スライドと音楽(2001)
高橋悠治


詩と絵と音楽のコラボレーション

はじめて富山さんに会ったのは、市ヶ谷の YWCAでひらかれた『深夜・金芝河 富山妙子詩画集』の出版記念会だった。1975年当時獄中にあったキム・ジハの詩による富山さんのリトグラフの詩画 集にレコードをつけることになり、その時は、林光の作曲したその音楽のなかでバイオリンを弾いていた黒沼ユリ子に誘われて、録音の様子を見に行っただけ だった。
それをさらに富山さんがスライド作品にした時には、今度はそのための音楽を作曲することになる。それが『しばられた手の祈り』で、火種工房の出発した時で もあった。こうしてだんだんと富山さんとのコラボレーションに引き入れられて、気がついたらその時から25年がすぎていた。こんなに長く一つのことを続け た経験は、ほかにない。じつは、途中何回も他の作曲家たちとのコラボレーションを勧めてもみたが、結局富山さんと合わなくて、仕事はこちらに戻されるの だった。どうしても振り切れなかったとも言える。
しかし、富山さんの考えや絵は、作品ごとにますます多様になり、おもしろくなってきた。はじめの頃は、『しばられた手の祈り』や『倒れた者への祈祷・ 1980年5月光州』のように、緊急メッセージの発信という政治的課題が優先だったが、その後はしだいに、時間空間の上で表現がひろがりと厚みを持ち、絵 はイコンのような象徴性を帯びてきた。はじめの頃の黒い太い線に替わって、柔らかさをうしなわない多彩色の輝きをもつ面のかさなり、従軍慰安婦や買春のよ うなテーマをあつかっても、暗く重い告発ではなく、傷ついたひとたちの物語をきき、原初の女性的な宇宙のなかにその苦しみを解こうとする。生者や死者が出 入りする巫女の家から見た世界は、いまの時がユーラシアの原初の空であり、ここは新宿歌舞伎町であるとともに満州の広野でもある。

時代と表現

それらのスライド作品につけた音楽も、時代とともに、また音楽についての考えの変化とともに、変わってきた。最初の『しばられた手の祈り』では、林光も 使っていたキム・ジハ作詞の賛美歌である『しばられた手の祈り』によるピアノの変奏曲を中心にしていたし、『倒れた者への祈祷』では、当時うたわれていた 韓国学生たちのプロテスト・ソングや、民謡をとりいれた音による光州事件の物語になっている。
『海の記憶』(1988年)には生者と死者をつなぐ巫女が登場する。音楽も韓国の民俗音楽の要素や、さまざまな音のサンプルをコンピュータで操作して作られた。
『帰らぬ少女』(1991年)や『20世紀へのレクイエム・ハルビン駅』(1995年)では、コンピュータによる都会のノイズや、戦時下の歌謡曲のリミッ クスが登場する。これらの作品では、物語のそれぞれの場面につけた音楽は、画面とは独立に作られ、構成要素の一つとして提供されている。
『きつね物語、桜と菊の幻影に』(1998年)では、エレクトロニクスとコンピュータで操作される音ではなく、フルートとピアノにいくつかの打楽器の単純 なリズムを加えた、なかば即興演奏になっている。韓国民謡や日本の唱歌などを素材とする部分も、それらがそのまま出てくることはない。この音楽は、絵にさ きだって作られ、録音された。ここには、物語はあるが、語りはない。各場面を要約する詩的なコメントがサブタイトルとして挿入されている。ここではじめ て、スライドは「絵と音楽のコラボレーション」となった。
それまでの作品は、物語る声を中心としていた。それは、日本の記録映画をモデルとして出発していたからでもあった。記録映画では物語るというより、たえま なく説明する声があり、画面を挿し絵のように平面的なものにしていた。音楽は情緒を盛り上げるために使われ、それがまた、説明する声をある種の感傷性に染 めていた。
こうして説明され、できるかぎり情報を詰め込まれた物語は、それ自体政治的なメッセージの実例にすぎない。
観客は絵を見る余裕も、音をきくひまも、考えるゆとりもなく、ことばに流され、追い立てられる。
スライドの画面は静止している。観客の自由な視線のうごきが、映像の意味のかさなりを織り上げる。目は画面のなかの象徴をてがかりに、またサブタイトルの わずかなことばに示唆をうけて、絵にむかって問いかける。そこに決まった答はない。それぞれの目がちがう答を抽出し、それでも意味からこぼれていくなにか が残る。

「音楽」とよばない音楽

音には、ことばのように、意味はない。音は音でしかない、というより、音でさえない。それは、とらえたと思ったときにはもう消滅している音色であり、それらを波のように運んできてまた運び去る、一定のリズムのない息づきである。
音楽が、「音楽」作品としてきかれるようになったのは、本を黙読するとか、絵が額縁に入れられるのとおなじで、そんなに昔のことではない。
楽器の上の指のはたらきや、そこに吹き込まれる息は、その場で起こり、たちまち消える。そのプロセスを音という実体とみなし、さまざまな色をした小石を組 み合わせ、積み上げた建物のように音楽を見る習慣は、楽譜に定着され、録音されて固定された消えない記憶を音楽作品として、見えない美術のようにあつかっ ている。
音楽作品を、置かれた場や環境、生活から切り離して、視覚化し抽象化してながめる能力は、だれでもが持っているものではない。音楽が日常から離れたコン サート会場という閉ざされた場で、それだけのものとしてきかれるようになったとき、それをきく人たちも、ジャンル分けされた「聴衆」になった。「音楽がわ かる」ことが、この場に出入りする資格であるかのように、聴衆はふるまう。だが、生活の場にある音については、「わかる」ことは問題にされない。盆踊りや 神楽をだれも「音楽」としてわかろうとはしないだろう。
以前は人の誕生・成人・婚礼・葬送の場に音楽があり、季節の祭礼、収穫、和平の儀式でも、ひとびとの心をひらく音があった。求婚や友人をむかえる時の、心 をひきつける楽器の音、労働の唄、祈りの唄、子守唄もあった。ひとりだけでいるときに心をなぐさめる、ちいさな音の楽器もあった。
そういう音楽は、あらたまって音楽とは呼ばれない。太鼓とか、笛とか、竹とか呼ばれることもある。場やかかわりのなかで、あるはたらきをする楽器は、音や音楽としてそれだけで考えることはできない。

芸術の解体のあとに

文字が無かった時代、また文字をまなばせてもらえなかったひとびとのあいだでは、必要な知識や起こったできごとは唄にして伝えられた。目に見えないはたら きは、見えるかたちに刻まれた。語られる叙事詩は、あるときは絵を手がかりにしていた。いまでも、歴史や神話、宗教的な説話を絵を前にして指ししめしなが ら語る芸能は、チベットやインドに残っている。日本の古い絵巻物もそうだったかもしれない。たとえば寺院の所蔵する絵巻は、特別な日にひろげられ、ひとび とはそれをだまって見るのではなく、場面場面を指しながら僧が語り聞かすという説教節談があった。それが独立した芸能になり、僧ではなく、僧形の芸人や職 人の生活手段になっていくと、絵巻も教化のためだけでなく、絵や語りのおもしろさが追究されるようになる。
技術が発展するためには、ひとつのものだった絵や音や語りをひとまず分離して、それぞれを洗練することになる。その成果である額縁絵画や楽譜や録音、印刷 された物語が売買され、所有され、しまいこまれる物になるのにつづいて、それらを作りだした技術も秘匿され、取引されるようになる。そういう状況はどこで も起こることで、かならずしもヨーロッパから強制された近代化だとも言えない。前近代の権力構造が解体される過程で起こる、権力の教説からの内発的解放の プロセスでもあった。
だが、いま近代世界システムがほころびていくなかで、芸術の解体もすすむ。そこでは、分離され洗練される一方で管理されてきた芸術活動の、相互作用やハイ ブリッド化がさまざまに試みられる。オペラやハリウッド映画のように統合され、システムによって制御され、運営されるのではなく、美のシステムの周縁に投 げ出されたアーティストのボランティア的結びつきから、別な展望がひらける。それは、おもしろいものを作るというだけでなく、それを通じて人の関係を作り 直し、世の中に通用している物のありかたや人の生き方を問い直す活動になのではないだろうか。
スライドと音楽も、そのようなささやかな実験の一つだ。美術館の壁におさまっているのではなく、壁に投射されては消える絵画と、楽譜に固定された音楽作品 ではなく、音をきくことと楽器にさわることという演奏の根源にもどろうとする音楽が、相互を契機として生まれる場は、現代を問い直す観客の前に置かれた一 枚の鏡となる。すべての問いは、問うものに投げかえされるのだ。

(火種工房25周年記念スライド・ガイドブックのために)



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