『ジット・プミサク ――戦闘的タイ詩人の肖像』 荘司和子編訳


  目次


日本の読者へ   トンバイ・トンパウ
詩人ジット・プミサク   タウィープウォン
弟ジット   ピロム・プミサク
ティーパゴン=ガウィー・ガーンムアン   トンバイ・トンパウ
ピロム・プミサク、トンバイ・トンパウ両氏とのインタビュー

ジット・プミサク年譜
参考文献

訳者あとがき




日本の読者へ――ガウィー・ガーンムアン――



「ガウィー・ガーンムアン」もしくは「ティーパゴン」というのは、タイ民衆の文学という戦場における人民の戦士の数あるペンネームの中の二つである。彼はすでにタイ民衆のもとを去った。しかしながら人民の敵は、彼が築きあげた文学という武器を滅ぼすことはできなかった。彼の遺した作品は、彼に倣って自らを鍛えようとする幾千、幾万、幾百万となくふえつづける若き戦士たちの心に熱い炎を燃えたたせたのである。今は亡き人民の戦士について思いをはせる時彼らは言う、「一人のジットの死は、一万人の、一〇万人の、そして一〇〇万人のジット・プミサクを生みだすだろう」と。然り「ガウィー・ガーンムアン」もしくは「ティーパゴン」すなわち人民の戦士――ジット・プミサクは決して死ぬことがない。

 ジット・プミサクの詩が、このたび日本語に訳されることを知り、たいへん光栄に思う。一つの言語を別の言語に訳すという作業は、決して簡単なことではない。ましてそれが詩であればその困難はいやがうえにも増加することと察する。私のこよなく愛する友人ジット・プミサクの詩が、このような困難な作業を経て日本語に翻訳されることを知り、また微力ながら私がそれに参加する機会を得たことを心より喜ばしくまた光栄に思う。
 現在少なからぬ数の外国人がジット・プミサクの作品と彼の生涯を研究していると聞きおよぶ。タイ人の一人としてこれほど喜ばしいことはない。このたび日本語訳にあたって、わずかながらも書かせていただいたことに心から感謝申しあげる。

トンバイ・トンパウ(*1) 
 1980年1月27日      




詩人ジット ・プミサク       タウィープウォン(*2)



第二次大戦終了後のどの時期をとってみても、学生から一般大衆までの幅広い層の読者を獲得し絶讃を博したタイの詩人は、ジット・プミサクをおいてほかにはいない。実際彼の作品はそれだけ多くの人びとの賞讃に充分値するほどのものである。簡単な例でいえば、「馬は距離で分かり、人は時間(とき)が証明する」という一節、これは今では体制側・反体制側を問わず誰もが引用する表現になっているが、もともとはジット・プミサクの詩〔サヤームのこころ〕の一節なのである。

詩人としてのジットの作品は、大きく分けて三つの時期に区切られる。模索期・思想的変革期そして円熟期である。まず最初の模索期であるが、古典と文学に対するなみなみならぬ情熱と造詣の深さが、のちの彼の詩を、比較する対象をもたぬほどの円熟度にまで高める基礎を作ったといえる。ジットは一〇〇〇年以上を経たクメール語の石碑を読みとることができたし、アユタヤ朝時代に書かれた文学でも、どの語がどの時代に使われた語彙であるかを読みとる力があった。このような優秀さは伝統的見方からして、詩人として非のうちどころのないほど優れていると見做されているものである。

ジットの初期の詩は内容的には新しいものではないが、詩の形式と表現力の点では、彼のこの言語に対する特別な才能と習熟とによって、一九五〇年作の「先輩に奉ぐ辞(ことば)」(*3のように洗練されたまことに美しい作品を残している。詩型にかぎっていえば、チャンタラック(*4)とその形式を厳密に表現したノー・モー・ソー(*5)やチット・ブラタット(*6)のような詩人の作品に決してひけをとらぬほど優雅にそれを書きこなした。

伝統的思考方法をとるほとんどの詩人たちは、表現の美しさを詩作の第一条件とし、内容やもりこまれる思想は二次的なことと考えている。この時期――一九五二年まで――のジットの作品は当然のことながら、このような方法によっている。彼が新しい思想に触れ、彼自身の思想的転換を達成するのは、一九五三年から逮捕投獄される一九五八年にいたる時期であり、私がジットの思想的変革期と呼んでいるのはこの時期である。

彼が雷名をとどろかせた事件もこの時期に起こっている。すなわち〔講堂の壇上より〕投げ落され停学処分を受けたうえ、あらゆる非難中傷を浴びせかけられる基を作ったのは、彼自身が編集にあたっていた一九五三年の学生会誌と、とくに「おまえは商売文、人の母に非ず」と題した彼の詩である。


  快楽に酔い痴れただけ
  子どもなぞ夢想だにしなかった
  われを忘れて愛しあったとき
  妖精に子どもなぞ頼んだものか
  この子どもが むきだしの欲情と
  愛欲の結末
  幾度(いくたび)足蹴にしても
  生きのびたやっかい者
    (中略)
  母なる者の徳 生を与えることのみになく
  愛(め)でいつくしみ育くむことにあり
  いま平然と中絶の悪を犯す
  おまえは人殺しの犯罪者
  子どもを欲する心あれば
  愛の絆あり
  子守歌うたってやさしく寝かしつける
  この人こそ真の母
  ところがおまえは生み、捨てて、逃げる
  その子の生死、性別も確めず
  憎悪にかられてかえりみもしない
  おまえはまさしく商売文……人の母に非ず


この詩をとりあげて当時の大学当局は、ジットを常軌を逸しているばかりかコミュニストであると断罪したのであるが、実際のところは彼がありのままの現実を詩で表現したということ以外に特別に変わったことは何もなかったのである。たまたまその現実というのが、誰にも反論できないようなものだったということである。現実をこのようにつきつけられた為政者は、それを否定する術がないとみるや暴力に訴えても抹殺せざるをえなかった。

その前にジットがこの詩を書いた時代がいかなる時代であったか考察する必要がある。一九五三年という年は、ピブンソンクラーム元帥および警察軍大将パウ・シーヤノンとの政府がその前年一九五二年一一月一〇日に「平和暴動」という呼称のもとに大量逮捕を行なった後の政治的暗黒時代に属する。この時逮捕されたのは、多数の学生・知識人・著名な作家、たとえばぺートジャルン・スプセン(*7)、グラープ・サイプラディット(*8)、サマック・ブラワート、ウトン・ポンラグン(*9)などであり、反戦平和を呼びかけ、自由と民主主義を要求することが、この一九五二年一一月一〇日以降はまさしく犯罪となったのである。極端な反動の時代の到来であり、警察のトップは逮捕拘禁はいうまでもなく、容疑者の拷問や闇から闇に葬ることまで、何の障害もなくやってのける権限を手中にしたのである。

チュラロンコン大学もまた現在とは全く違っていて、前世紀の城塞の観を呈していた。「象牙の塔」と呼ぶことも決して間違いではないであろう。この大学の知識人たちは誰もかれも一九五一年の独裁者の庇護のもとで優雅な生活を送っていた。チュラの学生代表の一人は、かつて海外の学生代表に対し、「チュラロンコン大学の学生は政治には興味を持っていない。なぜならタイには飢死する人間はいないからである」と公言した。ジットがかつて筆者に語ったところによれば、チュラの学生の多くがこの言葉に自負心をいだいたということである。しかし同時にジットは、これに共鳴しない学生もいたことを強調した。

政治が極端な保守反動であったと同様、大学においても学問的に極端な保守の雰囲気が支配的だった。それをはみだした思想、たとえば「おまえは商売女、人の母に非ず」の詩に著わされたような考え方は、それが真実であるにもかかわらず常軌を逸した下賤なものとされた。そのことは、とりもなおさず時の為政者および大学の指導的立場にあった人びとが、チュラの学生をふくめて民衆が現実の中から真実を読みとることを欲しなかったからにほかならない。なかでも最も嫌われたことは、真実を語ることと真実を書き著わすことだった。なぜならばこの時代のタイでは、真実とは、口に出してしまえば誰にも打ち消すことのできないような低劣で下賤なことばかりだったのである。

このような時代にあっても、ジット・プミサクのように真実を求め、真実を語りそして書き著わした人間は、いかに闇が暗くともその闇の只中に真理の光明を見出しえたのである。

学生会誌の編集をしていた頃の詩について、のちになってからジットは、まだ充分に熟成したものでなかったともらしている。「あの頃のぼくの思想はまだ混沌としていて、正しい解決方法が何であるか明解な展望をうちだすことができないでいた」とは、ジットが筆者に直接語った言葉である。こう語った当時の彼の詩作のスタイルは、詩型や表現の美しさにはほとんど注意をはらわず、内容のみを強調していた点で、それ以前の作品と一線を画していた。

彼がその詩の中で主張した思想とは、それによって彼が旧思想に闘いを挑んだ新しい思想である。彼はくりかえしくりかえしそれを表現することに努めた。彼はそれを可能なかぎりやさしい言葉を使って書き著わした。可能なかぎり多くの一般の読者が読めるようにとの配慮からである。ジットは、彼の詩を読んだ者から「全くそのとおりだな」とか「じつにうまく言いえている」というような読後感を聞くと、ことのほか喜んだものだ。自分の詩が存分にその任務を果したと考えたからである。

この種の詩の典型的なものに「答えてくれ、哲学者よ、どう闘うのかを」、「タムブン=この摩詞不思議なる利己的行為」、「この手で築く地上の楽園」などがある。各篇に共通した特徴は、口語を用いて分かりやすい表現に努めていること、および思想の明確な表明にある。作者の感じたままが行間に溢れでて、これらの詩をさらに生き生きとしたものにしているのである。次に、「タムブン=この摩詞不思議なる利己的行為」から引用を試みたい。


  君よ、ちょっと立ち止まって考えてみてくれたまえ
  功徳を積む(タムブンする)とはいったい何をすることなのか、と
  愚か者のわたしはいつも決まってこうたずねる
  「鶏を絞めて寺院に献上することさ」
  えっ本当かい……君! わたしはやおら不可解な気持になる
  律法は殺生をかたく禁じているのに
  肥えた鶏を絞め殺す……ああ、なんたること!
  盛沢山な品々を僧に献上する奴らは
  御利益をあてにして奉げるにすぎない
  次の世での幸せと繁栄のため
  商人が利を商うように徳を商う
  真の功徳(タムブン)とは
  大小にかかわらず人類兄弟に対する善行
  助け合い、励まし合い、手をさしのべ合うこと
  人びとを呪いの軛から解き放つこと


これでも明らかなように、彼は解説の必要がないほど平明な言葉でこの詩を綴っている。同時に、「大小にかかわらず人類兄弟に対する善行」こそが「来世」のために功徳を積む(タムブンする)ことよりもはるかに意味のあることである、という作家の視点を提起している。これにつづいてジットは、彼が容認できない旧道徳とそれにとってかわるべき新思想とを次のごとく書き著わした。


  眼のとびでるほどの高利むさぼり 金、財布からあふれさせ
  寝そべって腹たたきながら金利を夢見
  朝(あした)に托鉢僧に食物奉げ、夕(ゆうべ)に経をあげる
  これが功徳を積む(タムブンする)ということか……徳(ブン)が聞いてあきれる!


なすべきこととは、すなわち、


  貯水池を掘り橋を築こう
  道路をつくり、教育を普及させよう
  すべての民衆がそれを享受できるように
  これこそ読経にまさる功徳(タムブン)


このタイプの詩を書いていた頃のジットは筆者に、詩的表現の美しさを考えるよりもむしろ思想面を強調したい、と語っていた。しかし事実は、彼の思想を非常に明解に伝えることを可能にした彼の語の選び方、用い方の面でのすぐれた才能について考えると、これらの詩には独自の美しさがあることが分かる。いずれにせよ、ジットの「この手で築く地上の楽園」という題の詩になると、彼のこの手法はさらに進む。つまりチャンタラックの形式にとらわれることなく、作家の思うがままの表現を用いてその思想を表明している。

ジットほどの詩人ともなれば、チャンタラック形式による詩作について充分知識もあり理解もし習熟していたのであるが、この期にいたって彼は、チャンタラックをのりこえる者、すなわちチャンタラックを彼自身の思想に奉仕させるにいたったといえる。チャンタラックの形式の厳格な保持は二の次と考えられた。次の引用でも明らかである。

  「ああ、なんと馬鹿げた話でございましょう
  あなた様の言われることは笑止千万
  来世を望むだなどと、来世なぞどこにございましょう?
  ありもしない絵空事の天国など」とわたしは申したてる
  その男は怒って大声でどなる、「何だと
  あるに決まっているぞ! くそ、このおせっかいな小僧め」
  わたしは恐しさに即座に後ずさりする
  「お赦しください、お赦しください」(私は申しひらきする)
  手前は愚か者でございまして目もよくございませんから
  天国と申しましてもその姿形が見えません

                          (以下略『ジット・プミサク詩集』参照)  

グロンをこのようなスタイルで書ける人間は、ジットを除いてまずいないだろう。ほとんど口語を用いてグロンを書き、読者を魅きつけずにはおかないユーモアがあった。これはもう別な文学ジャンルに分類したほうがいい。筆者はかつて、ジットのこのような詩作方法に同感できなかったものだ。広く流布させるという面では効果があるにしても、文芸としてあるべき形式を踏んでいないと。それに対してジットは、思想の変革を呼びさますことを第一に考えている、と反論した。新思想を武器に旧思想と闘うためには可能なかぎり平易な表現でなければならない、というのである。この時期のジットの考え方によれば、詩の芸術としての美よりも、内容や思想のほうに、より重きをおいていたことは明らかである。

当時筆者とジットとの間で交わされた議論は、だいたいにおいてこの点をめぐるもので、いつも止(とど)まることをしらなかった。どのような詩をよしとし、いかなる価値ありとみなすかは、読者諸氏の判断にまかせたい。

ピブンソンクラム元帥およびパウ警察軍大将の政府が実施した不正選挙がまきおこした混乱は、学生たちによる一大デモンストレーションヘと発展した。民衆の多くはピブンソンクラムとパウの政府に前々から不満をいだいていたのであるが、この不正選挙はサリット・タナラットに好機=最後のわらをつかませてやるという結果を招いた。すなわちこの年、一九五七年、サリットは全権を掌握したのである。

選挙および短期間のタノム内閣を経た後、〔アメリカより〕帰国したサリットは、一九五八年一〇月二〇日ふたたび全権を掌握する。シンガポールの新聞、「ストレート・タイムス」の一面トップに、Sarit Took Power From Himself(サリット、自分の手より権力奪う)とあったのを今でもはっきり記憶している。一斉検挙と大規模な新聞の発行停止がそれにつづいた。サリット元帥は、警察、検察、司法権を一身に体現した完壁な独裁者としての地位を築き、自分一人の手にあらゆる汚職と不正を独占したのである。

サリット元帥が独裁権力によって武装せざるをえなかった要因の主なものに、国際政治の面ではラオス情勢が考えられる。ラオス内戦の三勢力、中間派と左派が停戦協定を結び、連合政権を樹立したことは、当時のアメリカ政府にとって承服しがたいことであり、ラオスの統一を崩壊させたいと考えていた。一方内政面では、選挙による民主化を行なうことは、たとえそれが中途半端で真の民主化といえないまでも、サリット元帥にとってほしいままに国政を操る妨げとなるばかりか、放置すれば自らが職権を乱用して行なった汚職の数々、ひいては私生活上の不正行為までも暴露されるおそれがあった。そのうえ議会制民主主義という不安定な政治は、彼の部下の軍人たちが彼に「見習う」機会(おり)を与えるやも知れなかったのである。

ちょうど同じ時期、他の国ぐにでも軍事独裁政権が樹立されていた。エジプトのナセル、パキスタンのアユブ・カーン等である。これら右寄りの独裁政権は、アメリカにとって自らの勢力圏内に掌握しておける好ましいものであった。サリットの軍事独裁政権がなしえたことといえば、国家を喰いものにした構造汚職の定着でしかない。その結果官僚体制による国民の抑圧はいっそうひどくなった。それというのも独裁体制にあっては、官僚は独裁者唯一人に仕えればいいのであり、汚職と国民の抑圧はやりたい放題できるからである。民主主義体制のもとでは、官僚は国民大衆に仕える者とされているが、このタイでは困難をきわめる。なぜならわが国の官僚制は民衆を支配するお上(かみ)の組織であるからである。

ジットは、サリットのこの二度目の権力掌握の際、学生・ジャーナリスト、右から左までをふくむ野党政治家たちともども、共産主義者容疑で逮捕された。すなわち法律にもとづいて裁判にかけるいっさいの根拠もなしにである。したがって、取調べ中の身柄拘束という口実で「投獄して捨ておく」というやり方がとられた。このやり方は植民地主義の大国が、植民地の独立をかちとるために闘った愛国者たちにとった方法である。これは、被拘束者がいつになったら自由を回復できるのか、その期限を知らされず、希望のないままに獄中生活をつづけなければならないという点で、もう一つの拷問といえる。

サリット元帥の独裁政治はまたタイ共産党の武装闘争を生んだ。汚職と不正の構造もまた、国政をつかさどる機関とならぶ一大機構と化して今日までいたっている。

この時期、すなわちジットの生涯の最終期に書かれた詩のほとんどは、サリットにより投獄されていた間に書かれたものである。この時期の作品は、冒頭で筆者が彼の詩を三つの時期、すなわち模索期・思想的変革期および円熟期に区切ったことからも分かるように、円熟をきわめた。この時期のジットの詩が円熟の域に達した背景には、彼自身の人生経験と、もう一方に彼の知的・思想的成熟とがある。この二つが相俟って詩人としての彼を練り鍛え、至高ともいえる高みに到達させたのである。

次々と湧きでるように書かれた詩は、タイ民族の生んだ文学史上に輝く不滅の金字塔である。形式・内容そのどちらの面から見ても非のうちどころがない。そしてそれはまた当時の民衆のありのままの姿を写しだしており、将来の展望をもさし示していた。中国の文芸批評家周楊の定義「今日の現実を明日の理想とないまぜる」にしたがえば、これらの作品は社会主義リアリズムの作品であり、かつ暴君の圧制という暗黒の時代に書かれたタイ文学の最高峰なのである。

ジットの詩は、サリット独裁政権の実態とその下での現実をあますところなく暴きだしてみせた。たとえば、政治体制そのものの悪、アメリカ文化の猿真似からくる退廃、良心を売り渡してしまった新聞の堕落などについてである。しかし同時に彼は、民族・国家・人民の未来に希望を捨てることはなかった。


   苦難にあえぐとも 挫けることなく
  悪党(ならずもの)に勝利する 「人」それは誉れある呼称(よびな)
   耐え難きほどの苦難は かえって人を鍛えあげる
  長ければ長いほど 人は鍛えられて強くなる
   幾多の苦き想いは こころの奥深く宿り
  赤黒き怒りの炎となって 燃えあがる
   鋼鉄(はがね)は赤く煮え滾る 炉(かま)より生まれる
  炎が激しく燃えあがるほど いっそう堅き鋼鉄(はがね)となる
   限りなく勇敢なこころは そこに生まれる
  こころ……毅然たる民族魂 が陶冶される
   サヤームのこころ おまえは堂々とこの地上に挑戦し
  己が道を切り拓き その時期(とき)を用意する
   来たれ……サヤーム 冷めることなき熱き志をもて歩め
  行く手さえぎる 峻険な峰揺がし
   血の色した渓流をも 怯えて干上がらす
  燦然たる陽の光 天へめぐりこの手照らすとき
   人は人となり 人のこころは尊ばれる
  タイの名は広まる 女も男も真(まこと)の人なり、と


人民が自分たちのための社会を闘いとっていく力に確信をいだいていた詩人は、当然にも彼ら貧民がその手で築きあげる未来をバラ色なものと想定した。


  あふれでるその勢いは城塞を成す
  苦しみの軛を解き放って起て 断固として……
  女も男も そしてやがていつの日にか
  天空は晴れわたり、虹は鮮かに空翔ける
  人は誇りをもって 首(こうべ)をあげ
  日毎夜毎蓄えられた貧民の力
  友愛を基にした 世界を築く
  日の光に怯える妖怪
  黎明の威力の前に 身をふるわせて跪く
  地上は輝きに満ち花ほころぶ
  サヤーム おまえの民のこころは湧きたつ


六年におよぶ投獄もジットの精神を挫くことはできなかったばかりか、さらにいっそう果敢にしたことは、彼自身の詩の一節「苦難にあえぐとも 挫けることなく」にふさわしい。「〈人〉それは誉れある呼称(よびな)」とジットが表現した〈人〉の尊厳とは、偉大なる作家マクシム・ゴーリキーが確信をもって表現したそれと同じものである。ジットの家には、この〈人〉、貧しさにうちのめされ希望を失うことのなかった人の彫像がおかれていた。


   それでもなお人は人であり 貧しくとも心は豊か
  その力は偉大 人間の敵に立ち向かう
   おれはタイ(自由) 奴隷の身分に誰が耐ええよう
  自らをタイと呼ぶことは 死にいたるまで己れを欺く
   幾度敗北を喫するとも ひるむことなく
  われこそタイなりと世界に誇るまで その名にふさわしく闘いつづけよう

   タイというこの語(ことば) ああ、まさに奇跡か
  それは勇敢にして 誇り高き民族の名
  不正をしのび 奴隷に甘んじることはない
  昂然と天を仰ぎ 不正を追放するのみ!


一九六四年および六五年という年は、ジットが彼の名を不滅にした傑作を次々と書き残した年である。それらの作品は、「旧友からの警告」に始まり、「ガウィー・シーサヤーム」というぺンネームによって日刊「プラチャーティパタイ」紙上に連載された。この詩は彼が、良心を売り渡しサリット元帥唯一人に仕え、彼が死んだ後、二〇〇人をこえる妾を持っていたことまでふくめて、その不正乱行ぶりが国中はもとより海外にまで知られるようになってからもまだ、いっさいの真実を受け入れようとしない新聞記者たちを告発したものである。


   酔いどれよ これがおまえの心か
  象の死骸 蓮の葉でおおう
   空、手のひらでおおう おおい尽くせるのか……馬鹿もん
  淋病みたいな思惑 あほらしい……アウフイハー
   タイの肉体(からだ)して 心は軛に繋がれた奴隷
  金で売買できる これでも人か?
   餌にありつき しっぽふって仕え
  吠えたてて自分忘れ 生命捧げる


事実少なからぬ新聞記者が、サリット元帥に接近してこびへつらい金品を受けとっていたうえ、それを恥じるどころか光栄に思い、サリット元帥が死ぬと自分の父親を失ったごとく想い、サリット時代が終わっても彼の悪業については、その政治記事でいっさい言及しなかったのである。

このような新聞記者を真の新聞記者と呼ぶことはできない。彼らは新聞制作にあたっても、ニュースや他のいかなる記事を書くにあたっても、サリット元帥唯一人しか念頭になく、読者大衆の利益など爪の垢ほどにも考えなかったからである。


   貧しさに倦み疲れた 民衆を、おまえは忘れた
  重い労働に耐え できた富をおまえは吸いとる
   飯握り食うたびに 思い起こせ
  おまえが食(は)むわが汗は おまえの肉体(からだ)となる
   おれの米、おれの富を おまえの主人はばらまく
  忘れ果てたか 民衆こそ主人だということを
   邪悪な人間に忠誠誓い タイ人裏切り
  数枚の紙幣で 民族売る売国奴


この種の新聞記者の得意とする霊験あらたかな呪詛とは、「共産主義者(コミュニスト)」という一語に他ならなかった。ジットはこれに対して次のように反駁している。


   邪悪な狂犬 赤狩りして唾吐きかけ
  やたらと経あげる 憎むべき性(さが)
   汚職の現実 暴露するもの
  「赤」呼ばわりする 「猿」畜生
   「赤い経」猛威ふるい 至るところ平定する
  経の霊力失せると すばやくかぎとり
   人びとの関心なしとみるや 一変して呪詛やめる
  「利巧なやり方だ 彼が生きている間(*10)はおし黙って」
   口開いた者残らず逮捕されたのは 誰もが知るところ
  捕えて牢獄につめこみ 放置する
   彼らの叫びは 耳つんざく銃声に呑みこまれる
  銃声途絶え硝煙消えるとき ふたたびその声は響きわたる


次の箇所は読む者の心を痛切にえぐる。


   民衆は人 愚かな水牛ではない
  純金か糞か 見分けがつかぬはずはない
     (中略)
   親愛なる友に警告する 聞く耳持たぬならいたし方ない
  闘う者 悪辣に中傷し
   少なからぬ記者諸君が 同調する
  金のために労働売り渡し 悪に加担する
   貧困に無知装い 良心売り渡すな
  無頼の徒と手切り 尊厳とりもどせ


次に連載されたのが「バンコクの栄光を讃える詩」で、ジットはこれでチャンタラックの形式を超越した者として真骨頂を発揮した。たとえばライ・パタナーをクローン・ハーの前におき、全く新しい内容をそれにもりこんだことである。その次の「太陽族」(原題=都会(まち)のとかげ)では、チャンタラックを文字の長短によらず、音の強弱を基に書いた。もともとチャンタラックは音の強弱のみを基に書かれたものだったが、ラーマ六世以後、字母の形態を組み合わせることが基本となっていた。

「バンコクの栄光を讃える詩」は三部から成り、第一部で彼は軍事独裁政権とその下でのタイの現状について言及する。一般に今までのタイの詩は、冒頭でタイを讃美するのが常であったが、ジットの讃辞は、人民大衆の苦悩という現実を表わすことだった。この違いは、時代はどうあれ、詩人の立脚点の相違から来るものである。


  オーム 荒廃せし地 煮え滾る国土よ 生血の色に染まり呻き声あげ よからぬ噂、巷に広まる ああ……近代化の時代 大悪党が権力握り 人民辛酸を舐める

(以下略『ジット・プミサク詩集』参照) 


詩人としてのジットの偉大さは、この一篇の詩の中にこの時代のすべてを凝集しえたことにある。読者は暴君サリットの独裁体制を、これ以上説明の必要がないほど明解に読みとることができる。これにつづいて次の部分では、構造汚職が余すところなく暴露される。


   おれが作りおれが請負い すべてはおれの懐にころがりこむ
  各省庁の計画も おれの一手に握られる
   特権与えた企業は すべての門戸閉じて独占する
  入札は豚をしめるごとく 利益は面白いほどころがりこむ

(以下略『ジット・プミサク詩集』参照) 


芸術・文学が歴史に対してもちうる価値は、ここに引用した官界の不正・汚職のごとき、ありのままの現実を描きだすことにある。サリット元帥施政史編纂委員会のような御用歴史学者は、事実を歪曲し、法律を楯にとり、牢獄を自らの虚偽をおおいかくす防壁として書くことに何のうしろめたさも感じていない。しかし価値ある文学の一篇は、これら虚偽の叙述を根底からくつがえし、真実のあり方を明らかにし、無知と偏見の闇から人びとを救いだしてくれる。

詩「プラチャイスリヤー」(*11)は、封建社会のあるがままの現実を描きだしたことに価値があり、ジットの詩もまた、腐敗した独裁者の軛の下にあえぐ半封建・半植民地のタイ社会を抉りだしたことに価値があるのである。

「バンコクの栄光を讃える詩」第二部は、「ヒランヤックは国を覆す」のタイトルのもとに、現在にまで問題を残している森林の破壊にはじまり、独裁者がいかに国家・国民を収奪してきたかが明らかにされている。汚職の構造は最高権力者が率先して作りあげたもので、サリットは二〇年前からその首謀者だった。すなわち何者もおよばぬほどのその権力と地位を利用して、不正悪徳のかぎりを尽くしたといえる。汚職を取締る権限を持つ者が張本人なのだから、汚職がなくなるはずはないではないか。

次のグロン六(ホク)は、ジットがノー・モー・ソーの「黄金の都」のスタイルを真似て書いたものだが、内容もさることながら、みごとに押韻した語の用い方もさすがである。


   田畑、密林、草原といえど 残らず将軍丸呑みにする
  国有林、国有地、没収し ひそかに移す所有権
   左に鞭、右に拳、両翼広げ 人は恐れて逃げまどう
  国家の資産、パッパッと 将軍の懐に流れこむ
   ほう、これはいい

(以下略『ジット・プミサク詩集』参照) 


その先のグロン八(ペーッ)で、ジットは、抑圧され欺かれてきた貧民大衆の希望を非常に美しくうたいあげている。


   希望は
  煌々と照る月にも似て、澄んだ光投げかけ
  天の真情水のごとく 蒼穹潤し
  雨滴となり心潤す

   艱難辛苦人うちのめすときも
  希望は堅く揺がず
  希望は心暖め、心支え
  闇夜あかあかと照らしだす
     (中略)
   双腕は尽きることなき力の泉
  したたる汗は灼熱の太陽嘲り
  原始林拓き緑したたる田園となす
  ああ、しかるに……悪鬼はこの地を略奪する

  「ほう、これはいい土地だ、気に入ったぞ
  あのうすのろどもを一人残らず追いだしてしまえ
  どこのどいつだ、地上の主人(あるじ)に逆らう愚か者は
   ウーイ、一発……どてっ腹にぶちかましてやれ!」


弾圧もここまできた以上、とるべき道はこれしかない。


   闘い
  誰が軛に繋れることを好もうか
  軍靴に踏みしだかれるとも
  壁にぶちあたるともタイ(自由人)らしく闘う
  大地に足ふんばって闘う
  怒りに燃えあがる血潮でこの地護り
  死んで埋められてもなお闘いつづけ
  全地上の勇気ある人びとの誇りとなる


第三部は、「ハヌマンは館をしゃぶる」と題され、とくに次のグロン・プレン・チョイは圧巻であり読む者は胸のすく思いがする。


  汚職 大手ふってまかりとおり
  権力の乱用 堂々と
  触手のばして 宝くじ局
  完全におさえこみ 「おれのもの」
  国庫金の着服 裏から裏へ
  じゃんじゃん分配し 喰らい放題
  宝くじ二組にし 二重に喰らい
  秣喰む馬みたいに 口汚し
  国家機密たてにとり 次々小切手きり
  爺の あの娘たちにくれてやる
  タウナスに乗せ 女中部屋つき屋敷買ってやり
  大ダイヤモンドの指輪 燦然

(以下略『ジット・プミサク詩集』参照) 


当時タウナスに乗った美人を見かけたら、サリット元帥の妾だと思ってまず間違いなかった。これはサリット独裁政権の腐敗を表わす好例で、ジットがこれについて言及したことに大いに拍手を送りたい。次に、タイ人民と国家に真剣に奉仕しようとしている一般兵士について彼の気持を述べている。


   おれは兵士 栄えある経歴の持主
  タイの国土を 護りつづけてきた
   タイ兵士は名を売らず 国を売らず、魂を売らぬ
  地位、栄誉、信条は 飯のために売り渡さぬ
   全人民のため 名誉ある死をいとわぬ
  彼らの頬伝う涙も かわくほどに
   良い指導者には どこまでもつきしたがう
  ろくでなしの指導者には 憚ることなく反抗する
   その心意気や竪し 火に試めされた鉄のごとし
  患部はためらわずに 切りとらねばならぬ


ジットは独裁政権の実体を正確にみていたのである。軍事独裁政権というものは、軍隊を掌握することによって成立したものとはいえ、個々の兵士についてみれば、独裁者の忠実な番犬である者と国家と国民に純粋に仕えようとしている者とがいるのである。兵士すべてが民主主義の擁護者であると考えるのが間違いであると同様、すべてが独裁者の道具にすぎないと見做すのも誤りである。

ジットは、兵士の中には愛国心・正義感が強く、民衆の弾圧と不正な売国行為とに義憤をいだいている者が必ずいることを確信していた。そして一〇数年を経た今日、幾度かの事件を経由して、彼のその確信には根拠があったことが証明されている。このことはとりもなおさず民衆詩人ジットを、他の「自己満足」のために詩を書く主観主義者たちからきわだたせているゆえんである。

「太陽族」(原題=都会(まち)のとかげ)と「夜の臭気」とは、アメリカ的生活様式の無批判な模倣によって伝統的風俗習慣のよい部分が破壊され、腐敗堕落して腐臭を放つタイ社会と風俗について書いたものである。この詩で彼は「ナーイ・ヌア・パーサー」(語学の超人)と評価されるほどの彼の語学力を存分に発揮した。一語一語が吟味された美しさと、的を射た内容を持っている。スントンプー(*12)および「ラデンランダイ」の作者プラマハーモントリー(*13)以降、彼に匹敵しうる詩人をあげることは至難のわざだといえよう。

「夜の臭気」は、ジットの詩の中でも最も知名度が高いものの一つである。彼はこの中で、現在では西洋人ですらがファッキング・シティと呼ぶほどのバンコクの淫乱な夜の生活を描きだした。ジットがこの詩を書いた当時の日刊紙の多くは、自らをナイトクラブに出入りする夜の遊び人風に仕立てた記者による、「生にふれる」とか「快楽の香り」といった題のコラムを載せていた。それらは筆者の友人の見たこと経験したこと、セックス・人間模様などを真偽とりまぜて適当に書き綴ったもので、読む者に何の感慨も呼び起こさなかった。

ジットがバンコクの「夜の臭気」について書き著わすため用いた表現、選んだ語はまことに適確に的を射ており、読者を揺さぶらずにおかない。


   ああ……夜の臭気 魚の腐臭消すほどにたちこめる
  人食う臭気 バンコクにただよう
   夜の種族が出す セックスの臭い
  若者がこれ嗅いで 白中夢に酔う
   女の臭いに身ふるわせ 性欲の虜となる
  大口開ければ 性に飢えた悪臭放ち
   口に出す言の葉 みな性の話まき散らし
  もの書けば 廓通いの話ばかり
   ああ、タイは堕落する 爛熟したローマのように
  色に迷い 民族滅す
   火炎逆巻くごとく 淫蕩ローマを呑み尽くす
  一〇〇〇年の歳月経た後も この恥さらになくならず
   ああタイ……善輝く 黄金の国
  邪悪な性の臭気 闇はたまた黄金をいや増す


ジットは、かつて価値ある文学作品の形態とは何かについて次のように書いている。「芸術は、一般民衆のためにあり、また彼らが受け入れることのできる表現形態を有さねばならない」。そしてこのような表現形態とは、美(Beauty)平明(Simplicity)および明解(Clarity)という三つの要素から成るという。この観点からジットの詩を検討してみると、彼の作品はこの三つの条件を存分に満していることが分かる。ただし内容を受け入れた者にとってであるが。

ジットは、その中でも平明さと明解さとをとくに重視していて、このことがとりもなおさず、彼の作品が読む者すべての心を把えたゆえんでもある。したがって彼の詩は、教育の有る無しにかかわらず、誰にでも読めるものである。

ここに引用してきたいくつかの詩からも分かるように、ジットは一般の読者の理解をこえるような難解な言葉を決して使わなかった。彼はごく普通の言葉で書いた。それにもかかわらず、ジットのたぐいまれな詩才によって濾過されて出てきたものは、美しさと平明さとそして明解さを合わせ持った詩となったのである。

ジットと近しかった者は誰でも、彼が自分と同時代の詩人が書いた詩を読んでいて、非常にむずかしい言葉に遭遇すると必ずそれを非難したことを見ている。彼が非難したのは語の難解さだけではなく、一般の人に分かりにくい特定の地方の方言で書くことにもおよんだ。彼自身方言は使わなかったし、方言で書く必要のある時には、誰にでも理解できるように註をつけて説明をつけ加えた。

ジットの詩の特色であるこの平明さと明解さとは、彼を他の詩人からきわだたせているジット独特の個性的表現形式である。ジットの作品が、誰それの書いたものまたは単行本・雑誌等のある特定の箇所の影響を受けている、という者があるが、それは誤りである。彼の詩作に対する姿勢はもちろんのこと、押韻のリズムは彼独特であり、さらに言葉の選び方・使い方は誰にも似ていないばかりか、誰も彼と同じように書くことはできなかったからである。

こればかりかジットは、自分が好んで読む雑誌や新聞について、そこで使われている言葉の難易度について自分の見解を明らかにしたものだった。筆者はジットと親しかった関係上、文学・芸術から内外の状況までふくめて様々な問題についてしばしば討論を交した。その中でもこの言葉の問題は、ジットがとくに重視していたものだった。たとえば、一九四九年から五二年にかけて発行されていた雑誌に「アクソンサーン」(文芸)がある。これは変革を望む読者に知的刺激と展望を提起した画期的な雑誌だったが、ジットは筆者に次のように語ったことがある。

「〈文芸〉が新しい思想をどんどん紹介することによって、民衆の知的水準を高めていることに異論はない。この雑誌は、明らかに歴史的役割を果していると思う。タイ人民の政治的覚醒という歴史にだ。しかし一般の読者のためには、多少用語が難解にすぎるのではないか……」

筆者はジットがこう言うのを何回も聞いているので、非常にはっきりと記憶に残っている。この中で、〈歴史的役割〉という語を、彼は必ず英語で A place in history と表現していた。

新聞・雑誌の特定の記事、作家・詩人の特定の作品から、ジットが意識的にまたは無意識に感化を受けてそれらを模倣した、という説に筆者は賛成できない。他人の文体や語の用い方の模倣は、一級の詩人のすることではない。一級の詩人ならば、自分自身に固有の主体的思考力を持っているからである。

今述べたのは内容についてではなく、表現形式についてだけである。内容または政治思想についてであれば、当然にもその時代の要請するイデオロギーからの影響はまぬがれない。社会の進歩発展に関心を寄せる者にとっては。

一人の人間にとって、一つの社会体制を否定するほどの思想の変革を行なうことはたやすいことではない。ましてジットのように、自分の思想の欠陥と正しさとを見極めるほどの高い教養とインテリジェンスを持った人間ならなおのことである。思想の変革の第一の条件は、主体的条件である。なぜなら、本人自身がそれを受け入れないならば、たとえいかにすぐれた理論にふれたり、すばらしい書物を読んでも、思想の変革は起こりえないからである。

ジットにとってもその第一は主体的条件である。すなわち真理と正義への熱情、そしてマジョリティである貧しい民衆の立場に立つこと。彼のこのような考え方・気質は子どもの頃からのものであると、かつて彼の母セングンは筆者に語ってくれた。

第二は、無限かつあくことなき学問への熱情と探究心である。ジットはじつにすばらしい読書家で、その種類は広範にわたっていた。実際のところ、詩人や古典文学研究者等にとって学問的探究心はごく当然のことに違いないが、ジットについてみれば、彼の母はこのように語っている。家を出ていた頃食費を渡していたが、ジットはそれをみんな本代にあててしまい、自分は豚の脂身とナムプラー(*14)で御飯を食べていた、そうである。

ジットの思想変革の第三の条件は、客観的条件である。彼が思想的変革をとげた時期は、国内的にも国際的にも大きな変動が起きた時期である。国内的にはピブンソンクラム元帥が政権に返り咲き、悪どい汚職による独裁体制をしいた。国際的には何といっても中国の変革であろう。この巨大な変動は全世界を震憾させた。

社会問題を把握するための新しい知識、たとえば資本主義の把え方、唯物弁証法または史的唯物論による政治理論や哲学といった、それ以前のタイでは全くといっていいほど知られていなかった考え方が広まりはじめた。「アクソンサーン」(文芸)等の雑誌がその役をになった。為政者の恣意によって非常に長きにわたって目をふさがれていた理知の王国が初めて開かれたのである。

この当時の進歩的新聞・雑誌からの吸収、国内問題・国際問題への理解度、独裁体制に対する反体制意識、強国による民族の抑圧への反対および様々な社会科学理論の熱心な研究とは、ジット自身の内的条件とあいまって彼の思想の変革をもたらしたのである。そして彼は史的唯物論を用いた文芸批評家・古典文学研究者となった。しかし他の何にも増して貴重であり、現在・未来を通じてタイ人民に影響を与え続けるだろうものは、彼の詩である。これこそジット・プミサクの名を、現代タイ最高の民衆詩人として高からしめたものである。

ジットの資質のもう一つの側面として、彼の私的な面についても多少言及しておきたい。ジットは筆者が知りうるかぎり最も清潔な私生活を送った人間である。自らを人民の側に立つ者または人民の戦士であると公言するか、そのようにふるまう人びとの中にあって、ジットは、いわゆる「経読みの鬼」のごとく、言うこと、書くことと自らの行動とは全く別というような偽善者ではなかった。

筆者が理解するかぎりでは、ジットは自らの行動、とくに女性との交友関係に非常に慎重なタイプだった。彼は相手および自分自身に傷を残すことをさけてか、あえて誰とも交際しようとしなかった。彼は、社会主義者だと表明しながら、他人の妻を誘惑するような人間とは一線を画していた。

最後にもう一つつけ加えるならば、ジットは、古典をじつによく研究していた点である。しかしそれにのめりこむということはなかった。それぞれの古典の良し悪し、継承すべき点、批判すべき点、内容の現代的意義などを読者の前に明らかにした。

ジットの古典研究のこの姿勢は、「批判的研究」というものにほかならない。彼は、古いものすべてをだめだとか、反対にすべてを絶讃するとかいうことはなかった。良い部分は受け入れ、良くない部分は切り捨てるという方法をとった。「批判的研究」という方法のみが、タイ人民のはかり知れない財産である文学・芸術を前進させ、民族共通の誇りを築くことができるのである。

ジットがあまりにも若くして生命を落さねばならなかったことが心残りである。彼が残した作品は、彼自身が果そうとしていた仕事の一部でしかない。しかしながら、民族の叡知の光を閉じこめた暗黒の時代にあって、それとの闘いの只中に身を投じてきたジットにとっては起こるべくして起こったことでもあった。彼の生涯がいかに短いものであったにせよ、タイの新しい世代に属する詩人として、ジットはこの新しい世代が切り拓く未来を明確に展望していた。彼は新しい世代の若者たちに大きな希望を懐いていた。ジットが教師をしていた時の生徒たちの誰もが、次の世代の若者の未来にかける彼の純粋で真摯な期待に心を打たれたと語っている。彼はそれを絶えず生徒たちに伝えようとしていた。彼が教科指導の面でも優れた才能を発揮したこととは別に、である。

亡き友ジット・プミサクを思い起こすたびに、彼の遺した偉大かつ不滅の作品に思いははせる。そしてまた、カール・マルクスの死にあたり、一八八三年三月一七日、ハイゲート墓地でリープクネヒトが述べた告別の辞を思い起こさずにはいられない。ここにそれを引用して、この小論を終えることをお許し願いたい。

「ここに眠る男、そしてわれわれが今その死を悼み悲しんでいる男は、はかり知れないほどの愛と激しい憎悪とを合わせ持った人間だった。彼のその憎悪は、彼の愛そのものからほとばしりでたものである。彼は偉大な知性であると同時に熱烈なパトスの持主であった」
「彼は社会民主主義をかかげた。それはほんの小さな泡のような卵から一つの学派を成すまで成長し、党を形成するに至った。現在、この党の闘いに勝利をおさめる者はないかのごときであり、最後にはすべての勝利の上に立つ勝利をおさめるであろう」





弟ジット       ピロム・プミサク(*15)  



六、七年ほど前から、弟ジットについて様々のことが書かれ印刷されて、次々に人びとに紹介されてまいりましたが、わたしがしばしば目にしまた耳にもいたしますのは、ジットはいったいいつの間にこれほど多くの作品を書きあげることができたのか、という記述や疑問でございます。この誌面をかりて、今までわたしがどなたにもお話してこなかった弟の一面を語ってみたいと思います。

弟ジットが農民のありのままの姿を書き著そうとしているとき、彼の心は彼らと一体になっているのでした。弟は額に汗して米を作る農民の姿を見つめておりましたが、一方わたしにはそういう弟が農民と何ら変らないように思われました。ただ違うところは、農民が生命を養う糧である食物を生産する者であるのに対し、ジットは人びとの心の糧を生産する者だったという点でした。当時わたしたちの家は、バンケンにあり、一面の田圃に囲まれて建っておりました。電気がまだ来ていなくて、明りをとるためにランプを使っておりました。原稿を書くときには、ランプを机の上に置いておきましたが、それは明るくすると同時に、顔ばかりか全身で感じるほど暑いものでした。ジットのむきだしの背中には大粒の汗が一面にふきだしていましたが、彼は一向に気にかけるふうもなく、じっと机に向って書きつづけていたものでした。相当な時間が経ったころ、ふと立ち上がって床に坐り、ジャケー(*16)を弾きはじめるのでした。その美しい調べに精神の緊張をときほぐし、それから先を書きすすめるための充電をしているように思われました。

弟はいつということなく、いつでも仕事できる性質(たち)でした。わたしたち母子三人で食事をしているときなど、母はいつもいろいろなことを息子と娘に話しかけてきたものでしたが、さて、ジットが答えねばならない番になっても何の返事もありません。弟は一向に答える様子もなく、黙ったまま食事をつづけております。母がたまりかねてもう一度たずねますと、わたしどもの最愛の息子はいとも穏やかな声で、「何かおっしゃいましたか、お母さん、聞いていなかったんですが」と答えるのでした。食物を咀嚼しながらも弟の心は仕事からはなれることなく、思索にふけっているのでした。

ジットはいつの間にこれほど多くの作品を書きあげたのかという疑問について、わたしは、彼の起きていた時間のすべてが彼にとって仕事の時だったのだ、と考えております。




ティーパゴン=ガウィー・ガーンムアン(*17)    トンバイ・トンパウ



彼と初めて知りあったのは、ずっと以前私がまだ新聞社に勤めていた頃のことだ。その頃彼はチュラロンコン大学学生会誌(*18)の編集責任者としてすでにその名をとどろかせていた。それは彼の思想が、彼と同世代の人間または彼より年輩でありながら思想的には彼より遅れていた人びとよりはるかに先行していたからに他ならない。それに対して彼が受けた褒賞は、彼の思想に共鳴しない者たちに襲いかかられ、〔大学の講堂の壇上より〕投げ落されるということだった。その後大学当局は彼を訊問し、停学処分にした。

ほどなく彼は、「タイ・マイ」紙の編集部で働くことになった。当時、編集長はタウィン・ウイチアンチュム(*19)、編集顧問にはスパー・シリマノン(*20)がいた。私はといえば、まだかけだしの記者で、活字の校正、すなわち現在では編集部校閲課と呼ばれるところに配属されていた。彼の書くものは尖鋭でかつ説得力があった。とくに彼の思想は、彼の同世代人の想像の範囲をはるかにこえて進んでいた。彼は、「タイ・マイ」にはさほど長くいなかった。というのは、復学が許されて大学にもどったからである。学部課程を終了して文学士として卒業した後、ぺトブリ・ピタヤロンコン教員養成学校の教師として赴任した。当時彼は、友人のスティー・クプターラック(*21)、プラウッティ・シーマンタ(*22)、ピニット・ナンタウィジャン(*23)たちと、彼ら新青年の新聞「シアン・ニシット」(学生の声)を発刊して、文芸界に新思想を吹きこんだのである。

その他にも彼は、当時の有名な新聞のいくつかに作品を発表していた。たとえば「サーン・セーリー」には、「生きるための芸術」、「人民のための芸術」が掲載されたが、これによってティーパゴンは世に出たのである。

『ニティサート』(法学)など学術雑誌にも彼は書いていたが、とくに『ニティサート二五〇〇年特集号』の重要な内容を形作ったのは、ソムチャイ・プリーチャージャルン(*24)の論文だった。

彼の本名は、誰もが呼ぶように「ジット・プミサク」である。私が言及した名前、ジット・プミサク、ティパーゴン、ソムチャイ・プリチャージャルン、ガウィー・ガーンムアン等々は、どの名も例外なく「封建階級が憎悪し、帝国主義者が恐れおののいた」名前である。

彼がタイ・マイ社を辞めた時に、私はふたたび彼と会うことになるとは想像していなかった。あにはからんや、一九五八年一〇月二一日からほどなくして、われわれは再会したのである。ただし今度は事務机を前にしてではなく、牢獄の檻の中でであった。

「おーい、バイ〔トンバイ氏の通称〕こっちへ来いよ」。大声で私を呼ぶ声がする。折しも、身のまわり品一式をぶらさげた私は、警官にともなわれて公安警察の捜索課から拘置課の監禁房にやってきたところだった。私には声の主が誰なのかすぐ分かった。「よお、ジットじゃないか」私はふりかえりざまに呼びかけた。「ここへ来いよ。おれたちはみんなここにいるぞ」よく通る声で彼は叫んだ。

私は何のためらいもなく、所持品をぶらさげて声のする方へ向った。警察官にはこの房に入りたい旨申し出ると、彼は私の希望どおり鍵を開けてくれたので、さっそく中へ入った私は、彼がここへ来ることになったいきさつをたずねたのである。

「例の一〇月二一日以来さ」彼は答えた。「いつになったら君が来るのか、ずっと待っていたところだ。なんでこんなに遅れたのかい」。まるで避暑に行く話でもしているような調子で、彼は訊いたものだ。「仲間がどのくらい集まるか様子を見てたのさ。一人じゃ寂しいからな」私の答に彼は笑った。

「アイラン(*25)もここにいるぞ」。彼がアイランと呼んだのは、ステイー・クプターラックのことだ。
「それじゃアイアチャンは」と私はたずねた。
「彼は取調室にいる」。アイアチャンとはプラウッティ・シーマンタのことで、彼は教師をしていたのでこう呼ばれていた。教えるのが上手く、博学で、何か分らないことがあると彼に聞けば分かったので、私たちは彼をよく「先生(アチヤン)」と呼んだのだった。時々は「アイランヤイ(大)」すなわちスティーに対して、彼を「アイランノイ(小)」とも呼んだものだ。

彼とスティーとは、私を手伝って、今まで人が入っていなかったため埃だらけだった私の房を掃除して、寝られるようにした後、逮捕された時の模様や訊問のことなど話してくれた。ジット・プミサクに対する取調べは、非常に厳しかったため獄内に知れわたっていた。それは、彼が警察の取調官に対し、へり下った態度を決してとらなかったためである。彼は答えたことと、調書に書かれる内容が違っていることを決して許さなかった。したがって激しい口論になった。ジットが陳述することは、取調官は記録しようとはしなかった。なぜなら、彼らの意図した項目に当てはまらないからだった。彼はそれを許さなかった。断固として自分の陳述どおり記述させたのだ。彼によると、彼の取調べにあたった係官は元刑事犯の担当だったため、刑事犯の訊問を行なう調子で政治犯の訊問にあたったので、ことごとくぶつかりあい、ついにその取調官を交替させるにいたった、という。

彼が訊問された内容は、以前彼が書いたもので、学生時代すでに事情聴取され、そのことによって壇上から投げ落された例の一件をふたたび持ちだしてきたものだ、と彼は語ってくれた。その後彼は、この一件により、反共法違反および王国内外において治安を乱した科によって告発され、法廷に立った。国防省軍事法廷は、一九六四年、六年余にわたる身柄拘禁の後、彼に無罪を言いわたし釈放した。

彼は不当と妥協するということが無かったために、ラートヤウ監獄に収監されるまでにもたびたび獄を移されることになった。パトムワン拘置所からプラサムヨート拘置所、そしてまたパトムワンヘ。そして最終的には、ラートヤウ監獄へ移される最初のグループに入れられた。ラートヤウへ行ってから彼は、人に託して次のような手紙を私に届けてきた。


親愛なる友
この手紙とともに、われわれが「タイヤカレー」と呼んでいるカレーと、魚の干物との見本をご覧にいれたいと思います。
われわれの食事がいかなるものか、とくと観察されたし。いずれ賞味されることと、お覚悟のほどを。

ジット  



彼の警告の手紙と「タイヤカレー」の見本、そして身よりも小骨ばかり多くやたら塩辛い「魚の干物」の見本とは、これから私たちがどのような食生活をとれば、この事態をのりきることができるか考えさせずにはおかなかった。そしてこれが、私たちが「相互扶助」の原則にもとづいて共同組合を真似て、食事を共同でするという考えを生みだすきっかけとなった。これは当時、私たちのおかれた状況下では最良の解決策だった。私たちはこれを「コミューン」と呼んでいたのだが、実際は相互扶助によって食生活を共同化したというだけのことで、厳密な意味では「コミューン」にいたってはいない(ただし、この本の中では、私たちの以前の習慣にしたがって「コミューン」と呼ぶことにする)。

彼は、私よりもだいぶ先にラートヤウ監獄に送られたラートヤウ入りしたごく最初のグループだったといえる。彼の少し前に、地方から逮捕連行されてきた人たち、とくにテープ・チョーティヌチット(*26)とともに告発されたシーサケート県の農民たちが、ラートヤウ送りになっていた(実際は、彼らはテープ・チョーティヌチットより一年も後で逮捕されたのだが、警察はこの六一人を彼の共犯者として起訴した)。この人たちの他に、元国会議員で、社会主義戦線副議長をつとめたハイドパーク運動党党首タウィーサク・トリプリーなどもすでにいた。

私がラートヤウに着いた時は、以前と同様ジットと彼の仲間たちが暖かく迎えてくれた。悲しみや絶望とは縁のない、いつもの彼一流の笑顔で。彼はいつもにこやかで、そしていつも闘志にあふれていた。昂然と、そして後退することなく。恐れとか絶望という言葉は、彼の脳裏には皆無だった。彼はきわだった秀才であったばかりでなく、その胸のうちには、資本家や封建階級、帝国主義者の砦を一瞬のうちに粉砕してしまうようなダイナマイトをかかえていた。誰もが彼を「過激派」と呼んだ。ある者たちは、「ならず者」とすら言った。それは彼が不正との闘いにおいて、決して妥協したり屈服したりすることがなかったからである。

私がジットを誰にも増して羨ましいと思ったことが一つある(私は小さい頃から孤児だった)。それは彼には最良の母と姉がいたことだった。母セングン・プミサク、姉ピロム・プミサクとは、私がかつて出会った最もすばらしい母と姉である。私たちも彼にならって、「お母さん」、「お姉さん」と呼び、そして実際そう思ったのである。私は、ジットの人となりがかくあったこともなるほどとうなずけた。彼を鍛えたのは母と姉という最良の窯だった(私は、彼とつきあっている間に、一度も彼の父親についての話を聞いたことがない。私もあえてたずねてみなかったため、今でも彼の父のことは分からないままである)。彼は小さい時から母と姉とのいつくしみのもとで育まれ、彼の母は、ジットとその姉とを女手一つで育て、最高学府にまで送ったのだった(彼の姉は薬学を専攻し、スカラーシップを得て海外に研修に出たこともある)。彼は以前地方にいたことがあると話していた。プラチンブリ県やカンボジアである。彼はカンボジア語が非常に上手かった(とくに、彼の筆跡は玄人はだしで、ヤン〔特殊な書体で密教的呪文などを書いた護符〕を書かせたら、充分売物になるほどみごとだった)。ピマイの石碑を解読して現代語に書き著わしたのは他でもない彼、ジットである(一九五三年頃の芸術局の文学雑誌をひもとけばみつかるはずである)。当時石碑を解読できる人間がほとんどいなかった頃に、である。彼はホーモク〔バナナの葉で包んだ食物〕売りや、ガイドのアルバイトをしたこともある。とくにアンコールワットは、目をつぶったままでも案内できたくらいという。

彼は文学と歴史学に抜きんでた才能を持っていたが、同時にいろいろなタイの楽器を弾いた。とくに「ジャケー」と呼ばれる楽器を、彼はラートヤウにまで伴っていった。食事の後や休み時間に、よく楽しそうにジャケーを弾いていたものだった。彼がその音色の美しさに恍惚としていたのだと考えるのは早計で、弾きながら曲を考えていたのである。後で分かったことだが、彼は作詩と作曲を別々にしていた。したがって彼が弾いていたのは、ほとんどの場合、できあがった詩に曲をつけて何度もなおしながら練習していたのだった。彼の作った歌はどれも、私たちに、目標をもって力強く前進することを呼びかけたものである。

彼は、ラートヤウの「学生グループ」や「青年グループ」のリーダーだった。思想上はもちろん、〔「コミューン」のための〕労働や活動の面でも彼は誰よりも献身的に運動をリードした。それは私たちがラートヤウに移って、食事を共にすることを決定した時のことである。すなわち金を出しあって食料を生産し、食生活を共同化したのだ。もっとやさしく言いかえれば、持てる者が出して持たざる者を扶け、均しく食べられるようにしたのである。持てる者とは、バンコクの人間で親類縁者が近くにおり、なにがしかの金品を提供できる立場にあった者たちのことであり、持たざる者とは地方の人間、すなわちほとんどの場合貧しい農民たちだった。彼らは貧しいばかりか、シーサケート、スリン、ナコンシータマラート、ソンクラ、ハドヤイ〔上二つは東北タイ、以下の三つは南タイの県名〕など遠隔地から来ていた。ある者は家族からの送金があったが、全くない者も多かった。外に残された家族たち自身の食いぶちすら満足に確保できない状態だったからである。一年を通じてただの一度も、家族の面会を受けない者もいた。どうして来られよう、はるばるやってくる汽車賃も船賃もないというのに。

ジットは他人の苦しみを自分の痛みとして感じるタイプの人間だったから、金銭、労働、頭脳のすべてを提供して、全身全霊で「コミューン」に奉仕した。私は、彼が「青年の模範」だったと考えている。働くこと、学ぶこと、民衆に仕えることにおける彼の勤勉さ、そして思想・行動・闘争における彼の果敢さとによって。実際のところ、彼がエゴイストで自分だけ生きのびようとすれば、彼ほどすばらしい親と姉がいたなら、ラートヤウ監獄よりももっとひどいところでも、なんとか居心地よく過せたはずである。なぜなら彼の母と姉とは、彼が不自由しないようにいつも差入れに来てくれていたのだから(ジットは胃病の持病があり、また彼は、彼の姉にとっては唯一人の弟、母にとっては唯一人の息子だった)。けれどもジットは、一人で食べて、楽しみを独占するというようなことは決してしなかった。

彼は学究の徒であった。ラートヤウにいる間にも、彼はたくさんの作品を残した。私は彼が翻訳したゴーリキーの『母』の原稿を見せてもらったことがある。彼はそれを全部訳し終えていて、その訳文は胸を打つ立派なものだった。彼はまたインドの文学、『慟哭する大地』や『インドの母』を訳し終えていた他、少なからぬ数の詩、および私が「ラートヤウの歌」と呼んでいる一連の歌もこの間に書かれたものである。私にとってこれらの歌は、私の人生の一部を歌ったものであり、珠玉の価値がある。この他にも彼は研究論文をいくつも書き残したのだが、彼がそれらをどこへ持って行ったのか分からないままである。なぜならジットは私より二年早く釈放され、その後私は彼とふたたび会うことはなかったからである。

「プラチャーティパタイ」紙の読者なら、一九六三年または六四年頃の紙面に載ったラタナゴーシン遊詩調で書かれたガウィー・ガーンムアンの有名な詩を覚えておられるかも知れない。この詩は、その後雑誌や本、タマサート大学刊行の『ニティサート』のような学術誌もふくめ、たびたび印刷されたものであるが、これもまた彼、ジット・プミサクの作品である。

「コミューン」の活動では、彼は生産隊を志願した。生産隊というのは、畑を作り様々な野菜を植えるのが任務である。彼らの作った野菜は、毎日台所へ運ばれて一〇〇人の人間を養ったばかりでなく、売りに出されて月々数百バーツの資金を「コミューン」にもたらした。私は終始一貫して彼と共に働いていたうえ、「コミューン」の事務局の書記で、すべての活動の世話人という立場でもあったため、誰が何をどのようにしているかについて把握していた。したがって私は「コミューン」の活動的部分と当然にも親しかったわけだが、とくにジットと彼の生産隊は誠心誠意労働に励んだグループだった。彼らと私は、共に肥桶をかつぎ畑にこやしをやり、烈しい雨で野菜が水びたしになる時は、畝から水をかきだすのに精を出したものだ。放っておけば洪水になり、野菜は全滅してしまうからだった。時には雨が一日中降りつづけ、私たちもまた一日中水をかきだす作業に奮闘したこともあった。みごとに育っている野菜が、水をかぶってみすみすダメになってしまうのは耐え難いことだった。ようやく水をかきだし終わって一息つくかつかないうちに、またどしゃ降りになった時などは、全く泣きたい気持だった。もう一度初めからやりなおしだった。ラートヤウのインテリたちの中で、「背中で空と闘い、顔で泥(どろ)と闘う」(*27)人間は彼唯一人だったことを、私は確信をもって言える。彼ほど骨身おしまず働き、またその成果をあげた人を、私は他に知らない。

畑作りの他に、蛋白質の不足を補うため、私たちは池を掘って魚の養殖をはじめた。ここでも彼は、私たちの重要な戦力だった。魚を育てて大きくし、最終的にはそれを手でつかまえる仕事である。飢えたことのない人間は、飢餓がどういうものであるか想像がつかないに違いない。私たちが監獄から受けとる食費は、一日に二食分として二バーツ九四サタンにすぎず、米代だけで二バーツかかり、副食費は一バーツに満たない、という勘定だった。これで、いったいどんなものが食べられたか想像していただきたい。すなわち死なない程度に生かしておけばいいわけであり、それには「飯(めし)つぶ」さえ与えておけばよかったのである。当局の基本方針は、牢獄は快適に住むところではなく、刑罰を受けた人間が懲りて改心するべきところであり、生かしておくに足るほどに食べさせておけばいいのであって、満腹することなど望むべくもなかった。彼らは、食事がよく、快適に過ごせたら牢獄が満員の盛況になってしまうと考えていたくらいである(そのうえ、タイの監獄にはまだ差別が残っていた。タイ人の囚人には植民地現地人の標準を適用するということで、食費は非常に低くおさえられ、何十年もそのままだった。生活必需品の価格はその間に次第に値上がりしたにもかかわらずである。一方外国人、とくに白人の囚人にはタイ人より高い食費が支払われていた。わが国の監獄の体系は、白人の囚人をタイ人の囚人より一段高く見なしていたのである。それが人道的だということにより、白人は白人のレベルでの洋食が提供されていた)。

この食事の問題は、ウトン・ポンラグンが一度改善の要望書を提出したが、私が釈放されるまでに遂に解答はなかった。

したがってわれわれは、自分たちの生命は自分たちで護らねばならなかった。読者の皆さんが当時ラートヤウをのぞいて見たならば、ジットと彼の「若者グループ」が、堀の水に首だけ出したり潜ったりして、魚をとったり、カニやカエルをつかまえている有様を目撃したことだろう。これらの収獲はみな私たちの食膳に上った。大した量がとれない時でも、少なくともナムプリック〔魚や唐がらし等をねって作るタレ〕の材料となり、私たちの菜園でとれた新鮮な野菜につけて賞味することができたのである。彼らの労働の成果は、私たちに野菜や魚を供給してくれたばかりか、その後アヒルや鶏の卵や肉までも分配することができるようになったのである。これらは私たちが〔監獄当局および内務省矯正局との〕闘いを重ねて勝ちとった権利であり、また献身的労働の成果でもあった。

ジットのふだんの服装は、黒い半ズボンにパカマ(*28)を胴に巻いただけのいでたちで、外に出て働く時にはパカマは日よけのため頭に巻いていたものだ。上半身は何も着ていないことが多かったため、強い日ざしと雨との中での労働の結果、筋肉質でかつ皮膚は赤銅か鉄のような色になっていた。それは細身ではあったがたくましいものだった。服を着る必要のある時には、中国風のグイヘン(*29)か紺色の農民服(北タイのモーホム)を着ているのが常だった。彼が白いワイシャツを着て長ズボンをはいたのは、出廷する時だけだった。

私たちが運動のためにしていたスポーツには、彼もほとんど何でも参加した。ただしほどほどにという程度で。彼の身体はあまり無理することができなかったからと思う。彼はバレボールや蹴鞠(タグロー)に興じていたが、バドミントンとバスケットボールは好まなかった。その他サバートイ(*30)やボーリングをすることもあった。しかしながら彼の日常は、生産隊員としての労働の他には、研究と著述にそのほとんどを費していたといえる。毎日私たちは、彼の弾くジャケーの調べを聞いたものだ。時々は彼と彼の仲間の若者たちが一緒になって彼が作詩、作曲した歌を練習していることもあった。

彼は音楽的才能にめぐまれていたのみでなく、学習する能力、教育する能力においても並はずれて優秀だった。彼はその頃中国人から中国語を習っていたのだが、習得の早さと正確さは類稀れなるもので、教えていた人が「彼の発音は生粋の中国人よりまだ正確なくらいですよ」と、驚きをかくさなかった。もう一つ私の心に焼きついていることがある。当時、私たちと同様ラートヤウに収監されていた者たちの中に、ムーセー族(*31)の年寄りと若者がいた。彼らはタイ語が話せなかったので、まるで唖同然で、一語一語を絞りだすように語る様は、山中で鉱脈を捜しあてるよりさらに困難なふうだった。そんな彼らとつきあって最も親しくなったのはジットであり、その成果を彼はタイ語とムーセー語の辞書にまとめはじめていた。けれどもこの二人のムーセー族は、彼の辞書が完成するのを待たず、釈放されて帰って行った。辞書は完成しなかったとはいえ、彼らは監獄を出た後は、それ以前は全く解さなかったタイ文字をなんとか読んだり書いたりできるようになったうえ、話すこともできるようになったのだった。彼らの唖を治した人は他ならぬジット・プミサクなのである。

ジットは政治的には革新であり、自らの思想に確信を持っており、また主義に殉じるタイプの人間だった。彼の政治思想は確固としたものでありかつ正しかった。間違った考え方と妥協しようとはせず、粉砕するまで手をゆるめなかった。資本主義・封建主義・帝国主義を、彼は心底憎悪した。ラートヤウの中には日和見主義・温情期待論・事なかれ主義が少なからず横行していたので、ジットを好まない人間も多かった。この連中はジットの才能や鋭さを毛嫌いして、「頑固者」、「ならず者」その他ありとあらゆる悪口を言った。それというのもジットが、あらゆる不義あらゆる特権、あらゆる不正に対し、生命がけで闘う人間だったからに他ならない。

獄内での待遇改善運動や、様々な不正に対する抗議、裁判を要求する闘争等においても、ジットは憶することなく、われわれと共にそれを推進した。ついに彼が軍事法廷に立たされた時には、私たち弁護士グループは彼に多少の法律知識を伝授したにすぎないのであるが、彼は被告として、大学で法律学を専攻し職業柄法律援用のエキスパートである軍事法廷の検事や、証人として出廷した行政の内情に通じた陸軍や警察軍の高級将校と立ち向い、彼らと彼らの策謀をやすやすと打ち負かしてしまった。検事や他の専門家たちですら、彼の法廷での闘いぶりには兜をぬぎ、本職の弁護士でもかなうまいと述べたほどである。私も彼の裁判を傍聴した一人であるが、「彼が法律を学び弁護士になったとしたら、彼の右に出る者がないほどすぐれた弁護士になるだろう」と思ったことだ。彼が自分で自分を弁護したこの裁判で、彼は勝利した。国防省軍事法廷は公訴を棄却し、一九六四年、六年余の拘禁の後彼を釈放したのである。

彼は天才だった、と私は思う。両親にとっては誇るべき息子、友人にとっては敬愛すべき友、ジット・プミサク、ティーパゴン、ソムチャイ・プリチャージャルン、ガウィー・ガーンムアン、どの名であろうとも。




ピロム・プミサク、トンバイ・トンパウ両氏とのインタビュー

(一九七九年八月四日) 



――ジットの少年時代のエピソードで、後の彼の面目躍如たるようなものがありましたら聞かせてください。
ピロム さあ、思い出してみましょう。
トンバイ たとえばリケー〔タイの音楽劇〕を演るのが好きだった、とか。
ピロム そうそうガンチャナブリにいた頃などよくやりました。リケーを見てくると、そのかっこうを真似て頭に何か巻いたりして、歌ったり、踊ったり、上手にできたものでした。大学の頃も余興で好んで演ったようです。
トンバイ ギウ〔中国芝居〕なんかもよく見ては演ってみせたものです。とくに「三国志」のヒーローなんかが得意だった。

――楽器もすぐ上手になったそうですね。
ピロム 習ったことはないのですが、なんでもすぐ弾けるようになりました。いつか母とノンカイに行った時、バイオリンを売っている店があって、買ってきました。それを一人でしばらくいじっているうちに弾きはじめるのです。その後ジャケー、キム、ソー〔タイの弦楽器および打楽器〕なども買ってきてよく弾いていました。
トンバイ 二階に彼の使った楽器が置いてあるからあとで見せましょう。

――彼に思想上の影響を与えた人、先生、友だちなどは……
ピロム 魯迅、ゴーリキーなどかしら。
トンバイ 誰よりも最も影響を与えた人はジットの母親でしょう。
ピロム そうですね。
トンバイ それからチュラロンコン大学時代のアメリカ人の先生。
ピロム ゲートニー先生(*32)ね。英語の先生で、ジットは彼の翻訳の手伝いをしていました。
トンバイ チュラロンコン大学の先生で研究者でした。ジットは英語が堪能でしたから、この先生の助手のようなことをしていたのです。この先生は革新的な思想の持主で、その面でもジットに影響を与えた人でしょう。ジットが共産主義者として逮捕された後、ゲートニー先生も共産主義者だということで国外退去させられました。ジット自身は探究心旺盛で研究熱心な人でしたから、第二次大戦後入ってきたレーニンをはじめとする社会主義思想やトルストイ、ゴーリキー、魯迅、その他アジアの文学を手に入るかぎり読んでいました。私と同じ職場にいた時には、新しい本をみつけると、二冊買ってきて、一冊は私たちに読ませてくれたものでした。タイの進歩派文学者であるスパー・シリマノン、インタラユット、アッサニー・ポンラジャン、ナーイピーなどもよく読んで勉強していましたから、彼らタイの先駆者たちの影響も受けたといえます。ピマイの石碑を解読(*33)したのはジットで、それを訳して雑誌に載せたのですが、われわれが投獄されていた時、ある人がそれをそのまま自分の訳と偽って本にしたため、ジットは告訴し、その人が謝罪に来たことがありました。私たちはその日、彼の払った罰金で鶏やアヒルや肉の大ごちそうにありついたというわけです(笑)。

――ジットはかって、自分の母親がゴーリキーの「母」の中のパーヴェルの母に似ていると言ったそうですが、子どもの成長と共に成長していく母親の姿を想像してよろしいでしょうか。
ピロム そうですね。母の子どもの育て方は、昔の人と全く違っていました。なんでも話しあい分かりあうというやり方でした。ジットは、子どもの頃学校へ行くのをとてもいやがりました。それは彼が何にでも興味をもってよく質問したので、先生にしつこい子、うるさい子と思われたらしく、それで学校が嫌いになったようでした。朝になると行くのがいやだと言ってはぐずったものですが、母は表を通る天秤商人の声を聞くと、「さあ、それじゃおまえも豚肉を売っておいで」とか、「炭売りになりなさい」と言ってジットを促すので、「いやだよ、それじゃ学校へ行くよ」と言って出かけて行ったのです。彼が学生時代、思想問題で停学処分になった時も、まわりの人たちは社会の恥だとかいろいろ非難しましたが、母は違いました。彼女は、政治上の問題でもどちらが正しいか判断したうえで息子を理解し、決して恥とは思わなかったのです。
トンバイ お母さんはたいへん勉強家で、本や新聞をよく読む人でした。息子がしたことについても、社会的に言われることを鵜飲みにするのではなく、どちらが正しいことを言っているのか見極めたうえで判断する人でした。ですからジットが逮捕されたことでも、一度も嘆き悲しんだりはしなかった。ジットの性格は、この母親からきたものがとても多いのです。

――サリットのクーデターの前、労働運動がさかんだった時期がありますが、その頃ジットも労働運動に参加していましたか。
トンバイ 労働運動に参加したことはないですね。

――労働者のマーチとかメーデーのラムウォン〔メーデー音頭〕というような歌を作詞作曲されていますが。
トンバイ それは労働運動に直接参加して書いたのではなく、農民について歌った詩も同様ですが、農民と共に耕作したわけではないけれど、彼らの生活を見て自分の痛みとして感じて書いた、ということでしょう。

――高校時代の日記の中に「得度したい」というところがありましたが、したことがありますか。
ピロム いいえ、ないです。まだ子どもだったからそんなふうに思ったのでしょう。タイでは一度僧になる修業をすることは親孝行ですし、ジットは母親想いでしたから。

――ジットの倫理観をつちかったものに、仏教の影響が考えられると思いますが。
ピロム そうです。わたしたちは仏教を尊重しています。ただ他の人たちのようにお寺に行ったり、毎朝託鉢僧に食物を用意したりといったいわゆるタムブンはしません。けれども困っている人、苦しんでいる人を助けることは、真の仏教の教えだと理解しています。よく人はジットが無宗教だと言いますが、そうではありません。
トンバイ ジットもそういう意味で仏教徒でした。彼がチュラロンコン大学で非難中傷された例の仏教告発の文(*34)も、真意は、僧侶の多くが仏教を食いものにして真の教えを堕落させているという点でした。非常に歪曲されて理解されたのですが……。

――ジットは森へ行くことについて御家族と相談なさいましたか。
ピロム 申し訳ありませんが、この点については答えられないのです。まだ誰にも話したことはありません。

――彼は森へ行くというより中国へ行くつもりだったという説がありますが、本当でしょうか。中国語をもっと習いたかったとか。
トンバイ いいえ。
ピロム そんなことはないです。中国語についても、タイで獄中にある間にマスターしてしまいました。

――ジットはプーパン山中で何をしていたのか謎につつまれているのですが、戦士として戦闘の任務についていたのでしょうか、それとも文化活動にたずさわっていたのでしょうか。彼の死についても「撃たれて死んだ」というだけで戦闘中の死なのか、偶然囲まれたのか全く分からないのですが。
ピロム わたしたちにも分かりません。わたしたちがジットの死を知らされたのは、一年以上もたってからなのです。警察官が家へやってきて、ジットが死んだことを報告したのですが、信じられない気持でした。わたしは外出中でしたが、母は息子の指紋をとったものを見せられて信じたのです。わたしが帰宅した時、母は泣いていました。
トンバイ そのあと私がこちらをたずねた時、母上から、「どうして今までわたしを騙していたのか」と言われて、絶句したのを覚えています。
ピロム わたしたちが知りえた事実もこれだけなのですよ。ジットがどうしていたか、あとは想像するだけです。警察の公式発表がこれだけですから、わたしたちにもこれしか言えませんし、どれだけ信憑性があるか、行って確めることもできない以上確信はありません。
トンバイ 警察側でも、彼が撃たれて死んだ時、死体が誰なのか確認できなくて指紋をとって確認するまでに時間がかかったと言っている。

――お母さんはその知らせに耐えて生きてこられたと思いますが、彼は死んでも今もなおタイの若者たちの心の中に生きつづけていることを知っていらっしゃいましたか。
ピロム ええ、たいへん誇りに思っておりましたよ。一〇・一四の後は、休みのたびに若い人たちが家へやってきて話して行きました。
トンバイ 集会の時にはよく呼び出されて、「人民の母」と呼ばれてみんなから愛され、時には演壇に上って話したりしました。その頃の新聞記事が残っているので読みましょう。
日刊「プラチャーチャート」紙一九七五年九月一一日号、特集記事「彼は死んだ、がその名は今にとどろく」の中、セングン・プミサク、インタビュー
「あなた方は、ジット・プミサクが誰で、どんな人物だったか知りたがっておられます。でもわたしに答えられることはあまり多くはありません。なぜかというとお分かりのように、ジットの姉は今も公務員をしているからです。小さい頃のジットは、いろいろな型の詩を書くのがとても好きな子でした。いたずらっ子でしたが、しっかりしていて、母親にはとてもやさしい子でもありました。家族はその頃三人だけで、父親は離別しておりませんでした。大学にいる時には、いつも母親に手紙をくれました。わたしはジットの考え方、決断と行動についても、正しかったと信じてきました。ジットは特別生活に困るというような経験をしたわけではないし、わたしたちはなんとか普通に暮せる生活をしてきたので、なぜ彼が森へ行く決断をしたのか知りません。でも今述べたように彼の決断はいつも正しかったと思いますから、わたしは息子がプーパンヘ行ったことについて、ちっとも不思議とも残念とも思っておりません。ジットがプーパンで何を考えていたのか分かりませんけれど、彼は母を愛していましたし、そして自分のとるべき行為を考えたうえでしたことでしょうから。彼の行為が何だったのか、みなさん方は分かるでしょう、彼はお金も栄誉も受けたわけではないのですから。わたしはこれ以上言いたくても言える立場ではありません。ジットの姉を危険な立場にさらすことはできません。わたしも年とってしまって、娘と二人きりで暮らしているのですから。みなさん方の心の中で決めることがらとしてとっておきたいと思います。わたしはジットがわたしの最良の息子だったことに誇りをもっています。彼は母と姉を心から愛してくれたし、わたしたちにはそれで充分です。彼がプーパンヘ行った後、わたしたち母娘はいつも監視され尾行されたのです。何が正しかったか、それはあなた方が決めてくれるでしょう」。

――どうも長い時間ありがとうございました。

(ジット家で訳者が行なったもの) 




ジット・プミサク年譜

1930
  
9・25 プラチンブリ県プラジャンタカム郡に税務官吏の長男として生まれる

1932
 
 6・24 人民党による「立憲革命」
 12・10 タイ最初の「憲法」発布

1933
 
11・15 タイ最初の総選挙

1935
 ラーマ七世退位

1938
  同地の公立小学校へ入学
  同年父の転勤にともないガンチャナブリ県に移り、小学校四年終了までを過ごす

 12・16 ピブンソンクラムの無血クーデター(タイ最初の軍部独裁政権)。
       第一次ピブンソンクラム内閣、蔵相にプリディ

1939
  5 国号を「サヤーム」(シャム)から「タイ」に改称。
    反華僑経済政策、タイナショナリズム振興策とり、日独伊に接近

1940
  9 タイ・仏印戦争勃発

1941
  1 日本軍の調停で休戦
  4 タイはメコン河西岸ラオスとカンボジア西北部をフランスより奪還
 12・8 日本軍タイ占領
 12・21 日タイ同盟条約締結
 12 プリディ、蔵相を辞任、抗日地下組織「自由・タイ」を結成

1942
  父の転勤にともないサムットプラカン県に移り、
  県立中学でマタヨム(中等教育)一〜三年までを終える
 12・1 タイ共産党第一回党大会

1944
  7 ピブンソンクラム内閣総辞職
  8 民主党クアン・アパイウォン内閣成立。「自由タイ」を通じて連合国と接触

1945
  5 すでに転勤していた両親の後を追って
    バッタンバン県(現カンボジア)の県立中学のマタヨム四年に転入学
  5・1 史上初のメーデー(一〇〇〇名参加)
  8 プリディ摂政、対アメリカ・イギリス宣戦布告無効を宣言
 10 国号をふたたび「サヤーム」(シャム)に改称

1946
 11 フランスに返還されたバッタンバン県を退去、
    バンコクのベンチャマボピツト寺中学五年に編入、
    同校でマタヨム五〜六年までを終了

  3 プリディ首相に就任、新憲法公布
  5・1 参加者一〇万の大メーデー
  6・9 ラーマ八世暗殺。王弟プミポン(現国王ラーマ九世)即位。
  8 プリディ引責辞任。
 11 自由タイ系セニ・プラモート内閣組閣
 11 連合国の圧力によりカンボジア西北部をフランスに返還
 12 国連加盟 反共法撤廃、共産党合法化

1947
 11・9 ピブンソンクラム元帥ひきいる「政変団」のクーデター。
      タムロン首相、プリディ亡命

1948
  5 トリアムウドム高等学校(マタヨム七〜八年)入学
  親米―反共―反中国政策

1949
  5 国号をふたたび「タイ」と改称
  恒久憲法公布

1950
  5 チュラロンコン大学文学部入学
  詩「先輩に奉ぐ辞」文学部の雑誌に掲載される
  語源学関係論文「ジャンプータイ」を『パリチャート』に発表、
  同誌編集長にその非凡な才能を認められ将来を嘱望される

  7 朝鮮戦争おこる
  9 タイ・アメリカ経済技術援助協定調印
 10 タイ・アメリカ軍事援助協定調印

1952
  この頃、ゲートニー博士の助手をつとめる
  3 二年の期末試験に落第、この年もう一度二年をくりかえす
  語源学論文『ガンミアン』(子ども)発表

  日タイ貿易協定
  タイ共産党第二回党大会
  朝鮮戦争に派兵
  反戦運動おこる
 11・10「平和暴動」の名のもとに一〇〇名の政治家、ジャーナリスト等逮捕さる
  反共法制定

1953
  語源学論文「石碑より見たピマイ」『タイ・クメール』、他、
  「ウォンワンナカデイ」(文学界)に発表。
  三年に進学。
  毎年一〇月二三日チュラロンコン大王記念日に発行する学生会誌の編集責任者となる。
  印刷所が、彼自身の書いた詩と、評論「黄衣の妖怪」を危険思想とみなして
  公安警察に通報。大学当局はただちに雑誌の発行を停止
 10・28 大学講堂に学生を集め、大学側が事件の経過説明を行なう。
       釈明のため壇上に立ったジットは、三人の学生に頭と足をおさえられ
       2メートル下の床にたたきつけられて気を失う。
       その後間もなく教授会はジットの無期停学処分を決定
  「タイ・マイ」紙編集部で働く

1954
  友人たちと『シアン・ニシツト』(学生の声)の編集発行にたずさわる

  産業奨励法制定
  SEATO(東南アジア集団防衛条約)に調印

1955
  大学三年に復学
  「トルストイ・青少年の知恵袋」『政治学―法学』11月号

  4・18 バンドンAA会議
  ハイドパーク運動という民主化政策実施。
  政党法施行で政党活動自由化。
  労働党、社会党、エコノミスト党等政党結成さかん

1956
  「ゴーリキーにおける人、神、天国」『ニティサート』(法学)

  5・11 一〇年ぶりにメーデー復活
 11・1 労働法制定労働運動活発化

1957(仏暦2500年)
  チュラロンコン大学文学部卒業、
  卒業式に国王よりの卒業証書授与を拒絶したタイ大学史上最初の学生となる。
  ぺトブリ・ピタヤロンコン教員養成学校英語教師に赴任。
  グワットウィチャーテーウェートスクサー学院および
  芸術大学の英語科非常勤講師をつとめる
  芸術論「生きるための芸術」
     「人民のための芸術」
  史学試論「タイ封建制の素顔」
  文芸批評「プラマハーモントリーの文学史的位置づけ」
      「黒人文学」
  詩「この手で築く地上の楽園」他
  女性論「タイ女性の過去、現在、未来」
  その他多くの作品を新聞、雑誌に発表
  『サーンセーリー』(自由日報)のコラムニスト

  労働組合結成さかん、労働争議、スト活発化
  2・26 総選挙
  3・2 不正選挙抗議デモ(学生・市民)
  9・16 サリット、タナラット大将、クーデターに成功
  ピブンソンクラム日本に亡命
  ポット・サラシン内閣

1958
  「帝国主義と失業問題」『ピットプーム』(母国)誌、
  「封建階級の生残り諸君にもの申す」『サーンセーリー』コラム
  5 文部省の推選によりプラザンミット教育大学大学院へ進学
 10・21 自宅で逮捕、連行される

  1・1 第一次タノム内閣
 10・20 サリット元帥クーデターによる実権掌握、首相となる
       戒厳令布告、議会停止、憲法廃止、労働法廃止、労働組合解体
 10・21 政治家、新聞記者、学者、学生、労働運動指導者、農民等
       約1000名を、〈共産主義者〉として一斉逮捕

1959
  ラートヤウ監獄に収監される

1960
  「コミューン」結成に参加。
  食糧生産と教育の活動にずたさわる。
  不当逮捕告発、無期限拘留の違法性告発、無条件釈放、をかかげた
  裁判要求闘争の発起人の一人

1961
  タイ共産党第三回党大会、「農村から都市を包囲する」武装闘争路線採択
  東南アジア連合(タイ、マラヤ、フイリピン加盟)設立

1962
  最高裁は無期限拘留の違法性を認め、軍事法廷に裁判の開始を申しわたす。
  5月より釈放(主に農民)と、軍事法廷での裁判開始さる
  獄中での作品
  詩=本書収録のもの以外に「肉・牛乳・卵」
    「夜の臭気」
    「旧友よりの警告」
    「太陽族」その他多数
  訳=ゴーリキー「母」
    「ヴェトナム短篇集」
     インド文学「慟哭する大地」、「虎にまたがる人」
     トルストイ「アンナ・カレーニナ」(未完)
     ステパノバ「カール・マルクス伝」
  評論=「ピカソの生涯と作品」
     「ニラートノンカイ=タイの焚書文学」他多数
  語源学=「サヤーム、タイ、ラオス、クメールの語の由来およびその民族の社会形態」 
      「タイ=ラフ語辞典」(未完)

  3 「タイ人民の声」放送開始

1963
 12 サリット死去、タノム後継内閣誕生(第二次タノム内閣)

1964
 11 「タイ愛国戦線」結成
 12・30 国防省軍事法廷ジットを釈放

1965
  1・1 「タイ人民の声」放送、タイ愛国戦線結成を発表
  8・7 タイ共産党武装闘争開始
      ナコンパノム県バンナブアで解放軍と政府軍最初の衝突
 11 タイ愛国戦線根拠地プーパンヘ

1966
  5・5 ナコンパノム県ノングン村において政府軍によって射殺される

  5 ベトナム派兵決定



参考文献

「神は我を自由の子として創り給えり――ジット・プミサク詩選」トングラー書房 1978年

ソムサマイ・シースートパン著「タイ封建制の素顔」センタワン書房 1976年

ティーパゴン著「生きるための芸術、人民のための芸術」トンマカーム社 1978年

ジット・プミサク著「言語および語源学」ドゥアンカモン社 1979年

ジット・プミサク著「サヤーム、タイ、ラオス、クメールの語の由来とその民族の社会形態」タイ社会科学協会 1976年

チェンマイ学生戦線編「ガウィー・ガーンムアンの詩および文芸批評」 1974年

ゴーリキー著、ジットプミサク訳「母」グートマイ社 1978年

E・ステパノバ著、ジット・プミサク訳「カール・マルクス」トゥートタム書房

トンバイ・トンパウ著『ラートヤウのコミュニストたち』 コンヌム社 1974年

スチャート・サワッシー編「ジット・プミサク=新世代の闘士」社会科学評論社 1974年

「ティーパゴン=タイ人民の戦闘的芸術家」 センタワン書房 1975年

『ジット・プミサク調書』 週刊「アティット」 1978年5月16日号 8〜18頁
『ジット・プミサク特集――中学時代の日記他』 月刊「読書世界」 1979年5月号 41〜89頁
『ジット・プミサクに関する新事実および論争点』 月刊「読書世界」 1979年12月号 10〜17頁






訳者あとがき


一九六六年五月五日、それは非常に暑い日だった。文部省前のラートダムヌーン通りをゆっくり歩きながら、私は自分の足が靴を通してもやけどするのではないかと思うほどだった。乾期の終り特有の、スコールによって冷まされることのない、あの加熱し尽くした乾ききった炎熱が、この熱帯の国を焦がしていた。一○数年を経た過去の一日を普通なら覚えているはずはないのだが、私はこの日のことをはっきり記憶している。というのは、この日私は文部省で行なわれた外国人のためのタイ語の教員資格試験を受けたからである。だが、一〇年余りを経た後に、この日が私にとって意味を持つことになろうとは、当時の私には想像すべくだになかった。

この日、ジット・プミサクはイサーン(東北地方)の北のはずれに近い貧しい小さな村で、政府軍の銃弾に斃れた。その死体が誰のものであるかすら知られずに。そのころのタイで、ジット・プミサクの名を知る者は、ほんの一握りの知識人とそして公安警察に限られていた。彼の作品を新聞その他で読んだことのある者でも、そのほとんどが異なったぺンネームで書かれていたから、同一人物、ジット・プミサクの作であることを知る者は少なかったに違いない。彼の死は、いっさい発表されなかった。家族ですら一年余り経ってから知らされたのである。それは厳しい「冬の時代」――熱帯の国にはふさわしくない表現であるが――だった。新聞は一面から殺人事件と国王行幸の記事でうまり、国民は政治を知らされることがなかった。真実を追求することは「コミュニスト」の烙印を押されることを意味していた。このころ日本ではベトナム戦争反対の運動が広範なもり上りをみせていたが、私はタイで「ベトナム戦争反対、北爆停止」を言いかけて、周囲の人びとに口を封じられた。そんなことを言うと「逮捕されてしまう」というのである。私はその後もこのセリフをなにかにつけて聞くことになった。本屋をたずね歩いても、まっとうな書物を見つけることは困難だった。批判的精神そのものが封じられていたからである。このような厳しい弾圧と思想統制・文化的貧困の中でジット・プミサクの死は完全に抹殺されたかに見えた。私にとってもその名は知るすべもなかったのである。

ところが、彼の名はその死後六年経ってみごとに復権する。一九七二年、学生たちの手によって発見された彼の芸術論「生きるための芸術・人民のための芸術」が再版されたのである。この少し前からタイの学生運動はもり上りを見せはじめており、とくにこの年一九七二年は、一九七〇年に組織されたタイ全国学生センター(NSCT)を中心に、日本商品ボイコット運動が激しく展開された年でもあった。このころからタマサート大学、チュラロンコン大学、ガセッサート大学、チェンマイ大学のような主だった大学に、進歩派の学生たちのグループが結成されはじめ、彼らがNSCTの指導部を握っていった。その翌年彼らがとり組んだ憲法制定要求闘争は、発展して遂に一〇月一四日の学生革命をもたらした。

タイ歴史はじまって以来最初のこの民衆の参加による政治改革は、タイ全土を揺がした。長い圧制により封じられてきた知識への渇望は、一挙に噴出した。それまで出版を禁じられていたような書物が、次つぎと本屋の店頭に登場したのである。わけてもタイの変革と愛国の熱情に燃える若者たちが最も熱いまなざしを注いだのが、ジット・プミサクである。彼の主な作品が相次いで出版され、そのどれもがたちまち売り尽くされ版を重ねた。ジット・プミサクの名が初めて本名で紹介されたのだった。

冒頭にレクイエムとしてかかげたスラチャイ・ジャンティマトンの詩「ジット・プミサク」にあるように、「人びとはその名をたずね、すべてを知ろう」とした。この歌は当時猛烈な勢いで広まった生きるための歌のひとつで、最も優れた歌を残したタマサート大学学生バンド「カラワン」が作詩作曲したものである。「カラワン」およびその他各大学にできていた学生バンドは、これらの生きるための歌、そしてその源流であるジット自身が獄中で作った歌を演奏しながら農村をまわり、また労働者・市民・学生の集会に参加したから、彼の名はより広範な人びとの間に浸透していった。乾いた砂に浸みこむ水のように。集会のたびに彼の詩の一節が、ポスターやスローガンやビラに書きこまれた。学者たちの間では、彼についての研究が始められていた。

しかしながら一九七六年一〇月六日、右翼のまきかえしによる血のクーデターは、再び彼と彼に関係のあるいっさいを葬り去った。その後約二年間にわたり他のすべての左翼的およびリベラルな書物とともに、ジットの作品と彼について書かれた本は、あらゆる書店から姿を消してしまう。しかしひとたび目覚めた民衆の自由への渇望がいやし難いのと同様、ジット・プミサクがタイの闘う人びとにともした灯火(あかり)は消し去ることはできなかった。現在彼の作品は、未だに発禁リストに載せられている「タイ封建制の素顔」等を除いて、相次いで出版されはじめている。彼はタイの闘いのシンボルであり魂(ウィンヤーン)である。そして同時に、体制側につく人間にとっては憎悪と偏見に彩られたタブーである。


彼の作品は、大別すると詩、評論、翻訳、研究書――語源学・言語学、文学、歴史学――の四種類に分けられる。三五歳で殺されるまでの約一五年間、そのうち半分近くを獄中にありながら、彼はじつに多数の、そして多方面にわたる作品を書き著わした。

彼の書いたものはみなすぐれて政治的である。それは彼の書いたものすべてが民衆史観に貫かれており、支配階級とそれに依存した既成のタイの学問の主流に鋭い切っ先を向けたものだからである。彼がタイの社会科学の発展に与えた影響は、はかり知れない。それは実証的方法論と史的弁証法である。これによって彼は一九五七年、「タイ封建制の素顔」を著わした。歴史学不在とすら言われたタイで、この本はほとんど初めてともいえる本格的歴史書である。この中でジットは、エンゲルスの「家族・私有財産・国家の起源」に倣って、タイの社会を原始共同体・奴隷制・封建制へと発展してきたものととらえている。主要な部分は、そのタイトルが示すごとく、タイ封建制の分析である。彼は石碑・古文書を引用して彼の仮説を実証することに努めた。この本は、タイには階級も階級闘争も存在しなかったと主張してきた王朝史学者たちを激怒させた。しかしジットが切り拓いた歴史学は、その後タイの若い歴史学者たちに受け継がれ、タイ社会と歴史のさまざまな角度からの分析と研究が現在進められている。

ジットはまた、社会科学の方法論を言語学に適用して研究を進めたタイ最初の言語学者でもある。獄中で書かれた大作「サヤーム、タイ、ラオス、クメールの語の由来およびその民族の社会形態」は、残念ながら未完のままに終ったとはいえ、彼の残した最高傑作のひとつと言われている。その歴史的・実証的アプローチは、私のように言語学にずぶの素人が読んでも尽きない興味を湧かせてくれる。

彼の評論は、文学、音楽、美術、女性論、社会問題等多岐にわたっている。わけても「生きるための芸術・人民のための芸術」は新しい民衆芸術論の確立に貢献した。彼以前にも「生きるための芸術」派の作家が存在しており、「純粋芸術」対「生きるための芸術」論争が行なわれていたが、明解な理論をうちだして純粋芸術論を論破したのは、この本がはじめてである。
「生きるための芸術」という語を彼は英語で、"Art for life's sake"と書いている。そこには、彼が読書家であったことを証明するように、トルストイ、モーパッサン、ロマン・ローラン、ヴィクトル・ユーゴー、魯迅、その他多数の著名な作家の文章やタイの古典からの引用がふんだんに見られる。まず彼は、トルストイの芸術論を用いて芸術の必要条件について言及した後、社会の下部構造から全く切り離された純粋芸術の存在しえないことを説いていく。芸術は、民衆の生活を反映したもの、民衆のための、民衆によるものである。民衆とは牛馬のごとく働く人民大衆のことである。彼らの存在意義を歴史の中に、芸術の中に確立せよ、彼らのおかれた現実を写し出しよりよい未来を指し示せ、と彼は言う。この本はタイの社会主義リアリズム論の原典となっている。現在これに学んだ若い作家や画家が輩出してきているが、ジットの理論をのりこえるものはまだ出ていないように思われる。

彼は民衆の覚醒を促すことを芸術家に訴えると同時に、民衆が親から子へと代々受け継いでいった固有の地方文化を掘り起こし、それに光を当てることもおこたらなかった。とくにバンコクの宮廷を中心とする貴族的文化からは遅れた田舎文化と蔑まれてきた地方の民謡・楽器・詩の価値を認め、その哀調を帯びた韻律を紹介した。たとえばタイの各地方、各少数民族が持つ民謡は、それぞれの地方、それぞれの民族の労働の形態・生活様式・生活感情を反映して、どれもそれ自身に固有なリズムと旋律そして美しさを持っている、と彼は述べている。わけても彼は、東北地方の楽器ケーンを高く評価していた。


イサーン民衆の持つケーンは、彼らの落胆を知らぬ闘いの歌である。その親しみやすいリズムと力強い調べは、彼らの闘魂を燃えたたせるシンボルである。干ばつという自然の猛威も、苛酷な搾取抑圧の歴史にも彼らはくじけなかった。かえってずぶとく、たくましくなったのである。

(「サーンセーリー」紙コラム) 


彼は社会の大半を占める民衆の生きざまを反映していない芸術作品は、たんなる「技術的産物」であって芸術ではない、とまで言いきっている。ジットの芸術論の研究は、本書の目的ではないから、ここでは紹介にとどめる。


ジット・プミサクの遺した作品は、文学・言語学・歴史学・芸術どの分野をとっても、学問的にも思想的にもタイ社会に巨大な衝撃を与えた。彼の作品の綜合的かつ専門的研究は、タイにおいてもまだその緒についたばかりである。一九七二年に彼の作品が再び陽の目をみて以来現在までのところなされたことは、彼の既刊および未発表の作品をさがし出して出版することが主だったといえる。困難な政治状況の下で中断を余儀なくされたこともあった。これからも彼の行方不明の原稿がさがし出されて活字になることだろう。そして何よりもタイにおいて彼の全作品が全集としてまとめられ、誰もが堂々と手にとることができる日が来ることを願ってやまない。


しかしながらジットの作品の中で、最もタイの人びとの心を捉え、その魂を揺さぶったものは、その詩であろう。彼の詩は、人びとの「心の糧」となった。彼は何にもまして詩人であった。彼の魂は詩人としてのそれだった。ジットの詩は彼の叫びである。その叫びは彼の愛と憎悪から出た叫びである。彼は「はかり知れないほどの愛と激しい憎悪とを合わせ持った人間だった。彼のその憎悪は、彼の愛そのものからほとばしりでたものである」。夜明けから日暮れまで、熱帯の灼けつく太陽の下で、綿のように疲れるまで働きつづけても、自ら耕作した米を口にすることができない貧しい農民たち、わずかな日給で長時間の労働を強いられ、組合を作る権利すら剥奪された無権利状態の労働者たちに、彼は愛を注いだ。そして彼らをこのような状態におしとどめておくことによって莫大な利益を得ている階級を、彼は激しく憎悪した。

彼ほど勇敢に、彼ほど痛烈に体制の悪を糾弾した詩人は他にはいない。ジットは生涯闘いの人でありつづけた。そしてその闘いは、孤独な闘いだった。彼の生きていた時代に彼は理解されなかった。人民大衆は彼の存在を知らされなかったし、都市の知識人を支配していたものは、魯迅によって表現されたあの「奴隷根性」だった。


   飢えた悪鬼(ピーサート)の咆哮に 怯えたのか
   おまえはうちふるえて涙を流し 俯いた
   怖じけづいて災禍(わざわい)に拝跪し 死んだふりをするのか
   膝を屈して世界の もの笑いになるのか、サヤーム
   …………
   サヤームのこころよ なぜ災禍(わざわい)に怖じけづく
   一握りの化けものに 従順に身を投げだし
   ぬかづいて 抗うこともない
   恥知らず、タイよ みじめな姿を人前に晒す
   …………
   サヤームのこころよ かくまでふるえおののくのか
   否、否、絶対に否!
   …………
   幾多の苦き想いは 心の奥深く宿り
   赤黒き怒りの炎となって 燃えあがる
   鋼鉄(はがね)は赤く煮え滾る 炉(かま)より生まれる
   炎が激しく燃えあがるほど いっそう堅き 鋼鉄となる
   限りなく勇敢な心は そこに生まれる
   こころ……毅然たる民族魂が 陶冶される
   …………
   ああ、サヤームのこころ 夢想(ゆめ)のこころ
   希望の中のこころよ
   われはわが手でそなたを育もう……この小さき手で


ジットは、最も手強い敵、人びとの心の中に巣喰う病根とも闘わねばならなかった。この引用の最後の三行は、彼が自分自身の気持を語ったほとんど唯一とも思える個所である。ジットの悲痛な想いをかいまみる思いがする。


ジット・プミサクは、彼の詩のとおりに生き、そして死んだ。釈放されてから約一年後に、彼はプーパン山中にあるタイ愛国戦線根拠地に向かい、ゲリラ戦士として歩む道を選んだ。このとき彼がどのような決断をしたのか、彼の家族は口を閉したままである。ジットの尊敬する先輩スパー・シリマノンによれば、ジットは「サヤーム、タイ、ラオス、クメールの語の由来とその民族の社会形態」の原稿を彼に託し、「チャンスがあれば出版してほしい」とだけ言い残し、どこへ行くとも告げずに去ったという。友人たちを危険にさらさないようにとの配慮から、彼はたぶん誰にも語らなかったのだろう。

ジットは政治活動家ではなかったから、タイ解放の戦略・戦術論を携えてタイ共産党中央に参加したわけではないだろう。彼の決断は、彼の思想・生き方の帰結としてある。生き方・心情においてもジットとたいへん近いと感じられるトンバイ氏は、都市での活動の道を選んだ。トンバイ氏の決断が政治的であると思われるのに比して、ジットの決断は詩人としてのそれであった。


今ここに、タイの解放区で印刷されたと思われる掌にのるほどの大きさの赤い表紙の小冊子がある。それによると、プーパン山中での最後の数カ月を、ジットは献身的なゲリラ戦士の一人として過したことがうかがい知れる。彼はすすんで兵士としての訓練を受け、重い食糧をしょって七時間もの道のりを他の兵士たちとともに登った。「革命の地プーパン」はこのような行軍の中で生まれたものだという。

党中央は、ジットに彼の能力と健康状態にあった任務につくことを提案したが、彼はそれをしりぞけ、今しばらく自分を鍛えたいとして、プーパン山周辺の部落の教宣活動の任務を受けた。彼は同志たちから謙虚に学んだ。と同時に、兵士たち、村民たちに彼は歌を教え、知識を伝え、彼の都市での経験を語って尽きるところがなかったということである。一九六六年五月五日、ジットは兵士たちを率いて敵政府軍の偵察にノングン村(競合区)へ向った。白蟻塚のかげに身を潜めて様子をさぐったがあまりに長い時間動きがみられなかったため、ジットは同志たちの制止をふりきって部落内に入り、一軒の農家から敵軍の様子をさぐりだした。しかし時すでに遅く、彼は通報者に案内された政府軍に囲まれ、雨の如き銃弾を浴びて斃れたのである。ジットの死が本当に避けられないものであったのかどうか、これだけの資料から判断するのは困難であるが、民衆に真実のありかを伝えるために、彼は死を覚悟して敢て危険な任務を選んだことは想像がつく。彼は死んだ。しかしその死によって、彼はタイの人びとの心の中に生きた。あたかも彼自身が書き残した詩にあるように――


      死んで埋められてもなお闘いつづけ
      全地上の勇気ある人びとの誇りとなる


タイの詩には様々な詩形がある。同じ母音を用いて韻をふむもの、声調符号をあわせるもの、音の強弱を組みあわせるものなどいろいろである。ジットはたんにこれらの詩のきまりを視覚にうったえて形をととのえるのではなく、耳に美しい響き、リズムとして残ることに努めた。彼は「語学の超人」と評されるほど自由自在にこれらの詩形をあやつり、他の詩人たちを圧倒した。

今回日本語になったジットの詩が、このような原詩に遠く及ばないとすれば、訳者である私にいっさいの責任がある。彼の詩の翻訳をすることの無謀さを知りつつ、タイの闘いの心を知るために、敢て挫けそうになるわが身を励ましつづけた。この本が契機となって、今後日本においても、ジット・プミサクの研究とよりすぐれた翻訳がなされれば、これにすぐる喜びはない。


翻訳および刊行をこころよく御承知下さった、ピロム・プミサク、トンバイ・トンパウ、タウィープウォンの諸氏に心よりの感謝を申し上げたい。御三方からは、私の手紙による質問に対して、暖かい人柄のにじみでた御返事をいただき大きな励ましとなった。詩の訳出にあたり、懇切に教示して下さったバンヤット・スラカンウィット氏(当時在日タイ留学生、現在タマサート大学講師)の指導がなければ、この本はできなかったことと思う。その他タイおよび日本における私のたくさんの友人たちの協力があったことを明記しておかなければならない。この翻訳を通じて心の通い合うタイの友人たちを得たことを大切にしていきたいと思う。

なお表紙は本年七月上野の都美術館で開催されたA・A・LA美術展に出品されたタイのタマサク氏の作品を使わせていただいた。氏のご好意に感謝いたします。


 1980年10月29日       訳者





  訳註

(*1)トンバイ・トンパウ Thongbai Thongpao(1926〜) 東北タイ農村の出身。苦学してタマサート大学法学部を卒業、新聞記者となる。一九五七年社会主義戦線党より国会議員に立候補。一九五八年一二月北京訪問の帰路ドンムアン空港にて逮捕され、八年間の獄中生活を送る。以後弁護士として数多くの政治犯の釈放に尽力、労働者・農民の人権擁護に活躍。一九七八年「バンコク・18」の弁護団として来日。一九八〇年七月その報告のため再来日。著書に「ラートヤウのコミュニストたち」「農民の遺産」他。

(*2)タウィープウォン Thawipwon(1924〜) 本名タウィープ・ウォディロク。一九五一年タマサート大学法学部在学中、タマサート大学平和委員会副委員長として平和運動に携わり、除籍処分を受ける。「ピム・タイ」紙編集長を経て一九六〇年逮捕され、ラートヤウ監獄に収監される。病気のため一年未満で保釈となり、以後弁護士となる。現在は著述業に専念。詩人、評論家。訳書にシェークスピア「ジュリアス・シーザー」、オストロフスキー「鋼鉄はいかにして鍛えられたか」他、著書に「チトー:ユーゴスラヴィアの指導者」「アヘン戦争から辛亥革命まで」「周恩来――革命家にして政治家」他。


(*3)「先輩に奉ぐ辞」 一九五〇年、チュラロンコン大学文学部に入学して間もなく、文学部の雑誌「アクサラヌソン」に発表した詩。

(*4)チャンタラック チャン形式の詩

(*5)ノー・モー・ソー ラーマ六世〜七世時代の宮廷詩人で、本名はピタヤロンコン殿下。「黄金の都」、「三つの都の詩」他多くの詩・散文の作者で、チャンタラックの形式の忠実な継承者。

(*6)チット・ブラタット ノー・モー・ソーと同時代の詩人。同じくチャンタラックの形式の厳格な保持者として知られる。

(*7)ぺートジャルン・スプセン パッタニ県選出国会議員、タイ全国平和委員会委員長として反戦運動を指導。一九五二年平和暴動で逮捕投獄された後、一九五八年にもふたたび逮捕された。

(*8)グラープ・サイプラディット シーブラパーのぺンネームで知られる著名な作家。反戦運動の指導者として同じく一九五二年に逮捕されるが、一九五八年の際は、北京で開かれていたAALA作家会議に出席していたため逮捕を免がれる。一九七四年北京で客死。「毛沢東選集」のタイ語訳者と言われる。

(*9)サマック・ブラワートは評論家で、ウトン・ポンラグンは弁護士。ともにタイ全国平和委員会メンバー。

(*10)彼が生きている間 サリット在世中の意。

(*11)プラチャイスリヤー 詩人スントンプーの詩

(*12)スントンプー バンコク王朝初期の宮廷詩人。逮捕投獄二回、流浪など波瀾万丈の生涯を送った。多くの著名な詩・韻文を残した。

プ(*13)ラマハーモントリー ラーマ三世時代の詩人・文学者でかつ高級官僚(警察局長)。戯曲「ラデンランダイ」の作者として有名。ジットはその文芸批評の中でこの詩人を高く評価している。

(*14)ナムプラー 魚から作るタイのしょう油。

(*15)ピロム・プミサク Phirom Phumisak(1928〜) ジット・プミサクの実姉。医科歯科大学薬学部卒業の薬学士。現在(一九八〇年)厚生省地方病院局勤務。著書に「薬学」、訳書にインドの文学「コータン」(ジットが9章まで訳出してあったものを完成させたもの)、その他短編小説、随筆を雑誌に掲載。現在「母、セングン・プミサク」執筆中。

(*16)ジャケー ギターに似たタイの民族楽器。床に置いて奏でる。

(*17)ティーパゴン=ガウィー・ガーンムアン どちらもジットの数あるぺンネームの中の一つ。

(*18)チュラロンコン大学学生会誌 毎年一〇月二三日、チュラロンコン大王記念日に出す学生の雑誌。各学部の代表から成る編集委員会が編集にあたるが、予算は大学当局から出る。

(*19)タウィン・ウイチアンチュム 故人

(*20)スパー・シリマノン 「アクソンサーン」(文芸)編集長、「タイ・マイ」編集顧問。ジットを「タイ・マイ」紙に紹介した。現在新聞学の権威。

(*21)スティー・クプターラック ジットの高校時代からの親友。

(*22)プラウッティ・シーマンタ ジットの友人、釈放後保険会社に勤めたが、七六年一〇月六日血のクーデター以後行方不明。タイ解放戦線に参加したと言われる。

(*23)ピニット・ナンタウィジャン ジットの友人、現在「タイ・ラット」紙の記者。

(*24)ソムチャイ・プリーチャージャルン ジットのぺンネームの一つ。『ニティサート二五〇〇年特集号』の彼の論文は「タイ封建制の素顔」で、ぺンネームはソムサマイ・シースートパンであるから、これは著者の記憶違いと思われる。

(*25)アイラン 禿公、禿助、というほどのあだ名。

(*26)テープ・チョーティヌチット 弁護士、シーサケート県選出議員、エコノミスト党党主。一九五七年他の三党と合同して社会主議戦線党を結成。

(*27)「背中で空と闘い、顔で泥と闘う」 炎天下の田圃で働く農民のつらい労働を表現したタイの言いまわし。

(*28)パカマ タイの男性用水浴布またはサロン。

(*29)グイヘン 中国人が着ているつめ衿前門きのシャツ。

(*30)サバートイ タイの伝統スポーツの一つで、木のボールを指ではじいて点を競う。ボーリング設備がなかったため堅い木を丸くけずってボールを作るなど、すべて手製のボーリング。

(*31)ムーセー族 北部の山岳民族の一つ(ラフ族)。

(*32)ゲートニー先生 Dr William J. Gedney 当時タイ国立図書館顧問、アジアの古語古文書学の権威。

(*33)「ウォンワンナカデイ」(文学界)に発表した『石碑より見たピマイ』のことで、この論文について、ゲートニー博士は、「タイの学者が書いたもののなかで最も優れた論文の一つであり、他のいかなる国の学者と比較してもひけをとらない」と絶讃した。

(*34)仏教告発の文 評論『黄衣の妖怪』


底本:『ジット・プミサク――戦闘的タイ詩人の肖像』
    鹿砦社 1980年12月10日発行

水牛公開:2001年8月1日
テキスト入力:八巻美恵


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