2006年5月 目次


難民キャンプ、がんで苦しむ少女                 佐藤真紀
芽(もえ)――翠の虱(19)                  藤井貞和
しもた屋之噺(53)                      杉山洋一
すみっこのミュージシャン                    小島希里
アジアのごはん(10) ビルマ・チェントゥンの花びら団子   森下ヒバリ
製本、かい摘まみましては(18)                四釜裕子
写真・考                             大野晋
ケージのアナーキー                       三橋圭介
ジャワ舞踊の衣装                        冨岡三智
反システム音楽論への準備                    高橋悠治




難民キャンプ、がんで苦しむ少女  佐藤真紀






ヨルダンの首都アンマンから車で3時間半。イラクとの国境に難民キャンプがある。3年前のイラク戦争で出てくる難民を救済するために作られたキャンプだ。

ヨルダン最後の町ルウェイシェッドは、イラク戦争当時はジャーナリストやNGO関係者などであふれ、物価は高騰。このままの勢いだと、高層ビル ができ、高級ホテルもできるのではないかと思われた。3年目を迎えた、国境の町「ルウェイシェッドの今」の特集取材にやってきました。というのも面白い だろうと思うのだが、いかんせん、イラク報道の数もめっきり減りそんな企画は誰も見向きもしない。

私たちは、半年に一度はキャンプを訪問して医療支援を続けている。今回は年度末ということもあり医師団も集まらず、ドクター・トシとナース・ク ニイを、引き連れてのさびしい訪問となった。イラク国内の治安が悪いせいか、バグダッド、アンマンを行き来する長距離トラックもまばら。いつもとまるモー テルには、キャバレーがあるのだが、「本日は休業」だそうだ。

客も殆どいないくせに、今日は、客がたくさん来るから部屋がないという。
「だからまけるわけには行かないのだよ」
値切りの交渉はいつもてこずる。結局、交渉に当たったヨルダン人運転手もうんざりしていた。ほかにホテルがないから向こうも強気なのだ。

受付にはヤスミンという女がすわってけだるそうにTVを見ている。ヤスミンは、イラクからたどり着いて、この店で働いている。3年前は、まだ十 代の小娘だった。いつもジャージを着てたいして働くでもなく、店を任されていた。たまには、セクシーなドレスを着てバーで客をとることもある。
「まだいたの か」と話しかけると、けだるそうにどこかへ消えていった。

このモーテルは、町の手前10kmくら いの砂漠の真ん中にあり、回りにはベドウィンのテントがちらほらあるくらい。 映画「バグダッドカフェ」のモーテルにも似ている。主人公も同じヤスミン (ジャスミン)という名前だったのは単なる偶然なのか?映画の中で歌われていたコーリングユーという曲がなかなかよかったのだが、もっと砂漠にぴったりの 曲がある。

だれかが風の中で
どこかで だれかが きっと待って いてくれる
くもは焼け 道は乾き 陽はいつまでも 沈まない 


という曲。これは木枯らし紋次郎のテーマ。この間、ノンチェルノブイリ連帯基金の主催するコンサートで上條恒彦さんが歌っていた。声量のある人。砂漠でも声が通るだろうな、ベドウィンのおっさんと一緒に歌うのを聞いてみたい。

飯つきだという約束なのに、翌朝にはオーナーはいなくて、「食事なんて何もないよ」といわれる始末。毎回、もめるのだ。
実は、キャンプにがんの女の子がいて気になっていた。砂漠でがんの治療を受けるのはさぞかし不憫であろうと。
 
今回は最新兵器、ポータブル超音波検診を持ち込んでの診察。ディアールは脾臓がはれているようなことを前回言っていたので、これで検査すればばっちりわか るのである。何がすごいかというと、これは米軍が最前線で兵士の医療を行うために開発されているために、埃や振動に強いのだ。落としても壊れない。
 
しかし、ディヤール14歳は、キャンプにはいなかった。父の話では、「状態が悪くなってアンマンに入院しているんだ」という。ドクター・トシの話では、再発を繰り返しているようなので、かなり状態は悪そうだという。早速、アンマンに戻ると、病院を訪ねることにした。

彼女が収容されているのはアル・バシールという国立病院なので、設備は、あまりよくない。殆どの中東の国では、国立病院は無料に近いが医療は最 低限。一方、私立は、腕利きの医者たちが海外で留学して戻ってきて最新鋭の医療技術を誇るが、治療費が高価になる。特にがんの患者は、王様の財団が運営す るキングフセインがんセンターが最新鋭の設備で治療を行っている。治療費は非常に高いがヨルダン人の場合は、王様の慈悲があれば、殆どただで治療を受ける こともできる。

ディヤールは、ぐったりと寝ていたが、私たちを見るとうれしそうに話しかけてくる。熱が38度からなかなか下がらない。
母がキャンプから付き添いできている。ヨルダンと国連の取り決めで、彼らがキャンプ以外で泊まれるところは病院だけだという。24時間体制で警察官が見張りをしている。

「ここでは、何もしてくれません。なぜならがんの専門医もいないので、治療の方針も立たないのです。薬もありません」
ディヤールは、ぜーぜーと咳き込んで、酸素吸入機を取り付けた。

ドクター・トシと私は早速レポートを書いた。「このままでは、一ヶ月持つかわからない。キングフセインがんセンターでの専門医による治療と、せめて家族が付き添えるように」という内容を書いて国連へ提出した。

早速、国連から電話がかかってきた。大概はレポートを出しても、あまり反応はないのであるが、今回は違った。
「実は、がんセンターからのレポートがありまして、これだと、状況はいいと書いてある。いったい何を根拠に危険だというのか。あなたたちが診断をしたというのか。ドクター・トシとは何者か、ちゃんとした医者なのか」
「それじゃあ、ドクター・トシは藪医者だと?」
「そんなことはいっていません。ただ彼は専門がなにかなと(レポートはがんの専門医が書いているんですよ!)」
「残念なことに、ドクター・トシの予測は当たるのです。ハニーンのときも、まあ、助からんでしょうな。とぼっそり。その後3ヶ月で彼女はなくなりました。ほかにもたくさんありますよ。 まあ、わたしとしては、予測が外れることは願ってもいないことですがね」
「それは大変!そんなに当たるもんなんですか!!」ということで早速、キングフセインがんセンターの担当医とドクター・トシと国連からもスタッフが来て話し合うことになった。

がんセンターの診察は、体温と血圧、心拍数といった簡単なもので一週間前に診察したという。レポートには直ちに検査が必要で、その結果で、治療 法を決めなければならないと書いてあったが、「概して状態はよい」と確かに書いてある。結局アンマンに移されてから2週間がたつが、これといった検査もさ れず彼女の体はどんどんと衰弱しているのだった。ドクター・トシの説明に若い女医もうなづいた。

「彼女は難民ですね。お金は誰が払うのです?それがはっきりしないと、私たちとしては何もできません。検査だけで1500JD(25万円程 度)、化学療法だと700JDD(120万円)くらいは、用意してもらわないと。」問題はお金ですといわんばかりだ。国連の職員は私のほうを見て、「何と かなりません?」という。

私は、頭の中で円に換算してみた。「うーん、今すぐというわけには。。しかし、一部を負担するとかなら」国連もあわてて資金を調達することになった。そして、家族が面会にこれるように、ヨルダンの内務省と掛け合うことも約束したのだった。

一週間後。

がんセンターがディスカウントしてくれました。2160JDですべてやってくれるそうです。これなら国連がすべて払えます。検査のスケジュールも決まりました」と国連からの連絡。しかし、ディアールの母が、熱を下げる薬がないと電話を入れてきた。

そんなものもないのか?「ここは国立病院ですから、そんな高価な薬は使わないのです」とのことだった。私たちは数週間分の薬を薬局で買いこんで、届けることにした。バスラから来ていたイブラヒムも通訳としてついてきてくれた。

デイアラは、苦しそうに咳をしていたが、私たちが来ると微笑んでくれる。早速、静脈から薬が点滴される。

婦人警察官が隣の空いたベッドで腰掛けて監視しているのだが、私たちが来ると別の銃を携行した男性の警官がやってきて、「君たちは何者だ」としつこく聞いてくる。イブラヒムが説明しようとするのを私がさえぎった。

「いいか、イブラヒムは通訳だけしてくれ。余計な説明をすると話がややこしくなる」私は、警官の肩をたたいて「ちょっとこっちへ来てください」と廊下に連れ出した。

「実は、ここだけの話ですが、彼女はがんです。あと一ヶ月持つかどうかわからない。」
「本当ですか!」急に警官の態度も軟化した。
「そうです。だから、彼女がいやな思いをしないように、大切に扱ってあげてください」
「わかりました。ところであなたは何者です?」
「私は、イブラヒムです。イラクからやってきましたが、妻が白血病で、双子を身ごもりましたが、一昨年死んでしまいました。双子は、ヨルダンの親切な一家に世話をしてもらい、私と5歳になる娘はイラクに住んでいます。そんなんで途方にくれているわけですよ」
「ああ、なんとかわいそうな話ばかりなんでしょう。私は涙が止まりませんよ」警官の目には涙がたまってきた。
「さあ、元気を出してください。彼女の前では涙を見せないでください。生きようと一生懸命なんですから」

一ヶ月たった。ディヤールは、キングフセインがんセンターの検査を2回うけまもなく、転院するという。

西村陽子からの報告

昨日、様子を見に行ってきました。
部屋にいないので、きょろきょろしていたら、隣の部屋から車椅子で母親と出てきました。せきも一応落ち着い たようですが、いまだに熱があるそうです。前回より元気になったような印象はありました。目が合うとにこっと笑ったり、ハイサムや看護師ともおしゃべりを したりしていました。

24日に電話をしたときには、パラセタモールはまだある、とりあえず追加はいらない、心拍数が上がっているとのことでした。1週間前にいったときから、 「おなかが膨れているなあ」という感じはしていたのですが、今日は車椅子に座っているせいか、一層目だってきたように思いました。母親も「腹水がたまって いる」といっていました。ぴったりしたセーターを着ていたので、肩や腕がやせほそっているのにくらべて、腹からわき腹、背中にかけて、幼児体形ようなバラ ンス?に見えました。おなか全体でぜいぜいと呼吸をしている感じです。
昨日、キングフセインがんセンターのDRの往診があり、検査の結果はまだ出ていないらしく、治療方針も何もきまっていないようですが、いずれにしても30日にがんセンターに移るのだそうです。
病院の設備がわるく、14日間一度もシャワーをあびさせてもらっていない(お湯がない)、夕べは冷え込みが厳しかったのです が、毛布もなくて夜中に寒さでふるえていたのだそうです。食事も粗末で足りないが、買いに行くこともできないとのこと。さらに何度も、老人が目の前で死ん でいくのを見て、死に対する恐怖がものすごいのだそうです。その雰囲気にも耐えられないとのこと。「キングフセインがんセンターに移ったらもう少しましに はなるから、あと少し我慢して」というとディヤールも健気にうなづいていました。「病院はきれいだし、プレイルームもあるし。」と母親が言っていました。 その言葉にディヤールもにこっとしていました。
(4月27日)





芽(もえ)――翠の虱(19) 藤井貞和



はっきんのまないたを、
こがねの包丁で叩(はだ)いて、
くわの木の芽(もえ)にまぶして、
銀のむしよ、あそばせる。

からがねの、なべにて煮らげる、
そのときのあわれさは、
繭子のくちからきぬいとが洩れる、
おしめんさま(お姫さま)よ。

恋した馬は、皮を剥がれて、
くわの木へ懸けられ、
絃の尻尾で、
ゆらゆらと、かきならす。


(前回が純金だったので、こんかいは銀のイメージ。かいこは「飼い蚕(こ)」と考えられているが、古語「かひ」に卵という意 味があって、繭のこと。ぎんいろの虫はあの「かひ」のなかにはいってしまうと、本国のすがたに戻って、くちからきぬいとを吐くという神話。なお茨城県つく ば市?の蚕影(こかげ)山神社ではこんじきひめのはなし。)




しもた屋之噺(53)  杉山洋一





ミラノは本格的に春の陽気です。毎年、冬の間心待ちにしている、乾涸びた灌漑用水路の放水が、ほんの一昨日あったばかり。冬 の間に用水路に沿って遊歩道を少し加えたので、家族連れが自転車で駆けていったり、寛いで犬と散策したり、思い思いの春を楽しんでいるように見えます。夕 べ、久しぶりにオッジョーノに出かけました。オッジョーノはレッコからコモへ走って一つ目の街で、美しい湖があります。夕暮れ時、モンツァからモンテーノ 経由の古いディーゼル車両に乗り込むと、車窓に繰り広げられる、ブリアンツァの文字通りあまりに美しい景色に、ただ見蕩れるばかりです。並走するランブロ 川のせせらぎや、ゆるやかな丘に点在する古屋敷に目を奪われながら、その奥に広がるレッコやエルバの男性的な尾根が、どこまでも碧い空に迫り出していて、 言葉に詰まる思いでした。そうしてオッジョーノの街から中腹に上ったところにへばり立った友人宅のベランダに立ったとき、眼下を覆いつくす湖一杯が夕焼け の朱に輝いて、エルバの山々が燃え立っているのに、ただ言葉を失いました。

ブリアンツァの美しさを最初に読んだのは,須賀敦子さんの本でしたが、日本語で読んだ本のうち、ミラノやこの地方の人間や自然を正しく捉え、それを日本語(それも大変うつくしい!)で綴ることのできた、唯一の作家だと思います。

尤も、いくらブリアンツァが昔ながらの誇りの土地とは言うものの、日本人がこうも感激するのは滑稽らしく、毎回酒の肴になって俎上の何とやらで終わるのですが。

春になって鳥のさえずりが途端に色めくのを聞きながら、一年前からペソンに頼まれていた、子供のための小さなピアノの小品を書きました。先日、フェラーリ のところで借りてきた、レオーネ・シニガーリアが編纂した、ピエモンテ地方の104民謡集の冒頭にあるLa biondinetta(金髪のかわいい女の子)を少しなぞっています。旋律そのものは、聴いても全く分からないし、実際、歌詞に音の情感を直感的に併せ た程度なのですが、どの民謡もそれは美しくて、歌詞が興味深いことに驚かされます。余りにどれも印象的なので、えい、開いた頁でいいや、という按配で選ば れたのが、この一曲目でした。

山にむかって歩いてる、ああなんて素敵な羊飼いさん。

さあ、お嬢さんも一緒に山に行きましょう。
わたしは、お嬢さんをいただきに参りました。

うちの娘は、まだまだ若い生娘じゃ。身を固めるには早すぎる。
婿を探すとて、羊飼いごときに渡しゃせん。
女の子は泣いて、泣きつくしました。
羊飼いに自分の魂をあずけていたから。
おお若いの、戻ってきなさい。
娘がほしけりゃ、娶るがいいぞ。
あなたの娘、欲しいときにはくれなかった。
こうしてどうぞと言われても
今さらまっぴらごめんです。


言い出したら切りがないないほど面白い歌詞も沢山あります。

神父さま、どうかお聴きください。
クラートさんがうちの母にキスしたんです。
それでお前どうしたいというのかね。彼女を殺したいとでも?
何しろ薬は高いし、叩くと剣をこわすよ。


ちなみに、こんな妻の逆襲もあります。

昨日結婚したのに、あたしゃ今日にはもう後悔してる。
これから結婚するんだったら、一生結婚なんかしないんだから。
パンもなけりゃ小麦粉もない。
今日なんて唐辛子を食べてお口は火の海。
昨日結婚したのに、あたしゃ今日にはもう後悔してる。
これから結婚するんだったら、一生結婚なんかしないんだから。
昨日まで履いてた素敵なお靴、今じゃどれも穴だらけ。
昨日まで月明りでご飯食べてたのが、
今じゃ揺りかごに足かけて、
ご飯かけこむ始末だわ。
自由万歳、自由人万歳!
それが出来なきゃ、朝晩いっつもため息ばかり。
あんたたち結婚なんかおやめなさい。男は誰も命令ばかり。
ああ売れるものなら、売っ飛ばしちまいたい。
100スクードかかったとて、
ただでもくれてやりたいところだわ。


ちなみに妻の逆襲はト短調の悲しい歌。解説によると、同じ種類の民謡が18、9世
紀のイタリア・フランス各地で歌われていたとあります。それがもう一歩進むと…。


妻よ、身体が言うこと聞かん。
騎士さま、夕餉は何を召し上がって。

鰻のマリネじゃ。心臓が痛くて堪らん。

一匹丸ごと召し上がったのでございますか。

カシラだけじゃ。
残りはどうなさいました。
そこの兎公にくれてやったわ。
兎さんはどちらへ行きました。
道の真ん中でくたばっとるわ。


お前すぐに公証人を呼んどくれ。心臓が痛いのじゃ。
騎士さま、公証人に何の御用で。
おおこれは公証人どの、遺書を残したいのじゃ。
弟君には何をお残しになられます。
美しい屋敷を山ほど残そう。
妹君には何をお残しになられます。
輝く金を山ほど残そう。
お父様には何を残そう。
わたしの心の鍵を渡そう。
それでは奥様には何をお残しに。
えい、ぶらさげとく絞首台一つ!


毒殺は古今東西、やはり大衆を魅了して止まなかったのでしょうか。日本の民謡(例えば「かごめかごめ」や「ずいずいずっころばし」のような童謡)は、深刻なものが多い気がしますが、ヨーロッパの民謡はそれに比べ、明るく奔放な表現が特徴なのかも知れません。


ビアンカ夫人、どうです一つ私と一緒に散策なぞ。

そうですわね。でもわたくしには夫が。
どうやってご主人をやっつけたらいいか、お教えしましょう。
お母さまの庭から蛇の頭を取ってきて、
つぶしてワインに入れちゃえばいいんです。

主人は間もなく帰宅して、
死ぬほど喉が渇いておりました。
ごくごく、ごくごくとワインの杯をあけますと、
4ヶ月になる男の子が、

「お父さんもう飲んじゃ駄目。
お母さんがお父さんを殺そうとしてるよ!」


イ長調8分の6拍子のこの旋律は、実は有名な「山の娘」にそっくりで、とても明るく美しいのです。異本として4ヶ月の女の子が叫ぶものもありますが、4ヵ月の赤ん坊に叫ばせる処で笑いを取るのでしょう。

夫が旅から帰ると、出がけには一人だった子供が二人に増えている、なんて小噺もあります。

ピエトロったら、ようやっと玄関に立つと、がたがた震えてる。

ピエトロお上がんなさいよ。
入りたいのに、入れずじまい。


彼女は目の前にいて、こう言った。
ピエトロお上がんなさいよ。
ピエトロったら、ようやっと部屋にあがると、またがたがた。
坐りたいのに、坐らずじまい。


彼女は目の前にいて、こう言った。
ピエトロお坐んなさいよ。
ピエトロったら、ようやっと坐ると、またがたがた。
食べたいのに、食べずじまい。


彼女は目の前にいて、こう言った。

ピエトロお食べなさいよ。

ピエトロったら、ようやっと食べ終わると、またがたがた。
呑みたいのに、呑めずじまい。



彼女は目の前にいて、こう言った。
ピエトロお呑みなさいよ。
ピエトロったら、ようやっと呑み終ると、またがたがた。
横になりたいのに、なれずじまい。



彼女は目の前にいて、こう言った。
ピエトロ横になりなさいよ。

ピエトロったら、ようやっと横になると、またがたがた。

キスしたいのに、出来ずじまい。



彼女は目の前にいて、こう言った。
ピエトロ、キスなさいよ。

ピエトロったら、ようやっとキスすると、またがたがた。

x x [伏字になっている]したいのに、出来ずじまい。



ミラノのヴェーラ通りに古びた牛乳屋があって、実はミラノでも古くから残る牛乳屋の一つなのですが、この8畳ほどの見かけは寂れた場末の店を守るのが、年の頃60歳になろうかというルチーアで、皆愛嬌たっぷりに「シューラ(おばちゃん)」とミラノ言葉で呼んでいます。

牛 乳屋ながら実際は小さな喫茶店になっていて、平日は毎朝きっちり15枚豚のカツレツを揚げていて、大きなカツレツを一枚丸ごとパンに挟んだ、ミラノ一美味 しいサンドウィッチを作ります。これが食べたくて、朝、練習場に出かける前に、わざわざルチアに「今日はレタスとモッツァレルラと、それからこの間残って た飛び切り美味しい酢漬けの乾燥トマト、あれも入れて一人前予約頼むね。甘辛ソースもかけて!」などと言付けておき、昼休みになると、ここでしか頼めない 古めかしい炭酸飲料水(日本で言うセブンアップとやドクターペッパーもどき)と一緒に大口あけて喰らうのが何よりの愉しみで、毎回ルチアの身の上話を聞か せてもらったりするのです。

「うちのカツレツは、誰にも文句を言わせない。毎朝わざわざ肉屋に届けさせるんだけど、ちょっとでも悪い肉があったら、もうすぐに呼びつけるからさ」

いつも勢いのいいルチアの処に、ある日休憩中コーヒーを飲みにゆくと、つい今しがた可愛い孫が帰ったばかりだといいます。

「エレナって言うんだ。絶対ルチアなんて名前をつけちゃいけないって、娘にきつく言っといたからね。どこのルチアも苦労人ばかりだから。わたしの苦労を、 可愛い孫には絶対させたくないからさ。この腕一つで娘を育て上げるのが、どれだけ大変だったか分かるかい。わたしは誰の世話にもならずに毎日18時間働い て、この腕一つで育てたんだ。毎晩、夜は靴洗いのパートに出かけてさ。普通ならどこかの男とくっついちまうところだけど、わたしは違ったんだ。そうして娘 が年頃になると、いつも違う男を家に連れてきていてね、もうとっかえひっかえ、しまいにゃミラノ中の男の子と知り合いになった気がする。そりゃあ、こっち も堪らなかったよ。でも一人娘の望みだけは何とかいつも叶えてやりたいと思ってね、歯を食いしばって。自分は一食しか食べられなくても、子供にだけは人並 みの生活をさせてきた積りさ。空腹で街を歩きながら、食べ物を目に入ると思わず顔を背けたりして。そうして育てた可愛い娘が漸く身を固めて、ずっと子供を 欲しがっていたのになかなか出来なくてね。やっと授かった天使のような赤ちゃんなんだ。絶対こんな苦労はさせたくないよ」

頷きながら聞いていると、ピエモンテの民謡集に込められた言葉が一つ一つ心の底から甦ってきて、思わず胸から溢れそうになりました。人々が 歌にこめた思いの深さを、ふと、垣間見てしまったからかも知れません。ミラノのうす寂れた界隈を染める夕焼けは、オッジョーノの湖を湛える夕日より、少し ばかり渇いた色をしていまし
た。

(4月23日モンツァにて)






すみっこのミュージシャン  小島希里




Yちゃんと初めて会ったのは、もうすぐ、21歳になろうとしているわたしの娘が保育園に通っていたときのことだから、もう16、7年以上も前のことになる。Yちゃんの妹さんと娘が、保育園の同級生だったのだ。
 
Yちゃんが小学校二、三年生だった頃だろうか、妹さんにくっついて我が家に遊びにきたことがあった。Yちゃんは部屋にあがるなり、新聞や雑誌、書類があち こちに乱雑に積み重なっているのに目を留めた。するといちばんそばにある紙類をためらうことなく手に取り、食卓でとんとんと縁をそろえ、静かに元の場所に 戻した。わたしが驚きながら見ていると、Yちゃんは次々と課題をみつけ、部屋のなかの紙類をすっかり整頓してしまった。するとこんどは、斜めや横向きに つっこまれた本棚のなかの本にとりかかった。Yちゃんはその大仕事もすっかりやってのけた。ありがとう。わたしがそういうと、Yちゃんはじゅうたんの上に あぐらをかいてすわり、人差し指と中指のあいだにたばこをはさんで、ぷーっとひと吹きするしぐさをした。よく見ると、その座り方、その動作は、真向かいに 座っているわたしの夫をそっくり真似しているものだった。二人はまるで鏡の前に座っているかのように、ぴったり同じように動いてたばこを吸いつづけてい た。

その後すぐにわたしたちが少し離れた場所に引っ越したため、彼とは長らく会うことがなかった。演劇ワークショップに参加するためにやってきて、十年ぶりに再会したYちゃんは、もう二十歳をこす青年になっていた。屈託なく笑っていた男の子は、すごく頑固な青年になっていた。

彼はどんな会場でも、どんな参加者が集まっていても、かならずすみっこの床に陣取る。来るなり、(初めて訪れた会場でも)自分がいちばん落ち着 く場所をぱっとみつけ、そのかどっこを一瞬で自分の居場所にしてしまう。お弁当のときも、おやつのときもそこから動かない。みんなが部屋のまんなかに集 まって歌をうたっていても、グループに分かれて相談ごとをしていても、そこから動かない。じっと見ているだけ。何も言わない。

初めてやってきてから彼はずっとそうやって参加をつづけた。楽しいのかなあ。何にもしないし。そう思いはじめた頃、彼のお母さんからこうきかさ れた。「40度の高熱があっても、来たいといいます。大好きな歌手のコンサートのチケットが手に入っても、こちらの会に来ることを選びます」

一年近く、そんなことをつづけるうち、Yちゃんのまわりは目の前に迫った発表会の準備でせわしくなっていった。それでも彼は部屋のすみっこから じっと動こうとしなかった。本番前のリハーサルのために、そのすみっこにくっつくようにして、太鼓や鈴、CDデッキなど、上演中につかう音楽のためのス ペースがつくられた。するとYちゃんが、ときどき楽器に手を伸ばし音をならした。そこで、発表会には「ミュージシャン」という役で出ることになった。いや がってはいないから、いやではないんだな。わたしは、そんな感じで思っていた。

ところが本番当日、びっくりすることが起きた。なんとYちゃんが、どんなことがあっても一年間すみっこの居場所から出ようとしなかったYちゃん が、舞台真ん中に登場したのだ。小学校の頃からの幼馴なじみで、演歌が大好きなともだちが演歌歌手役として観客の前に現れると、その歌手について歩くバン ドマン役として元気よく飛び出してきて、歌に合わせてうれしそうにからだをゆらし、歌が終わるとすっといつもの場所にもどっていったのだった。しかも出演 するだけではなく、ミュージシャンとしての仕事を全うした。Yちゃんは物語の進み具合をしっかりと見守り、場面転換のときには太鼓をでっかく叩きならし、 夜の場面では闇にぴったりの音色で鈴をやわらかくならしたのだった。

翌年も、翌々年も、同じ「奇跡」が起きた。ワークショップのあいだはずっとすみっこに座っているのに、本番になると舞台の真ん中にでてきて踊 り、笑い、楽器をならすのだった。だからもうそれからは、それは奇跡ではなく、Yちゃんのやり方としてあたり前のこととなっていった。ところが今年に入っ た頃から、また、様子が変わってきた。本番でなくても、自分の場所からでてきて、「発言」するようになったのだ。自己紹介の番がまわってきたときに、ぴょ んぴょんぴょんと飛び跳ねながら真ん中にでてきて、ポーズをとったり。ともだちとつくった「タヌキも太陽もだんご虫も太鼓もおならぶー」という早口ことば の、「ぶー」に合わせて、前かがみになって笑ったり。Yちゃんのすみっこは、今、じわじわと部屋じゅうに広がろうとしている。

先月、港大尋さんがきて「がやがや」のメンバーだけのために、弾き語りの小さなコンサートを開いてくれた。そのなかで、タイトルをつけるとしたら「朝ごは んブルース」となりそうな歌を、一人一人のその日の朝ごはんをつないでつくった。Yちゃんの番がきて、今朝、何食べた?と聞かれると、彼は大きく口を開 け、一音一音区切るようにしてはっきりこう答えた。
「パ・ン・ケー・キとスー・プ」
初めてきく、彼のまとまったことばだった。羽がこすれあうような小さな声が、部屋のなかに飛びたった。






アジアのごはん(10) ビルマ・チェントゥンの花びら団子  森下ヒバリ




タイの北部メーサイからビルマのチェントゥンという町にやってきた。さっそく市場に行くと、残念ながら日曜日で休み。でも市場の外側に生鮮市場が少しだけ 出ていたので覗いてみた。そこで、うすいピンクの筋のようなものが小ぶりのおはぎくらいのお団子に丸められて売られているのを見つけたのだ。

「これは何なの?」
地面に布を敷いて売っているおばさんにタイ語で尋ねると、
「これはドーク・カオ。スープに入れたり、炒めたりして食べるのよ」
 と、教えてくれた。ドークとは花のことだ。どうやら花びらを茹でて丸めたものらしい。花びらは細長い筒状のもののようである。どんな味がするのだろう。 料理の出来ない旅先で、いつも悔しい思いをするのはこんなときである。ほのかにうすいピンクや紫のその固まりを、ほぐして見たくてたまらなくなり、一番小 さいお札を出して買うことにした。それでも100チャットで5つもある。2つでいいと言ってみたが、おつりがないからと5つ袋に入れられてしまった。
 
宿に帰って、お団子をほぐしてみると、やはりさっと茹でた細い菊の花びらのようなもので、なぜかさやえんどうも切って混ぜて一緒に丸めてあった。ほんのり と花の香りがする。そのまま少しだけ口に入れてみると、食用菊のような味わい。お浸しにしたら、とてもおいしそうである。う〜ん、お醤油がほしいぞ! 料 理に便利なように、茹でて手ごろな量を丸めてまとめてあるのだろう。一体、チェントゥンの人達はこれをどんなふうに料理して食べるのか。

チェントゥンはビルマのシャン州東部地域のもっとも東にある。ビルマの首都ヤンゴンからは、もっとも辺境のひとつであり、距離的にもかなり 遠い。飛行機でも3回は乗り換える必要があり、そのフライトもしょっちゅうキャンセルになる。ヤンゴンから陸路では外国人は行けないことになっている。途 中の地域がシャン・ステーツ・アーミーの支配下にあるからだ。中央軍事政権の力も地方では幹線道路と町を支配しているだけなのだ。
ただし、タイの北部からは意外に近く、アクセスも簡単だ。道路事情がかなり改善されていると聞いて、この春、メーサイから国境を越えビルマに入り、初めて チェントゥンにやってきたのである。国境のタチレクから車で4時間近くかかったが、その間、通行許可証をチェックするポイントが7〜8ヵ所もあった。 チェックポイントのたびに車を止めてドライバーはボックスに走り、手続きをする。道は穴も空いていなかったし、悪くなかった。もし直通でぶっとばしたら2 時間半で着くだろう。

チェントゥンは、古い家並みが続く、静かで美しい町であった。現在はビルマの国の一部なのだが、住民はほとんどがタイ族系のタイヤイ(シャ ン)族であり、かつてはこのあたりはクン王国と呼ばれていたのでクン族ともいう。17世紀に北タイのランナー王国から移住した人々の子孫だ。町ではアカ 族、インド系、中華系、そしてビルマ族が一緒に住んでいる。ほとんど車の通らない、チーク材を使ったシックで古いタイ様式の家並が続く町を歩いていると、 まるで今がいつの時代なのか分からなくなってくる。

タイ族の町というのは、どこも昔はこんなふうだったのではないだろうか。もう近代巨大都市と化したバンコクが中心のタイ王国にはこういう町 はどこにもない。そういえば、タイ北部の古都チェンマイで、友人が「チェントゥンは、昔のチェンマイみたいなところだと聞いたよ。行ってみたいな」と言っ ていた。

花びら団子を買った翌日、もう一度朝市へ。メインの市場は、この町の静けさと似合わず、とても大きく賑やかだ。ゲートを入ると、文具雑貨、 アカ族の民芸みやげもの、布地、衣類、金銀、素焼きのつぼ、アルミのなべ・やかん、ガラス食器、ほうろう製品、カセット、竹細工、工具、スパイス、お菓 子、乾物、米、お茶葉、豆腐、納豆、そして、生鮮野菜に肉・魚、麺類の屋台・・雑多でおもしろい品物が並んでいて、嬉しくなってくる。
中央付近にナンを焼くレンガの釜があるビルマ風喫茶どころが4軒ほど集まっていたので、そこでさっそくお茶にする。

「ミルク紅茶とナンのお店みたいだね」
「じゃあ、ラペイエください」
と、ビルマ語でラペイエ(ミルク紅茶)と頼むが、他の人の注文を聞いていると、タイ語であった。
「なんだ、ナムチャーにカノムパンってみんな注文してるよ」

お代わりをタイ語で言うと、にこっと店の娘が笑う。メニューはビルマ風なのだが、呼び方も働いている人もタイ族なのだ。ゆっくり飲んでいると、つぎつぎに客が来ては甘い紅茶を飲み、パンをかじって出て行く。
市場の中にお惣菜コーナーがあり、そこにあの花びら団子をくずして炒め煮した料理があった。少し買って食べてみると、けっこうトウガラシ辛く、しょっぱい味つけ。しょうゆとプラーラー(魚の発酵調味料)味かな。ごはんが進みそうだ。

町には、麺類の店は何軒かあるが、料理屋はあまりなく、しかもビルマ族料理屋がほとんど。このお惣菜のようなタイ族料理の店はなかなかみつ からなかった。地元の人はあまり外食をしないのだろう。ビルマ族料理は実はかなり苦手である。味のメリハリがなく油がとにかく多いのと、スパイス使いが体 質に合わないのだ。
夕方、町の中央にあるノーントン湖(池だと思っていたが湖らしい)のまわりを散歩していたら、店の前に材料を並べたタイ族料理っぽい店があるのを見つけた。生ビールもあり、外のテーブルで日が暮れるまでゆっくりミャンマービールを楽しむことができた。

料理は、タイで食べるタイ料理をもっとシンプルにしたような感じのシャン料理と雲南風料理であった。からし菜と鶏肉炒め、卵とニラと豆腐の雲南風スープ、瓜とニンジンの和え物、焼きそばなど食べる。なかなかおいしい。けっきょく、それから毎晩通った。

話をすると、やはりこの店の一家はタイ族であるタイヤイのシャン族だという。でもよく聞いてみたら、片親は中国系だ。息子の一人は以前何年 もバンコクで、香港人のためのガイドとして働いていたとのこと。タイヤイ(シャン)語、タイ王国語はまあ、ほとんど同じだとしても、そのほかビルマ語、中 国語もできるわけだ。
「古い伝統的な家も多いけど、池の向こう側は立派なコンクリートの家が多いね。このあたりで何の仕事や商売をしてお金持ちになるの?」

この小さな町で沢山の人がどうやって立派な家を建てるだけの財を成したのだろう、とふしぎに思っていたので尋ねてみた。
「みんな麻薬で儲けたんだよ。もう今は禁止されてやってないけど、親やそのまた親たちが残した財産だよ」 「えっ、麻薬・・」

そういえば、ゴールデントライアングルと呼ばれたこのあたりはかつて、阿片の原料ケシ栽培の中心地であった。チェントゥンはその中央卸売りセンターだったようである。
チェントゥンの美しい町並み、豊かさはケシがもたらした遺産だったのか。その遺産が食い潰されたとき、この美しい町並みも朽ち果ててしまうのかもしれない。





製本、かい摘まみましては(18)  四釜裕子





ある会社で昨年はじめて作ったという日記帳を見せられて、「これどう思う?」と問われた。上品な色合いの表紙やカラー刷りの中身は豪華で、そのわ りに値段が安いなぁというのが第一印象だった。机上に置いて文字の書き具合を試してみる。と、なんと、ページがペタッと平らに開かない。左手でおさえて開 いたところで、中央はこんもり盛り上がり、文字は書きにくい。ちょっと失敬してページをメリッと開いてみる。なんだかごく普通のあじろ綴じみたいだ。改め て全体を見ると、表紙がやや反り返っているし、思わず言ってしまった。「不良品だな、これじゃ」

どうやら中身について聞かれていたらしいのだが、そんなことは日記帳ならではの造作が整ったうえでのことである。まともに開かない日記帳を、いったい誰が 買うものかしら。これらの不備については発注側としての心当たりもあったらしく、「予算の都合でね……」などと言う。社内的な言い訳をここでされてもしょ うがないのであって、とにかく今年は「日記帳」としての造作を整えて、昨年と同じ体裁、中身で作ったらどう?と答えた。値段が上がっちゃうんだよねー、と 返ってきたので、そうね、と答えた。

そういえば、数年前に知った、良く開く製本法としての「広開本」やPUR製本は、今どうなっているのだろう。「広開本」は東京書籍印刷株式会社の考案によ るもので、同社ホームページをみてみると、「4,000万部突破!!」と出ている。その用途は、当初からのゲームソフト攻略本やレシピ、楽譜、絵本、地図 や事典などのほか、ユニバーサル仕様と銘打って、高齢者向けの書籍への採用が増えているようだ。これは、表紙の背の部分に特殊なテープを貼るだけで、通常 の並製本のラインでできる。

PUR製本はどうだろう。PURとは(Poly Uretane Reactive)の略で、そのポリウレタン系のホットメルト型接着剤を用いて製本するものだ。従来使われてきたのはEVA(Ethylene Vinyl Acetate)系のホットメルト。PURはEVAより接着強度が強く、古紙再生時には分離除去も簡単、これを用いると、「広開本」のように良く開く本が できる。2003年6月の「印刷情報」掲載の記事(株式会社宮田製本所)によると、PUR系ホットメルト自体の値段がEVA系の3〜4倍であること、使い きりであったり固化するまでの時間がかかるなど、使用するにあたって注意が必要とのことであった。現在では採用する製本会社も増え、地図などに特に多用さ れているようだ。読むというより使う便利のための製本だ。

ほかに良く開く製本法として、株式会社渋谷文泉閣の「クータ・バインディング」や、東京書籍印刷の「広開本」とほとんど同じにみえる株式会社越後堂製本の 「広開本」などもある。冒頭の話に戻ると、日記帳にもこうした技法は用いられているのだろうか。開閉頻度が高くて書きやすさと保存性が要求される日記帳は 独得だから、特別なノウハウがあるのかもしれない。いずれにしても、さまざま技術開発は進んでいる。開発すること、またその経緯を知る楽しみはかけがえの ないものだけれど、そのいっぽうでいつも思う。糸かがりすれば冊子はよく開く、しかし値段が高いのがネックだというならば、その絶対量を増やして値段を下 げるという方向は、ありえないのだろうかと。





写真・考  大野晋




さて、前回、コニカミノルタの写真からの事業撤退に驚いていたら、今回は中盤カメラの老舗・マミヤの事業撤退のニュースが飛 び込んできた。もともと、売れ行き不振で会社組織を変えているから、特に驚くことはなかったが、今や、カメラ店の店頭からレンズがなくなったりしているか ら、狼狽買いなどしている向きがあるのではないだろうか?しかし、とにかく、カメラの世界もデジタル家電化したようで、とにかく、生産中止、調整をした上 で発表しているのではないか、と、もっぱらの話だ。こんな様子が狼狽買いなどを誘引しているのだろうと推察する。

ただ、ここのところのデジタルシフトはかなり行き過ぎているような印象を受けている。まあ、小さなデジタルカメラが世界中で飽和状態になっており、また、 中国などを主生産基地にした安いデジタルカメラが市場に出回る中で、日本のデジタルカメラメーカーが厳しいのはわかるが、あまりに趣味性の高いカメラの領 域までもデジタル化を推し進めている様は、まるで、死へ突き進むレミングの群れのようにも思えてならない。現状のデジタル一眼レフは以前と比べると格段に進歩した とはいえ、まだ、フィルムカメラを凌駕する域には達していないし、そもそも、フィルムカメラ、デジタルカメラは対立軸で考えるべきものではないというのが このところの私の見解だ。

写 真を撮るということを、写真を撮るという技術論と、「写真」というものとに分けて考えよう。私も、IT関係の職業に就く関係で、随分と昔からデジタルカ メラの映像をそのままデジタル化されたコンテンツへの加工に流用できないか、と考えてきた。1、2百万画素と呼ばれていた時代は画質も、レンズの性能も、 そもそも、絞りとシャッタースピードという概念すら怪しいカメラだったので、フィルムで使える技法が使えず、諦めていた時代が長く続いた。おそらく、プロ 用の機材は出ていたが、アマチュアレベルで使えるデジタルカメラという意味では、6百万画素を超えたここ数年でやっと、意図した映像が撮れるようなレベル のカメラが手に入るようになったと記憶している。一眼レフでも使えるようになったから、多くの報道などの世界のプロは仕事としてデジタルカメラを使用する ようになっている。私は、おそらく、今後も印刷の分野、特に即時性を重んじる分野ではほとんどの写真がデジタルになってしまう (現状でもほとんどそうだろうが)と思っている。とにかく、映像の扱いは容易だし、手元で増感ができてしまうのだから、こういった分野にはうってつけの道 具である。また、撮影本数を気にせず、写真を取ることができるから、写真の技法を身に付けたい人たちも練習のためにはよいだろう。

ただし、詳細な映像が撮れるのと、「写真」を写すことができるということは分けて考えておく必要がある。写真とは記録であり、映像であるが、一方で写真家 にとっては、写真は芸術活動の結果としての作品でもある。作品が電子記録であるということはあってもいいが、電子記録だけあれば事足りるというものでもな いだろう。写真という概念が出ても絵画という活動がなくならなかったように、カラーフィルムが出ても白黒フィルムの焼付け写真がなくならなかったように、デジタルカ メラという表現手段が出ても、一方でフィルムに映すという活動はめんめんと生き残るように思っている。いや、生き残ってくれないと困るのだ。

今、デジタルカメラで撮影している人々は、あの暗室で画像が浮き上がってくる瞬間を知らないのだろうか。また、現像からあがったリバーサルフィルムを初め て見るときの鮮やかな色と光の印象を知らないのだろうか。そういった感覚も含めて、今後、如何にデジタル写真が進化したとしても、超えられない一線はある に違いない。

その一線で持ちこたえられるかどうかが、今後、写真という創作活動が残るかどうか、の分岐点になるようにこのところ思えてならないのだ。




ケージのアナーキー   三橋圭介


ケー ジの「ヴァリエーションズ4」。ホールという空間を移動しながら各自が自由に音を発し、行為を行う。固有の空間という器と、はじまりから終わりという時間 の枠が重なる。音や行為が枠の中身、つまり音楽ではない。そこには大きな「沈黙」がある。だが「沈黙」は沈黙ではない。

ケージは大学の無響室に入り完全なる沈黙がないことを発見した。かれはそこで二つの音をきいた。血液が流れる音、神経系統の作用音。「沈黙はな い」。ホールにはいろいろなノイズで溢れている。人のざわつき、咳払い、プログラムをめくる音など。「沈黙」とは日常音を内包した音の世界。

ケージの50年代以降の作品にある音と「沈黙」には中心がない(中心とは周縁との区切りで、そこにはヒエラルキーが存在する)。つまりすべてが 対等な(あるいはばらついた)音と「沈黙」(日常音)の世界。それは自然界のアナロジーを連想させる。木があり、草があり、川があり、動物も虫もいる。そ れぞれには固有の時間と空間がある。
 
自然は美しいといわれる。しかし、それを音にすればケージの「ヴァリエーションズ4」のようになるだろう。それは美しいか? ケージの音楽はカオスであり、アナーキー。だから、美しく見える自然も本来はカオスであり、アナーキーだ。
 
ある場所に竹を植えれば、竹がほかの植物をやっつけてしまう。だが、植物は住み分ける。動物もそうだろう。自分の場所を探す。そして、居心地が悪くなれば 移動する。「ヴァリエーションズ4」は、音や「沈黙」が棲み分ける、時間によって区切られ た空の器といえないだろうか。
 
もしも、この作品に演奏の善し悪しをいうとすれば、その棲み分け、つまり共生のバランスだろう。それは固定されず、常に揺れ動いている。ケージのアナー キーな偶然性の音楽はかれの理想とする世界観の表明であり、音と「沈黙」の過剰さの表面のなかにその姿を隠している。ケージの「ヴァリエーションズ4」 は、美しい。





ジャワ舞踊の衣装  冨岡三智




最近はジャワ舞踊の話からそれてしまっていたので、久しぶりにジャワ舞踊の話に戻ろう。ジャワ舞踊の魅力は、その優雅な動きにあるのはもちろんなのだが、その動きを作っている衣装の魅力に負うところも大きい。というわけで、今回は特に衣装に注目してみよう。

ジャワ舞踊というのは、中部ジャワ地域で王宮を中心に発展した舞踊のことで、スラカルタ(通称ソロ)とジョグジャカルタ(通称ジョグジャ)が主な中心地である。ちなみに文化的に単にジャワと呼ぶ場合は中部ジャワだけを指し、東ジャワや西ジャワを含めない。


○カイン・バティック

ジャワの伝統衣装の着付では、バティックを施したカイン(上下約1m×長さ約2mの布)を1枚、腰に巻く。バティックは一般にジャワ更紗と呼ばれている が、多くの人が想像するような多彩な色使いの花鳥模様のジャワ更紗は、スラカルタやジョグジャカルタのものではない。王宮都市のバティックは、白地や茶色 地に抽象化された模様が整然と描かれた地味なものだ。その中でも舞踊に用いられるのがパラン模様である。これは王族だけが着用できる禁制模様で、現在でも それは守られている。つまり踊り手がこの柄を着用できるというのは、逆に言えば、踊っているときだけ踊り手は王族の身分になれるということなのだ。

このカインの着付け方にはいろいろあるのだが、スラカルタには、カイン・バティック1.5枚分を横に縫い合わせたものを巻きつけ、裾を60cmくらい引き ずる着付け方(女性用)がある。スラカルタ宮廷舞踊の着付け方で、ジョグジャにはない。この着付け方を一般的にサンバランと呼ぶ。この布を腰にぴったり沿 うように二巻きし、余りが体の前面に来るようにして襞を取り、その襞を両足でまたぐように着て、尻尾のように後ろに伸ばす。その尻尾が、標準体型の人だ と、だいたい60cmくらいの長さになるというわけだ。そして踊る時は、裾が足にからまないように、その尻尾の部分を左や右に蹴りさばく。実はサンバラン とは「サンバル=蹴る」の名詞形なのである。しかしサンバランというのは通称で、宮廷では違う名称がついているが、失念してしまった。実は裾を引きずるよ うな服を着てみたいというのが私の小さい頃からの夢だった。ローブデコルテや十二単、打ち掛けなど、お姫様の衣装はどれもみな裾を引きずるものと決まって いる。サンバランの裾はこれらの衣装のように張りがなく、その蹴られた裾がさざ波のように揺れるから、いかにも優雅だ。

さらに宮廷舞踊のスリンピやブドヨでは、その尻尾の部分にピンクと白のバラの花びら、それに刻んだ良い香りの葉(これらをあわせてクンバン・スタマン=庭 の花という)を巻き込む。おまけに香水まで振り注ぐ。それ以外の舞踊作品でもサンバランの着付けをすることはあるけれど、花びらまでは巻き込まない。座っ て合掌していた踊り手が立ち上がり、裾を蹴るたびに、ねじっていたカインの端がほどけ、巻き込まれた花びらが少しずつこぼれて、宙に舞い散る。その様子は 散華のようだ。それに視覚的に美しいだけでなく、花びらの香りが辺り一面に拡がって嗅覚をも刺激する。これは踊り手の気分をも恍惚とさせてしまうくらい だ。

ブドヨの場合は、クンバン・スタマン以外に薬味のようなものも混ぜる。薬味の内容については失念したが、1つはしょうがみたいなものを使う。ジャワで「ダ ルマニンシウィ」という作品を踊った時に(水牛2003年3月、2003年4月に書いています)、実際にその薬味を巻き込んで踊ったことがある。花びらだ けだと官能的な雰囲気に酔ってしまいそうになるけれど、この薬味が入ることで一気に鎮静され、瞑想的な気分になる。と言いつつも、「ダルマニンシウィ」の 時は、私はしょうがの匂いに思わず空腹感を覚えてしまったのだが…。

花を巻き込むだけでなく、カインにお香を焚きしめることもある。宮廷にはかつて王様が着用するカインにお香を焚きしめる係がいたという。私は、王女さまが お香を焚きしめたカインを身に着けて踊るのを見たことがある。その時は踊り手との距離が遠かった割りには、動きにつれて仄かに香りが漂ってきたのには驚い た。こんな風に香りや花を贅沢に使うやり方は日本にはないなあと思ったものだ。


○カイン・チンデ

サ ンバランには、カイン・バティック以外にチンデと呼ばれる布を使うものもある。チンデはインド伝来の柄で、スラカルタではブドヨだけに使われる。ブドヨ (9人の女性による舞踊)の方がスリンピ(4人の女性による舞踊)よりも儀礼的な舞踊で、それにチンデを使うのは、おそらく宮廷儀礼とヒンズー仏教との間 に何らかの関係があったからなのだろう。そのチンデの布は、インドでは織物であった。私も日本での展覧会やスラカルタの骨董屋でオリジナルのチンデを見た ことがある。どちらも布の両端に織物の耳が厚く残っていた。現在ジャワで目にするチンデは、染めて作られているから耳はない。しかし布の両端に線が描かれ ていて、耳の名残がある。


○サンプール

サンプールは腰に巻いて、手で払ったり、指でつまんだりして使う布である。大人だと60cm幅×3mくらいの大きさのサンプールを使う。ジョグジャではほ とんどチンデ模様のものを使うのだが、スラカルタでは男性荒型の舞踊やブドヨを除き、ほとんどの場合無地のものを使う。シフォンなどの柔らかく透けた布地 を使い、両端にビーズで房をつけることが多い。

これがまた乙姫や天女や仏様が肩にかけているショールのような感じで、お姫様好きには憧れの小物である。だがサンプールを払うのは簡単そうに見えて結構難 しい。未熟者が払うと手首によけいな力が入ってしまうし、それに薄物はとにかくアクセサリー類にひっかかり易く、未熟者はとかく粗相しがちだ。けれど上手 な人がサンプール払うと、なんだかサンプールの滞空時間が長くて、本当に画に描かれた天女を見ているような気持ちになる。スリンピやブドヨでは皆同じ衣装 を着て踊るけれど、ある人の周囲だけ時間の流れがスローモーションになっていて、あるいは濃密な空気が立ち込めていて、その人のサンプールだけがいつまで もふんわりと宙になびいている、と見えることがある。そんな風に踊れたら良いなといつも思っている。


○ビロードの胴着

下半身を覆うのがジャワの伝統的なカイン・バティックであるのに対して、女性の上半身を覆うのは西洋からもたらされた素材=ビロードの胴着である。こんな 風に上半身と下半身の素材のルーツが異なるのは、ジャワ舞踊だけに限らず東南アジア各地の伝統衣装によく見られるものだ。南国ではかつて上半身に何もまと わなかったのだが、西洋人が服を着るように教化・強制したので、上半身が西洋風の衣服になった、というわけである。それはともかく、ジャワの女性舞踊の一 般的な着方にはメカッ(=ビスチェ・タイプ、両肩を出す)とコタン(=袖なし上着)の2通りのモデルがある。どちらもビロード地に金糸で刺繍をおいたり、 モールやビーズで房をつけたりして、豪華に仕立て上げたものが多い。

スリンピの場合はメカッでもコタンでもよいのだが、たいていはどちらを使うのか決まっている。ゴレッという種類ならコタンだし、スリカンディなどワヤン (影絵)の登場人物はメカッである。また女性の踊り手が男性舞踊の演目を踊る時は、メカッを着ることになっている。男性の踊り手なら本当は上半身何も着な いのだが、女性が踊る場合はそれはまずい…というわけである。


○ドドッ

ドドッというのはカインを上半身に巻きつけて着る着方の総称で、宮廷には何種類ものドドッがある。舞踊に使われるのは、ブドヨを踊る時のドドッ・アグン (大きなドドッ)という着方で、これは花嫁衣裳にも使われる。ドドッ・アグンでは約2m×5mの大きさの布を巻き込み畳み込んでいって、上半身から膝あた りまでを覆うように着付ける。それには金泥でアラス・アラサン(森の模様)と呼ばれる柄が描かれ、その生地はカインよりもずっと厚くて重い。ちなみに、私 はジャワに住んでいる時、ドドッ・アグンの布を普段はカーテンとして使用していた。ちょうど窓2枚分を塞げる上に、生地が厚くて全然光を通さず都合が良 かった。

ドドッ・アグンでは布を巻く醍醐味が味わえるとはいえ、重量も相当になるので、覚悟がないと着れない。普通は美容師に着せてもらうもので、1人ではまず着 ない(着れない)ものだが、私は日本で何度か1人で着て踊ったことがある。私はこのドドッ・アグンがジャワ舞踊の衣装の中で一番好きなのだ。

この衣装の魅力はやはりその儀礼性の高さにある。ドドッ・アグンの場合はカインとサンプールはチンデのものを使用する。これらを全部身に纏うと、ビロード の胴着にカイン・バティックを着る場合とは全然違う心持になる。ただ大変踊りにくいのは事実である。ジャワ舞踊では必ず座って合掌してから立ち上がるのだ が、ドドッでは相当量の布が上半身に巻き付いるので、手をつかずにすっと立ち上がるのが難しい。現行の宮廷の踊り方では、立ち上がる前に踊り手は必ず手を つき、「どっこいしょ」という感じで両膝を揃えて体勢を整えてからおもむろに立ち上がる。練習の時(カイン・バティックを身につけている)にその立ち方を 見てみっともないなあと思っていたが、上演の時はドドッを着ることを考えると、致し方ないなあという気がしてくる。

こういう古典のドドッではなく、着やすいドドッも発明されている。それはブドヨ用ではなく、結婚式でよく踊られるいわゆる「ラブダンス」ものの演目のため である。スラカルタでは、1970年代から男女がペアで踊る演目が結婚式用に盛んに作られるようになった。その第1号がマリディ作の「カロンセ」で、これ にはパンジ王子とスカルタジ姫という設定があり、その衣装を着る。しかしそれ以後に芸大を中心に作られた作品では、そういうキャラクター設定をせず、衣装 も次第に花嫁衣装に似せたものを使うようになってきた。つまり踊り手が花嫁・花婿を演じるというわけなのだ。この場合は、カインよりも少し長いドドッ・タ ングン(1m×2.5m、タングンは中途半端の意)と呼ばれる布を、ドドッ・アグン風に着付ける。これは薄くて着やすく、動きやすい。芸大の先生が考案し たと聞いている。





反システム音楽論への準備   高橋悠治


 

「音楽の反方法論序説」を書いてから数年経って こんどは「反システム 音楽論」を書きたい 反システムだから 体系的な記述ではありえない すべてを新しく書くこともない 以前に何度も考えた問題 書いた文章から抜き書きし て 必要なら書き換える という作業 短いパラグラフの編集とコラージュをするうちに 予想されなかった方向へ逸れていく というかたちでありたい

20代前半からピアノを弾き 作曲をし コンピュータをつかって作曲や演奏をするプログラミングを続けてきた 同時代のアヴァンギャルド音楽からはじめて クラシックも演奏するようになり 即興するようになり それらは統合されない複数の分野であり 統一などありえない 多様な活動でありつづける

それは活動を分断して専門領域に囲い込む この文明のせいだけではないだろう システムに取り込まれるのを逆用して 統合を拒否する抵抗でもありうる こ の状況では 一般理論や自己主張はなりたたない 順応でも個人主義でもない 運動のなかで生成する 外側からは あいまいで多義的 まがりくねったプロ セスの軌跡が見えるだけだろう 時間的にも空間的にも距離をとった群れの 相互作用から ついに安定することのない揺らぎと崩壊が 発見を誘う

外側からはある一貫性が見えるかもしれないが うごいている内的な視点からは その時やるべきことをやっているだけ それにしても 半世紀も経って ごく わずかな発見しかなく 時は加速していくように感じられるいま 当然のことながら 出発点からは遠いところをさまよっている 日本の「現代音楽」からは  関心はすでに離れた かつての友人たち もっと若い世代の作曲家たちは 何をしているのか 興味をひくような音楽は あまりない アカデミズムは栄え 闇 は深くなる

昨年マネージメントを離れてみると よくよくのことがなければ 他人のコンサートにも行かず CDをきくこともない日々になり それでも何の問題もないの だから それらは結局 生きるためには不要な音楽だったのか 音を必要としている場は どこか他所にあるのではないか と思える

いままで わずか数曲をあつかっていた音楽出版社とも だんだんに縁を切り 楽譜はネット配信にしてみると 世界の向こうでそれをダウンロードして演奏す る知らない人たちもいる 音楽出版社 指揮者 コンサートホール 音楽祭 レコード産業というような古典的な経済関係は もう過去のものなの に 作曲家たちは その現実に追いついけない 民俗音楽や即興音楽 エレクトロニクスでは 楽譜さえ不要になりつつあり 最近の録音技術は 生演奏のあり かたを変えるほどにもなっているのに そんな変化とも無縁な場所に引きこもって 「国際的な」エリートの音楽を追求してもしかたがないだろう

マネージメントを離れたことによって いままでやっていたようなコンサートの自主企画はむつかしくなった だが 問題はむしろコンサートという 生活から 離れた場所にとじこもる音楽のありかたではないだろうか といっても それに換わるかたちがすぐ見つかるわけもなく 理論で創れるものでもない あらゆる 方向にすこしずつひらいていくプロセスにまかせると 目標を最初から決めて それに近づく努力をするよりも 時間がかかる 時間のちからが 触発を問いに 深め おだやかな変化に 身体を染めていく

これまで書いたようなローカルな事情は ちょうど世界の転換期と一致していることに気づく 1492年以来の500年間に一つの文明が世界を覆い 一極支 配のプロセスは だれも止めることができなかった 先行する他の文明がそうであったように これもいつかは過ぎ去るもの それも外側からの破壊ではなく  それ自体の繁栄の重みで崩壊するのだ その兆しは 世界のあちこちで すでに顕れている

音楽は 社会的芸術であり 複数の人間をつなぐという意味で 政治的であることは避けられない 文明の興亡や 社会の変動と無関係ではいられない 価値基 準はすでに ひびわれている 20世紀の世界音楽は 世紀末に向かって解体していった 状況は混沌としている 歴史をさかのぼり 過去を発明しながら 別の回路をひら くことはできるが 生成は展望をもたない あらゆる方向に道が延びていく いままでのヨーロッパと北アメリカ中心の世界地図にかわって その他の地域  中南米 アフリカ アジア太平洋が 視界に入ってきた 中心が移動したのではない 地図に中心はない 移動そのものが地図 関係の束が微分される 測れな いほどの時空のわずかな移転が 一瞬に全体を組み換える

この音楽ではなくあの音楽を というような革命の時代でもなく 破壊や反体制の時も過ぎた いまは反省の時間 これかあれかではなく これとあれ さらに 音楽よりは さまざまな音が行き交う場をひらくのが この時代にはふさわしい

これを序として しばらくは 自分が昔書いたことばをてがかりに 考えてみよう いまや世界システムを内側からうたがうことばが起こり その周辺から批判 する視点もある イマニュエル・ウォラーステインのアメリカ権力衰退の予言 トニ・ネグリのマルティテュード ジル・ドゥルーズの差異 ウンベルト・マ トゥラーナのオートポイエーシス ベル・フックスのブラックフェミニズム サパティスタの寓話 かれらの思想をうけいれ 解釈するのではなく ことばの断 片を触媒とする振動の 増幅 システムに換わるシステムではなく システムにならない運動 砂のように にぎりしめられず 手からこぼれ落ちる なめらかな流れ

つづきは来月また





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