しずかな敗戦   高橋悠治

 

一九四五年八月一五日は朝から晴れていた。八月だから晴れていれば暑い。それでも 道はまだアスファルトで隙間なく覆われてはいなかった。牛や馬が荷車を引いてがらがら音を立てて通り、道の向こうの川にはメダカやフナやハゼはもちろん、 ウナギまで上ってきていた。子どもでも網で掬ってバケツに入れることができた。
 その頃うちは鎌倉の浄明寺にあった。借家だったが生け垣に囲まれた広い庭があり、その向こうには畑があって、トウモロコシやナスを植えていた。どこの家 でもその周りにはそういう空き地があった。それはだれの土地だったのだろう。そこで家族の分を作り、近所の農家で作ったものをわけてもらっていた。ヤギを 飼っている家もあった。ニワトリを飼っている家もあった。
 昼近く、近所の人達が庭に集まってきた。ラジオは庭に面した客間にあった。その戸をあけ、音量をいっぱいにあげた。雑音のなかに声がほそぼそとつづき、 みんな芝生の上に座ってしずかにきいていた。その話はすぐ終わってしまい、人々は立ちあがり、ひそひそ話をかわして、帰っていった。
 
 鎌倉のその辺はしずかで、町からもはなれていたが、住宅街というようなものではなかった。大きな家もあまりなく、隣近所には学者や転向左翼作家もいた し、退役軍人も、大船にあった松竹映画関係の人もいたが、百姓や職人もいた。何もしていないように見える家もあったが、わが家もそのひとつだった。
 父は町内会長をしていた。世話好きだったから、選ばれたのかもしれない。月に一度は憲兵が立ち寄って茶飲み話をしていった。左翼雑誌の元編集者を監視し ていたのだろうか。これといった職業もなく、どうやって生活していたのか、いまでもわからない。

 母は戦争がなければ、そして息子が病弱でなければ、ピアニストとしての活動をつづけていたことだろう。鎌 倉は東京からは遠いいなかだった。敗戦近い非常時には歌舞音曲などとんでもない、というわけで、ピアノを教えることも、弾くことさえできなかった。
 どういうわけか、徴兵された学生が三人、泊まりに来たことがあった。音楽をききたいというので、SPレコードで当時のポピュラー・クラシックとアメリカ のジャズをきかせ、家の息子は竹のレコード針を専用の道具で削り、三分たったらレコードをひっくりかえす。どこともしれない奥から小さく響いてくる音楽を 三人はだまってきいていた。年月がすぎたあとで、学徒出陣前夜にバッハを聴くというような感動的な小説が出版される。だが、この世での最後の音楽なのか、 他にすることがなく、レコードでも聞きたかったのか、子どもにはわからないことだ。他人の心のなかに、どうして立ち入れるだろう。
 かれらは翌朝ていねいに布団をたたんで、出発した。
 
 その年の4月に近所の学校に入った。その前には幼稚園にもしばらく行ったが、おもしろくないのですぐやめてしまった。国民学校の一年生は午前中の授業 も、よく空襲警報で中止になり、防空頭巾をかぶって家に帰った。集団下校の風習はなかったと思う。ほんとうに空襲になればかえって危険だったことだろう。
 鎌倉には空襲はなかったことになっている。古い都だからアメリカ軍も文化を尊重して爆弾を落とさなかったのだ、という話が戦後信じられたが、飛行機は横 須賀と東京の間で通りがかりに機銃掃射してみたり、焼夷弾を落として家を焼くことにためらいはなかった。パイロットも楽しみが必要だったのかもしれない。 それでも、疎開しなければならないほどひどくはなかった。
 ウナギの来る川の向こうに竹藪があり、そこに近所の男達が何カ月もかかって掘った防空壕があった。夜サイレンが鳴ると、こどもたちは起こされて手早く防 空頭巾をかぶり、胸に蛍光標識を付け、ジージーと音を立てる発電式の懐中電灯をもち、手を引かれて川を渡った。浅い川で、水に落ちないように飛び石が配置 してあった。近所の何家族かがそこで警報解除のサイレンが鳴るまで隠れるだけの広さの横穴だった。庭にも家族用の壕が掘ってあったが、緊急の時以外は長時 間いられるようなものではなかった。
 家が焼かれたときに備えて、もっとはずれた丘の中腹に、大きな洞窟があって、近所中が家財道具一式を荷馬車につんで運び込んだこともある。いまでいうト ランクルームなのだが、いくらかかび臭かったが、高い天井でむしろ乾燥していた。
 近所の家にあそびにいって、押入のなかで本に夢中になってサイレンにも気づかず、気がつくと家の人達はとっくに避難して、ひとりになっていたことがあっ た。なにをよんでいたのかおぼえていない。子どもの本ではなかったような気もする。カナさえよめれば、その頃の本は総ルビだったから、おとなの本でもよむ ことができた。
 もうすこし年長の子ども用の愛国小説もあって、特攻隊に志願した少年兵が燃える飛行機でアメリカの軍艦に体当たりをする、ゴーグルの風防ガラスが熱でや わらかくなって何も見えなくなる。こんな悲惨な物語で愛国心をかきたてようとしたのか。これが、いまのナショナリズムやいじめの心情につながっているのだ ろうか。
 子どものあそびも、たいしたものはなかった。木に登る、三輪車をこぐ、草をあつめて小鍋にいれてままごとをする。やはり食物があまりなかったのだろう。 米のかわりにエンドウ豆が配給され、国を愛するチュウキチネズミが豆ご飯をおいしくいただいている絵本をよんだ。粉だけがあり、毎日すいとんを食べたこと もあった。タンポポやフキノトウも日常に食べていた。おとなになってもずっと、フキノトウだけは食べられなかった。
 
 八月十五日以後は、サイレンも鳴らないしずかな日々がつづいた。数日後に横須賀にあった高射砲基地が、飛行機もいないのに発砲して、鉄のちいさな塊が、 うちの客間に落ちた。しばらくは、その塊を筆箱に入れておいた。
  父に連れられて戦後はじめて電車で東京に行ったとき、東京駅から丸の内のほうを見ると、建物も何もない空間が地平線までひろがっていた。遠くの崩れ落 ちたビルの廃墟に、板張りの囲いがあって、夕闇にちいさな灯りがもれていた。しかし、これはあとから作られた記憶かもしれない。
  
 秋になりと、馬車や牛車が通っていた道を、アメリカ占領軍のジープが通るようになった。兵士達は後を追って走る子どもたちにチョコレートやチューインガ ムを投げあたえた。
 砂糖が配給され、それをフライパンで板のように焼き固めて、何日も食べつづけた。九月にはじまった学校も、何ごともなかったかのようにつづいていた。一 年生の教科書には、墨を塗って隠すほどの内容はなかったのだろう。昼になると、バケツに入れて溶いた生ぬるい粉ミルクを毎日飲まされて、吐きそうになっ た。それが何年もつづいた。
 ある日、三人のアメリカ兵が訪ねてきた。あがりこんで、もてなしを受け、ちょっとしたプレゼントを置いていく。そんなことが数回あった。何のために民家 を訪れたのか、何かの任務だったのか。英語ができたわけもないが、なかの一人は天文台ではたらいていたという記憶がある。銀河や遠い星の写真を見せられ て、天文学者になるのもいいか、としばらく思っていた。もう一人は、客間のピアノのふたをあけて、こぶしでリズムをたたいた。こうして、音楽がもどってき た。母は近所の子どもたちにピアノを教えはじめた。
 
 六〇年前の子どもがわかっていたことは多くない。だが、おとなだったとしても、おなじようなものだったのではないか。非常時だ、戦争だと言われていて も、日常に劇的な変化があるはずもない。突然崩れ落ちるまでは、いつもの生活がだらだらつづいているだけだ。
 
[子どもたちの八月十五日--岩波新書956]



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