もどかしく左のこぶしを振りながら                高橋悠治



 藤井貞和の詩に出会ったのは一九九五年だった。混声合唱と三味線、チベットの鈴、韓国の銅鑼、アイルランドの太鼓のための曲に、テクストをさがしていた。詩集『大切なものを収める家』の『第五の家』から 佐竹彌生の短歌をモチーフとする『Mono-Gatari 』と『霊(もの)語り』の二篇を選んだ。藤井貞和の詩はそれまで読んだことがなかった。佐竹彌生はいまも知らない。


 「もの」という一連のなかにあるのだけど、「もの」がこんなに疲れちゃってえ       

  ゆらゆらしている「魂」の、少しのあいだその容器が「みえねども」でさあ


 第一の詩を三人に分けて朗読するあいだに、客席にいる合唱はつぶやき、となえ、舞台に近づいてくる。第二の詩では、三味線を囲んでコーラスは輪を作り、盆踊りのように時計回りに回りながら歌う。声の楽譜は、数字譜と聲明の曲線を合わせたもの。三味線は指定された「手」をそれにあしらって弾く。


  これが詩だということはできない、

  詩をさがす詩はみかけのうえで、

  時間の筒をもっている坑内である、


 引用、本歌取り、読みながら書く手、ちがう文脈にことばを置き直しながら、すでに書かれたことばを空間として、そのことばを、書いた意図から解放する。凍結した表現を、すこしずつ引用して溶かしながら、衰弱するほそいほそい線のからまりを、離れた樹の上から見つめる、眼がある。


  感奈子(かなこ)はね、

  姉さんのあとを追って、

  ここまで来ました。

  海岸に打ち上げられて、

  深い眠りについたのです。

  「とき」が感奈子の死体から少しずつ流れて行くのを、

  感じます。


 からっぽの部屋に、箏が置いてある。寝巻の少年が、手を引かれて出てくる。あおむけに寝て、暗い天井を見あげると、夢のような声が耳もとできこえてくる。『寝物語』 (一九九七年)。


  ぼくワあるくんだ

  寝たままで

  まどいっぱいに

  しろいふねがむかえに来てくれたら!

  ともだちのともだちも

  ともだちのともだちのともだちも

  みんなで振るんだ

  キンゾクバッ

  キンゾクバッ


 この人の書く詩には、ひとりの姉が住んでいる。はじめて見る文字のように、そっと口にしてみる、と、ゆらめく、たよりないことば、少年の語り口、わりきれないリズム、詠みあげることばのヒビキ、藤井貞和なら「韻き」と書くだろう、それはその場でたちまち消える「音」が曳いている微かな共鳴の翳り、衰えていく余韻の、消えかかっては思いなおして綴れ、句の詩織、韻きと、しじまの味に。「ことば」を音に置き換えてみれば、詩をうたうというより、詩にフシづけるというより、もどかしく左のこぶしを振りながら読む詩人の、姿を横に見て、ささやき、つぶやき、かたり、モノがたり、時にはうたう、きこえない声、をきき、その声を消さないようにして淡く染める音楽をさがしている、とでも言えばよいだろうか。


  「はい、行きなさい。まっ青なもりへ、

  そらと 地上との まざる ところ、 

  還れない森で ほおを ふくらませてなく、

  力無い蛙に おなり。」


 いままでに、藤井貞和の詩による作品は十一曲になる。今年の秋にも『修羅の子供たち』という歌曲集を書こうとしている。三味線と箏の弾き語り『悲しみをさがすうた』(一九九七年)、こどもの合唱『ふしぎの国から』(二〇〇五年)とおなじ一連の詩に、もう一度ちがう音楽をあててみようとして。これは詩人とのコラボレーションと言えるだろうか、それとも、すでに書かれている詩を引用して、時には、すでに書いた音楽の本歌取りさえ試みながら、おなじ曲がり角に、何回でももどってきてしまうのか。死んだこどもたちの歌声のために、息の通り道をあけておいてください。


  けむりはあつまって、

  ゆうがたのウサギのように、

  斜め上から見下ろすことになる、

 

 ことばの杖を投げると、岩から清水が噴き出る、そんな大昔はどこにあるのだろう。岩に突き立てた杖に花が咲く、そんな旅人の神はどこに行ってしまったか。


  つぎねぷぱたんじゅんだ

  ぱらぱらぷってくるぶぶあられゴトきだ

  オーロラゴトきだ

  トポいドコかでぷぷきがあり

  ただぷぷぎノかけらココにぷく

  ゆらゆらトオーロラぷかれ

  ぶぶあられぷかれてココにまぷ


 目前心後か、見えない黒衣の手が肩にかかる、「詩はどこにある?」 詩をさがしにいく詩、詩をさがしながら、詩になっていく、詩。


  どこからでもあなたをさがす朗読、

  どこかに落としてきた声で書く、

  ぜんぶが復元する努力なんだけど、

  つまり自明にうたがあるのなら、

  そんならくなことはなかろうと思えて、



付    藤井貞和の詩による高橋悠治の音楽:

・ Mono-Gatari 霊語り(大切なものを収める家)(混声合唱、三味線、打楽器)一九九五

・悲しみをさがすうた(明るいニュース/悲しみをさがす詩)(朗読、三絃2、太棹、尺八、打物)一九九七

・寝物語(ピューリファイ!)(声、箏)一九九七

・つぎねぷと言ってみた(ピューリファイ!)(三味線弾き語り)一九九八

・スイジャクオペラ『泥の海』(ピューリファイ, ピューリファイ!)(混声合唱、打楽器)二〇〇〇

・青森蛙(ことばのつえ、ことばのつえ)(箏弾き語り)二〇〇〇

・母韻(「静かの海」石、その韻き)(声)二〇〇一

・回文(『チェーン』神の子犬―による)(箏唄)二〇〇一

・ふしぎの国から(明るいニュース/悲しみをさがす詩)(児童合唱とピアノ二〇〇五

・鹿(のうた… (ことばのつえ、ことばのつえ)(箏弾き語り)二〇〇八

・あけがたの ―藤井貞和の短歌による (ピアノ)二〇一二

・修羅の子供たち(明るいニュース/悲しみをさがす詩)(声とピアノ)二〇一三[予定]