人はたがやす 水牛はたがやす 稲は音もなく育つ

1984年4月号 通巻57号
        
入力 棚町幸則


ルポライターの孤独  鎌田慧
「スター」日記  坂本龍一
家族・友だち日々の糧  志沢小夜子
料理がすべて  田川律
ボクが先生をしていた高校  糸取アヤ
たのしみがなくなった  高橋悠治
生活ノート  平野太呂
子供たち  柳生まち子
子供に合っていない学校  西山正啓
ブタ草七変化  竹内晶子
六十四歳になったら  無名閣士
ぼくが作った本  平野甲賀
わるいくせ  八巻美恵
下手の横吹き笛日記  西沢幸彦
友だちと呑めば本になる  津野海太郎
横流しカット  柳生弦一郎
編集後記



ルポライターの孤独  鎌田慧

2月16日 大牟田市野添住宅に松尾夫妻を訪問。夫の修さんは昨年、三井鉱山を停年。六三年、四五八名の仲間が殺された三川鉱炭塵爆発で CO(一酸化炭素)中毒患者になっていたから再就職できず。坑内労働の期間が短かったために厚生年金は六〇歳から。それまでは雀の涙の退職金を取りくずし て生活するとか。退職しても、この社宅に居坐っていく、という。三井がやったことを思えば、当然である。大牟田発十一時五十三分の西鉄特急(特急料金はな し)で、福岡市天神に出る。二時半の全日空で羽田着四時。五時に市ヶ谷の喫茶店で某誌記者と会う。六時半からエディタースクール。受講生八人。うち二人 は、事務局員が用意したサクラ。

2月18日 清瀬―池袋―日暮里―取手―水海道、そしてタクシーと乗りつぎ(三時間かかった)、入院中の友人を見舞う。スイゾウ、タンノウ、モウチョウを 切り取る四時間の大手術から十日目。やつれ切ってウナっているかと思いきや、ロビーに女性患者たちを集めて熱弁をふるっていた。ヘンな奴だ。そこから新宿 の朝日カルチャーへ。三時からの講義にすべり込みセーフ。諦めていたのに、間に合うから不思議だ。生徒三二人。学生から五六歳の主婦まで。

2月21日 池袋、高田馬場の喫茶店で編集者と会い、七時すぎに新宿の喫茶店。戸田れい子、高橋悠治、津野梅太郎の順で姿を現す。津野梅太郎の案内で、魔 窟のような台湾料理店で老酒。支払いは津野。ゴールデン街を二軒まわって高橋宅到着午前四時。

2月22日 一宿一飯の主人の子息がスケートで転倒との電話。救急病院は高橋家から歩いて二、三分。便利なところに住んでいるのである。

2月24日 時計屋のIさんと有楽町で会う。現代の退廃はどこにあるか、と彼は語り始める。テレビでみた野坂参三の眼鏡はべっ甲に金をあしらったもので、 五〇万円以上。あなじようなものをしていたのは、藤山愛一郎と元KDD社長板野某ぐらいとか。共産党の象徴と財閥の御曹司と横領男が、三大眼鏡とは、やは り退廃。

2月27日 二時半の日航機で福岡へ。日航は大キライなのだが、この会社だけが福岡―札幌の直行便をもっている。料金は四万六千五百円。ところが、全日空 の東京経由便だと、五万二千六百円と六千百円の割り高。それで主義を曲げて日航機を使用。ところが、あとでよく計算してみると、東京―福岡往復、東京―札 幌往復の料金合計九万五千円と東京―福岡―札幌―東京の料金九万四千百円では、九百円しか安くないことを発見。やはり主義は曲げない方がいい、との教訓を えた。

2月29日 一時半の日航機で福岡発。雪のため直行便は欠航。羽田空港内の食堂で短い原稿を一本書いて投函。そのまま札幌便にとび乗る。この日は札幌泊。

2月30日 十時三分の石勝線で夕張へ。閉山によって二千人がクビ。廃屋となった炭住はブルで倒されていた。顔馴染みの孫請の親方の話によれば、壊したア パートの押し入れから置き去りにされた遺骨が出てきたという。それまでは、夜になると廊下を歩く物音が聞え、“幽霊屋敷”とよばれていた。お坊さんを呼ん でお払いをしたとか。

3月2日 廃校になった小学校を改造した、ファミリースクール「ふれあい」に泊った。一泊二千円。それでいて部屋は二八畳の広さ。一畳あたり七二円の格 安。部屋のまん中に布団を敷く。朝七時半、黒板の上のスピーカーが突然どなりはじめる。「シーツと枕カバーは外に出してください」。食堂は元職員室。風呂 は元理科室である。

3月11日 朝まで完徹。大宮発十一時三五分の新幹線で新潟へ。十六時四〇分発の東亜国内航空機で大阪へ。大阪から全日空に乗り継いで高松着十九時四五 分。

3月12日 高松地裁で財田川判決傍聴。無罪。無罪は当然。判決批判を十三枚。支局から「朝日ジャーナル」へ電送。クタクタ。

3月13日 前日、三四年ぶりに釈放された元死刑囚、谷口繁義さんの実家(財田町)へむかう。どこへ行っても記者団がすさまじかった。夕方、いくつかのセ レモニーをようやく終えた谷口兄弟と祝盃。繁義さんの食欲はものすごく、バラずしのおにぎりを五つ、たてつづけに食べる。前夜は興奮状態で一睡もしていな かった、という繁義さんを二階にあげ、兄の勉さんと二時すぎまで酒。釈放されてきたら一緒に飲もうというのがここ数年来の楽しみだった。元被告は、酒にも タバコにも興味を示さず健全である。

3月14日 朝、繁義さんの表情は和やかなものになっていた。朝食、昼食ともこたつで御馳走になる。一宿三飯の恩。故郷の山河がすっかり荒廃している、と いうのが、三四年ぶりの帰郷者の感想だった。それは人間の荒廃も示しているという。
俳人の元被告に、小生が即興の駄句を献呈。
 しみじみとうどん味わう春の雪
雪冤の感慨をうたったものであります。


「スター」日記  坂本龍一


二月十五日(水)十時半、起きる(起こされる)。昨日、講談社の富田氏に何年かかってもいいから小説を書けと言われる。十二時、音響ハウス8F、第一スタ ジオで「矢野顕子ソロ・アルバム」レコーディング。五時頃、スタジオに悠治さんからTEL有り。「水牛通信」に〈スター日記〉を書いてくれとのこと。ひき 受ける。スタジオに写真家のヒロ伊藤氏来て、アッコの宣伝用写真を撮る。僕も被写体になる。八時、目黒のル・ポワールで三宅榛名さん、小林道夫さんと鼎 談。題はBACH。ワインを大分飲む。

二月十六日(木) 十時半、起きる。一時、音響ハウス、1スタ。「顕子ソロ」。キーボードのダビング、96%完成。八時終了、日本アカデミー賞の音楽部門 にノミネートされているが発表式にはいかず、マネージャーに行って貰う。

二月十七日(金) 九時、起きる。十一時、調布大映撮影所。日本生命「YOU」のFILM撮り。ディレクトは栗上氏、スタイリスト小礎さん、メイク嶋田さ ん。午後になってA・Dの井上氏、コピーの糸井氏来る。雑談。撮影は順調に進んで六時半、終了。今日は又大雪になった。調布から高速を時速50キロでとば して原宿へ。七時半、ピーカープーで明日の撮影の為に髪を切る。十一時半、帰宅。家の前の雪かきをしていると、隣の下宿人二人がやってきて、サインを呉れ という。あたまにきたが、サインをした。他人のことを考える能力のない奴だ。

二月十八日(土) 九時半、起きる。十一時、調布大映撮影所。昨日の続きのCF撮影。大阪電通の人に頼まれ、色紙にサイン二十枚。八時、終了。九時、飯倉 のアオイスタジオ。YMO映画「プロパガンダ」のサウンド・トラックのダビング。十二時半、終了。

二月十九日(日) 休み

二月二十日(月) 十一時、起きる。講談社「イン・ポケット」のゲラ(ワープロ)にアカを入れて渡す。二時、音響ハウス3F、6スタ。「顕子ソロ」のリ ミックス。スタジオに赤木氏から原稿依頼のTEL。十時半、終了。

二月二十一日(火) 九時、起きる。十二時、音響ハウス7F、3スタ。竹内マリアのソロ・アルバムでキーボード・ダビング。二時、3Fの6スタで「顕子ソ ロ」のリミックス。テレコのトラブルで時間をくう。深夜三時、やっと「素顔」一曲のリミックス終了。昨日から(正確には一昨日)二日がかりだ。

二月二十二日(水) 十一時、起きる。一時音響ハウス、6スタ。「顕子ソロ」二曲目のリミックス。十二時終了。

二月二十三日(木) 十一時起きる。一時音響ハウス、6スタ。「顕子ソロ」リミックス。1Fの駐車場でファンが二人待っている。サインをする。六時半、ホ テル・オークラに行き、テレビ朝日主催の「戦メリ」のパーティに出席。挨拶、記念品授与等々。たけしに久しぶりに会う。八時半、音響ハウス7Fに戻る。三 時終了。

二月二四日(金) 十一時、五反田の東洋現像所試写室、「プロパガンダ」初号試写。一時半、音響ハウス7F、4スタ。「サントネージュ・ワイン」のナレー ション撮り。二時、6スタ「顕子ソロ」リミックス。一時、終了。

二月二十五日(土) 十二時、麻布十番の賢崇寺。祖母の三回忌。色紙に百枚程サイン。親戚はファンより強引だ。二時、音響ハウス、6スタ。「顕子ソロ」リ ミックス。十二時、終了。

二月二十七日(月) 十二時、音響ハウス、2スタ。大貫妙子のアレンジ。十二時終了。霞町へ飲みに行く。知りあいのスタイリストに「芸能人」呼ばわりされ る。

二月二十八日(火) 十二時、音響ハウス、2スタ。大貫妙子アレンジ。八時、1Fのエルで小学館の島本氏と打ち合せ。九時、エビス・スタジオへ。雑誌「フ リー」のグラビア撮影。一時、終了。

二月二十九日(水) 十二時、音響ハウス、6スタ。「顕子ソロ」リミックス。七時、「ぴあテン」授賞式の為、丸ノ内ピカデリーへ。壇上で座談会。九時音響 ハウスへ戻る。朝五時、終了。

三月一日(木) 一時、音響ハウス、2スタ。「顕子ソロ」編集、曲順・曲間決め。六時、4スタで「YOU」のナレーション録り。七時半、3スタで大貫妙子 アレンジ。十二時、終了。

三月二日(金) 一時、五反田の東洋現像所、「プロパガンダ」初号再試写。四時、市ヶ谷でオランダ「ビニール」誌用インタヴュー。

三月三日(土) 十二時、音響ハウス、2スタ、NHK番組用テーマ録音。七時、終了。

三月五日(月) 一時、音響ハウス、2スタ。企業プロモーション、ヴィデオ用サウンド・トラック録音。八時、終了。八時半、九段で冬樹社と打ち合せ。十 時、終了。


家族・友だち日々の糧  志沢小夜子

二月十六日 青林舎の友人である佐々木正明氏より、「ともかく必ず来て!!」と言われて、「下北・関根浜」の映画完成のための集まりに出かけ た。職場から目と鼻の先にある学士会館。こう近いと残業の気分で仕事をやってしまって、集まりに遅れてしまった。北村小夜さんが見えた。空いていたとなり の席にすわり、全国教研の話などする。大田区で中学の障害児学級を長くもっている北村さんは、静かに激しくエネルギーをはき出す人だ。去年の暮れは、核の すて場になっているというテニヤンへ行ってきた。終って、新宿へくり出す。終り頃佐々木氏がやってきたので、話らしい話が出来ず、一緒に帰ることにした。

二月二十日 組合を休んで、病院へ行った帰り、池袋の西部デパートの前で高峻石さんに会う。ひさしぶりですねー。高さんが、去年萩窪病院へ入院、そのお見 舞いに行ってからだからずい分になる。「僕は毎日、原稿用紙二〇枚書けるのよ」とデパートの前の喫茶店「耕路」で。「今、在日朝鮮人の歴史を僕なりのエピ ソードをまじえて書いているんだよ」とうれしそう。これから碁会所へ行くんだって。もうずい分の年なのに、オールドボルシェビキの風格をたたえて、うしろ 姿が若々しい。 

二月二十一日 美恵さん宅で、女の集り。一番はじめについた私、すっかりつまみ食いで、一通り終った。そこへみんなが集って来た。結局私が、ごちそうを一 番食べたのだ。案の定、はしゃぎすぎで具合が悪くなった。(太りすぎで体調を崩しているのだ。)佐々木さん、岡庭さん、大江さん、美恵さんごめんね。

三月六日 林光さんのコンサート。田川さん制作の「ボルフガング――モーツァルトの生涯――」大石哲史さんてかわいいのねー。林光さん二曲うたう。終っ て、おつかれのところ、三月十五日の「国について歌についてコンサートIII」の打ち合わせを林さん、田川さんと。打合わせのあと、来ていた伊都子さんと みんなと飲みに行く。林光さんの前の席で、とりとめなく話をして、またはしゃぎすぎ。遠慮がないという悪性格のために、すぐに自己嫌悪におちいるのだが、 美恵さんに言わせると、「自分は自分なのだと思ってないからよ」彼女と知り合って、私は本当に得をしている。自己嫌悪からは次の日、立ち直った。

三月九日 渋谷の喫茶店「ブーケ」で、都立大の山住正巳さん、田川さん、悠治さんと十五日のコンサートの打合わせ。何しろ、この日になっても中味が決まっ ていない恐ろしいコンサート。そろり、そろりと智恵ををしぼって、最初の出だしは暗っぽい。このにわか暗雲を何とか晴らさねばならぬ。そこへ、山住さん が、むかしの小学唱歌について話をする。「そう、そう、これだ。これにしたい」私の気持は上向き。アニーローリーの節で「才女」っていううたあったんだっ て! 「へーえ」と悠治さんと私。天才ピアニストもしらないことあったんかとうれしくなった。ちなみに、才女とは紫式部と清少納言だってサ。結局これで、 前半が、今教室で…。後半が、むかし教室で…。となった。

三月十二日 職場でプログラム作りをはじめていたら、急に笑いたくなった。なぜかと申せば、「蛍の光」の三番、四番というのを読んでいたのだ。「ね、ね、 蛍の光に三番、四番あるの知ってたー。これふるってるのよねー」と私が両となりの席の渡辺さんと三浦さん(二人とも男)に読んでやった。三浦さん「そうい えば、北区の教育長がこの三番、四番、歌詞をつけて歌うように指導したんだよね。すごいだろ」すごいねーと三人で感心した。ついでに、昭憲皇太后のつくっ たという、「金剛石」というのもよんだ。するとまた三浦さんが、「森本真章ってさ、なにか四国に有名な石があるらしいんだけど、生徒に河原で石を拾わせ て、磨かせて、就職先の会社へ記念に持たせたんだって、きっともとはこの歌だよ」三人また感心して笑った。「金剛石も、みがかずば/たまの光は、そわざら ん。/ひとも、学びて、後にこそ、まことの徳は、あらわるる。……」二番の歌詞に「水はうつわにしたがいて、/そのさまざまに、なりぬなり。/人は交る友 により、よきにあしきになりぬなり。……」とはよく言ったもんだ。人は交る友により、よきに楽しく、かつうれしく、尚、激しく、狂おしく、利口になりぬな り。小夜子作。

追――コンサートは、人の入りが今一つではあったが、みんなで笑って、とても良いコンサートになった。その夜、わたしはひどくうれしく充実した気分であっ た。誌上を借りて、出演してくれた人、来てくれた人、ありがとう!


料理がすべて  田川律


〈今月の外食〉
「丸八」(大井町)ロース・トンカツ/「店名忘却」(神保町)ブリ照焼、冷奴/「大陸」(新宿)ギョーザ、焼飯/「鬼女の栖」鰯の塩焼、肉味噌野菜巻、 ソーメン、おにぎり/「傘屋」(渋谷)焼魚(キンメダイ)定食、芋の煮転がし/「ムロ」玉紅ギョーザ(ギョーザの中にニンニクの塊と一味唐辛子の粉末が 入っているもの)、スペアリブの唐揚げ、鶏煮込みそば/「肥後ばっ天」(渋谷)たかな飯、焼鳥/「陶玄房」(新宿)いかめし、鳥の唐揚げ/「中村屋」(渋 谷)ブリ照焼、湯豆腐、ほうれん草のおひたし/「ペチカ」(新宿)ギョーザ入スープ、ビーフ・ストロガノフ/「ZAJI」(下北沢)しめじとエノキのサラ ダ、煮込みうどん、焼鳥ごはん/「福よし」(原宿)ロース・トンカツ/「漢陽苑」焼肉、サンチェ・サラダ/「陶玄房」(新宿)いかめし、ピザ、湯豆腐、鳥 唐揚げ/「ぐ」(下北沢)ソバのサラダ、ガンモドキ、玄米。

〈今月の料理をめぐるニュース〉
1 神保町で焼肉定食を食べている時、親友のグリコが、三波春夫が「丼音頭」をうたっていると話してくれた。語りの入った“気味悪い音頭”だとのこと。2  二月二十三日付「朝日新聞」家庭欄で、料理教室をめぐる話題。この頃の若い人は“応用”がまったくきかないとのこと。ぼくなんか、応用だけみたいなの に。3 三月十七日、ひさしぶりに下北沢の「ぐ」で皿洗いをした。他人からぼくに依頼があるのが、皿洗いと場内整理、というのも、妙なもの。何年か前、東 京都内の知人のいるオフィスへ茶碗洗いにまわって、ナニガシかを貰おう、と「冗談」で考えた。そしたら、つい先日、旧友のお篠は、共稼ぎの若い夫婦の家の 掃除のアルバイトをしていると聞いた。週一回で、毎回、レンジとか、窓とか、換気扇など、その都度、ひとつずつきれいにすると、とても喜ばれるのだそう な。なんとなく“生活”を忘れた夫婦、という気がしないでもない。でも、稼いでいる側は、そうなるのだろう。

〈今月の自炊〉
1 ヘンタイ卵焼き。新宿のスナック「ふらて」で覚えた卵焼き。割って溶いた卵にしょう油と酒とタカノツメ(赤唐辛子)を刻んで入れる。この店では、その 量に応じて、ヘンタイ1、ヘンタイ3、などと称している。通常は、卵1コに赤唐辛子一本ぐらいが妥当かな。2 湯豆腐。コブ、ブタ、白菜、ネギ、それに豆 腐を入れ、ポン酢で食べる。3 レバーの唐揚げ。鶏の唐揚げと同じ要領でやって少し失敗。つまり、ニンニク、ショウガをすりおろし、酒、しょう油、片栗粉 でまぶし、それに今度はピリリとタカノツメを少々加えたが、レバーは袋状になっていて、その中に血が入っているものだから、すごく油がハネ、手袋をしなく てはならなかった。でも味はとてもおいしかった。4 チゲ鍋。これについては前々号の本誌参照。5 シイタケと鶏のしょう油いため。肉厚の生シイタケ、そ れもごく新しいものが、この月よく出廻っていたので、これを使い、鶏と共に、刻みニンニクをいため、そこへこのふたつを加え、手早くまぜ、しょう油、酒を 加えて出来上がり。6 レバーとコンニャクの煮付。といっても、汁気はほとんどなく、“いり煮”の感じ。タカノツメを入れるのと、刻みニンニクを使うのが コツかな。

〈今月の失敗〉茶そばが残っていたのでゆでて、でもつけ汁がなかったので、ポン酢にしょうがをおろしてつけたら、なにやら奇妙な味だった。

〈今月のオマケ〉 数年前ロンドンで暮らしていた照明家の井上くんは、物価高に抵抗するべく、毎日、部屋のハリの上に、食パンとハムを並べておき(冷蔵庫 がなかったので)昼はこの両者を一枚ずつ重ねてサンドイッチにして食べていたそうだ。毎日食事をするのに、残り物が出るのは当然で、同じ物を何日も食べれ ばいいものを、つい捨てたりすることもある。今月は、なぜか湯豆腐をまめに作ったので、その分雑炊を作ることが多かった。その点、パンというのは、数日な らたんに焼けばいいのでカンタンだといえるかもしれない。ぼくの朝食の項は、ほとんどの日がパンになっている。そんな時には、ヘンタイ卵焼きでなく“目玉 焼”が多いが、最近同居人の大谷くんの意見で、これを作る時に、ギョーザを焼くみたいに、水を少し加えて、蓋をして焼いてみた。ふっくら焼き上がるという のだが、あまり代わらなかった。デザートは、イヨカンが多かった。無農薬の夏ミカンも、友人のウミに貰った。



ボクが先生をしていた高校  糸取アヤ

生徒会の役員をしていたA君と僕は友達だった。A君はツッパリの部類だったが、それでも普通高校に来ているくらいだからメチャコワイということ はない。しかし、高校に来てからは、太目のズボンに白のベルト、眉毛も少し剃って、ツッパリレースのトップにおどり出ようとしていた。

一方、ボクの方は高校・大学紛争世代だ。およそ学校でやられていることの9割は無意味な儀式だ、と思いつつも、ついふらふらと教師になってしまった部類 だ。講義式の授業聞くより、自分が興味もつことを独学した方がスピードも速いし、身にもつくと思っている。従って、学校は皆でワイワイやっておもしろいの が一番、と認識しているのだが、いかんせん受けるのが楽しみの授業など皆無に近かった貧弱な学校体験からは、おもしろい授業が急にあみだせるわけがない。 すると、どうなるか……進学校に通っていたボクのまわりにはいなかった新しいパターンの高校生と関係を深め、いろいろ教えてもらう、これが最大の楽しみに なってしまった。

脱線したが、生徒会役員のかれはおもしろい男だったのだ。たとえば、女の子のひっかけ方→最初はアホっぽい感じで接して相手の警戒心を取り、おもしろいこ とを言ってウケる。次いでまじめな話もし、かつ自分の属する男グループにちらっと触れさせて「男世界」のすばらしさを見せる。最後に単車やディスコなどで 劇的な体験を演出し、自分と相手が一体になれるようにする。このパターンで、彼はたくさんの女の子をモノにした。

卒業後は車である。暴走して楽しむドライブテクニック、取り締まり警官に対する作戦等を身につけた彼の車に乗せてもらってからは、元々素質に恵まれていた ボクもバッチリ暴走運転ができるようになった。言っとくけど、集団でブイブイ走って鉄管パイプでしばきあうといった類の暴走じゃないよ。走りそのもののみ のやつ。とにかく、連中と遊んでいる時、ビビることもあったけれど楽しかった。そうそう、もう一人夜明け前の日本海をスタートして始業前に学校にたどりつ くというバイク野郎もいた。彼は学校へ着くと空気枕をふくらませ授業中ずっと寝ているのだ。

高校教師という職業は、知識に飽き飽きしていて遊戯的な行動性、肉体性に飢えていたボクにはピッタリの仕事だった。だけど、悩みが二つあった。一つ……授 業をどうするか、「授業に期待などするナ!」とやっている本人は思っていても、ボクが担当している授業の場が遊戯性に欠けるのはしんどい。「生徒によくわ かる丁寧な授業」などではなく、次どこへ展開していくかわからないようなワクワクするようなのをやってみたい。ヤルゾ! 若干見通しはある。二つ……生徒 会役員の彼が、大学を中退して会社に勤めだしてから遊びが少なくなったことだ。彼は遊びと生活をきっちり分けていて、最終的には生活の方を選ぶというの だ。ボクは仕事も生活も遊びという方向をめざしているので、彼からもらったパワーで生活を全面的におもしろくしていくという「使命」を果たすつもりだ。サ ンキュー、A君!

次は、現在ボクが通っている進学校の女の子の話をしよう。彼女は「受験パック」になり果ててしまっている高校に登校する気をなくし、下町の歓楽街の暖かさ にひかれ彷徨する中で、プロパチンカーの男性と出会った。抽象性の霧に包まれて生きた感性を喪失しつつあった彼女は、その男を通して生きた世界に出会え、 生気を回復したようだ。今や彼女のパチンコの腕は相当なものであり、下町の店についても詳しい。着ているニューウェイヴチックなコートも古着屋で五百円で 買ったそうだ。彼女は「下町への冒険」により自分のテイストを身につけ始めた。この二月に卒業した時に、「学校で何がおもしろかった?」と聞くと、「友達 と深い所で会話が成立した時、それにエロス」と答えてくれた。ボクはその答を気に入ってしまったのだが、よく考えるとそれはボクが教師を続けられている理 由と同じだったのだ、フム。

ボクらが高校生の頃、帝国主義高校の解体を唱える高校闘争が起こり、ボクのグループは、(1)成績の点数化とそれによる序列づけ、つまり成績評価なる愚劣 な行為をやめること、(2)授業への出欠を自由にすること、の二つが実現されれば、学校もマシになるだろうと話し合っていた。その後1年間混乱が続き、ボ クは授業をさぼる楽しさを覚え、友達と話し合ったりエロスに芽生えたりした。その頃の愛読書は、ライヒの「性と文化の革命」だった。現在、高校の管理体制 は再び強化され、高校生は進学体制にのみこまれるか、或は「何となくクリスタル」風の商業文化にブランド漬けされている。それらに対し、ボクは多様かつ個 性的な遊びを投入し、茶化していきたい。





たのしみがなくなった  高橋悠治


やっと終わった。三月十一日、日曜日の山谷玉姫公園で水牛楽団の(すくなくとも当分)最後の公演。さむくて楽器は鳴らず、マイクにもよくのらず。

三月三日と四日、ユーロスペースで水牛コンサート。水牛楽団は歌もなく、「チゴイネルワイゼン」などの器楽演奏。コンサートの大半は如月小春(と DOLL)におんぶする。三回公演でお客は二百人弱。やっていけない。途中でふりかえったのがいけなかった。幻想が消えてしまったね。

三月二日夜、コニー・コリヤーと会う。クセナキスの曲をひくようにすすめられて、もうできないことを説明しても、ぜんぜん通じない。夜中になってパリのク セナキスからの電話にでたはずみで、ひきうけてしまう。楽譜を押入れからだして、ひきかたをかんがえ、あたらしいやりかたをゆめにまで見た。ピアノでため してみたが、八年間にいれかわった細胞はもどってこない。ぼけた記憶が鳴るだけ。といって、あたらしい視点もうまれてこない。

三月七日 ピアノをもらってからはじめて調律することにして、あけてみたら弦が四本も切れていた。気がつかずに練習していたのです。

二月二十七日 俳優座で石井かほるさんの公演。ハルモニウム、ドイラ、バラフォンで音をつけるだけでなく、ステージで歩いたり、谷川俊太郎さんの出題する 擬態語を演じる。それが、「にょろり」だったから、地でできたんだよ、という評価。

三月十五日 モーツァルト・サロンで「国家をかんがえる会」のコンサート、昼夜二公演。山住さんの話にあわせて、小学唱歌のサンプルを演奏する。歌はドレ ミ合唱団の北田かおる。白いセーラー服とほっぺたの赤丸がかわいかった。伴奏は足踏オルガンでなくて残念。三宅榛名の唱歌変奏曲をひいたが、作曲者のよう に元気にひけない。明治唱歌のポキポキしたメロディーと貧弱だが強引な三和音の伴奏が新鮮だ。
今年は音楽だけやっていたいとおもって、一年分の計画をはやくからたて、来年の計画までたてている。でも、ほかのこともやることになるだろう。集中できな い。
「リトアニアへの旅の追憶」を見た。スクリアビンと同時代で、発狂してしまったリトアニアの作曲家のピアノ曲がくりかえしつかわれている。古めかしく、あ たらしい音もつかっていないのに、ふしぎな音のつながり。こんな音楽をつくりたくても、できない。

三月十四日 髪を切る。テクノカットやパーマなどためしてみたが、みんなだめだった。今度はすこし長目にして、前の白髪が目立つようにする。ほおがこけ て、しわの間にほこりがたまるようになればなおいいが、おもうようにいかない。年より若く見られても、いい気分にひたれなくなった。生まれながらの老人と いう幻想にむかって訓練をはじめる時がきた。

三月十三日、六本木のストアデイズに「水牛通信」バックナンバー五十八冊をもっていく。このごろ西武の店で「水牛通信」や水牛楽団のカセットが売れるよう になった。いってみると、ハンス・アイスラーもビクトル・ハラも富山妙子もならべて売っている。マイナーでいることがあたらしさの条件なのか。それから太 極拳教室にいく。もう一年半、週一回。三分の一は、しごととぶつかって休んだから、なかなかすすまない。このごろは、太極拳の時間をよけて、しごとをとる ようにできるだけしている。朝おきて皿を洗うときと、太極拳に通うときだけが、何といっても自分の時間のような気がする。結果がその場で出るのがいい。

二月二十四日 鳥飼潮のシリーズ最終回。楽器をありったけならべて、ソロ。はじめは、十分間も床でぞうきんがけをやっているので、いらいらした。最後はシ ンセのけたたましいシークエンスとともに、お客に花吹雪が散りかかり、かの女は電光衣装をまとって点滅のあいさつを送りながら退場。アンコールにこたえて 泣いたところまで、花の総集編であった。

二月十六日 ヤマハで三宅榛名と二台ピアノの即興の練習。二月二十九日、同じ。今年はこれでいくことにして、五月二十九日の「曲り角」と題して森山威男を ゲストにむかえたコンサートの練習をとりあえずやっているが、前途多難。できるつもりではじめると、たしかにそれだけのことはできる。だが、これではだめ だ。予想できない結果にずれこんで、しかもそれに気がつかないでいる位になりたい。

水牛楽団がコンサートをはじめたとき、工藤さんがいったように、「しょぼくれて」あまりできないことをやりつづけていた頃がよかった。初心はすぐわすれて しまう。


生活ノート  平野太呂


げきの会「春をよぶ鳥」

アスカ、しゅうちょうへん
ぼくのやくはしゅう長でさいしょはやだあー!! たいへんそうだあー!! やりたくないなー!! とかせりふのかずだとかもんくばっかりいっていた。セリ フが22もあるからやだなーなどとか、一人でぶつぶついっていた。
でも、やってしまうとサッパリした、げき全体がうまくいったと思う。ちょっとまずかったなーと思うところは、ぼくのしゅう長は、さいごのばめんでちょっと つっかかっちゃったから、そこがちょっとだめだった。あとさいしょのばめんで、もっとぶたいをひろくあるきまわってえんぎをすればよかったなーとおもいま した。あとはぼくはよかったとおもいます。
アスカのけいすけは、ゆみやをもっていろいろのせいやどうぶつをゆみでおいはらおうとしているとき、かんきゃくの人にせなかをむけてやっていた、ぼくはお きゃくさんのほうにむかってやればよかったなあーとおもう。
あとかきわすれたけど、いちばんさいしょしゅう長がでてくるときくつしたをはいてうわばきをはいてでてってしまった。そこがすごくしっぱいで自分でもあそ このばめんをもういっかいやってみたい。
なぜか? まったくきんちょうしなくて自分のやろうとおもったことをちゃんとやれた。よかった。いままでの練習の中でもよくできたとおもう。
せいこうしてよかった。
ほーとためいきをつきました。80点。

小鳥へん
ことりは、とみなが、そらのがよかった、ようこもあまりことばはわからなかったけど、えんぎがよかった、かおり、りかこはこえをおおきくして、もっと大き くえんぎをしてほしい。
とみながのきゃく本をみると、どういうところでどういうえんぎをするかかきこんである、いいかんがえだなーとおもった。
ことりはもうすこし、えんぎを大きくしてほしいなとおもう。点でいえば、80点ぐらい。

うさぎへん
うさぎは大きなこえをだしてほしい。えんぎはきちんとかんがえてやってある、こえは、すごくちいさくて、がんばってほしかった。なおこは、すこしてれんて れんしてしまうから、てれないでびしっとやってほしかった。点でいえば70点ぐらい。

木のせいへん
木のせいは、大きなこえといい、いいえんぎといいすごくよかったなーとおもいました。ただちょっとなおみがかちんかちんになっていたので、セリフがだしに くくなったようだ。点にすれば、99点ぐらい。

花のせいへん
花のせいは、よかったなーとおもう人は、たみえでした、ふだんこえのちいさいたみえだけど大きいこえを、せいいっぱいだしていた、えんぎもよかった、ほん とうに花のせいがいっているようだった。
まみもえんぎも、こえもよくでていたとおもう、みやこは、こえがふにゃふにゃしていたけれど、えんぎがもう一つだった。そのほかの人は、こえがちいさく て、えんぎも、もう一つだった。点でいえば、70点ぐらい。

プロンプター
プロンプターは、はじめてやるしごとだ。本番では、あまりおしえてもらったのはなかった。でも、ゲネプロのときはすごくやくだった。おもしろそうなしごと だなあとおもった。95点。かくれてて、ちょっとみえたらしくそこがしっぱい。

大道具小道具
ちょっとおくれぎみでいろいろなスタッフややくの人にてつだってもらうというときもあった。ちょっとしっぱいだった。でも本番にぜんぶできてよかった。 65点。

おんがくこうか
どうもうまくいかずにおわってしまった。きかいがこわれていたらしく、うんがついてなかったなーとおもった。59点。

しょうめい
うまくいったとおもう。これもはじめてのしごとなのでだいじょうぶかなーとしんぱいした。アスカがしんであんてんにするのがなかなかうまくいかず、そこが しっぱいだとおもった。あとはうまくいったとおもう。92点。

全体としてすごくよかった。

おわり
あーつかれた


子供たち  柳生まち子


歯医者さんに通っている。
二台ある治療台のもう一つの方には、小さな女の子が母親につきそわれて坐っている。
「いくつ?」
「六才」と答えている。
永久歯が早く生えすぎてきて、乳歯がじゃまになっているらしい。これで三本目ですと母親が説明している。
「二回ぬいたの」と女の子。
「最近は、こういうお子さんが多いです。どういうわけなんでしょうねえ」と先生。
横目で見ると、先生はキラリと光るペンチのようなものを持っている。あれで抜くのかしら、背中がすっとする。私は自分の時は、しっかり目をつぶっていて、 治療の道具など絶対に見ない。
「だいじょうぶだからね」とやさしい声で先生はいう。
「慣れているから」と女の子。
「ああそう……」と先生は笑う。
慣れているから……だって。たった六年しか生きていないくせに。


子供に合っていない学校  西山正啓


“いまの学校は、子供に合ってないんとちゃうか……”とは、二月に大阪で出会った若い教師の言葉である。いま、このように子供たちの側に立って学校を批評 出来る教師は少ないのではないだろうか。二月五日から神戸で開かれた日教組、全国教研に初めて参加してみて、私はつくづくそう思った。

何の因果かは知らないけれど、今年に入って早々、日教組教文局から全国教研に助言者として参加してみないかと誘いがかかった。はて? 何を助言出来るだろ うかなどと、一応は考えてみたものの、いつもの図々しさと好奇心とで、即、“行きたい”と返事をしてしまった。あとで解った事なのですが、本誌編集部の田 川律さんとは同じ分科会の同じ小分科会まで一緒だったのです。田川さん、ご苦労様でした。

ここ数年来、地域(田無市)の中で様々な運動――とは言っても「水俣」と「障害児・者」問題が主ですが――に関わっているが、「教師」と出会うことは滅多 にない。特に「障害」児の就学問題の場合、教師の存在は重要だから盛んに呼びかけはするものの反応はまずない。かと言って、私たちが自由に出入り出来る程 に、いまの学校は開かれていない。“施設”と言う言葉があるが、端から見ていると学校は、まるで子供たちを収容する“施設”であるかのようだ。なぜ?  いったい何がそうさせているのか?

昨年の暮、各テレビ局が「教育スペシャル」と題して、管理される子供たちの特集を組んだ。どこの学校も全てと言う訳ではないが、現在を象徴する光景がそこ に映し出されていた。子供同士の私語を禁止するため、歌を休みなくうたわせ掃除することを強制する「学校」。昼休み時間には必ず、国旗と校旗を掲揚し、ど こに居ようともその方向に向かって、君が代が流れている間、子供たちに頭を垂れさせる「学校」。公安の手配写真よろしく、女生徒たちの正面、横写真を撮っ て管理台帳を作り頭髪検査をする「学校」。ここでは、ひとり残らずオカッパ頭を強制され、天然パーマさえもが禁止される。そして、生徒一人ひとりの頭髪を 顕微鏡を使って、真面目に検査する「教師」がいるから話はややこしくなる。子供同士を管理する側とされる側に分け、又、それを管理する「教師」の実態。 ゼッケンに依って子供たちを識別し、拒否する子供に対しては村八分にして応える「学校」。不良少年に敢然と立ち向かえるポパイみたいな教師を養成しよう と、軍事訓練にも似た研修を行う「教育委員会」。数え上げればきりがない程の「管理」の実態を追った秀れたルポであり報道であった。ただ、気になった事は どの局も共通していたように「子供と教師」の対立図式から一歩も踏み出せていなかったことである。管理を強制し支えているものはいったい何なのか? 中曽 根「教育臨調」路線と対決している日教組の教師たちは、その事態にどう対応しているのか? 視聴者のひとりとして疑問は解けないままであった。しかし、前 述した地域の状況を併せて考える時、「学校」の置かれた地域から孤立し密室化している状況だけは、はっきりと視てとれた。

初めて参加した全国教研を終えた現在、私は、「教師」の在り様そのものをまずは問題にしなければ、と考えている。と言うのは、四日間の分科会討議を通して 鮮やかに印象づけられたのは、教育の専門家たる“過剰意識”から抜け出せないでいる「教師像」だったからである。分科会をむすぶにあたり、彼らは専門家と して、「教師」はもっと地域に入ってゆこうと提案する。入る入らない以前に「教師」とて地域に住むひとりの生活者ではないかと思うのだが、ここら辺りの意 識なり発想そのものの中に、根本の問題があるように私には思えた。私事(生活)と切り離したところで成立している「学校」は建前だけの場になり、本音(子 供たちの建前に対する反乱)を覆い隠すことに依って悪循環を繰り返してゆくのだろう。子供たちは、毎年毎年九年間もそこに居続けるのである。

状況を好転させる、“決め手”はない。しかし、教師自らが地域の人々に向かって声を出してゆかないと、「学校」の管理体制は打ち破れないだろうし、展望も 容易には見いだせないであろう。更に言えば、体制の言う反動的な教育改革に、ますます口実を与えるような気がしてならないのである。

「教師」の皆さん“教育の専門家たる教師”をやめて“そよ風のように街に出ましょう”そして、地域の人々と本音を語り合いましょう。子供たちは、きっとそ の事を望んでいるのです。

いま、「学校・地域・子供たち」を取り巻く状況の本音の部分に、私は映像で関わりたいと考えている。


ブタ草七変化  竹内晶子


昨年、瞬間芸というのが流行った。私が知っている中で一番ヒットだと思っていたのは、片耳を倒して――ギョウザ――というやつである。でも、先日萩窪の飲 み屋でもっとすごいのを教わった。にっと笑ってほっぺたにつきあがる左右の小山をOKの合図の時指でつくる丸にはめ込みながら――タコ焼き――。当然のこ とながらこれは、浅丘ルリ子やいしだあゆみにはできまい。私のような豊満な顔面を持ちあわせた者にしかできぬ芸当だ。うふふ。しかし、ここで私はあえて、 私独自が編み出した秘技を公開しようと思う。その1は、生まれつきのおでこの猿じわと眉間のしわを同時に寄せて――郵便局マーク――。その2は簡単、お鼻 がそのままで――ちょうちんブルマー。今、私に残された課題は、口と目を使った芸のみだ。それができれば『瞬間芸顔中一気』が披露できる。もう、私は宴会 の花形だ。

確かに、人間の…いや私の顔はおもしろい…かもしれない。しかし顔だけならば、健康的に美しい日、寝すぎてバッチリ腫れまぶたの日、疲れてやつれて色っぽ い日、食べすぎてむっちりむくんだ不細工な日等、様々なので、一概に評価し難いと私は信じている。しかし、ここに不動の真実がある。身体が大きい――これ は実によく目立ち、決してかわいく見えないための必須条件ともいえる。最近まで自分はそれ程でもないと思っていた。だから、ちょっとバカっぽくふるまえ ば、幼児みたいにかわいがられるかなと思うと、本当に足りない子に見えるといやがられるし、今稽古中のオババの役も、私は研ナオコがよくやるおばあちゃん の感じでやっているつもりなのだが、劇団員には、縁の下から這い出してくるバケモノだと笑われる。世の中まちがっているんではないかい!?と叫びたい日も あった。しかし成長期に餓鬼の子みたいに食欲旺盛だったのは、まぎれもなくこの私自身だ。そう、何も悲観することはなーい。顔だっておもしろい。まして身 体で楽しめない訳がない。

そこで、唐突な展開ではあるが、私は自分にふさわしい痴漢防止対策を考えてみた。私は何をかくそう夜道を一人で歩くのは恐いので、よく傘やバックをふりま わしながら歩くことはしていたが、どことなく空しいものだ。そこでこれだ。下顎をゴリラのようにつき出し、猫背のままガニ股で大股歩きで進む。もし人に声 でもかけられようものなら、よだれをたらしながら「エヘヘ」と笑う。絶対安全。わざわざこんな変態に手を出す馬鹿もいないだろう。断わっておくが、これは 暗い夜道だからできるのだ。しかし悲しいことにわざとこれを実行しているうちに、どうもガニ股ドタドタ歩き、しまりのない顔がくせになってしまったよう だ。

実に、個性的というのは愉快だ!!(ここまでくるとヤケじみて…)ブリーツスカートにベレー帽なんて出で立ちで目元をサヤサヤさせて歩くと、魚の死んだよ うな目をしたおじさんが、「君、知的な魅力があるね、すてきだなあ、モデルやんない?」とくる。また赤や黄など原色5色を一度に身にまとい、ポッキーかじ りかじり終電まぎわの東京駅地下道を踊り歩いていると、「帰んの? 泊まっていこ。」と暗いおじじの誘惑。ある時は、汚いズボンに男物のジャケットで腫れ まぶたに寝ぐせの髪とくりゃ、もう道でも電車の中でも誰もが「わっ! 見なけりゃよかった。」と言わんばかりにあわてて顔をそらす。またオーバーオールに スニーカーとなれば、酔っぱらいのおじさんと仲良くなる確率が高い。はじめは酔いに任せておしりを触ったり寄りかかったりしてくるが、「おじさん、寝ちゃ だめよ、どうしたのお?」と親しみをこめて反応すると、もぎたてのワラビをくれて、おしまいには「変なおっさんに気をつけんだよ。」と言いながら手をふっ て行っちゃった。ただ、スーツなんか着込みますと、ふくらはぎの筋肉(人はこれを子持ちシシャモと呼ぶ)と、オツムの足りなさがちょっと気になって、今一 決まらない。この辺が私のかわいいところと言えるかもしれない。うふふ。

まあ、きれいとかカッコイイとかいうのは他の人に任せるとして、私は立派な日本の母となるべく、過激な変身をあれこれ楽しみながら、しこでも踏んでいよう かしら。それにしても、編み物や料理がおもしろい今日この頃。ああ、ゆかしいこと。


六十四歳になったら  無名閣士


月日。タクシーに乗ったら、白髪豊かな運転手。「お幾つ?」との問いに「六十四」という。「わたしなんか、四十になったら、身体中があちこちおかしくなっ たよ」と話すと、「そうです。四十がひとつの節目で、そこで歯や目が悪くなり、でも、それからしばらく安定します。その次の節目は六十で、またガクッと歳 をとった、という気になりますよ」とのこと。たしかに四十になった時、歯も目も急速におとろえた、という記憶がある。大学の同級生たちも、いちように老眼 になった。また、医師をしている友人たちにいわせると、同級生たちが見てもらいにきても、見甲斐(?)があるそうだ。つまり、あちこちに老化現象があらわ れているからだ。

月日。最初に老いによる死を意識したのはいつだったか考えてみる。もうずい分前だ。当方が四十の頃だったろうか? 新聞の死亡欄にいつも目が行き、享年が 七十六歳と見ると、「平均寿命分は生きたか」と思い、五十代だと「わたしもあと十年しかないのか」と悩んだりしたものだ。

月日。一年ほど前、自転車に乗っていて、カーブを曲りきれず、歩道でガードレールにぶつかったら、低いガードレールだったので、それを乗り越えて車道へ すってんころりと転んだ。ごていねいにも自転車も道連れにしてしまった。幸い、車がこなかったので大事にいたらなかったが、しばらく起きあがれず坐り込ん でいた。やっと立ち上がって、そのまま自宅まで乗って帰ったが、ビテイ骨が一カ月ほど痛かった。骨折でもしていたら、なかなか直らなかったに違いない。

月日。四十歳になる前に殺されたイギリスの歌手は、二十代に「六十四歳になったら」とうたい、死の直前には「ぼくと一緒に齢をとろう」とうたっていた。当 然のことながら、「六十四歳――」の方が楽天的で、「ぼくと一緒に――」の方が悲観的である。しかしそれは当然のことなのだろうか。齢をとる方が楽天的に なる、ということではないのだろうか。

月日。同級生の医師と話す。専門は肝臓の、それもガンだという。かれの意見では、ガンはいまだに交通事故のようなもので、どんなに用心をして、タバコをや め、焼け焦げをさけ、といった生活をしていても、かかる時にはかかってしまうものだという。ただし、可能性を少しでも減らすため、の“予防”は医師たちは 気をつけているということだ。食事に関していえば、一日に五十種類の違うものを食べるようにすれば、その分危険率は分散され、かかる率は少なくなる、とい う。

月日。L・A・モースの「オールド・ディック」を読む。七十八歳のプライベイト・アイ(私立探偵)を主人公にしたシリーズ第一作。七十八歳という年齢に訪 れる肉体の衰えや、なぜそのジジイに事件が依頼されるのか、ということがなかなか良く書けていて面白い。

月日。葉山のはずれの友人宅を訪ねる。年老いたポラメニアンが六匹(だったと思う)もいた。老犬、というのも結構みたことがあるが、この家のはなかなかす ごい。一匹などは、歯が全部抜け、口がきちんとしまらないので、たえず、よだれを流し、歩くのもヨタヨタしている。板張りの床にはすべて毛布が敷いてあ る。これらの犬が歩くとき滑って転ぶからだと言う。また、若い犬がいないことについて、その家の夫人は「わたしが先に死んでしまったら、犬が可哀そうだか ら、まずこの犬たちの死をみとって、それから死ぬつもり」だからと話してくれた。もっとも夫人はまだ五十代半ばではある。

月日。北海道の友人の家が焼けて、三十数匹の猫が焼死したという。古い家で、寒いため、ずっとストーブをつけっぱなしにしていたところ、猫たちが便所用の 新聞紙を散らかし、それにストーブの火が燃え移ったのだという。二階で寝ていた友人は、積もった雪の上に飛び降りて無事だったというが、焼死した猫たちが 哀れである。

月日。自分が死に近づくと、死後の名声だとか、ともかく本人が死んだあとに本人についてなされるさまざまの評価や、そのほかのあらゆることが、なんて無意 味なのかとつくづく思う。そもそも葬式すら、本人はまったく関与できないのだ。まして、死後に業績が評価されても、まさに痛くもかゆくもない。とすれば、 日頃わたしたちが先人にしている評価についても、ずい分こっけいでお門違いのものもあるだろう。けれども、愛する人が死んだりすれば、それを惜しむ気持 ち、というのは自然に湧くものだろう。生と死の垣根、はどこでどうつながるのだろう。

月日。一カ月あまり、老いや、死についてばかり考えていたら、ほんとうの齢より老いてしまった気になった。それでも、後悔先に立たずや、覆水盆にかえら ず、よりも、老いを若さに戻せない、ということの方が重味を持って思えるのは、当方が老年になったせいか。


ぼくが作った本  平野甲賀


二月の十一日に仕事場を引越したので十一日以後にできあがった本やすでに手ばなれになった仕事から記録しておきたい。

●わたしの日本音楽史、林光、晶文社犀の本シリーズ、イラストレーションは柳生弦一郎、本文中にも数点イラストが入っている。その中の一点をカバーに使 用、引越祝いにと、思いっきり派手に色指定したつもりだけど、やはりアミかけ合せの色は沈み加減になる、だけどでき上がった本を見て中村さん(晶文社社 長)が力なく笑ったそうだから多少効果ありとするか。一カ所指定もれあり。

●中年に何ができるか不合格編、金子勝昭、晶文社、犀の本、安西水丸のイラストレーション、不合格編の文字は編集部の人が印章屋にたのんで作った判子。中 年なんていやらしいタイトルだと思ったが、書店の注文が意外と多いので、中村さんも「中年路線もあるネ」と言ったとか。

●額の中の街、岩瀬成子、理論社、少年向けの大長編シリーズだが、この本だけは大人っぽい仕上げにしたいということで、イラストレーションに柳生まち子の 水彩画を使い、カバーはまるで女流文芸作品ではあるまいかという顔つきになった。カバーの絵を表紙では二色分解で刷った、思わぬできでこの手を今後どこぞ の仕事でまた使いたいと思った。

●使者たち、ヘンリー・ジェイムズ作品集4、工藤好美・青木次生訳、国書刊行会、この本はすでにデザインがきまっているので今は自動的に版下を作るだけだ が、構成要素が少ないから刷色とか文字面などたいへん気を使う。毎回微妙に違いがでる。

●大阪城――天下一の名城、宮上茂隆、イラストレーション穂積和夫、草思社、日本人はどのように建造物をつくってきたか、好評のシリーズ、これまたフォー マットが決まっているから作業は楽だが、突然かえてしまいたい欲望にかられる、今回で前期全五巻完結なので、書店用の看板や新聞広告のデザイン作業もあり これはひと仕事、つかれる。

●父からの贈りもの、長岡輝子、草思社、女優であり演出家でもある長岡さんの半生記、「おしん」の加賀屋の大奥様役で評判の云々とは帯のコピーであるがこ れはちょっとつらい。イラストレーション堀内誠一、立派すぎて使いにくかった。

●コミュニティ・イングランドのある町の生活、ブライアン・ジャクスン、大石俊一訳、どういうデザインにするか編集者とちょっともめた、結局タイポグラ フィで落着いた、緑色に白ヌキ文字、緑色は売れないというジンクスがあるが、ちょっと気に入っている。タイポグラフィは今後発展させるぞ。晶文社の本じゃ ないみたいという反響。

●オーウェル・小説コレクション、葉蘭をそよがせよ、高山誠太郎訳、晶文社、タイトルを貼りかえ、色を二色選ぶだけ。

●深呼吸の必要、長田弘、晶文社、この本は全面的に長田氏の好みでつらぬかれた、大橋歩のイラストと書き文字をレイアウト版下制作。

●夢を食い続けた男・おやじ徹誠一代記、植木等、朝日新聞社、タイトル書き文字で、できるだけ簡潔にという注文、このスタイルは今や手の内に入った。

●アメリカを生きる・紋切り型日系人像を突きぬける、マコ・イワマツ、越智道雄訳、日本翻訳家養成センター、威勢のいい副題のこの本知る人ぞ知るあのマコ (古くは「砲艦サンパブロ」新しくは「バトルクリーク・ブロー」でジャッキー・チェンの叔父さん役、八島太郎の息子)の自伝、なぜ今までこの人の本が出な かったのか不思議に思っていた。ゲラの書き出しはなかなか好調のようです。

●ベンヤミンの肖像、G・ショーレム他、好村富士彦他訳、西田書店、著者訳者にビッグネームがそろっているので表に出してほしいと言う編集者、タイポグラ フィだね。写植文字に於けるタイポグラフィとは何か、と思わず力んでしまう。あとがきからハンナ・アーレントのことばをカバーに引用した。肖像として出色 のできと思うのでここに全文を紹介しようと思ったが、はや紙幅もつきかけた、本屋さんで立読みしてください。

●免田栄獄中記、青地晨解説、社会思想社、以前、鎌田慧さんの「死刑台からの生還」をやっているので、この仕事がきた。これも文字だけという注文。免田栄 と獄中記を横組みにして行間字間もベタにすると田中角栄なんて読めちゃったりして、これは関係ないけど……。

●文庫、雑誌などベストセラーの文庫化がさかんでそんなに出して売れるかなとお思いでしょうが、これが売れるんだって、売れなかった本の文庫化は売れませ ん、あたりまえでしょ。思想の科学四月号、世界から冬号、小林信彦の文庫四点、集英社と新潮社から、またもや「コスモス」、朝日文庫、新潮社トンボの本 「ピカソ美術館めぐり」「大和路散歩ベスト8」サンリオSF文庫「天のろくろ」ル=グイン、「世界Aの報告書」オールディス、CBSソニー出版「片山敬済 の戦い・オランダGPラップ」これはオートレーサーの本、まだあった●愛のイエントル、アイザック・B・シンガー、邦高忠二訳、バーブラ・ストライサンド で映画化決定というわけです。晶文社……もうたくさんだ(三月二十六日)


わるいくせ  八巻美恵


二月十五日。ネツがでた。カゼかともおもったが、他の症状一切なし。パブロンをのんでうつらうつらし、汗をかいたら細胞があたらしくなったみたい。

二月十六日。むかし弱小出版社でいっしょにはたらいていた女の子(当時は)から手紙が来た。あなたは長らくの少女病ではありませんでしょうか。だってさ。

二月二十日。けさ起きたら、年をとったなあという感じにおそわれた、と悠治がいう。

二月二十二日。シアターアプルでのんびりと「家族ゲーム」を観ているあいだに、わたしと家族を構成している最年少者が、課外授業のスケートで転倒し頭を 打って近くの救急病院にはこばれていた。種々の検査も異常なく、本人にころんだありさまを実演させてみても、もろに打ったようでもない。が、頭なので、念 のため一晩だけ入院となる。こんな患者でも退院のときは、おめでとう、もう帰ってくるなよ、と同室のおじさんたちから祝福されるのだった。

二月二十八日。小夜子から電話。このひと月あまり、体がむくむ、酒をのむ気にならん、ひたすらねむい、朝おきられない、腰がいたいと不調をうったえていた 彼女は、膠原病であることを期待していたらしいが、東大病院で検査の結果子宮筋腫であることが判明した。良性か悪性か、摘出手術をするかどうかは二週間後 にわかる。いつもの高らかなわらい声も、きょうはいまいち。夜おそくなってゆう子からも電話。彼女も子宮筋腫をもっている。わかったのはもう一年以上前の ことだ。医者にメロン大です。といわれ、メロンていったってマスクメロンもあればプリンスメロンもある、どのメロンなのさ、といおうとしたが、ことばより も涙のほうが先に出てしまったのは残念なことだった。いまはおちついた共存関係にあるようで、相手が大きくなったり小さくなったりするのがわかるらしい。

三月三日。ユーロスペースで「高い塔の歌」コンサートのあと傘屋でひな祭りうちあげ。如月小春さんのとなりにすわる。このひとがパクパクものを食べるのを 見たことがない。きいてみると、すききらいが多いんだそうだ。スパイスのきいたものはダメ、つい最近までねぎもコショーもダメだったんだって。だからゆで 卵なんかが好物なんだって。ここまでくると食べもののすききらいの域をこえているなあとひそかに思った。ただ楚々としているだけじゃない、ヤマイはフカイ のね。同病ではないが握手でもしたいかんじだ。わたしの好きな吉田秋生を彼女も好きだというし。

三月九日。千駄ヶ谷区民会館でタイの映画「プラチャーチョンノーク」(周辺の人びとという日本題だったかな)を観る。都会で学業をおえた青年が故郷へ帰 り、稲作を中心とした村づくりをするはなしと、同じ村からバンコクへ出かせぎにでた農民のはなしが並行する、よくある内容だ。さいごにはこれもよくあるよ うに青年は殺され、農民たちは投獄される。すると弁護士のトンバイさんが、トンバイという名の弁護士の役で登場して、新聞記者の質問にこたえる。これはよ くあるごくふつうのケースです。なにも特殊なことはありません。すぐに事実関係があきらかにされるでしょう。と。アジアのこどもに日本の映画をとどける会 が主催なのでその報告もあった。こういう集会は、PETAのだれかがいつかいっていたように、日本人です、たすけてください、とさけんでいるのだ、知らず 知らず。主催者のひとり有光健氏は、はしかだそうで大きなマスクをかけていた。あんなおとななのに信じられない。

三月十二日。アメリカにいる藤本和子さんから手紙がとどいたので、ルンルン気分で封を開けると、エッ、子宮筋腫の手術をしたと書いてある。和子サン、アナ タモカ。わたしを中心にしてかぞえると、ここ二年ほどの間に、この病気の人は五人になった。子宮筋腫の素というか胞子のようなものをばらまいているんじゃ ないかという妄想に一瞬おそわれたが、そこまで自分中心にかんがえるのも、病気というもの。ともあれ藤本さんの手術はとうにおわっていて、元気になりつつ あるのだ。よかったよかった。小夜子のほうは摘出の必要なし、当分様子をみるという結果がでたという。よかったよかった。ありがとういのち、とわたしはお もい、ふたりのために、もらいもののロシアワインをあけた。ワインはちょっと水っぽくて、ロシアみたいな味がした。

三月十三日。魔の水牛通信発送準備の日。封筒にハンを押し、請求書をかいて雑誌といっしょに封筒にいれる、封をして郵便番号によって仕分ける、などの作業 を「鬼才」とよばれる人とふたりっきりでやりとげる図を想像してほしい。なかなか努力のいることだ。今月はめずらしくなんのいざこざもなく完了した!


下手の横吹き笛日記  西沢幸彦


二月十五日 一時より溜池の東芝スタジオ。カラオケだと思う。演歌のリズムを取り終わったあとにメロディーを録音する。酔客が歌いやすいように、ガイドと していれておくのでしょう。七時よりコロンビアスタジオ。子供のためのマンガの主題歌を録音する。

二月十六日 十二時より東京スタジオ。昨日の続き、また演歌だ演歌だ。六時より九時まで、十八日のコンサートのリハーサルを池袋で行う。

二月十七日 昼近くまで寝ていた。朝食後(昼食かな)、明日のための練習をする。久しぶりに練習すると、目が変になる。動かない指を一生懸命に動かそうと するためか、肩がこる。なかなか思うようにできない。

二月十八日 昼の二時から横浜の東京工業大学の留学生会館でコンサート。木管のクインテットでハイドン、イベール、ミヨー他の演奏。久しぶりでこんなこと をやった。出来は問わないことにする。おかげで十数年やれている。

二月十九日 日曜日にもかかわらず三時より早稲田のアバコスタジオで、どっかの町の「町歌」を録音。和太鼓が入って「何とか音頭」

二月二十日 十一時よりNHKで子供番組のテーマを録音。三時より悠治さんの家で水牛のリハーサル。六時半から木管のクインテットの練習。先日本番を一回 やっているのでまあまあかな。

二月二十一日 十二時よりNHKで林光さんの劇伴をとる。久しぶりで歌を入れにきた加藤登紀子さんに会う。相変らず元気なんだ。感心する。

二月二十二日 七時よりビクタースタジオで、だれかの(このへんが不思議なのだが、ほとんどの場合だれのだかわからない)LPの曲録音。リコーダーで吹い たが、むつかしい調子なので指がこんがらかって、ほどけなくなりそうだった。

二月二十三日 二時より赤坂バックペイジスタジオでカラオケ用のテープ録音。なんだか昔のフォークソングのよう。

二月二十四日 朝、子供と公園に行って、帰ってから昼のニュースなど見て、さて二時からの仕事へ行こうと思い手帳を見たら、一時からと書いてある。ついで に時計を見たら一時五分過ぎだった。急いでキングスタジオまで行ったが、やっぱり遅刻した。ハアハアいってスタジオに入ったら、譜面はおたまじゃくしで真 黒。きょうはついていない。気をつけて帰ろう。夜六時より武蔵野音楽院で練習。プーランクのピアノ六重奏。

二月二十五日 一時よりコロンビアスタジオ。テレビのテーマと同時にレコードにもするらしい。夜五時より九時まで三月一日のコンサートのためのリハーサ ル。

二月二十八日。二日間家にいてコンサートのための練習をした。きょうは一時よりコロンビアスタジオで演歌のレコーディング。演歌というのは何回やってもう まく乗れない。あの不思議な乗りは何だろう。四時半より宮長スタジオで水牛のコンサートのためのリハーサル。はじめて如月小春さんの楽団を見る(聞く)。 おもしろい。

二月二十九日 十時より明日のリハーサル。朝というのは身体全体が寝ていて具合がわるい。

三月一日 アンサンブルプラクティカという現代音楽の演奏団体があって私はそこのメンバーなのです。きょうは駒場エミナースでコンサート。プーランクのピ アノ六重奏曲、イダルゴのハ・ウ・ラ、パッカニーニの室内楽曲、平石博一さんの迦陵頻伽の四曲。お客さんは七、八十人かな、今回は特に少ない。でもステー ジの上よりは多かった。例によって出来は問わない。

三月三日、四日。渋谷のユーロスペースで水牛楽団のコンサート。二日で三ステージ。水牛名曲選と如月小春さん作の高い塔の歌を演奏する。演奏といっても、 高い塔のほとんどが対話の形式になっており、メンバーそれぞれがアドリブもいれ、けっこう楽しくやらせていただきました。

三月五日 三時、キャニオンスタジオ。

三月六日 二時、サウンドインスタジオ。三時半より七時まで、ビクタースタジオでダビング。ディレクターが大変にうるさく、何度もやり直し。

三月八日 六時より池袋で木管クインテットの練習。フルートをかれこれ二十年以上吹いているがなかなかうまく吹けない。要するに下手なんだろう。納得す る。

三月十二日 朝十時より池辺さんの劇場音楽をアバコスタジオで録音。一時より東京音大で松平さんの曲合わせる。四時半より池袋で木管クインテットのリハー サル。

三月十三日 第一生命ホールで現代の音楽展。松平さんの曲を演奏する。この手のものはお客さんが少ないなあ。

三月十四日 青山のカワイサロンで木管クインテットの本番。ジュータンが敷きつめてあって泣きたくなるほど残響がない。九時半からNHKで武満さん作曲の 劇伴で、サンバのテーマを吹く。十一時終了。きょうは疲れた。家へ帰ると明日のレコーディングがキャンセルになっていた。よし明日はいぎたなく一日中寝て やるか。


友だちと呑めば本になる  津野梅太郎


十五年か二十年まえ、東中野の喫茶店で熱心に話しあっている三人の老人のすがたを見かけた。あいての口もとに補聴器のマイクをつきつけて「ケッケッケ」と 笑ったりする。まるで寒山拾得図だ。金子光晴、秋山清、岡本潤の三人だった。この人たちは、たぶん大正時代からこうやっていたのだろうなと、なにかボウボ ウたる気分になったことをおぼえている。
油ですすけた新宿の台湾料理屋で高橋悠治、鎌田慧の両氏と会っていて、あのときの三人の老人のすがたを思い出した。ここにも寒山拾得と豊干さんの境涯にち かづきつつある三人の男がいる。とすれば、あっけにとられてかれらのようすをうかがっている青年のすがただって、この店のどこかに……とあたりをみまわす までもなく、すぐ眼のまえに戸田れい子さんがすわっていた。あたりまえじゃないか。きょうは彼女が夕張でとりためた写真を本にしようと、その相談のために ここにあつまっているのだから。
めずらしくも戸田さんはサカズキを手にしようともしない。三人の男たちだけが、これまたないことに人生的なふんいきで呑みつづける。こんどの写真集のかた ちがチラッと見えかけた。それを忘れてしまわないようにと、さらにえんえんと呑む。

ヨーロッパ建築を見てまわるツアー講師として、ただで三週間の旅をしてきた石山修武さんと会う。ようやくかれの本のゲラがではじめた。それをもって編集部 の島崎勉がくる。新宿の地下ビア・ホール。本をつくるために呑むのか、呑むために本をつくるのか。もうひとつ。本をつくったから友だちになったのか。友だ ちだから本をつくりたくなるのか。そうねえ。私のばあいは、どちらも後者、つまり友だちと酒を呑みたいから本をつくっているのだろうね。出版の私有化だ ね。
いま私たちがまともな家をつくりたいと思うなら、建築と生産と流通のしくみを具体的にかえていかなければならない。それは可能なのだとあえていってしまう のが石山さんである。その戦略と作戦を建築専門書としてではなくまとめてみたいと思った。
ええとさ、秋葉原感覚で住宅を考える、タイトル、これでいいんじゃないですか。ウッフッフ、そうですか。いいんじゃないかな、ザラッぽくて夢があって。石 山さんの作戦は具体的になればなるほど夢になるんだね。ウッフッフ、そうですか。工房の夢ね。フフン。でも、アレ、やっぱりすごかったですね、ガウディ、 やっぱりものすごいですよ。シャクにさわるから、だれにも話さないようにしているんですけどね。しゃべってるじゃないですか。ウッフッフ、そうですか。で も、ものすごいもんですよ、アレは。

ひさしぶりにイリノイのディヴィット・グッドマンから手紙がきた。予定どおり、ことしはヒロシマ文学とホロコースト文学をてらしあわせながら授業をやって いるらしい。
「考えれば考えるほどヒロシマとホロコーストは同じ類のものではないかと思うようになってくるけれども」とかれはいう。だけど、どちらのばあいも、それぞ れの民族に属する個人の作家たちが、それぞれの大火災、そのおびただしい死者たちと言語によってとりくむさい、どうしてもそれぞれの「文化的資源」を利用 せざるをえなかったという共通点があり、同時にそれは、それぞれの「文化的資源」を変えながら、使っていくといことにもなるわけで、そこに興味深い問題が いくつもでてくる。「当然みたいなことですが、教え方としては仲々おもしろく、効果もありそうな気がします」とか。
かれのところにも日本からきた留学生たちがいて、教室で別役実の『象』や井伏鱒二の『黒い雨』にふれると、そんな話をしてはアメリカ人にわるいというのだ そうだ。そういう諸君を相手どっての授業でもあるわけで、したがって日本で出版しても「仲々おもしろく、効果もありそうです」と小生は確信しております。 ご健闘を、な。

手紙のおわりに「ところで和子の本のゲラはどうなってますか?」とかきそえてあった。去年、この雑誌にのせた藤家和子さんの文章を中心にちいさな本をつ くっている。そのゲラが印刷屋のつごうでおくれてしまった。という連絡をなまけたので彼女が心配しているとのこと。
いそいで担当の村上さんに電話してもらった。ついでに私もでる。おう、元気かよ? 彼女はことしのはじめ、からだをこわしてしばらく入院していたのだ。う ん、いちんちの半分はまだ疲れるけどね、あとの半分は元気。ディヴィットがでて、五月のすえにそっちにいくよ、いっしょに韓国にいこうよと、こちらはいち んちぜんぶ元気がいいといったようす。六月いっぱいは東京に滞在する。そのあいだには彼女の本もできあがるだろう。いままで自分の本ができたとき日本にい たことはいちどもないのだそうだ。よおし、せいだいに出版記念会をやるぞ。



編集後記

さて、“大改革”第一号は、どうですか?
この号の実務のほとんどは八巻さんが手伝ってくれた。ぼくはといえば、京都・大阪・名古屋をうろうろしていた。四月二日の正午、うちでテレビのニュースを みていたら、黒人のソウル・シンガー、マーヴィン・ゲイが親父と喧嘩して、ピストルで撃たれて死んだという。四十五歳になる前日とのこと。数年前に離婚 で、身の廻りのものから、印税までを慰謝料で失ったという歌を作った一風変わった歌手だけど、もはや失うものが何もなくなってしまったわけだ。同じ日の新 聞に八三年一年間の自殺が二万五千人を超えたとある。特に四、五十代の自殺が増えているそうだ。ぼくと同世代ではないか。ぼくなんか、十代に二度も自殺し ようか、と思ったぐらいで、そのためか“免疫”になってしまって、この頃はそんな気にならない。けれども、十代の時よりも“死”がとても近くに来ている、 という気は強くする。不老長寿、や、不死、について昔から人々が、あくせくしてきた気がわからないでもない年齢になったわけだ。




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