2002年10月 目次


貧者の出版(2)                浜野 智
日記より                    佐藤真紀
他に何かあるの? そしていつまで続くの? モナ・ザルーラ
しもた屋之噺(10)              杉山洋一
みじかい秋、みーつけた             御喜美江
「STONED」                  三橋圭介



貧者の出版(2)  浜野 智




某月某日
近く発行する予定の本(紙の本)の装幀の打ち合わせで、外苑前に出る。早めに着いたので交差点に古くからある古書店に寄ろうと思ったら、閉まっていた。看板が外されているところを見ると、どうやら店じまいしたらしい。
古書店に限らず、書店がばたばたとつぶれていく時代である。「本の運命」がそこからかいま見えてくる。そうして、それと逆行するように、書店の棚にはどぎついデザインの本がますます増えている。

数日前、東京堂で見た結城信一全集はとても素敵な本だった。多くの読者を獲得できる可能性はなくても次代へ、次々代へと残していく価値はあると思われる著作者の作品を本の形にまとめ、なおかつそういった活動を継続していける経済的条件を確保していくには、世間的には高価過ぎると判断されかねない値づけの本づくりをしていく以外にない。これは本来はその程度の予算はちょっとした工夫で準備できる大出版社のなすべきことなのかもしれないが、大手の出版社にいまそういった気風はない。一寸の小出版社にも五分の魂であって、結城ファンではない僕も快哉の叫びをあげたい気分がある。
それと同じことを、こちらは主に著作権の切れた作家を題材に、本ならぬ電子本づくりをしているのが、青空文庫である。

いまは実務からはほとんど離れた位置にいて、現状もはっきりとは知らないし、責任もって言えることは何もないのだが、それなのに、
――青空文庫というのは、結局は何なの?
と、時々聞かれる。かつて多少なりとも縁のある人、ことにインターネット接続をしている知人友人に片っ端から「青空文庫、青空文庫」と連呼したたたりである。
それで、そんなときどう答えるかというと、これは定型となった一言がある。「貧者の出版」というものだ。
そう言うと、たいていの人は納得した顔になり、続けて何か尋ねてくることはない。わかっているのかどうか、確かなものは何もないが、といって困ることもない。そうか、印刷物の本を出版する資金がないから、ネットでお茶を濁しているのか。そう勘ぐるやからもあるだろうが、それはそれでかまわない。これはあくまでも「自分自身にとっては」という前提つきではあるが、ある部分は事実だからだ。

某月某日
青空文庫に関連してやっている唯一の実務が、サブ・サイトである「ちへいせん」の作業である。もともとサービス精神に乏しいせいか、どんな人間がどんな目的でどんなふうに継続しているサイトかという説明は皆無なので、掲載している個人のアドレス宛に青空文庫本体とまちがえてメールをくれる人がある。
たいていは青空文庫の運営アカウント宛に転送するが、中には転送をためらう、いやばかばかしくってその気になれない内容のものが届く。今日も来た。
「五木寛之さんの初期の作品が読めるようにしてください……」読みながら、おいおい、富める人の作品がただで読みたいのなら、本人に訴えてくれと、顔の見えない相手に向かってつぶやく。

「貧者の出版」には、3つの中身がある。
その1つは、「出版という用語の意味」にかかわっている。海外ではどうなのか知らないが、この国で出版といえば「文章その他の表現を美麗な印刷物に仕立てて商品化し、流通に乗せること」と理解するのが普通だろう。しかし、出版は英語でいえばpublish、その原義は「一般に公開すること」である。いま書いているこの文章自体がそうだが、とにかく書いて、ウェブであれ何であれ公開すれば、これ即ち出版なのである。
次の中身は、「絶版・品切れのない本づくりと完成したものの提供」ということである。営利活動としての出版は何よりも採算を重視するし、採算がとれなければ持続が難しくなるから、過剰な発行と過剰な絶版・品切れがセットになっている傾向は否定できない。自分自身、近く印刷物の出版の海に漕ぎ出ていく人間だから無責任に言うつもりはないが、「採算」を単一の定規にしてしまうと、一般に喜ばれるものばかりが残り、本来残すべきものが消えていく結果になりがちである。これは、いささか風呂敷を広げていえば、「全人類に共有してほしいと思うから公開する」出版の原理とはあきらかに相反する。
最後はいまのことと密接にかかわっているが、要は出版に金がかかるから絶版・品切れが生ずるのであって、金がかからなければ、それはない。事実、ネットにテキストを保存し、公開していくというスタイルであれば、サーバーを維持することさえできれば絶版・品切れはありえない。サーバーの維持費はむろんゼロではないが、最小限のコストでまかなえるのがインターネット出版であり、その1つの典型的な形が青空文庫ということである。実際、ボランティア・ベースでテキストの入力・校正を行い、ネットにアップロードしていくのは紙の本に比べて100分の1程度のコストもかからない。サーバーに置くべきものは元データだけで在庫やその管理コストもほぼゼロに近いのだから、これはまさしく「貧者の行い」なのである。





日記より  佐藤真紀




9月18日
きょうはサブラ・シャティーラ(レバノンのパレスチナ難民キャンプ)の虐殺から20年というわけで、メモリアル・イベントを行なった。
「神さま おねがい、戦争をやめさせて。ぼくたちはまだ希望をもっています。」
これは1982年に高橋悠治さんが作った曲。きょうはカステラ楽団で歌うことになった。20年たっても、パレスチナ難民が殺されなければならない現実に絶望してしまう私たち。

9月19日
イラクへ向かう。イラクの子どもたちは、すでにアメリカのターゲットになっている。もっとも「誤差」という言葉で彼らの死は処理されるのだろう。

9月22日
朝の4時。18時間かかって、アンマンからおんぼろバスがバクダッドへ着いた。
まだまだ暑い。

バクダッドのホテルからFaxしてみます。
無事にとどくことをいのります。



他に何かあるの? そしていつまで続くの?  モナ・ザルーラ
                     

イスラエル人は 夢が植えられた私たちの土地を奪った
彼らは希望を壊していく
世界は映画が終わるのを待っている

イスラエル人は 私たちから幼年期をうばった
微笑みを奪い そして生き埋めにした
彼らは 私たちが生まれる前から自由を牢獄へ閉じこめてしまう
世界は 物静かに映画が終わるのを待っている

イスラエル人は真実を隠し 世界の目を覆い隠す
彼らは私たちを殺し 夢を断とうとする
彼らは私たちを殺し そして いまだに出血に苦しんでいる
そして 世界は楽しみながら映画の終わりを待つ

イスラエル人は私たちを鎖でつなぎとめる
彼らは、私たちを死の牢獄へと投げ込む
切り離された世界は、映画の終わりを待っている

イスラエル人は、場面を繰り返す
彼らは私たちの夢を壊すだけでなく墓に埋めてしまう
彼らは血が流れないように私たちを傷つける
彼らは、私たちの涙が頬を伝わらないように泣かす
彼らは私たちを殺しつづけるが、死ぬことを許さない
そして、世界は、観続け、待ち続ける

他に何かあるの? いつまで続くの?

いつまで この恐ろしいキャンプが心の中にあるのだろうか
いつまで 私たちは帰還を夢見る難民でいるのか
いつまで 私たちは、現実と虚像の間をさまよう迷子であり続けるのか
いつまで 私たちは、生気を失った花に留まるのか
いつまで アイデンティティを失ったままなのか
いつまで 世界は、聞こえないふりを続けるのか
いつまで 私たちは「いつまで?」と聞かなければいけないのか
いつまで 私たちは、テロリストと非難される難民でなければならないのか
いつまで 私たちは、帰還するんだと言い続けなければならないのか

他に何かあるの? そしていつまで続くの?
No! 私たちは映画の終わりを待つ世界ではない
私たちは 映画を監督し製作する難民だ
私たちは「帰還」という名の映画を終わらせようとしている難民だ

(レバノン・シャティーラ難民キャンプ)




しもた屋之噺(10)  杉山洋一

9月の声を聞いた途端、北イタリアはすっかり秋の気配に包み込まれます。日没の早さにたじろぐ間もなく、朝晩、乳白色の深い霧が湧くようになります。霧が立つと、薄い苦味を伴う湿った空気がじっとりと躯に染み透って、まるで躯中に霧が充満するかのようです。
友人宅の自家菜園から分けて貰った紫蘇が二株、夏の忘れ物よろしく、元気に玄関先で足早な夕日を浴びておりましたが、そろそろ花の蕾も膨らんできましたから、これで種を落として、すっかり枯れてしまうでしょう。
近所を流れる灌漑用水も、数日前から涸れて、川底に残る水溜りに雑魚が泳いでいるのを見ると、毎年忍びない心地に駆られます。去年は、近所の中国人が照臭そうにタモで魚を掬っていました。

愛用の革鞄が直しに出してあって、用水路土手のモンツァ刑務所脇をすり抜け、受取りに出かけました。この鞄は小学生の頃から家にありましたから、20年来の付き合いでしょう。靴や鞄を直す習慣が身に付いたのは最近です。一度、直して使う愉しさを覚えると、これはなかなか捨て難くて、ぴかぴかに磨かれて戻って帰って来るのが、毎度一寸した時めきでもあります。

人間は生きていて新陳代謝で皮が保たれるが、革は死んでいるから手入れをしてやらねば革は駄目になる。最初にこちらで靴屋に修理に出した際、革の手入れについて職人から情熱的な説明を受けたのも、懐かしい思い出ですが、元来、動物擁護にまわる性分でもあって、毛皮やら皮鞄なんて誉められたものではないと思いつつ、既に使ってしまったなら、責任を持って慈しみ大切にしなければ、と痛感させられました。

過日、夏の終わりに、イゼオ湖に浮かぶ島に休暇中の友人を訪ねました。食事の腹ごなしに、と軽い散策に連れ出され、愉快に山苺等ほうばりつつ、細い山道を登ってゆくと、山頂辺りに朽ち果てた城址があって、男が一人芝刈りをしていました。眼下には美しい湖面と小さな集落ばかりが俯瞰され、心地よいのびやかな眺望です。

城の裏手へ下って暫くゆくと農家が数軒並んでいて、ほろほろ鳥やら兎が飼われておりました。兎は食用かと尋ねるとその通りで、兎料理はこの辺りの郷土料理だと言うことでした。友人も兎の屠殺を試したそうですが、失敗して苦しませてしまったそうです。

耳を掴み棍棒で後頭部の急所を叩くと、慣れていれば一回で殺せる処が、彼は不慣れで殺しきれず、きいきいと辛そうに鳴かれてしまいましたが、すぐに手慣れた農夫が見事に急所を叩いて、頭を落とし皮を剥ぎ、塩水で血抜きをしてから、肉を切り分けました。食してみると厭になる程美味で、人間の矛盾を痛感したそうです。手際の良さに驚いた、あの経験は一度はしてみるべき、と友人は付け加えました。

この島の目の前に屋敷一つ分の小さな島があって、有数の銃器産業の株主の別荘だとか。そんな処に部外者が立ち入る筈もないのに、外垣に「狩猟禁止」と書いた大きな看板を立てていて、随分なブラックジョークじゃないか、と友人は声を立てて笑いました。

こんな話を聞いている時、自分がイタリア社会に属しているのか、ふと分からなくなる心地もするのです。クラシック音楽音楽の伝統は彼らが培ってきたという確信が、脳髄の奥で震えます。子供の頃から親しんできた音楽と、見かけは同じでも何かが明らかに違う感触であって、どこに自分がクラシック音楽に携わる必要があるのか、改めて自問したくなるのです。

彼らの音楽は、もう少し土臭い気がします。古い漆喰の壁が剥がれた跡や、酸性雨の浸食で半ば形の崩れた、屋敷の玄関に鎮座まします獅子の石像、閉所恐怖症に駆られそうになる程処狭しと飾られた、先祖代代からの無数の絵画や装飾品、埃っぽい石の匂い、きつ過ぎる香水の残り香。彼らの仲間入りをするには、根本的に何か掛け違っている自分を発見します。

過日、近所のクリーニング屋の親父と話していた時のことです。だしぬけに彼の先祖は王だったと言い始めるのでびっくりしていると、大切そうに紙筒に入った証明書を出して来ました。生前、彼の父親から先祖はリグリアの貴族出身と聞いていたので、古文書関係の調査機関に委託して苗字から彼の家柄を調べてみると、確かに13世紀、現在のリグリア地方にあたる地域に同姓の王が存在していたそうです。誰だって、こんなしがない洗濯屋が貴族の末裔だとは思わないだろうが、どことなく凛々しい趣で、親父は言いました。
もしかしたら、山の端に、家の土地でも転がっているかも知れないし、荒城の一つくらい、何処かにあっても可笑しかないだろう。

(9月21日 モンツァにて)





みじかい秋、みーつけた  御喜美江


日本に来てから、はや7週間が経った。
あせものかゆさにも、ジリジリ焼け付く灼熱の太陽にも、肌にべたつく湿度にもすっかり慣れた頃、予期しないはやさで秋がおとずれた。クーラーを毎晩22度に合わせて寝ていたのに、クーラー・オフで熟睡できる夜が突然やってきて、四季のはっきりある日本の気候をつくづく素晴らしいと思った。

数日前、朝の空気にふれたくて、というか目を覚ますためにバルコニーに出てみると、秋の雲が高い空に美しく流れていた。すると一羽の赤トンボがすーっと飛んできて、すぐ横の竿先にとまった。しばらくその赤い胴体をながめていたら、赤トンボがこっちを見て「夏は終わりましたよ。」と大きな目で羽を細かく振動させながら告げた。だから「いい夏でしたね〜。」と私は答えた。

9月8日、花園町アドニスで高橋悠治さんと『たんぽぽ畑』のコンサートをした。
ピアノとアコーディオンの多様な組み合わせによるコンサートとして、それぞれのソロ、ピアノ&アコーディオンのデュオ、ピアノ連弾、トーク、そしてアコーディオン・デュオをした。悠治さんはこのコンサートのためにわざわざアコーディオンを習ってくださった。レッスンは一回だけ、練習はほとんどなさらなかったけれど(楽器は私の練習室に置きっぱなし)、この楽器の一番難しいとされているベローイングの扱いが天才的で、練習せずとも全部暗譜、それもふらふら歩きながらの演奏。心に沁みる『忘却』(ピアソラ作曲)に人々は拍手大喝采! 天才とはこういう人のことをいうのだな、と思った。

ところで、天才から直接学べるものは残念ながらあまりない。
なぜなら天才は練習不必要、私は毎日、練習練習……。
でも悠治さんは、私のすることに一切干渉しないし、やりたいということを全てやらせてくれる。こちらの希望は全面的に受け入れてくれ、もし質問をすると短い答えが全部を解説してくれる。要求も強制も批判も指導もなく、ただひたすら静かであたたかい時間がリハーサルでも本番でも流れている。のびのびと自然体のままで、自分のしたいと思う演奏が悠治さんとはいつもできる。だから9月8日はいいコンサートだった。八巻美恵編集長、三橋圭介、ゲオルク・シェンクも一緒だったので、ちょっとした家族旅行みたいでもあって楽しかった。最後はおいし〜いお蕎麦、そして締めくくりは豪雨。

それから6日たった14日『萩元晴彦さんを偲ぶ会』が日本プレスセンターホールで行われた。なぜか私はいつも“そこ”にいるのだ、萩元さんに関係した何かが“そこ”であると。スケジュールも必ずあいている。本当に不思議に思う。昨年は帰国した日の夜が、カザルスホールにおける音楽葬だった。今回も演奏を頼んでいただけて、「あ〜、また萩元さんがよんでくださった」と思った。

頼まれたのは、たった10分の演奏だったが、出番がきて会場に行ってみると、ステージ正面から3〜4m離れたところに、小澤征爾氏が立っているではないか!「これは大変なことになった……」とあせった時にはもう「はい、御喜美江さんです」とアナウンサーによばれていて、すると足は機械のようにステージに向かって歩いてゆき、気がついたら弾き始めていた。まるでオーディションを受けているみたいで、こんな緊張感はいったい何十年ぶりだっただろう。無我夢中で弾き終わったら、もうほとんど呼吸困難になっていたけれど、でも小澤征爾氏に大変褒めていただけて、「あ〜、これはまたまた萩元さんのお引き合わせ」とつくづく感じた。

実はその数日前のこと:テレビマンユニオンの村田さんからお電話をいただいた。ただ彼のお声と喋り方はあまりにも萩元さんそっくりで、赤坂見附の路上にいた私は、携帯電話を手ににぎりしめながら、体が硬直してしばらく呆然としてしまった。その電話はたしかに村田さんで萩元さんではなかったけれど、でも“あの声”は絶対に萩元さんだった!私は電話の声を聞き分けるのは得意なほうで間違えることはほとんどない。特に萩元さんの場合は最初の「もしもし」ですぐわかる。だから今でも私は萩元さんからお電話をいただいた、と確信している。小澤征爾さんに私のことをどうしても紹介したかった萩元さんの、“天国からのプロデュース”だったとしか思えない。本番は、うしろに萩元さんの大きな写真、まえは小澤征爾、「もう弾くしかない!」と必死で弾いた。
そこで演奏した10分間は、一晩のソロ・リサイタルをするよりもっと疲れた。

そしてこの日の夜、オペラシティで財布を落とした。かなりたくさんの現金が入っていたので血眼になって探した。本屋、アクセサリー屋、レストランなど、入った店々は全部聞いて回ったがどこにもなかった。40分以上探したが、なかった。ついに見つけることを諦めかけた時、向こうから一人の警備員さんが歩いてきたので、これが最後のトライと「お財布をなくしちゃって、茶色の皮の……」とまで言ったら、急にげらげら笑い出して、しばらく笑い続けているので、“ちょっとこの人、頭がおかしいのかな”と気味悪くなって逃げようとしたら「待ってくださいよ、その財布私が見つけましたよ、地下2階の防災センターで預かっていますから一緒に行きましょう。」と。数秒前、変人かと思ったその警備員さんの顔が、急に天使の顔に変わった。それから財布の中身を先方に詳しく説明し、書類に指紋で判をすると、あの“なつかしい”茶色のお財布が手渡された。からからに乾いた声で「ありがとうございました!」を連発し、何度も何度もお辞儀をしながら防災センターを出ると、まずはミネラルウォーターを一気に一本飲みほした。そして夫が傍にいることにはっと気がつき、「Es tut mir sehr leid!(ごめんなさい)」とあやまると、「これでゆっくりバッハのカンタータが聴けるね。」と。彼の笑顔はぐったり、そして少々うんざり気味だった。

この時、実はバッハ・コレギウム・ジャパンのコンサートでオペラシティに来ていたのだ。私は鈴木雅明さんとBCJのバッハが大好きで、高いチケット2枚は自分のバースデープレゼントとして購入した。期待どおり、演奏も音楽も素晴らしかった。コンサートではもちろんバッハのカンタータに心打たれたわけだが、でも萩元さんの“天国からのプロデュース”のことが気になって、音楽のなかで幾度も思い出し、ここではバッハと萩元さんがなぜか重なって響いた。

さて、あと数日で再びドイツ・オランダに戻る。
「朝の気温は4℃です。」とドルトムントの智美ちゃんから今朝メールがきた。突然秋になって、今度は突然冬になるのだろうか。“あせも”は治ると同時に即、“しもやけ”に変わるのかもしれない。なんとみじかい秋だろう。

(2002年9月22日 東京にて)




「STONED」  三橋圭介



 AYUOの新しいCDは、これまできいたかれのアルバムのなかでも最高の一枚だ。タイトルは「STONED」。これは6月から8月まで印刷博物館で催されていた粟津潔の「ロック・アート展」の会場で流れていた音楽をCD化したもので、昨日、その関連企画イベント「ROCK ART LIVE〜読む、奏でる、描く〜岩に描かれた古代絵画からイメージされる音、そして絵…」に行ってきたばかりだ。

 ライヴはAYUO(ブズーキー、アコースティック・ギター、ラップトップ・コンピューター、さまざまな笛と打ち物)、太田裕美(声、キーボード)と Ma To (タブラとキーボード)のトリオ。ナバホ族などのネイティヴ・アメリカンが石に描いた絵のスライドを背にしながらきくAYUOの音楽は広々と心地よい。

 音楽は一曲一曲作曲されてひとつの形をなしている。AYUOの音楽はどこまでもつづく即興のようにモードの風に吹かれるままに、いろいろな風景を彷徨っている。美しく神秘的なことば、絶え間ないギターの声、笛は自由に風を駆けめぐる。音楽は何かを呼びます。それはロック・アートもおなじだ。

 CDの解説で建築家の原広司がAYUOの「音楽のルーツ、原点を探索する態度」に触れている。ルーツとはAYUOのいう「ネオ・トラディショナル」のことだ。それは昔の物語を語り継ぐことと言い換えていい。ケルト、ギリシャ、トルコ、アフガニスタン、インド、アメリカ、日本などの伝統音楽、それが昔の物語。それらをいまに読み替えるのが「ネオ・トラディショナル」。だがその音楽のどこからどこまでが何であるかを指摘することに意味はない。そんなことは不可能だし、AYUOがその時々のことばで歌う音楽は、どこか特定の場所に属することもない。どこにもどこでもない音楽。ただ、目には見えないが、その根はつながって深く呼吸している。だから「STONED」には「コスモポリタン」ということばがよく似合う。石はどこにでもあるのだ。

 CDではサラエボ出身の歌手ヤドランカが参加している。彼女の懐の深い、飾り気のない声(朗読)と歌が「STONED」に独特の輝きを与えている。彼女はむかし書いていた。

 「私は常々、人として大いなる自然(人間を含みますが)を尊ぶ気持ちを大切にしなければと思ってきました。音楽そのものもこの「尊敬」に価するだけのものになるよう、努力、前進していかなければいけないと思っております。
 私はサラエボに生まれ、多くの民族・豊かな文化に育まれ、更に音楽を通して多くの人々と出会ってきました。ですから「コスモポリタン」という言葉が私は好きです。もっと心を自由に開くことで、音楽で皆さんと同じ時を共有できると信じています。」

 ロック・アートのシンプルな絵。それはシンプルだからこそ想像力をかき立てる。思想をおなじくし、おなじ音楽の地平にいるAYUOとヤドランカの出会いはシンプルな音に深みと広がりを与えている。「心を開く」音楽は音を開いていこうとする人だけに許される。i am / u areは歌う。

 
 i am / u are by Ayuo
 
 Eternal life belongs to bacteria.
 They never change.
 They only multiply.
 But somewhere in our dark,dark,
 backpages, We shifted away,
 Towerds diversity.
 You are one and only, Like I am. 
 
 The same stories are told,
 Throughout the centuries.
 Only they are in disguises,
 To fit the moment in time.

 And deep within the spiral of
 our being, We were empowered
 by the same face.
 And so the same images keep
 being unearthed, Behind you or
 on the other side of the globe.


(「STONED」(H2O EARTHMAN )は近日中にAYUOオフィシャル・サイトから購入できるようになります)



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