水牛のように

2001年8月 目次


Like a Water-Buffalo(3)  御喜美江
英雄達 カラワン(3)     A-DOON
文学館をつくろう       LUNA CAT
書きかけのノート(4)     高橋悠治


タイトルイラストLike a Water-Buffalo(3)  御喜美江


先日ヴィオラの今井信子さんと Deventer という町でコンサートをした。Deventer はここラントグラーフ(オランダ)から約300km北上したところにある人口66000人の古い小さな町。9世紀の頃から産業が発達し、のちにハンザ同盟都市ともなったそうだ。アイセル川とジグザグのお堀に囲まれた旧市内にはその当時を思わせる古い建物が沢山あって、誰もいない細い路地に入ると時間が何百年も戻ったような錯覚を覚える。

ここへは5、6年前に一度ソロのコンサートで来たことがある。その時は11月でオランダの冬にはめずらしい晴天、目に染みるような真っ青な空に対して気温はたしか零下15〜18度くらいの寒さだったので市内を散歩する勇気がなくホテルの部屋でアコーディオンと一緒にじっとしていた。だからデーヴェンターときくといつもブルブルッと震えていたけど今回はうだるような暑さで「こんな暑いところだったのか……」とちょっとびっくりした。

さて、契約書を見ると火曜日の15時となっている。ずいぶんヘンな時間のコンサートだな〜と思ってその会場をドイツ語に訳したらどうも養老院らしい。
(注釈:私はオランダにもう10年も住んでいるのにオランダ語が出来ない。全く恥ずかしいことだがオランダ人って少なくても2ヶ国語、普通4カ国語くらい完璧に話すのでオランダ語を話さねば困るということが全然ないのだ。それでおぼえない……)
その日は今井さんと13時に到着、やっぱり養老院だったけどすごく高級のそれらしくホテルのレセプションみたいなカウンターが受付、美容院もブティックもある。会場に案内されたらけっこうちゃんとしたホールがあるので2人で感心。それぞれのアパートはバラ園や池、噴水などに囲まれ、テラスにはきれいな椅子やテーブルが置かれていて全体がとても明るい感じだったので、いいな〜、と思って「こんな養老院に入るのって大変なんでしょうね。お金も沢山要るし」と私が言うと、今井さんは「こんなところで暮らすくらいなら死んだ方がまし」だって。「若い人がいないじゃない、年寄りばっかりとは暮らせないわよ」と。でもバスの停留所がすぐ前にあるからそれに乗ってあのきれいな旧市内に出て買い物したり映画見たり美味しいもの食べたり……してれば、死ぬよりはこっちのほうが私はいい。

1995年、高橋悠治さんは今井信子さんとわたしのために
『白鳥が池をすてるように』――ヴィオラとアコーディオンのために
を書いてくださった。題名は「ダンマパダ(法句経)」の次の一節からとったと作曲者の解説にあるので引用させていただく。

  注意ぶかい人たちは立ち去る、かれらは家をたのしまない。
  白鳥が池をすてるように、かれらはこの家あの家をすてる。

この日のコンサートで私たちはこの曲を弾いた。
曲の最後にパーリ語の原文が南方仏教の様式で唱えられるが、楽器の音はだんだん小さくなって演奏者の声だけが残るので、楽器の中からも声が出てて、それだけが残るような終わり方をする。ヴィオラ奏者はアコーディオン奏者の左うしろに立っているので私からは見えないけどよくきこえるし、それを聴きながら反応していくのが面白い。ほんとうは薄暗い照明なのだがここでは暗くは出来なくて、明るい光の中での演奏になってしまったけど、初めて聴くこの曲におじいさん、おばあさん異常なほどの興味を見せてくれた。コンサートが終わって主催の責任者の方(87歳の元気な男性)がこの日楽屋となった事務室にいらして私たちに「白鳥をわざわざやってくださって感激でした。」と言われるので「えっ?」と返答に困っていると「ご存知だったんでしょう、Deventerは白鳥が沢山来るので有名な町ということを? このすぐ前の池にもいっぱい来てますよ」と。わたしはびっくりして、「そう……、 気に入っていただけましたか?」なんてその場を繕ったら、その人本当に嬉しそうに「すごく気に入りました。白鳥の感じがよく出てました」と。 それをきいてわたしは思わず涙ぐんでしまい、嬉しいような悲しいような複雑な気持ちになってしまった。

帰りの車の中から、そういわれてみると本当に沢山の白鳥があちこちにいるのが見えて、デーヴェンターは寒いとか暑いとか古いとか思ってたけど本当は「白鳥の町」なんだとはじめて知った。でも 池をすてる……のは何とも寂しい情景。
『白鳥が池をすてるように』は、今井信子さんと今まで何回も演奏し、レコーディングまでしているがこの日以来ちょっと感じが変わってしまったように思う。次回の本番でも 弾く時はきっとこの Deventer を想い出してしまうだろう。せっかくおぼえたパーリ語のきれいなテキストがしめっぽくなりませんよ〜に。


(2001年7月23日 オランダ・ラントグラーフにて)


[おせっかいな編集部注]
今井信子さんとのデュオ『白鳥が池をすてるように』は以下のCDで聴けます
Into the Depth of Time(BIS-CD-929)
 (国内ではキング・インターナショナルから発売)



タイトルイラスト英雄達 カラワン(3)  A-DOON

豊田さんのステージが始まった お客さんの大きな拍手が始まった そして 豊田さんが出てきた 勉強のつもりで ずっと見つめていた さすが 大先輩だな とても素晴らしかった

豊田さんは太鼓の人と一緒に演奏した 曲の内容は深くて 演奏は素晴らしい パフォーマンスもよかった 本当に勉強になった 長く日本に住んでいて 初めて こういう演奏家と出会えて 実に嬉しかった
そこで 気が付いた 

そういえば 日本は カラワンみたいな音楽をやっている人は見たことないな しかし ぜったい どこかにいると思って 詳しい人に訊いたら やはり いないそうだ それは驚いた なぜかというと タイではカラワン みたいに「生きるための音楽」「命のための音楽」 といわれる音楽をやっている人は 山ほどいる どこ行ってもいる けれども 生きるための音楽 といえば カラワンを思い出す 伝説的なバンドだ

生きるための音楽 は どういう音楽なのか

本当の意味は知らないが 考えてみた結果 こういうことではないかと思う

1 歌詞のある音楽
2 どんな芸術 音楽も 何かについて語っている 一番多いのは 二 つある 人生 と社会 だ 生きるための音楽 の歌詞は どちかというと 社会についての要素が多い 歌詞のない曲は 曲名で表すかもしれないが 今まで 生きるための音楽の中で カラオケ以外 歌詞のない曲はまだ聴いたことない
3 その社会の中の歪んでいると思っていることを指摘する やり方は 直接的 間接的 捻ったり などと いろいろある

話は演奏会の方に戻りましょう

豊田さんの演奏はだんだんと盛り上がって そして 終了 非常にいい演奏を見せてもらったという感じ
そのあとは カラワンの出番だ お客さんはもっと 興奮した

今回のカラワン演奏会は 初期のメンバー 四人が来た 
皆が待っていた さっきまで 観客の後ろで 宴会をやっていた四人がステージに上がった 拍手や掛け声が 大きく鳴り始めた

A-D00N のホームページにもどうぞ)



タイトルイラスト文学館をつくろう  LUNA CAT

ソニー銀行の設立者が金融監督庁に行って「あの〜、銀行をつくりたいんですけどぉ〜」と言ったところ、担当者が絶句した……という逸話は、すっかり有名になった。合併したり分離したりして新しい銀行ができた話はきくけれど、他業界から参入して一からつくったという話は、それまできいたことがなかったところをみると、どうやら銀行というのは、日常茶飯事につくるものではなさそうだ。

銀行ほど珍しくはないにせよ、文学館というのも、地方自治体の文化担当者でもない限り、そうめったにつくるものではないような気がする。しかし、世の中には、自分たちの手で文学館をつくろうとする酔狂な(?)人々も存在するのである。一般市民が中心となって文学館づくりに奮戦するという、なんとも水牛めいた話に、どういうわけか私も仲間入りすることになったのだった。

     *

実をいえば、二十一世紀を迎えた現在に至るまで、広島市には、文学館がない。原民喜や大田洋子ら、原爆をテーマとした作家たちの知名度は決して低くはないし、世界文化遺産もあり、プロ野球チームもプロサッカーチームもあることを考えれば、何とも不思議な気がするのだが。

今年のはじめ頃、被爆建物である旧日銀広島支店ビルで原民喜展が開催されるという記事とともに、この建物を文学館にしようという活動がスタートしていることを知った。建物が広島市に無償貸与され、その有効活用策が夏までにまとめられるのを受けて、市民団体が「ぜひ文学館を」という活動をすすめているとのこと。記事を切り抜いておかなかったために開催期間がわからず、結局、原民喜展を見に行くことはできなかったのだが、「広島に文学館をつくる」というキーワードは、ずっと頭のすみにひっかかっていた。

     *

本というものは、そのつもりでしっかり保管しておかなければ、人の目にふれる場所から、いつしか姿を消してしまう。広島が生んだ「原爆文学」と呼ばれる一群の作品も、いまのうちに「そのつもりになって」おかないと、取り返しがつかなくなるかもしれない。そう考えた市民の有志が「広島文学資料保全の会」という会を立ち上げたのが、1987年のことだったという。この会が、のちに「広島に文学館を! 市民の会」となり、現在に至る。

地道に資料の収集や分類、記録を続けていくにつれ、それらの資料をいかにして保管し、残していくか、ということが切実な問題となってくる。本の「利用」という側面を担う図書館が保管の中心になるには限界がある。分類、保管すると同時に、公開し、人の目にふれる場所に置くということも考えあわせると、文学館という選択肢が浮かび上がってきたようだ。

     *

旧日銀ビルの文学館としての姿は、7月下旬から8月にかけての「原爆文学展 5人のヒロシマ」で、仮に公開されることになった。資料が並んでいるところを実際にまのあたりにして感じるのは、建物も文学資料と声をあわせて、見る者に語りかけてくるということである。たとえば、津和野にある森鴎外記念館は、まあたらしく斬新な建物で、鴎外の生きた時代と結びつく要素は全くない。建物の力を借りずに資料を見ることができるという意味で、それはそれで意義があるのだろう。原爆文学を展示する場所としての旧日銀ビルは、それとは正反対の極みにある。そこに並べられた資料と建物とは、渾然一体となって見る者に迫ってくる。その存在感は強烈だ。

旧日銀ビルの用途は、5人展の開催期間中も、まだ決定していない。広島市に初の文学館が誕生するかどうかは、現時点では不明である。しかし、市民の手によるコンテンツ収集からはじまり、被爆建物という場の力を持つ文学館は、実現の暁には、「箱モノ」と呼ばれるそれらとは一線を画するものになることは確実だろう。


     *

そのいっぽうで、文学というものは、建物はもちろんのこと、紙という物質からも離れて、ネット上に存在することもある。そして広島では、リアル文学館と並行して「ヴァーチャル文学館」構想も進行中なのである。

青空文庫との出会いからさかのぼること十数年。世の中に16ビットのパソコンがお目見えするかしないかという頃、私は、在学中の大学の研究室で、フランス語の「テキストの入力」のアルバイトをしていた。もちろん、それから十数年後にインターネットが爆発的に普及するなどとは夢にも思わなかったし、日本語でテキストを入力してインターネット上で公開する活動に加わることになろうとは、考えてもみなかった。人生というものは不思議なもので、十数年後、バイト先の研究室の先生は「広島に文学館を! 市民の会」のメンバーとなり、私は青空文庫の呼びかけ人となっていた。行くことができなかった原民喜展から約1ヶ月後の今年4月、ヴァーチャル文学館の実現のために力を貸して欲しいと頼まれ、文学館をつくるという世にも珍しい体験をはじめることになったのだった。

     *

広島市が一面の焼け野原から立ち上がる過程で、市民は自分たちの手でプロ野球の球団を育てた。それから五十年後の二十一世紀に、ふたたび市民の手で、こんどは文学館が育っていくかもしれない。そう考えるだけでも、わくわくしてくるではないか。そして、広島に続き、日本中のあちこちで、「あの〜、文学館をつくりたいんですけどぉ〜」と言い出す一般市民が出てきて、文学館ネットを作ることができたりしたら、それこそ本望というものだ。

まだまだ道のりは長いけれど、水牛ペースで、草でも食べながら、ゆったりと歩いていければいいと思う。




[おせっかいな編集部注]
LUNA CATさんによる旧日銀ビルでの「原爆文学展 5人のヒロシマ」のレポートが
青空文庫読書新聞ちへいせんの文学館あちらこちらで読めます。写真つきです。



タイトルイラスト書きかけのノート(4)  高橋悠治

森茉莉「私の印象に残ったのはクライスラアの小さな曲の最初の音だった。会場は粗末で狭く、来ている人も地味で、学校の教室のようだった。クライスラアが出て来て一礼し、そうして弓を楽器にあてる。その最初の音の静かさは、私の心に浸みた。その音は木の葉の散る音のように静かだった。天地の間の自然の音で、あった。
「楽しい音、心に浸みる音が、「音楽」だ。それが人生の楽しさだ。私はただそう思う。(音と生活)
森茉莉はまた、雪国できいた、深い雪の上に雪の降り積もる、音のない音を思いだしていた。
音のない音。クライスラアの弓は、楽器に触れる前から音もなく空中を滑る。その音のないうごきが音を呼びよせる。
微かな音。手のひらにのせた金属の碗をおどろかさないように棒でそっと触れてよびさまし、あらためて棒をあてて音を招く禅の作法を、ティク・ナット・ハンはくりかえし語る。ベトナムでは打つ音とは言わない、音を招くのだ。
音をあるかないかの涼しい風として皮膚に感じる力を持つ人たちがいる。
地震のすぐ前の一瞬の気配をはらんだ静かさのように、音にさきだつ静かさは心を遠くへさそいだす。
遠い響きを感じる心は耳のなかで揺れる高い音に気づく。その音は耳に入り心に浸みる音のすべてを、翻るヴェールのように透して鳴りやむことがない。遠くをきくからだは意志を持たない。心は記憶にみたされていない。からだのわずかな傾きも、心をよぎるふとしたことばも、音でない音を透して一瞬のあいだ照らされ、飛び去っていく。
音楽でいっぱいの、いまの生活から失われていく、音のない音、遠い響き、微かな音。それらがなくなることはない。風のないところで額に涼しい風を感じればいつでもよみがえる。

     *

フロリダの海岸で宇宙船の打ち上げを見たことがあった。
何時間も前から、砂浜は人でいっぱいで、みんなおとなしく南の空を見上げている。 そこからは見えない宇宙センターからのニュースが中継されて、期待が高まった時、水平線の向こうから細長い金属棒が飛び出した。煙を曳きながら雲をくぐりぬけ、もう一段上の雲のなかに消える。それだけだった。

空はなぜ青いのか。飛行機で空にのぼっても、窓から見えるあたりの空気は青くない。雲があり、光がある。青空は遠くにしかない。どこまでいっても、青空には入れない。宇宙船に乗った人たちの見る空は黒い。空はどこから黒くなるのか。青は黒を隠して青いのか。それとも、青とは光に照らされた黒なのか。

一九七○年頃のことだった。シベリア上空をすぎて、飛行機は海を越え、関東平野に入る。窓から見おろしても地上は黒い霧につつまれて、何も見えなかった。羽田空港に着き、飛行機のドアがあくと、魚臭い熱気が流れ込んだ。地上に立って見上げると、空は青かった。青はどこにあり、黒はどこにあったのだろう。

空は青い。だが青空はどこにもない。朝起きて空を見る。空の色はいつもちがう。おなじかたちの雲はない。風もいつもちがっている。昔は、夕方西の空を見ると次の日の天気がわかった。いまはもうそれはやらない。天気予報をきいて雨の確率を知る。予報はあたらないことがおおい。たくさんの要素をふくむ計算は、ちいさなちがいでも、全体の方向がすっかり変わることもある。庭のなかをどのように歩いても、庭は変わらないように、確率では、たくさんのできごとのどれが次に起こっても全体のなりゆきは変わらない。だが明日は一日しかない。曲がり角で道をまちがえれば、二度ともとにはもどれない。予報では10パーセントの雨でも、降りだせば100パーセントの雨だ。

西の空を見ていた人間は、どんな複雑な計算機械よりも、気象全体を感じることができた。人間にはどうして今日の天気があるのか、なぜ明日は雨になるのかはわからない。西の空の夕焼けを見ても、夕焼けがあるから明日は雨になるとは言えないだろう。機械のように経験をかさねて推論するというよりは、今日はよい日だったが、それはいつまでもつづかないと知れば、からだを気象になじませ、気象が遠い空にあり、からだがこちらにあるのではなく、からだと気象の通い路を見定める。そうなれば、天気が崩れるのもわかるようになるのだろう。

朝起きて空を見る。なにげないようなしぐさでも、からだは気象の流れにひらかれる。世界をからだに写す古代人のやりかた。楽器の調べもそのなかにかぞえられる。バリでは、吹き抜ける風が鳴らす長い竹竿スナリが気象をよむために使われた。指穴をもつ笛だけでなく、絹糸を張った琴や、柱を立てる箏も、漂う気象を読み出す装置だと言えないだろうか。どのような装置を通しても、気象の変化はからだに刷り込まれ、心は気象図を映しだす。


(これまでに書いたテキスト、スケジュールなどは、「楽」にあります)



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