栂尾上人歌道垂示(2000)
付・「栂尾上人歌道垂示」資料

高橋悠治



蒲原有明の自伝小説 夢は呼び交す のなかで
目に映るうす蒼い空間からしぼりだされた白馬の足掻き
その馬に乗る僧
従者に手綱を取らせ 霞のような大地に種子をまく
真言の種子は響となって身体のふかみに沈みこみ
髄液にさざなみ立てて 心を染め上げてゆく

栂尾の明恵上人の伝記には西行のことばと記されてはいるが
目に見えるものすべてが ただ見えるだけで
耳に聞こえるものすべてが ただ聞こえるだけ
心に思うことすべてが ただ思うだけであるならば
花は咲くこともなく しおれることもなく
花でないものたちとのかかわりによってのみ
ふいに顕れる そこがまさに花のかたちをした空間
花ということばのひびいている そのときだけが花の時間
花でない世界と花である空間の
あるいは空間である花と
ことばにも心にもあらわれてこない世界のかかわる
一瞬の光を知る それが歌を読み出すということ

見えないこの世界の花はどこにあるのか
ことばのひびきが消えるとき もののひかりもまた消えて
あとかたもない
まず空間があり 時間があって それを世界と呼ぶのなら
世界のなかに花があり それを見ている目があり
見ていると知る心があり 心を伝えることばがある
このとき 花ということばは 花ではない
比丘たちのあつまりで ブッダが一輪の花をさしだした
だれもがその意味をはかりかねていたとき
ひとりの弟子がほほえんだ と伝えられる
かくされた意味をさとったからではなかった
ブッダの手はにぎりしめるなにものもなく ひらかれている
とするならば
手はだれに対しても ひとしくひらかれ
花は 花でないものを伝えるためにさしだされたのではなかった
花はことば 花は文字
ひびきであり ひかりであり 空間であった
世界を理解するとはどういうことだろう
物をことばで置き換えることなのか
そうでないなら わからないというわかりかたがある
と道元が言ったように
あるいは 一歩進めてこう言おう
わからないというわかりかたしかない
花が花をさしだしている それがひらかれた手 それがほほえみ
そこにはブッダもいないし 弟子たちもいない
こうして読まれたことばは すべて真言ではないか
真言とは 意味で置き換えることのできないことば
それ自体をさししめすしかないことば

赤い虹が空に懸かり 白い太陽が空にかがやく
空の蒼さは光の闇 なにも映さない鏡
湖が空を映してしずまるとき そこには水底も映っている
透明な表面には裏表がない 外側も内側もない
すべてを映して しかも鏡ではない
太陽は空にはない そうでなければ なぜ日は沈むのか
虹は空にはない そうでなければ なぜ消えるのか
なぜ湖は空を映すことができるのか
湖は空にあるのではない 空は湖にあるのではない
空はどこにも見つからない
空はどこにあるか ときかれたら 
空は空にあるというよりしかたがない
どこにもないものが
そこに映っているのはなぜか ときかれたらどうする
湖もどこにも見つからないからだ と言おうか
そこにないものがそこにないものを映している
その鏡もどこにもない ただ映るだけ

白い雲が太陽をさえぎるとき それはもう白くない
こちら側は翳りに染められ 向こう側から零れる光に縁取られ
影の糸は縺れ 光の粒が舞い上がり 目も流れてゆく
そのように
目をやわらげ まぶたがゆるみ 視界が下にひろがるとき
見える色の模様は 目をさえぎる影の壁
輪郭に添って萌える燐光
そこに物はなかった 影のせせらぎが映るばかり

このたよりない風景 見えない世界の影の側
そこには見るものはいない 見られるものもない
伝えるなにものもなく しかも なにかがそこにめざめている
木の枝を風が吹き抜けるとき
枝は風に押されるままに かたちを変える 
絡まる枝を振り切って 風はのがれてゆく
枝は風には追いつけない 木は梢から幹まで波打って
だんだんにしずまってゆく
そのように
ここにある身体をことばがくりかえし撃つ
リズムが内側にめざめると
もうそれについていくしかない
ひびきが身体を突き抜けていくとき
見えないひかりが心をめぐる
思いつづける真言は
くりかえされてもいつもはじめてのひびき
そこには慣れというものがない
消えてゆく焔のさいごの火の粉を味わい
心はときはなたれる
芭蕉のように
ものを見とめ聞きとめ 言いとめなければいられないなら
判断し 選択し 添削し
ことばを思いつづけて
冬枯れの野にさまよい出る心を
どうしてとどめられようか
枯野をめぐる夢ごころ なのか
夢は枯野をかけめぐる のかまよいつつ
目の前にある生と死の繊細なことばに心をとざす

めざめた人はいたるところでことばである と道元は言った
ことばがことばをえらび よびかわす
ことばはあるか それともまだかと問いかける声
杖もはたきも 柱も灯籠も 声をあげる
ことばとは ひらかれた問いであり
めざめた心こそ 問いの空間なのだ
それは問うことによって さらにひらきつづける

ことばはひらくもの だがつくられた歌はとじている
明恵は習い覚えた詩の技術を捨てた
胸のうちにことばが浮かんでくるときも
それを文字にして手渡そうとはしなかった
ひろった石ころ 遠い島 月明かり
それらの発するひそやかなことばをききとり
ひそやかにことばを返す
そこに明恵はもういない
石ころが石ころに語り 島が島を呼ぶだけ
夢のことばをかきとめる手は ことばの夢の手
書くことによって 夢がめざめる
あるいはめざめる夢をみる
すべては夢だ ただめざめるだけ

蒲原有明は詩人であることに耐えられなかったのだろうか
ことばに深く思いを沈め きたえあげた技術が批判された
というだけの理由ではないだろう
自然主義者たちの攻撃を待つまでもなく
方法を自覚した詩には 生きる場所がなくなってしまった
柱もはたきもない 灯籠も杖もない
身体はことばによって病んでいる
ことばによって生きる 詩をよりどころにして生きるとは
この世界のなかでの最後のやすらい
世界に背をむけて守る ひびわれた砂の砦
それでもことばは零れてゆく
ひびきかわすことを忘れた 涸れたことば
詩は生を追いつめる死の手となった
ヘルダーリン マラルメ マンデリシュターム ツェラン
それとも詩を捨てて生きるか
風が立つ さあ

かつて詩が世界から滴り落ちてきた時代があった
詩は起源であり 歴史であり 日々のたくみであった
詩人には名もなく顔もなかった
ホメーロス ヘシオドス 柿本人麿と呼ばれようとも
だれでもなく だれでもよかった
詩人は生きたことば 生きるわざだった
メタファーになってしまったへんげがよみがえるなら
詩人はもはや詩をつくらず
その身体が詩であり 詩は身体であるだろう
机におかれた石ころや島の身体ともゆきかうことばが
石であり島であることばが積まれ
崩れてもまた積まれて ことなる身体を顕し
それもまた崩れるまでの仮縫いの
糸はめぐり矢は飛び立ち 霧は流れ
乱れ舞う鶴の群れ
飛白を内に秘めたことば
余白を身にまとったことば
傍らを歩むものの心をまもるものは
世界に住むものたちを 絡めてすくいとる
かすかなことば かぼそいことば
おぼつかなく たよりない そして
どことなくすこしこっけいな ことばのふるまいが
さそいだす人びとの心のつながり
ことなることばのつらなりを
発句が俳句となり 連歌が短歌となり
忘れられていったことばの住み家
ことばのなかのふるえる細い光の糸髪
ことばのうつろな内側でひびきはめぐり
リズムが外に向かって波紋をたなびかせる
柿の葉が庭に散り
風に吹かれてあちこちと
鳥の跳びあるくようにころがっていく
詩もこのように
まとまりなく あてどなく
はじまりも終わりもなく
書き継がれ 読み継がれていくもの
道をつくらず 道を行かず
むしろ道そのものとなって踏まれ
その上を人びとが通りすぎてゆく

(「ミて」7)

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付・「栂尾上人歌道垂示」資料

西行法師常に来て物語して云はく、「我歌を読むは、遥かに尋常に異なれり。華・郭公(ほととぎす)・月・雪、都(すべ)て万物の興に向かひても、凡 そ所有(あらゆる)相皆是虚妄なる事、眼(まなこ)に遮り耳に満てり。又読み出す所の言句は、皆是真言に非ずや。華を読めども実(げ)に華と思ふ事なく、 月を詠ずれども実に月と思はず。只此の如く縁に随ひ興に随ひ読み置く処なり。紅虹(こうこう)たなびけば虚空色どれるに似たり。白日かゝやけば虚空明かな るに似たり。然れども虚空は本、明かなるものにも非ず、又色どれる物にも非ず。我又此の虚空の如くなる心の上において、種々の風情を色どると云へども、更 に蹤跡なし。此の歌即ち是如来の真(まこと)の形躰也。去れば一首読み出てては一躰の仏像を造る思ひをなし、一句を思ひ続けては秘密の真言を唱ふるに同 じ。我此の歌によりて法を得る事あり。若しこゝに至らずして妄りに人此の道を学ばば、邪路に入るべし」と云々。
(栂尾明恵上人伝記 巻上)

又上人語りて云(のたま)はく、「我れ先師の命に依りて、十八歳まで詩賦を稽古して風月に嘯きしに、其の興味深くして他事を忘るる程なりき。然る 間、自ら非を知りて、此の道を打ち捨てき。然れども雪月の節に引かれて、時々胸に浮かべども、取合て一首を作る事希なりき」。(〃)

此前ノ柿ノ木ノ葉ノチリテ庭ニ候ガ、風ニフカレテ、アナタコナタヘマカリ候ガ、鳥ノシアルクニ似テ候ヲ、カキトリテ申サムト思候也。コレテイノ事ハ、カク申ソメツレバ、ヤガテ歌ノコトバニモナルニコソ候メレ。(却廃忘記)

然れども和合僧の律義(りちぎ)を修(しゅ)して同一法界の中に住せり。傍らの友の心を守らずば、衆生を摂護(しょうご)する心なきに似たり。(明恵「島への文」)

  紀州の浦に鷹島と申す島あり。かの島の石を取りて、
  常に文机のほとりに置き給ひしに書き付けられし
われ去りてのちにしのばむ人なくは 飛びて帰りね鷹島の石

あかあかやあかあかあかやあかあかや
あかあかあかやあかあかや月(明恵上人歌集)

師のいはく乾坤の変は風雅のたね也といへり。静なるものは不変の姿也。動ける物は変也。時としてとめざれば、とどまらず。止(と)むるといふは見と め聞とむる也。飛花落葉の散乱るるも、その中にして見とめ聞とめざれば、をさまることなし。その活(いき)たるものだに消て跡なし。又、句作りに師の詞 有。物の見えたるひかり、いまだ心にきえざる中にいひとむべし。(土芳『三冊子』)

諸仏諸祖は道得(だうて)なり。このゆへに、仏祖の仏祖を選するには、かならず「道得也未(だうてやみ)」と問取するなり。この問取、こゝろにても 問取す、身にても問取す。撞杖払子(しゅじょうほっす)にても問取す、露柱灯籠(ろしゅとうろう)にても問取するなり。仏祖にあらざれば問取なし、道得な し、そのところなきがゆへに。(道元『道得』)

百万衆(しゅ)かならずしも拈花瞬目(ねんぐゑしゅんもく)を拈花瞬目と見聞(けんもん)せざらんや。迦葉と斉肩(せいけん)なるべし、世尊と同生(どうしゃう)なるべし。百万衆と百万衆と同参なるべし、同時発心なるべし。同道なり、同国土なり。(道元『密語』)

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