州などのタイ族系の社会のなかで、タイ族系の伝統と文化から一番遠いところにあるのかもしれない。

さっそくナレズシに箸をのばす。軽い発酵の酸味がなんともいえずおいしい。油で揚げてあるけれども、さっと表面を揚げてあるだけで中身は生のように見える。
「火が通ってないみたいだけど、だいじょうぶなの?」
「ナレズシはもともと生で食べるものだから、こういう調理法じゃない?」
「いや、初めて食べたけど、おいしい〜」
「こりゃ、うまい」

表面だけ揚げるのはナレズシの風味を壊さないようにした調理法なのだろう。タイのナレズシは、日本の鮒ずしなどのナレズシと少し作り方が違う。一緒に漬け込んだもち米飯は、食べない。魚だけを取り出して食べる。ぬかなどを混ぜて発酵させることもあり、魚肉がどろどろになるほど強く発酵させたものは「プラーラー」といって、調味料に用いる。

この店のプラーソムは塩もほどほど、発酵もほどほどでじつに上品に仕上がっている。しかし、喜んでパクパク食べていたら、気分が悪くなってきてしまった。どうやら食物アレルギー反応が起こってきたようだった。わたしは大豆や乳製品などに食物アレルギーがあるのだが、なんとナレズシにも拒否反応か?
「そんな、お、おいしいのに……」恨めしい気持ちでみんなを見てみたが、ほかの人は誰も何の問題もなく幸せそうに食べている。

後日、カラワンのスラチャイたちとイサーンの町ヤソートンのコンサートに一緒に行くことになった。スラチャイがバンドの移動のために買ったばかりの、まだ3日目というピカピカの大型車に乗せてもらって行くと、遠いはずのヤソートンにずいぶん短い時間で着いた。車が良かったせいもあるが、道路も格段に良くなっていて、バンコクとイサーンの距離はずいぶん近くなってきているのだ。

道中、スラチャイたちは「ここが何々がうまい」「もう少し行ったらあれがおいしい店があるから」とか、道筋のおいしい店や名物をすっかり把握している。さすが毎日が旅のミュージシャンたち。で、昼ごはんに入った小さな店で、知らない料理ばかりを並べられた。いわゆるレストランやこぎれいな店ではお目にかからない、家庭的な料理なのだろう。黒っぽい緑のどろどろ(?)、不思議な味のナムプリック(付けトウガラシ味噌)数種、雷魚のトムソム(スープ)、そして揚げた魚の半身……・。
「あ、プラーソムだ」
「食べたことあるの? うまいよ」

いちおう、箸をのばして二口ほど食べてみたが、おいしいものの、身体の奥底からうわわ〜んとアレルギー反応の気配。やっぱりあかん〜。これで確実に、ナレズシはわたしにはアレルギー源だと分かってしまった。仕方なく、黒緑のどろどろを試してみる。何だよ、このわけの分からない料理は! と八つ当たりのように口に運ぶ。あれ、おいしいやん。野菜クリーム? スラチャイもこれが好きなようで、ふたりでぱくぱく。野草の茹でたのを潰して味付けしてあるようだ。名前を聞いたのだが、残念ながらメモを失くしてしまった。雷魚のスープもとてもおいしい。このヤソートンへの旅では、この後、イサーン地方のディープな料理ばかり食べた。赤蟻の卵のヤム(和え物)とか、血の入った生肉ラープ(炒り米入り和え物)とか……。やはりイサーン出身の友人達とイサーンに行くと、入る店、ご馳走してくれる地元の人の家の料理、とコテコテのイサーン料理続きである。バンコクでいつも食べるイサーン料理とはまったく違う。こんな料理があったのか、と毎回興味津々で皿を覗く日々であった。

バンコクでイサーン料理屋によく行くものの、ソムタム(パパイヤの和え物)とか鶏肉のラープとかコームー・ヤーン(豚喉肉の焙り焼き、すごくウマイ)とか、つい毎回同じような料理ばかり頼んでいたので、今回イサーン料理の奥深さに改めて開眼してしまった。それにしても、魚のナレズシが食べられない体質だったとは、何たる無念……。

食物アレルギーじゃない人は、どうぞ、タイに行ったらイサーン料理屋で魚のナレズシ尾頭付きの「プラーソム」を試してみてください。鮒ずし好きに限らず、チーズとか発酵食品が好きな人なら、一度で虜になることでしょう。これをちびちびつまみながら、日本酒飲んでもイケるだろうなあ、あああ。




リカちゃんイラクへいく  佐藤真紀





イラク戦争から3年、また、ヨルダンに行くことになった。戦争で難民になった人たちが、3年たってもイラクヨルダンの国境にできた砂漠の難民キャンプにいる。その数490人。半年後との健康診断に行くのだ。

そこで、子どもたちに何かお土産を買っていこうとおもった。男の子のおもちゃ選びは苦労する。男の子は、おもちゃの鉄砲や、戦車、兵隊の人形とか好きだが、「平和」の使途(?)を自認する私としては、仕事上どうしてもそういうのは買えない。かたや、女の子は着せ替え人形とかだから簡単。実に平和的なおもちゃである。

日本からといえば着物を着ている人形などがいいと思い、池袋のパルコのおもちゃ売り場を覗いてみた。しかし、このおもちゃ売り場、なんだか子どものおもちゃとちょっと雰囲気が違う。大人のおもちゃと言うといやらしく聞こえるが、大人が子どものおもちゃで遊ぶという感じか。最近流行のフィギアなどがあって、どう見ても子どもに買っていくというよりは自分のおもちゃを大人が買いに来ているという感じだ。ウルトラマンの人形とか見ているととても懐かしくなる。リカちゃん人形を買おうと思ったが、なんとなく変態みたいに思われないかと恥ずかしくなってその場を去った。

後日、女性編集者の人にその話をしたら、受けた。どうも、りかちゃんフリークだったようだ。
「ランダの夢はスチワーデスになりたいといっていたから、スチワーデスの格好をしたリカちゃん人形みたいなのないですかね」と相談してみたら、「買ってきてあげましょう」ということになった。早速、電話がかかってきて「お店で、問い合わせてみたら、市販されていないそうですよ。それでネットで見たらオークションで6000円で出ていますよ。落としましょうか」なんだか、勢いがある。
「え、ずいぶん高いな。子どもの夢なんて、結構ころころ変わるから、せっかくスチワーデスの人形かってやっても、ころっと気が変わってたりするから」

それにしてもリカちゃん人形は結構高い。この前、アヤちゃんにイブラヒムが買ってやっていたフラちゃん人形は、中国製だが、顔はバービー人形そっくりで、500円くらいでヨルダンで売っていた。フラちゃん人形のポイントは、へそだし、ミニスカートでも上にはちゃんとイスラムのコートとショールをかぶっているというご当地色の強い人形で、大ヒットしている。着せ替え人形の世界にもイスラム色が濃くなってきたのはごく最近だろうか?

リカちゃん人形は、高いので着せ替え用の和服だけを買い、フラちゃんに着せようという話になり、とりあえずもじもじしている私は、りかちゃん専門店に連れて行かれる羽目になったのだ。おそらく、その女性にとってはかつて幼年期に、リカちゃん人形で遊んだ思い出が走馬灯のように現れたのだろう。私はと言うと、どうもこのリカちゃん人形のふりふりした洋服が苦手だった。姉が持っていた人形は、スカーレットちゃんという名前で、バービー人形のような洋物だったが、これが、子ども心に怖い印象を与え、私のおもちゃの中では、怪獣の人形と同じ悪者グループに入っていたのだ。どうしても、男の子の遊びは「戦い」がテーマになるのは致し方ないか?

実際、リカちゃん人形専門店に行くと、結構面白い。リアルなのだ。標準品は相変わらずフリフリしているが、女子高生の制服シリーズなんて、本物そっくり。日本の学生はこんなかっこうしているぞと言うので、制服りかちゃんと浴衣リカちゃんを一体ずつ買ってしまった。

ところで、戦争前にイラクへ行ったとき、パレスチナホテルで、人形を売っていたので買ってきた。それは、靴を修理する職人おやじとか、ミシンでつくろいものをしているお母さんとかだ。よく見ると、おやじの胸が膨らんでいる。中国製の安っぽい着せ替え人形をうまく加工して、ミシンとかもマヨネーズのふたとか、ガラクタを集めてきてうまく作っているのだ。さすが経済制裁を生き抜いてきたイラクだと関心した。人形ひとつとってもその国の文化を強く反映しているのだなと改めて関心。こういうリアリズムが、実はリカちゃん人形の中にもあったのである。

さて、ヨルダンに着いて、例のフラちゃん人形とリカちゃんを比べてみると、フラちゃんはやっぱり怖いのだ。バービー人形をまねて作っているのだが、やはり、私の今でもぞんざいする「心のおもちゃ箱」では、悪者のほうに入ってしまう。

フラちゃんが着ているイスラム・コートをリカちゃんに着てもらうことにした。ちょっとだぼだぼだが、よく似合う。一方フラちゃんに着物を着せてみたがぜんぜんだめ。ランダにはどの人形をあげようかと考えていたが、やっぱり、リカちゃんだ。しかし、彼女の夢は、「歯医者さん」になったそうで、スチワーデス人形を、高いお金でオークションで落とさなくてよかった。

もう少し待てば、「立派なムスリマ」(イスラム教徒)といって、ベールをかぶりはじめるだろうから、それまで待って、リカちゃん人形、イスラミック・バージョンをあげようか。




ここ10年のインドネシアと日本(3)インターネット  冨岡三智




留学から帰国して間もない頃は、最近の日本はどうなっているのだろうと、せっせと本屋を廻って雑誌を立ち読みしていた。ちょうどスハルト退陣(1998年5月)の頃だ。その頃の女性誌には、「仕事のできるキャリアウーマンは、街角で颯爽とモバイルパソコンを開く」といったイメージを強調する特集が載っていたり、今なら始めからパソコンにインストールされている、簡単にプロバイダ接続できるCDが付録についていたりした。おそらくその頃から、一般個人がパソコンを買ってインターネットを利用し始めたのだろう。

逆に帰国前のインドネシアのソロでは、インターネット・カフェがぼつぼつ登場し始めていたところだった。ジャワの有名な音楽家の死亡ニュースを、ジャワに住む自分達よりも日本にいる友人達の方が先に知っていたと分かって驚く、ということが起き始めていた。おそらくジャワに滞在する欧米人がガムランのメーリングリストに情報を発信していたのだろう。

そういうことやなんかでやっぱりこれからの留学生にはパソコンが必要だと痛感して、それから1年半後の再留学ではモバイル・パソコンを持って行った。ソロにもプロバイダができたと聞いていたし、またインターネット・カフェの数もぐんと増えていた。私の住む市役所の裏辺りでは、徒歩10分以内に3軒ネット・カフェがあった。ちなみにその1軒がクスモ・サヒッド・ホテルに入っているALOHAネットだ。欧米からの宿泊客や留学生がよく利用しているが、インドネシア人も多く利用している。芸大でも学長室や各学科の事務室にパソコンが導入されており、さらにそれから半年か1年の間に、図書館の中に学生向けにインターネット室ができた。こんな具合に、日本で個人所有のパソコンが普及していった頃に、インドネシアでは公的機関のパソコンやネット・カフェが増え、おかげで日本との連絡はとても便利になった。

インドネシアでは、私は普段は自宅でダイヤルアップでインターネットにつないでいた。日本から持っていったモジュール・ケーブルがすぐにだめになり、どこで買えばよいかと大家さん(工務店)に相談すると、通りの向かいの文房具屋で売っているという。行ってみたら、そこではケーブルがメーター売りされていた。好きな長さでカットしてくれて、両端にジャック部分を取り付けてくれるのである。日本では長さを選べるといっても限定されているし、1つ1つパックされている。インドネシアの方が合理的で、それに物価から見てもケーブルの値段は安かった。日本ではなんでケーブル類というのはあんなに高く、しかも包装だけ立派なのだろう。

また液晶画面がどんどん暗くなり、ついに画面が見えなくなるということがあった。私の友人でも、ノートパソコンを使っている数人がこういう目に遭っている。これは、インドネシアでは電圧があまりうまくコントロールされていないから液晶に負担がかかるのだと、インドネシアのコンピュータ屋さんは言う。それで高価な家電品――パソコンとか冷蔵庫とか――を使うときには必ず電圧安定装置(スタビライザー、インドネシアではスタビリザーと発音したほうが通じる)を使い、コンセントに直接差し込まないようにとアドバイスされた。そういえば大学のコンピュータは必ず何かにつないで使っている。あれがスタビライザーだったのだ。大学で使っているような、差込口がいくつもあるようなスタビライザーは結構な値段がするので、1つだけのを買うことにする。これは電気器具屋さんで売っている。インドネシアでパソコンを使おうと思っている人は、絶対にこれを買ったほうが良い。

さて画面が見えないと困る。この頃私は芸大の先生を日本に招聘するため、日本と頻繁に連絡を取っていたからだ。けれど画面だけが使えないので、モニターだけを買ってパソコンにつなげば問題ないということになった。そこで中古モニターを買う。しかし私のはパソコンといってもモバイルなので、普通のパソコン用の周辺機器がそのままでは使えないことが判明。結局日本のメーカーから取り寄せることになるが、これが1万円近くもしたので、頭にくる。なんで日本のメーカーは周辺機器にやたら高値をつけるのだ。しかもそれだけでは直接モニターにつなげなかった。端末のオス・メスが逆になっていたのだ。これはいけずだろうか。さらに頭にきながら、オス・メスをつなぎかえる接続部品をインドネシアで買う。

私が2003年2月に帰国したら、私の持っているモバイルのタイプはすでに製造中止になっていた。3年前、2回目の留学に発つ前まではまだモバイル・タイプが多く売れていたのに、世はすでに大型ノートパソコンの時代となっていた。「キャリアウーマンが街角で颯爽と」というイメージではなくて、年賀状を作ったり音楽や映像を取り込めたりできる性能や実用性が強調されるようになっていて、パソコンのサイクルは速いものだと実感する。

話は戻るが、中古のモニターを買うといってもすぐには在庫がなくて、しばらく待つことにする。その間メールを読む手段はないかとプロバイダに聞いてみたら、ウェッブ上で読めるという。という訳で、この頃はよくネット・カフェに通った。私がよく利用したのは上記のALOHAである。ここが一番近くて回線が速かったからだが、大学の先生や芸術系の知人、留学生なんかがよく利用していると分かる。そういえば、私は舞踊のレッスンを自宅でよくしてもらっていたが、その先生はレッスンのあとに決まって友人とALOHAで会う約束をしていた。そんな風に、ネット・カフェはちょっとした社交場になっている。それでパソコンが直っても、私も時々は知人に会うためにネット・カフェに行くようにしていた。

2003年から毎年夏に、私はジャカルタにも行くようになった。住んでいたのは都心部のカンプン(下町)で、その辺りには都心企業に勤める若い人向けの下宿が多い。そんな地域でネットカフェをなんとか1軒見つけて入ったら、そこでメール通信をしている人は誰もいなかった。皆インターネット・ゲームをしていたのである。客筋は中高生の若い男の子ばかり。壁に貼ってある料金表を見れば、基本料金はソロと同じであるものの、3時間とか6時間とかを超えるといくらという風に割引価格も示されている。6時間くらいゲームをする子もいるのかと思って、驚いた。この地域で遊びに来ている男の子達は明らかに華人系の顔で、察するところ、この辺りの裕福な下宿屋の息子達であろうか。下宿の住人達はたぶんオフィスでインターネット・メールを使い(少なくとも私のジャカルタの知人達のメールアドレスは皆オフィスのものになっている)、下宿近くではしないのだろう。ジャカルタにはソロのような社交場的ネット・カフェはないのだろうか、逆にソロにもこんなインターネット・ゲーム専門のようなカフェもあるのだろうか、と少し興味を覚えている。




製本、かい摘まみましては(17)  四釜裕子




書き込みしてある本はね、なんとなくわかるのよ。ある私大図書館の司書のかたが言う。いかにも書き込みしそうな顔つきの学生っているんでしょうねぇと軽くうけると、そうではなくて、返却するひとの顔を見なくとも、「書き込みされました」と語りかけてくる本があるのよ、と。予感がしてめくった頁にそれを見つけたときには、まったくもーとひとりごちつつ、ある種の快感があるそうです。なるほど。

図書館でお仕事する方々に、文庫本をばらして糸かがり上製本に改装する講座をする機会があった。普段、本の汚れや破れを直す側にいるみなさまには、文庫本の頁をばらすことにやや抵抗があったようだ。少し破れても大丈夫ですからと声をかけるが、こつをつかめば思いっきりビリリとできてストレス解消になるものを、みなさんなかなか慎重である。丁寧にばらした頁を2枚ずつ和紙テープで貼り合わせて、16頁を一折として糸でかがる工程に進むと、「やっと製本講座の実感がわいてきました〜」と声があがる。

頁をやぶいてそれをまた貼るなんて、いったいそのどこが「製本」なのだ? 製本を習いはじめたとき、わたしも思った。当初関心があったのは表紙をデザインすることで、それ以外はせいぜい切ったり貼ったりと考えていた。ところが実際はその切ったり貼ったりがうまくいかなくて、こんなことするために製本習ってんじゃないわよと苛立ったものだ。苛々しながらもそれなりに何冊か製本すると、切ったり貼ったりとはまたちょっと別の、糸でかがる工程に楽しさを感じるようになる。裁縫好きも理由のひとつであろうが、糸でかがることで立ち上がってくる「本のかたち」を前にすると、いかにもこれが製本のメインイベントだという気分になる。おそらく、誰もがこれに近い気分を味わう。束ねた紙に安定したかたちを与えることの悦びと思う。

束ねた紙に安定したかたちを与える方法は、さまざまある。今回の講座では、栃折久美子さん考案の「パピヨンかがり」を紹介した。糸の両端に針をつけた2本の糸でかがるもので、実際に手を動かすとほとんどのひとが思わず正しい針運びをしてしまう不思議に簡単な方法なのだ。このかがりかたを考案したいきさつについては、栃折さんの『装丁ノート』(創和出版)などに詳しいが、「洋式製本の原型であるルリユールの技術と、『やまととじ』の原理とを組み合わせ、十分に丈夫で比較的手間のかからない手製本のやり方」を考え、「どこを開けても無理なく180度に開くことができる形からの連想と、このとじ方を『胡蝶綴り』と呼ぶ人たちもいたらしいことを考え合わせ、私は考案した新しい製本方法を『パピヨン』(蝶)と名づけることにした」とある。

「胡蝶綴り」について、栃折さんから一冊の本を前に教えていただいたことがる。その本は、1941年、アオイ書房が雑誌「書窓」の特集号として刊行した「製本之輯」で、製本職人の上田徳三郎の語りをおこし、武井武雄が図を添えたものだ。美濃判、袋綴じで、全頁コピーしたい衝動にかられたが、それをはばかるオーラのある本だった。そこに書かれた「胡蝶綴」は紅白の糸が用いられており、「洋本のかがりに似ている」と記されている。「胡蝶」の名の謂れは多説あるようだが、やはり頁の開き具合からの連想ではないかとわたしなどは思う。2000年、「製本之輯」は本とコンピュータ編集室によって『製本』として復刻される。4600円であったが、原本のオーラに触れていたおかげで値段のことは気にならなかった。

ちょっと話がそれるけれど、「蝶」で思い出したことがある。安西冬衛の詩「春」について、評論家の金澤一志さんが書いたエッセイだ。有名な「春」が最初に掲載された詩集は、左右の頁が対をなすように構成されており、この「春」は右側に、左側には、もうひとつ別の「春」が掲載されたという。

  右頁 てふてふが一匹韃靼海峡を渡つて行った
  左頁 鰊が地下鉄道をくぐつて食卓に運ばれてくる

「蝶の両翅のように、ひとつの見開きページの上にふたつの『春』という一行詩を組み合わせた編集が詩の印象を凝縮させ、増幅している」。この詩集などは、どの頁を開いても180度開く構造であることが望ましいと感じさせる。

この3月に、製本家の山崎曜さんが『手で作る本』(文化出版局)を出された。古今東西の製本法をアレンジした13の方法を、美しい写真にわかりやすい解説と明快な図を付して紹介している。交差式、リボンリンプ、コプティックなどの製本法、革やアルミ板を用いるこつ、基本的な道具のつかいかたや手つきまで、実に端的にまとめられている。これを見れば、蝶々の羽のように頁が開く本が、いく種類もできる。とてもいい本だと思った。



純金――翠の虱(18) 藤井貞和




箔になって、
きんせんになって、
ひとすじに、
あなたをささえられたら


きんざんのすえより、
ついにながれて、
砂金から、
とりだされるわたし


しろいあなたは、
わたしをきんいろだと思うでしょう、
きんいろなの。
芥子粒よりもちいさな自然金




(茨木のり子訳「芥子粒のうた」の、
   ……
   芥子粒ぐらいだったら
   いいの
   芥子粒に吹く風であれば
   じゅうぶん
を思いながら。『韓国現代詩選』から、姜恩喬さんの詩。)




身体と「社会的なるもの」の変化  石田秀実




  1.

かつて身体が人々の注目を集めたときには、政治の季節が苦い形で中座した後の方向転換といった意味合いがあった。もう一度生活の根から、いずまいのありかたから、人のあり方を見直そうという姿勢が強かった。だが今、そんな空気はどこかに行ってしまった。装身具か何かのように古今東西の身体技法をいじくりまわす人がいる一方で、身体などまるでありはしないかかのように振舞ったり、過度に自分の身体を傷つけてしまう人も増えた。

ここ何十年間ほどのあいだに、私たちの身体をめぐる考え方と、それを包摂したり排除したりする「社会的なるもの」についての考え方は、どうかわってしまったのだろう。つとめて自分の身体という不思議な存在とむきあおうとしているひとがいる一方で、普通に暮らしている人のほとんどにとって、自分の身体は、いわば仕方なく自分にまとわりついてくるものだ。さまざまな欲望の中に自分というものが意識され、しかもその自分は自分が属している社会の定める正常さの範囲にいつまでもありつづけねばならない。その正常さの中には、近代社会独特の壮年の健康な身体ばかりを基準とする身体の正常さも含まれており、それを支えるために、身体という道具の手入れをしないわけにはいけない。

健康への過剰なまでの配慮も、身体そのものをいつくしむというより、社会の定める正常さというノルムに、最初から最後まで身体を合わせておこうという、ある意味ではむなしい努力の現われのようだ。その意味では、身体は自分そのものというより、自分に付随した財産か道具になっている。その延長上に身体の一部を、テクノロジーで、自分の好ましいように変えてしまおうとか、売ろうとか、人のものと置き換えようという考え方もあらわれる。

きわめて荒いいいかたをすれば、魂と、それに対する質量としての肉体という二元論的な身体観が、デカルトを経由してもまだいつまでも続いていたとして、それがフーコーの語る分割不可能な「生ける身体」というものに変わっていくのは18世紀末から19世紀のことになる。

「生ける身体」とは、これも荒っぽく言うと、魂 vs 肉体という形で二元的にとらえられた身体であるよりも、一元的な「生命」としてとらえられた身体観である。ギリシャ的なピュシスではなく、近代的で形而上的な「生命」観念の誕生と言い換えることもできよう。この身体観の誕生は、国によって時差があるとはいえ、国民皆兵的な国家の誕生とほぼ平行した出来事だといってよい。

この身体観が語る「生ける身体」としての生命は、国家によってその最低限を権利として保証され、国家に役立つよう訓育されるべき「神聖にして犯すべからざるべき生命」である。「生命の尊厳」といいかえてもよい。近代の国民国家による産業と軍事という二つの重要な領域への総動員体制が、この身体観を要請していたことは、時代に差があるにせよ、どこの近代化においても認められよう。

遅れて近代化した日本でも、こうした「生ける身体」の保障は、近代的国家体制の確立と共にその動きをはじめる。だが、それが国民皆保険に近い形で完成していくには、この国の場合も、国家総動員体制の確立と連動する形を取らねばならなかった。生命を保証されることと引き換えに、私たちはいわば自分の身体を国家に預けたのだ。

ベートーベンがフランス革命とナポレオンの英雄的民主主義と思えたものに感激してエロイカを書いていたとき、その下で従順に戦っていたフランスの兵士たちは、この「神聖にして犯さざるべき生命観」によって国家から支えられていた。そうした近代の民主主義が、実はちっとも普遍的なものではないこと、近代の民主主義とは、ある国家共同体内部の暴力を加工して非暴力化する一方で、その外に対しては総動員体制の暴力発動装置として作動するようなものであったことを、ベートーベンが、そしてやがてヨーロッパ全土が、知ることになるのは、その後のことだ。

もちろんこうした国家による生命の保証は、まずは最低限の、いってみればゾーエーとしての生の保証だった。それでもそうした保障なしには、アルチュッセル的な意味での「国民国家の主権者でありかつ従属者=臣民(Subject)である」という国民意識は、育たなかった。

資本主義の段階としては、これはマルクス―エンゲルス的な資本主義の修正としての「社会的なものの評価の始まり」になる。だから、それがたぶんに統合の過剰と画一化(ナチスの政策につながるような)をもたらすものであり、国民でない、あるいは国民としてふさわしくないとされる(健康的、あるいは擬似的であれ血縁的、民族的に)ものたちの排除を含んでいたにしても、この修正の効果そのものはある程度評価しなければならない。
またこうした評価は、人々の側がそれを要求するという点、すなわち連帯という側面からも重要だ。構造的に見れば、近代国家の総動員装置と連動するものであったにしても、それは一方で人々の切実な連帯と運動の成果でもあった。ゆがんだ恩恵的な、すなわち権利としての傾きをほとんど奪われた日本的な「福祉」でさえも、そうした連帯がなければありえなかったのだ。


  2.

現在の問題は、こうした「神聖な生命」という身体観が崩壊しかけていることである。現代社会では、形而上的な生命という言葉は、道具として都合よく使われているだけで、その実質は「物質としての身体」に変えられてしまっている。「物質としての身体」という観念のもとでは、「物質としての脳」(これは無理に物質として捕らえられているだけで、その内実はアニミスム的な魂の焼き直しである)が「物質としての肉体」を支配するという形の二元論が復活している。そこでは、「特殊な物質としての脳」が、「物質としての身体」を支配するという形で、身体は「自律的なもの」だとされている。

身体は、もはや社会によって保障される「神聖なひとつの生ける身体としての生命」ではない。「物質としての脳」が自己そのものであり、それによって「物質としての肉体」を自律し使役する責任は、社会ではなく、自己すなわち脳にある。身体の自己責任論である。

産業的にも軍事的にも、もはや国家が、国民すべてを総動員体制の形で必要としなくなっているという問題が、その背後にはある。アメリカが軍を差し向ける相手に象徴化されているように、必要としないものには、資本主義は金をはらおうとしない。その結果、身体は国家が訓育保護する対象というより、自己=脳によって自律的に運用されるべきものとなった。労働力とは自己管理すべき財としての身体の運用のことであり、そこでは「神聖な生命」ではなく、市場にさらされるべき財として、身体が位置づけられている。

こうした事情は、今の障害者自立支援法国会の中で、正直な日本国の厚生労働大臣が「福祉とは金で買うもの」といったことを思い出せば明白になるだろう。金で買う福祉ならば、もはや社会が保障する基本的人権や神聖な生命としてのそれではなく、資本主義的な財の一種に過ぎない。

ほかならぬ生命倫理という分野で、身体生命の尊厳という言葉が、都合のよい道具でしかなくなって、いわば前世紀の遺物であるかのように語られだしたのは、その故である。「人の生命は平等ではない。そこには格差と差異がある」とP.シンガーらが語るとき、彼らは、かつては画一的に神聖視されていた生命というものを、たとえば脳という特異な物質によって自律されている身体と、もはやゾーエーのみとみなしてよい身体とに、差異付けしている。とりわけ自己管理・自己決定できなくなった身体(能力がない=脳が正常でなかったり、端的にその機能が失われたりした身体)は、単なる物質そのものとして扱ってよいと彼らは語る。


  3.

こうした身体観の変動は、後期近代における国民国家の変動と連動している。産業と軍事両面で、国民すべての訓育を必要とし、そのために最低限の生を権利として保証する基本的思考の上に、多様な「社会的なもの」を積み上げてきたのが近代の国民国家だとしよう。そこでは、他方でナチスに典型的なように、健康は義務化され、優生医学が血の上であるいは正常性というノルムの上で、領土線という「大地のノモス」(K.シュミット)が領域的に、国民とはいえない人々を排除する。

それに対して現代、すなわち後期近代の国家は、脱領土化し、もはや大地のノモス内にある国民全員の訓育や生命の保証を必要としていない。したがってそこではゾーエーとしての生命を、権利として保証するという考え方そのものが、時代遅れになってきているのだ。もはや「形而上的な生命の神聖さ」や「生命の尊厳」は、道具として都合よく用いられるだけで、実質的には無用の長物なのである。

「権利としての社会的なるもの」という考え方が、この社会から次第に消えて、代わりに恩恵としてのWelfare to work(資源再配分ではなく生存競争に参加させる形の福祉―実質的には最低以下の生活か棄民になるかを選ばせる結果になる)のような思考が重みを増してくる理由は、ここにある。権利としての社会的なるものではなく、恩恵としての(あるいは慰撫としての)それならば、権力の考えしだいでいつでもやめられるからだ。また、社会的なものが権利ではなく恩恵なのであれば、それを与えてもいつまでも自律できないものは、切り捨ててもよいことになる。権利である時代なら、むしろ逆に「がんばっても自律できないものがいることを前提に」社会的なるものが考えられていたのだが。

他方で、ナチスにあったような「義務としての健康」という思考は、「社会的なるもの」でそうであったような社会権や生存権の条件としてではなく、いまや財となった身体の選別装置として残る。表面上は禁煙のマナーをとく紳士的法律のようにみえるが、制定されたばかりの日本の健康促進法は、まさにこうした趣旨によって作られている。健康が義務化され、それを守れなかった人々が、自己の責任において選別されるのだ。優生学が遺伝子レベルで実践され、生命倫理の仮面をかぶった排除が、胎児やすでに生まれた子供を相手になされるのも、同じ身体財の選別装置としてである。

一方でまた、こうした選別装置は、脱領土化した国家において、領土線という大地のノモスに代わって国家を支えている文化アイデンティティとしてのナショナリズムの、働きの場そのものでもある。「神聖な生命」から「財としての身体」へという身体観の変化と、脱領土化して今までにも増して暴力的な国家であり続ける後期近代国家、そして大地のノモスに変わる文化的アイデンティティとして、人を脱領土してしまった国家に引き寄せる装置としてのナショナリズムの跋扈の三者は、不即不離の関係にあるといってよい。

そうした事態の中で、welfareないし福祉といったものは、前述のように最低限の生の保証としての生存権というありかたをやめ、変質していく。一方では生存権ではなくなったwelfare to workが、前近代的な恩恵や慰撫として登場する。他方では恩恵や慰撫ではない形の、変質した福祉ならざる「金で買う福祉」が、中産階級以上をターゲットとする「よりよい生の獲得の自由権」として登場してくる。この後者は、簡単に言えば、平等権ではなく、すでに十分ゾーエーを満たしている人々のみを対象とする、「よりよいビオスの選択の自由権」としての福祉である。

これはその名も「選択的福祉」の名の下に、その福祉を「金で買える人々」をターゲットとして営まれる福祉である。よりよい健康、よりよい介護からよりよい生命保険、そしてよりよい身体への改造や、場合によったら悪くなった身体の置換としての臓器移植や皮膚移植、そしてできうれば脳移植まで、「選択的福祉」の対象はその材料に事欠くことがない。

旧来の「社会的なるもの」との大きな違いは、それらが軒並み資本主義の新しい素材の一つであることだ。つまりそれらは、社会資本を削って「国家の構成員全員の神聖な生ける身体=生命」を保証する装置(平等権としての生存権)ではもはやないのだ。構成員の中の「支払えるもの」のみが、選択的に自由に利用できる、資本となりうる財を産み出すような装置なのである。

こうした選択的福祉という名前を持った資本主義の装置には、当然その材料としての身体が必要である。材料としての身体は、プリミティブには介護労働の場合のように、生きている生身の労働財としての身体として求められる場合もある。

だが、よりよい身体改造や身体置換の材料となれば、ある種の人々から強引に奪い取った、卵胚や遺伝子素材、そして生きている人体組織が必要となる。日本ではまだ水面下のできごとだが、さまざまな棄民や「合理的に死者とされた生きている人々」、すなわち脳死者や植物状態の人、精神障害者、不法入国者、認知症患者、尊厳死の身体などが、こうして選択的福祉の素材としてリストにあげられていく。身体の市場化である。

これは今の資本主義のあり方を支える装置でもある。アメリカや日本に典型的なように、今、経済の半分ほどは、戦争に伴う様々な体制がまわしている。そして未来の経済を回すもう半分は、もはや石油でも原子力でもなく、分析され資本化された生命という素材である。とりわけ人間の身体そのものを、資本主義の素材としてどう処理していくかに、先進国の視点は集中している。2010年に予測されている身体市場を含むバイオ市場の予想規模は、230兆円である。

「人の生命は格差があって当然のものであり、もはや平等と考えてはならない」という欧米系の生命倫理学者の言い草は、こうした土壌の上に花開いている。そこでは「生命の尊厳」概念を道具として、尊厳死させられた身体が、モノとして逆説的にも「尊厳をまったく欠く」扱いを受け、パーソン論(脳に理性の座を認め、その有無を人格であるかどうかの基準にしようとする議論)によって人間としての尊厳性を奪われた、精神障害者や非理性者が、ナチスよろしくモノとして処理される可能性が開かれようとしている。




PAIK賛江  高橋悠治




パイクが カナルストリートに住んでいたころ
屋根裏に通じる階段に アプライト・ピアノが 斜めに ひっかかっていた
上げることも 下げることも できなかった
ピアノは アジア人の西洋音楽 通俗名曲のなつかしさのように
じゃまだけれど つきまとっている
うらぶれたバーで チェリストのシャーロット・モ−マンも加わって
3人あわせて 2ドルもなく 1本のビールを分けた
シャーロットのために チェロ・コンチェルトを書きたい 
と パイクが言った 
もちろん サンサーンスの「白鳥」をテーマにして
この曲は シャーロットとパイクのパフォーマンスの 唯一の曲目
それを  TVブラを着けて  人間椅子に座って 
彼女が弾いた カーネギー・ホールでの オペラ・セクストロニカ
トップレスになったところで 逮捕され ボトムレスまではできなかった
シャーロットは乳ガンで死んでしまった
白鳥の歌は終わった
ピアノなら「乙女の祈り」 だが 
アプライト・ピアノを 弾くだけでなく
ペダルをなめたり のこぎりで切ったり 
突き倒したこともあった
白人女への 家庭内暴力のように
へらへら笑いを 浮かべて

最初のTVシンセの展覧会も見た 物置のような画廊で
中古の受像機に巨大な磁石を添えただけのもの 
画像が歪んで 虹模様になる
ロックフェラー財団の学芸員の前で
パイクは もっともらしい説明をする
へらへら笑いを浮かべて

受像機の自己増殖 
白鳥よりは透明で ありのままの
無意味な世界を映す 画面の無意味
白南準の 黒いダダの虚無主義
月を映したヴィデオZENで 世界を騙る
西洋も東洋も超えて
アリスの猫のように
身体が消えても のこる あの
神々のような へらへら笑い

「貧乏な国から来た 貧乏人
できるのは ひとを たのしませるだけ」
"I am a poor man from a poor country,
so I have to be entertaining every second."



[2006年6月10日〜10月9日 ワタリウム美術館でひらかれる「さよならナム・ジュン・パイク展」のために書いた文章]




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