2003年4月 目次


イラク戦争(アンマンにて)            佐藤真紀
二〇〇一年九月一一日東京              松井茂
ウスタッド・マフワシュ&アンサンブル・カブール  北中正和
しもた屋之噺(16)               杉山洋一
World Peace Now 3.21     三橋圭介 鈴木さち 長縄亮
窓(1)     スラチャイ・ジャンティマトン 荘司和子訳
ジャワでの舞踊公演(2)             冨岡三智



イラク戦争  アンマンにて・佐藤真紀




  イラク料理を食べる

久々にダウンタウンのイラク料理を食べに行った。壁には古きよき時代のイラクの写真が飾ってある。ここはイラクから出稼ぎに来ている肉体労働者たちが栄養を補給にやってくる。レストランのウェイターは、「もう一年バグダッドには戻っていない。電話で話すだけ」だという。
「戦争?ないことを祈るしかない。アメリカは狂っている。石油がほしいだけさ。」
バグダッドには、妻と2人の子供が待っている。
「心配だ。でも、バグダッドには仕事がないから、稼がないといけない。運命は神が決めることだ」

バグダッド行きの乗り合いタクシーの発着所を見に行くことにした。車もまばらで寂れている。この間の1月末にバグダッドに向かったときはずいぶんにぎわっていたのに。ブッシュが48時間後と宣言して、すでに12時間以上が経過した。残された時間はわずかだ。サダムフセインは、亡命する意思はないことをすでに宣言している。

アンマンでは雪がふるとの情報が流れていてどんどん寒くなってきた。風が強い。何組かの家族がバグダッドに戻ろうとしている。ビザが切れて帰らなければならない人もいるし、残してきた家族のことが気がかりで今戻らないと帰れなくなってしまうかも知れないので何とか開戦前までには戻りたいという人たちもいる。

私が前回バグダッドで訪ねたイラク人の多くは、イラクにとどまると言っていた。戦争が始まると、その際の混乱で、財産が奪われてしまうことを心配している人も多い。
「私の名前はフセインだ。生まれてきた子にはサダムとなずけたよ」フセインさんはヨルダン人だが、イラク人と結婚した。サダム君は生まれたばかり。36日目だ。バグダッドから、お母さんが息子たち2人を連れて、お産を手伝いに来た。フセインさん夫婦は、義理の母を見送りに来たという。お母さんは、これからバグダッドに帰るのだという。怖くないのか。「怖くなんかないよ。神はアメリカより偉大だ。私たちは希望をすてていません」お母さんは明るい。
バグダッドに戻る家族たちは、アンマンで買い込んだ食糧などを車に詰め込み、客がそろう間にわかれを惜しんでいる。これから起こるかもしれない大惨事を思うと、アンマンに残る家族も心配だ。戦争は家族をばらばらにしてしまう。暗雲が立ち込めたバグダッドに向かい、数台の車が出発していった。

ここ数日いろんな人から話を聞いている。ヨルダン人にとっても隣国での危機は自分たちの生活に直接影響を及ぼすこともあり、冷静に分析してくれる。
あるタクシードライバーは
「アメリカは、これからどうするというのだ。サダムフセインはイラクの大統領だからそれを武力で引きずりおろすのはおかしい。アメリカは国連を無視してどうしたいのだろう。石油がほしければもっていけばいい。殺す必要はない。長い目で見たらアメリカは、行き詰まって崩壊してしまうだろう。だってあまりにも無茶を押し付ける。私はサダムフセインはいいとは思わないが、イラクの子供たちが戦争で死んでいくかと思うと心が痛むよ」
ヨルダン人は、イラクのこどもたちのことを真剣に心配しているのである。それに比べて日本はあまりにも遠く、イラクのこどもたちが戦争で死んでいくということがなかなか伝わらない。日本政府の「戦争支持」には断固として反対だ。

  戦争が始まる

ひしひしと差し迫る戦争。国際社会が何とかアメリカに攻撃を思いとどまらせようと必死になっていたが、アメリカの力はどうしようもなかった残された期限まであとわずか。夜、ドイツとフランスのNGOと打ち合わせをする。ドイツ人のアレクサンダーさんは現地と連絡が取れ「街中は静まり返っている。物価が2倍、3倍にはねあがり、そしてとうとう何もなくなった。誰も通りには出ていない」子どもたちの支援のことを相談しながら夜はふけて行った。

朝5時、日本の新聞社から電話が入り、戦争が始まったことを知らされる。
「どうですか。そちらは」たてつづけに電話がなる。アンマンは町が眠っており、まだ状況はわからない。非常に残念だ。ほとんどの世界の市民が反対し続けた戦争、国連でも採択されなかった戦争が始まってしまった。このような傲慢さがまかり通る世界に恐怖を覚える。イラクのこどもたちが心配だ。





二〇〇一年九月一一日東京  松井茂




ディスプレイ上で
ゆるやかに
笑顔のような崩壊をながめる


今日という存在を
いたずらに検索してしまう
あの瞬間の……出来事


体温を帯びたまま
散乱する下着を見て
誰かが言った
ウィルスをインストールしたんだって?


一滴の水を搬ぶことも出来ない
広大なネットワークに
繋いだまま
消えた一日は
爆発的に回転数を増大する
サーチ・エンジンによって
約三百五十七万件という
饒舌で
暴力的な
情報を
脳裏へと
ヒットした


二進法の世界に不思議な煙が薫る


世界中の香りに包まれた
デスクトップ上で
街全体が
揺れて見えた


現象を追い越して
更新されていく
緑色の文字で書きとめられた
瓦礫の情報の林を抜ける
夢遊の夜だから……
もう一度
指先に繋がった
広大な
ネットワークへと
身を沈める


世界中の天気は
希望的観測をともなったニュアンスで流布されている
夜明けにはきっと新しい扉をみつけられる
いくつものウインドウから



ウスタッド・マフワシュ&アンサンブル・カブール  北中正和




イギリスのBBCラジオ3が昨年からはじめたワールド・ミュージック賞の2003のアジア部門の受賞者はウスタッド・マフワシュ&アンサンブル・カブールに決まった。主にヨーロッパの音楽業界人が決めている賞なので、それなりのかたよりのある結果なのは念頭に置いておいたほうがいいが、ウスタッド・マフワシュが素晴らしい歌手であることはまちがいない。

彼女は70年代にアフガニスタンのラジオで活躍した歌手で、伝統的な音楽からポップなものまで、幅広いレパートリーをうたっている。年齢はおそらく50代ではないかと思うが、いまなお一度聞けば忘れられないような高音の涼しい歌声を持っている。アフガニスタンの女性歌手で、名人に与えられるウスタッドという称号を使っているのは彼女ただ一人だ。1991年にアメリカに亡命して、いまはサンフンシスコを拠点に活動しているが、昨年、京都で行なわれたイベントで来日したこともある。

一方のアンサンブル・カブールはスイスのジュネーヴを拠点にしているアフガニスタンの伝統的な音楽のグループだ。中心人物のハレド・アルマンは1981年にヨーロッパに渡ってクラシック・ギターを学び、そのままギタリストとしてヨーロッパにとどまっていた。しかし会う人ごとにアフガンの音楽を弾いてくれと言われるので、1990年に父のホセイン、いとこのオスマンらがヨーロッパに移民してきたのを機に、アンサンブル・カブールを結成した。マフワシュとは、ここ数年、共演する機会も多い。

昨年秋にドイツで両者のステージに接する機会があったが、ルバーブ、ナイ、タブラなどによる繊細な演奏にときおりマフワシュが歌で加わる、落ち着いた優雅な音楽だった。その公演を準備したスタッフによれば、今年、両者の共演アルバムがレコーディングされるのではないか、ということだった。

マフワシュのCDは、亡命後に発売されたものを2枚聞いたことがある。一枚はドイツで発売されたCDで、伝統的なガザルと呼ばれる音楽をやっている。半分ほどはハーモニウムやタブラや手拍子を伴奏に歌手のアフマド・ワリとゆったりデュエットしている。どこかで海賊ライヴ録音されたような音質だ。彼女とアフマドそれぞれの歌だけの曲も入っている。

もう一枚はコンピュータ・リズムにのったアメリカ録音のポップ・ガザル・アルバムで、ワヒド・カシミの曲をうたっている。渋谷で占いをしているアフガン人のアミンさんに聞いてもらったら、その中の「カイブードキ」という曲は、故郷を恋人になぞらえて、愛するあなたに会いに行きましょう、わたしはあなたに心を捧げます、というようなことがうたわれている歌らしい。「五木の子守歌」に似たメロディがなんとも印象的なので、昨年「南西アジア歌の宴」というイベントでこの曲をちらっと紹介したら、藤井知昭さんが、昔アフガンの音楽を研究していたころ、日本のレコードを持って行ってカブールに残してきたから、もしかしたらその影響かもしれないと話しておられた。

イラクの戦争のため、すっかり報道される機会が減ったが、ペシャワール会のサイトを覗いたら、「悲憤超え、希望を分かつ」という中村哲医師のコラムに、タリバン政権崩壊後1年、「アフガニスタンは過去最悪の状態となっている」(ペシャワール会報74号より)と書かれていたが、なんともやりきれない。



しもた屋之噺(16)  杉山洋一
                     

拙宅には窓らしい窓が一つしかなくて、玄関の扉の大きな擦り硝子が反対側の窓替わりとなっています。二重造りの伝統的な玄関で、擦り硝子の扉の外側に、観音開きの木戸が造りつけられており、鉄製の古めかしい手すり以外、目の前を遮るものは何もなく、今も夕暮れに染まった雲が沸きあがっています。

100年前に建てられた集合住宅最上階の壁に、頼りなくへばりつく、へろへろで石造りの渡廊下は、数メートルでやはり石造りの階段に繋がります。すっかり使い古され、歪に磨り減っているのが独特の風情で、吊るされた洗濯ものが風に翻る傍で、月曜の朝には妙齢数人が、嬌声をあげながら、階段を雑巾がけしてくれます。1階まで降りると、ほぼ決まって、アパートメントの老人衆に出くわすので、今日はどこへゆくのだね、何をしにゆくのだね、などと一しきり彼らの相手をしてから、建物が面するボルガッツィ通りを10分もゆくとモンツァ駅に辿りつきます。

学校のない日は一つ目の信号の角にある喫茶店で、朝食をとりながら日記を書くのが日課になっていて、午前中顔を出すと、店の妙齢がにこりともせず、いきなり小皿を差し出してくれます。注文するのがカップチーノと菓子パンなのはスタンダード通りですが、違うのは、普通なら菓子パンは手に持って食べるのものを、日記を書くからと菓子パンを載せておく小皿をくれるところで、こんな無愛想な心遣いこそ北イタリアらしいと微笑ましく思われます。

モンツァの駅で興味深いのは、駅舎前に残る古い便所で、10畳分の独立した数奇屋もどきで洒落た造りながら、Gabinettoと書かれた入口はコンクリートで塞がれていて、中を覗けないのが少し残念です。モンツァの駅には、丁度原宿駅のような王室専用の控室が備わっていて、実に豪奢に装飾されているので、定期的に一般公開もされています。モンツァには王宮があるので、イタリア王室が国外追放になるまで、モンツァに滞在することもしばしばだったそうです。現在スイスに住むイタリア王室は、つい先日ナポリを訪ねてばかりで、賛否両論、大きな反響を呼びました。

豪奢な控室の隣には、我々に宛がわれる冴えない待合室もあって、学校へゆく折、電車の時間をもて余すと、ぐらぐらと傾くベンチに腰掛けて、仕事のメールを片付けたり、本を読んだりしてやり過ごします。最近読んでいるのは、アンブローズ・ビアーズの「兵士の物語(Tales of Soldiers and Civilians)」で、巻末にイタロ・カルヴィーノが文章を寄せています。

「ビアーズは、惨劇としての戦争の姿を描き、当時の野営地で兵士の口から口へと伝わる物語を、ざっくり切り裂き、わななく文体に仕立て上げることに成功した、最初期の作家の一人である。南北戦争の独特の味わいで、敵兵士は無名の集団に埋もれることなく、しばしば苗字と名前を持っている。そこに境界線など存在せず、互いに役柄を入れ替えながら、悲劇の繰り返しを続ける」

ビアーズが地元インディアナで南北戦争に志願したのが、1861年4月19日。それから4年間に亙る血なまぐさい戦争経験が、後に数々の名作を生み出しましたが、140年経った今、戦争の意味も、アメリカの存在意義も、すっかり変わってしまいました。ビアーズの視点は深く澄み切っていて、その透徹さこそが、アメリカなのかとも思います。ヨーロッパ人には到達できない乾きが、拠り所だったのかも知れません。「後ろには何もない、誰もいない、自分しかいない」かかる勇気は、しがらみに縛られたヨーロッパ人にはありません。ビアーズを読んでいて、ふと「真夏の夜の夢」が聴きたくなり、先日古レコード屋でクレンペラーとバイエルン放送響のCDを探して来ました。朝から晩までイラク紛争の報道ばかりで、現実逃避したくなったのでしょうか。

目に見えるものは、全て夢に違いない。そう思ったことがあります。10歳の頃に交通事故に遭った時の、自動車に撥ねられる1秒前の記憶が、今もはっきりと残っていて、「ああ、これは夢だ。このまま、目の前数センチの車にぶつかっても、何も起きやしない」落ち着いた心地の中で、バンの青色だけが脳裏に鮮明に焼き付いたまま、記憶がなくなりました。

ですから、ビアーズの傑作「アウル・クリーク橋の出来事(An Occurrence at Owl Creek Bridge)」は、驚く程の実感をもって読みました(絞首刑に処された兵士が、踏み板を外されアウル・クリーク橋に宙吊りになり、息絶える迄の数十秒間に脳裏を駆け巡る幻想の数々が綴られます)。一瞬が内包する無限を知ることは、貴重な体験だと思います。ビアーズも戦争を通して近しい経験に遭遇したのでしょう。死に瀕した人間が感じる時間の速度というのは、それまでの1秒が1000倍に膨張し、尚且つ途轍もなくゆっくりと捲れてゆく感じであって、所謂、目くるめく走馬灯の様だとか形容するのは、少し違う気がします。

列車がホームに滑り込んで来た処で、話も変えましょう。
モンツァからミラノに着く間に、セスト・サン・ジョヴァンニ駅とグレコ・ピレルリ駅の二駅に停車します。この区間は複々線で本数もそこそこあって、車を持たない者には有難いのですが、平均して一時間に何本と走らせてくれれば良い処を、5分に1本、7分に1本とか集中して数本あったかと思うと、思いがけず30分とか40分も次の電車まで待たなければいけなかったりするのもイタリアらしい風情です。

全体としてとか、平均してとか、相手の身になってみると、等という思考が、イタリア人には根本的に欠如しているので、過日テレビで、イタリアは世界で最も優れた「Fai da te」の国だと風刺的に評していて、思わず膝を打ちました。「Fai da te」は、自ら物事を片付けること、セルフ・サービスというニュアンスで、直訳すると「自分でやって」となるのは冗談の様です。

学校で携わる教育改革にしても、教員が各々の計画書を会議に提出し、某が必要だと力説するだけで、誰一人として全体のカリキュラムの統制を取らないのには呆れます。治外法権とかアナーキーといった言葉が、頭をちらつきますが、それでも何とかなってしまうのがイタリア流のやり方で、何も決まらず、何も分からないまま、皆が各々の責任で、各々の人生を生きてゆけるのが不思議です。日本の様なケアの行き届いた国に育った人間にとって、イタリアは余程しっかりしていないと暮らしてゆけない土地であることは確かです。イタリアの道路を歩くと、糞と塵芥だらけで汚らわしいのですが、彼らの家に一度足を踏み入れると、間違いなくどこも整頓されて、隅々まで掃除は行き渡り、家は磨き上げられているのが、当初は不思議でした。

そんな按配でお世辞でも清潔とは呼べないミラノのガリバルディ駅に列車が着き、地下通路を抜けると、記念墓地の傍らに出ます。近くに中華街があるので、この記念墓地の前でしばしば中国人がトラックの荷物を積み替えています。記念墓地の入口に愉快な物乞いの男が一人いて、いつも楽譜を眺めながら通りかかるからか、「よおマエストロ、元気かね!」等と声をかけてきて、「ムジカ・ムジカ」と笑いながら棒を振る仕草をしておどけます。

そこを過ぎると、記念墓地に沿って延びるルイジ・ノーノ通りを歩いてゆくのですが、これは作曲家のノーノではなくて、19世紀の同姓同名の画家だそうです。もう少しゆくと老人会サークルの建物に面してコリオーラン通りがあって、どうしてもコリオーラン序曲が頭に浮かびます。次の信号を右に入り、メッシーナ通りを数分歩くと、右手に16世紀に建てられた通称シモネッタ荘が見えてきて、その二階で原稿を書いています。貴族の館から旅籠にもなり、食堂としても使われた時代を経て、戦後は音楽院として使われているそうで、今自分がいる部屋にはフレスコ画で美しく装飾された暖炉跡もあって、時々この暖炉跡を見せて欲しいと客が訪れます。部屋から眺める夕日は、いつも心に染みます。最後通告のタイムリミットまで、残す所30時間程となりましたが、この文章がサイトに載る頃、無意味な戦争が勃発していない事を心から祈るばかりです。

(3月18日ミラノ・シモネッタ荘にて)



World Peace Now 3.21  三橋圭介 鈴木さち 長縄亮
                     

3月21日、歌人の鈴木さち、詩人の長縄亮と反戦デモに参加した。そのとき2人に原稿を頼んだ。最初のさちの歌「正しい外人」は自分とイラクを重ねた歌かもしれない。ここで解釈は禁物だ。でもさちは反戦デモに参加した理由をきっぱりこういった。「ただ戦争がきらいだから」と。歌はとんがったさち声がよくあらわれている。亮の詩は「なぜ戦争がいけないの?」という率直な自分への問いかけだ。

デモにはたくさんの人が集まった。皆それぞれ音のでるものを鳴らしたり、声をあげながら、おおくの警官の見守るなか、ゆっくり歩いた。ぼくは亮から渡されたフィリピンの風鈴を鳴らし、さちは音にならないちいさな鈴をやめて、小銭入れをカチャカチャとならした。

「World Peace Now 3.21」は亮からの誘いだった。だがほかにも見知らぬ何人もの人が電子メールでこのデモに誘ってくれた。会ったこともない人がネット上で通信しあって横のつながりを広げている。グローヴァリゼーションを越えるのはナショナリズムではない。ちいさな疑問や問いの声が声をつないでいく。ひとりでは無力かもしれないが、ちいさな鈴は電子の風にのって大きな声となる。そうなれば世界をすこしずつ変えることができるかもしれない。(三橋圭介)


* * * * *

  正しい外人  鈴木さち


貝になる 甲殻類の過去になる 〜アルジャジーラを花と思う


きっと私の内に棲む鬼 乖離的ブラウス 文明にこぼるる野生(エロス)
人(オヤ)が人(コ)を守ろうとして畜生(ドウブツ)はたった一つの品格を持つ


木蓮の木の位置は封ず 歌おうと画面を眺め、ばくだっど、恋愛(ラヴ…)、
どの男(ヒト)もどの男(ヒト)もそう 自身(オノレ)の劇(ドラマ)を信ず ―世界は姦通しおり
私たちはただ在ればいい この期に及んで呪詛、切り、貼り、縫う、紋白蝶


すべてをすっかりしってしまいたい
うつくしくありたい
わたしをかんぜんにしたい


戦闘機 花見 気位 佐野皮膚科 有刺鉄線 孤高 文脈


原始受苦とは鯖色の繊維水含む口はぐらかす死とベジタブル、
スープ、昏睡、キャンベルスープキャンベルスープキャンベルスープキャンベルスープ


* * * * *

  せかいはよるのはちじ  長縄亮


せかいはよるのはちじ
アラームがなる
ぼくはへやのでんきをけして
おとをたてるかわりにおいのりをする


かみさまになまえのないことはしっている
だけどほかのいのりかたをしらないから
まだそのいのりかたがみつからないから
ぼくはキリストきょうのいのりを
いっぷんかんいのる


「なぜせんそうがいけないのか?」
そのまえに
「なぜひとをころしてはいけないの?」
そのこたえがだせないままだった


そのといかけにぼくはつまづいてしまった
まっとうですこやかなひとたちは
だれもつまづきはしない
ひとのほんとのあたいがすぐわかる
いちばんよいめじるしだ


まだこたえがわからなくて
ぼくはこのもんだいを
ずーっとしぬまでかんがえるだろう
とおもっていた
けれど
そうじゃないとさっきわかった
ぼくはこのもんだいをかんがえるためにいきている
ことばをもって


せんそうのなかで「へいわ」をねがったひとたちのいのりがとどいた
がらすざいくのような「へいわ」
いのちがついえるときにみたゆめがうつしだされた「へいわ」
あこやがいが いっしょうをかけてつくるひとつぶのしんじゅのような
ひとつのいのちがいっしゅんの「へいわ」をつくって
そのいっしゅんいっしゅんがつらなってかろうじてある「へいわ」


ぼくはせんそうでしんでいったひとたちのために「へいわ」をいきる
ぼくたちはせんそうでしんでいったひとたちのかわりに「へいわ」をいきる
「なぜせんそうがいけないのか」を
そんなことをもうかんがえなくてもいいときまでかんがえる



窓  スラチャイ・ジャンティマトン 荘司和子 訳
                     

路地のつきあたりはサッカーができるくらいの広さの空き地になっていて、道としては行き止まりなのだけれどそこからは人が自由に歩いてつけた道がいくつにも分かれている。ひしゃげかけた小さな夜警小屋が建っている。早朝の柔らかい日差しがあたりをつつんでいた。ぼくの背中は全面じっとりした汗で濡れてしまっている。それがどんどん尻の方まで滴って来る気がする。全身燃えるようにほてっていた。

ぼくはこの広場を12周も走って、それでもう十分だという気がしていた。競技にでようとか記録を破ろうとか思ったわけではない。走って走って身体の中の何かを発散させてしまいたいと思ったからだ。長い間運動をしたことがなかったので、ふくらはぎの筋肉や太ももの筋肉が引きつるように痛む。それで万金油(タイガーバーム)を塗ったところ今になってかっかっとほてりだしたのだ。身体は重さを感じないほど軽くなり、腕も脚も思う存分動かせる気がする。あらゆるもの、何もかもがいい感じに思えてくる。すべてのことの原因は多分こんなことしかなかったのだが。

ぼくはそれまで彼女のことを想ったことはないし、思い出したのだってこのとき見かけたからだ。

誰だったか、ぼくの住んでいるところの近くに綺麗な女性がいる、と言っていたことがある。その後ぼくはある休みの日に彼女を一瞬だけ見かけた。ぼくの家の前を通りがかったのだった。笑顔がこちらを向いていたような。ぼくはまともに見ることが出来なかった。彼女は本当に美しかったので。ふつう美人というのは誰かれとなくみんなから愛されたり好かれたりしているのでぼくは関わり合いになろうとは思わなかった。本心はその反対なのに。

木の古い窓がひとつ大きく開いている。それは古い2階建ての木造家屋で、彼女は2階の小さな部屋で暮らしている。そこ、その窓の開いているところで彼女は今髪を梳いている。三つ編みにしてるのかそれとも何か別なことをしているのかもしれない、大きな鏡の前で。ぼくには鏡は見えないのだけれど鏡だと分かるのだ。彼女の振る舞いが鏡台の前に座った若い女の様子であるのと、ときおり顔に光が反射するからだ。鏡に相違ない。

彼女はまた微笑んだ。なんとまたぼくのこころを魅入らせる微笑みなんだ。ぼくは半ば怖れるとともに半ば元気が沸いた。

路地が曲がりきるところに托鉢をしているひとりの僧侶の姿がある。僧侶の黄衣、平穏、知足。。何故か信仰心を呼び覚まされる。ぼくが座っている路地のつきあたりまで他にも何人かが僧に食事を献じようとして待っている。ぼくは美しい女性の側で心地よく座っているところだ。彼女は今ごろ服を着ているところに違いない。ぼくは見上げてみる勇気もないのだけれど、そうかといってどこへも行きたくないのだ、今は。いずれにせよ何かおもしろいことが次々に見られるような気がして。そう、早朝の風景に出会ったのはこの日がこの一年で初めてといえるくらいなのだから。遅寝遅起きが習性のぼくは今見ているような早朝の空気とか人間模様とかに触れたことがなかった。ぼくは何だかいい映画を見ているような気がしている。ほんとにいい映画だ。(続く)

(1988年作品)

* * * * *   

水牛の3月1日号にググーシュというイランの女性歌手の歌が書かれていて胸が痛みました。「うたうことが違法」という国が世界には今でもいくつもあるのですね。タイのスラチャイたちもかつて同じ思いをしてタイやラオスの山岳地帯のジャングルを歩きつづけたのでした。

先月仕事でタイの下院議長と一週間ごいっしょする機会がありましたが、その方のはなしで初めて知った、古い事実、があります。1973年10月14日は学生革命として知られていますが、そのとき学生運動の指導者たちが要求したことが憲法制定とそれを要求して逮捕された3人の釈放で、その3人のうちのひとりが現在の議長さん(ウタイ・ピムチャイチョン)だったのだそうです。

当時ウタイさんは最年少の議員だったそうですが、わたしがこの方を知ったのは97年制定のタイ史上最も民主的な憲法の起草委員会委員長としてでした。10月14日の学生の呼びかけた集会には100万人もの人びとが参加して軍事政権が崩壊したのでしたが、東北の田舎町の学生だったモンコンもみんなでバスをチャーターしてバンコクへ向かったそうです。

タイではその後もたびたび血が流されて現在では東南アジアで一番民主化の進んだ国になっていて、「うたうこと」も書くことも、描くことも、はなすことも、なんでも自由に表現できるようになりました。

10年以上戒厳令をしきっぱなし、憲法も破棄したままというころからタイの「民主化」を見てきたのですが、現在アメリカは同じことばを盾に外国を武力攻撃するわけです。正義だとかデモクラシーだとか。絶望的です。(荘司和子)




ジャワでの舞踊公演(2)  冨岡三智

前月の続きで、ジャワで私が出演した舞踊公演について報告する。前回の内容(公演の背景)を簡単に振り返っておくと、この公演はSTSI(インドネシア国立芸術大学)スラカルタ校大学院の修了制作で、指導教官はサルドノである。大学院生は大学教官かそれに相当する人である。この公演を制作したJは私の宮廷舞踊の師・J女史の息子であるが、サルドノの舞踊の師で宮廷舞踊家・クスモケソウォ(故)の孫にあたる。サルドノはクスモケソウォからJ女史を経てJに至る舞踊の系譜を作品のテーマとするよう助言した。

ところで「水牛の本棚」no.3にサルドノの著述「ハヌマン、ターザン、ピテカントロプスエレクトゥス」が掲載されている。クスモケソウォについて多くのことが書かれているので、是非併せて読んでいただきたい。


  公演プログラム

1「ルトノ・パムディヨ」(Retna Pamudya)  クスモケソウォ作(完全版)
2「スリ・パモソ」(Sri Pamoso)       クスモケソウォ作(復曲)
3「ダルマニン・シウィ」(Dharmaning Siwi) J作

1は女性戦士・スリカンディが敵のビスモを倒すまでを描いた女性単独舞踊である。1954年に中国への芸術使節(misi kesenian)の演目として作られ、J女史が初演した。その後はスラカルタ舞踊の基本的な演目として一般に定着している。市販カセットにはJ女史による短縮版が収録されているが、本公演ではオリジナル版をクスモケソウォの弟子だったM女史が上演した。そしてクプラという踊りの合図になる楽器(木箱のようなものを木槌で叩く)をJ女史自ら奏した。

2は1969年頃の作品で、廃れていたものを今回復曲させた。クスモケソウォの弟子が海外で踊るため男性単独舞踊の作品を師に依頼してできたものである。今回は舞踊譜を保存していたクスモケソウォの弟子・S.T氏によって上演された。

1と2の演目は両者とも単独舞踊であり、海外公演のために作られたことが共通する。これは海外では1人で踊らざるを得ないことが多いが、本来の宮廷舞踊の演目では男女を問わず単独舞踊は存在しないためである。また両者ともコンドマニュロ(Ldr.Kandhamanyura)を伴奏曲としていることが興味深い。多分クスモケソウォが舞踊を通して表現したいものを一番表現できた曲だったのではなかろうかと思う。

3はJ自身の作品で、曲はJの友人に委嘱された。私を含む女性4人、男性4人の踊り手によって踊られた。ダルマニン・シウィ」(Dharmaning Siwi)とは「子(孫)の果たすべきこと」というような意味である。前回も述べたように、この公演では祖父や母の教えをJが受け継いでいくという点に眼目があり、男性の部分はクスモケソウォの、女性の部分はJ女史の舞踊テクニックを用いて構成されている。


  公演の場所

公演はプンドポ、それも、現在も使われていて且つ昔の趣きのある所でやりたい、というのがJの希望だった。ジャワの伝統舞踊はプンドポで行われるものとして発展してきたからである。

プンドポとはジャワの王宮や貴族の邸宅に設けられた式正の空間である。壁がなく柱だけで屋根を支えており、特に一番中央の空間を作る4本の柱はソコと呼ばれて重要である。

Jの実家の近くに素晴らしいプンドポを持つ家があった。しかし柱はクリーム色に塗られ、装飾も施されていて立派過ぎるという。王宮は別として柱は木地のままが良いということで、そこは却下となった。次にJの実家はどうかということになった。クスモケソウォは宮廷舞踊家としてプンドポのある家を宮廷から下賜されている。しかし指導教官からはOKが出なかった。その理由は手狭であるということの他、サルドノが知っている頃からはずいぶん様子が変わったからだという。その代わり自分のアート・スタジオを使うようにと言った。そこはマンクヌゴロ何世だったか忘れたが、その人の愛妾の邸宅だった所で、プンドポもそなえていた。


  公演まで

J自身は公演の1年くらい前から既に祖父の弟子を訪ねてインタビューを始めたり、母のJ女史に私達が習うのを見たりしていたが、公演のための直接の練習は10月から始まった。

11月6日にイスラムの断食が始まってからは、練習時間は15:00からブカ・プアサ(buka puasa)までとされた。私以外は皆イスラム教徒である。イスラムの断食は日の出(16:30頃)から日没(17:30頃)までである。ブカ・プアサとはその日の断食を明けることを言い、イスラム教徒にとって家族や友人とブカ・プアサするのはこの上もなく嬉しい時間のようである。Jは練習のあとでその時間を皆と共有することを大事にしていた。

12月12日夜はクスモケソウォ夫人の1000日忌の供養があった。宮廷からイスラム導師が来てお祈りをする。踊り手も皆招かれた。翌朝に墓参り。


  1月30日(木)17:00〜スラマタン(Selamatan)

スラマタンは共食儀礼と訳される。要は無事である(Selamat)ようにと祈る儀礼で、イスラム導師による祈りのあと皆でそのお供えを食べる。プンドポのソコ内(中央)に公演関係者一同が車座に座り、その真中にお供えを置いて行われた。その後リハーサル。


  1月31日(金)9:00〜墓参り

J、J女史一家と踊り手全員でクスモケソウォのお墓に参り、今晩と明日の公演の無事を祈る。お墓参りのあと皆で昼食を取る。一度解散し、踊り手は15:00に集合することになった。


  同日19:00〜公演:一般客

明日が試験となる公演で、今日は位置付けとしてはドレス・リハーサル(Gradi Bersih)である。しかし明日は試験関係者と遠方の招待客で会場が一杯になるので、市内の友達はこの日に呼ぶようにということだった。衣装はドドットというスタイルで、カイン(腰布)とサンプールという布は今日は白色だったが、本番では緑色だった。これは宮廷のブドヨ・クタワンという儀礼を想起させた。

15:00前には家を出られない程の土砂降り。雨量は多少減ったものの、公演が終わるまでずっと雨は続いた。ちなみに2月1日は今年は旧暦正月だった。この日(前夜から含めて)に雨が降るとその年は豊作だと華人達に信じられているとも、またその日は毎年決まって雨が降るとも聞いた。


  2月1日(土)19:00〜試験公演:招待客のみ

この日も雨。しかし公演が始まった頃にほとんどやんだ。今日は不思議に上手くいくような気がした。それに今日はプンドポの脇の部屋に控えていても、客席から圧倒されるような雰囲気が伝わってくる。Jの一族がジャカルタ、ボゴール、スマランから皆集まっている。Jの叔父や叔母、兄弟達は皆かつてのラーマーヤナバレエの出演者だ。Jのいるスラバヤ教育大からも来ている。そして他にも多くの舞踊家達、宮廷の人達が集まっていて、後から振り返れば何とレベルの高い観客の前で踊ったのだろうと思う。

最初の「ルトノ・パムディヨ」が終わり、戻ってきた踊り手を裏で皆で「スクセス、スクセス……」(英語のサクセス)と迎える。次の「スリ・パモソ」が半ばになると、私達は円陣になって隣の人の手を取り、今日の成功を祈って黙祷する。その後ジャワ式挨拶のように互いに握手してスクセス、スクセス、スクセス、……成功しますように、と声を掛け合う。

それから女性の踊り手は、裾を長く引いたカイン(腰布)の中にクンバン・スタマン(赤と白のバラの花びらやパンダンという葉)を巻き込む。これは宮廷舞踊のやり方で、裾を蹴って踊っている間に花が大理石の床にこぼれて、見ている人にはとても美しい。

また試験の日のみ、ソコ(中央の4本の柱)の足元にお供えを置いた。パンダンの葉にショウガのようなものやらを混ぜたもので、とても良い香りがする。場を浄めるためだろう。これの名前は失念してしまった。

踊り終わって裏に戻ってくると、今度は逆に先の踊り手や化粧係の人が待っていて、「スクセス、スクセス、良かったよ……」と迎えてくれた。公演が終わり、今度はJの口頭試問が終わるのを皆で待った。その後点数が発表される。とても良い点で一同ほっとする。Jはスタッフにビールならぬアクア(水)を頭からかけられ、祝福された。


  2月9日(日)12:00〜慰労会(sungsuman/sumsuman)

ジャワでは儀礼が終わってしばらくすると関係者一同が集まって慰労会をし、この時にスンスンと呼ばれる白くて甘いお粥を食べることになっている。前日の2月8日がJ女史の誕生日だったので、そのお祝いも兼ねた慰労会があった。私は2月12日にここを発って日本に帰国することになっている。だから私にとっては送別会でもあった。今回の留学生活の最後のほぼ5ヶ月はこの公演のためにあったようなものなのだ。

けれどこの公演を経験できたことはジャワ舞踊を学ぶ上で貴重な経験となった。それは私自身にとっても、J女史にこの5年間学んできたことの集大成になったからだ。そしてこの公演がある種儀礼的なものだったために、お墓参りだとかスラマタンだとかの舞踊そのもの以外の要素を経験することができたからだ。ジャワの宮廷舞踊は元々宮廷儀礼というコンテクストの中で位置付けられ、遂行のための手続きを必要とする。私はそれを、全く同じコンテクストではないにしろ、経験することができたと思っている。




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