2003年9月 目次


ムスタファ君のこと                佐藤真紀
ジョージ・コープランドのドビュッシー       三橋圭介
しもた屋之噺(21)               杉山洋一
リチャードソンの夢                松井 茂
緑の島、コルフ島                 御喜美江
何の花だ?(3) スラチャイ・ジャンティマトン 荘司和子訳
経過報告                     高橋悠治



ムスタファ君のこと   佐藤真紀




ニュース・ステーションで放送され話題になっている子がいるという。取材をした土井敏邦氏から連絡があって是非会ってきて欲しいという。その子の名はムスタファ君、8歳だ。
ムスタファ君はバクダッドが陥落する2日ほど前に、疎開していた母親の実家の家の前で、叔父と共に車の横にいたとき、十数メートル先に米軍の爆弾が投下され、その破片がムスタファの左脚太腿を貫通した。叔父は頭部を割られ、即死したという。

  ガーゼの干してある家

6月に入院している病院を訪れたが、すでに退院していて会うことができなかった。7月になって漸く、ムスタファ君の家を探すことができた。大体の住所を聞いていたので、ともかく怪我をしている子どもがいるかどうかを聞いて回る。貧困地区に入ると人だかりがして大変だ。からかって石を投げようとする子どももいる。私の友人もこのような状況に追い込まれてぼこぼこに殴られて、カメラを奪い取られたと言っていたから、できることなら早く用を済まして立ち去りたい気持ちだった。同じような名前の家を何件か回って、ムスタファ君を確信したのは、窓にガーゼが干してあったからだ。
ムスタファ君はニコニコと私たちを迎え入れてくれた。今まで8回も手術をしたそうだ。左足は、骨折していて、補強用のボルトが痛々しい。骨折している部分をはさんで肉の上から2箇所骨にねじを差込み、外側で補強金具で止めてある。

  ムスタファ君の遊び

ムスタファ君は、優しい子だ。彼が描いてくれたのは「ブランコのある風景」いつも、海があって、山があって、そして太陽がある。決して戦争の絵を描きたがらなかった。対照的なのはいとこのルイス君(12歳)。アメリカの戦闘機を巧みに描いた。地面には撃たれて血を流す人がいる。
「お願い!アメリカ軍、出て行って!」「ムスタファ君の足が治りますように」と怒りをぶちまける。
でもムスタファ君の遊びは時として乱暴だ。妹のスースーちゃんの着せ替え人形を使って、戦闘シーンを再現する。「さあ、やっつけてやるぞ」イラク製や中国製の人形は簡単に手足が取れてしまう。「手が取れたぞ。さあ、お医者さんに行こう」「足が取れたぞ。大丈夫、お医者さんが直してあげる」ムスタファ君は一人でそういった遊びを繰り返す。取ってはつけ、とってはつける。まるで自分の運命を人形で占っているようだった。
仕舞いには、スースーちゃんも自分の大切な人形が壊されるのではないかと、怒りをムスタファにぶちまける有様だった。
父のエマッドさんは、米軍が配っている新聞を見せて怒る。「米軍とイラクの子どもが仲良く写っている写真をこうやって新聞に使う。この子どもたちは何も知らずに米軍が珍しくて近寄っていくだけだ。確かに病院に米兵がやってきて『早くなおるといいね』といってくれたが、何もしてくれない。そればかりか、電気もなく、水もなく、この暑さでムスタファは弱っていく」日本で息子を治療して欲しい。イマッドさんは日本へ行けばムスタファ君は直るものと信じているのだ。

  9回目の手術

日本から集まったお金でムスタファ君をヨルダンに連れ出して手術することになった。8月25日、土井さんは無事に陸路でムスタファ君をヨルダンに連れてくることに成功した。ちょうど一ヶ月ぶりに、ムスタファ君と父のエマッドさんに再会した。アンマンは気候が良く、長旅にもかかわらず、ムスタファ君は元気だった。
しかし、あくる日、ホテルに訪ねていくと、ムスタファ君はベッドで寝ていて口を聞こうともしてくれなかった。あれからいきなり手術が始まったそうで、ムスタファ君は心の準備ができていなくて大暴れだそうだった。それでも、足のボトルは取り除かれ、足は切断を免れた。場合によっては歩けるようになるかもしれないとのことだった。

  9歳の誕生日

8月29日、みんなでムスタファ君の9歳の誕生日会をやろうということになった。車椅子も買ったので、屋外でのパーティだ。「僕、お医者さんが手術しようとしているのすぐわかったよ。だって何回も手術しているんだもの。麻酔を打つときは必ず手術するんだから。それで、いやだって泣いたんだ」ずいぶん元気になったけど、まだ疲れ気味で口数が少ない。ケーキにはたった9本の蝋燭が立ててある。それを一生懸命吹いて消していくムスタファ君。そう、たった9歳の少年がおわされた苦悩はあまりにも大きい。戦争をやっている大人たちに実感はない。トランプのつもりだ。しかもこのギャンブルには数十億円が懸賞金として支払われる。(アメリカは逮捕すべきイラク人をトランプにした。サダム逮捕に協力したら36億円がもらえる)こんな金があるなら、戦争で怪我をした人達の治療に当てれば良いのにと思ってしまう。
空には轟音とともにヘリコプターが二機、連なって飛んできた。ムスタファ君の顔がゆがむ。「心配するな、ヨルダンのヘリコプターだよ。アメリカじゃないよ」とお父さんが安心させようとする。
日が落ちてまもなくすると、今度は爆音が鳴り響いた。ムスタファ君の顔がゆがむ。イラクにいるような錯覚だ。何がおきたのかと思いきや、花火が夜空に光り輝いた。「こんなすてきな誕生日は生まれて初めてだよ」ムスタファは微笑んだ。




ジョージ・コープランドのドビュッシー   三橋圭介




つい先日、ある音楽雑誌の特集のために「コープランド、バルビエからコーエン〜サティのピアノ音楽」という原稿を書いた。これは古典音律(ヴェルクマイスター風の調律)を使ったサティのピアノ演奏を過去(コープランド、バルビエ)から現在(コーエン)について書いたものだが、ここではそこも取りあげたジョージ・コープランドを紹介しよう。

コープランドは1882年に生まれ、1972年に死んだアメリカのピアニストだ。伊福部昭など日本の作曲界とも関係があったが、現在きくことのできる録音は2枚ある。一枚が「ジョージ・コープランド ビクター・ソロ・レコーディング」で、1933年から64年までの22曲を含み、なかに最も早い(と思われる)33年のサティやドビュッシー、アルベニス、モンポウなどのスペイン音楽などが含まれる。もう一枚は「ピアノ・マスターズ ジョージ・コープランド プライベート・レコーディング1957-63」で、モーツァルト、シューマンを含めて、フランス、スペインなどビクターと同様の作曲家の別作品などを収めている。

スペイン人の母をもったことからコープランドはスペイン音楽を得意としたが、もう一方でフランス音楽、特にドビュッシーを得意とした。かれは1911年のヨーロッパの演奏旅行でドビュッシーと会い、演奏する機会があった。そのときのドビュッシーの言葉が残されている。「お世辞をいう習慣などない。だがあえていいたい。コープランド氏、これまでわたしの音楽がこんな風に演奏されるとは思ってもみなかった。」 次の週に二人は互いに演奏しあい、音楽について議論し、さらにコープランドはドビュッシーの家に呼ばれ、共に食事をする特権すら得た。

そのドビュッシーの録音だが、ビクター盤の33年と36年の録音ではコープランド編曲による「牧神の午後への前奏曲」に加え、「ベルガマスク組曲」、前奏曲集第1巻、第2巻、「映像」などから抜粋した17曲がきける。これらはドビュッシーの録音の最も古い録音だと思うが、たとえばコルトーは49年にドビュッシーの前奏曲第1巻を録音しているが、かれはドビュッシーがどんな風に自作を弾いたかを娘にきき、弾いてきかせた。だが娘は「お父さんのほうがよかった」と話したという。コルトーのドビュッシーがかれの詩的な解釈による個性に色づけられているなら、コープランドの場合、個人的な解釈より音楽の内側にある響きと音色の微妙な変化から音楽をつくっている。それはヴェルクマイスター風の不均質な響きの綾から生まれたものだ。

「牧神の午後への前奏曲」、冒頭旋律の崩れ落ちるような歌、その後この声に影のようなアラベスク淡い色彩が戯れる。前奏曲集第1巻の「帆」では微細なプリズムの乱反射のように変化して止まない色彩のヴェールをたなびかせている。そして線の音楽を思わせる「沈める寺」は塗り重ねられた色とダイナミクスが印象主義の絵画を連想させる。

こうした影の色彩ともいえる響きは平均律風のピアノの平板でシャープ響きから決して生まれるものではない。同様なことは、ジャン・ノエル・バルビエや当時のエラール・ピアノをヴェルクマイスター風に調律して演奏したインマゼールの前奏曲集第1巻でも感じられるが、コープランドは自己主張からではなく、ドビュッシーを楽譜の表面ではなく、手触りとしてある響きそれ自体からつかまえることができた。ゆらめくような歌と翳りのある色調こそ、ドビュッシーに驚きを与えたのかもしれない。



しもた屋之噺(21)  杉山洋一




95年に東京を離れて以来、初めて日本で夏を過ごしました。猛暑を覚悟して日本に戻ると、寒いくらいの冷夏に見舞われて、肩透かしの感がありました。久しぶりにのんびりと日本にいたのですが、7月末に実家に預けておいた家人の猫が脱走、一ヶ月経った現在も未だ行方知れずのままで、迷い猫探しに奔走しておりました。

7月末の仕事が突然キャンセルになり、猫失踪の5日後、急遽予定を繰り上げ帰国したのですが、よほどの猫好きでもない限り、ただの馬鹿に見えたでしょう。周りから揶揄もされましたが、当初は簡単に戻ってくるものと楽観しつつ、朝から晩まで周辺を歩き尽くしていた両親の身体も気がかりで、念の為に戻る程度のつもりでした。

家に着いてみると、何でも一昨日まで、実家の周辺をうろついていて、何度も見かけたと言います。ところが、捕らえようと近づくと逃げてしまう。こちらが誰だか分かっているはずなのに。猫探しが、これほど大変なものだとは、想像だにしませんでした。名前を読んでも返事もしなければ、運良く見つけても、寄ってくるどころか怯えて逃げてしまうのですから。狭い家の中でも、隠れてしまうと幾ら探しても見つからないくらいですから、家出してしまうと見当もつきません。

よその家に入るわけにも行かず、塀の外から名前を呼びつつ、好物の魚やカニ蒲鉾、それにまたたびの実を入れた匂い袋を揺らしながら、空が白み始める朝4時から人通りの激しくなる7時前まで、晩飯探しに行動を再開する夕方6時過ぎから、動きが見られなくなる夜0時過ぎまで、ひたすら周辺を歩きました。

家で飼われていた猫の移動距離は、そう遠くないと聞き、近所の餌場や、猫の集会ポイント、駐車場の車の下、家の軒下、ゴミ捨て場など丹念にチェックしてゆくと、家の近所には、相当数の猫が縄張りを張っていることがわかり、白地図に猫の特徴とテリトリーを書き込んでゆくと、立派な猫の地図帳が出来上がりました。

猫がいそうな場所など、初めは皆目見当がつきませんでしたが、何日か続けていると、おおよそコツがつかめてくるもので、どの辺りにどんな猫がいるか、分かってくるものですが、なぜか、家人の猫だけが、どうしても見つからないのです。普通のサバトラですから、暗かったり、遠目では他の猫と見間違ったりして困りました。まさかと思って、首輪も鈴もつけなかったのが、仇となりました。

東京で探し始めて、3日目の夜11時頃だったでしょうか、庭に餌を置きにゆくと、目の前に家人の猫がいました。あまりに出し抜けで、ごく当たり前のようにこちらの眺めていて、妙な感じがしました。落ち着いていて、不安なわけでもなく、懐かしそうにこちらを見ているので、これなら捕獲できるかと名前を呼ぶと、分かったのか、逃げません。おどかさないように近づいてゆき、もう少しで触れるかと思った瞬間、家でカシャンと音がしました。洗っていた皿が何かにぶつかったのでしょう。猫はびっくりして2メートルほど退きました。

それでもまだこちらを眺めているので、声をかけ、ゆっくり近づこうとすると、今度は家の前を通りかかった車に驚き、また少し後退しました。結局、建物の向こう側に逃げてしまいましたが、顔だけ出して、こちらをしばらく見つめていました。やがて、ゆっくりと立ち去りました。

すぐに戻って来るだろうと思って、その夜は朝まで中庭で猫を待ちました。初め雲が垂れていた夜空に、ぽつねんとひとつ紅色の星がきらめいて、小学生のころ、宿題の天体観察で、真冬に戸外でふるえながら空を見上げたのを思い出しました。夜半、炙ったまたたびの匂いにつられた数匹の猫の訪問を受けましたが、家人の猫は、以来姿を現すことはありませんでした。

近所の電柱にビラを張り、近所の郵便受けにもビラを投函してしばらくすると、似た猫が死んでいると電話がかかりました。受取ってみたところ、確かによく似たものの、どうやら違う猫だとわかり、溜飲を下げたこともありました。保健所に該当する猫が保護されなかったか電話もしてみましたが、全く手がかりはありませんでした。

路上に放置された動物の死骸を回収する、市の清掃局にも出かけました。きちんと整理されたバインダーから、一枚ずつファイルを読んでゆくと、動物の種類と特徴、場所と時間などが書いてあり、猫や犬のほかにも、たぬき、いたち、なんて動物も回収されていて、町田近郊にはそんな動物もいるのかと感心しました。
猫の死体は毎日どこかで回収されていましたが、該当猫はいないようでした。こうなると誰かに保護されているに違いない。地方紙やら大手新聞に広告を出したものの、今のところ梨のつぶてです。

中国訛りの女性から、近くの森で似た猫を見かけた、と留守電にメッセージが残されていて、随分探したこともあります。今から思えば、近くのサバトラ猫と勘違いされたに違いありませんが、この騒動のおかげで、折につけ、こんな近所の皆さんのやさしさに触れられたのが、唯一の収穫でしょう。

早朝の犬の散歩で馴染みになった皆さんには、随分励ましていただきましたし、夜、懐中電灯片手に探していると、絶対見つけてあげてください、と声をかけてくれる男性もいました。近所のあちこちで、毎朝ノラ猫に餌をあげる皆さんとも知り合って、この20年間、どんなに具合が悪くても、餌だけは欠かしたことがありません、なんて逸話も聞きました。

たかが猫、されど愛猫。まだ望みは捨てていませんが、思いがけない日本での休暇となったことだけは確かなようです。

(8月18日三軒茶屋にて)





リチャードソンの夢  松井茂




天気予報の歴史に登場する「夢」について。それは、イギリスの物理学者で気象学者L.F.リチャードソン(1881〜1953)の「夢」。

現在の天気予報は、気象現象を数値でシュミレーションして行われている。これは世界中のさまざまな機関が超国家的な連携のもとで、同時間の各地の大気の情報を共有して達成されている。

数値予報が実用されるようになったのは1955年のことで、それが主流と言えるようになったのは1970年代のことだ。ただ、数値予報のシュミレーションモデル自体は、近代気象学の祖とも言われるV.ビヤークネス(1862-1951)によって、20世紀初頭に構想されてた。実現に至るまでの問題は、初期値の情報収集と、計算量だった。その膨大な計算に実際に挑んだのが、ケンブリッジのキャベンディッシュ研究所にいたリチャードソンだ。彼は、第1次世界大戦の最中、従軍先の野戦病院でひたすらこの計算に時間を費やしたという。その結果、6時間程度の気象現象をシュミレーションするのに1カ月以上を要した。さらに皮肉なことに、この計算は失敗に終わる。原因は、当時の観測データ、つまり初期値の不備と、計算方法の一部に問題があったからだといわれている。彼は、この失敗の顛末を1922年に本に著した。タイトルは、ずばり『Weather Prediction』。そして、この本のなかで、彼の夢が語られることになる。それは次のようなものだ。

「64000人の計算員が大きなホールに集まり1人の指揮者のもとで整然と計算をおこなえば、実際の時間の進行と同程度の速さで予測をおこなえる。」(岩崎俊樹『数値予報』共立出版1993年より)

要するにこの夢は、超並列計算機と同じ発想だ。その後、数値予報は、フォン・ノイマンらの開発したコンピュータによって、そして現在では、スーパーコンピュータによって実現されている。もっともそれでも気象の微妙な擾乱に、数値シュミレーションはいまだ苦慮している。初期値を完全に蒐集できないのと同時に、公式化できない現象が絶え間なく起こるのだから仕方がない。

いっそ、「リチャードソンの夢」のように、個をもった人間64000人が同時に計算するほうが、気象の擾乱に対応することができるのかもしれない。なぜなら、何%かの人が計算を間違えるにちがいないからだ。この方がカオスを孕んだ気象現象に近いような気もするではないか。そういう逆シュミレーション(!?)も、ありかもしれない……が、そもそも、そんな大ホールに、毎日、気象予報士ならぬ気象計算士(とでも呼ぼうか)を集めて24時間態勢で運営するような気象庁は、人件費がかかってたまらないだろう。個人的には、一度、覗いてみたいが、やはり悪夢の類か?

しかし、悪夢には解決しなくてはならない問題が常にあるわけで、つまり、悪夢の裏には、いまよりすこしはましな未来を実現するための鍵があるのだ。やはり、「リチャードソンの夢」もある種の悪夢だ。だからこそ、我々が接する現在の数値予報は、あらゆる分野の学問の最先端のシステムが結集されてるにいたった……。ありがとうリチャードソン! みんなあなたの悪夢を忘れはしない。では最後に、「リチャードソンの夢」の大ホールで計算をさせられた人が書いた短歌を3首。

   何者か我に命じぬ割り切れぬ数を無限に割つゞけよと
   無限なる循環小数いでてきぬ割れどもつきず恐ろしきまで
   無限なる空間を堕ちて行きにけり割り切れぬ数の呪を負ひて

これは中島敦が1930年代に「夢」と題して書いた連作短歌の一部なのだった。



緑の島、コルフ島  御喜美江




8月1日から8日間、ギリシャのコルフ島で休暇を過ごした。

ヨーロッパ人は“休暇”というものを非常に大切に考えている。この季節になると巷では、“Urlaub”(休暇)という言葉をあちこちで聞く。仕事や用事で電話をかけても、「○○氏は3週間ウアラウプです。」と言われると、会話はそれ以上進まない。どんなに頑張ってもまず無駄。すでに安全地帯に入ってしまった相手とは、3週間待たないと話はできない。そういえばドイツへ来たばかりの頃、この徹底した休暇主義に戸惑いを覚え、どうして“遊ぶ人達”をそんなに回りは庇うのか、理解できなかった。しかし30年以上もこの国で暮らしていると、Urlaubの意味は未だ分からずとも、「Urlaubって一度試してみたいな〜」なんて思ってしまう。それで時々旅行社のカタログを見たり、インターネットを覗いたりして海や山のUrlaubに夢を描き、夫にも相談しかけるのだが、このドイツ人はどういうわけか全然興味を起こさない。いつもきまって「みえちゃんの行きたい所でいいよ」が返事。それに我家は夏になるときまって貯金が底をつくので、今までは行きたくても行けなかったのだ。ヨーロッパ人は一般に、休暇のために必ず“Urlaubsgeld”(休暇資金)を貯金している。そのためには少々質素な食事も気にならないみたい。そう、家と車と休暇、これドイツ人にとって生活の3本柱、かもしれない。

さて経験、知識ともにゼロのテーマ“Urlaub”、あれこれ思案するだけ時間の無駄、それに8月中旬にはいろいろな保険の請求書がドカンときて、どうせノーマネーになるのだから、行けるうちに行っちゃえと決断し、デュッセルドルフ空港のLast Minuteコーナーで、“コルフ島8日間(フライト+ホテル+バス+朝食&夕食)”というのを予約してしまった。旅行社の人は、この年令の夫婦がまさか初めてのUrlaubをするとは思わないらしく、やたらテキパキとプロ級に説明してくれるが、けっこう専門用語みたいのがあって分からない。かといって質問するほどのことでもなさそう〜、なので分かったふりをして契約。「少し不気味だけど、たった一週間だし、冒険と思って行っちゃおうね」と、Urlaub一年生2人、ちょっぴり心細くもなったが決めたものは仕方なし。まずは4階のレストランまでのぼり、生ビールで一息入れる。ホッ! こういう時、ビールほど良い精神安定剤はないだろう。効力抜群で格安。(ドイツではミネラルウォーターよりビールのほうが安い)それに水分は健康の源だしホップは神経をリラックスさせる。さらに何週間も続く猛暑のドイツで、この生ビールの何とおいしいこと!

さあUrlaubのスタート、Last Minuteなので翌々日にはもう出発、コルフ島には夜中に着く。小さな空港ロビーには湿った海の空気が漂い、たった2時間半でずいぶん遠くへ来た気分。バスに乗って真っ暗な国道を約50分走りホテルに到着すると、そこも真っ暗なのでどんな所か分からないけれど、部屋に入ってみると広くて清潔なのでまずは一安心。バルコニーに出るとすぐ前はプール、潮風の香りもするから、海も近いのだろう。 「では海の夢でも見るか……」と期待してクーラーを消し、戸を開け放して寝入る。しかし海の夢なんか見る前に、蚊に刺されて目が覚める。見るとドイツと同じような姿恰好の蚊が数匹飛んでいる。ゲオルクもめずらしくあちこち刺されて痒がっているが、“蚊退治”は妻に任せてすぐまた寝息スース−、仕方がないので戸を閉めて電気をつけ、クーラーをオンにして蚊退治開始。ある一匹はすごい量を吸っていて白い壁が血でべっとり。体の何十倍もの量を吸うのだからすごい。さて翌朝起きると、どうも右目がうまく開かない。バスルームで鏡を見ると、わー、すごい顔! 瞼が刺され膨れ上がって、まるで片目のお化けみたい。私の目は大きいので被害も派手に目立つ。夫はというと、こちらは腰痛。来る前から少々“ぎっくり腰”気味だったのが、ベットでひどくなったらしい。やれやれ、我々も「海辺の散歩と昼寝」という、典型的老夫婦用の休暇プログラムで過ごすのか……と、これ第一日目の溜息。

ところでこの休養地AgiosGeorgiosには、イギリス人とドイツ人が多く、日本人には一度も会わなかった。思い出すが14、5年前、マーストリヒトを訪れた時、「こんな美しい町に日本人の観光客が一人もいないなんてねー」と両親は驚いていたが、最近では日本人の観光客も沢山来るし、日本語のガイドブックも売っている。コウフ島は日本の旅行社がまだ目をつけていないのかもしれない。ギリシャ本土からたった2・5キロしか離れていないのに、砂漠のような土色の本土から海を渡ってコウフ島につくと、何百種類もの木々や花々が島全体を覆っている。とても不思議である。レモンもオレンジも取り放題、大きな花束だって2、3分で作れる。海岸が近づくと、巨大なサボテン群がきれいな花を咲かせて「この先は海ですよ」と教えてくれる。ここは昔から「緑の島」とよばれ、ヨーロッパ各国の貴族が好んで保養に来たそうだ。気候は他のエーゲ海の島々よりマイルドで、しかも海水はギリシャで一番きれいとのこと。確かにこれ以上、水は透明になれないだろう、本当に素晴らしい。またコバルトブルー、パールブルー、緑系の青、濃紺と、この海には何色もの変化がある。日没が近づくと海は一度金色に輝く。やがてロゼ・ワインのような色になり、最後に白っぽくなると日は暮れていく。ぎっくり腰と片目でスタートしたUrlaub、でも夫婦はこの海を見た瞬間から、来てよかったと思った。

食事は大きな広間で行われるので、大学食堂か駅の構内みたい。
海を見ている時は、なんと人の少ない広くて素敵な海岸! と思うのだが、夕食時になると、一体どこにこれほど沢山の人間がいるのだろう! と驚いてしまう。初めはちょっと戸惑ったが、食べ物は結構おいしいし、多種多様な人達がいることに興味を起こし、私はその観察を始めた。夫はその間、横で読書。

まず若いカップル。これ幸せそう。相手の目を見つめ、手を握ったりする。バイキングの料理も一緒に仲良く取りに行く。おいしそうに食べながら会話も楽しそう。ワインは必ず男性が女性に注いであげている。

家族連れ。夕食になる頃には結構疲れ気味。必ず一人、仏頂面のガキがいる。思春期の年令には無口が多い。親はちゃんとした身なりでも、子供はわざとひどい服装、というのも少なくない。母親、父親のどちらかが、あれこれ気を使っている。一家団欒という雰囲気からは程遠いが、それなりにUrlaubはエンジョイしているようでもある。食堂には必ず家族全員一緒にやってくる。そして全員でゾロゾロ退場する。

中高年の女性グループ。グループといっても2、3人だが、この組み合わせのテーブルが圧倒的に一番楽しそう。話も食欲も弾み、皆さんおしゃれをしているから雰囲気、頗る華やか。とにかくよく喋り、よく笑い、よく食べ、よく飲む。夫や姑、家族から解放された自由を、満喫しているのだろうか、そこだけ照明まで明るいようだ。(男だけのグループというのは見かけなかった)

夫婦2人連れ。会話ナシ。バイキングもそれぞれが勝手に取りに行って、1人でも食べ始める。時折、相手の皿のものを黙って取る。取られた相手は何も言わず、黙々と食べつづける。飲み物も自分で注いで飲む。だからといって不機嫌というわけでもない。食べ終わると、ちょっと笑うこともある。少しだけ会話して、時計を見て、一緒に出て行く。

不倫のカップル。これは私の想像であるが、中高年の男性とかなり年下の女性が一緒の場合で、夫婦では決してない、と直感でわかる。食堂内では隅の方に座り、ワインを“ボトル”で注文する。食欲はまあまあ。雰囲気は少々暗い。私があんまり見ていると、それに気がつくのも、このカップルの特徴。

これらの観察は実に面白く、両目が開いてからは特におかしかった。しかしそんな我々夫婦だって傍から見れば、結構おかしな夫婦だったかもしれない。

腰痛であまり泳げなかった夫は読書と散歩で8日間を過ごし、私は朝からプールと海で毎日泳ぎまくり真っ黒に日焼けした。「来年は2週間にしようね」と夫が言った時は「え〜、冗談でしょう?」とびっくりしたが、「次回はクラヴィノーヴァ持ってくる」と言うので「なるほど、そういうことか」と納得。

今回の旅行でUrlaubの意味が分かったとも思えないが、海は本当に美しかった。

  (2003年8月27日ラントグラ−フにて)



何の花だ?(ドクアライ・ゴ・マイルー)(3)   スラチャイ・ジャンティマトン 荘司和子訳




少しずつ、すこしずつ。まるで散ってくる花のように。花は痛みを感じないのだろうか。ぼくはひたすらとりとめもなく考える。腕時計の針がわずかに動いて1時を指した。居酒屋もそろそろ店を閉めるころだ。客が腰をあげて三々五々出てくる。タクシーが何台か停まって客待ちをしている。千鳥足で出てくる女性も何人かいる。容貌も美しく身なりもいいのに。

友人がひとりここへ来ることになっている。ただ何時に来るのかがわからない。ここに坐って文を書き始めたのもそのためである。ぼくはここを動きたくない気分だ。酒を止めて1ヶ月あまりになるし、煙草を止めてからはもう10年近くになる。それでも居酒屋に坐るのはやめられない。ほかにどこへ行けばいいのか分からないからだ。ときおり、ここが自分の家ではないかしらん、と思うことさえある。

携帯がまた鳴り出した。ぼくはペンを置く。彼女に違いない。。。
「ああ、今用事で手がはなせない。ロットがチェンマイから来ることになってる。まただだをこねて困らせる。怖がることなんかない。そりゃちっぽけなもんじゃないか。先に寝ていなさい。待たなくていい。。。」

花が散ってくる。散ってくる。何の花だか分からない花が。。。 客が次々店を出てくるので駐車場の男は忙しくなっている。あちこちから出ようとしている車の間を走り回って車を出易くしてやるという、ちょっとしたサービスをしてはチップをもらうのだ。

本当のところぼくは2、3ヶ所に行くと言ってあったのだ。それで1日中気をもんでいたのも事実。まるで約束を守らなかったからだ。分かってもらえればさいわいというもの。気懸かりでもやむおえない。

夜中の1時をもう20分も過ぎている。携帯がまた鳴り出した。
「すまない。行けないんだ。どうしても用事をすませないとならない。ほんとうは行きたいんだよ。でも行けない。気にしないでくれよ。いいだろ、ほんとすまないと思ってるよ。おれがいけないんだ。ごめん。ほんとにごめん」

花が8個いっぺんに散ってきた。この8個の花とともに気に病んでいたことがすっと落ちて行ってしまった。薄くて軽い花びらが落ちるアスファルトのその場所は、固く荒々しいところでもあり、同時に若い娘の肌のように柔らかくてはなやかなところでもある。それもしなやかな娘の。

最後の酔客たちが店から出てきた。5、6人もいるだろうか。その中のひとりは嘔吐したばかりで出てきたのではないだろうか、嫌な臭いが漂ってくる。彼らはアスファルトの上をしきつめている花を無神経に踏みつけている。ごつごつした硬い汚れた靴で。これからどこへ行こうか、どうやって行こうか決めかねて大声をあげて騒いでいる。ぼくは彼らが一刻も早く立ち去ってくれるのを願いつつペンを走らせている。

やっといなくなった。そして店の電灯も消えた。ぼくは文を書き付けていたノートを閉じ、ボールペンをしまった。最後の部分はまだこころの中にあって書き終えていなかった。けれどもこころの中にひっかかっていたことがらはおおかた消えていた。ここに坐っていろいろ思い巡らしたことで気が晴れた。その日ぼくはあまり他人のいうことをきかなかった。自分のしたいことをしていた。たとえばこの文を書くことでしあわせになったこと。それよりもっとしあわせにしてくれたのはこの樹、この花、と出逢ったこと。

何の花だか分からない……、そう、何の花だか分からない……。  (完)

(1995年作品)



経過報告  高橋悠治




9月

レンタルビデオでイギリスの刑事物を見る。フロスト警視シリーズがいちばんよい。1960年代のパリ クセナキスの家に泊まっていたとき2人で007シリーズを乱読した夏を思いだす。

(さて詩の朗読会のために書いたが読まなかった文章。Commonplace Book は書き抜き帖のこと。書き抜いては書き直し。)

   ありふれた本

書かれていることば 行方も知らず書かれているあいだだけ意味をになう この世界でひとをうごかすのは暴力と欲望政治と資本それらなしに生きるにはどうすればいいのですか 色とりどりの生地をあつめて織った織物から幾筋かの糸を抜き ほどけかかったままにして

おなじ手が書くことばはそのつど変わる ことばが意味をになう前にうごきの意味が ことばをになう

重みをもって抵抗するもの隙間なく凝集するもの燃えるものうごくものからだんだんに 軽いものパラパラのもの冷えたものゆるやかなものへ


   テーブルの上の惑星

エアリエルは詩を書いたことをよろこんだ
思い出に残る時間や
見て気に入ったものの詩だった

そのほかに太陽がつくったのは
浪費と混乱
しげった灌木がのたうっていた

自分と太陽は一つだった
詩は 自分でつくったとはいえ
太陽がつくったのではないとは言えなかった

詩は生き残らなくてもよかった
だいじなのは 詩がこの惑星の一部であって
ある輪郭や性格を

あるゆたかさを
ことばの貧しさのなかで いくらかでも
はらんでいなければならないことだった

ウォレス・スティーヴンス 1953年



世界は燃えている 過去はすでにない 未来はまだ見えない たよるものはない 問いもなく答えもない

世界の今は 選ばれた少数 となりには 数にはいらない難民の群れ 断片と区切り線 カフカの青いノートブック 書き終えることができないちいさな物語 ちいさなものの受難 全体のない部分 それでも生きつづける 希望もなく 絶望もなく 冷たい目で世界を見わたして

速度を落として どこまでもつづくおなじ模様に切れ目を入れる 絨毯の模様のゆがみ 籠の編み残し とどろく瀧が波うつリズムになり したたる水の隙間が見える 原子の偶然の結合と離散から世界をつくる エピクロス ひとつの世界ではなく 無数の世界 ルクレティウス

ひとがそのひとでありながら他人にひらかれる 理解しようと思わないでください ありあわせの手段を使って むすびめをとりあえずつくり それをまた こだわりなしにほどくことができますか

浮き彫りの世界 奥行きのないふくらみ 2次元と3次元のあいだ その場に埋め込まれた宝石の光が交わすささやき 色と模様の組み替え

野生動物は トラもシマウマもそれぞれ一つの色と一つの模様 人間に飼われると ウシにもネコにもさまざまな色と模様があらわれる 一生になう色と模様 世界を色と模様で認識する 福井勝義

磨いた小石を袋に入れて 歩きながら落としていく 月明かりの道

指先のかすかなうごきを感じると 全身がそれにつれてうごく ほどかれるからだとひろがる世界の分かれ目はない

なにを待っている 木は梢から枯れる スウィフト 葉が落ちると 枝を透かして空が見える

一生はすぎてしまったのに
あけがたにくる人よ
ててっぽっぽうの声のする方から
私の方へしずかにしずかにくる人よ
足音もなくて何しにくる人よ 永瀬清子

夏の終わりの真昼の日照りにかげろうが立つ よりどころなくうつろいやすいプロセスをためすなかで それを感じる瞬間 その感じもやがてうすれて

ほとんど音にならない 耳と指と息 川の水が土をはこぶ つもった土で川が涸れないうちに 川は流れを変える

距離のない空間 見えない種から花はひらき やがて色褪せる 時間

黒のなかに白を含む 飛ぶ白 かすれる文字 やぶれた線 前後上下にかすかなしぶき はじける闇

人びとは森に包まれている 森とともにうごいている 速くうごくと森を見失う コリン・ターンブル

  ……


(そしてこれが「可/不可3」計画)

題名:可/不可[Possible/Impossible]3
上演時間 60分前後

これはインドネシアと日本のアーティストによる舞踏オペラ
中心テーマは(アメリカの)戦争による世界のなかでの(小動物の姿を借りた)ちいさなひとびとの受難 ただし現実とは距離をとった喜劇として

3人の男性舞踊手:サルドノ・W・クスモ ムギヨノ・カシド 笠井叡
1人の音楽家:高橋悠治
のための移動劇場

音楽は音の森(熱帯雨林のイメージ)
舞踏は故意にぎくしゃくした横のうごき(ボロブドゥール仏教寺院遺跡の回廊の浮き彫り あるいはニジンスキーの「牧神の午後」の振付 またワヤンや神楽など)

音楽家はコンピュータにより
 1)録音された歌:巻上公一
 2)録音された語り−日本語:高橋悠治 インドネシア語:サルドノ
 3)コンピュータによって変形され操作される言語と自然音にもとづく音楽
 を作曲し 現場で即興を加えて演奏する

コンピュータに取り込まれた静止映像−バグダッド空爆と傷ついた少年の記録写真 柳生弦一郎原画による人物画を一部に映写

原案と台本・作曲・演奏:高橋悠治
原作:フランツ・カフカの短編(たとえば「変身」「ある犬の探求」「家父長の気がかり」)と創作ノート(「青い八つ折れノート」)からのモンタージュ

劇場上演形態の他 音楽と語りによるCD(水牛レーベル)の制作
独立したビデオないしDVD作品としても制作可能か



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