水牛のように

2001年11月 目次


ジット・プミサクとワシット警察中将(1) 荘司和子
インドネシアあれこれ           西沢幸彦
あしたからは冬時間            御喜美江
歩いている彼女              片岡義男
朗読会の一風景 えんぷてぃ・わ〜ず    三橋圭介
書きかけのノート(7)          高橋悠治
武器の危険を静める祈り         永沢哲・訳
                   



イラストジット・プミサクとワシット警察中将(1)  荘司和子


御茶ノ水駅前にニコライ堂という古いロシア正教の聖堂がありますね。そのニコライは、書物で出会った高田屋嘉兵衛という日本人に感銘を受けてどうしても日本へ行きたいと思ってやって来たのだということ。司馬遼太郎の『菜の花の沖』という本の中で最近知りました。ひとりの個人に感動したことで生涯その国と関わり続けることになったという意味でいうと、ジット・プミサクはわたしにとってそんな出会いとなったタイの詩人でした。

「タイに金芝河のような詩人がいる」という李恢成の書いた雑誌記事がきっかけでした。ようやく手に入れたジットの詩を苦労して訳しているころ、もうすでに訳されたものを掲載した『水牛』という新聞を手にしていたのが八巻美恵さん、だったのです。訳者は高橋悠治さん。
 
70―80年代のタイはたとえて言えば現在のインドネシアのような状況で、民主化闘争と反動、弾圧が一進一退を繰り返し、たびたび血が流される事態が起きていたのでした。そんな中で彼の詩や評論、彼がどう生きどう死んだかは当時の活動家たちに巨大なエネルギーを与えました。ジットの思想的影響を受けた活動家のひとり、カラワン楽団のスラチャイの詩を見てもそのことが窺い知れます。

 彼は死んだ 森のはずれで
 イサーンの地を 赤く染めて
 いつまでもいつまでも 赤く染めて
 彼は人知れず 死んだ
 が その名は今にとどろく
 人びとは その名をたずね
 すべてを知ろうとする
 その人の名は ジット・プミサック
 思想家にして著述家
 人びとの行く手照らす灯り

(『ジット・プミサック』部分)

ジットは古典詩のすべての詩形、地方の民謡の詩形、新体詩などあらゆる詩形を自由自在に書くことができた詩人として、現在も誰も彼を超えられないという評価を得ています。当時のわたしのタイ語力でそんな作品を訳そうとすることは無謀な試みで、そんなつたない訳詩が20年以上を経た今、ネット上の水牛によみがえったのですが、ちょっと恐ろしくて正視できないというのが正直な気持ち。

タイ語は中国語とよく似た言語で、タイの詩は漢詩のように母音をそろえて脚韻をふみます。漢詩のように平音、促音をシンメトリックに対照させていくということはしないのですが、第何番目の音節は声調をそろえるというきまりがあって、散文とは語順が異なることがしばしば。その上日常では使わないサンスクリットやパーリー語起源の単語があたりまえに出てくるので初心者のわたしには難解そのもの。当時はタイ―日辞典もなくてもうお手上げの状態でしたが、それを自ら買って出て助けてくれたのが留学生のバンヤットさんでした。悠治さんの訳を助けたのも彼だったとあとで、聞きました。(バンヤットさんは帰国後タマサート大学教授を勤め、その後癌で亡くなりました)

スラチャイの詩に「人びとはその名をたずね すべてを知ろうとする」とあるように、わたしも手に入る限りの作品や資料を集めまくったのでした。とはいえまだ76年の血のクーデタから間もないころで集めるのも困難な作業でしたが。

そんな風にして1980年にようやく出来上がったのが『ジット・プミサク −戦闘的タイ詩人の肖像』という本で、彼の詩人としての側面をはじめて日本に紹介したものです。160ページほどの本で半分が彼の詩、後の半分は彼の親族や友人たちによる解説や思い出で構成してあります。ジットは詩人のように生き、詩人のように死んだのですが、彼の残した作品の量でいえば圧倒的に多いのは、歴史学、文化人類学、言語学などの分野でのタイ研究の成果です。詩はここに収録したものが主なものでそれほど多くはありません。

* * *

今日(10月8日)ついにアメリカの報復爆撃が開始されました。水牛の10月号を開いてみたら同じ考え方の人ばかりで、すこし「ためいき」が止まって連帯感みたいな暖かさを感じました。




イラストインドネシアあれこれ  西沢幸彦


高橋悠治さん、美恵さん、高田和子さん、西陽子さん、私。「水牛」と「糸」の混合アンサンブルのインドネシア行きである。予期していたことであるが、予定が目まぐるしく変わるのである。何がどう変わろうが、9月はこの演奏旅行のためにあけてあるので一向にかまわないのであるが……。「東南アジア旅行」を予感させる幕開けである。東京で何回かリハーサルらしきものをやって、9月13日に機上の人に。機上の人なんだが、ご存知、米国のテロの2日後である。ただでさえ嫌いな飛行機。気味が悪いのなんのって、居心地の悪さは天下一品。しかし、男、50ウン歳、そんな素振りはおくびにも出さず、平然とかまえる。それにしても腰が浮く。なんとか無事にとの念が通じ、ジャカルタ到着。うーん、暑い。

主催者の人々が迎えに来てくれる。が、3、4人の役割がどうなっているのか、見当がつかない。インドネシアでも携帯電話なる便利なものが普及していて、さかんにどこかへ連絡している様子。何でも交通渋滞で迎えの車が遅れるらしい。30分もすると、このようなことが判明する。大丈夫、大丈夫。こんなことくらいでいらついたり、あせったりしやしない。こちとら成田を出発するときから、覚悟はできているんだい。1時間、交通渋滞で車は遅れるらしい。そうだろう。ここはジャカルタだ。2時間ほどすると、やっと迎えの車がやってくる。あー東南アジアに来たなー。着いて早々、東南アジアを味わわせてくれて、感激。ありがとう、ありがとう。

換金をした。とりあえず、1万円をルピアにしてみた。なんと70万ルピア位である。5万ルピア札、10万ルピア札がある。このときからルピアを円と呼ぶことにした、5万円札、10万円札である。懐が温かくなった。いつものことであるが、旅先の予備知識がない。事前に調べていかないのである。そうしているわけではなく、そうなってしまうのである。そんなわけで、自分の泊まっているホテルの場所もわからない。というわけにもいかず、地図を買うことにする。ジャカルタの町の、である。本屋に行き買い求める。5万円(ルピア)札を出し、釣りを待っていると、他にも何かほしいのか、ああ、レシートが必要なのか、などと言ってくる。おつりがほしいと言うと、おつりはないと言う。驚いたことにジャカルタの地図が5万円(ルピア)であった。さあ弱った、今もって1ルピアがいくらか、1円が何ルピアかよくわからないが、地図が5万円(ルピア)であることははっきりわかった。

8月27日から9月27日までの1か月間、アートサミットという催しの中でのパフォーマンス。われわれは9月16日、17日の2日間である、各国から、ダンス、音楽、芝居となかなか大規模な催し。高田さんの「三絃」、西さんの箏と唄「あをもりがえる」、全員で悠治さんの作品「悲しみをさがすうた」、美恵さんの太鼓をたたきながらの歪んだ歩行。素っ頓狂な声での私の語り。慣れているとはいえ、なかなか衝撃的ではある。後半は富山妙子さんのスライドとのコラボレーション「光州1980年5月」と「きつね物語」。

それにしても、インドネシアの冷房はなんて寒いんだろう。劇場もホテルも涼しいを通りこして寒いのである。音響のスタッフがスキー用のヤッケのようなものを着ていたのには驚いた。我々は半袖、裸足でがんばっているのに。

ジャカルタ滞在中、何人かの家への招待を受けた。ちょっと偉そうな(たぶん偉いのでしょう)スコ・ハルジョノ。怪しい、明るい怪老作曲家スラマット・シュークル。両家でのインドネシア料理付きのあたたかいもてなしは、仕事、観光でのホテル滞在とは違ったゆったりとした時間、いやー、ほんとうに満足。

国民の9割がイスラム教だという。当然、豚肉は食さないのであるが、その分鶏肉が主流をしめているようである。この鶏がめっぽう美味い。料理のしかたではなく、肉質のことである。日本ではブロイラーが主流で、これは半ば人工的に飼育しているために肉質にしまりがなく、食味も大味、ひどいのは気のせいかもしれないが、何がしかの臭いが感じられるときもある。かの地では、どこで食べても身のしまりもよく、何より肉に味がある。次回はそのあたりを解明するべく、鶏の飼育方法を聞いてみよう。たぶん平飼いという放し飼いだと思うのだが。

さて、さて、リハーサル1日、本番2日を含め、5日間のジャカルタ滞在も過ぎ、明日はソロという町に行くらしい。(次号に続く)



イラストあしたからは冬時間  御喜美江

このごろ、思いもよらぬ出来事が突然起こることが多いので、その度々びっくりしたり、わあわあ騒ぐだけの時間とエネルギーが減ったように思う。「えっ?」「うぅ〜ん……」と声に出したら、あとは静かに何とか平常どおり暮らすようにしている。(でもそれは自分がまだ直接、大きな悲劇や大惨事に接したことがないからかもしれない。)

3週間前ドイツに戻る前日、フライトチケットを予約してあるサベナ・ベルギー航空から電話が入り「申し訳ございませんが、明日のブリュッセル行きSN208便は欠航となりました。お客様はスカンジナビア航空のコペンハーゲン経由デュッセルドルフ行きをご利用ください。予約はそちら入っております。」という。あっ、またとんだハプニング! と内心別にびっくりもしないで、でも驚いたふりをして 「まあ! おとといの予約再確認では別に何もおっしゃいませんでしたよ。またどうして?」と聞き返したら「え〜〜、実は事実上サベナは倒産いたしました」と。これにはちょっと驚いた。そしてとても気の毒になったので 「サベナさんには本当に長いことお世話になりました」なんて神妙な挨拶の言葉もすらすら出た。するとむこうは一日中何百人からのお客の文句をきかねばならぬ過酷な時間を過ごしているためか、そのひとことにいたく感激してくれて、さんざんお詫びとお礼を言われ、それがまた私を感激させた。さわやかな気分で受話器を置き、にこにこしながら居間に戻ると母が「何だったの? ビジネスクラスにアップグレードできたの?」なんて嬉しそうに聞くので「ちがう、ちがう、サベナが倒産して明日はSASで飛ぶんだってさ」って言ったらびっくり仰天してしまい、ものすごく心配そうな顔をするので今度は私もちょっと心配になってきた。13日にサベナの便でベルギーに遊びに行くという従妹が井の頭に住んでいるので、すぐ電話して「祐子さん? サベナは倒産しましたよ、旅行どうする?」っていったら「まあ、そう! でもね、この旅行はもうず〜〜っと楽しみにしていたから何が何でも行きたいわ〜」と。「もし帰れなくなったら美江ちゃんのところにおいてね〜」なんてすでに声を弾ませている。(この従妹、重病のお姑さんをもう10年以上も看病しているので、外国から日本帰国が不可能になっても悲しくないみたいでした。)でも数時間後電話が入り、この旅行はボツになったという。

ここ最近「今、この時間を思う存分楽しみたい」と、強く願うようになった。年をとったということもあるし、会って一緒にいてほんとうに幸せ、と思える友人、知人が減ったからかもしれない。コンサートを聴きに行っても、また自分でおこなっても終わったらすぐ退散したい場合が多いし、招待はするのもされるのも面倒くさくなってきた。そのぶん“楽しい時間”は昔よりもっともっと楽しい。そんな時間が10月に入って二度あった。

そのひとつ:
10月1日、3つの初演作品を含めた緋国民楽派のコンサートに出演させていただいた。練習は充分したつもりだったが初めての曲がほとんどで、とても緊張した。そして本番前舞台下手のモニターを見ていたら、高橋悠治さんと八巻美恵さんがロビーに入っていらっしゃるのが見えた。そこで緊張度がますます増した。幸い共演者が本当にみんな音楽を、リハーサルを愛する人たちで(リハーサルを愛さない人の音楽はあんまりパッとしないと私はいつも感じる。)全体の雰囲気がすごくよかったから演奏にもいいエネルギーがもらえて私としてはいい出来だった。演奏会後、近くの居酒屋に関係者のほとんどが参加しその席に悠治さんと美恵さんもいらしてくださった。すぐとなりに悠治さん、そのむこうに美恵さんが座って、飲んで食べて喋ってかたって笑ってまたまた飲んで食べて笑って……。わたしはこの晩がほ・ん・と・う・に、楽しかった! もっともっと一緒にいたかったな〜、と今でも思っている。

「今ここに自分は生きていてなんて楽しい時間の中にいるんだろう」としみじみ思った。最後のほうでプロポリスの話しが出てお腹が痛くなるほど笑った。それでのどが渇いて冷酒を追加。偶然そこに居合わせた旧友ひこさんに「ひこちゃん、冷酒追加!」「はい!」なんて場面もおーたのし。ももちゃんにドイツのプロポリスを一個あげたら、そこから突然プロポリスの持つ無限の治癒効果が話題に上がったように記憶するけど。こういう “ひととき” というのは計画をたてたら実現するというものではない。そして再び同じことをしようとしてもなかなか難しい。

そのふたつめ:
ドルトムント音楽大学創立100年祭の行事で10月20日、私のクラスの中から8人の学生が、市内のあちこちで演奏した。それがみんな素晴らしい演奏だった。それは私にとって本当に大きな驚きと喜びだった。ほとんど3カ月間も夏休みで放っておいたのに、それぞれがものすごく成長していて心底びっくりした。毎週月曜日から木曜日まで一日中授業をするのは演奏活動もしたい身にあってはかなりしんどいが、この日は教える仕事に心から感動してもうこれだけでいいなと思った。

このふたつを除いたら、今月もそれは恐ろしいこと、悲しいこと、信じがたいことがこの地球上で続けられている。テレビのニュースはなるべくいろいろな国のものをみようとしているが、西ヨーロッパのものはどれもにたりよったり。政治をする人はいつも国民のための平和、正義のための戦争、自由の維持、人民の幸福そして何よりも生活の安全!etc. なんて声を大にして主張する。でもその意味を理解することが日一日難しくなる。

来週末バウツェンという町に行く。ここラントグラーフはちょうどドイツ、ベルギー、オランダ3国の国境点だが、バウツェンはドイツ、チェコ、ポーランドの3国国境点。ここからだと汽車で10時間くらいかかる。ドイツ西のはしから東のはしへの旅となる。乗換えがアイゼナッハとドレースデンになっている。どちらも初めて見る町。ここで高橋悠治作曲『水牛のように』を演奏する。詩も演奏前に朗読するけど、この曲は今わたしにとってかけがえのない心のオアシス。ずいぶん前にプログラムを提出したがこの曲をいれておいて本当によかった!

ところで今日の夜中3時に夏時間から冬時間に変わる。一時間寝坊できるというわけ、うれしいな。10月最後のミニ・ミニしあわせ。


2001年10月28日ラントグラーフにて  



イラスト歩いている彼女  片岡義男

落葉を踏む
ひとりで歩く
考えごとをしてみる
しかしいつのまにか
堂々めぐりとなり
おなじことを考えている
いちめんに草が枯れている
美しい
すわってみたい
だから彼女はすわってみる
タイト・スカート
ヒールと細いパンプス
こんなものを身につけて
自分はいったい
なにをしようとしているのか
陽が照る
小鳥が鳴いている
なにかを悔いたい気持ち
なにを?
枯れ草の上に横たわる
あおむけになる
青い空が受けとめてくれる
歩いていく
冬の午後
草がここでも枯れている
陽があたっている
あたたかそうだ
あの草のなかのぬくもりと
おなじあたたかさを
自分のどこかに欲しい
海岸まで来てみた
風が吹いている
その冷たさを受けとめ
自分について自責ぎみに考えながら
なおも彼女は
歩いていく。

『yours―ユアーズ―』(角川文庫 1991年)より




イラスト朗読会の一風景 えんぷてぃ・わ〜ず  三橋圭介


時は1977年 場所はイタリア ミラノ 白髪のまじった髭をたくわえ ジージャンに身を包んだ初老のアメリカ人 たくさんのノートやソローの本をかかえ 男は舞台の中央におかれた机にそろそろ歩み寄る 3千人を収める客席からおおきな拍手 男は緊張しているどころか へらへら笑顔さえうかべている 聴衆に一瞥することなく 男は椅子にすわり 作法のごとくゆっくりとノートをひろげ 読みはじめる

theAf(じぃあふ) perchgreathind(ぱーち・ぐれーとはいんど) and(あ〜んど) ten(てん〜)
have(は〜ぶ) andthewitha(あんどじぃ・ういずあー) nae(にー)
thatIas(ざっとあいあず) be(びぃ) theirofsparrermayyour(ぜあーおふすぱる〜る〜めいゆあー)
hsglanruas(はずぐらあのろ〜〜〜あす) theeshel(じぃうしぇる)
not(のっと) er(あー) n(ぁんー) housthe(はうすじぃ) ing(いんぐ) e(うー)
- shaped(しぇいぷとっ) wk(いっ); Wid(うぃっど) n(うん〜) pstw(ぱっす〜〜〜〜〜) ety(ぇてぃ) 

男は意味不明の造語をよれよれと呪文のように語り 歌う 大勢の聴衆がかたづをのんで聴き入っている・・・・4分53秒 聴衆のひとりが朗読の静けさをうち破る 「おいおい、まともにしゃべれーねーのかよ! イタリア人だって英語くらいわかるんだぞー」

男は動じることなく唱えつづける 9分4秒 会場がざわめきだし 拍手、男が一言話しはじめると拍手で応戦 「もうわかったよジョン」 野次は激しさをましていく 誰かが立ち上がる 「静にしろ ききたくねぇ奴はでていけ」 だれもでていかない 

ふたたび静けさがもどる 13分43秒 また拍手 男が奇妙な声を発すると拍手でちゃかし、ぴゅーぴゅー口笛  17分・・・18分19秒・・ざわざわ 思い思いに話しはじめる

会話1「クレージーだね」 「アメリカ人なんてそんなもんさ 前衛ってそんな変わり者のことをいうのさ」 「だったらめちゃくちゃにしてやるか それも偶然ってわけさ」

会話2「ねえ これって何なの?」 「ソローのテキストの言葉を偶然によって再構成しているんだ テクストの脱中心化ってこと あいつはソローの自然を崇拝しているんだ だから何もつけ加えることなく 意味をかき乱し 時間と共に消滅して痕跡も残さないようにしているんだ つまりえんぷてぃ・わーずっていうのは無駄話ってことで 無駄に意味を見いだしているわけ」 「ふーん 全然わからないわ わからないところが前衛ね」

さわぎは次第に激しさを増していく 座布団は飛び交い プログラムは切り裂かれ 一部の聴衆はまるでサッカーの応援みたいに「おーれーおれおれおれ〜 ジョンは〜おばかさん〜 おーれーおれおれおれ〜 金〜を〜返せよ〜」 しかし男は何もないかのように淡々とつづける でもそれが騒ぎを増幅させる 暴言を吐き、手拍子で妨害し 歌う 一部の聴衆は結束を固めて妨害をはかる 30分もしないうちにもう収拾はつかない 

騒ぎのなかから こんな会話もきこえてくる

会話3 「うんざり! 家に帰ってピアノでも練習してたほうがまし でもなんであんな風に平然とつづけられるわけ」 「ありゃヒッピーの生き残りさ おれたちも何かやらなくちゃ あっ こんなところに爆竹・・・」 「ばん ばーん」(キャー)

会話4 「ねえ、帰りましょ 何も起こらないし つまんない」 「何言ってるのよ 十分起こっているわ ストラヴィンスキーの「春の祭典」の初演の時みたいに わたしたちはいま 歴史の決定的な場面に遭遇しているのよ」 「何?それ」

会話5 「これは歌なの? それとも詩?」 「えっ 何? 聞こえないよ」 「これって何?」 「ああ 奴はまえにこんなこと書いてたよ 音響が言葉という形をとるとき 講演は音楽作品になる(バンバンバーン・・・)言語にたいして 等辞法以外の何かがやってくるのを待ちながら それがまるで何かわけのわからない言葉に変換可能なひとつの音源であるようにふるまう ってね」 「構造のない時間のなかに 薄れて消えていく等辞法・・・それって時間を開くってこと?」 「まあ そんなとこかな 奴はむかし馬鹿騒ぎしているこいつらを 「口のなかに耳」があるっていったけど 朗読する奴こそ「口のなかに耳」があるともいえるんだ だってかれだけが世界から聴いたものをそのまま語ることができるんだから・・・」

喧嘩やものを投げたり、暗闇の喧噪に便乗して愛し合うカップル・・そんな時 業を煮やして数人の男が立ち上がり ソローのドローイングを映し出していたスライド・マシーン壊わしにかかる(男は「ああっ ソローの美しいドローイングが・・・」と 心のなかで呟く) でもスライド係が必死に応戦 窮地を脱出 一方舞台に駆け上がった数人は 男めがけて突進 机の照明をぶち壊し(バン!) 男のめがねをひったくる うろたえる男 でも心ある人がめがねを取り返して男に返す 電球も誰かが取り替えて 朗読は罵声と騒音を浴びながら2時間半つづいた

ようやく終わって男は立ち上がる 腕をおおきく開き 聴衆を包み込むように抱きしめるジェスチャー その時割れんばかりの拍手が男を包み込んだ

あとで男はいった 「かれらはだれ一人として 立ち去ろうとしなかった 立ち去る代わりにかれらは 行為を行うことで わたしと結びついていたのです わたしはかれらの何かを破壊し かれらは私の何かを破壊した」

Why is it so difficult for so many people to listen?
(多くの人にとって どうしてそんなに聴くことが難しいのか?)
Why do they start talking when is something to hear?
(聴くべき何かがある時に どうしてかえらはおしゃべりをはじめる?)
Do they have thier ears not on the sides of their heads but situated inside their mouths
(かれらには頭の両側じゃなく 口のなかに耳があって)
so that when they hear someyhing their first impulse is to start talking?
(だから何かを聴いた時に話したい衝動に駆られるのか?)
The situation should be made more normal,don't you think?
(状況を正常にすべきだって思わない?)
Why don't they keep their mouths shut and their eras open?
(どうして口を閉じて 耳を開くことができない?)
Are they stupid?(かれらは愚かなのか?)
And,if so,why don't they try to hide their stupidity?
(そうだとしたら どうしてその馬鹿さ加減を隠そうとしないのか?)
Were bad manners acquired when knowledge of music was acquired?(音楽の知識を身につけた時 不作法も身につけてしまったのか?)
Does being musical make one automatically stupid and unable to listen?
(音楽的であることが 愚かで聴くことをできないようにしてしまったのか?)
Then don't you think one should put a stop to studying music?
(それなら音楽の勉強なんて 止めた方がいいって思わない?)

(「陰暦月刊ミて(詩と批評)」より転載)  



イラスト書きかけのノート(7)  高橋悠治

長いこと音楽をやってきた
作曲 演奏 即興と分けられている そのことが
音楽をやりにくくしている
作曲は 本来は演奏者のするべきことである細部を
あらかじめ決めて書いてしまう
演奏は その時その場に対応するかわりに
過去に書かれた指示にこだわっている
即興は 競争と決まり句の羅列以上のものにならない

音楽という領域が 独立して自己完結しているのもおかしい
音楽界はますます現実と遠くなっていく
音楽家が音楽家としかつきあわず
音楽のことしか考えず
音楽のために生きるようになっていくにつれ
音楽は だれとも関係のないものになるばかりだ

しかし このような事情は 考えても変わらない

さしあたっては 作曲でない作曲 演奏ではない演奏
即興でない即興をすることだ

以下にまとめたのは
作曲のなかで以前からためしてきた 演奏のいくつかのやりかたを
まとめたものだ

演奏指示集

音をメロディーではなく 音響空間にひろがり やがて色褪せていく
別々の色彩として聴くこと

演奏者は お互いに離れて座る
時々移動してもよい
照明はほの暗く

不完全な調律
楽器はいっしょではなく 応えあって
できるだけ調子はずれに
アクセントなし アタックなし
弦楽器は 弓の張りをゆるめる
速度を変えながら 普通の奏法から木の部分まで弓を回転させる
普通使わないポジジョンの使用
管楽器はタンギングなし 息の量を変えながら口腔内の形を変える
替え指によるピッチと音色のちがいを調整しない

書かれた音は即興の素材であり そのまま演奏する必要はない
不規則な間
音の長短には規則性なく
短い音は何気なく
こどもが手にしたものを落とすように

書かれた音を ページのあちこちから見えたように演奏する
あるいは音列をきままに往復する
あるいは見えた箇所にしばらくとどまり
順序を変えたり 外したり 即興したりする
手が逸れるように
まちがいにしたがう

計画せず
考えず 意図せず
くつろいで 敏感に
息を詰めない
コントロールをすこしゆるめる
つまずきながら弾く
あるいは
風の中の蝋燭の炎のように不安定に
次の音に転げ込む
不確かな指が位置から滑り落ちたかのように
意図しない曲がりのように
規則性のない微分音的ゆれうごき

毎回新たにはじめる


(これまでに書いたテキスト、スケジュールなどは、「楽」にあります)




武器の危険を静める祈り


オーム・マニ・パドメ・フーム

勝利者たる慈愛のブッダ・マイトレーヤ、
至高なる観自在菩薩、
憤怒の勝利者たるハヤグリーヴァ、
純浄なる聖ターラ、
その聖なる御名を耳にするだけで、すべての危険が取り除かれる帰依処、
慈悲を本性とする方たち、どうかお見守りください!

いくさの時代にあって五濁に汚された有情たち。
悪しきカルマと嫉妬が噴き上げ、
激しい戦いに荒れる苦しみの大海を、
彼岸にいたった知恵と慈悲の力によって、
乾かせてください!

燃え盛る怒りの炎のなかで、生きまどう迷える生きものたちに、
大いなる慈愛の甘露の雨を降らせ、
お互いが親だったことを思い出させてください!
喜びと吉祥が増し栄えるように、加持を与えてください!

心の連続体に入りこんでは、
人の心を阿修羅に変じさせる
無数の悪霊たちが、
この後、断じて世界を走り回りませんように!

悪しきカルマの因果によって、
戦いの中で死んだものたちもまた、
極楽浄土に往生し、
他の者たちを浄土に導いてくれますように!

生死の中にあるすべての生きものが
長寿に恵まれ、病なく、
すべての言い争い、戦いが静まり、
十の優れた徳を楽しみますように!

正しい時に雨が降り落ち、
変わることなく、よき実りが得られますように!
住む場所にも、生きものたちにも、
吉祥が溢れ、いやさかに栄えますように!

清らかな法性と
過つことのない因果、
慈悲深き導師、心を封印する本尊、
宝のごとき至高の方たちの力によって、
純粋な祈りの言葉が実現しますように!

* * *

―チベットのカム地方、ミニャクの地に戦乱が打ち続き、誰も、平和をもたらすことができなかった時、大いなる成就者の主タントン・ギャルポは、和平のため、カムにいらっしゃった。ただ、悟りに向う心を起こし、この真実の言葉を口にし、花をまかれただけで、すべての怒り、嫉み、悪しき心は静まり、止むことのない戦は終結した。彼の地には、大いなる実りがもたらされ、国には吉祥と平和が満ちた。加持ある金剛の言葉である。

この翻訳を作った功徳によって、この祈りの書かれた経典が置かれ、唱えられるあらゆる場所において、人々の心が慈愛と菩提心、利他に満たされ、他の生命を害そうという思いから完全に解き放たれますように! 平和と幸福の太陽が昇り、すべての戦いが、ただちに止まりますように! 調和と平和が広がり、戦いや暴力がなくなりますように!

2001年9月21日、報復のためにアメリカの航空母艦キティホークが自衛隊の護衛艦とともに横須賀を出港し、インド洋に向った日、日本国東京都稲城市のデチェンリンにおいて、永沢哲が訳した。

(転送、引用を歓迎します)  



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