2006年11月 目次


しもた屋之噺(59)              杉山洋一
幾何学と音楽(2)               石田秀実
動きを揃えること                冨岡三智
アジアのごはん(15)チェンマイのカレー麺  森下ヒバリ
オモシロクロン──翠の虱(25)        藤井貞和
製本、かい摘まみましては(22)        四釜裕子
音色1                     三橋圭介
高い山は下界とは違うという話           大野晋
砂漠のスーパーマン               佐藤真紀
ピンクの桜                   小島希里
反システム音楽論断片6             高橋悠治
  


しもた屋之噺(59)  杉山洋一




今月も文字通り気がつくとあっという間に過ぎてしまい、やり残しの仕事ばかりがこちらをうらめしそうに眺めています。この所朝の4時過ぎに起きて、子供が起きるまでの僅かばかりの貴重な時間を、自分のために使っているのですが、朝の霧がとても濃くなり、秋の深まりを感じます。一面が乳白色に包まれて、庭の木のシルエットが黒く浮き上がるのも美しく、朝9時過ぎ、庭からへろへろの柵ひとつ隔てた小学校の校庭で、子供たちが歓声をあげて体操を始めるころ、霧もすっと消えてゆき、空にぽっかりうそのような青空が顔をのぞかせるのも、どことなく愉快で、思わず顔がほころびます。

先週の今頃は、名古屋の中部国際空港で朝一番の成田ゆきに乗るため、見事な朝焼けのなか、何十年かぶりに名鉄電車に乗っていました。前日、名古屋で多治見少年少女合唱団の皆さんが歌ってくださった、「たまねぎの子守唄」を聴きに、ほんの4日間だけ日本へ戻ったからです。春に東混で初演した「ひかりの子」と同じ、スペインの近代詩人エルナンデスのもっとも有名な詩の一つ、「たまねぎの子守唄」をテクストに使い、フランコ政権下、政治犯として獄死する監獄で、見たことすらない7ヶ月の次男の写真を眺め暮らし、貧しさゆえに、たまねぎとパンしか口に出来ないと嘆く妻の手紙に応えて書かれた「たまねぎの子守唄」は、誰しもの心を穿ちます。



たまねぎはじっと閉じた
貧しい霜。
お前の昼と
僕の夜が生んだ霜。
空腹とたまねぎ
黒い氷と霜
大きいものと円いもの。

空腹の揺りかごに
僕の子供は佇んでいた。
たまねぎの通った血で
乳汁(ちしる)を吸っていた。
でもお前の血には
甘い霜が降りている。
たまねぎと空腹。

褐色の女が月明かりに熔(と)け
揺りかごの上に
一本また一本
細い糸を放っている。
笑え息子よ。
お前が望むなら
月を持ってきてやろう。

我が家のひばりよ
沢山笑え。
お前の笑みは
瞳に耀く世界の光。
この魂がお前の声を捉え
宙を叩くほどに。

お前の笑みは僕を解き放ち
翼をもたらす。
孤独を追い払い
牢獄を消し去る。
口は空を駈け
心はお前の唇に、
明滅している。

お前の笑みは
勝利の剣。
花々とひばりたちの
勝鬨(かちどき)の声。
太陽の好敵手。
僕の骨と愛の
来るべき未来。

羽ばたく翼を纏う身体
睫毛は早く
彩り溢れる人生。
どれだけの五色鶸(ひわ)が
お前の身体から
飛び立ってゆくのだろう!

目覚めると自分は赤子だった。
お前目を醒ましてはならぬ。
僕の口は悲しさに歪んでいるけれど
一枚ずつ翼の羽を
笑みを護(まも)りながら
揺りかごのなか
お前は笑みを絶やしてはならぬ。

広漠と空を駈け
天を亙(わた)るものであれ。
何故ならお前の身体は
誕(う)まれたばかりの空。
もし許されるものなら
お前が辿った道程を
起源にまで立ち戻るものを!

八ヶ月になったお前は
五つのオレンジの花と共に
五つの微(わず)かな
野生を剥き出しにしながら
青春が薫る
五本のジャスミンの花と共に
僕に笑いかける。

それらは明日
並んだ歯の裏側に
お前が武器の芽生えを覚え
歯の底で
身体の芯めがけて
駈け降りる火を認めるとき
口づけの境界線となる。

乳房の重なりあう月のなか
お前は飛んでゆけ。
乳房は悲しみのたまねぎ
お前は満ち足りている。
決して崩れてはならぬ。
何が生じて何が起こるのか、
お前は知らなくてよい。


スペイン文学において、もっとも悲しい名作と讃えられるこの詩は、内容の美しさ、強さだけでなく、エルナンデス独特の、実に豊饒な響きのレトリックの魅力もあります。しかも、この詩は大衆を意図して書かれたものではなく、純粋に狭く暗い監獄のなかから、自分の子供がほほえむ写真のみを胸に、想いがどうか届いてほしいという願いだけを頼りに書かれていて、何度も読み返すと、「父性」と「男性」が痛切に浮かび上がります。

今の自分よりずっと若いエルナンデスに、父のもつ強さと尊厳、男、人間としての生が、深く刻印されることにも、さまざまな思いが巡り、国と民族の存亡のために、命をかけて戦っていた一人の人間の強靭な精神力を思います。この驚くべき強さは、ファシスト裁判で「この頭脳を止めおかなければならぬ」と言わせしめたグラムシを想起させずにはいられません。ちょうど同じ頃、等しい状況下で彼も獄中にあって、自らの子供を見ずして世を去ったのではなかったでしょうか。もちろん、エルナンデスは詩人・活動家であり、グラムシは共産党の頭脳だったわけで、全く違う志向もあって、スペインとイタリアという、人種そのものも似て全く非なる国に生きたのですから、混同は許されませんけれども。

曲はともかく、多治見のみなさんの演奏は、とても素晴らしいもので、子供たちがこんなに真摯に、想いをひとつにしてこの詩に対峙している姿を詩人が見たら、どんなにか喜ぶだろう、そう思いつつドレス・リハーサルを聞いていたら、不覚にも頬を熱いものが伝いました。生まれて初めての経験で、恥ずかしかったですが、周りに誰もいませんでしたから良しとしましょう。曲の質より、詩と演奏に圧倒されたのですが、多治見のみなさんは、原語で歌うと決めてから、単語一つ一つの意味を噛み砕いて理解していって、最後には、スペイン語のもつ強烈なエネルギーを十二分に発散してくれました。人間の声がもつ途轍もないポテンシャルに、あらためて驚かされました。

日本を旅行する機会になかなか恵まれないので、リハーサルのために多治見に一日お邪魔できたのも楽しい思い出です。特に電車が高蔵寺を過ぎたあたりで、途端に深くなる山や川の深い色が日本らしくて、車窓を走る風景にときめきを覚えた子供のころを懐かしく思い出しました。多治見の街の静かで上品な佇まいと、人々の温かさが、自分にとって「たまねぎ」にまた違った意味を与えてくれたように思います。「たまねぎ」を歌っているときの、ひたむきな子供たちの顔が鮮明に頭に焼きついたまま、ミラノへ戻りながら、こういう音楽との付き合い方もあったのだなと、うらやましい気持ちさえ頭をもたげました。掛け値なしに純粋に音楽と向い合えるのが、何の見返りも展望もなく言葉を綴った、エルナンデスにどこか通じるものを感じたからかも知れません。

さて、明後日から始まるノーヴァの譜読みすらまともに出来ていない上に、一昨日は客間のタンスを一人で作ろうと箱を持ち上げたところ滑り落ち、左足の親指をしたたか打って酷い思いをしました。予定では今日、ついに念願の電子調理台が一ヶ月遅れで届くはずで、わびしい簡易調理台と電子レンジに頼る日々から漸く脱すことが出来るか、というところ。エキサイティングな気持ちで朝届くはずの調理台を待っていますが、すでに午後一時。イタリア時間は我慢という言葉を教えてくれます。数日前まで物置と化していた客間も、何とかこの原稿を書ける環境にもなって、夕方ミラノに着く義父たちのベッドメイキングをしてみたら、最低限の人間らしい生活は保証できそうな気もしてきました。今週は家人が留守で、久しぶりに子供と頭をつき合わせて朝から晩まで暮らしていると、意外に理解力が進んでいるなとか、色々発見もあって面白いのですが、やはり夜、寝かしつけていて、気がつけば不覚にもこちらが眠り込んでしまっているのが一番の問題だったりするのです。

(10月28日 ミラノにて)




幾何学と音楽(2)  石田秀実





ギリシャ・ローマ期の間に、すでに発達していた線遠近法の技法を、ある意味で打ち破ったビザンティンの絵画は、自然の外のありもしないひとつの視点から、神のように静止してみる描き方を嫌った。彼らは逆に、神が自然の中のあちらこちらを、逍遥し、眺め渡したかのような逆遠近法の絵画を描いた。ヨーロッパ中世の絵画を担う技法でもあったことから、しばしば野蛮な技法のごとく記述されることもある逆遠近法は、実は、線遠近法の「神に対する不遜さ」に気づいた人々によって、あみだされたのだった。

逆遠近法のもうひとつの意味は、記号学者、ボリス・ウスペンスキーがいうような、人が実際に「在る」空間の体験である(ボリス・ウスペンスキー『イコンの記号学』 新時代社 1983)。画面の内側ではなく、外側の超越的一点から、事物を見る線遠近法の作者は、そこからのみ見える視角に固執することになる。その一点に不動の姿勢で立つ人間が中心点となり、そこから二次元平面である画面を、幾何学的な空間として見うるように、線遠近法絵画は描かれている。

それに対して逆遠近法の作者は、その絵画の中に入り込んでしまう。入り込んだ作者は、そこで様々な場所、様々な視覚から事物に触れ、そこにある空間の全体のなかで、事物がどのように多様的に見えるかというより、「在るか」に注意を向ける。個別の事物が、絵画の外側の在る一点からどのように見えるかが、コピー=写実されるのではなく、その事物の空間内における在り方が多角的に示されるのだ。そうして描かれた絵画の中で、個個の個物は、確かにある一点から写実的に見えているようには見えない。だが、そこではそれら「事物が在る空間」が、その内側から、全体として体験されている。絵画は、それを描く人がその中に埋もれている空間として、見られるというより、体験されるのだ。

完全な逆遠近法というわけではないが、日本の絵画の特徴とみなされている俯瞰視も、最初は西欧的な逆遠近法との関係で、研究がなされた(熊代荘蓬「東洋画の逆遠近法に関する観察」『画説』61号 国書刊行会 1942など)。絵画の外ではなく、内側の空間の中に入り込んで、その空間を体験するような画法である。西欧的な俯瞰視との違いは、観察視点が特定できず、どの視点から眺めたのか想定できない(というよりむしろ、視点が多様に動いていく)ところにある。視点は、描かれるものの動きに従って、様々なところに自由に動いていく。絵画の外側の超越的な一点から描く線遠近法とは、まったく異なる感性が、ここにはある。絵の中の景観は、外部からではなく、絵画の中の人物、画中をさまよう人から見られた景観である。

観察視点が揺れ動く俯瞰視と水平視とが混在したその空間は、認知論的には、目に映るイメージよりも心的イメージを伝える絵画技法として、このごろ注目され出している(山田憲政「動く襖絵―日本の伝統的空間認識」栗山茂久・北澤一利共編『近代日本の身体感覚』 青弓社 2004所収)。それは幾何学的というより、心理学的に描かれた、絵画の空間認識だといえよう。

音と人とが偶然出会うことから始まるような作曲のあり方は、こうした非幾何学的絵画のあり方と、似ているところがある。人は自然の中で移ろい、多様な音空間に出会う。音空間は人を包み、人はその中に埋もれる。
音空間に埋もれながら、更に人は移ろい、多様な音の多様な相を体験する。いくつかの音空間は重合し、それらは人の動きにつれて、様々な位相を示す。そうした音空間もまた移ろっていき、聴こえたり消え去ったりしながら、人と多様な関係を取り結ぶ。そこでは音たちは、外側から予め幾何学的に順序だてられる対象というより、音空間の内側で移ろう人が、たまたま出会っていく存在である。

たとえ時間と共に幾何学的に順序だてて奏でられた音であっても、認知論的に考える限り、その音空間の重なりや動きは、順序どおりに認識されるとは限らない。音の群れを外部から、予め幾何学的に透視して、その位置を定め、役割を割り振っても、音の認知は必ずしもそのようになるとは限らないのだ。
心的イメージの中で、音達がずれたり重なり合ったりして、多様な記憶の空間を形作っていくことを、わたしたちはすでに過去の音楽体験の中で、経験してきている。凝縮した時間の中に浮かぶウエーベルンやフェルドマンの音楽は、幾何学的に順序良く整序された音楽記憶の空間とは、およそ異質の心的イメージとして、私たちの想像力の内に鳴り響く。

様々な繰り返しの音楽や、レゲエなどのリズムも、人の想像力のなかで移ろい、重なり合って、人を音空間の重合の中に埋もれさせる。ひょっとしたら、そこにおいてさえ予め定められてあったかもしれない幾何学的なそれぞれの音の位置と役割は、記憶の空間の中で、どこかに消え去り、心的イメージとして、その認知論的意味を失っていくのである。

それに替わって想像力を占めるのは、予め定めてあったこととは別の、聴くことの中から組み合わされ、創造される心的イメージだ。幾何学的に透視されていたかもしれないイメージや見取り図からは、思いもよらないような心的イメージが、想像力の中にひろがっていく。音楽を聴くことが、テーマや形式を探し当てることではなくなるような、音楽の在り方、音との関係のあり方を探っていって、たどり着くひとつの始まりの地点に、私たちはいる。



動きを揃えること  冨岡三智





複数の人が一緒に踊るとき、たぶん私たちのほとんどは全員の動きが揃っている点をとても評価する。バレエやミュージカル、ラインダンスなどで、大勢の踊り手が一糸乱れずに踊っているさまを見るのは壮観だし、そこに美しさを感じる。けれど、揃っているのが美しいというのはある1つの価値観であって、絶対的なものではない。

バレエやミュージカルやラインダンスなどには、振付家という全体を統括する人がいる。画家が一点透視法を用いて画面に絵を描いていくように、振付家は、自分の目という一点を基準にして、大勢の踊り手を額縁舞台の中にデザインしてゆく。踊り手の動きは1つに揃えられ、個々の面貌が消されて、最後には1つの線として配置される。そうしたときに初めて別の美しさが見えてくる。それが全員が揃っている美しさ、なのだ。

そういう視線が1970年代にジャワ・スラカルタの伝統舞踊界にも持ち込まれた。アカデミー(ASKI、現在の国立芸大)の学長で、かつ中部ジャワ芸術発展プロジェクト(PKJT、1969〜1981)の長も兼任していたゲンドン・フマルダニという人が、西洋芸術の概念を持ち込んで伝統舞踊改革を推し進めた。それは一言で言えば伝統舞踊の舞台芸術化で、その中でもPKJTの一番の特徴が、複数の人で踊る演目(特に女性舞踊)で全員の動きを一糸乱れぬように揃えたことなのだ。当時それは驚異的で新鮮で、一般の人たち、特に若い層の心をとらえたのだが、その一方で、舞踊関係者からはロボットみたいだという批判も受けていた。

この「揃っている動き」の発見は、当然ながら「群舞」という概念の発見と表裏一体の関係にある。フマルダニは1960〜62年に欧米に留学してモダン・ダンスやバレエも学んでいる。そしてイギリスではバレエを見た感想を書き残しているのだが、そこには、空間におけるバレエの線のすばらしさと、ジャワ舞踊ではたとえ複数の人が一緒に踊っていても、それは単独で踊っている人が集まっているだけなのだ、という気づきが書かれている。この舞踊の線というのは明らかにコール・ド・バレエの人たちの軌跡を指していて、フマルダニ自身も群舞という概念を言い表すのにコール・ド・バレエという語をよく使っている。

しかし、フマルダニがコール・ド・バレエの概念をジャワ宮廷舞踊の演目(特に儀礼性の高い女性舞踊)にまで当てはめたのは間違いだった、と私は思う。確かに元来のジャワ宮廷舞踊には単独舞踊の演目はなく、複数(4人とか9人)で踊るものばかりだ。それに皆同じ衣装を着て、同じ振付を踊る。しかし、だからと言って、彼女らは群舞(コール・ド・バレエ)だと言えるのだろうか? たとえば、やはり宮廷の式学である舞楽も皆同じ衣装を着て同じ振付を踊るけれど(4人で踊るものなんかは、宮廷舞踊のスリンピととても似ている)、あれを私たちは誰も、コール・ド・バレエみたいなものだとは思わないだろう。ジャワ宮廷舞踊や舞楽の踊り手は、コール・ド・バレエのように、他の何か(主役)を引き立てるために背景化された存在ではない。舞台には彼らしかおらず、彼ら自身が「世界」、あるいは「宇宙」を代表している。舞楽の方は知らないけれど、ジャワの女性宮廷舞踊の踊り手には、各ポジションに「頭」、「首」、「胸」などという名前がついていて、つまりはそれぞれに意味がある存在なのだ。

一糸乱れぬ動きを、フマルダニは踊り手たちに毎日長時間の練習を課すことで、可能にした。全員の動きを経過点ごとに揃えて、手で布を払ったり、引きずっている裾を足で蹴り払うタイミングまで揃えていった。だから当時の踊り手=今の芸大の先生たち、とくに女性の先生たちは、全員の動きをいかに揃えられるかという点に練習の意義や達成度を見出す。女性舞踊にそれが顕著なのは女性舞踊の方が一緒に踊る人数が多いのと、それからやはり公演機会が多かったからだと思う。

私はかつて芸大の先生たちと一緒に公演したことがあって、来月もそのメンバーと一緒に公演することになっているのだが、この全員で揃えようという志向の強さには参ってしまう。今度の公演は私がスポンサーなので、とにかく、全員の動きは揃える必要がない、昔の宮廷舞踊のように個々の舞踊を踊ってください、と強く要望している。それでも先生たちは、「1人だけ動きが違ったら、間違えたと思われて嫌だ」と言う。他の人と揃わないということを、なんだかとても恐れるのだ。私としても、「むしろ古い上演の仕方として、あえて全員の動きを揃えてしまわないようにした」ということを、司会の方から言ってもらわないといけないなと思っている。

ジャワの音楽や舞踊にはウィレタンwiletanという語があって、個々の演奏家や踊り手の間で微妙に異なる個人様式のことを言う。過去の有名な踊り手は皆それぞれ独自のウィレタンを持っている。そういう単語があるということからも分かるように、各人でウィレタンが違うのはむしろ当たり前なのだが、先生たちのウィレタンに対する態度はこうだ。Aという公演ではaというウィレタンでいきましょう、とか、振付のこの部分はaというウィレタンだけど、あの部分ではbにしましょう、とかいう具合に、いろんなウィレタンをメニュー化しておいて、その中から1つ選んで揃えるのである。確かに芸大という所にはいろんな調査レポートがあるので、先生たちはいろんなウィレタンを知っている。私はウィレタンというのは踊り手の人格と一致した時におのずとにじみ出てくるもの、あるいは個々の踊り手がアイデンティティをかけて追求するものだと思うのだが、先生たちは、いろんなウィレタンをとっかえひっかえ使い分られることにプライドがあるみたいで、自分の個性にあったウィレタンを追求しようという姿勢があんまり見られない。(本当は、そういう意識がない、とまで言ってしまいたいぐらいだ。)そしてそれはたぶん、全体で揃えましょうという志向の高さと裏表の関係にある。

こういう具合だから、4人で踊るスリンピで、私と3人の芸大の先生が踊ると、当然私だけが揃っていないということになる。このことは以前の公演でも観客から指摘されてきたのだが、しかし上手下手は別として、私の舞踊の方がよりクラシックに見えるとも、何人もの人に評された。皆で揃えようという意識が私にはないのだが、それはつまり観客に見せようという意識が乏しいのだ。そういう観客へのサービス精神がないという点が、とてもクラシックな舞踊と映るらしい。来月(26日)の公演がどうなるか分からないが、また来月か再来月にその結果を書いてみたいと思う。




アジアのごはん(15)チェンマイのカレー麺  森下ヒバリ




今回は、タイの北部の古都チェンマイに行くと必ず食べる名物料理、カレー麺のカオ・ソイの話。カレー麺は、タイではチェンマイ以外ではほとんど食べることが出来ないので、チェンマイの名物料理となっている。今ではチェンマイのふつうの麺屋さんでも食べられるところが多くなったが、もともとは中国人イスラムの料理屋でしか食べられないものだった。ビルマにも似たような料理があるため、ビルマ料理ではないかと言われることが多いが、歴史を辿ると違うことが分かる。ちょっとふしぎな由来を持つ麺なのである。

チェンマイ旧市街の城壁から門を出てターペー通りを東にしばらく行くと、夜にはみやげ物屋台が並ぶナイトバザールのチェンクラン通りとの交差点に出る。チェンクラン通りを南に入っていくと、チェンクラン通りとチャルーンプラテート通りの間にイスラム通りとでもいうような短い通りがある。

この通りにはイスラム学校、礼拝堂、イスラム料理屋、宝石屋などがあり、住人はほとんどが中国系のイスラム教徒だ。豚肉もお酒も絶対置いていないイスラム料理屋は2軒あり、カレー麺のカオ・ソイと鶏肉の炊き込みご飯カオ・モック・ガイが中心のメニュー。

ここで食べるカレー麺カオ・ソイは、こんな麺料理だ。黄色い小麦粉の中華麺の上に赤いトウガラシ油の浮いたココナツカレースープをかけ、よく煮込んだ鶏肉をのせる。さらにその上にカリカリに揚げた中華麺をのせ、香菜パクチーをふりかけて出来上がり。小さな別皿にマナオ(タイのライム)、シャロット(小赤たまねぎ)、そして高菜漬けが添えられて出てくる。マナオを絞り、シャロットと高菜漬けも入れる。そして、ナムプラーやトウガラシなど調味料を少し加えて味を調え、いただく。

タイ中部主流のさっぱり汁麺のクイティアオとはちょっと味わいが違う。まったりとしたココナツミルクの風味が強いため、カレー風味はそんなに舌に残らない。このカレー麺はターメリックや乾燥スパイスのマサラ、インド風のカレー粉を使うが、いわゆる伝統的タイ料理にカレー粉は使わない。じゃあ、カオ・ソイはカレー粉を使っているからインド料理か、と思うのもまた少し気が早い。中華麺を使うインド料理はない。一方、ビルマのカレー和え麺パンデー・カオスエはカレー味だし、まだ食べたことはないが、パンデー・カオスエのバリエーションとしてココナツミルクスープのオンノー・カオスエというものもあると聞く。また、マレーシアのカレースープ麺ラクサもカオ・ソイに似ている。

ではなぜ、このインド・中華折衷料理のようなカオ・ソイがチェンマイ名物になったのか。その答えがこのイスラム通りの歴史にあった。

バンコクなどの中国人が福建・広東方面からやってきたのとは異なり、チェンマイに住む中国人の多くが雲南省からやってきた人々で、しかもムスリムだというのは、以前から知ってはいたが、彼らがどういう経緯でこの地にやってきたのか、あまり気にしたことはなかった。あるときイスラム通りの店でカオ・ソイを啜りながら、店の表で売られている雲南のお茶を見て、その頃アジアのお茶についてあれこれ調べていたわたしは、はっと思い当たったのである。

各地のイスラム・コネクションを利用して、雲南の中国人イスラムたちは古く元朝以来、交易にかかわってきた。雲南のお茶は優秀なチベットの軍馬と交換され、それは茶馬貿易と呼ばれていた。そのお茶も背の低い馬の背に乗せられて交易の場に運ばれていた。しかし、そうだ、交易はチベットだけではなかったぞ。むしろ、チベット向けは中国の政府がかかわる交易で、個人商人たちの出る幕はない。お茶や生糸など雲南の物産は北や東へ向かう交易路だけでなく、雲南省西部からビルマのバモー、そして川を下って王都マンダレー、パガンへというルート、昆明や西双版納から南下してチェントゥンを抜けチェンマイに至り、さらにチェンマイからメーソットを抜けビルマのマルタバン港(現在のモッタマ、モーラミャイン)へ抜けるというルートがあったではないか。
さっそく調べてみると、わたしが座ってカレー麺を食べていた店の辺りは、まさにその交易路の宿営地、かつて中国人ムスリムの商人たちが荷物を乗せた何十頭もの馬を連れて辿りついては、その馬を繋いだ場所だった。彼らは中国では馬幣(マーパン)と呼ばれ、タイではホー、ビルマではパンデーと呼ばれた。

もっとも、このチェンマイルートは19世紀半ばまでは、山が深く道が悪いためあまり盛んな交易路ではなかったようだ。しかし、1856年に清朝によるムスリム弾圧が起こり、一時は大理にイスラム政権までできたが、結局は清朝によって滅ぼされ、雲南省に住んでいたムスリムがたくさん殺され、ビルマへたくさんのムスリムが逃げ、移住するという事態になったのである。雲南省には当時100万人いたというムスリムが10分の1に減った。雲南に残ったムスリムは南に追いやられ、それまであまり使っていなかったチェンマイルートを交易に使うようになった。19世紀後半から第2次大戦に至るまでチェンマイは中国人ムスリム商人たちの交易路・中継地となったのだ。

馬幣の往来が盛んになってから、このイスラム通りは、現在に近い形で形成されてきたと思われる。第二夫人を交易地で娶り、そこにもうひとつ家を持つのも便利であるし、中国から移住してくる人もいただろう。イスラムに対する迫害から逃れる人もいただろう。中国人ムスリムたちは中国、ビルマ、タイ北部を行き来して物産を運んでいたわけだが、ビルマにはイギリスが植民地化してからベンガル地方のインド人がたくさんやってきていた。ベンガル地方はムスリムが多い。彼らが、中国人ムスリムと結婚することもよくあった。

つまり、カオ・ソイは雲南から来た中国人ムスリムがイスラム・インド(ベンガル)のスパイスを取り入れて創作した料理のひとつなのである。ココナツミルクを使えば、豚骨ダシを使わなくてもコクのあるスープが出来る。鶏の炊き込みごはんのカオ・モック・ガイの方はインド・イスラム料理のチキン・ビリヤニそのままでとくにアレンジはなされていないのに比べて、カレー麺カオ・ソイは小麦粉麺好きの中国人の工夫の成果なのだろう。

カオ・ソイという名前だが、実はタイ語で、米の麺を表す言葉である。カオは米、ソイは細長いものを表す。古くは、カオは料理のことも意味していたので、米の麺に限らず、麺料理という意味合いがあったかもしれない。西双版納、ビルマのシャン州、北部ラオス、北部タイ地方では米麺のことをこう呼んでいた。チェンマイからバスに乗って半日で行けるメコン川の向こうの北部ラオスではカオ・ソイといえば、今でも米麺に肉味噌をのせた料理のことである。北部タイのチェンマイでは、最近はすっかり中部タイで使われる福建・広東系の米麺を表す言葉クイティオに取って代わられてしまい、チェンマイにしかないカレー麺にだけその呼び方が残ることになったと思われる。

ビルマ語の麺を表す言葉はカオスエと言い、パンデー・カオスエなどのカレー麺があるため、タイ料理とは異質なチェンマイのカレー麺カオ・ソイがビルマから来たと思われているのだろう。しかし、カオスエはタイ語(シャン語)カオ・ソイからの借用、訛りである。パンデー・カオスエは、まさに「中国ムスリムの麺」という呼び名。これらカレー麺を考えたのは、ビルマ北東部に住んでいたか雲南に住んでいたか、チェンマイに住んでいたかは分からないが、このあたりを交易していた中華麺が好きなムスリムの中国人商人たちなのだ。中国人ムスリムの妻となったベンガル人奥さんの作、というのが一番ありそうだ。
カオ・ソイを食べると、きまって服に点々と赤い油のシミをつけてしまう。とろりとしたスープ麺は汁が跳ねやすい。いつも後で気付いて、あ〜、しまったと思う。雲南から馬と旅を続けていた商人たちも、シャツにシミをつけて舌打ちしていたかもしれないと思うと、なんだかふしぎな気分になるではありませんか。




オモシロクロン──翠の虱(25)  藤井貞和






オシクモロン
いや、オクシモロンのニシワキは、
声以後(古英語)を、
象(ぞう)に見せかけて。


想像と、象(ぞう)徴とを
悲惨と、飛散とで、
はさんでいる笑う宝石である。


噴水もまた、
飛散する。 困ったな。
新倉に訊け。
あれも、これも、それも。
白、黒、オモシロクロ評論。



(あれも これも それも。 沖縄の人はね、琉球新報と、沖縄タイムスと、どちらを読んでるのですか、と訊かれると、朝日新聞も読んでるんです、と答える〈高良勉〉。 佐久間〈鼎〉が、「こ」「そ」「あ」「ど」を美しいと言ったのは、ヒヤランヅ゛ェアをどうしようとしたんだろう。)




製本、かい摘まみましては(22)  四釜裕子





「水なし印刷」なんてとっくにないものと思っていた。いくら「環境にやさしい」印 刷ですといったって、しょせん印刷代が高くてやがて淘汰されるだろうと思い込み、 関心をなくしていたのだ。この夏、ある印刷会社に「うちは水なし印刷です」といわ れ、とっさに「まだあったんですか?」と返して怪訝な顔をされ、さらに「じゃあ値 段が高いのでしょう?」と問うと「昔の話です」と返された。昔の、話。今の話が知 りたい。お願いして、水なし印刷の現場を見に行く。

通常のオフセット印刷では、印刷の工程で湿し水を使う。水が油をはじく性質を利用 して、紙にインキがつかない部分をつくるのだ。この水には、印刷機能を高めるため の化学物質が付加されている。対して水なし印刷は、表面をシリコンゴムで覆った版 を用い、これがインキをはじくので、水は、使わない。これが「水なし印刷」という 名称の由来だ。さらに、これまでのオフセット印刷では版の現像により強アルカリ性 の廃液が出ていたが、水なし印刷では出ないので、「環境にやさしい」方法といわれ てきた。

日本で水なし印刷の開発に着手したのは1970年代。その目的は、インキが水でにじま ないこの方法で、より高精細印刷を実現したい、というもの。なによりその版素材の 開発がキモだったようで、まずは3Mがトライするも、詳細はわからないが実用化に いたらず、1976年に繊維メーカーの東レがシリコン版を開発する。それには、東京の 文祥堂印刷が、鍋を囲みながら発した同社代表の「やってみようか」の一言で会社を 実験工場とし、開発の一翼を担ったようだ。

従って、「環境にやさしい」なる枕詞がついたのは後のことで、ずっとやってきた方 々にとっては今やタナボタと受け止めるしかないのでありましょうが、私などはその 枕詞こそが牽引したのだと思い込んでおり、愚かなことですが、おおかたそうではな いかしら。今では多くの企業が、環境保全推進の姿勢を示すひとつの手段として、自 社の印刷物を積極的に水なしで印刷している。

水なし印刷はその版面の温度を一定にすることが必要なため、印刷工場全体の温度や 湿度が管理されており、また臭いもない。見学した工場内も、実に快適でスマートで あった。別室で作られた版のデータがケーブルを通して送られてきて、版の現像もあ っという間に終わってしまう。版材や専用インキの値段は従来のものに比べれば高い が、それまでの廃液・排水処理のための費用はかからないし、ヤレ紙(印刷に失敗し た紙)は減り、また印刷機械のオペレーター養成期間も短縮されるというから、全体 としてのコストはむしろおさえられるというのは、うなずける。

こうしてみるといいことずくめの水なし印刷だが、それを推奨する団体、WPA ( Waterless Printing Association )が認めた水なし印刷に付す「バタフライマーク」 は、米国の国蝶・オオカバマダラ ( Monarch Butterfly )だ。この蝶は美しいしアイ コンとしてもいいのだけれど、私たちは今後印刷物にこの「バタフライマーク」と大 豆インキ使用を示す星条旗柄の「ソイシール」を、よかれとして印刷物に付してゆこ うとしている。気味の悪いことである。




音色1  三橋圭介





音楽をきくとき、音色は最も大切な要素だろう。ただ音色という言葉は難しい。ある人が音色と呼んでいるものと自分が音色と呼んでいるものが同じとは限らない。

一般的にはヴァイオリンの音色、ピアノの音色などともういが、ピアノの場合なら、「音色を変化させる」という言葉のなかに、「タッチを変える」という意味合いが込められることがある。タッチを変えると音の質感は変わる(アタックの音が関係しているだろう)。いつも使っているクラヴィノーヴァはサンプリングされた音で、理論的にはその大小の変化しかない。しかしタッチによって(あるいは曲想の変化によって)、音色が変わったと印象付けることができる。これはある種の「錯覚」で、多くのヨーロッパ芸術はこの「錯覚」をたくみに使う。

ピアノも技術によって音のムラを無くして均質化し、クラヴィノーヴァに接近していく。「あの人のピアノは多彩な音色で」というとき、大方の場合この種の「錯覚」であることが多い。

逆に考えるなら、均質化した技術ではなく、不均質な技術による演奏のほうが音色が豊かということになる。ピアノではないが、スーコフスキーの弾くケージ。たとえば、「チープ・イミテーション」はおもしろい。なめらかさや流暢さからほど遠く、一般的な演奏基準からすれば下手に聞こえる。ヴァイオリンの音はムラだが、だからこそとても豊かで複雑に響く。下手だからではなく、巧い人が音色のためにあえてそうやっている。これは決して「錯覚」などではない。




高い山は下界とは違うという話  大野晋




夏の高山のお花畑は、花が咲きそろいまるで天国の様相を呈しています。
気温も、下界に比べるとすごしやすい温度で、私なども避暑を求めて高山に登ったものです。

人間、本当に似たような環境を見ると、するっと違いを忘れてしまいがちになります。
天国のような、などというと実際に天国のように思いますが、実は高山は過酷な地獄のような環境だったりするわけです。お花畑がなぜお花畑としてそこにあるかというと、寒さが厳しかったり、湿度が足りなかったり、風が強かったりして高い木が育たない厳しい条件のためであったりするためなのです。であれば、天国のように見えはしても、実は地獄のような世界が待っていると言えるのかもしれません。

しかも、こういった厳しい気候条件の場所には春も秋もありません。あるのは、厳しい冬と楽園の夏だけです。
下界は春だといっても天上界はまだ冬ですし、下界は秋だと思っても実は天上界はいきなり地獄の冬に変化することがあります。

この厳しさを理解していないと、いきなりの冬山への変化に遭難事故が起きたりするのです。
この秋も厳しい秋でした。いきなりの冬山に多くの遭難のニュースを聞くにつけ、高い山を下界と同じ気持ちで見ることの怖さを感じました。

違うからこそ、あの美しさがあるのだと理解してほしいと思った10月連休でした。




砂漠のスーパーマン  佐藤真紀




デンマーク、2003年のイラク戦争のクルド難民が、今コペンハーゲンで暮らしている。この一家と一緒に、絵本を作ろうというのが今回の訪問の目的だ。小雨降る朝、飛行場に降り立つと、ファーデル(19歳)が迎えに来てくれた。私のスーツケースを取り上げて、バス停まで運んでくれるが、コロをうまく転がす方法を知らず、ぼこぼこぶつけながらしんどそうに運んでいる。

ファーデル一家は9人家族。お父さんは83歳。一番下のアーデル君は11歳だから70を過ぎてからの子どもだ。結局他にも6人くらい子どもがいるらしく、合計すると一ダースを超えているのだが、詳しくはよくわからなかった。このイラン生まれの老人の生命力は驚くべきで、イラン革命で祖国を追われイラクへ移住、そしてイラク戦争でイラクを追い出されたのだ。いまだに威厳すら感じられるのである。

「子どもたちが体験した砂漠の生活を書いて欲しいんだ」
逆立ちの大すきなアーデル君(11歳)とスウェイバちゃん(13歳)がちょうど手ごろな年頃だ。
「それは、いい考えだ。本になるんだね。僕も描くよ」とファーデルが描き始めた。
とても下手な絵だったので、「もういいよ。子どもたちに集中してもらおう」

そんなわけで、一週間、こもりながら子どもたちと絵を描くことになった。アーデルもスウェイバも昼間は小学校にいってデンマーク語を勉強している。私は、コペンハーゲンの町をうろつきながら時間をつぶす。ファーデルは、働くことを考えている。デンマークの難民政策も、政権が右傾化して、厳しくなっているという。難民を手厚く保護すると、今度はデンマーク人が文句をいう。
「商売を始めたいんだ。お金を貸してほしい」とファーデルが切り出してきた。
「私も貧乏だからね。でも本ができればいくらかお金が入ってくるよ」
「そいつはいいや」と有頂天になっている。

ファーデルの近くには50を超えた姉たちが別に暮らしている。彼女たちは、デンマーク語の学校に通うわけでもない。生き別れになった弟がニュージーランドに再定住したので、いつも弟に会いたいとファーデルたちを困らせている。
「毎日なんだ。みんなうんざりさ」いまだに、砂漠のキャンプから外に出られない人たちがいるわけだから、ニュージーランドにいけただけでもありがたいと思わないと。イラク難民は100万人はヨルダンにいて、難民認定されるのは、毎年数十人、受入国が決まるのはその中でも本のわずかにすぎない。

さて、子どもたちの絵はどうなったか。
アーデルが見せてくれた絵は、スーパーマン! そんなのキャンプにいなかっただろう。それでもアーデルは調子に乗ってスーパーマンの絵ばっかり描いていた。
 次の日、見せてくれた絵は、怪獣の絵。そんなのいたの? それでもアーデルは怪獣の絵を描き続けた。

一方、スウェイバの方は、私の意図を理解してくれて、キャンプの生活を、描いてくれた。お姉さんのシーシャ(18歳)も手伝ってくれて、素敵な絵を描いてくれる。私はお礼にシーシャの英語の宿題を見てやったりしたが、スウェイバが今度はなんとなくすねてしまった。この3人は、ひっきりなしにファック・ユーと罵り合っている。アーデルとシーシャは、ファックユーとつばを吐いて、殴り合いのけんかを始めてしまうありさまだ。

おそらく衛星放送のTVを見て覚えるのだろう。イランのMTVのような番組があり、これがなかなかファックユーな音楽で、露出度の高いお姉さんが踊っている。今のイランからは想像できない映像だ。彼らはイラン語(ペルシャ語)もわかるので大喜びで見ている。でもお父さんがやってくるとあわててチャンネルを変えて、クルド語の放送になる。そして、延々と続くクルディッシュダンス。テンポが速く、リムスキーコルサコフの蜂が飛んでいるみたいに聞こえる。

そして、毎日クルドのお茶をのんだ。角砂糖を口の中にほうばり、紅茶をグラスから受け皿に注いで、ずずーと口に含むと砂糖を溶かしながら飲んでいくのがクルド流の茶道だ。シーシャもおてんばのスウェイバもよく働く。ファーデルがえらそうに「おーい、お茶」といえば、文句も言わずにお茶を出してくれる。おかげで、膀胱が破裂するくらいお茶を飲んだ。

デンマークとクルドが混在する中であっという間に一週間が過ぎた。若い子どもたちはすっかりデンマーク人のようになっている。ちょっと年取った子どもたちは、生活のために何とかデンマーク語を覚えようとがんばっている。老人たちは、クルド人として一生を終えようとしている。難民の世代を絵本で表現できないか? それが今回の企画だった。

ファーデルがうれしそうに「本はできそうかい」と聞いてくる。
「タイトルが決まったよ。スーパーマン・砂漠に行く」
私は苦笑いしながら、これじゃ本にならないよとつぶやいた。




ピンクの桜  小島希里




玄関のブザーを押すと、ドアの向こうから、声がする。「ほら、ター君、希里さんよ、希里さん」広い玄関の中に入ると、廊下の向こうから、ター君が駆け寄ってきた。わたしが、映像作家だったら、この瞬間をカメラに収めるだろう。両手を羽根のように動かして、太ももを叩き、左右に大きく揺れながら、25歳のからだがゆっくりこちらに近づいてくる。フレームから出入りする。歓迎してくれているその気持ちが、いつもよりかすかに早い足取りに現れているところを、カメラは捉えられるだろうか。わたしの姿を認め、目を合わせ、立ち止まったター君は、手を差し出すでもなく、声を出すでもなく大きく目を見開き、じっとわたしを見つめている。
「こんにちは」とわたしが声をかけると、くるっと向きを変え、ター君は広い廊下の奥の居間に戻っていった。

がやがやに参加するとき、ター君は、いつもリュックの中に演歌歌手のカセットテープを忍ばせてくる。何よりも、演歌が大好きなのだ。香西かおり、中村美津子、天童よしみ・・・女性歌手の張りのある声が好みなのかな。春がくるまで 桜はさかん、そやけど心は ピンクの桜・・・持ってきたカセットのなかから一本選んでもらい、演歌がなるなかお昼を食べていると、いつも笑いがこみ上げてくる。さて、今日はだれの曲を選んで、聞かせてくれるんだろう。

お茶を飲んでお母さんとおしゃべりしているわたしの横に、隣の部屋からター君が小さなポータブルのカセットプレーヤーとプラスチックの籠をもってやってきた。籠のなかには、カセットテープが20本ぐらい入っている。片手でデッキを膝の上にのせると、反対の手でなかから一本のテープを迷わずつかみ、挿入した。すぐに早送りのボタンを押しつづけぱっとはなすと、再生ボタンに指を移し、音楽をならした。と思ったら、何秒か─―わたしにはなんの歌かわからないほどの何秒間後にすぐに停止ボタンを押し、早送りのボタンで最後までテープを回すと、取り出しボタンを押してテープを出し、裏返して、またテープを挿入。テープをひっくり返し、挿入。そしてまた、早送り、再生、停止、取り出し。次のテープへ。

同じ作業が、10本分ぐらい繰り返された。ター君は荷物一式を持って部屋から消え、さっきのカセットプレーヤーと別のテープのはいったケースを手に下げ、戻ってきた。早送り、再生、停止、取り出し、ひっくりかえして挿入、早送り、再生、停止、取り出し・・の繰り返し。職人のような確実な手つきには、何か使命感のような、達成目標があるような、まっすぐな強い意思を思わせる。お母さんによれば、一本一本のテープのなかの、好きな歌のなかの、好きなフレーズのなかの、ごく一部分だけがききたくて、こうしているらしい。

こうやって、テープをかけていると、カセットプレーヤーは一月もしないうちに壊れてしまうらしい。「だから、ほら」とお母さんが部屋の奥から数台持ってきた。「安いときに、何台かこうやって買いだめているんですよ。もし、カセットデッキを売る店がなくなったら、ほんとうにどうしましょう。ター君、生きていけなくなっちゃうんじゃないかしら」彼はCDには、まったく興味を示さない。厳選された歌のかけらと、カセットプレーヤーの温度やボタンの感触、早送りのときの震動や裏返すときのテープの重みとが交じり合わなければ、求める音は聞こえてこない。

わたしが映像作家だったら、とまた思わずにはいられない。この音と景色を同時に、映し出せたら。お姉さんの「うるさいから、やめなさい」とくりかえす声もいっしょに捉えることができるのに。テープの数は、どれぐらいあるんですか、とお母さんにたずねてみた。「この前、ごっそり捨てたんだけど、それでもまだ、山のように二階にしまってあるんですよ。でも、ター君には小出しにしてわたしているの」心のなかのカメラが、戸棚にしまいこまたテープが居間にぜんぶ並べだされたところを思い描く。テープの海にかこまれたター君がみてみたい。




反システム音楽論断片6  高橋悠治




どうしても ことばはことばを呼ぶ
何もしないうちに 理論だけが空回りする
そうならないように 目をそらして
視界に入ることばから 別な方向へ加速する
跳ね回るピンポン球のように いまは
先月の石田秀実に触発されて かってな夢見にふける

音のあらわれを待つ時間の長さ
あらわれた音を耳で聴くというより
身体を揺り動かす地震波のように
音は予期した身構えをはずし
その瞬間は はかられる線上の一点ではなく 
足元からさらわれて 思わず一歩踏み出してしまう
かまえもなく 音は音を呼ぶ
これが 即興でもあり
ある作品を演奏するなら
一つ一つの音の群れに 時間の弾みを帰していく試みになる
紙の上で音符を即興的に書き付けていくことには
別な問題がある
できるだけ速く書かなければならない
それでも 演奏する身体の速度には追いつけない
型は 一種の速記だが
閉じられた地域のなかで郷土芸術が栄えた時代はすぎた
共有する型や伝統は すでにみせかけのもの
それなら 現実の世界化を逆手に取って
引用の織物を作ること
異なる音階 作品 時代 文化の色彩の層と断絶による
短波ラジオのダイヤル
遠い声を伝える 世界の音楽化

メロディーとハーモニーの快楽にひたるのでなく
伝統の再興でもなく
それらも蔭の部分として含みながら
身体のリズムと批判のことばの両極の間に張られ
ストレッチによってやすらぎ
関係にひらかれながら 我を忘れる
音色の帆

著作権保護期間延長にさからいつつ
あくまで他者でありつづけること




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