2002年5月 目次


戒厳令のひかれたベツレヘム        佐藤真紀
四月のゆめ                御喜美江
「5日毎 当日発表」について       松井 茂
しもた屋之噺(5)            杉山洋一
モンコン・ウトックのCDブックから(3) 荘司和子
書きかけのノート(13)         高橋悠治



戒厳令のひかれたベツレヘム  佐藤真紀




4月26日早朝、テルアビブに到着した。エルサレムで看護婦2名と合流し、ベツレヘムに行くことになった。医薬品をトラックに積み込んで難民キャンプの病院へ送り届けるのが任務だ。

ベツレヘム検問につくとメルカバ戦車2台と装甲車2台が止まっている。ここから先は、軍事占領地区だから中には入れないというのだ。僕たちは立ち往生しながら軍の許可が降りるのをまった。ユダヤ人の家族がいたので話を聞いてみた。20歳の息子が徴兵で軍務をしてるので陣中見舞いに来たという。流暢な英語を話す。アメリカからの移民だ。

「ここでは、14歳の男の子たちが武器を持って襲ってくる。CNNでは無実のパレスチナの男の子が射殺されたと報道していましたが、爆弾を持っていたんですよ。どこが無実なんでしょうね。」ガザでは昨年12月にプラスチックの水鉄砲を持っていた13歳の男の子が射殺された。今回は14歳の男の子3名遺書を残して出かけていった。爆弾といってもパイプに花火の火薬を詰めたものだったそうだ。
「14歳の子どもですよ」というと「だったらちゃんと教育してくれ」という答えが帰ってきた。
「パレスチナの学校は機能していませんよ。外出禁止令が出てほとんど学校は休校です。」
「だったら親がきちんと教育すればいい」

結局、許可が降りそうにも無かったのでわたしたちは別の町の検問から入ることを考えた。待つこと1時間。でもなんとか、検問をこえるとができた。ベイトジャラという町はベツレヘムの隣。外出禁止令が出ているので通りには誰も人が歩いていない。激しく破壊された、パレスチナ警察の建物が見える。先月、F16からミサイルが発射されたとき、その爆音は20kmはなれたエルサレムの私のアパートまで聞こえてきた。難民キャンプに近づく。通りには戦車のキャタピラの跡と押しつぶされた信号機やら、そしてタイヤを燃やしたすす。町はごみだらけ。そして子どもたちがたむろして、近づいてくる車には石を投げようと構える。町には子どもしかいない。

子どもたちはすさんでいた。「僕は明日自爆テロをやるよ」多くの子どもたちが訴える。「ほらこうやって電線をくっつけると爆発するんだ」子どもたちは体に電線をむすび付けている。「ほら、僕は爆弾をもっているよ。」子どもはポケットからなにやらガラクタをとりだした。「あと10分したら戦車がやってくるからこいつで吹き飛ばすのさ」と自慢げだ。しかしいったい本当にそんなものが武器になるのか疑わしい。戦争なのか、戦争ごっこなのか区別がつかない。
ああ、でもこれは戦争ごっこに違いない。

僕たちが、医薬品を詰め込んだトラックをキャンプのクリニックに横付けすると、子どもたちは大喜びで荷降ろしを手伝ってくれる。私たちが家路につこうとすると戦車が行く手をさえぎった。
砲台は商店に向けられている。一時的に外出が許された人たちが、食料を運んでいる。不審な動きをすれば、建物ごと戦車で吹っ飛ばすぞというわけだ。
ああこれはきっと大人の戦争ごっこに違いない。

戦車の向こう側には、僕たちが支援している図書館のある難民キャンプだ。子どもたちが待っている。でもそこにたどり着くのはあきらめなければ無かった。

病院で、リハビリを受けていた22歳の青年は片足を切断した。昨年の10月の出来事だった。彼は警察官だが、30歳の女性が肩を撃たれたので介護をしていたら足を撃たれた。結局切断するしかなかったという。今でも痛みは消えない。

「ユダヤ人を憎んでいますか?そして復讐したいと思いますか?」
「いいえ、こうなったのも、神が決めたことです。私はそれに従うだけです」彼の目は優しかった。




四月のゆめ  御喜美江



ヨーロッパの田舎暮らしは、車なしでは考えられない。駅もここから8km離れていて、バスの停留所も最短距離で3kmほどある。その道順は、家を裏から出て丘に登り、地平線が見える野原を横切り、森の中をとおっていく。ちょっとロマンチックにきこえるが、この森は老樹、大木が多く昼間でも暗いから、一人だとちょっと心細いルートである。

その昔まだ若かった頃、私は車の運転が大好きで、カセットを聴きながらドイツのアウトバーンを高速で走ることに、大きな喜びを感じていた。学生時代に買った自家用車の第一号は、水色のカブトムシ(フォルクスワーゲン)。中古で約5万円くらいした。これはスピードというものが全く出ない車だったが、とにかくドイツ気象庁で史上何番目かに寒いといわれた厳冬を、何の支障もなく、いつでもどこでも走った。何週間も続く大雪と厳寒に、ベンツもBMWもアウディも力尽きてきた頃、でも私のカブトムシだけは絶対に走った。大きなエンジン音で、元気に忠実にのろのろと。

第二号はポロ(これもフォルクスワーゲン社)。小型だが、ワゴン車みたいにうしろまで屋根が高く、荷物が手軽く沢山乗せられるので、楽器や椅子を運搬するのに便利だった。そして何よりもスピードが出た。アウトバーンの左追い越し車線に初めて挑戦できた時は、本当に嬉しかった。それは、ブリンカーのカチカチ、カチカチっという音が実に快く耳に響く、そして両手をのばしてハンドルを握りながらレーサー気分に心躍る、楽しい時間であった。

その頃から少しずつスピード狂が発生し、「希望するテンポについていける車でないと危険、安全のためには……」と少々無理をしてメルセデス・ベンツの190Eという車を1986年に購入した。これは今までの車とはレベルの次元が違った。初めて運転した時、「え〜、これが自動車!? まるで水の上を滑っているみたい。それに何のノイズもきこえない……何と静寂な空間!」と興奮した。そしてちょっとアクセルを踏むと、音も無くものすごいスピードです〜っと前進、「なんて素晴らしい車!」と感激。説明書には最高速度、210kmと書いてあるので、一人の時は195kmくらい出して走っていた。
今から思うと、ぞっとする。

アーヘンからデュイスブルクまで、片道120kmの道のりを、いつも約1時間と計算して週3日間通勤した。しかしドイツのアウトバーンは制限速度なくスピーディーに走れる反面、恐ろしいことも沢山あるということが、次第に分かってきた。霧の大惨事に巻き込まれて奇跡的に助かったこともそうだが、鹿と衝突したことが一番ショックだった。その恐怖に怯えた鹿の“目”が数週間、毎夜夢に出てきて、その頃から車の運転がだんだん好きでなくなった。そしてある冬の朝、大してスピードは出してなかったのに、カーブを切った瞬間、車が凍っていた路上をくるくる回転して叢の中でやっと停止したとき「運転はもう沢山!」と思った。こんな“危険”なことがどうして好きだったのか、自分で自分が理解できなかった。

それ以来、通勤はいつも汽車、演奏会で荷物が多くてもタクシーと汽車か飛行機。車を使うのは買い物、となり駅までの8kmの道のり、そしてどうしても汽車では行けないところ、くらいに制限された。今年で16歳となるこのベンツ、車としては高齢で「え〜、まだあの赤いくるまに乗ってんの?」なんて自動車好きのドイツ人からは呆れられている。大して乗らないから車のほうも自然体となって、窓わくには緑色に苔が生えているし、先日久しぶりにガソリンを入れようとしたら、タンクのふたの横に、白い小さな花が咲いていた。「BIO車という21世紀に輝く新車!」と言いたいところだが、このBIO車は“テン”という動物にすっかり気に入られてしまって、人間は大変困っている。

テンはメルセデス・ベンツとBMWのケーブルが大好物という。毛皮はブラウンで、高価なだけあってフサフサと美しい。国が保護している動物で、個人が捕らえたら罪となってしまう。ぶっ殺しでもしようものなら、どんな重罪になることか。体は近所のデブ猫よりはるかに大きく、どうやってあんな狭いところに入れるのか不思議だ。車の下から侵入して、ケーブルをむしゃむしゃ食べてしまう。

4週間の日本滞在から戻ってきた翌朝の4月2日、買物でアーヘンまで車を運転した。途中で空調がきかなくなった。「あっ、またテンかな?」とすぐ車を停車させ、中を見ると案の定、ケーブルのあちこちに歯型がついていて、一箇所ほとんど切れている。もうこれで何度目だろう、困ったもんだ。先回は4本もの太いケーブルが完全に食いちぎられていて、エンジンすらかからなかった。テン防止に良いというものを、いろいろ試しているが、4週間も放置されていると効力も消え、苔が生えたり花が咲いたりするくらいだから、テンも心置きなく安心してケーブル・ディナーを満喫してしまうらしい。「しかしベンツのケーブルは高いのだ! 現金持ってないんだったら体(毛皮)で払え!」と言いたくなる。結局また修理へ持っていってタクシーで帰宅。何という時間とお金の無駄。

大学では夏学期が始まった。テンのワルサで害された気分を変えようと思い、学生を3人誘って映画を観に行った。『Tatoo』という推理ドラマで、その主人公の刑事を演じている男性俳優のインタビューが、クールなのにひょうきんでとても面白かったから、映画も面白いかと思ったら、残酷なピクチャーが次々とスクリーンに大写しされて、すっかり気持ちが悪くなってしまった。でも映画館へはもうずいぶん長いこと来ていなかったので、とても新鮮でもあった。シートは大きくゆったり作られていて、飛行機ならファーストクラス級の安楽いす。こんなシートがコンサートホールにもあったらすごいな〜、でもリラックスしすぎて皆寝ちゃうかも。

4日後、私のBIO車のケーブルと空調の修理が終わる予定だったので電話したら、「まだ終わってません。今夜18時ごろ仕上がります。故障の程度が思ったよりひどくて、いくつかの部品交換も必要でした。」と。もうデュッセルドルフまで来てしまっていたので、「そうだ、映画を観よう!」と中央駅裏の映画センターへ。昼の2時にやっている映画は少なく、『タイムマシン』というのへ入った。私を含めて4人しか客はいなかった。これはほとんど眠りの中で鑑賞。ものすごい騒音の中では熟睡していたみたい。かえって静かなシーンで目が覚め、その時はスクリーンをながめていたが、ストーリーを理解するには至らなかった。でもすっかり疲れがとれたし、“時差ぼけ”もタイムマシンで吹っ飛んだ。

音楽会にくらべて、映画は寝てても文句言われないから、というか暗くて周りの人もあまり気がつかないから、体を休めるのには最適な場所といえる。先週は『a beautiful mind』 というのを学生2人と観に行った。しかし、ここでは寝なかった。それは“映画”なのに、いつのまにか自分もそこに参加して会話をしたり、驚いたり、悲しんだり、希望を持ったりしていた。似たような状況がここ3ヶ月ほど前から身内にもあって、「人事とは思えない。」という理由もあったのかもしれないけれど、でもそれだけではないな。よくわからないけど。

夢はいろいろみる。いいアイデアや解決法を提供してくれる便利な夢もある。悪夢として一番多いのは、“コンサート会場に着いてみると、まったくちがうプログラムになってる。どうしてもそれを弾かなきゃいけないと、必死で練習するけど、その曲はなかなか弾けないし、思い出せない。時間が迫ってくる……”

数日前には悲しい夢をひとつみた。それは“私がゲオルク(夫)にむかって、「もう少しでわたしは死ぬの。この病気は治らないんだって。今年のクリスマスにはもう生きていない。でもね、雪が降ったら外をみて。降ってる雪は、私が振ってる手なの。ゲオルクちゃんにむかって いっしょうけんめい手を振ってるの。だから見てね。」そして私は庭にいて、細かく手を振ってる。ゲオルクは窓の向こう側、部屋の中から、さびしそうな顔してこっちを見てる。” と、そこで目が覚めて「あ〜、夢でよかった」と思った。外を見ると、雪なんか降ってなくて季節は春、新緑が朝の光の中にかがやいていた。

ところで現実って一体なんだろう。車のケーブルをむしゃむしゃ食べてしまうテンかな。
これこそ夢であってくれたほうがいいのに。


(2002年4月28日 ラントグラ−フにて)



「5日毎 当日発表」について  松井茂


水牛が主催した「当日発表」という朗読会のタイトルを無断で拝借してメールマガジンを始めた。題して「5日毎 当日発表」。同人は音楽評論家の三橋圭介、詩人の私、松井茂。毎回ゲストあり。原稿は、一人各回20文字×20行の400文字。3月11日からスタートして、タイトル通り5日毎に配信。全20回100日間限定。つまり、現在続行中である。今のところ、三橋はその時々の関心事を書いている(らしい)。私は詩でもありうる日録を書き続けている。ゲストは、作品あり文章ありエッセーあり。

ところで、これまでに「どうしてこういうことをやっているのか?」という質問を何度かいただくことがあった。多面的な動機の一面をゲストへの依頼文から以下に抜粋する。

(前略)ゲストとして400文字のご寄稿を頂戴できないでしょうか。メルマガの企画趣旨としては、「5日毎」ということ、「400文字」ということに力点を置いています。これは、現在、私が「Pure Poem(純粋詩)」という作品を「5日毎」に「400文字」web上にupするという詩的作業を続けていることと関連しています。つまり、私は5日間すこしずつ詩を書くという生活を送っているのです。毎日の数分を必ず詩の製作にあてているわけです。なぜこんなことをしているのかと言えば、生活に規定されて詩を製作するのではなく、詩に規定されて生活を送りたいからにほかなりません。そんな生活を始めて3ヶ月(2002年3月時点)が経ちました。そうこうしているうちに、ふと私の時間と平行して起こる他者の時間・事象が気になり始めました……。そのような意図で、このメルマガを発行してみようと思った次第です。確認いたしますと、依頼させていただきたく考えているのは、詩でもなく、日記でもなく、20文字×20行の全角400文字分のスペースへのご寄稿です。逆から言えば、詩でも、日記でもエッセーでもかまいません(後略)

私が関わる「5日毎」以外の2つの同人誌、「方法」は隔月刊、「ミて」は陰暦月刊。「方法」の隔月は、ほどよく便宜的な期間(?)。「ミて」の陰暦月刊は、女性の生理に適った期間(?)。いずれも発表される作品の時間とは関係なく、日常生活の時間によって刊行日時が決められている。対して、作品の時間に適った媒体があってもいいのではないかと思った。「5日毎」で直接「Pure Poem(純粋詩)」を配信しているわけではないが、web上にupされる「Pure Poem(純粋詩)」シリーズの時間を顕在化させる媒体として「5日毎」がある、と私は思っている。

●今後のゲスト予定は以下のとおり。(括弧内は肩書き)
 配信を希望される方はshigeru@td5.so-net.ne.jpへ
5月5日関富士子(詩人)、5月10日古屋俊彦(美術家)、5月15日篠原資明(詩人)、5月20日小池純代(歌人)、5月25日さかいれいしう(その他)、5月30日辰巳泰子(歌人)、6月4日ゲスト未定、6月9日武藤大祐(ダンス批評)、6月14日石井辰彦(歌人)





しもた屋之噺(5)  杉山洋一



 ますぐなるもの地面に生え、
 するどき青きもの地面に生え、
 凍れる冬をつらぬきて、
 そのみどり葉光る朝の空路に、
 なみだたれ、
     (「竹」萩原朔太郎)
         
「月に吠える」を最後に読んだのはいつだったでしょうか。
中央駅の傍らから、真夜中モンツァの拙宅に向かうバスに乗ると、目の前の闇に旧ピレルリビルが無気味に浮び上がります。無惨にえぐられた部分は、岩壁に穿たれた風穴のようでもあり、スポットが当てられたさまは、金庫荒らしが破壊した鍵穴の拡大写真でも見るような、超現実的な光景です。

それまで単なる州庁舎だと思っていたものが、一瞬にしてモニュメントと化し、神秘的な様相すら顕すのは、或る瞬間で時間が止まっているからです。ツインタワーの事件来、アメリカでの喪失感が話題に昇りますが、今回その意味を理解しました。躯の一部が壊死し、細胞が融ける感触を、複数の人間が共有するのでしょう。そこから戦争体験の酷さを想像するにつけ、思わず鳥肌が立ちます。

普段およそ朔太郎を思い起こすことなく暮らしながら、異次元が口を開いた途端に皮膚にへばりつく触感に、戸惑いすら覚えました。「月に吠える」など、十年は読んでいなかったと思いますが、初めて彼の世界を垣間見た気がします。虚無感を身を持って理解したと言うと不謹慎ですが、実際に現場に立つと、えも言われぬ説得力で迫るものがあって、恐怖を通り越し魅入ってしまいます。

異次元と言えば、昨年七月のジェノバ・サミットでの暴動を覚えていらっしゃるでしょうか。あの折の警察機動隊及び憲兵の行動は、後に大きく問題視されました。暴動の最中、憲兵の誤射に倒れた若者カルロ・ジュリアーニを悼み、35人の作曲家が小品を捧げ、デモのフィルム上映、左派系詩人の朗読と共に「反ファシズム、反暴力、反戦集会」を催しました。

ジェノバの暴動を肯定し、反暴力を謳うのはどうかと首をかしげていると、なるほど映写フィルムはジェノバのものでなく、ミラノの平和なデモ行進に差し換えられていました。「ゲバラ、デサパリシードス(無数のアルゼンチン行方不明者)、グラムシ」といった名前を俳優が読み上げ、詩人は「あの時、自分は牢獄で冷飯を喰らい……」と朗読していて、余りに混沌としてよどんだ空気に堪え兼ね、早々に退散しました。

過日、左派の映画監督モレッティが、イデアリズムに片寄る現在の左派を痛烈に批判し支持を集めましたが、現実乖離した先の集会を見るにつけ、納得がいきました。とは言え、戦後イタリアの知識層、音楽界を支えたのが彼らであって、一時期は、共産党員でなければ、音楽活動すら出来なかったとも聞いたことがあります(今でも、裏でささやかれるのは、某は右なんだぜとか、何党誰某のご寵愛だそうだ等と政治絡みのゴシップが多いものです)。

先の集会の発起人であるペスタロッツァは、かくしゃくとした陽気な老人で、著名な音楽学者なのですが、彼はノーノやブソッティ、マンゾーニといった左派の作曲家を世に紹介した張本人で、第二次世界大戦中はパルチザンの英雄として名を馳せたそうです。4月25日がイタリアのナチスからの解放記念日にあたるので、ANPI(イタリア・パルチザン全国協会)の幹部でもある彼は、この時期パルチザンの語り部として多数の中学校、高校を巡っていました。これからラジオに出演するからとペスタロッツァから電話を受け、チャンネルを合わせると、番組に或る年配の女性から電話がかかりました。

さっき誰かが、パルチザンだったお父さんは何故か何も話してくれなかった、と言っていたけれど、あのね、パルチザンは誰も好き好んでなったのではなかったのよ。私の父は何時も目に涙をためていたわ。私は、この目で父が壁に立たされるのを見たのよ。今でもあの時なぜ銃殺されなかったのか不思議でならないわ。パルチザン100人中、90人はただの普通の市民だったのよ。どうしようもなくて、いやいや人を殺めたりしたのよ。分るかしら。残りの10人は、確かにパルチザンが好きで、英雄気取りで、人を皆殺しにするのもやぶさかではなかったかも知れないけれど、でも他の90人は誰も好きで人殺しなんて出来る人達ではなかったのよ。私は、ヴェローナの市場で一人の婦人がナチスになぶり殺されるのを見たわ。ただ、殺すだけでは気が済まず、着物も剥いで逆さ吊りにして、広場で晒しものにしたわ。皆、寄ってたかってその様をげらげら笑って見ているのよ。あなた、想像出来る? 躯から垂れた排泄物なんかを見て、哄笑を上げているのよ。尋常でなかったわ。

そこまで言って、彼女は言葉に詰ってしまいました。

皆を愛しているわ。聞いてくれてどうも有難う。

イタリアは正確には敗戦国ではありません。最終的には、ナチスによって占領下に置かれていたと理解するのが、彼らの感触に一番近いようで、解放記念日も日本の終戦記念日とは随分印象が違って、祝祭気分に溢れています。

そんなイタリアにあって、昨年誕生した中道右派のベルルスコーニ政権は、現実乖離した左派に対する市民の痛烈な批判の表れ以外の何ものでもありません。元来、右派イコールファシストとされた観念が、崩れ去った証拠でもあります(もっともムッソリーニの孫が議会に選出される位ですから当然ですけれども)。先のフランス大統領選を初め、ここに来て欧州各国で左派が軒並み潰れましたが、ヨーロッパ人でない暮し難さが、薄く蔓延しつつある気がします。イタリア南部の或る街では未だにムッソリーニが神格化されたままで、外国人蔑視が寧ろ当然だと聞きました。 

第二次世界大戦後の半世紀、様々な矛盾を抱えつつ見せかけの平和を取り繕ってきたものの、あちらこちらでほころびが解けつつあると感じる昨今で、音楽をする意味を改めて自分に問い直すべきかしら、ふと、そんな事も思うのです。

(4月26日 モンツァにて)





モンコンのCDブックより(3)
     物乞いする子ら  モンコン・ウトック 荘司和子訳



ぼくが「タイ人民の声」放送のスタジオで働いていたのは6ヶ月くらいで、1980年のはじめにそこが閉鎖されてからは小学校に行かされたのね。子どもたちに歌と絵を教える先生をやらされたわけ。美術学校を卒業してこのかたこの方面のことが役に立ったのはこれが初めてだった。

着いた最初の日、さっそく子どもたちに歌を唱わせる練習をさせられた。何の歌だったかもう記憶にないけれどぼくが唱ってその後に続いてもらおうとしても誰ひとりついて唱わないの。それまでそんな風に唱ったことがなかったんだね。でも子どもたちとはじきに仲良しになった。ぼくが歌を作って子どもたちがそれを唱ったり劇にして唱ったり。校歌も作ったしその他いろんな活動のための歌をたくさん作ったけれど自分で唱ったわけじゃないから歌詞を忘れてしまった。

ほんのわずか覚えている曲があってそのひとつがこれ、『物乞いする子ら』

   おいらは乞食さ
   ねぐらだってない
   みじめだよな
   誰かいないのかい
   寒いだろうって
   着るものでも投げてくれるやさしい人は
   小銭でもいい
   白い飯でもいい
   通り過ぎていかないでくれよ
   どこに好きで
   物乞いやる奴がいるもんか

これは劇の中で唱った曲でテープに録音した。ここの子どもたちにタイの社会を理解させるための教育の一環だった。なぜかというとここの子どもたちはタイの社会で暮らしたことがないんだね。彼らは党員の子どもたちで山岳地帯のジャングル(共産党解放区:注)の中で生まれた子どもとか革命闘争に参加したメオ族の子どもたちとかだった。6歳以下の子どもたちの学校と幼稚園は中国とラオスの国境ムアンラー(西沙版納の東南端:注)にあった。6歳以上の子どもたちは昆明の小学校に行かされていた。

その後学校はビルマの北方と国境を接する地方へ移転した。垣根の向こう側にはビルマの党の学校があった。ここはかつて中国解放軍の駐屯地だったときの状態がそのままになっていて垣根が築地の外周を取り巻いていた。学校の名前は「多民族の学校」と命名された。ぼくは校歌を作ったのだけれど1行目を除いて後は忘れてしまった。

学校のカリキュラムまで自分たちで作ったんだ。だいたいはタイで実施されているカリキュラムを取り入れたわけだけど。ぼくは子どもたちに教えるのがすごく楽しかった。歌も作って教えたし、絵を描かせた。絵を描かせるときは子どもたちに自由に発想させるのね。野外に連れ出して水彩で描いたり、あるときはバスケットボールをやる運動場の地面に絵の具で絵を描いたり。あるときはレンガを積んで要塞を作ったり。子どものころ自分も大きな絵を描きたくて雨があがったあとの砂地に木の枝で絵を描いたこととか、泥をこねて遊びたかったこととか思い出したな。

ぼくが「多民族の学校」にいたのは1年半でそれからは帰国に向けて移動することになった。ビルマの学校はそれより先に移転して行ってしまった。最後の日ぼくたちはタイ語とビルマ語で一緒にひとつの歌を作って唱ったのさ。いちばん最後の歌詞だけ今でも覚えている。

   『もう行ってしまうんだね
    また会おう、大好きな友よ』



書きかけのノート(13)  高橋悠治


第二回方法芸術祭(4月14日と28日阿佐ヶ谷の太陽薬局跡)でおこなわれた三輪真弘の「またりさま」「流星礼拝」を見て 2枚のCD「(Aのテクストによる)言葉の影、またはアレルヤ」「新しい時代 信徒歌曲集」をきく

「またりさま」は輪になった人びとのゲーム 手にした鈴と木片を前にいる人の肩をたたく 木(1)か鈴(0)かという排除的OR回路の環状の連結は 初期値と環の項数 つまり参加者の数により 0に収斂する場合をのぞき 長い周期か カオス状態に分化する これはアトラクタを自己組織する細胞オートマトンのモデルであり それを人間が演ずることによって さらに予期しないカオスが出現することを目的とするゲームと定義することができだろう 三輪真弘はこれを逆シミュレーション音楽と呼んでいる

バグであり ノイズである人間の 不完全さの介入により 理論的には長い周期が予測される場合でさえ このゲームは絶対に失敗する 鈴と木の響からは どのような規則的なリズムもききとることはできないだろう ただし ロジスティック関数もそうだが 初期状態によっては予測できない結果に陥るということは よく考えてみると 自律的な運動を創り出すこととはちがう このようなアトラクタは 最初に設定された輪の外に出ることはできず 閉ざされたカオスのなかでもがきつづけるのだ 逆シミュレーションは高次システムの発生ではなく 自己破壊に向かう

「流星礼拝」では おそらく似たようなアトラクタがコンピュータから7音音階の「神の旋律」として発振され 特定の数の組み合わせは輪になった人びとの腕につけられた電極を通じてパルスを送り 筋肉の自動的反応により手に持った鈴が鳴る どこともなく漏れてくるかすかな声が 疑似カルト的メッセージを語り 疑似科学的価値を説く 意味をうばわれ 1と0の組み合わせに還元された存在はブラックボックスであり 外部の情報機械の操作によってうごかされる意識のない形式である これはいまやアナクロニズムとなったフォン・ノイマン的宇宙ではないか しかしカルト的雰囲気も認知科学理論も アルゴリズムを隠すインターフェイスであり ジョークかもしれない だが もしかしたら本気なのか と疑ってしまうような 暗い影を曳いている

「言葉の影」は 演奏される正弦波の組み合わせにフォルマント・フィルター操作を加え 声らしきものを発生させるアルゴリズムを指しているらしい その上にかぶさっているのは少年Aの ぼくの名は酒鬼薔薇聖斗 夜空を見るたび思いだすがいい あるいは ぼくが存在した瞬間からこの名がついていて やるべきことも決まっていた ということばだ

「信徒歌曲集」はイスターミアの教えに導かれ 世界の終末とともに光に向かって旅立つ人々の賛美歌 合唱 集会記録のかたちをとっている フランスやカナダで集団自殺や処刑によって旅立った「太陽寺院」を思いださせるこのような作品を発表する自由は おそらくいまのヨーロッパにはないだろう

十年ほど前 クセナキスの家で共通の友人であるミシェル・タバシュニークが 「太陽寺院」の信徒がかれの家族を襲撃した事件を語ったことがあった なぜ狙われるのかわからない とかれは言った タバシュニークはブーレーズの弟子の作曲家・指揮者だった 秘教的儀式的なオーケストラ曲を書いていた 指揮者としてはクセナキスの最良の理解者だった その後フランスの報道では かれはじつはこのカルトの指導者 あるいはすくなくとも広告塔だった かれの最初の妻は 発見された大量焼死体のなかにいた その報道以来 かれはどこで何をしているのか

十年ほど前 三輪真弘は コンピュータ・アルゴリズムをつかいながら 人間と機械の差 異文化のあいだの落差を 単純化され ユーモラスなかたちで見せる作曲家だった ドイツを離れて 東の国のはずれで 機械に囲まれた研究室で いま何を考えているのだろう 以前にもまして単純な関係のアルゴリズムから自動生成するカオスは なぜ記号にとらわれ 象徴となって 秘教的なことばをまとうのか 設計もなく 目標もなく 単純なルールだけでつくりだすこの複雑性は 一見マトゥラーナとヴァレラのオートポイエーシスが例に挙げた 設計図もなく 大工の集団がそれぞれのしごとをしているうちに立ち上がる家に似ている だが それはほんとうに共同体の行為だろうか

そこには はっきりしたちがいがある まず 生きた共同体の作業には ちがう機能が組み合わされていて どの個人がどの作業をやるかは 自主的な決定による 大工と左官はちがうし そこに弁当をとどける人もちがう 作業には厳密なスケジュールはない ちょっと休んでもいいし ちがう作業を手伝うこともある そして参加者は限定されてはいない 加わったり やめたり 交替することもある

それに対して この疑似的儀式の参加者は 空白の中心に向かって 閉じた環をつくっている ルールはあきらかに外側からやってくる強制的なものだ
ゲームの速度は 自主的な対応を許さない そしてデジタル・ネットワークの流れは加速する傾向がある 結果としての複雑性も 習慣的反応に依存している そこには人間同士のつきあいのよろこびがない 「神の旋律」もオルダス・ハクスレーが書いた タイプライターに鎖でつながれた猿たちが2億年かかって偶然に叩き出すシェークスピア全集を思いださせる

「またりさま」は ホセ・マセダが紹介したルソン島の山岳民 カリンガの人びとの音楽に似ている とだれかが言っていた カリンガのゴングは マセダの分析では 3種類の機能に分かれる 4つのゴングのずれから生まれるメロディー 5番目のゴングのドローン 6番目のいちばん小さいゴングのミニ即興 それらの相対的に自立した機能は 村の世代構成と対応する これは閉じた環ではなく うねりながら進む列で 広場の群衆のなかを練り歩く そこには中心もなければ 外側もない

狂気を装うのも 狂気の表現であるといわれる カルトを装うことも危険なジョークにはちがいない いまや伝統的共同体は存在しない そのようなものに帰依すれば ナショナリストになるだけだ キリスト教文明は戦争のなかで崩壊しつつある 記号も 象徴も ことばの優位も デジタル・テクノロジーでさえ 巨大にふくれあがった空白 まさに0にすぎなかったことを これからは いやというほど見ることになるだろう あの少年のように 国籍もなく 名前も顔もない透明人間になって 闇の輝きに不安をやわらげようとする人々がいる 「またりさま」のルールでは もし全員が鈴ではじめた場合は 鈴だけがいつまでも 鳴りつづけることになる これは すべての細胞が自殺する単純アトラクタと呼ばれる



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