水牛のように

2001年12月 目次


ジット・プミサクとワシット警察中将(2) 荘司和子
インドネシアあれこれ(2)        西沢幸彦
落ち葉と猫と吹雪の11月          御喜美江
TWO                   三橋圭介
書きかけのノート(8)          高橋悠治
                   



イラストジット・プミサクとワシット警察中将(2)  荘司和子


カラワン楽団の4人は11年後ジット・プミサックのたどった軌跡をたどることになりました。ジットは詩を書いたために“コミュニスト”の烙印を押されて6年間獄中にありましたが、釈放後も暗殺者に狙われ続けたため、1965年11月東北サコンナコン県プーパン山脈の共産党根拠地に逃れたのです。スラチャイたちは1976年のクーデタで右翼のテロが猛威を振るうバンコクを逃れてやはり、共産党の解放区へ逃れることになりました。

カラワンの4人は1982年ころみんなバンコクに生きて戻ってくることができて、そんなわけでわたしたちは彼らと日本で出会うことになったのでした。そのころからタイの政治も徐々に民主化され言論の自由も保障されるようになりました。タイ共産党がそのころから自壊し始めたこととも無縁ではありませんが。

ジット・プミサックの作品が次々出版されるようになったのもこのあとのことでした。生前活字になったのは詩と評論くらいでさまざまなペンネームで新聞や雑誌に載ったものです。その他の知られていなかったほとんどの作品は80年代に実名で初めて単行本として出版されました。

中でも『アユタヤ期以前のチャオプラヤー河流域のタイ社会史』『サヤーム、タイ、ラオ、クメールの語の起源とその民族の社会形態』(坂本比奈子訳『タイ族の歴史』頚草書房)などいくつかの研究書は、現在のタイ社会経済史発展の地平を切り開いたもので、多くの研究者たちに示唆を与えたものです。

70年代彼の思想は人びとの意識の変革におおいに力があったのですが、80年代になってからは学者、研究者たちに発想の転換、新しいアプローチを提起した研究者として本来の業績が評価されました。一般の人びとからは忘れられたように見えますが、ジットの歴史的評価はすでにされているようです。

昨年の5月、ジットの35回忌にバンコクポスト(英字紙)が日曜版の全ページを使って“Only the good die young”という見出しで特集をくんでいます。わたしが1978年ころ姉のピロムさんに聞いたときには、ジットの死の詳細も場所もわからないし、遺骨があるのかどうかすらわからないという社会状況だったのですが、この記事によると1989年にはピロムさんと友人たちが彼の殺された場所、そして荼毘に付された場所に遺骨が残されていて、そこに仏塔を建立して供養した、とあります。

小さな白いパゴタ、それを取り囲んで座る黄衣の僧侶たちの写真、昨年の法要の際のものが掲載されていて、いまさらながらジットの死を悼む気持ちが湧いてきます。

日本ではジットはタイの金芝河と理解されたのですが、タイでは金芝河は知られていなくてチェ・ゲバラと比較されます。ゲバラは1928年生まれでジットより2歳年上、殺されたのは1年後。ほとんど同時代人でした。ただしジットはゲバラのような活動家ではありませんでしたが。




イラストインドネシアあれこれ(2)  西沢幸彦


前回も書いたが、やはり飛行機という乗り物は好きになれない。どこか信用できないのである。外国に行く時はしかたがないと覚悟を決め、無事に着いたらめっけもの。あーよかった、今回も生きのびたってな具合。

乗っている間中、なにか落ち着かないのである。乗ったとたんに酒をかっくらって、飯のときだけ起きあがり、終わったとたんにまた寝てしまうような輩をみると、どうなっているんだこいつは、ひっぱたいてやろうかなどと思ってしまうのである。乱暴な口調になってしまったが、まさに乗っている最中は人格が変わってしまうというやつである。フラップが「ギー」などといおうものなら、翼がどうかなってしまうのでは、エンジン音が低くなろうものなら、このまま止まってしまうのではなどと考えているていたらく。

ところがソロ行きの飛行機、ソロ到着直前に、熱帯特有の激しいスコールを降らせる、積乱雲だか何雲だかのまっただ中に突っ込んで行ったのである。窓に打ちつける雨、雷の音、このままポキッと折れてしまうのではないかと思えるほどしなる翼。「きょう特にソロに行きたいわけじゃない――」なんてわけのわからないことを口走り、肘掛けを掴んでいる手には無意味な力の入れよう。

そんなこんなで、雨上がりのソロに到着。この町は古都らしく、京都、奈良の風情か。ジャカルタに比べると落ち着きが感じられる。ジャカルタでもそうだが、このソロでも、ブラブラと歩いている人をあまり見かけない。なんといっても、赤道直下、真っ昼間に炎天下を歩くなど、自殺行為だ。

では庶民の交通手段はというと、リクソー(こう発音したと思う)、これは日本の力車ではないかと言ってみたが、相手は「?」であった。前輪が二輪、後輪が一輪の三輪車の逆のような乗り物。徒歩十分程度の距離で三十円から四十円。日本人と見て多少はふっかけているのであろうが、これを値切るのである。

この値切るという行為は、お金をセーブするという意味合いはまったくなく、半ば、反射的に出てくるほとんどゲーム、もしくは儀式に近いものである。最近日本でも価格破壊なる現象がおこってはいるが、価格体系がはっきりとしていて、値切って物を買う習慣がない。タクシーにしても同様、骨董屋でも近頃は値札が貼ってあったりもする。

インドネシアに限らず、東南アジアでは、大手デパート、スーパー、レストランは別であるが、人の顔を見て値段を決めるというような商売の仕方が多く見られる。たまに「よーし、言い値の半額だわい、やったー」とよろこんで、三軒となりの店に行ってみると、その半額で売られていたりすることもある。そんなときにでも、よくぞやってくれたもんだと、拍手喝采、素直にうれしがってしまう。相手のほうが一枚も二枚も上なのだ。なかには詐欺まがいのこと、こんなことあり? なんていうこともあったりする。闇鍋のような社会だ。

ルール、秩序がないかというとそうではない。自然発生した無秩序の秩序が見事にできあがっている。こんな中に身を置くと、もともと少ないタガが、またまた緩んでくる。みんなが快適に生活しようと、決め事をたくさんすると、しまいには息がつまって、逆に生活がしにくくなる。決め事を守るために生活するということになるからだろうか。

インドネシアの伝統音楽ガムランの奏者はそのエキスパートがいない。奏者全員が他の楽器も演奏でき、どのパートも暗記しているのである。ある者が少々先に進みたければ、さっとつけ、ゆったりとする者がいればそれに従う。他で何が起こっているのかがはっきりとわかる。身体はその場に置いて、少し高い位置にちがう自分がいて、全体を俯瞰している。ある種、理想的な構図と見た。たしか日本の能もこのような作りだったと思う。

ソロ在住のダンサー、サルドノ。教育者、思想家でもある彼の、スタジオに行った。広大な敷地のなかに点在する瞑想場、レッスン室、ダンススタジオ、ガムランの練習場、アトリエ。各々の場で、個々にいろいろな行動が行われている。我々を歓迎してのパフォーマンスの一夜。創作ダンス、笛の名手の演奏、ガムラン、グンデルとダンスとのコラボレーションと、盛りだくさんの催し。古民芸風家具と装飾品に囲まれ、暗い照明のなかでの演奏、なかなか素敵であった。帰りにガムランの笛をおみやげにもらってきたのだが、上手に鳴らないんだな、これが……。

次の日ソロの音楽学校へ行った。音楽学校というと西洋音楽の学校をイメージするが、ここは伝統音楽をおもに教える学校である。

ここでのコンサートは、先生と学生により、ガムランの楽器を使った新しい曲、新しく作った楽器による新しい曲、われわれの「かなしみをさがすうた」という構成であった。新しく作った楽器というのが、銅鐸のようなかたちの小さいのから大きなものまでが、ある音律で作られていて、たたいて演奏するものや、ピアノの中だけをとり出して、弓でこすったりするものなど。このような楽器の創作に日々精進している作曲家・先生が、よく訓練された学生とともに演奏してくれた。これが新しいガムランかどうかわからないが、伝統的なガムランの延長線上にあるのはたしかであろう。

我々の「かなしみをさがすうた」は言葉の占める部分が相当ある。翻訳されていたとは思うが、観客はかなり熱心に聞いてくれていた。終わったあとの拍手はどこへ、何へのものだったか。ここでも美恵さんの歪んだ歩行が大受け。公演後「あれは何だったの?」との質問に、美恵さん、笑ってごまかす。

ソロの町のほど近いところに、ボロブドゥールという町がある。数は定かではないが、五重塔のように、何層にもなっている石の遺跡がある。釈迦の一生をあらわしたものだという。上に登るにつれて、修行のステージが上がり、てっぺんに到達すると解脱だという。この旅の最後に、我々五人、炎天下に頂上まで登り、全員みごとに解脱。



イラスト落ち葉と猫と吹雪の11月  御喜美江

今日は土曜日、山のような洗濯物が乾燥したらもう午後4時になっている。外はすでに薄暗く部屋の中は電気をつけないと何も見えない。気がついてみたら11月も、もう終わろうとしている。この頃になると日はどんどん短くなる。今月は自宅にいることがほとんどなかったけど、一体何をしていたのかな〜。

今年の秋はず〜っと暖かく雨も少なく木々の葉っぱは紅葉してからも数週間散らなかった。それが3日前、急に寒くなり、さらに大雨と強風が一緒にやってきて葉っぱは一度にみんな散ってしまった。だから市内は落ち葉の山で車が何台もスリップしたり、歩行者がころんだりしていた。 我が家はといえば、夜帰宅したらあまりの落ち葉の山で階段が登れない。さくっさくっと落ち葉の中を歩き階段はほとんど這って上がった。

その時裏のほうからもさくっさくって音がし何者かが急ぎ足で近づいてくる。
見ると隣のオス猫くん。人間の膝下くらいまである落ち葉の中を猫が歩いてくるのはさぞかし大変だったろう、あ〜帰ってきてよかったとつくづく思う。何日、何週間留守にしていても、このオス猫は私(達)が帰宅するとすぐ現れる。どんなに寒くても雨が降ってても。どこで見ているのかな〜。冬なんか毛皮まで凍るように冷たくなっていることもある。びしょびしょに濡れて雨の雫をぽたぽた落としながら出迎えてくれたりすると、この猫はもしかして忠犬ハチ公の生まれ変わりかな、なんて思ってしまう。

それにしても飼い主さんがこのドラマを知ったらきっと面白くないでしょうね。でも猫のほうもわかっていて飼い主さんが昼間庭仕事なんかしていると、見られないようにと頭を出来る限り低く低くして這うように階段を上がってくる、けっしてミャーとかフンフンとか言わない。私もそ〜っとドアを開けてすぐ閉める。猫は居間にたどり着くと “ここ安全地帯”とばかりドカンと倒れて大きなのびをする。しばらくそのまま考えに耽ったりじ〜っと私を見つめたりする。

「おなかがすいてる?」ってきくと短くニャ、って言ってキッチンに歩いていく。お皿にはちょっとしか入れない、そうするともっと欲しいから催促にくる。右前足を高く上げて私の足をトントンする。「そんなに食べると太りますよ。」って言うとニャー。これがおかしいので餌はいつも小出しにする。「KitBit(乾燥フード)で遊びたい?」ってききながら箱をカラカラ音させると今度はタンスの下に行ってゴールキーパーとなる。そこにKitBitを投げるとタンスの下に入らないように夢中でキープする。全然違う方向に投げるとそれを追ってロードランナーみたいに走る。ブレーキがきかなくって2、3回転することもある。子猫がこういうことをするのは普通だけど少なくとも4歳にはなってるデブ猫がやるとおかしくて笑いが止まらない。

先週5日間フィンランドにいた。ここはもっと日が短かった。

一日目は吹雪で本場の吹雪のすごさをはじめて知った。ヘルシンキ空港に着くときが最もひどかったのだが、フィン・エア機中の私は飛行機の揺れ方があまりにも異常で翼が折れるのではないかと思った。このところ空港も機内もガラガラだが、なんかいやな予感がして“はやく降りて、降りて!”と祈った。しかしモニターを見ていると飛行機マークはとうにヘルシンキを通り過ぎてロシアのほうにむかっている! 東へ東へとどんどん進んでいく……機内はガラガラなので誰とも話せないし、きいたからってどうなることでもない、ヘルシンキに早く着きたいという願いは皆同じはず。下界は全く何も見えないから私はただひたすらモニターをにらんでいる。すると突然飛行機マークが180度方向を変えた。あ〜よかった、“ペテルブルグなんかに連れていかれたら大変!”と不安と心配で顔はもう多分引きつっていたので、ほっ!と大きなためいきをつく。

しかし外は雲でいつまでたっても何も見えない。そして揺れる、揺れる、ものすごい揺れ方……それに車輪が出る音がきこえない、今度は別の不安が生じる……そのうちものすごい音がして機体がドカンと揺れ “あ〜もう駄目…………”と思ったとき、「ヘルシンキ空港に今着陸しました。」というアナウンスが入った。“え〜?”と思って外をみると超大型雪かきブルドーザーみたいなのが何台も何台も滑走路の近くを走っている。

ところで無事着いてみると「まあこんなフライトもあるでしょう。」なんてけっこうあっさり気分。涼しい顔をして荷物を受け取ったつもり、でも出迎えてくれたヤンネは「ミエ、顔面蒼白だよ、病気?」なんてきくからやはり相当怖かったらしい。空港にくる途中彼の乗っていたバスは吹雪でほとんど走れなかったとか。でも30分もしたら真っ青な空となり、そこからハメンリンナまでの90分のバスの旅は快適で、ホテルに着いたらもう元気いっぱい、練習して、買物して、サウナに入って、母にクリスマスのシールを郵送して、ダンナに電話で吹雪の話をした。そうしたらこの吹雪、ドイツのニュースにまで出たとか、友人がダンナに電話で「ミエ、今日フィンランドに行ったでしょう、大丈夫?」って電話をしてきたそう、だから私のドラマチック・フライト・ストーリーを真面目にきいてくれた。

11月はたくさん弾いて、教えて、旅して、友人たちと再会して、充実していたな〜と思う。こんな月もたまにはあるのです。

2001年11月24日ラントグラーフにて  



イラストTWO  三橋圭介


ジョン・ケージにとって作曲とは「それまできいたことのない音を発見する」試みだった。作品には演奏者自身の自由な解釈を許す曲とそうでない曲がある。ケージはそうした作品をさまざまに重ねて混ぜあわせた MusiCircus(音楽のサーカス)という音の空間を作りあげた。「高橋悠治&高橋アキ ピアノ・デュオ、オール・ジョン・ケージ・プログラム」は、この MusiCircus の考えたかをコンサート・ホールのなかに取り入れ、音を出会わせ(拡散して)、発見しようとする。

多彩な作品をバランスよく配分したプログラムは、ちいさな秩序の積み重ねによって全体を非組織化する音のサーカスの思想をよくあらわしていた。演奏は時間の自由の効く「Winter Music」(1957)を悠治が全体にばらまきながら、アキが時々舞台に出入りしてプリペアード・ピアノのための「Tossed as it is untrouble」(1943)やトイ・ピアノのための組曲(1948)などを演奏していく。このほかに悠治が「Music of Changes part 氈v(1951)、アキが「Water Music」(1952)と「Etudes Australes」(1974)、二人で「Music Walk」(1958)と「Experiences 氈v(1945)。客席の出入りは自由。

長い沈黙を伴う Winter Music は深い淵のように静けさのなかにある。鋭い刃のような音ではない。悠治は弓をしぼって矢を放つように音を解き放つ。時間の堅い結び目をときほぐし、そして舞い上がる塵が落ちていくように消えていく。舞う塵の音のなかアキがトイ・ピアノをかかえてあらわれる。組曲は九個の白鍵だけをつかった淡泊だか楽しい曲。トイ・ピアノの美しい音色がキラキラはじける。水をつかった「Water Music」、「Music Walk」はピアノの回りを歩るきながらラジオを鳴らし、うた(「Aria」1958)を歌ったり、打楽器を鳴らしたりする。また「Etudes Australes」では星座の音をちりばめる。絡みあう音の流れは複雑だが、単純だ。

音は混ざりあってただよい、変化しているだけ。なにも意味ありげななにものを作りあげたりはしない。多様に混在する世界はほとんどカオスのよう。音と音との関連をきき取る「音楽的な」耳には混乱を与える。しかし空間を作りだす音が活動して、静けさという根源へと帰っていくという定めに耳を開くなら、音をきく意味もちがってくる。これは空間を音で埋め尽くさないすきまだらけの音のサーカス。

サーカスにはピエロがつきものだが、 ここにはちゃんとピエロがいた。化粧もない、おどけたりもしないピエロ。何事にも囚われず、空っぽになって虚ろな行為に淡々と没頭する悠治とアキの二人のピエロ。そのとらえどころのなさがどこか無邪気でおかしい。自我を押しつけない行為だからこそかえって目立ってもいる。

ケージは音楽を理想とする社会の縮図として考えていた。知識や権力、恨みや憎しみも捨てて、争うことなく、国境すらないような社会。そういう世界が訪れたなら音楽はいらない。でもまだそうじゃないから、ケージは音楽を書きつづけたし、演奏する意味もあるだろう。コンサートホールという場は制約や距離を感じさせたが、タオの人がこの音のサーカスをきいていたら、きっと子供みたいに微笑んでいたにちがいない。

(11月24日、彩の国さいたま芸術劇場音楽ホール)



イラスト書きかけのノート(8)  高橋悠治

ひとは自分の不得意なものを仕事にするのだ という話がどこかに書いてある アルボムッレ・スマナサーラ師というスリランカから来たお坊さんの本だ どの本のどこなのかさがせない

それによると こんなことをやりたいというあこがれで選んだ仕事には才能がなく 向かないことだから やっていても苦しい 例外的に才能がある人にとっては 仕事はすぐできてしまっておもしろくはない 自転車に乗れないこどもが乗りたいとあこがれ 乗れるようになったときは おもしろいとは思わないのとおなじだ と言われる

それでいうと 作曲家になろうと思ってなったのだから 作曲の才能はどうもないらしい ピアニストにはなろうと思わないでなってしまったから これは才能があるのかもしれない たしかに考えたり たくさん練習しなくても たいがいのものは弾けてしまう あるいは そうして弾けるものしか弾かない かつてはクセナキスやブーレーズのようなものも そのたいがいのうちだった さきのことは考えず 一ページずつ練習すれば何日かでできてしまった いまはそんなことはしない おもしろいとあまり思わないせいでもあるだろう

作曲はそうはいかなかった いまでもそうだが どうしたら考えずにできるかを まず考える それが時間がかかる 問題が見えていないのだ 見えれば すぐできるだろう

ところで 作曲をすることは 音楽をつくることとおなじではない 楽器になるものがあり 空間があれば 音楽はできる それは世界を観る音 観世音という そこには作曲という作業はない

カヌーをつくるのに設計図はいらない 眼の前にある木を削っていくと舟が顕れる こんなふうに音楽もできないか

そうはいかないのは 書くという作業が入るからだ 音楽を書くということをうたがわなければ 音楽はすぐ書ける 心に浮かぶ音をどんどん書き取っていく こんなことならモーツァルトだってできる これでは あるとき心に浮かび消えていった音でない音 音の幻影が 世界の前に立ちふさがって 観ることのさまたげになる

歌はくりかえしうたわれて歌になる だがくりかえされるたびに かたちは変わる 歌が歌であるからには 変わるかたちのなかに変わらない部分があると思えば これは書かれたメロディーになる そこには構造があり 意味がある 変わらない構造にささえられて意味を表現するもの それを音楽と呼ぶならば 音楽は世界をあらわす記号になる それはいつも楽譜のかたちでそこに眠っていて それをひらいて音にしてやれば 一つの世界が起こる それは現実ではない世界 世界の絵

そうでない歌もあるだろう 呼吸のような歌 呼吸はくりかえさない それはつづいているだけ つづいていなければ死んでしまう 身体に入っていった息は 出てきた息ではない おなじ呼吸は二度と起こらない ただし 息が入ったあとに また入れることはできない 息を吸おうとしなくても 息が出ていけば 次の息が入ってくる こうして息はその前の息にかかわり その次の息にもかかわっている これを構造と呼ぶのはむつかしい 固定するにはあまりに複雑な条件の束が おたがいに影響し合っている というより 条件そのものも相互関係からたえず生まれつづける その流れがどこかで停まらないためには 関係とは まず介入を避けること 自制すること するのではなく しないことからはじまり ゆれうごき ただよい さまよいながら バランスをさぐっている

楽譜によって構造をあたえるかわりに ゲームのルールを記すこともできるだろう 魚ではなく釣り竿を贈る ただし魚の住む池につれていかなければ 釣り竿をどうしていいかわからない 釣り竿を観ても魚は見えてこない どんな草になるかわからない種子よりは 苗がいい 種子は構造を秘めている 苗は一つの過程

スケッチ メモ 全体のない部分 これらはかなたを観るための窓だ 窓は窓の向こうを見るためにある だが窓自体が興味を惹かなければ だれも窓のところへは行かない 世界の音を観るのではなく 世界を観る音は この窓のように 音を観るのではなく 音のない空間から世界を観るためにある それでも その音に惹かれなければ そのかなたは観ない

相互関係から条件を分離する 必要ならまばらな音をちりばめて 音は音ではない 音と音とのちがいだ ちがいがあれば空間がある

それにしても 書いてから音にするのではなく ためしてみて使えるものを書きとめておく というのが ただしいのではないか だがこれは いまの経済制度ではむつかしい 目標のない試行に時間をかけてはいられない ミリオンセラーを作るのなら スタジオ代をいくらかけてもいい という時代があった でもそこには商品をつくるという目的があり それに見合う予算と労働がある 自由のつもりでも監視されている オーケストラを時間制限なく頼んで みんながおもしろくなるまで あれこれ試すことは不可能だ それならオーケストラはいらない 気のあった友人たちがいればいい だがそれも 東京のような社会ではなかなかできない みんながいそがしく働いている 向いていない仕事に苦しみながら

紙にあらかじめ書く作曲でない音楽のつくりかたができないのは やはり経済問題だ いつでもできる音楽には価値がない 一度しか起こらないような特別なことに価値がある そういうものを見つけるのはたいへんだ 苦しんでつくる音楽は存在感がある だがその向こう側が見えない そういう音楽は人も苦しめることになるだろう

そうなると 考えずにできる方法をまず考えたりしないで すぐできることを すこしずつやったほうが 問題がないかもしれない

(これまでに書いたテキストなどは、「楽」にあります)



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