2003年5月 目次


戦争とイラクの子どもたち(1)目指せバグダッド  佐藤真紀
海の道の日 Dia do caminho do mar        藤井貞和
カディム・アル・サヒール             北中正和
「電子図書館」はどこにあるか?           大野 晋
自殺未遂マシーン                 三橋圭介
しもた屋之噺(17)               杉山洋一
結婚式での舞踊                  冨岡三智
窓(2)     スラチャイ・ジャンティマトン 荘司和子訳
さようなら、また会う日まで……          御喜美江
経過報告                     高橋悠治



戦争とイラクの子どもたち(1)目指せバグダッド  佐藤真紀




ヨルダンは4月になっても世界各国からのジャーナリストが集まってきてずいぶんとにぎわっている。4月9日サダム政権が崩壊したとの情報が流れ、彼らはいち早くバグダッドに入るタイミングを狙っていた。私も治安のことを考えて、ジャーナリストの一行に混ざってバグダッドに入ろうとしたが、置いてけぼりを食ってしまった。それでイラク料理でも食って憂さを晴らそうというわけだった。

昼間に時計屋さんに行くとあわただしく、「バグダッドの街中でサダムくたばれとイラク人が言っているぞ」と駆け込んでくる人がいる。「それは本当か?」「うそじゃない。アメリカのCNNじゃなくてアルジャジーラ(カタールの衛星テレビ)で見たんだ」

早速情報を取りにイラク料理屋に行くと、レジの人が「サダムがシリアに逃げたぞ」という。携帯電話にニュースが飛び込んできた。

ここの客はほとんどがヨルダンの日雇いのイラク人労働者たちである。もくもくとイラク料理を食べながら故郷に残してきた家族のことを心配している。

そして、バグダッドの中心街にあったサダムの銅像にアメリカ兵が登り星条旗を掲げる。そしてサダム像をクレーンで引き倒してしまった。歓喜するイラク人。一体これはどうなっているんだろう。

夜、またイラク飯を喰った。集まってくるイラク人は意外と冷静だ。「サダムが倒れたところでまだ帰国するわけには行かない。だって、家族を食わせていかないといけないからね。そんなすぐには仕事はないよ」というのだった。

結局私は、一週間後にバグダッドに入ることができた。NGO関係者で車を頼んでみんなでシェアする。相場は2000ドルだ。今までは車一台で100ドルだったので20倍の値段がついている。水も電気も、食料も無いかもしれないので、いろいろ買い込んだものを車に詰め込み夜中に出発して朝方国境に到着。何よりも心配なのは、戦争で跳ね上がってしまった物価だ。一応現金もたくさん持っていったほうがいいだろうけど、略奪されたらどうしようか? そんなことを心配しているうちにもヨルダンを出国。

今まで、イラク兵がいた国境にはアメリカ兵が警護している。パスポートをちょっと見ただけで簡単に入国できた。以前だと2時間は待たされたのに。なんというか複雑な心境である。イラク兵とアメリカ兵全く異質なものに置き換わってしまった。

そんなことより、早くイラクの子どもたちに会いたい心境だ。ちゃんと生きているだろうかと思うと心配ではあるが、元気でいることしか想像できず、気持ちは高ぶるのである。(つづく)





海の道の日2003年4月4日 Dia do caminho do mar   藤井貞和




以下はポルトガル語からの翻訳(日本語訳 エウニセ・スエナガ Eunice T. Suenaga)である──
海の道の日は、富山妙子の作品「海の道」の制作状況を見るために、
高橋悠治・小林宏道らが火種工房にあつまった雨の夜のこと。 
原ポルトガル語についても、エウニセに多大な労力を提供してもらったので、心から感謝したい。


  3月30日、バグダッドへの空爆はさらにはげしく、市の中心部では四つの爆発があったようだ。  前日、空爆されたある市場では55人(他の情報源では58人)の市民が亡くなった。  日本の外務大臣川口順子(よりこ)は、NHKのある朝の番組で言った:「戦争が終ったときは四歳だった。  空襲のとき逃げたことを覚えている。  下で怖がっている人たちのことや戦っている兵隊の辛さを思うと、テレビをちゃんと見ることができない」。  本当?  彼女は空襲の記憶があるの?  番組を見た人たちやこのことを後で知った人たちは少し驚いたかもしれない。  日本の総理大臣小泉純一郎は川口とともにイラクへの武力行使を容認し、オープンにアメリカ(とイギリスと)を支持した。  小泉はしばらく置いておいて、川口は下で怖い目にあっている人たちのことを考えることや、自分の記憶に耳を貸すことよりも、国の利益を優先することを選んだ。  川口の言う空中襲撃は1945年の襲撃のことである、当然ながら。  あの戦争のことに関しては空中襲撃というのに、今度の戦争に関しては空中爆撃という。  戦後55年間を生きた人たち、終戦後生れた人たち、もっと若い人たち、戦争についてのニュースを聞いたり見たりする経験がはじめての人たち、高校生、中学生、そして小学生まで、すべての人が戦争について考える権利がある。  戦争で戦った人たちや空襲の記憶をもつ人たちだけが戦争の経験を生きたというに過ぎないならば、終戦後生れた人たちは戦争を知らない世代ということになってしまう。  私たちは戦争をしらないのか?  学校で習う歴史や毎日メディアから伝えられるニュースは、戦争を遠いもの、経験できないものとして見せるのか?  戦争にまきこまれていない地域は、ある限られた地域の戦争に関して無関心でいることはできない。  ある特定の地域の戦闘であってもそれは世界戦争である、つまり、世界中をまきこむ戦争である。  私たちはこれを自覚しなければと思う。  私たちは世界戦争を生きているのではないか?  メディアの問題―─検閲、かたよった情報の操作、確かな情報の不足のため間違っているかもしれない解説、挑発的な解説、急に忙しくなった軍事に詳しい専門家たち、戦争批評者になり多くの解説をうみだす分析者たち。  にもかかわらず、このようなメディアを経験することは戦争の経験ではないのか?  小泉と川口の武力行使容認は罪であると言える。  しかしこのような批判に対する答えが「彼らはただ保守的な政治家としてふさわしい選択をしただけだ」であるならば、私たちはさらに有効な反論をみつけなければならない。  なぜなら、日本がこのまま武力行使を支持し続けるならば、高い代償を払うことになる。  でもこのことに気づくほとんどの人たちはこの経済援助は国にとって有利だと考える。  政治家はこのように言い、支持を得ようと、かんたんに影響されやすい日本社会に訴える。  「私たちは戦争に反対だが、現在の危機はイラクによってひきおこされた。 私たちは武力行使を支持する以外に選択はなかった」。  「日本にとって、アメリカを支持する以外に選択はあるのか? 現実的な決断だった」。 「日本人拉致のケースのように、北朝鮮の脅威を前にしている日本社会にとって、アメリカとの関係を強くすることは必然的だ」。  イラク復興に協力したいという願いはあの国を助けたいという純粋な気持ちからも発しているということは認める。  そして戦争に反対だと言うことは決してまちがっていない。  日本はアメリカになんでも従うからアメリカのサルだと言われているようだ。  今後、日本社会や日本人がテロ攻撃の的になる可能性は大きい。  もし無防備に外国を訪れる日本人観光客が誘拐や攻撃の的になったなら、日本政府は自衛隊を派遣しなければならなくなるかもしれない、そして、後悔するようになるかもしれない──「こんなことなら、アメリカを支持するのではなかった……」と。  このような時期に特に反米だと言い始める解説者を見ることは耐えられない。  これらの解説者は専門家のように見せ、風潮をつくる。  このような日本社会の傾向を好む人もいる。  このようにして国民感情はつくられるのだろうか。  「私たちは反米である」──これが討論などの中心的なテーマだ。  反米であるというのは現在の国民感情にアイデンティファイしている以外なにものでもない。  どの国でもこのような経験をしているだろう。  風潮が反米であったり、その風潮が過ぎ去ったり。  東アジア諸国の反日感情を知るならば、少しでも常識のある人なら国民感情をはっきりあらわして反米だなどと言えないだろう。  あるテレビの討論では次のテーマが与えられた。  1.日本が武力行使を支持したことについてどう思うか?  2.今後日本はどうすべきか?  参加者は朝までこのテーマを討論していた。  あなたたちもこれらのテーマを学校で、家で、仕事で議論していると思う。  しかし、なぜ別な問いをたてないのか。  例えば3.空爆の一番の的になっているイラク市民のことを第一に考えると、彼らの恐怖のことを思うと、国の利益を考えるより先に、人間として、考えることとすることとがあるのではないか。  4.戦争の恐怖があるとして、その恐怖が想像であっても現実であっても、そして戦争以外に選択がないとしても、実際の攻撃は避けなければいけない──、このような思想を表現すること。  5.戦争に反対であること、または非暴力の考えは練習によって得られる思想であり、高度な人間的智恵である。  私たちは国民感情が武力行使を支持する方向へ向かわないためにも、このような考えを洗練しなければならない。  6.でもその一方、私たちは言わなければならない:平和に馴れることは何がいけないの?  それはいい面もある。 私たちはブラジル住民が百年以上も戦争を知らないということ、そして平和に馴れているということをうらやましいと思わなければならない。  また日本国憲法を思い出すのもいいだろう。  7.例えば、沖縄の歌手、きな・しょうきちはイラクへ行って表明した:武器を楽器に代えましょう。  世界中で何万人もの人が街へ出て戦争に抗議をした。  インターネットでは戦争反対のメッセージやイラストが流れ、人間の盾となるためにイラクへ行った人もいる。  それぞれの人がそれぞれの方法で戦争反対、または非暴力を訴えている。  人文字、反戦広告。  人間の尊厳の名においてこれらすべてを認めなければならない。  小さな行為でも、思想は体を動かすこと、そして声からはじまる。  8.アメリカでもイギリスでも武力行使に反対する人たちがいるということを想像する権利。  パレスチナ、アラブ諸国に生きている人たちのことを想像する時間。  中央や東欧に広がっている悲しみを想像できる可能性。  東アジアの海、沖縄東海岸のジュゴンを想像する教室。  9.国の利益よりも大切なものがあると子供に教えることのできる人間の先生。  このような先生がもっといてほしい。  不利益になっても表現されなければならない無言の叫びがあるということを教える人間の先生。  10.国民感情が高まっているとき、理性が示す本当の価値は国民感情にはないとはっきり言うことができる、日々を生きる人たち、人間の芸術家、人間の思想家たち。  最後に、人間の兵士たちへ、もし思想が、あなたたち兵士たちが持つもっとも人間的なものをなくそうとしたら、あなたたちはその思想にさえも銃をむけるの?



編集部注・ポルトガル語との対訳は↓をクリックするとダウンロードできます。PDFファイルです。

4 de abril de 2003 (Dia do caminho do mar)




カディム・アル・サヒール  北中正和




イラクの歌手カディム・アル・サヒールの音楽を聞いたきっかけは、海外の音楽雑誌の広告のページだった。インターネットで調べてみたら、いっぱいCDが出ていたので、とりあえず最近の2枚を取り寄せて聞いてみた。1枚は大手のEMIが配給しているアルバムで、もう1枚はスティングのマネジャーが作った地中海/西アジア音楽専門のレーベルから出た編集アルバムだった。

彼は初期には伝統的な音楽をやっていたらしいが、入手した2枚の音楽は現代的かつ折衷的なアラビアン・ポップ・ミュージックだった。厚くてダイナミックなストリング・オーケストラをフィーチャーした曲もあれば、コンピュータ・リズムと中東の楽器のサウンドの上にエレクトリック・ギターが鳴り響く曲もある。アルジェリアのライ・ミュージックからの影響を思わせるブラス・アレンジの曲もあれば、イラクやサウジの音楽によく見られる多人数のユニゾン・コーラスが登場する曲もある。

彼の音楽が、現地で流通している他のイラクのポップスとちがうのは、伝統的な打楽器を強調した曲が少なく、西洋、ラテン、アラブの要素の融合を感じさせる曲が多いところだ。それは彼が90年代のはじめからアメリカやヨーロッパで音楽を教えながら活動してきたことと無関係ではないだろう。そのぶん未知なものと出会う喜びは少ないのだが、べたべたなラヴ・ソングをうたっても、情に流されないコブシ入りの歌声がけっこう気に入っている。

昨年秋にドイツのエッセンで真夜中にタクシーに乗ったとき、運転手がイラク人だった。そういうときは情報収集の絶好の機会とばかり、言葉が通じなくてもミュージシャンの名前を連呼することにしている。ところが、そのときはカディム・アル・サヒールの名前が思い出せなくて情けなかった。かわりに「イラクに帰らないのか」と質問したら、「サダームがいなくならないと無理だね」という返事だった。異郷のエッセンで深夜にタクシーを運転している人のよさそうな亡命生活者から聞いたサダームというその言葉には、ニュースで聞くのとはちがう響きがあった。

ところで、最近、思いがけないアルバムでカディム・アル・サヒールの歌声を耳にした。4月23日に発売されたサラ・ブライトマンの最新作『ハレム』の「ザ・ウォー・イズ・オーヴァー」という曲だ。サラはイタリアのアンドレア・ボチェッリとのデュエット「タイム・トゥ・セイ・グッドバイ」の大ヒットで知られるイギリスの歌手で、最近はテレビ朝日系の『ニュースステーション』のテーマ曲「サラバンド」もうたっている。プロデュースは、ドイツ人のフランク・ピーターソン(ペテルソン)が手がけている。

「ザ・ウォー・イズ・オーヴァー」という曲は、たぶん米英によるイラク侵略がはじまる前に、侵略の可能性を見越して作られたのだろう。ラヴ・ソングともとれなくはない曲だが、発表された時期が時期なだけに、そしてゲストがゲストなだけに、タイミングのよすぎる曲になってしまった。

その中でカディム・アル・サヒールがうたっているのは「この世界と人類に平和を」というアラビア語のブリッジの部分と、それに続くサラとの英語のデュエットの部分だ。そこには「戦争が終わって、再び故郷に帰るような気分だ」という歌詞が出てくる。

さて、エッセンのタクシーの運転手は、同郷の歌手が参加したこの曲を聞くことがあるのだろうか。そしてサダームがイラクから消えてしまったいま、帰郷の準備をしているのだろうか。



「電子図書館」はどこにあるか?  大野 晋




「電子図書館」を作るという話がある。
しかし、電子・図書館っていう奴はどんなものなのだろうか?

現状を言えば、「電子図書館」と呼ばれる存在はどこにもないというのが本当のところだと考える。
そもそも、図書館自体があやふやな存在ですから、それに「電子」なる「もやもや」の権化のような飾りがついてしまえば、どんなものになるのかは絶対に考え付きますまい。
図書館を電子化するインフラも、法律も、慣習も、そして、受け手の準備もなにもできていないというのが現状だろう。

まず、どうやって、読みますか? 何を使って、どこで、どんなものを?
どんなものを「電子」で読みますか? 「電子」と「紙」の違いは何でしょうか?
図書館で読む本と自分で買う本の違いは何でしょうか? 図書館を使う人と図書館を使わない人、図書館を使えない人とのサービス差はどこで吸収されるのでしょうか? 果たして、図書館って、なんなのでしょうか?(無料貸し本屋ですか?)

電子化された図書館は著作権をどのように扱うべきなのでしょうか? 図書館だから無料ですか? それとも、有料ですか? 料金は誰に払うのですか? 著作者だけですか? 出版会社には払わないのですか? いつまで払うのですか? 著作権の保護は切れていても販売している本の扱いはどうするのですか? 誰が集めるんですか? いつ集めるんですか? ニュースのような発表記事の著作権はどこにあるんですか?「電子」の図書館と既存の図書館の扱いは違ってもいいのですか?

少し考えただけでもこれだけの疑問が出てくるのです。
この状況で電子図書館があるはずがない。

「読む」という行為に対して、コンピュータという物体はなにも変えてくれません。

なぜか?

それは、読むという行為に対して、コンピュータを使った新しい「生活」の提案ができていないから。
コンピュータやネットワークは道具であって、目的じゃない。
もし、今「ある」のだとすると、それは電子図書館ではなく、Webを通した知の連携であるインターネットそのものなのかもしれません。
ただし、それは、「本」という形はとっていません。

個々の「図書館」、「本」、「知識」、「文章」、そして「対価」や「生活」について、きちんと見直して、定義しなおす必要がある。

まずは、考えよう。

たぶん、その先にしか、「電子図書館」の解答はないような気がしてならない。

(2203.4.30)



自殺未遂マシーン  三橋圭介




自殺マシーン(機械)を考えた人はたくさんいる。なかでも詩人の寺山修司は「自殺学入門」のなかで、自作の自殺マシーンの作り方を公表している。マシーンだけではない。念のいったことに「上手な遺書の書き方」、「動機」の必然性、「自殺のライセンス」について論じる。さらに手本となる「自殺紳士論」とつづき、最後に「じぶんを殺すことは、おおかれすくなかれ、たにんをもきずつけたり、ときには殺すことになるとつぶやき、しみじみとえんぴつをながめ」るのだ。

結局は自殺できなかった寺山のもうすこし先をゆく芸術家がいる。美術家の会田誠。かれは自殺マシーンではなく、自殺未遂マシーンをアートとしてつくり、取り扱い説明書代わりの作者の実演ビデオが付いている。

これは自殺が未遂で終わるよう計算されたマシーン。マシーンというと剛直なイメージがわくが、この作品は本体はナイロン、プラスチック、登山用具に飛び降り用のプラスティック台で構成されたコンセプチュアル・アート。カラフルでゴテゴテと付属物で装飾された概観から、これが自殺未遂マシーンとはわかりにくい。ビデオはこんな感じ。

作者が神妙な顔で台に登る。生足が妙にきれい。自殺未遂マシーンに向かい、手をかける。踏みとどまり、マシーンに据え付けられたたばこケースからたばこを取りだして一服。きちんと携帯灰皿もついている。自殺未遂でも灰を残して死ねやしない。そしてやっぱりマシーンに据え付けられた袋からワンカップ大関を取り出し、飲む。ゴクゴク飲む。素面じゃちょっとね。そしてこれまたマシーンに据え付けられた携帯電話(ヘンドフォン用マイク付き)で、遺言ではなく遺電話。「岡(おかー)ちゃん、迷惑をかけるけど、寅次郎のことをよろしくね。もうさ、イヤんなったからさ…じゃあね。あぁ………岡ちゃん、また失敗しちゃったよ」。なさけない後ろ姿がむなしい。

自殺未遂マシーンは「自殺する」という負(暗)と「失敗したい」という正を混在させた二項対立の上にたって、行為の果てに正(明あるいは生)を選択する。まさしくマシーンがそうであるように、概念を宙づりにして突き落とす会田誠独特のファンタジーがある。しかも首吊りの輪がロック・クライミングの命綱でできているからおもしろい。

これを眺める人は実際に自殺未遂を試みてみたくなるらしい。結果はわかっていてもコンセプトを超える誘惑がここにはある。だから美術館に展示された自殺未遂マシーンは時々床に転がっていたりするらしい。輝かしい生の遺物? 日本では年間に3万人以上が自殺するらしいが、未遂の数はわからない。だが美術館で未遂した人はその数には入らないだろう。

自殺未遂マシーンが一冊のエッセイになった。荒井倫太郎という人がこのマシーンをまじめに考え、自分の側に引き寄せた本らしい。エッセイ「自殺未遂マシーン」刊行記念トークイベント「天才アーティスト・会田誠と語る エロスと死」に参加した。最後のサイン会で会田にサインをもらった。そしてかれの横で乳母車にのり、ペンをもてあそぶ寅次郎にもサインをおねだりしてみた(かれは作品1Work1の作者)。最初は気乗りしない感じだったが、「なにか書いて」というと、ペンがサラサラと迷いなく走った。おとーさんは写実だが、息子の寅次郎は抽象だった。輝やく寅次郎のためにも会田誠は宙吊りしながら未遂しつづけなければならない。



しもた屋之噺(17)  杉山洋一
                     

過日、石井眞木さんの訃報が届きました。眞木さんとの繋がりを言葉にするのは難しいのですが、最初に作曲を奨めて下さったのが眞木さんでした。幼稚園の頃に書き散らした楽譜を見て、この子に作曲を勉強させてはどうかと、当時ヴァイオリンを習っていた篠崎先生に話して下さったのです。

幼稚園の頃は作曲の真似事と漢和辞典が大好きで、当時ヴァイオリンで弾いていたザイツの学生協奏曲等を真似て、学生協奏曲第百何十番という曲を書いたりしました。作曲と言っても、音符を書くのが愉しいだけで、どの程度音を考えて作曲したのか疑問ですが、そうした何百曲のなぐり書きを見て、眞木さんはこの子は作曲が向いているかも知れないと話して下さったそうです。ただ、当時はヴィイオリンを弾く方が余程愉しくて、小学校に入ってからは、殆ど作曲もしなくなりました。

そうして、小学校3年生で交通事故に遭い、ヴァイオリンを逆に持ち替えなければならなくなった時に、励まして下さるために、当時眞木さんが司会をされていたテレビ番組「オーケストラがやってきた」に招いて下さったのです。楽器を持ち替えたばかりで、全然思うように弾けず、泣きながら練習した記憶があります。

10月15日に交通事故に遭って、左手のギプスが取れたのが翌年の3月くらい。収録はギプスが取れてから2、3ヶ月後ではなかったでしょうか。楽屋は眞木さんと二人きりで、色々と愉しいお話をしてくださったような覚えがあります。よく覚えているのは、本番直前、眞木さんがスコアを見ながら指揮をさらっていたことで、子供には何をしているのかさっぱり分からず、妙なものだと思いながら眺めていました。

収録中のことは殆ど記憶にはありませんが、眞木さんと一緒に司会をされていた島田祐子さんに、「初めてオーケストラと一緒にヴァイオリンを弾いた気分はどうですか」と尋ねられ、「爽快」と答えて会場を沸かせたことだけは覚えています。その折、これからもヴァイオリンを頑張りなさい、と眞木さんの最初の出版譜「ヴァイオリンとピアノのためのバガテル」に励ましのメッセージを書き添えて、プレゼントして下さいました。子供心に、日本人離れした性格と格好の眞木さんが、少し角張った魅力的な書体でメッセージを書いてくださったのが、印象に残りました。

その頃から、中学生くらいまで、眞木さんにはとても可愛がって頂きました。事ある毎に、演奏会に招待して頂いたり、お気に入りの寿司屋に連れていって頂いたり、眞木さんの息子さんと一緒に遊びに出かけたり、愉しい時間を沢山過ごしました。

当時は夏になると祖父が湯河原で海の家を開いていたので、何度か眞木さんがお友達を連れて湯河原に遊びに来たこともありました。自分は殆ど泳げなかったので、眞木さんたちが沖合いのブイまでひょいひょいと泳いでいってしまうのが怖かったりもしましたし、一緒にラーメンやらミソおでんを食べたのも愉快な思い出です。

その祖父が昔網元をしていた名残で、釣り船を一艘持っていたので、祖父と眞木さんと一緒に海でキスやメゴチを釣ったのもよく覚えています。早速浜に持って帰りフライにして頂きました。

小学校の頃というと、眞木さんや篠崎先生が、吉原すみれさんや色々な演奏家、作曲家の方々と「ヴァン・ドリアン」を活発に活動されていた時期で、現代邦楽も含め沢山の現代音楽を聴きにゆきました。そうして、ごく自然に自分でも現代音楽に興味を持つようになり、小学校の終わり頃から、現代音楽の楽譜やレコード、関連書籍などを買うようになりました。

小学校4年生くらいまで、ヴァレーズとブーレーズに違いすら分からず、眞木さんがベリオという偉いイタリアの作曲家の友達だと聞いても、ルチアーノ・ベリオを19世紀のベルギーの作曲家シャルル・オーガスト・デ・ベリオと混同して、眞木さんはどうやってそんな昔の人と知り合いなのだろう、大したものだと不思議がったりしていたのも、今となっては懐かしいばかりです。

当時の詳しい記憶はありませんが、小学校6年生の時に、ヴァレーズ作品集とリゲティ作品集、ブーレーズの「主のない槌」等のレコードを倍速させ、その合間にラジオの雑音などを挟み込んだテープ音楽を作るのに熱中していた事を覚えています。恐らくそうした録音も、眞木さんに聴いて頂いただと思いますが、どういう批評を頂いたのかは定かではありません。

当時の眞木さんの代表作の初演は、相当数聴きに行っていて、昨年イタリア人の作曲の友人が、石井眞木についてのセミナーをミラノで催した際、彼がサンプルとして聴かせた多くの作品初演に、思いがけず自分が立ち会っていて驚きました。当時そうした現代音楽の演奏会を聴きにいっても、難解とか特殊な音楽という認識は全くなく、そのお陰で中学に入り、三善晃先生に初めて作曲を習い始めた時には、協和音とか不協和音という意識もなく、和声の勉強はいつも酷い出来で先生を困らせていました。

そんな中どうにか桐朋の音楽高校に作曲で入学し、東京で一人暮らしを始め、何度も夜半まで眞木さんとお酒を嘗めながら、色々な音楽談義に付き合って頂きました。眞木さんからフランス和声の勉強が作曲に何の役に立つのかと、何度も諌められる事もあって、アカデミズムに対する彼のスタンスが理解できるようになると、互いの関係が遠のいてしまったかと少し寂しく感じる事もありましたが、大学に入って三年目に、古典的な書式でピアノトリオを書き入野賞に応募したところ、審査員に眞木さんがいて、入選こそしませんでしたが、一番気に入った作品を後で名前を見ると杉山洋一だったと人づてに聞き、本当に嬉しくなりました。

それから暫くして日本を出てしまい、度々眞木さんとお会いしたいと思いながらすれ違いで続きで、3年前、ベルリンで本番があるので聴きにいらしてください、とご連絡すると、残念だけどその日は東京なんだ、とお返事を頂いたのが最後になってしまいました。

ベルギーで催された石井眞木作品のフェスティバルのポスターが同封されていて、その傍らに20年前に下さった楽譜に添えられたものと同じ、少し角張っていて実直そうな文字が走っていて、胸が一杯になりました。

(4月22日モンツァにて)



結婚式での舞踊  冨岡三智
                     

前回、前々回に述べたのは、宮廷儀礼ではないにしろ、試験という儀礼的なあり方の公演だった。今回はジャワのスラカルタ(通称ソロ)の結婚式で供される舞踊について述べよう。そこでは舞踊は結婚式という儀式に付随する娯楽、余興という面が強い。

ジャワでは結婚披露宴で舞踊がよく上演される。普通は新郎新婦の席へ向かうメイン通路で踊られるが、主催者によっては、メイン通路の真ん中に広く舞踊スペースを取ったり、ちょっとした舞台を設置したりすることもある。

上演されるのはだいたい食事が供されている間やお色直しの間であり、基本的に舞踊は客に対する余興だと言える。しかし中には踊り手が新郎新婦の入退場を先導し、その後続けて舞踊が上演されるといった具合に、舞踊を儀礼の部分に組み込むこともある。

舞踊の伴奏だが、一般の人ならカセットを使用することが多いだろう。ジャワの伝統的な結婚式では各シーンで音楽を使用し、しかもどの曲を使うのかも決まっている。音楽は舞踊伴奏のためだけでなく、式に不可欠なものである。しかしガムラン演奏には総勢20人前後が必要なため、依頼する方は経済的に大変であり、そのため結婚式用のカセットが多く市販されている。主催者が芸術に関心の高い富裕層や芸術関係者であればもちろん音楽は生演奏で、前述のような演出をしたり舞踊の新作を委嘱したりすることもある。

結婚式に注文される演目はさまざまであるが、一番多いのがガンビョンであり、次いで「カロンセ」など男女の恋愛を描いた舞踊や、恋に落ちた武将を描いたものも多い。また恋する武将に道化がからむもの(漫才のような感じである)も人気がある。

ガンビョンはかつては性的なニュアンスの強い舞踊で、多産を願うという意味で結婚式によくガンビョンの踊り手を呼んだものだという。現在ではそのような意味はほとんど意識されず、単に結婚式や各種儀礼につきものの舞踊だとされており、数人の女性によって華やかに踊られる。

恋愛する男女を描いた舞踊(ラブダンス)はソロでは「カロンセ」に始まるのだが、これは最初から結婚式用に作られた作品である。スハルト元大統領夫人(故人)が親族の結婚式用に舞踊家・マリディ氏に委嘱した作品で、その後マリディ氏は各地で踊って普及させた。結婚式での需要が多いため、その後芸大でも同種の舞踊が多く作られている。

では次に、私が出席したり実際に踊ったりした結婚式の例をいくつか挙げよう。私の周囲は芸術関係者が多かったのでユニークなプログラムに接することが多かったが、。


●1998年4月、F嬢の結婚式。
Fは芸大教官・P先生の姪であり、先生宅に下宿していた。結婚式は先生の自宅前で行われた。家の入り口の前に新郎新婦の席を作り、家の前の道の半分を上演スペースに、残りを客席にして、その道は式が終わるまで通行止めにする。このように自宅で結婚式を挙げることもソロではまだよく見られる。P先生夫婦はともに芸大教官で新郎新婦も芸大生だったが、周囲がみな踊る人ばかりのせいか、かえって友達によるソロ舞踊は全然なかった。演し物は先生の娘(中学生)とその同級生達によるジャイポンガン(西ジャワで生まれた新しい舞踊)、先生の息子(幼稚園)とその連れによる「ガンジュル・ガンジュレット」、さらにP先生の親戚の踊り手(中年男女)による漫才のようなもので、身内総出演である。このうち「ガンジュル・ガンジュレット」はP先生の若い頃の作品で、男性2人の異なったキャラクターによる軽妙な掛け合いを描いている。田舎の結婚式で喜ばれるものをということで作ったそうで、今までかなり踊ったという。


●2000年8月アノムスロト氏の娘の結婚式。
アノムスロト(以下アノムと略)はインドネシアを代表する有名なダラン(影絵遣い)の一人である。広大な自邸の、この日のために新築したプンドポで結婚式が行われた。新郎新婦はプンドポの奥に座り、舞踊はプンドポで上演された。そして客はプンドポの前に広がる芝生の庭に並べられた椅子に座った。つまりプンドポを額縁舞台のように使用したのである。また楽器はプンドポの左手にあるガムラン用舞台に、アノム所有のものが据えられている。アノムは芸大に新作のブドヨを委嘱した。その作品は邸宅の住所を取って「ブドヨ・ティマサン」と命名され、衣装も新調された。アノムの依頼は当初それ1曲だったのだが、リハーサルの折りに男性舞踊もできないかと芸大学長に言い出した。ブドヨは女性の群舞なので、男性の群舞もあると良いなあと思ったらしい。このリハーサルは結婚式の4日前だったので、急な話である。しかしたまたま芸大には去る卒業式(7月)のために作った作品があって、それを出すことに決まった。毎年の卒業式には必ず教官が作品を作ることになっているが、この年の作品はたまたま男性5人によるものだったのである。まだ卒業式から日も浅く、踊り手も演奏家も揃っていて何とか上演できるというのと、結婚式のために作ったわけではないが新作だったのも良かったらしい。


●2001年7月、Eの妹の結婚式。
Eは芸大の教官で、男性伝統舞踊とコンテンポラリ舞踊を教えている。ソロ郊外のウォノギリという田舎に住んでいる。ここでは仮設の会場で結婚式が行われたが、新郎新婦の席と客の間に低い台を敷いて舞台が設けられ、しかも舞台がよく見えるように客席は舞台から少し離れていた。演し物は最初が私で「メナッ・コンチャル」という男性舞踊、次にEの作品によく出演している芸大生4、5人によるコンテンポラリ舞踊、そしてEの友達でジャワ在住バリ人によるバリ舞踊「タルナ・ジャヤ」、最後にEの大学時代の友達による滑稽な舞踊劇、である。ソロの伝統舞踊を踊ったのは私だけだった。演し物が4つもあり、しかもこんな田舎の結婚式でコンテンポラリ舞踊までやるとは、Eの芸大教官の面目躍如たるものがあった。


●2002年8月、Wの結婚式。
Wは芸大の若き教官だが、芸術家の一族に生まれ、彼自身、舞踊も音楽もよくする。そのため彼は結婚式で使う曲も舞踊もすべて新曲でやることにした。曲は彼の親戚で芸大教官でもある人に委嘱し、舞踊は彼自身が振り付けた。5人の女性による新しいガンビョン、男女2組によるラブダンスの他、男女1組の神が新郎新婦を入場に導くような儀礼的な舞踊を作ったのである。結婚式はソロでも一番大きな会場で行われたが、メインの通路を高く、座った客の目線の高さまで上げ、客席のどこからも新郎新婦や舞踊が見えるようにした。ちょうど歌舞伎の花道のような感じである。




窓(2)  スラチャイ・ジャンティマトン 荘司和子 訳
                     

ぶっかけ飯売りのおばさんたちがカレー鍋に飯釜、皿、どんぶり、ざるなどを抱えて次々にやってくる。ぼくが座っているところはトタンを6枚くらい使った小さな差し掛け屋根の下で、不安定な柱で支えている。美術専攻の学生たちが好んで描きたがる水彩画によくあるような風情の。腰掛けるのにちょうどいい高さに床板がしいてあって、ここが路地のつきあたりである。

背後には小さな保育所があり、さらに細い路地が右と左に分かれている。左へ行くと緑濃い庭に囲まれた住宅があり、右へ行くと芥子色に塗ったアパートでぼくも含めて大勢の人間が住んでいる。ぼくの左手には古い木造家屋があり一部屋を貸している。その住人が若くて色白、インド系で鼻の高い美人で、ぼくにはまばゆくこころときめく存在だ。

老婆が遠くからやってくる。しわがれ声を上げて辺りの誰彼となく罵声をあびせている。まるで臍の辺りからふりしぼったような声だ。この老婆は以前から野菜を入れた籠を抱えてここへやってきている。庭に囲まれた家にひとりで住んでいてもう長いことこうしているのだ。庭でとれた野菜をとってきて売っているかたわら猥褻なことばをあたりに撒き散らしている。この老婆を気にかけるものは誰もいない。ぼくもぶっかけ飯売りのおばさんと笑いながらしゃべっているし。

僧侶がひとりゆっくりと近づいてくる。そこかしこで立ち止まっては食べ物と合掌を受けている。早朝の淡い日差しを浴びて黄色い僧衣が何か伝えようとしているように鮮明に写る。顔をくしゃくしゃにしたおかみさんがひとり出てきた。大またでばたばたと歩く。何でこんな風に歩くものか。とはいえそれが自然であるようだ。まあアヒルのように歩くとでも言ったらいいか。起きぬけであるらしい。話すと真鍮の歯が光る。短パン姿もいかにも普段着という風情。

「ちょいとあんた、言ったでしょ、ハチイチ(81)だ、ハチイチ(81)だってさ」
(注:庶民は政府発行宝くじの当選番号の下2桁、下3桁などに賭けて、当たると胴元が金を払う闇宝くじを好む)
数字を聞くやぼくは昨日宝くじの当選発表があったこと思い出した。
「あたしだって持ってるわよ。みんなあってるのにそこだけ違ってるのよ」とぶっかけ飯売りが口惜しそうにぼやいた。
「どこで買ってくるのさ」と、ぼくは少し興味を覚えて訊いてみた。買ったことはないのに(長いこと)。
「この近くの横丁よ」と、彼女はさもあまり詳しく教えたくなさそうに言う。
「このお坊さまはすごく当たるのよ」
「つきがないんだよね。夢じゃ当たってるのにさ、数字選ぶときは間違っちゃうんだからね」くしゃくしゃ顔のおかみさんがまたわめいた。
「ほんとそうなのよね。わたしもあとちょっと、っていうの何回もあったわ」
中年の容姿の美しい主婦が会話の輪に参加してきた。身なりもいいし、ゆったり歩く。美容院のオーナーでそれらしい落ち着きをそなえている。彼女は楽しげに顔をほころばせた。

コンロからおろしたばかりのカレーが何種類もそろって、蓋が開けられると熱い蒸気がいい香りとともに漂ってきた。香りを吸い込むと同時にぼくは空腹を感じた。

甘いものもいろいろあってパートンコー(揚げパン)もある。それに気づいたわけはあの女性が降りてきてひとつ買ったからだ。「あれまあ、自分で降りてこなくたってよかったのにさ」と、物売りが彼女をひやかす。

ぼくのこころは燃えて熱くなる。あの女性がまたこの前のようにぼくに向かってにっこりした。ほんとうに微笑んだのだ、幻じゃなくて。鮮やかな紅色のタイトスカートに白いブラウス、髪は編んで後で束ねている。すらりと伸びた背丈。彼女の姿は再び家の中に消えてしまった。

宝くじをめぐる井戸端会議はまだ終わらない。ぼくはまだ同じところに座りつづけている。まるで何かを待っているかのようにその場に釘付けになって。太陽はじりじりと熱くなり始めている。最前の僧侶は30メートルそこそこの距離に近づいていた。

二匹の皮膚病病みの犬がのっそり目の前を通って行った。そしてぼくは、窓の方を見上げてみようかという自信が湧いた。

若い女が窓に肘をついて外を眺めている。若い女性には違いないが別人だ。この女性はまだ着替えもしていない。これといって関心を惹くようなところもない。その上仏頂面ときている。ぼくは急いで眼をそらし塀から下に視線を落とすとそこにまた先ほどの二匹の犬がいた。

アヒル歩きのおかみさんは帰って行った。彼女は立ち去るときちょっと微笑んだ。ぼくも笑みを返す。同じ路地に住んでいる者同士のマナーなのだ。身体中の筋肉がまだほてっている。肩も腕も汗で濡れている。でも運動をした後の爽快さがある。

「なまずのカレーに豚のから揚げね。頭はいらないわよ。食べられないから」
持ち帰る惣菜を注文する声がしている。
「どんなカレーがある?」ぼくはまあそんな風に尋ねた。
「自分で見てごらんよぉ」                 (続く)

(1988年作品)




さようなら、また会う日まで……  御喜美江

2ヶ月間随筆をお休みしたが、ずいぶん長いこと『水牛』から遠ざかってしまったような気がする。3月号4月号と、自分の文章が載っていない『水牛』を読む時、まるで自分の席だけがぬけちゃった教室を覗いているみたいな、ちょっぴりさびしい気持ちがした。と同時にこれほど内容が濃く、多種多様な人物の登場する『水牛』ホームページって、他に類がないのではと、改めて感心した。またこの2回は普段よりもずっと落ち着いて〈クラスメート〉のエッセイが読めるので、自分のエッセイってけっこう目障りだったんだなーと、ちょっとおかしかった。でもこの教室には、また戻りたいな。

昔々、従弟が中学校を無事卒業できたとき、「これも無遅刻・無欠席のおかげだね」と家族親戚一同、大笑いしながら喜んだことを思い出した。そんな雑草根性の血が私にも流れているはずだったが、今回は2ヶ月も挫折してしまった。残念でならない。『水牛』では無遅刻・無欠席を続け、たとえそれがテールライトであっても目立ちたいと、野心を燃やしていたのに……

さて2ヶ月もの挫折には、どんな理由があったのか。
それは語るには及ばず、読むには時間の無駄、かもしれないが、休んだ以上は少しご説明せねばという思いと、次回から再びクラスの仲間入りしたい願望から、ここにご報告をさせていただこうと思う。

はなしは今からちょうど10週間前にさかのぼる。
2月17日、大学入試の仕事でデトモルト音大にいた。休憩時間に携帯電話を見ると、母からの電話が入っていたので折り返しかけたが先方が出ないので、厭な予感がして習志野の義姉に電話をしたら、「おばあちゃん(母)とお父さん(兄)は昨日、病院に行ったけど、別に変わったことなかったみたいよ」と言うのですぐ安心した。そのあと大島の母にも電話が通じると「今、下井さんがいらしてて、可愛いープレゼントもらっちゃったのよ」なんて明るい声なので、「な〜んだ、心配して損しちゃった」と言い、「携帯のワンタッチは触れると自動的にかかるから気をつけてネ!」と忠告をした。その日デトモルトは猛烈に寒く、骨の芯まで凍りつきそうな外で電話をしていると、手も指も全く動かなくなる。夜、ドルトムントのアパートに戻り、まずは熱いシャワーをたっぷり浴びると体がやっと人間らしくなった。と、携帯にまた母からの電話が表示されていた。「あーァ、また!」と思ったその時、再び電話が鳴った。日本は今明け方、これはおかしい、と思いながら出ると「美江ちゃん? 今ね、お兄ちゃんと病院に来ているの。パパの具合が急に悪くなって、先生からの連絡でタクシー飛ばしてきたの。来週25日に帰国するんでしょう? それまでもつかどうか……、美江たちには一応知らせておこうと思って……」それは数時間前のあの明るい声とは打って変わった、怯えた母の声だった。あまりの急変に言葉もなく、心は焦っても体が動かなかった。この週だけは夫ゲオルクも私もびっしりのスケジュールが組まれていて、変更なんて到底無理……、だけど、あ〜どうしよう。とりあえずゲオルクに電話をしたら「パパには、もう一度会いたい!」と言うので、その瞬間すぐに帰国することを決めた。スケジュールなんて何とかしちゃえ、と思った。そうしたら気持ちが少し楽になって、体も突然クルクルと動き出した。

翌朝、生徒のグシェゴシュが車でラントグラ−フ(オランダ)に送ってくれて、その間もあちこちに電話をかけまくった。3月は日本で演奏会もあるので忘れ物をしたら大変、心を落ち着けて譜面、録音、資料、衣装等をトランクにつめる。ゲオルクはデュッセルドルフから戻れないので彼の荷物もまとめるが、これはとても難しかった。彼のサイズでは、足りないものを日本で購入もできないから、あれもこれもケースに放り込む。(後で調べたら下着のシャツを20枚も入れてあった。)ところがあいにく、昼過ぎから耳が痛くなり、ガンガンする。デトモルトで風邪をひいたのかもしれない。夕方になってから、滑り込みセーフで耳鼻科に駆け込み、薬をもらってくる。よかった、今は病気になれないから、と一安心する。

そして嵐のような一日はあっという間に過ぎ、100キロの旅行荷物を乗せたタクシーはゲオルクをデュッセルドルフでピックアップし、あとは一路空港へ。ところが「この格安チケットは変更できません」なんて一悶着がチケットカウンターで展開され、でも何とか無事エール・フランスの機中に収まった時、初めてお互いの顔をゆっくり見ながら「やれやれ!」と大きなためいきが出た。それが何ともおかしくて2人同時にふきだしてしまい、しばらく笑い続けていた。やっとリラックスした私たちは、「これからの11時間は、もうどう焦っても仕方ないから、とにかく寝ておこうね」と言い、軽く食事を摂った後はアルコールも飲まず、すぐに就寝支度に入った。幸いガラガラに空いた機内では横になって体を伸ばせたので睡眠が取れ、疲労回復できた。

成田空港からは、塩崎さんタクシーでまずは大島に寄り、母が病院から戻っていてくれたので100キロの荷物をそこで降ろし、おにぎりと飲物を補給して再びタクシーへ、そして病院へ。あ〜、やっと目的地が近づいてきた。知らせを受けてからすでに3日が経とうとしている。何と遠いところに自分は住んでいるのだろうと、ここへ来るまでの道のりの長さをつくづく思った。そしてこの頃から心臓がだんだんドキドキしてきて、何とも恐ろしくなってきた。

病院へ着くと看護婦さんが待っていてくれて、「御喜さん、頑張っていますよ。血圧は相変わらず低いけど、声は聞こえています」と言われ、病室に飛び込むと、そこにはハアハア息をする、痩せ細った父が横たわっていた。「パパ、パパ、聞こえる? ゲオルクと美江です、今帰ってきたの。わかる?」と手をとると、ものすごい力でぎゅ〜っと私の手を握り返した。こんな強い力がどこに残っているのだろう、痛いほどに握る手を離そうとはしない。「熱が下がったら大島に帰ろうね。そうして大島で体力つけてラントグラ−フに一緒にいこうね」と耳元で言うと目に涙を浮かべ、一生懸命何かを言おうとするけど、口元に耳をあてても聞こえない。ゲオルクが英語で話しかけると、「わかった」というようにうなずく。彼の手も握って離さない。間に合ってよかったとは思ったけど、熱いひたいを撫でながら、涙はとまらない。ハンカチを出そうとすると、またぎゅーっとその手を握りしめ、腕を自分のほうへ引き寄せる。それでますます涙はあふれる。でも夜10時から翌朝7時までのこの時間、父にはまだかすかな意識があり、私達のことがわかったように思う。わかってもわからなくても、私達は話しをしていた。蒸しタオルで顔をふいたり髪を梳かすと、ちょっと気持ちよさそうな顔をしたように思えて、そんなこともくりかえしていた。

そして2月25日、12時48分、父は亡くなった。
その日の日記から。

……やっと病院にたどり着いて3階のエレベーターを降りると、そこに高橋先生が立っておられました。いやな予感がしました。
病室に急ぐ私達に、「大変申し訳ないのですが、10分前にお亡くなりになりなした」と。目の前が真っ暗になりました。ちょっと気持ちが悪くなりました。
気がつくと、パパのベットの前にいました。
パパは昨日のパパではありませんでした。
パパは死んでいました。
入れ歯が入っていたので、顔が少し長く感じられました。
さわると体は熱く、熱が高かったのだと思いました。
右手はやわらかく、いつも固く握りしめていた左手を、まだ握っていました。
でも開くとすぐ柔らかく指が伸びて、むくみも取れていました。
「もう一本早い電車でくればよかったね」と言いました。
一人で死んでいくのは、どんなに淋しかっただろう。
顔を近づけると、まだ呼吸をしているようでした。
でもパパはもう生きていなかった。
もうハアハア息をしていなかった。
2003年2月25日12時48分、パパはこの世を去った。
 
……都典礼がすでにもう来ていて、パパは白い布を被って車に乗せられた。
ちょうど2人乗れたので、ママがうしろに、美江が前に乗った。
錦糸町で高速を降り、大島のイト−ピアに着いたのは、16時ごろ。
早苗ちゃんとゲオルクが駐車場の入口に立っていた。
パパが車から降ろされ、管理人さんがエレベーターの裏を広げて、14階まできた。14階の廊下で葬儀屋の古内さんがいらしているのに会った。

和室はあまり片付いていなかったので急いで不要物を出して、布団をしいた。
パパは一年ぶりに、我家に帰ってきた。
どんなにか生きて帰ってきたかっただろうに。
こんなに痩せて、骨だけになって、帰ってきた。
でも体はまだすこし温かみがあった。

それからはてんやわんやの大騒ぎとなった。

気がつくと今は夜中の2時48分。
14時間も経ってしまった。

今、パパはつめたい。
でも目と鼻だけを見ると、寝ているよう。
ちょっと顔色が悪いから、悪酔いでもしているみたい。

どうしてもっと一緒にいられなかったのだろうか……
一月に来た時、遠くを見つめるパパの淋しそうな目をドア越しに見た。
それがどうしても消えない。
あの時の姿を思い浮かべると、胸がしめつけられる。

パパ
今、美江も同じマンションにいるけど、それがわかるかな……


お通夜と告別式には、1400人近い方々がいらして父との別れをしてくださった。そして生徒達からはよほど愛されていたのだろう、出棺のとき棺から離れず、「御喜先生、御喜先生……」と泣きじゃくる沢山の制服姿に、まわりもみな涙した。校長を辞めてもう一年近くも経つのに、お通夜には分厚い文集を作って持ってきてくれた。全校生徒が一人一人折ってくれた千羽鶴は棺に入れた。通夜は大雨、告別式は雲ひとつない青空、そして強風。春の嵐のようなドラマチックな天気の中で、父は寛永寺の門をあとにした。

3月31日は父の故郷、下関で納骨が行われた。火の山の頂上から見渡す、関門海峡の、美しく雄大な景色を見たとき、「あ〜、この地にパパが帰りたかったのがわかるね」と家族は思った。火の山ロープ−ウェイは何とこの日が運転最終日で、さらにその最終便で山を降りることとなったときは、まるで父が案内してくれているみたいで感慨深かった。お寺における黄檗宗のお経はとても長く、足が痺れて立てなくなったりしたが、お墓には暖かい春の光がふりそそぎ、満開の桜と鳥のさえずりに迎えられるように、父は土に帰った。

父が亡くなって、母が一人ぼっちになって、ずいぶんさびしくなった。演奏会では父がどこか近くにいて、私を守ってくれていたみたいだった。だから思うように弾けた。「パパは今頃、どこで何をしているのかな」と、よく思う。ドイツ語で「さようなら」を「Auf Wiedersehen!」という。直訳すると「また会いましょう」。これはいい言葉だな〜と思う。

そんな私はというと。
メソメソしながらも病気もせず、減量もせず、朝になれば起き、夜になれば寝、一日三食の頗る平凡な日々を過ごしながら、まだまだしぶとく生き残っている。そして今日の日曜日は、バルコニーの木の部分に防水ラッカーを塗った。思ったよりスムーズにできたし、外は日が照って風もあるのですぐ乾くから「今日の仕事はこれで終わり!」とした。

(2003.4.27. ラントグラ−フにて)




経過報告  高橋悠治

  2003年5月

4月はまた8日間入院した。前回の退院から4カ月経ったからもう働いてもいいだろうと思った。そこで歌手と録音するために山梨の塩山に行った。ところが最近はステージのライブ録音になれているのでおなじ音楽を何回もしかもまちがった箇所だけでなく全曲を何回もくりかえすのはつらかった。終わってからホテルの部屋で病気の犬のように心ゆくまで掻きむしったら体中の皮膚が破れた。
病院では教育療法でじぶんで軟膏をぬりカット綿で覆いガーゼと包帯を巻くやりかたを習った。

その間に予定されていた舞踏の笠井叡との即興の会には出られなかったがかれは録音をつかってすばらしい踊りを踊ったということだった。見に行きたかったがもちろんそんなわけにはいかなかった。

やっと家で本を読んだりすこしはピアノを練習する時間ができた。病院ではガートルード・スタインのオペラとニジンスキーの日記を読んだがまだたくさん本があるたとえばイザベラ・アジェンデの「パウラ」死んでゆく娘の枕元で家族の歴史を思いだすあるいは福井勝義の本でエチオピアのボディ族の色と模様の認識についてそれにパゾリーニの映画のビデオも。

視覚と聴覚の2次元性や音を擬音で名づけることとか世界認識のレリーフ空間についていまは考えている。影絵芝居の平面世界にいるようだ。クレージーキルトのような平面から音楽をつくれるだろうそこでは時間は線ではなく現在の深みで空間は距離ではなく夢のうつろいであるような。

亡くなったがまだ身近に感じるともだちのことをよく思いだした武満やクセナキスやケージ音楽家としてよりはしたしい存在つまり不完全で未完な生命として。遠くにいるともだちナ・ヒョーシンやモンコン・ウトックの声を電話できくのもありがたく。それらの現在を頼みその感じのプロセスを音楽としてというよりは音楽やことばやうごき映像を含む活動として組織する。

例の不運な録音に出かけているあいだに石井真木が死んだことを新聞で読んだ。いつか作曲家たちのパーティーで自分とユージは日本現代音楽状況に登場したときは前衛バスはもう発車していてやっと追いついたと言ったのを覚えている。それはともかく1960年代には音楽家はたしかに孤立してはいなかった自分たちだけでいるのではなく画家や建築家劇作家映画作家といっしょにしごとをしていた。そのほうが競争したり不必要に重複したり哲学もなしに助け合えるからましなやりかただ。断片は目標を固定しないでさまざまにちがうやりかたで組み替えられる...[つづく]



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