矢川澄子に         高橋悠治

(これがまあ終の女かお澄ちゃん
横たわる
蝋白色の額 閉じた眼のあたりに最大限の不機嫌をこめ
すこしまがった口許 青ずんだ唇
あそびつかれて家に帰ったこどもたちのあとに
ひとり
死んでしまった愛を追って
(あのひとは 人の心がわからないひと
最後に会ったとき 朗読の録音の帰り
桜のない花見 公園の闇
(これからわたしがしようとすることを
(だれも 止めることはできないでしょう
形見分けにたよりを添えて
いま夜の十時半
呑めない酒にではなく 空けた杯に酔い
エンドレスにまわる あの歌声にではなく
大音響のなかの輝く沈黙に 心もつぶれ
(あたしの手足よ おまえたち連れていこう
暗がりを透かしても 見えない向こう側
むこうみずに
何もない空間に一歩踏み入れ

昔の写真
黒服の腕をそっとひろげて
ちょっとはにかんだ少女のほほえみ
くるくるまわりながら小さくなっていく
(澄子はどうすればよかったの
追いすがる声
(澄子はどうすればよかったの
追いすがる ほそい声

(ユリイカ)



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