2002年6月 目次


尺八で癒す                佐藤真紀
しいなまち・カフェノート(3)   イナン・オネル
シソー?                 三輪真弘
量子詩?                 松井 茂
しもた屋之噺(6)            杉山洋一
5月27日                御喜美江
モンコン・ウトックのCDブックから(4) 荘司和子
書きかけのノート(14)         高橋悠治



尺八で癒す  佐藤真紀




4月14日、井下医師がイスラエルの入国を拒否されてしまった。「パレスチナ地区で苦しんでいる人を治療したい」この言葉が入国審査官の気に入らなかった。そのころジェニンで虐殺が起っているかもしれないというので、各国から医師を加えた調査団が入ろうとしていたが、多くが同じように入国拒否にあっていた。井下医師は紛争前の約1年間パレスチナの赤新月社で働いていた経験もあるので、ぜひJVCの緊急救援チームに加わってもらおうと、コソボから呼び寄せたのに残念だ。そこで、何とかもう一度挑戦してみてはどうかということになり、今度は「尺八奏者のイノシタとして、イスラエルの人たちの病んだ心を癒したい」ということにした。作戦はまんまと成功した。しかし、チェックポイントではイスラエルの兵隊に尺八を取り上げられる。兵隊はサックスを吹いていたこともあるらしく、一生懸命音を出そうとするがだめだ。最後は尺八をイノシタ医師に返すと、彼の尺八に合わせてなんだか歌を歌いだしたのだ。兵士も西岸の都市から撤退を開始しだし、随分とリラックスしてきている。薬を持って訪れた村の診療所でも尺八は大活躍だ。「人権のための医師団」はイスラエル人の医師たちからなり、毎週土曜日には占領地を訪れて診療する。特に最近は封鎖が厳しく村は孤立してしまうので専門医にかかることができないので、こういうチャンスに患者がドバッと押し寄せる。10人の医師で500人から600人を半日にみなければならないので大変だ。休憩の時には井下医師の尺八が聞こえて患者や医師たちの疲れを癒した。
尺八の曲に「産安」というのがある。民間伝承でこの曲を吹いて得た布施米をいったん尺八の中をくぐらせてから粥にし、それを産婦に与えると安産になり、豊かな母乳をも得られるという。井下医師が村のクリニックの産婦人科で吹いていたのはこの曲かもしれない。紛争によるストレスで、流産したり、母乳が出なかったりすることが多いパレスチナで、井下医師の尺八療法が功を奏していた。

5月10日、ジェニンでコンサートをやることになった。
ジェニンの難民キャンプは、中央がすっぽりと建物が破壊されて砂埃だらけになっている。パレスチナの難民キャンプは、50年以上もそこにすみ続けているから、コンクリートの家がひしめき合っている。路地は狭く中はまるで迷路のようなのだ。しかし、こうも見通しが良くなってしまうと、全く自分が違うところにいるようだ。NYのワールドトレードセンターもおそらくはこんな感じだったのだろう。子どもたちの心にも何かすっぽりと穴が開いてしまったようだ。虐殺があったとか無かったとかの議論がなされる中、やはりこれだけの破壊の中でおびえていた人々の恐怖はちょっとやそっとでは癒されない。
そこで登場するのが、ドクター・イノシタだ。そして今回共演してくれることになったのがイスラエルのアラブ人歌手、アマル・マルカスさん。ひょんなことから彼女に出会い、ジェニンに行ってきたことなどをはなしたら、「ジェニンの子どもたちのために一緒にやりましょう」ということになった。子どもたちが数千人来るというのでさすがのイノシタさんでもこんな人数を癒すことができるのだろうかと心配していたので、テレビでレギュラー番組を持つほどのアマルさんの協力は頼もしい。ところが、アマルさんはイスラエル国籍を持つために、検問で止められてしまった。私たちだけ先にジェニンのフットボールスタジアムにつくと既に数千人の子どもたちが集まっている。子どもたちはすっかりフットボールスタジアムの雰囲気を楽しんでいて勝手に歌ったり手拍子をしている。僕たちはアマルさんの後ろでちょっと音を出すことくらいを考えていたのだが、アマルさんは検問で止められたままだ。結局イノシタ医師はともかく、私たちド素人でステージをやらされる羽目になってしまった。子どもたちを満足させられるのだろうか。僕たちがそこそこ「つまらない」演奏をしている途中でアマルさんが無事に到着したという知らせが入る。一安心。会場はもう大興奮。アマルさんたちも「こんなに子どもたちが待っていてくれるなんて」と感きわまる。いやーさすがプロだと見とれていると、興奮した子どもたちがステージに駆け上がろうとする。主催者の赤新月社のボランティアが注意すると、子どもたちは、怒りだし会場は大混乱になってしまった。みるとあちこちで気を失って倒れている人がいる。結局2、3曲歌って、もうこれ以上やると危険だというのでコンサートは中止せざるを得なかった。われわれのように、そこそこ「つまらない」芸を披露して「あれ、本当につまらなかったね」と子どもたちが笑いあうぐらいが「癒し」になるのだということをイノシタ医師から教えてもらった一日であった。
ところが、そうは開き直っても、ひどい演奏だったことには変わり無く、私もイノシタ医師も、人前で演奏したりすることはしばらくできそうも無い。


報告会をやります。
6月5日 大井町駅前 「品川きゅりあん」午後7時 〜 9時
参加費 800円 
佐藤真紀とイノシタ医師のトークです。
連絡先 03−3834−2388 (日本国際ボランティアセンター)



しいなまち・カフェノート(3)  イナン・オネル



虚構と現実の狭間で戯れながら紙に向かい、
ゆっくり背伸びをして考え込む:
自力で歩けなくなってからも布を合わせて縫い続けている祖母と
その祖母の世話をしながら旅に出る時機を待っている母と
無職無保証のまま長篇小説執筆中の父と
大学を卒業できないまま徴兵された兄と
普通の就職を嫌って舞台を目指す妹と
まだ世間を知らない弟と
連休だから実家に帰った恋人を。
私は珈琲豆の香るこの空間の中で
ままならぬ浮世に揺られながら
居続けるこの異国の言葉で
ゆっくり背伸びをして
考え込む。

(「陶芸&珈琲」にて)



シソー?  三輪真弘


あるきっかけがあってぼくの周りでは「思想のない芸術はクソなのか?」という話題が最近人気である。思想という言葉を辞書でひくと「判断以前の単なる直観の立場に止らず、このような直観内容に論理的反省を加えてでき上がった思惟の結果。思考内容。特に、体系的にまとまったものをいう」と書いてある。なるほど、単なる考えではなく「体系的にまとまったもの」という点が大切なのだろう。日本の社会の中で活動して、教育にも関わって、一番ぼくが違和感を覚えるのはいつもこのことかも知れない。芸術表現が表現者の思想と切り離されてそもそも成り立つのだろうか。それは特殊なことなのか。表現において思想的な背景を見ようとしない、切り離して考える、いや、それらを忌み嫌い、「美しさ」のみを探し求める着想は一体どこからきたのだろう?そんなことが可能だとみんなが思っているのだろうか?思想とはもちろん政治的、宗教的な思想のことだけではない。それらを含む、個人がそれぞれ持っている(はずの)世界観や価値観の総体である。それとはまた異なる次元に芸術はあるのだ、と言い張ることは、それでもなお可能だろう。しかし思想がなくて芸術的な美だけがあるような作品になど、ぼくは出会ったことがない。芸術から思想を抜き取るとすべては美とは無関係の、何らかの目的で「デザインされたもの」にしかならない。そしてアーティストは消え「デザイナー」だけが残る。ふたつの違いを指摘する人などめったにいないからだ。一方で、日々の行動や表現がすべて、嫌でも政治的、思想的にならざるを得ない状況に暮らす人々が今、この世界にいくらでもいることをぼくらは知っている。知っているどころか、ぼくの親の世代は誰もがそのような状況を経験して来たはずだ。にもかかわらず、それらをまるで珍しいもののように考えることがどうしてできるのだろう?なぜここでは思想は抜き取られねばならないのか?多分、昔から「なぜか御法度」だからだろう。いや表現する事自体が本来御法度なのかもしれない。西洋から見ると東の国のはずれのこの島では、生活の中にあるささやかな意匠や、装飾に芸術的な美を見いだし、また生み出す一方で西洋的な、しばしば自意識過剰にもなり得るグロテスクな個の表現を心の底では軽蔑しているのだろう。そしてそれはもちろん、ひとつの立派な思想である。誰もが必ず持ち、奪っても奪うことの出来ない思想こそ人間の尊厳の問題であるはずだが、そもそもこの「尊厳」という言葉自体、田圃に現れた西洋の古城風ラブホテルのように、いや、この島のゲンダイオンガクのようにもっともよそよそしいもののひとつである。そのような環境の中で自分に、ぼくらに何が可能なのか?機械に囲まれた部屋からパチンコ屋の前にそびえ立つ自由の女神を眺めつつ考えているつもりだ。そもそも芸術表現がどうやったら今でも可能なのかすらわからないが、それでも、自分が体験した様々な芸術作品に接したときの感動を頼りに、ぼくは「思想のない芸術などクソだ」と思っている。それが、ここでなら何かを言ってみたいと感じた大きな理由なのだ。お食事中のみなさま、ごめんなさい。

今日の朝日新聞夕刊のトップ見出し:「情報公開請求、防衛庁が身元調査、リスト作成、思想など記載」 




量子詩?  松井茂


『暗号解読──ロゼッタストーンから量子暗号まで』(サイモン・シン著・青木薫訳)を読んだ。タイトルにあるとおり、本書では単なる暗号だけでなく、ロゼッタストーンのような失われた言語の解読から、ディヴィッド・ドイッチュによって理論モデルが提出された量子コンピューターによる未知の暗号までが扱われている。

暗号とは、基本的にあるメッセージを発信者と受信者との間の取り決めにしたがって、一定の法則で変換したメッセージを指す。これは、関数であり、翻訳といっても間違いではないだろう。文化の異なる言語からの他言語への翻訳は、それぞれの文化間の偏差があるので、一定の法則で変換するというわけにはいかない。とはいえ、この本を読むと、ロゼッタストーンのような、古文書の解読の際にも、通常の暗号解読の方法論が用いられたことが分かるし、文化的偏差、つまり「言葉の壁」それ自体を利用することによって解読困難な暗号が作られたということもあったことが分かる。

通常の暗号を解読する際にも、原文の言語固有の性質から暗号が解読されてしまうということはあった。例えば、英語ではもっとも使用頻度が高い文字は「e」であり、つまり出現頻度が高い順に、使用頻度と照らし合わせ文字を代入していけば、自ずと暗号は解読されてしまうのである。ゆえに、その頻度分析に耐えられる暗号が作られてきた、ということが暗号の歴史だとさえいえる。

詩や小説などの文学的表現も、ある事象をそれぞれの筆者という一定の法則で変換していると言えないこともない。詩や文学の比喩を関数として理解することだって可能なのだ。

ただ、ロゼッタストーンにしてもそうだが、文学や通常のテキストと暗号はその目的が大きく異なる。前者は意味を強調するために関数を使用しているのであり、暗号のように解読できないものを意図しているわけではないのだから。

ちなみに、文学を関数で書く、物語をある種のアルゴリズムで構成するといったことは、分析レベルでなく実作レベルでもう少し意識されてもよさそうな気がするのだがいかがだろうか? タイトルはそれぞれ使用された関数の式をつけるとか。だいたい定型詩や、韻文はそういった範疇で作られている部分は多々あるだろう。

機能的磁気共鳴画像の世界的権威である新潟大学教授・中田力氏は、若かりしころに、自分の感情を数式で詩にしていたという。是非とも、またそういった詩を書いてもらいたいものだ。ちなみに、その著書『脳の方程式 いち・たす・いち』は脳神経学の専門家でもある氏の仕事を垣間見ることのできる名著だ。

私自身は当然のことながらあまり理解できていないのだが、『暗号解読』から理解した量子コンピューターに基づく、量子暗号のことを少し。大まかに言えば、これまでのコンピューターは古典物理学によって作られてきた。それを量子物理学に依拠して作ろうというものである。つまりは、20世紀物理学の世界で起こった革命をコンピューターの世界に持ち込むという目論見だ。ただ、まだ理論モデルの段階である。

量子コンピューターが完成すると、暗号的には大変なことが起こる。これまで作られてきた暗号が、まったく無効になるのだ。これまで天文学的な時間をかけないと演算できなかったこれまでの暗号が、瞬時に計算され解読できるようになってしまうというのだ。

これは、大変な事態だ。なぜなら暗号は、これまでのどの時代よりも一般人である我々にとっても身近なものになっているからだ。要するにインターネットやメールなどweb上の情報管理は従来の暗号によって管理されているのだから。ドイッチュがこの理論を発表したのは1985年のこと。ひょっとしたら、どこかの国の最高機密として量子コンピューターが作られている可能性は、十分考えられる。こういった状況にどう対処すればいいか、悩んでもどうにもならなのだが、知らないよりはましだろう。詩人の私としては、門外漢なりに量子詩の可能性を探りたいところではある。

ドイッチュの『世界の究極理論は存在するのか』はなかなか面白い書籍のようだ(購入したけど未読なのです)。





しもた屋之噺(6)  杉山洋一



春の盛りです。これから夏へかけてが一番心地良い季節で、時折、スコールが真黒の雨雲と共に通り過ぎてゆく以外は、寛いだ陽気が抜けるような青空に広がります。古アパート4階の拙宅から石階段を伝って降りてゆくと、最近燕の巣がにわかに活気づいていて、中庭に繁る木々の合間を飛び交っていました。

最近劇場作品の作曲依頼を受け、自分に何が出来るのか暫く考えていて、死刑と安楽死を通して人間の尊厳に関わる矛盾を描いてみたいと思うようになりました。死を最後まで拒絶する人間と死の願望を拒絶される人間を、敢て一つの空間に共有させると、究極の矛盾が疑問符を投げかけます。オペラとして成立させるのは、恐らく不可能でしょう。ありきたりのプロットを仕立て、センチメンタリズムに陥る位なら、作曲しない方が賢明です。先日もアルゼンチンのデサパリシードスを題材にした一人芝居を観に出かけ、失望して帰って来ました。低俗な茶番よりも、会場の中庭に貼られた、無言の行方不明者の肖像写真の方が余程雄弁で、自分に大きな教訓を残しました。政治的なメッセージを込める積りは毛頭なく、世界中に散らばる証言、遺書、記事等の断片を、純粋に一つの時間軸に絡げ、音楽の客体化された空間で据え直したいだけです。

この題材を選ぶに当たり、幾つかの伏線はありました。
一つは、自分がアメリカと並び、死刑を執行している国に生まれた事です。先日も、当地の大衆新聞に「日本の様な人権問題に疎い野蛮国にワールド・カップ等開催する資格はない。小泉首相に抗議の文章を送ろう」と大きなベタ記事が掲載されていて(官邸の住所とファクス番号まで附記されていて)、思わず溜息が洩れました。

親しく交わっていたドナトーニの死も、自分にとって大きな契機となりました。長年重度の糖尿を患い、数年前に自分で身の回りの世話が出来なくなった時点で、これ以上生きるのは虚しいと明言したにも関わらず、我々周りの人間が、何とか彼を生きさせ作曲させるべく、策を巡らせていたのでした。肺に水が溜り入院した夏の盛り、突然ぱったりと食事を拒否し、そのまま衰弱して息を引き取りました。生きる事を拒絶する人を目の当たりにして、生きる事が何を意味するのか考えさせられました。生はすなわち死を理解する事であり、死は逆に生を理解する事なのかも知れない、とその時思いました。

……マリゼルラから電話。「Franco e' morto(フランコ、死んでしまったわ」と言われた時、初め全く内容を理解していなかった。文章を何度か反芻して漸く内容が理解できると、今度は愕然とした。心の中で「まさか。嘘でしょう」と叫んでいて、マリゼルラは泣いていた。
霊安室に駆け付けた。Camera Ardente("燃える部屋"という意の死体安置礼拝所)という恐ろしい名称の部屋に並んで、霊安室、Camera Mortuariaは病院の外れにあった。入口には、ただ「Avanti(お入り下さい)」とだけ書いてあって、空恐ろしかった。辺りには人気がなく、びくびくしながら天井の高いがらんとした建物の廊下を、誰かを探しさまよった。 門番の憲兵が、呼鈴を鳴らせば人が出て来ると教えてくれ、その通りにした。目の前には遺族らしい10人程の人が泣き崩れていた。果して白衣を来た男性が現れると、「地階の7番の部屋です」簡単に言われ、独りで階段を降りた。ダンテの神曲で、地獄に降りる気分とはこんなものかしらと考えた。
霊安室は形容し難い、壮絶な処だった。広間に面して幾つもの個室が単純に並び、幾つかのドアは開け放たれており、ベットに人が横臥している姿も見えたし、或る部屋には遺族らしき人々が集まり亡骸を囲んでいる様が、厭がおうにも伺われた。
こわごわ7号室を探し、ノックした。中には誰か居ると思った。失礼します、と言って恐る恐るドアを開けると、シーツにくるまれた足の先が見えた。ひんやりとした奇妙な雰囲気の部屋に入ると、4畳程の白タイル張りの殺風景な小部屋にフランコが横たわっていて、他には誰も居なかった。自分が異物に感じられ、落ち着くまで時間が掛かった。顎から頭にかけて、包帯でしっかり留められていたが、落ち着いた顔だった。土色とは言え、普段から顔色が悪かったので、死んでいる事すら分らなかった。換気扇がまるで彼の寝息の様な音を立てていて、喉に挿入されていたチューブやカテーテルを外されたフランコはこざっぱりとして、長かった葛藤から漸く解放されたと思った。目は閉じられていて、右側から見るとただ寝ている様に見えたが、逆から見ると目は微かに開いていて、宙を見ている様にも、又目の奥がじろと僕を覗いた気もして、どきりとした。屍に触れるのは初め抵抗があったが、軽く髪を撫でると、いつものフランコで安心した。冷たくなってはいたがきっと彼も近くに居るに違いない、この様子を飄々と眺めているだろうと思うと愉快にさえ感じられたが、不思議な事に、結局呆然としているだけで何の感情も湧かなかった。
もうそろそろ帰ろうと思った時、ふと我に返って当惑した。今までは「又、近い内に」と声をかけ、フランコが「Ciao, Yoichi!」と答えるのが常だったが、霊安室では何と声を掛ければ良いのか。こういう時に「Addio(永遠の別離の挨拶)」と言うのかと思った途端、涙が溢れた。額にお別れのキスをして、後ろ髪を引かれる思いで外に出た。(2000年8月の日記より)

当時、ノーノの「プロメテオ」のツアーの為に、ヨーロッパを回っていました。この2時間半かかる長大な作品はプロメテウスを辿る壮大な旅であり、ノーノがゆきついた理想を具現化させた劇場作品です。ノーノは作曲の技術こそありませんでしたが、時間軸に於けるプロットの編み方が並外れていました。感情の方向を鋭敏に感知する、殆ど動物的な嗅覚と、それを本能的に操作できる才能です。その意味で、ノーノは本質的に音楽家だったのかも知れません。

ドナトーニの死とプロメテオの劇場体験が、いつの間にか自分の裡で二重写しになっていて、結局、死を舞台空間へ繋ぐ必然性が潜んでいた事に気付くのです。ノーノと自分の音楽観は違うので、劇場作品を紡ぐにあたって、これらの出来事がどう作用する事になるのか見当もつきません。最終的に共に死に収斂される死刑と安楽死は、全く離反する二つの方向へ我々を導きますが、そのプロセスの中で、定義付けとしてでない、客体化された死を浮び上らせる事が出来たなら、ここ数年間自分の裡で燻っていた何かを、漸くやり過ごせる予感がしているのです。

(5月30日 モンツァにて)





5月27日  御喜美江



ヨーロッパでは5月に突然真夏の暑さになることがある。
ダウンコートを着ていた翌日に30度近い気温、なんてことがしばしば起こる。
5月13日朝、ラントグラ−フの自宅を出たとき外はまだ肌寒く、身支度はコートにマフラー、10日間ぶんの旅行ケースの中にはセーター、ウールのズボン、厚手の靴下、手袋、そしてホカロンまで入っていた。靴も冬用の足首までしっかりつまっているもので、半そではブラウス一枚しか入れなかった。

ドルトムントで3日間教えてから、ニュールンベルグという汽車で約5時間、南ドイツ・バイエルン州にある美しい古都へむかった。ドイツ政府は“ユーゲント・ムジチーアト”(青少年・奏でる)というコンクールを毎年この時期に開催していて、今年はここニュールンベルグが開催地だった。このコンクールの一次選はドイツの各都市において1〜2月に行われ、二次選は3月に各州で行われる。それらをパスしてはじめて全国大会に参加できるわけだが、今年も約1600人の参加者があった。12歳から20歳くらいまでが対照で、年齢別に4つのカテゴリーに分けられている。ピアノや弦楽器に比べれば、はるかにその数は少ないが、アコーディオン部門もあって、ふだん学生ばかりを聴いている自分には、12、3才の子供達が弾くアコーディオンがとても楽しく新鮮にうつった。また12歳はまだまだ子供の容姿なのに、それが14歳では全く大人の容姿に変わるのにもびっくりした。このコンクールは審査が全て点数制で、25点満点で23点以上なら一位、21&22点は二位、19&20点は三位。だから一位が5人、二位が3人、三位が2人なんてこともある。沢山の子供達が賞を取れるのは、とてもいいことだと思うし、審査するほうも“順位”だけを決めるコンクールではないので、やりがいがある。最終日は“トークの日”、それぞれの参加者が、先生や親を連れて部屋に入ってきて、審査員からコメントやアドバイスを受け、場合によっては皆でデスカッションしたりもする。審査員は5人、それぞれが意見を述べる。しかしここではほとんど“褒める”か“励ます”のどちらか。“批判”はごく稀なこと。「“ユーゲント・ムジチーアト”の哲学は 育てることで、つぶすことではない」と開催前にさんざん主催側から忠告されているので、審査員達もおだやか。「なるほど、褒めることって大事だな〜。私の学生達も、もっともっと褒めてあげないといけないな〜。」とつくづく感じた。

しかしこの3日間が、まさに真夏の暑さだった。気温が突然30℃近くに上がった。特に午後になると西側から太陽光線が大きなガラス窓をとおして強烈にさしこんでくるので、まるでサウナの中にいるみたいだった。ここは“審査員”としての参加だから普段よりはましなかっこうをしなければと、それなりの洋服を用意してはきたが、どれもこれも暑くて着られない。街へ出れば素敵なブティックが沢山ありそうだけれど、買物に出かける時間なんて全然ないから、たった一枚カバンの中に入れてきた半そでブラウスを結局3日間着とおすことになってしまった。ネックレス、ブローチで少し変化を加えたが、ボタンを上まで留めたり2個外したり、なんて努力はかえってむなしいから、試してすぐやめた。

3日目の“トークの日”は面と向かって喋るので、さすがにちょっと気がひけたけど、ウールの上下を着て汗だくで話すのはもっとアホらしいから、とにかく参加者を、先生を、そして親を、できる限り褒め称えた。ここで気づいたが、褒めるということ、けっこう難しい。ただ「上手でしたね〜、よく頑張りましたね〜。」ではドイツ人たち満足しない。どこがどのように良かったか、何がどうして素晴らしかったか、曲と演奏を詳しく説明して、だから自分は感激した、と。表現もワンパターンにならないように、曲は具体的に細かく取り上げて、どの部分がどんなふうにと、心を込めて褒める。

一位の子達を褒めるのはそれでも易しい。何の賞も取れなかった子達と、その先生、親達をがっかりさせないこと、傷つけないこと、夢と希望を与えること、これが審査員にとっての大きな課題。ここでは汗がますますあふれてくる。「Mie Mikiは3日間同じブラウスで、服装に全く無頓着なのか、それともよっぽど貧乏なのか……」って(多分母親達に)思われるのは遺憾だけれど、少なくとも耳と心は無頓着でも貧乏でもないです、って知ってほしく、心を込めて約6時間、彼等に熱く語りかけた。結果として、うまくいったかどうかは分からないけど、誠意だけは通じたんじゃないかな。

この“褒める”ということ、日常生活において、すっかり忘れてしまっていることが多い。最も身近かな例、ダンナのこと、ちっとも褒めない。むしろその逆、やれ新しいネクタイにすぐトマトソースを飛ばしたの、留守電メッセージを伝言しなかったのと、つまらないことでガタガタ文句を言う。学生の演奏もあまり褒めない。これではいけない! と今回深く反省した。相手を褒めるには寛大な心も必要だけれど、音楽の場合は細かな観察力がないとできない。

先週末にマルコという学生があるコンクールに参加した。“ものはためしに”と2日前から、彼の演奏をさんざん褒めた。もともと楽天的な性格なので、それを素直に受けとめてくれて、第一次選の後「今日の自分は“理想的な演奏”ができた」と電話してきた。そこで私はますます彼を褒め称えた。そうしたら翌日優勝した。これは偶然か、よほど運が良かったか、それとも実力か、わからないけれど、文句ばかり言ってたらきっとダメだっただろうな〜と思う。

5月21日、先学期卒業したヴィクトリアがパーティーをした。行ってみるとクラス全員が集まっていて、15種類くらいのご馳走が出来上がっていた。どういうわけかアコーディオンクラスの女性は皆、お料理が上手である。ここでふと思ったのだが、“料理”に関して自分はいつも惜しみなく褒める。何を作ってきても喜び、感謝感激して褒め称える。だから皆お料理だけは上達するのかもしれない。先回は中国人のNaが中華料理を作ったけど、今回はタチキスタン生まれのヴィクトリアがロシア人のタンニャとイーナとでロシア料理を、日本人の和圭ちゃんの指示にしたがってこしらえていた。2DKの屋根裏アパートに17人+猫一匹が集って15種類のご馳走を食べるのは壮観な光景。それにしても、まるで餓死寸前だったように、それはそれは皆よく食べること!夜もふけた頃、ルスランというロシア人がバヤンでロシア民謡を弾きはじめた。相変わらず気温は30℃近い。でかい音、でかい声はあまりにも暑苦しいので「ほとんどきこえないくらい小さな音でささやくようにうたって」と言ったら目を大きく瞬きながら、『道』を歌いだした。それに合わせてもう一人のロシア人ディミトリが2声部を口ずさんでいた。それは急にすずしい風が吹いてきたような、そして目の前に突然広い荒野がひらけたような、不思議な感動が体を包む時間だった。

昔々、早稲田の学生だった頃の父はロシア民謡が大好きで、“もし娘が生まれたらアコーディオンを弾かせて皆で歌をうたう!”ことを願っていた。この夜、ふとそのことを思い出した。でも父が愛していたのは、ロシア民謡もさることながら、もしかしてこういう“時間”だったのではないかと。バスの岸本力さんとのロシア民謡のCDが今年1月に発売された時、「やっとパパの喜ぶCDが出たね」と早速、病床中の父に聴かせた。『行商人』は一緒に口ずさんでいたけれど、そのうちさびしそうな顔になって「暗いな、悲しいな。もういいよ」と言った。病院の白い個室で聴くロシア民謡は、健康である私の耳にも暗かった。

私の人生において、“音楽”が占める割合は今まで極端に大きかったと思う。
まるで音楽が、そして演奏活動が、生活の軸になっているみたいでもあった。これからも多分そこに大きな変化はないと思う、というか変化を起こせるほどの能力も財力もない。しかし少しずつ、ほんの少しずつ自分の中が変わり始めていると最近感じる。この一年間は本当にいろいろなことが起き、変化した。平和を願っても地球上では戦争が続き、健康を願っても病気や死は突然やってくる。願いも祈りも現実とは程遠いところにあるし、音楽もそれだけでは生きる力も夢もあたえない。病気の人を治そうと願って音楽したところで、その治癒力の何と小さいこと。だったら“褒める”ほうが平和だし健康、なんて思ってしまう。病気の人をもっともっと褒めてあげたら少しは元気が出るのに、と。

水牛のホームページへ第一号のエッセイを送らせていただいたのが、ちょうど一年前の今日、5月27日。以来、毎月更新の度に私のエッセイを載せてくださる編集長の八巻美恵さん、一年間ほんとうにありがとうございました! また私の文章を読んでくださる方々、見えないところから伝わってくるエネルギーを、私は感じています。一周年記念日に、心からの感謝をこめて。


(2002年5月27日 ドルトムントにて)





モンコンのCDブックより(4)
     同志  モンコン・ウトック 荘司和子訳



  人の通る道もない僻地
  土の上に寝て森の中で食す
  家を離れて帰ることもない
  夢を抱いて星を仰ぐ
    君に伝えたい、きっとまた会えると
    いつだって忘れはしない
    燃え上がるかがり火、虫たちの声
    夜露が静かに唄う
  危険と死に囲まれた日常
  友に会えて
  友と別れる
    さようなら、また会おう
    愛する友
    懐かしい友
    いつだって忘れはしない
   

もうずっとむかし、ふつうの人が行きそうもない地方を歩き回ったことがあった。一列になって歩いた。ときには砂地の道を通ることもある。最後尾の者は木の枝を持って引きずって歩き足跡を消しておかなければならない。人が通ったことが知られてはならないからだった。

ときには山の尾根を歩くこともあった。象の歩いた道についていくのだ。山岳部の密林の中で道をつけることのできるのは象だけだ。ときには険しい崖を登ったり、ときには深い裂け目を渡ったりしてそれでも象は道をつけている。ぼくら人間はずっと小さいのに肝を冷やすほど恐ろしかった。象はいったいどうやって行けたんだろうか!

人間というのはこれまたひどいもので、象がそこを通るしかないような場所を選んでそこに穴を掘るのだ。深い穴で上は木の枝で塞いで分からないようにしてある。これは象を捕まえる落とし穴で、ところによってはその場所が「三つ穴」とか「一つ穴」とか呼ばれていた。ぼくたちは象より小さいので穴の縁を歩いてそこを通り過ぎたものだ。

ジャングルの中での生活では誰でもひとり2枚のビニールを携帯していないとならない。1枚はテーブルクロスに使うような厚手のもので地面に敷くため。もう1枚は薄手のもので紐を渡した上にかけて屋根にして夜露や雨をしのぐため使った。衣類を入れた背嚢は枕にした。ときにはハンモックをつって寝ることもあった。その他の荷物は、銃、兵士用ベルト、懐中電灯、水筒などで兵士用ベルト1本にはその他いろいろなものがついている。

たとえば水筒、中国の柄つき手榴弾とか色々な型の手榴弾と弾倉。さらにM16いわゆるアーカー銃を持っている者は弾倉が別なのでもう1本ベルトを着込むようにすると胸全体がふさがってしまう。

ぼくはといえば行軍するときは拳銃だけを渡されていた。ベルトにつけたのは水筒、拳銃、弾倉それから柄つき手榴弾2つだけだったのに、遠距離を行軍するときは空腹で空腹でそれだけでももうひたすら重くて、誰か他の人に持ってもらわないとならなかった。身一つになってもまだ鉛をひきずるみたいに重かった。

そう、ポンテープ(カラワンのメンバーのひとり)が行軍中のぼくのはなしをよくしてたけど、彼はしばしば僕の義足をかついで歩いてくれた。ビニールで包んであるから大砲担いでいるように見えるわけ。そのあとにウィラサック、スラチャイ、トングランがギターをかついで続くからなかなか大部隊みたいに見える。ぼくらの前と後には一個小隊の兵士が護衛してくれていて、これがみんな一列縦隊で延々と行軍する。

その後メコン河を渡るところへ来るまでに、ぼくは松葉杖でうまく歩けるようになったので以前ほどは疲れなくなった。義足はポンテープかウィラサックがギターとまとめでかついで持ってくれた。そうしてついにメコン河まで徒歩でたどり着いて船で河を渡ってラオスに入ったのだった。

山岳地帯のジャングルを移動して回っていた当時ぼくはいい友達にたくさん出会った。その中の何人かはそこで命を失って帰ってくることがなかった。この歌をナコン・インタウィンに捧げる。彼はルーイ県の解放区に居たころ食料を調達に行って待ち伏せ攻撃に会い、命を落とした。

ナコン・インタウィンは美術学校ではぼくの後輩で親友だった。ナコン・ラーチャシマ(東北タイの都市)の学生運動でいっしょに活動した仲間でもある。バンコクの憲法要求運動で逮捕された13人の学生の解放を求める声明を最初に書いて謄写版で刷って学生たちに決起を呼びかけたのも彼だった。

ぼくが再度彼に会ったのはプーサーン地区とも呼ばれる第66区(ルーイ+ウドン+ノンカイ3県)でのことで、彼は「サーイ同志」と呼ばれていた。

この歌は1992年の『ローイヌアン』というアルバムに入っている。メロディはJ.J.CELの曲から影響を受けているといえるけれど、最後の部分は雲南省の学校でビルマの先生たちと別れの日にいっしょに作った歌からとった。



書きかけのノート(14)  高橋悠治


春がすぎてゆく われわれは人生の冬にはいってゆく 枝が落ちた木を透かして 山々の稜線がくっきり見える それをたのしむことを知った と言ったひと 歳をとってこまかい記憶があやふやになると 世界全体がよく見えるようになる と言ったひと

それもながいことではない われわれ自身も冬の空にとけこみ 暮れていくまで

じつに単純で だからいっそうあつかいにくい楽器がある

即興には現在しかないはずなのに よくあるのは なにかをしながら 次に何をしようか考えていることだ うわのそらで しかも不安 それなのに 次に何をやるかは かなり予測できる そうなると 興味をもちつづけるためには 相手を換えるしかない

この世ならざるものの出現を知らせる能管のヒシギと呼ばれる高い音 河原の石にまざってころがっている火山弾をひろって その孔を吹き鳴らす石笛の音

偶然はどこにあるのか 細部が偶然に任されるとき 全体を制御する構造があらわになる
反対に 明確なちいさなうごきを組み合わせていくと 全体は流動的になり 予測しにくくなっていく

川の流れは変わる そうでなければ 川はそれがはこぶ土砂に埋もれてしまう 砂州や三日月湖を残して 方向を変え 蛇行をかさねて海に行き着く だが川は海ではない さまよい さぐりながら 蛇行する 空から見下ろすと ガンジスの流れは地平線いっぱいにひきまわされた曲線だ だが川はその曲線がえがく地図ではない 水が障害物を避けてうごく そのためらい その回避が川をなす よわいものが水だ 老子はそれを知っていた

文明は 川を飼い慣らそうとする 洪水を起こす強い龍を 堤防のあいだ コンクリートの川床にのせて まっすぐに海まで連れていこうとする ところどころにダムをつくって 勢いを矯めることも忘れない 川を制御することで文明ははじまる 川に見捨てられると それは滅びる

人気のない暗い空間から降りてくる短波ラジオの信号 ダイアルをゆっくりまわすと入れ替わる 正弦波 雑音 朝鮮語 中国語 ロシア語の断片 未知の世界 だが遠い過去

ふつうの人たちは単純ではない 生活に押しつぶされないために屈折し 心のなかを読みとられないように 礼儀やずるがしこさで武装して それにくらべて 知識人は単純すぎる 言う前に 言いたいことがわかってしまう

世界には根拠がない そうでなければ その秘密を知っていると言い張る呪術師たちが支配する 伝統をつたえてきたというマスターたちもおなじだ 伝統は失われること 忘れられることによって つづいてきた 美も洗練も技術もまやかしだ 弟子が師をつくる 伝統にしばられないものが 伝統をまなぶことができる

帰る家はない われわれがだれであるか というのは ただしい質問ではない われわれは われわれでないものをまなぶ それぞれがちがうから いっしょにやっていける

イスラームは人間をよわいものだと言い 仏教はおろかなものだと言う だれも助けをもとめてはいない わたしがここにいることを知らせたい これが人間すべてが言っていること あるいは人間が言っていることのすべて 過去は悲しみでみたされ 未来には不安しかない そして現在はただ怒りのみ

自然農法では 数十種の種をまぜた泥団子を播く 土地にあった種だけがそだつ それも一つの種類ではなく 雑多なものがいっしょにそだつ そのバランスが 土壌を荒らさない

言うことは何もない そのことを言っているのだ とジョン・ケージが言うと 禅のようにきこえる 言うことが何もなくなって さらに言いつづけるのは エネルギーをつかいはたした人間が まだ走るようなものだ もとから持っていたものがなくなれば 思いがけない自由な流れがめざめる 心身ともに軽くなる

これらの断片のほとんどは ともだちにあてたメールからぬきだし かきなおしたことばだ 論理の展開は見え透いている おもしろいのは 断片を放棄したときに起こる方向転換だ



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