2002年4月 目次


モンコン・ウトックのCDブックから(2) 荘司和子
パレスチナから              佐藤真紀
冬から春へ                御喜美江
しもた屋之噺(4)            杉山洋一
書きかけのノート(12)         高橋悠治
抵抗する声                三橋圭介



モンコン・ウトックのCDブック(2)ノンダーウ  荘司和子訳




スラチャイ:みなさんノンダーウって何だか知ってますか? 人じゃないのよ。
      じゃあ何だ?
モンコン :象。だけど人と同じなのよ、都会へ出稼ぎに行く。
スラチャイ:象は歩くとき動物の中で一番美しい歩き方するって言われてる。
モンコン :この曲のリズムはファッションショーで歩くリズムで作ったんだ。
スラチャイ:何のファッションさ?(会場、笑い)
モンコン :テレビのよ。

(CDに収録されているライブから)

あるとき新聞の一面に象が車にぶつけられて足の骨を折ったというニュースが出ていたことがあった。その後沢山の人びとがカンパをしてガンペンセンの象の病院へ入院させよくなったという。1カ月くらいして新聞記者がその象の飼い主に傷が治ったらどうするのかを訊いたところ、村へ帰りたい、と言っていたというところでこのニュースは終わった。

当初ぼくはこのはなしに特別関心があったわけではない。ただ象を都会に連れてくることには以前から賛成できなかった。このはなしに目を向けさせたのは仕事上の友だちのひとりで、あるとき「ノンダーウ」という名のその象のことをはなし始めた。

彼はこのはなしを歌にしたらいい、と言うのだ。ただし「ノンダーウ」が象である必要はない、バンコクへ仕事を求めて出てきて同じような運命に遭遇する娘たちの象徴的存在として書けばいい、というのだ。

う〜ん、なるほど! それはいい。かといってノンダーウの詳細をそれから調べたわけではない。ところがある日ウォン・ハウス(モンコンの開いたライブハウス)で酒を飲んでいるときにこのはなしをする者がいた。ウォン・ハウスに土地を貸している地主。彼は新聞で見たノンダーウのはなしをとてもよく覚えていた。彼の娘と同じ名前だったので心を痛めたのだった。

それによるとノンダーウは20歳の雌象で飼い主はカム・センディという。どこで車にぶつけられてどういう治療を受けたとか実に詳しく教えてくれたのでそれでぼくは、歌を書かなきゃあという気になったんだ。

この歌は『シアハムノイ』というアルバムに入っている。ゲストにサキソフォンのテーワン・サップセンヤゴンを迎え、ミキサーはルアンヨット・ピムトンというちょっと珍しい風合いの音楽になった。

   夜の雑踏の中を
   歩いていく
   大通りを
   歩いていく
   あでやかなネオンの街を
   歩いていく
   こんなに人がいても
   目にとめもしない
   ノンダーウ、おまえは乞食じゃあない
   わずかな給金とひきかえに
   はたらいている
   そう、おまえには雇い主がいる
   カム・センディという

      日が暮れると
      コンクリートジャングルでおまえが
      はたらく時間
      村での生活が苦しくて
      やってきた
      色黒の 色黒の娘に育った
      ノンダーウ、 ノンダーウ

   おまえはきっと
   傷ついた
   ふるさとから引き裂かれて
   人ごみと車であふれた街
   ある日 おまえは
   車に当たって怪我をした
   やさしい人びとが
   おまえを介護した
   ノンダーウとカム・センディは去った

      水田 森 野原 のひろがる
      村へ
      街を去って 
      ノンダーウは ふるさとへ帰る
      ノンダーウは ふるさとへ帰る




パレスチナから  佐藤真紀



自爆テロ


3月2日 私はエルサレムを歩いていた。イスラエルの平和団体「ピースナウ」がデモをやるという。毎週土曜日はユダヤ人にとって休日にあたるので、この日に平和運動が集中している。アラブ人街からユダヤ人街に通りかかったときだった。ボーンという大きな音がする。しばらく沈黙が続く。何もなかったのかな。と思ったら救急車やらパトカーやらが通りをあわただしくかけていく。やはり爆弾テロだった。テロリストは生後数ヶ月の赤ちゃんを抱いているユダヤ人に近づき自爆した。2月28日に、シャロン首相が「難民キャンプはテロの巣窟になっている」として、ナブルスにある難民キャンプに侵攻し、パレスチナ人を恐怖のどん底へと押し込めていたことへの報復だった。「ピースナウ」のデモには数千人が駆けつけたが、道行く人たちに「何が平和だ! 多くのユダヤ人が殺されているんだ」とやじられる。数千人が集まったデモも元気のないものだった。犯人はベツレヘムのドヘイシャの難民キャンプの青年だった。

自爆テロを行ったアルアクサ殉教団は、成功を祝ったが、キャンプの住民は恐怖に震え上がった。イスラエルが激しい報復攻撃を加えてくるのが目に見えているからだ。案の定戦闘機が飛んできて爆弾を落としていく。毎晩上空ではF16が飛び交う音が遠くのほうで聞こえる。時にはエルサレムまで爆撃音が聞こえてきた。しかし、まだそれらは派手なデモンストレーションで、警察署の建物を吹き飛ばした。死者は出ていなかった。3月7日早朝には、私はパレスチナを去らなければいけなかった。やはり図書館が気になる。ベイトジブリン(アッザ)難民キャンプの子供たちは大丈夫だろうか。


個別訪問


3月8日からイスラエルは丁寧にも難民キャンプの戸別訪問を開始。テロリストと兵器をしらみつぶしに探しては家を破壊していく。私の手元に送られてきた情報にはベイトジブリン(アッザ)キャンプで14歳の女の子が胸を撃たれて死亡したとある。なんてことだ。その子の名はニダといった。図書館に来た多くの子供たちの顔が浮かぶ。片っ端から子供たちの写真を引っ張り出す。メルナ(14歳)と同い年でいとこと言うからメルナのそばに居るはずだ。顔も似ているのだろうか? 分からない。子どもが描いた絵なら名前が書いてあるはずだ。ありったけの絵を探す。どの子なんだ。私は、ニダがどの子なのか分からずに居る。


お葬式


ベツレヘムの友が葬式の様子を知らせてくれる。

「10日、9日の銃撃で死んだニダの葬式はベツレヘム聖誕教会の前のメンジャー広場で行われました。ベイトジブリン難民キャンプからたくさんの人たちが来ていました。ハンダラに集まる子供たちもいました。こんなに暗い表情の子どもたちに会うのはこちらも辛いです。なんと声を掛けてよいか分かりません。ニダの家は通りに面していて、玄関のドアのところでニダは撃たれました。その直後、銃撃戦が始まりニダは這うようにして家の中に入り、家族は別のドアからニダを病院に運ぼうとしましたが、激しい銃撃戦のためにすぐに病院に連れて行くことはできなかったたそうです。メルナの弟は、ニダが撃たれて倒れるところを見たそうです。メルナは昨晩、ニダのお悔やみに行き、冷たくなったニダの頬にお別れのキスをしました。涙が止まらなかったと言います。ニダの母親はメルナに、「ニダは病院で治療を受けて元気になって帰ってくるから」と言いました。母親はあまりのショックで何が起きたか分からなくなってしまったようです。メルナはその言葉で更に心を痛めました。

お祈りの後、ベッサフールの墓場まで遺体を担いでみんなで歩きます。デモ特有の叫び声、しかし本当に親しい関係にあった人は声さえ出ません。腕を組み支え合ってうつむき加減に歩きます。お悔やみのために撃ったはずの銃が暴発。騒然とし、男達が頭から血を流している子どもを救急車に運びます。けが人は私達の目の前を運ばれていきます。母親たちは一緒に歩いていた息子の安全を確認しようと必死です。老女が狂ったように泣き、もう十分だ、もう十分だと手を上げて叫びます。一緒に手をつないで歩いていたメルナは恐怖のあまり震え始めました。私はメルナの肩を抱き、歩き続けました。ニダを葬り安らかに神に召されるよう祈ること、このような惨事が起こらないように祈ること、それぐらいしかできないのです。4人がけがをしましたが、幸いにも軽傷でした。墓場につき、お祈りと演説の後、ニダは葬られました。

ニダは14歳の活発な女の子でした。私達の友達のひとりです。ニダが撃たれる理由などどこにもありません。ただ、ドアの前にいたので銃弾があたり、死んでしまったのです。難民キャンプに住んでいるというだけの理由で。キャンプの人々は声高には語りませんでした。できるだけ平静を保とうとしているように見えました。」

まもなくニダの写真はキャンプ中に張られるだろう。



冬から春へ  御喜美江


今日は曇り空、14階にあるバルコニーへ出ると外は肌寒い。
普段は北緯52度の北国に住んでいるのに、私は寒がりで、これ以上厚着はできないと思うほど着こんでは、回りの人たちから呆れられている。洋服を買う時など試着室の中では、脱いでも脱いでもまだなんか着ているから、その狭い空間は衣類の山となり、着替えに悪戦苦闘することが多い。「まるでタマネギみたいね」と母からよく言われる。今夜はお花見の予定だけど、この寒さでは相当大きなタマネギになりそう。

カザルスホール(東京・御茶ノ水)がオープニングした1988年から「御喜美江アコ−ディオン・ワークス」は毎年3月に行われ、今年の14回目が最終回となった。先回も書いたが、このリサイタルは緊張度がいつも最大級になる。その理由は委嘱新作初演、日本初演、だけではない。作曲者がいる、でもない。友人、家族・親戚一同がいる、でももちろんない。3月も中旬となると、この緊張は必ず自分を襲い、それは本番まで続く。夜は体が疲れているのですぐ眠りに入るが2、3時間後には目が覚めてしまい、思うことはプログラムの曲のことばかり。このころはもう、何を食べても大して味覚は無く、日常生活の雑多なことは、まるで別の自分がしているように実感がない。でもそれは毎年のことなので特にそれが病気とも思わないで今までやってきたが、今回だけはそれが病的に感じられ、眠れぬ夜と夢遊病者的行動が日一日とエスカレートしていくと、「自信」という言葉が全く自分から消えてしまった。「陸が見えないの、どこに陸があるのか見えないの……」と毎日つぶやく私を母は心配そうに、夫はちょっと困ったように見ていた。

今回の共演者は打楽器の吉原すみれさんで、3曲も一緒に弾いていただいた。サントスの『SIMOY』(そよ風)は打楽器が大変難しい大曲で、レーデルの『Visions Fugitives』(つかの間の幻視)は合わせに非常な時間がかかった。ヴィヴァルディ(寺嶋陸也編曲)の「四季」より『冬』は、美しい曲がなかなか美しくならなくて焦った。気がついてみるともう18日、カザルスまであと4日しかないではないか……。お昼からず〜っとすみれさんの練習場で夜まで猛練習。その夜はすみれさんのご子息、冬馬くんがカレーをこしらえて私達をむかえてくれた。このカレー、いわゆる日本のカレーライスではなくて色からしてインド風、チキンも骨付きで本格的、そして何よりもおいしい! 同じく冬馬くん手作りのサラダも食べながら、ぼろぼろに疲れた体と焦る心がだんだん癒されていくのが自分でもわかった。お嬢さま、ありすちゃんの焼いたクッキーもいただいて久しぶりほっとした気持ちになる。猫のココちゃんもニャ〜ニャ〜っと可愛い。その夜、帰国して初めて睡眠薬ナシで眠れた。「やっと陸が少し見えてきた!」これが19日朝。

20日は大倉山水曜コンサートでいくつの作品を演奏した。ここは小さな会場だが、必死で弾く私達は、とてもあたたかい聴衆にかこまれて無事、演奏会終了。この夜「陸は景色も少しづつ見えてきたかな」と帰りの電車の中で、横浜のシュウマイ弁当を食べながら思った。そしてここ2、3週間、影も形も消え失せていた「楽しさ」「喜び」「自信」が少なくとも単語としてなら、頭に浮かんだ。

21日は18時半まで一人で練習、それからカザルスホールにおいて22時まで練習させてもらえた。打楽器はその位置決めもあるし、サントスはピンマイクも使用するので、前日にリハーサルできて本当に助かった。それにしてもこのホールはやっぱりいいな、と弾きながら思う。舞台は広いから、打楽器がのびのびステージに置かれて、音もよく響くから聴きやすいし、相手もよく見えるし、今まで狭いところが多かったので、この開放感は五感を喜ばせる。すみれさんもご満足の様子。結局全曲を練習して体はくたくたになったけれど、サントスの歌&演奏もピンマイクできれいに入ることがわかって一安心、ピアソラもいい。自宅では母が、なかなか帰ってこない2人を大変心配して待っていたけれど、私の正常に戻りつつある顔を見るなり、「よかったわね、今日まで風邪もひかずにこれて」とにっこり。

22日の朝は、でも緊張で体中がガタガタ震えて目を覚ます。午前中は今日のコンサートで転換時にするトークを考えながら、喋りの練習。「一人でぶつぶつ喋ってるけど、気が狂ったわけではないからね、トークの練習」と前もって家族には言っておいた。救急車でも呼ばれたら大変だし。

13時からゲネプロ、山口恭範さんが打楽器とアコーディオンのバランスに抜群のアドヴァイスをいくつかして下さって、曲が急に本番らしくなった。すっきりして聴きやすく、わかりやすくなった。こういうプラスの展開は何よりも緊張度をやわらげてくれる。やはり演奏家のメンタルには、技術的なアドヴァイスがダイレクトに効くと思う。

今回の衣装はチャイナドレス用の生地で、黒地に金色の玉が毬藻みたいに散っているもの。またまたマネージャーのMiさんが縫ってくれた。出来上がったのが20日で、とても弾きやすいのが何よりも嬉しかったが、この「弾きやすい」もアコーディオンの場合、緊張度を一挙に下げてくれる効果があった。そして皆が「そのスカートきれい!」って言ってくれてB型の私は素直に感激。(注:すみれさんもB型)

そして……
開演一時間前、Miさんが楽屋に3種類のデザインによる小冊子を持ってきて、「はい!」と手渡してくれた。それは『たんぽぽ畑』というタイトルの私の本、Op.1! 生まれて初めて見る自分の本を手に感無量でしばらくはコンサートのことを忘れてしまう。デザインは手作りで、その手のあたたかさ、優しさが伝わってきて心がしんと落ち着いてくる。最後のページは特に感動的。タイトル・日付・著者・編集・発行・コピーライトと記されている。あ〜、今日は3月22日なんだ。

そう、このあたりから何かが変わった。自分のまわりに健康な空気が戻ってきた。「やるぞー!」という声が私の中から聞こえてきた。グリーグ、レーデル、サントス、サティ、Ayuo、ヴィヴァルディ、寺嶋、ピアソラ、どれもこれも本当は私の大好きな曲ではないか! そのことすっかり忘れてた、ここしばらく。

19時、本番ベルが鳴り、人々は着席し、明かりがステージを照らし、私は舞台中央に出てお辞儀をして座り、演奏をはじめた。そして、すみれさんが登場し、Ayuoさん、寺嶋さんにも参加していただき、約2時間後に全てが終了した。
終わってみれば、まるで地獄のようだったこの数週間は、すでに過去のこと。
でもゲオルク(夫)からは、「こんなに普通に出来るのに、Mieはステージ出るまで本当に大騒ぎをしたね〜」と言われた。「でも逆よりはましでしょう?」と返事したら、笑ってくれた。彼は、誰よりもほっとしていたかもしれない。

カザルスホールにおける私の14年間が、この日終わった。
作品も友達も想い出も沢山つくってくれた、この美しいホールとのお別れはさびしいな〜、と心から思った。この日のアンコール曲として、すみれさんと、ピアソラの「アヴェ・マリア」を演奏した。人の演奏を聴いて感動し、涙することは今まであったけど、まさか自分の演奏ではそんなこと考えられなかったから、譜面がかすんで見えなくなった時、自分でもちょっとびっくりしてしまった。私は不器用だから、弾きながら祈るなんてことは、しないほうがいいと思った。でも音楽と祈りと涙は一緒みたい……、少なくともアコーディオンのなかでは。

たまねぎ武装をしてこれからお花見に出掛ける。心の中はまだ冬でも、自然は春を必ず忘れない。

(2002年3月27日 東京にて)





しもた屋之噺(4)  杉山洋一



こちらは大分暖かくなって、木々の蕾がはちきれんばかりです。
秋から冬にかけて深い霧に覆われて暮らしていると、こうして太陽の光が明るさを増し、周りの風景に彩りが吹き込まれるのを、毎年とても嬉しく感じます。

今月の終わりから復活祭なので、ゆきつけの喫茶店では、天井一杯に「イースターの卵」のチョコレートが飾ってあります。かなり大きなもので、中には趣向を凝らしたおまけが入っています。聖誕祭、謝肉祭、復活祭と続く祭日ラッシュもこれで一段落して、後は夏の休暇に向け、仕事に精を出すだけです。そう、モンツァだけがアンブロージョ典礼でないのは、モンツァ人の言い伝えによれば、聖アンブロージョがミラノ嫌いのモンツァを避けて、布教に来なかった為だとか。

2月の終わりから3月にかけて、ローマに出かけて仕事をしていました。何時も思うのですが、ミラノからローマへ出かけると、まるで違う世界なので、外国に来た気分さえするのです。街は人々の活気に溢れていて、風景が輝き、剥げかけた漆喰の壁までもが光を放っていて、そこかしこの辻から漂って来る、北よりずっと深いコーヒーの薫りと相まって、街全体がまばゆく感じます。人が環境に大きく左右されるのは当然で、ここで演奏する音楽はやはり開放的になるし、北にゆけばどうしてもより内省的になる気がします。

聖ジョヴァンニ寺院の傍にある場末の宿から、毎朝、コロッセオの脇を小一時間歩いて練習に出かけました。余りにも風景が美しいので、歩かなければ勿体ないのです。ヴェネチア広場まで、ミラノでは考えられない喧噪に苦笑しながら歩を進め、「いるか通り」という鰻の寝床よろしい細い路地を入ります。そうして、嘘のように静まり返った下町の路地裏に練習場があって、2軒手前には、寡黙な親父さんの妙な喫茶店が店を構えていました。

6畳程度のカウンターだけの小さな喫茶店で、看板すらなく、天井には共産党の真っ赤な旗やらゲバラのポスターが翻り、壁にはびっしりと左翼系詩人達の言葉が張付けてあって、隙間とあらばパゾリーニの晩年の写真やらサインやらがひしめく、圧巻な空間でした。聞くと、最近まですぐ裏に左翼民主党の本部があった為に、喫茶店が党員の溜り場となったそうで、元来は1912年に開店したローマも最も古い牛乳屋の一つだと説明してくれました。喫茶店の共産党との関わりは1967年前後からで、戦中までファシスト党の溜り場だったと言うから、歴史と言うのは面白いものです。この商売、長いものに巻かれなけりゃ、やってゆけない。親父さんは可笑しそうに笑っていました。

愉快なのは、喫茶店の評判を聞きつけた遠来の客が、まるで子供のように嬉々としてはしゃぐ姿で、練習の合間にコーヒーを呷っている横で、仕立ての良いスーツを着込んだ党幹部らしき紳士が、此処こそ長年探し求めていた場所、正に天国そのものだ。ところで親父、この天国のカプチーノ、もう一寸ばかり熱く出来るかい。等と、渋い声で台詞を吐く姿は、フェリーニの映画さながらです。

そんな下町界隈で練習をするのも、負けず劣らず愉快な経験でした。入口がガラス戸になっていて、外から練習風景が見えるので、練習していると、「いるか通り」の路地から、物見の通行人がガラスに顔を押し付けこちらを見入っているのに気が付きます。かと思うと、またたく間に見物客が細い路地を埋め尽くす程に膨れ上がったりして、イタリア人は心底音楽好きだと頬が弛みます。

耳馴れない現代作品を合わせているせいか、誰の音楽か、何の楽器かと質問を浴びるのはしばしばで、それでも見物客らしく振舞ってくれる分には良いのですが、関係者と思しき年配の男性がいとも自然に練習場に入って来て、暫く静聴してから何事もなかったように出ていった事もあります。誰かの知合いかと気にも止めなかったものの、単なる通りがかりの音楽好きだと後で判明し、皆で大笑いしました。

愉快なのは通行人だけでなく、演奏家もかなりのもので、例えば練習をしているすぐ脇で、休憩中の演奏家二人が今日の晩飯はどうしようか、何やら相談しているのです。それは何を食べたいかに因るわけだよ。ローマ料理がいいのかい。本格的なローマ料理なら、何とかの並びの食堂だ。あそこの某は少々値が張るが実にいける。否、同じローマ料理でも肉料理ならば別の某だが、云々。
そこはやはり喰い道楽なのがイタリア人で、話すうちについ興奮して来て、目の前で合わせをしているにも関わらず、ローマ料理と今晩の食堂について口角泡を飛ばして止みません。流石に横で練習している連中が可哀想になり、ほらほらと窘めたものの、内容が内容ですから誰も怒る気すら起きないらしく、苦笑しつつも懸命に練習を続けている姿が健気でした。
 
彼らの名誉の為にも、ルクセンブルグで行った演奏会が、特に印象に残る素晴らしいものだった事は、付け加えなければなりますまい。久しぶりにイタリア人連中と仕事をしましたが、120パーセント練習して本番85パーセントが上出来という北の演奏家と比べると、練習70パーセントで本番90パーセントという、独特のイタリア人気質を思い出す、良い切っ掛けとなりました。

ただ、ルクセンブルグ空港に降りた途端、皆がぞろぞろと携帯電話を取り出したかと思えば、好い歳の男連中が揃いも揃って、お袋、今ルクセンブルグに着いたよ。無事だよ、無事に着いたよ。大丈夫、心配しないで。お袋は元気なの。お昼は何を食べたの。え、何だって。お袋、何だって。かように叫ぶ姿は、筆舌に尽し難いものがありましたが。


(3月14日 モンツァにて)





書きかけのノート(12)  高橋悠治


戦争の世紀に対して 非暴力の音楽を と言ってみる

戦争の世紀とは 2001年10月以来の世界で アメリカの国防長官が あと50年はつづくと言っている 戦争は いったんはじまったら 根拠なくつづく 戦争が人間の主人になるのだ 原因を分析し 批判し 反対しても 根拠のないものをやめさせることは できないだろう つかれきって もうつづけられなくなるまで つづく という見通しは なんともかなしいことだ

正義や善を信じているから 戦争をはじめることになる 人間はおろかなものだと仏教は言う よわいものだとイスラームでは言われるらしい アブラハムが息子を生け贄にささげるのをとめられたときに ユダヤ教がはじまった 血の犠牲を要求するカーリー女神の信者だったアングリマーラは ブッダに説得されてナイフを捨てた

強いものが歴史をつくる よわいものたちは 迫害されて 歴史の闇に消えていく ユダヤ人の神との契約は そういうものだった 選ばれた民は 地上を支配するために選ばれるのではない 地上で起こることすべての責任をとるために選ばれるのだ

よわいものでありつづけるのは むつかしい 責任を回避すれば 迫害されるものが 迫害するものになる それも歴史だ 回避はよわさではなく 暴力になるということ それを理解するには 忍耐がいる

隠れて生きよ とエピクロスは言った 宮仕えより 泥のなかで尾をひきずる亀でありたい と荘周は言った

全人類が一つの理想のもとに団結すること 五大陸で何千人かが同時にベートーヴェンの第九を合唱することを考えた指揮者がいた これがグローバリゼーションの正義だ 一つのことば 一つの歌 このバベルの塔はいつ崩壊するのだろう ニューヨークにあった シンボルとしての塔ではなく

一つのことばがたくさんのことばに分かれるのが文化 人々が文明の首都から地の果てへと散っていくのが智慧 老子は 牛に乗って砂漠へ出ていった

自分の真の名を隠して 仮名で生きる文化がある 自分だけの歌を 夢のなかで精霊にさずかる そういう文化もある

これから50年戦争がつづくなら どうしたらいいだろう こんな時に 音楽が何になる と言ってみたくなる

戦車の前に花をさしだすという行為 うつくしい音楽も 兵士の心をやわらげるだろうか

アウシュヴィッツで 将校たちはバッハやベートーヴェンをきいていた むかしベルリンの街角のソーセージスタンドの前で クセナキスが言うには ドイツのビアホールはあんなにやかましいから ドイツ人はゲーテやベートーヴェンが必要になったのだ そうかもしれない うつくしい音楽のなかにも暴力がある

チョーギャム・トゥルンパが書いている アーティストと聴衆を分離して 一方から他方へとメッセージを送ろうとする これがアートの根元的な問題だ こうなるとアートは 見せつけ 自己顕示になる だれかが すごいインスピレーションのひらめきを 急いで紙に書きつけ 他の人たちを感心させたりびっくりさせようとする アーティストが 効果を計算しながら作っていくこともある こういうものは 意図や技術とにかかわらず どこかぎこちなく 他に対しても 自分に対しても 攻撃的になる

日々の暮らしに対する恐怖と不安から また迷いから 押しつけがましい態度が生まれる

努力は忍耐 こうありたいと思うことが起こらないのに耐えること

音楽が何か ではない 音楽は なにも特別なものではない 他のさまざまなことと変わらない 音楽をやっていようと 他のことをしていようと だれでも 目の前にある ちいさなことをやるだけだ

ブッダが自分の教えについて言ったように はっきり見え 時間がかからず だれにでもひらかれていて よくできるようになり よく考えればなっとくできることをする という ありふれたことが なぜかできない

ひとがやりたがるのは 大きなこと たいへんなこと 時間のかかること だれにでもできるわけではなく 自分だけができること むつかしいこと 考えれば考えるほどわからなくなることだ

そして失敗する 失敗したのに気がつかないこともあょ[BR>

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[編集部注]

高橋悠治さんのソロ・コンサートは
4月16日(火) 東京・カザルスホール 19時開演 4000円(全指定席)

演奏曲目
 Federico Mompou「歌と踊り第8番」
 中ザワヒデキ 「768個の装飾音符付楽音のあ る旋律」
 高橋悠治 「子守歌」
 石田秀実 「誄」
 AYUO 「Ulysses and the City of Dreams オデュッセウスと夢の町」
 Ramon Pagayon Santos「Klntang」
 戸島美喜 夫 「桑摘む娘」
 Chinary Ung 「Seven Mirrors 七つの鏡」
 戸島美喜夫 「鳥の歌」

お問合せ・予約はコレクタ(03-3239-5491 mails@collecta.co.jp)へ。



抵抗する声  三橋圭介


昨日、矢川澄子さんの朗読を水牛の詩の朗読シリーズ第2弾として録音した。ききながらちょっと声について考えた。

わたしたちは歌をきく。これは意識的にきくでもいいし、きこえてくるでもいい。とにかくいろいろなところに歌はあふれていて、常にきいている。でも歌をきいて印象に残るというのは、歌詞やメロディそのものがこちらに迫ってくるからではない。

歌手は歌詞に感情移入してうたうか、それとももっと表面的にうたうか、リズムに乗ってうたうか、そのうたい方はさまざまだ。しかしどのようにうたわれようと、印象に残る歌はうたい方とは関係がない。さらにそういう歌ほど歌詞について覚えていなかったりする。ではなにが印象に深く突き刺さるのかといえば、やはり声を通して伝わってくる存在感であったり、肉体感だったりする。

これは詩の朗読についてもおなじことがいえる。たとえば、藤井貞和の朗読はことばに感情移入するようなものではない。というより感情移入できるような「わたし」の詩ではない。しかし藤井貞和はどうしようもなく「わたし」をさらしてしまう。その声は何かに抵抗する乾きを思わせる。最近、創造にまつわる抵抗についてつぎのような文章を書いた。

「シューマンはピアニストを目指していた。過剰な練習の末、指を壊し、ピアニストを諦めた。だから憧れのピアニストと結ばれた。クララ。シューマンを弾いてみると、いつもどこかに指の抵抗が潜んでいる。楽器をならったことのあるひとならわかるが、楽器を学ぶことは、その扱いにくさを乗り越えていくことにある。しかしそれを越えて自在に弾けるようになったからといって、すばらしい音楽家になれるわけでもない。すぐれた演奏はつねにどこかで自分の楽器に抵抗を感じている。グールド、アファナシェフはどうか。難しい曲をスピードと音量で華麗に乗りこなす不毛。これは作曲もおなじ。シューマンは作曲家となり、どこまでもピアノに抵抗しつづけた。かれは精神を掘り起こすために、あからさまに抵抗しながらピアノを打ちつづけた。だから弾くことによってその抵抗はダイレクトに感じられる。もつれた指のなかにシューマンの音楽が悪夢のようにたたずんでいる。」(5日毎 当日発表 3月31日発行)

シューマンが不自由にピアノを打つように、藤井貞和が詩を書くことは、精神を掘り起こすためのことばの戦いであり、ことばへの抵抗のあらわれといえる。この意味で、藤井貞和の朗読は詩を書くことの抵抗がそのまま声となってあらわれている。
 
その声をきいている時、たしかに詩のことばをきくだろう。しかし詩を自分で読むよりも朗読の声がその内容よりも強い印象を与えるのは、ことばを発する藤井貞和の抵抗する肉体をダイレクトに感じるからだ。荒々しい呼吸、詩を語る羞恥、不安、照れ、そういう入り交じったものがこちらに届いて、どこか肉体関係を結んでいるような密室的な感覚をあたえる。きいてはけない声? だからこそ藤井貞和の詩への関わりが生々しく感じられるし、詩の朗読とは作者と詩との関わりを赤裸々なものにしてしまう恥ずかしい行為なのだ。

一方、矢川澄子はというと、堂々として突き抜けている。彼女のことばの抵抗は「戯れ唄集」と詩集に名付けられるように「はないちもんめ」のような唄のブラックな読み替えが基本にある。ことば遊び。そうじゃないアリスやうさぎのシリーズのような詩にも毒がもってある。言い換えるなら、詩を書く悪意のようなものが潜んでいる。

たんたんと投げかけられるその声に藤井貞和のような照れはない。それは肉体に関して藤井貞和より解放されているからだ。藤井貞和は照れながら「かわいらしい」に逃れ、対照的に矢川澄子は性の解放者として堂々と肉体をさらす。だが矢川澄子の抵抗は美しくさらすことにある。「ことばの国のアリス」は美しくなければならない。



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